1997年3月30日日曜日

「容さんを偲ぶ会」(東京吉祥寺クークーにて)

 吉祥寺の街を歩くのは久しぶりだ。駅の北口から東急デパートのあたりは昔と違って人通りが多く、そこからさらに西に路地を入ると、TOWER RECORDやブティック、レストラン、あるいは小物の店などが立ち並んで、まるで大阪のアメリカ村のようだった。ライブハウスの「ぐぁらん堂」はもうない。

30年前、僕は予備校の授業をさぼって南口にあった「青い麦」でフォークソングのレコードを聴いて過ごし、井の頭公園でギターの練習をした。そこで高田渡と何度か会った。彼をはじめて知ったのは四谷の野中ビルで開かれた「窓から這いだせ」という名のコンサートだった。その後、東中野や阿佐ヶ谷、あるいは豊田など中央沿線で小さな会場を借りたコンサートが行われ、僕も何度か歌った。会を設定し、若い歌い手を集め、歌の批評やアドバイスをし、相談に乗ったのが中山容だった。

その容さんが死んで、高田渡と中山ラビが偲ぶ会を開いた。集まった中には僕にとっては30年ぶりという人たちもいた。ディランに姿も声もそっくりで「Boro Dylan」と呼ばれた真崎義博はC.カスタネダの翻訳者になった。メロンこと玉置倶子。音楽評論家の三橋一夫、田川律。みんなそれなりに歳をとっているが、変わった顔の中に昔の面影がすぐに浮かんできた。もちろんフォークシンガーとして一人立ちし、今でも歌い続けている人もいる。集まった人たちがそれぞれ容さんを思い出しながら話した後は、会場はフォーク・コンサートに一変した。

高田渡が飄々と歌い、遠藤賢司がエネルギッシュにギターを掻き鳴らす。大塚まさじは情感をこめ、中川五郎は恥ずかしそうに、そして、10年ぶりにギターを持った中山ラビはちょっと居直ったよう。中川イサトのギターが控えめに鳴る。それに、サービス精神たっぷりの泉谷しげる。みんな相変わらず、というよりは、すっかり昔に戻って楽しそうだった。


集まった人は30余名。義理でなどという人はもちろん一人もいない。で、湿っぽい雰囲気などとは無縁な楽しい時間があっという間にすぎた。どうしてかな、と考えると中川五郎が歌った「自由ってやつは、失うものが、何もないことさ」というフレーズが浮かんできた。確かに、容さんと出会った頃は、誰にも失うものなど何もなくて自由だった。容さんは、そんな何もないくせに生意気な連中と本当に楽しそうにつきあった。彼の知恵袋からはいろんな話が飛び出して、僕らはそれに聞き入ったが、彼は決して偉ぶることはしなかった。

実は僕は容さんには長いこと感じていた不満があった。彼はなぜあんなにアイデア豊かな話しをしてくれるのに、それを文章にしないんだろうか?あんなにたくさん翻訳をしているのに、自分の本を作ろうとしないのだろうか?病院にお見舞いに行ったときも、闘病日記でもつけたらいいのにということばが、何度も口から出そうになった。でも、それはきっと、彼が一番自覚していたことだったはずだ。それに、書く人ではなく話す人だったから、みんながこんなに慕って集まり、楽しく昔を再現できたのかもしれない。そんなふうに考えると、たまらなく、もう一回、容さんと話がしたくなった。

Bruce Springsteen "the ghost of tom joad",U2 "Pop"


・東京であったスプリングスティーンのコンサートがすごくよかった、という話を、何人もの人から聴いた。生ギターだけのパフォーマンス。それで、"the ghost of tom joad"を買う気になった。トム・ジョードというのはスタインベックの『怒りの葡萄』に登場する主人公の名前である。ジョン・フォードの映画ではヘンリー・フォンダが演じていた。オクラホマで農場を営んでいたが、砂嵐の被害を受けて、カリフォルニアに一家で移住する。そして働いていた葡萄園の待遇改善を求めて集団を組織してリーダーになる。1930年代のアメリカの話である。

・ボブ・ディランを好きになって、彼がガスリーズ・チルドレンと呼ばれるフォーク・シンガーの一人であることを知った。ウッディ・ガスリー、彼はちょうどそのトム・ジョードと同じ時代に生きて、農園労働者の集会などに現れてはメッセージ性の強いフォークソングを歌うシンガーだった。

・スプリングスティーンは"Born in the USA"の大ヒット以来、この10年ほど、ろくなアルバムを作ってこなかった。ニュージャージーの白人労働者の家庭に育った彼は、夢と現実との間にある大きな裂け目をテーマにした歌を歌った。ベトナム戦争、失業、町の荒廃と若者たちのすさんだ心。しかし、皮肉なことに、そんな歌を歌う彼には名声と富が転がり込んだ。そして、同時に歌うテーマをなくしてしまった。

・"the ghost of tom joad"はハイウエイを背景にして、そこを行き交う人びとを歌っている。失業、犯罪、ホームレス、飢える子供、不法移民........。彼がこのアルバムにこめるのは、現在のアメリカの陰になった日常であり、同時に、ガスリーに始まるアメリカの歌の原点である。

・スプリングスティーンの"Born in the USA"とほぼ同時期に、U2は"The Joshua Tree"を出してグループとしての一つの完成領域に達した。アイリッシュであることをアイデンティティの核にしたメッセージと文学性の高い歌詞、ボノのセクシーな歌声、そしてエネルギッシュでなおかつ洗練されたサウンド。それが、次の"Rattle and Hum"から変わり始めた。デジタルなサウンドの導入と照明や映像を取り入れた大がかりなコンサート、それに女装。そして"Pop"ではディスコ・サウンドである。

・スプリングスティーンとU2はたぶん、この10年、同じ壁にぶつかったのだと思う。自己の変化と歌ってきたことの間に生まれたズレ、ファンの期待と自分たちの気持ちの間に生じた違和感。それが一方では、原点帰りという形に、他方では徹底的に時流に乗るという戦略になった。そしてどちらも、アルバムとしてはいいできに仕上がっている。彼らにとってロックは自己表現のメディアだが、同時にそれはビジネスである。今の気持ち、考え、感覚を表現することは大事だが、それは何よりよく売れる商品として作り上げられなければならない。この二律背反の要請とどう折り合いをつけるか。僕はこの二枚のアルバムと、彼らが取る姿勢、作品やパフォーマンスとそれに対して持つ距離感などに興味を覚えた。

1997年3月15日土曜日

『ファイル・アンダーポピュラー』クリス・トラー(水声社)ほか

 

『ファイル・アンダー・ポピュラー』クリス・カトラー(水声社)ほか
『ラスタファリアンズ』レナード・E・バレット Sr.(平凡社)
『ヒップ・ホップ・ビーツ』S.H.フェルナンドJr.(ブルース・インター・アクションズ)

・最近アメリカとイギリスを中心にして、ロックをテーマとした文化研究が盛んに行われている。特に顕著なのは「カルチュラル・スタディーズ」と呼ばれる動きだが、クリス・カトラーは学者ではなく、ミュージシャンである。

・読んで第一に感じた印象はというと、共感と違和感が半々といったものだ。この本が書かれたのは1985年である。僕が感じた印象の原因はなにより翻訳されるまでに11年という時間が経過していることにあるようだ。つまりこの間のポピュラー音楽やメディアの状況、あるいはそれを受けとめる人々の感性や態度の変化が大きかったということである。

・この本の作者は、かなりラディカルな音楽観を持ったミュージシャンである。「ロック」という音楽を何より表現手段、とりわけ政治的主張や前衛的な芸術を創る場と考えている。サイモン・フリスが指摘するように、このような考え方は70年代までは、多くの人に支持されるものだった。「ロック」が音楽産業はもちろん、ミュージシャンにとっても金のなる木として認識されたのは、60年代の後半だった。それが70年代になるとますます顕著になり、80年代になると評価の対象がそこだけのようになった。

・カトラーはこの本のなかで、そこに抵抗するためにはどうするかを真剣に考えているが、その態度は一言でいえば、「オーセンティック」な音楽を追求するということになる。しかし、そのような動きが大きな影響力を持つことは、現実にはなかった。とはいえ、ロックが商品価値以外の何も持たないしろものに変質してしまったかといえば、またそうではない。

・ロックの新しい流れは70年代後半からレゲエやラップ、あるいはヒップ・ホップのように第3世界やアメリカのマイノリティの中から生まれはじめた。カトラーはコンピュータ技術の音楽への導入についても否定的だったが、ラップやヒップ・ホップはデジタル技術なしには考えられないスタイルである。

・『ラスタファリアンズ』はレゲエという音楽が生まれてくるジャマイカの現実を教えてくれるし、『ヒップ・ホップ・ビーツ』はアメリカ社会におけるマイノリティの日常を垣間見させてくれる。もちろん、音楽産業は、そのような新しい流れをあっという間に商品として取り込んで、うまい商売をしてしまうし、白人ミュージシャンもそのエネルギーに触発されて、息を吹き返す。

・カトラーは題名でもわかるように、キイ・タームを「ポピュラー」に求めている。芸術や文化を「ハイ」や「ロウ」、あるいは「フォーク」や「マス」ではなく、「ポピュラー」としてとらえる視点、それは簡潔にいえば、従来の基準を取り払ってすべてをいっしょくたにしてしまうものであり、また、希望と絶望の両方を同時に感じさせるような特徴を持っている。そこに重要性を感じながら、また彼はそこに苛立つ。もしもう10年早く僕がこの本を読んでいたら、たぶん彼の姿勢にはるかに強い共感を感じただろうと思う。

1997年3月10日月曜日

ミネソタから舞い込んだメール

  • ミネソタ州のムーアヘッドからメールが舞い込んだ。州立大学で社会学を専攻する日本人の女子留学生が僕のホームページを見つけたのだ。
  • 「アメリカの片田舎においては、日本の情報が乏しく、そのため苦労もありますが、社会学を学ぶものにとってこの国の社会は多様な興味の対象にあふれています。さて、このたび貴殿のホームページ上で 卒業論文集「林檎白書」を知り、興味をおぼえました。 私はアメリカの若者と日本の若者の比較研究の論文を制作しており、現代の日本の若者に関する情報収集に腐心しています。ご厚意にあずかれるなら、お手数ですが、以下の論文をテキストファイルで送ってください。」
  • 注文は論文3編だったが、テキスト・ファイルかできていないのが2編あって、僕はとりあえず1編だけ送った。ミネソタというとディランの故郷ヒビングスのある所、州都はミネアポリスといったことしか知らない。ついでに、どんなところか尋ねてみた。
  • すると、すぐにお礼の返事が来た。ただし今度は男性だった。日本語を使えるパソコンを彼女が持っていないので、かわりに、僕の質問に応えてくれたのである。彼によるとムーアヘッドは冬寒く(-30度)、夏暑いらしい。ムーアヘッドの近くに大きな町はなく、日本語の本を買うためにはシカゴまで車で出るようだ。
  • アメリカへ行って勉強すれば、当然アメリカのことは経験的に理解できる。しかし、日本語の本は日本から送ってもらわなければ、ほとんど入手できない。何を勉強するにしても、すべては英語だろう。社会学の専門書は、日本語に翻訳されているものが少なくないが、アメリカでは、それを読むことはできない。留学生にとっては、これは厳しい環境だなと、改めて感じた。もちろんそれ以前に、異文化ショックやホームシック、そして気候の違いなどがある。大学の教師としては、手助けしてやりたいと思った。
  • 本を送るのは無理にしても、文献を紹介することぐらいはできるだろう。そんなことを考えたら、個人宛ではなく、ホームページに掲載してしまえとということになった。幸い、僕の蔵書はほとんどデータベース化してある。で、入試の監督が終わった後、1週間ほど使って文献一覧のページを作った。ムーアヘッドにいる彼女だけでなく、ひょっとしたら、もっとたくさんの人に役に立つかもしれない。そうあってほしいと思う。
  • 1997年3月8日土曜日

    容さんが死んだ

  • 3月7日に中山容さんが死んだ。65歳、やり残したことがたくさんあって悔しそうだった。最近はタイがすっかり気に入って、休みのほとんどをチェンマイやバンコクで過ごしていた。去年の夏休みもタイで過ごすつもりでいたようだが、直前に肺と脳にガンが発見されて、そのまま闘病生活に入った。「検査なんか受けずにタイに行って、そのまま死にたかった。」僕は病室でこのことばを何度か聞いた。
  • それでも秋になると、元気を取り戻し、病室でお気に入りの女性詩人の翻訳をして自費出版をしようとしていた。脳の腫瘍が消えたとうれしそうに話した。「退院したら、タイで暮らす。」そんなことを口にするようにもなった。僕は「それがいいね」とうなずき、「でも、やりかけの仕事を片づけてからにしようよ。」と応えた。「今訳している本、版下づくりは僕がやるよ。」というと、彼は印刷所をどこにするか、お金はいくらぐらいかかるか、本屋に置く手配は」とすっかりその気になった。けれども、次第に病状は悪化して、ワープロの画面を見つめ、キーをたたく体力と根気がなくなっていった。
  • 5日に見舞いに行くと、ひどくせき込んで苦しそうだった。酸素を入れる管が鼻に差し込まれ、ぜいぜいという呼吸の音だけが病室に響いた。それでも、容さんは「生きてるよ」とひとこと言った。これが僕が聞いた最後のことばになった。帰り際に「また来るから」と言うと、手をあげて応えた。そのことばと動作が、帰り道に何度も僕の中で反芻された。「生きてるよ」はよかったな。でも、もう会えないかも.......。病室に訪ねていった半年間のことが次々と浮かんでは消えた。
  • 彼はボブ・ディランの訳詞や、S.ターケルの翻訳で知られている。これまでに彼が翻訳した本は次のようなものである。
  • 『ウィリアム・カーロス・ウィリアムズ詩集』(国文社)
    『ローレンス・ファリンゲティ詩集』(思潮社)
    『1960年代のアメリカ女性詩人たち』(ポエトリー・センター)
    『日系アメリカ・カナダ詩集』(土曜美術社)

  • R.キング
    『エロスの社会学』(新泉社)
  • R.マンゴー
    『就職しないで生きるには』(晶文社)
  • B.ディラン
    『ボブ・ディラン全詩集』(晶文社)
    『ボブ・ディラン全詩302篇』(晶文社)
  • J.オカダ
    『ノー、ノー、ボーイ』(晶文社)
  • S.ターケル
    『仕事』(晶文社)
    『インタビューという仕事』(晶文社)
    『よい戦争』(晶文社)
    『アメリカの分裂』(晶文社)
    『人種問題』(晶文社)
    『アメリカン・ドリーム』(白水社)
  • L.ヤップ
    『ドラゴン複葉機よ、飛べ』(晶文社)
  • N.オルグレン
    『シカゴ、シカゴ』(晶文社)
  • J.コットンウッド
    『西海岸物語』(晶文社)
  • J.グリーンシュタイン
    『先生も人間です』(晶文社)
  • F.フェイエッド
    『ホーボー、アメリカの放浪者たち』(晶文社)
  • A.ハクスリー<
    『ルーダンの悪魔』(人文書院)
    『天才と女神』(野草社)
  • W.ライヒ
    『キリストの殺害/W.ライヒ著作集4』(太平出版社)
  • W.E.ホロン
    『アメリカ・暴力の歴史』(人文書院) 

  • 1997年3月4日火曜日

    知人の病気


  • ある親しい知人が入院している。末期の肺ガンで、もうベッドから立ち上がることもできない。食事らしいものも12月の中旬からほとんど口にしていない。医者からは2月までと覚悟するようにと宣告されたが、3月になっても生きている。ただ、見舞いに行っても、もうほとんどしゃべる元気もなくなってしまった。
  • 彼がガンに気づいたのは、去年の夏休み前。タイに旅行するつもりが、病院行きに変わり、そのまま入院生活が8カ月も続いている。僕は、9月の末まで彼の入院を知らなかった。肺ガンで脳にまで転移しているという話に驚いて病院に駆けつけると、わりと元気な顔でテレビを見ていた。ほっとしたら、「何でもっと早く知らせてくれなかった!?」と文句が言いたくなった。「大騒ぎするの好きじゃないから、それに、元気になっているし...........。」コバルト照射で脳のガンは消えたようだった。食欲もあって、体力もずいぶん回復したみたいだった。「11月には退院する」という言葉を僕は真に受けた。
  • 彼は27年前に京都に来た。高校の教師を辞めて短大の教員になった。家族と離れた単身赴任。というよりは、家族から逃れるための周到な計画だったようだ。彼には新しい恋人が一緒だった。彼は京都で当時起こりつつあった「関西フォーク運動」に参加した。ギターを手にした若い連中よりは一世代以上年長だったから、よき相談役として信頼された。僕が京都に来た理由の中にも、そんな彼を慕う気持ちがあった。
  • 溜まり場にした同志社大学近くの喫茶店でよく話をし、ライブハウスで音楽を聴き、集会やデモに一緒に出かけた。どこでも、表に立ってリーダー役をすることはなかったが、意見は的確で、話はおもしろかった。彼の周りにはいろんな人が集まった。岡林信康、泉谷しげる、高田渡、中川五郎、豊田勇造、古川豪、そして中山ラビ。僕はもう歌うことはやめていたが、彼の近くにいると、たくさんのフォーク・シンガーたちと話ができた。今から思えば、信じられないくらい楽しい瞬間だった。
  • 寺山修司の『書を捨てよ街に出よう』がベストセラーになって、大学院に行って本ばかり読んでいる僕は、よく彼のからかいの対象になった。「渡辺は本ばかり読んでいるからだめだ。見る前に跳べだよ。大事なのは頭じゃない。身体だよ。」そんなこと言われなくてもわかっていた。だけど、歌もギターもうまくない僕には、本を読んで考えることぐらいしか、周りの連中に対抗できる武器を手にする手段はなかった。けれども、それはレコードを出して、コンサートで拍手喝采をうけるフォーク・シンガーたちに太刀打ちできるようなものでは、とてもなかった。
  • 彼は僕に大学の非常勤の口をあちこち世話してくれた。で、学者の端くれのような態度をとり、それなりの気取った文章を書くようになった。それが本になり、何か、世の中がわかったような気分になると、僕は彼のところに次第に足を向けなくなった。フォーク・ソングが下火になり、僕も結婚して子供もできた。彼の恋人も東京に帰った。定職につくと、1年のうちに何度も会わないという状態になった。
  • 彼の病室には、何人ものフォーク・シンガーたちが訪れている。みんなもう50歳前後になっている。そんな連中が、彼を励ますつもりでやってきて、20数年前の気持ちを思い出して帰っていく。僕は、彼の入院を知ってから、週に1、2度病室を訪ねている。最近の話題や、大学の現状を話したりもするが、よりリアリティを感じるのは、昔話をして、20代の頃の自分を思い起こす時である。「あのときは面白かったね」と話すと、彼の顔もなごんでうなずく。しかし、そんなふうに話ができる時間も、もう残り少ないのかもしれない。だから何も話はできないかもしれないけれど、僕は明日も病院に行くつもりだ。
  • 1997年3月3日月曜日

    Beck "One Foot in the Grave",The Smashing Pumpkins "Mellon Collie and the Infinite Sadness"


    beck.jpeg・2月の末にWow wowでグラミー賞を見た。E.クラプトンで始まって、B.スプリングスティーンで終わるという内容は、僕にはきわめて素直に受けとれるものだった。しかし、これだけでは、やっぱりロックはもう新しいものが出なくなってしまったのだな、という思いを確認するだけで終わってしまう。実際、そんな感じもしたが、見ていて興味を覚えたミュージシャンも何人かいた。ベックとスマッシング・パンプキンズである。
    ・もちろん、この人たちをはじめて聴いたというわけではない。ゼミの学生が僕の研究室にCDを持ってきたのを何度か聴いたことがあった。ところが、その時には、例えばベックについては何だそれ!?といった反応をしてしまったようだ。調子っぱずれなサウンドが耳障りで、奇をてらったローファイの一つか、としか思わなかったのだと思う。スマッシング・パンプキンズについては、ほとんど記憶がない。学生が「持ってきて聴きました」というからたぶん聴いているのだろうと思うが.............。で、さっそくTower Recordに行ってCDを買ってきた。
    ・ベックの"One Foot in the Grave"は、最初のうちはやっぱり聴きづらかった。わざとギターの調弦を狂わせているのがなんとも不自然な気がした。けれども、聴いているうちにだんだんなじんでよくなってきた。この手のサウンドは僕は決してはじめてではない。例えば、ウッディ・ガスリーやロバート・ジョンソンのレコードは、まさしくそんな感じである。前者はフォーク、そして後者はロックンロールの始まりとなった人だが、彼らの歌や演奏は民俗音楽の研究者がポータブルのテレコを使って収集したものがほとんどである。ギターだって、弦だって決して上等のものを使っていたとは言えなかったはずだ。だから、調子っぱずれの聴きづらいサウンドになるのは当然のことだった。
    ・ベックはそんな、ノスタルジックなサウンドを再現しようとしたのだろう。聴いているうちに僕は、この人はかなり真面目に、ポピュラー音楽の原点に戻ってみようとしているのかもしれないと感じ始めるようになった。どんなサウンドでも自由自在に作れる時代に、わざわざ、素朴な音に挑戦する。そう思うと、何か面白い気がして、ますますベックに興味を覚えるようになった。彼には90年代のボブ・ディランというキャッチフレーズがついているようだ。うん、なかなかいい。けれども、こんなサウンドが若い人たちに受け入れられ、支持されるというのは、どうしてなのだろうか。そこは一度ゼミの学生たちと話してみたいと思う。

    pumpkins.jpeg・もうひとつ、スマッシング・パンプキンズ。ボーカルはスキン・ヘッド、アジア系のギター弾きは髪の毛が三毛猫、そしてベースの女の子は無機質な感じの化粧をしていた。外見を見る限りはよくありがちなバンドなのだが、演奏した"1979"という曲はすぐにいいなと感じた。CDを買って聴いてみると、静かな曲とうるさいものが交互に入っていて、何か分裂気味な印象を持った。ハードなやつは僕はあまり好きそうになれないが、ちょっとボリュームを落とした曲の中には、いいものがずいぶんあった。同じような傾向はパール・ジャムにも感じるのだが、一枚のCDにこんなふうにごちゃごちゃにれるのはどうしてなのだろうか。それもまた、新学期になったら学生たちと話してみたいと思う。

    1997年3月1日土曜日

    『女優ミア・ファロー スキャンダラス・ライフ』


  • ウッディ・アレンのスキャンダルは僕にはちょっとショックだった。ミア・ファーローの連れ子にセクハラをしたという意味あいで伝えられたからだ。しかし、そんな生々しいスキャンダルが実名で映画になってしまうのには、もっと驚いてしまった。すごいとかひどいと思ったが、たまらなく興味もそそられた。これだからゴシップは廃れることがないのだな。改めて納得した気になった。で、映画はというと、すごく真面目につくってあった。ウッディ役がうまくて、僕は途中から、まるで本人がやっているような錯覚を起こしてしまった。
  • ウッディが好きになったのはミアの長女だが、彼女は実子ではなく中国人のハイティーンである。ミアは彼女のほかに人種の異なる養子を何人ももらっている。当然ウッディとミアの生活にはそんな子どもたちの存在が大きな位置を占めるようになる。そして二人は入籍をしないままに何年もすごす。長女とウッディの関係はミアにとってはとんでもないことである。しかしウッディにはあまり罪の意識はない。彼女は娘に「育てた恩を裏切って」と言う。しかし、娘はその義母がハイティーンの時に妻帯者であるフランク・シナトラと不倫をしたことを知っている。だから、「同じことじゃない」と反論する。何より、ミアとウッディは法律的には他人同士なのである。
  • ミアとウッディの間には一人女の子ができている。名前は「ディラン」。女の子につけることができる名前だとは知らなかった。ミアはウッディがその娘にイタズラをすることを理由に裁判にうったえた。そこのところは裁判所でも結論は出なかったようだ。ことの次第がわかってくると、ニュースで伝えられた印象とはちょっと違う関係が見えてくる。結婚と離婚をくり返し、必要なら、様々な形で養子をもらう。そんな生き方はアメリカでは決して一部の人だけの特殊な現象ではない。そんな複雑な関係を「家族」というスタイルで維持しようとすれば、関係はますますこんがらがってしまいかねない。僕はこの映画にそんなアメリカ人の生活の一面を見た気がした。スキャンダルを題材にして注目を集めようとした映画であることは間違いないが、僕はそこに、同時に、作り手の誠実さを見た気がした。