2018年8月27日月曜日

ボキャヒン、高音、わざとらしさ


・夜の地上波はバラエティ番組ばかりで見る気もしない。よくもまあ、お粗末な番組を毎日毎日やっているものだとあきれるばかりだ。ちょっとおもしろそうなテーマだと思っても、見始めた時にひな壇にお笑いタレントが並んでいれば、もう駄目だと思ってチャンネルを変えてしまう、最近ではNHKでも似たような構成のものが目立つ。だからどうしても、見るのはBSということになるのだが、バラエティ形式の侵入はBSの番組でも顕著で、見たいものがどんどん減っていってしまっている。

・たとえば田中陽希が、今年は日本三百名山一筆書きをやっている。数ヶ月おきにその行程をたどる番組があるのだが、なぜ途中で、トレッキングなどやりそうもない女の子達が出てきて、わいわいやるのかわからない。以前は田部井淳子などが出ていたのだが、亡くなってから山歩きの専門家を出すこともなくなった。
・ほかにもトレッキング番組はよく見ているのだが、歩くのが若いタレントの場合には、途中でうんざりしてやめてしまうことが少なくない。ガイドに頼りきりで無知丸出しのうえ、発することばと言えば「すごーい」の連発だったりする。草花や動物を見かけても「かわいい」しか出て来ないし、「やばい」なんてことばも使われたりするからだ。「ボキャヒン」はすでに死語かもしれないが、このことばがよく使われた頃より、もっとひどくなっている。

・それは旅番組でも変わらない。いくら仕事とは言え、出かけるのなら、事前に予習をして、ちょっとでも予備知識を持って行けよと言いたくなることが少なくない。知らないから驚く。そこでおきまりのことばが出てくる。しかもテンションが上がって高音になるから、やかましいだけになる。うんざりするのは、そこにわざとらしさが丸見えになったりする場合だ。そうなったらもう、続けてみる気がしなくなる。
・もちろん、出てくるタレントのすべてがそうだというわけではない。自分でもトレッキングをしたり、旅に出かけたりしている人もいて、その落差が激しいから、この種の番組を見る時には、出演者が誰かを調べてからにするようになった。

・テレビを見ていてもうひとつ気になるのは、女子アナに高音で話す人が多いことである。甲高い声でしゃべられるのは聞きづらいものだが、ほかの視聴者は気にならないのかと不思議に感じることが少なくない。もちろん甲高くなるのは、緊張していたりするからということもある。新人アナは同時に表情も硬いから、これは経験不足と聞き流すこともあるが、いつまで経っても高音が直らないと、そのニュース番組はもう見たくないということになる。そんな人は天気予報をする人にも多い。高音はアナや予報士には向かないという基準がないのだろうか。

・NHKBSでやっている「クール・ジャパン」は、日本で生活している外国人が日本や日本人について、自らの経験にもとづきながらクールかクールでないかを議論しあう番組である。その中で、日本人の若い女の子達の声が高いことが話題になった。高い方がかわいらしく聞こえるからだと言って、それは子供っぽさの演技だが、自分の国ではばかにされるだけだという批判をしている人がいた。まったくその通り、とぼくは思わず声を出してしまった。

・かわいらしく振る舞うこと。これは今、テレビに出るタレントや女子アナばかりでなく、若い女達が共通に意識していることなのではないかと思う。だから知っていても知らないふりをする方がいい。予備知識など持っていない方がいい。教養などは必要ない。その方が、見ている人や相手は喜ぶに違いない。それをコミュニケーション力だと思っている人が増えたのだとすれば、とんでもない誤解で、こんな風潮は困ったものでしかない。

2018年8月20日月曜日

Chavera Vargas

 

"Macorina"
"Las 20 Grandes de Chavera Vargas"

julieta.jpg・『ジュリエッタ』はアリス・マンローの短編をヒントにしたペドロ・アルモドバルの作品だ。結婚して女の子が生まれたが、夫の浮気や、それを叱責したことが原因になった、海での夫の遭難死などがあり、その事が理由でまた娘が家出をしてしまう。それらをひきずりながら人生を送り、娘との再会を願う女の物語だった。ちょっと深刻でわかりにくかったけれど、スペイン人の監督らしく、色合いが鮮やかで、シーンが美しかった。この監督の作品をほかには何も見ていなかったし、特に興味があったわけでもなかったが、主人公が旅行に出かけるカバンの中に坂本龍一の本かCDが入っているのを見つけたりして見始めて、結局、最後まで見た。で、最後に聞こえてきた歌に聞き覚えがあった。年老いた女性の声で、すぐに『サン・パトリシオ』に入っていたことに気がついた。

journal1-134-3.jpg ・『サン・パトリシオ』はこのコラムで以前に少しだけ紹介したことがある。ライ・クーダーとチーフタンズの共作で、メキシコとアメリカにまたがる地域で集めた歌でできている。サン・パトリシオは1836年にメキシコとテキサスとの間で戦闘が行われた地でもある。アイルランドやスペインのガルシアとバスク、そしてポルトガルなどから移り住んできた人たちが持ちこんで、歌い継いできた音楽だから、メキシコだけでなく、フラメンコやケルト、カントリー、そしてファドなどを感じさせる不思議な作品だった。その中でひときわ際立っていたのがチャベーラ・ヴァルガスの歌う「月の光」で、しわがれた声で、時々息が継げずに途絶えたりするのが印象的だった。

chavera2.jpg ・チャベーラ・バルガスは1919年にコスタリカにで生まれたメキシコ人で2012年に亡くなっている。メキシコを代表する歌い手でアメリカやヨーロッパでもよく知られているようだ。脊髄性小児麻痺を患いながらストリートで歌い始め、30歳を過ぎてからプロ歌手になった。50年代から70年代にかけては数多くのアルバムを作り、海外にも積極的に公演をして廻ったが、70年代の後半にアルコール中毒を理由に活動を休止した。しかし、酒を断って90年代に復活している。その時すでに70歳を越えていたが、亡くなる直前までステージに立っていて、『サンパトリシオ』で歌ったのは死ぬ2年前だった。手に入れた『マコリーナ』は復活後の94年から96年にかけて作られたものである。

chavera1.jpg ・もう一枚の『Las 20 Grandes de Chavera Vargas』を含めて、彼女の歌を聴いて感じるのは、にぎやかで明るいイメージのあるメキシコ音楽ではなく、ポルトガルのファドのような愛惜に満ちた世界である。だから当然、日本の演歌にも通じている。日本人の心の歌といわれる演歌は、古賀政男以降のもので、その源流は、彼が弾いたマンドリンとファドにあるのだから。残念ながら、彼女が歌っている歌の歌詞はスペイン語だからわからない。
・チャベーラは80歳を過ぎてから、レスビアンであることをカムアウトしている。その相手であった画家のフリーダ・カーロを主人公にした『フリーダ』では、自ら登場して「La Llorona(The Weeping Woman)」を歌っている。50年代には男装で歌う異端の歌手として、先ず注目されたようだ。たんなるおばあちゃん歌手ではなかったんだ、と改めて聴き直している。

2018年8月13日月曜日

オリンピックはやっぱりやめましょう

 

・猛暑の中で行わなければならないオリンピックのために、2年限定でサマータイムを導入しようといった計画が出ています。2時間早起きしたって焼け石に水だと思いますから、策を講じたことを示したいだけなのではと勘ぐりたくなります。そのために変えなければならない事柄を考えると、たかがオリンピックのために、何を考えているのでしょうか。オリンピックが終わったらまた元に戻すというのですから、ご都合主義もいい加減にしろと言いたくなります。10月にとは言わないまでも、酷暑を理由に1ヶ月ずらして欲しいとIOCに言えばいいだけの話だと思うのですが、政権には、そんな気はまったくなさそうです。東京の夏は温暖で過ごしやすいなんて嘘をついたから、今さら言いだせないのでしょうか。

・大会中のボランティアについても、おかしな提案がいくつも出されています。ボランティアとは自発的にすることであって、ただで働くことを意味しないのですが、無給であるだけでなく、食事も交通費も宿泊費も自腹でというのですから、必要な人数を確保するのが難しいのは、わかりきったことでした。ところが文科省は大学や専門学校の学生の参加を促すために、授業や試験日程の繰り上げや祝日授業の実施を言い出しています。5月のゴールデンウィークに授業をやるなどと、いち早く対応した大学も出始めました。これでは参加を強制するようなものですから、「ボランティア」といったことばは使えないことになります。

・大学の授業は文科省の強い指導で年間30回を必ずやらなければならなくなりました。さまざまな理由で休講をすることが当たり前に認められていたのですが、今では休講したら必ず補講をすることが義務づけられています。ところがオリンピックに限っては、授業回数に読みかえても良いなどと言い出すのですから、開いた口がふさがらない話だと思いました。その文科省は入試疑惑や受託収賄容疑などが次々問題になって批判の的になっています。ひどい所だと思いますが、他方で森加計問題でリークが相次いだことに対する政権の報復だといった指摘も出されています。

・テレビのニュースは連日トップニュースで、命に関わる危険な暑さだと警鐘を鳴らしています。日中にスポーツなどもってのほかだと思いますが、高校野球では相変わらず熱戦、熱闘、そして感動などといって煽っています。視聴率や部数を気にしてのことだと思いますが、オリンピックも甲子園も、新聞やテレビはほとんど暑さを問題にしていません。メディアの多くはオリンピックを協賛する立場にいますから、開催を危惧するような問題提起は出来ないのでしょう。

olympic4.jpg・中でも、オリンピックに一番関わっているのは電通だと言われています。『電通巨大利権』(サイゾー)の著者である本間龍によれば、「招致活動からロゴの選定、スポンサーの獲得、放映中のテレビ・ラジオのCM等の広告宣伝活動、全国で開催される五輪関係行事、五輪本番での管理・進行・演出等、文字通り全部に電通が1社独占で介在」しているのです。招致活動における嘘の指南(福島原発はアンダーコントロールや東京の夏は温暖)やIOC委員への賄賂疑惑、ロゴ選定のいかがわしさや盗作問題、スポンサーの獲得(4000億円と言われているが詳細は非公開)、そして10万人のただ働きに文科省に圧力等々、この会社がオリンピックについてやってきたことには、うさんくさいことが多すぎるのです。

・電通は安倍首相や政権の演出にも深くかかわっていて、憲法改悪の国民投票が現実化する際にも、テレビや新聞等でのキャンペーン活動を任されていると聞いています。金に糸目をつけずに嘘八百のテレビCMを流されたら、投票が賛成多数になる危険性は十分にあるのです。広告料はメディアにとってのどから手が出るほど欲しいものですから、中身がどうであろうと、平気で垂れ流すことでしょう。

・オリンピックはすでにスポーツの祭典などではありません。巨額な金が動く巨大イベントで、「オリンピック憲章」に書かれていることとは似ても似つかないものに変質しています。政権は招致理由に経済効果を上げましたが、無理がたたって、開催後には経済不況がやってくると指摘する経済学者も少なくありません。オリンピックを間近に見たいなどといったナイーブな発想で期待していると、猛暑以上に恐ろしいことがやってくるかもしれません。今からでも、やっぱりやめましょう、といった声を上げる必要があると思います。大会を返上した場合の違約金は1000億円だそうです。高いと思われるかも知れませんが、役に立つかどうかわからない「イージス・アショア」1基にも満たないのです。


2018年8月6日月曜日

白神山地

 

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photo81-2.jpg・去年の鳥海山、月山、蔵王に続いて、今年は白神山地に出かけた。関越道から日本海を北上するルートは去年と同じで、一泊目は鳥海山の麓の象潟にした。途中鶴岡のクラゲ水族館で一休み。平日なのに大勢の人で、年間100万人を超える入館者があるという。鳥海ブルーラインを走って上まで行ったが、去年より残雪が少ない気がした。宿からは日本海に沈む夕日が鮮やかに見えた。翌日はさらに北上して十二湖まで。早めに着いたので、いくつかの湖を散策した。温度はたいしたことなかったが湿気がすごくて汗びっしょりになった。このあたりの名称は十二湖だが、実際には大小合わせて33もあるようだ。

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・三日目は白神山地に向けて白神ラインを走る予定だったが、通行止めなので岩木山をぐるっと回るルートになった。岩木山の有料道路はヘアピンカーブが69もあって8合目まで上がったが、上は霧がかかって何も見えなかった。白神山地は広大なブナ林が有名で、世界遺産にもなっている。道路も未舗装で車が泥だらけになったが、その割に、どこにでもあるブナ林しか見ることが出来なかった。テントと食料を持って、何日も歩き回ってこそ、そのすごさに触れることが出来るのだと改めて思った。

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・四日目の朝は宿から岩木山がよく見えた。晴れていれば頂上から北海道まで見えるようだ。この日は弘前から仙台まで走った。弘前は城下町で落ちついた感じだった。ねぷた祭りが始まっているのだが、山車の場所はわからなかった。下道を走って大館まで行き、そこから東北道までの山道を走ると尾去沢の銅山跡があった。坑道見学が出来たので入ると中は13度で肌寒いほどだった。ここは銅だけでなく金もたくさん取れたようだ。歴史も古く奈良の東大寺の金箔に使われたそうだ。鹿角から高速に乗って仙台までひとっ走り。七夕祭りで賑わう町は渋滞がひどくて、宿までずい分時間がかかった。

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・五日目は仙台から河口湖まで。途中三度ほど休憩して、東北道、圏央道、中央道を一気に走った。金曜日なのに道路は混んでいて、SAもPAも一杯だった。去年もそうだが、もっとゆっくり予定を組むべきだったと改めて思った。