2007年11月26日月曜日

偽装、隠蔽、そして謝罪

 

・偽装事件が次々と明るみに出ている。毎日食べているものの賞味や消費の期限や材料のごまかしからはじまって、ビルの設計の偽装、あるいは基準に合わないビルや高速道路の資材など、ありとあらゆるところで摘発されつづけている。日本で消費される農産物やその加工品の産地が世界中に広がって、どこでとれたものか、どんなふうにしてつくられているか、どんな成分が含まれているのかが特に注目されはじめただけに反響は大きいが、偽装はすでに何十年にもわたっておこなわれつづけてきたものが少なくないようだ。しかも明るみに出たのが大手や老舗ばかりだから、どんなものも実体はいんちきなのでは、といった疑念がますばかりだ。
・そんなニュースが連日テレビを賑わしているが、どれも最初は、否定からはじまって、しばらくすると、現場が勝手にやったという逃げ口が出て、最後は経営陣の指示があったことが明らかにされる。で、報道陣やカメラを前にしての謝罪になるのだが、決まって、全員が頭を深々と下げる。不祥事が発覚したときにおきまりの、すっかり定着した儀礼の形式である。これがなければ納得しないという風潮がつくられたようだが、それで納得できる問題ではないはずである。
・特におかしいと思うのは謝罪のことばの力点が「世間をお騒がせしました」にあって、「悪いことをしました」ではないことだ。これでは、発覚して問題になったことを反省しているのであって、そもそもやった偽装の罪自体はたいしたことではないと言っているようなものである。あるいは、それを隠蔽し、嘘をついた罪はどこへいったんだろう。アメリカでは、法廷で偽証した疑いで、ホームランの世界記録を打ちたてたボンズ選手が30年の刑になるかもしれないと言われている。罪を罰として償うのではなく、謝罪して勘弁してもらう。偽証に厳しいアメリカと比較しながらニュースでの謝罪儀礼を見ていると、そんな「甘え」が見え隠れして、余計に不愉快な気持になってくる。

・先日、つかっているパソコンがおかしくなって、購入した大学生協に持ちこんで修理を頼んだ。トラックパッドに触れると、それだけでフリーズしたり、操作がままならなくなってしまう。そんな症状だったのだが、修理先からバッテリーが破裂しているので、修理以前にそのことをAPPLEに連絡してくれと言われた。電話をすると、例によってつながらない。30分以上待って、やっとつながると、詳しい症状を知りたいので、修理担当者か生協で連絡を受けた人から直接話を聞きたいという。だったらと、電話番号を教えると、こちらからはできないので、そちらからあらためて電話をして欲しいという。ちょっと信じられない返事で、その旨を話したのだが、そういう規則になっているのでどうしようもないという。で、仕方なく生協に電話をして、APPLEと連絡をとってもらった。
・パソコンの症状は、確かに、バッテリーを交換したら改善された。しかし、この間、APPLEからは謝罪のことばはほとんどなかった。不具合があって、その原因がメーカーにあるのなら、無償で修理や交換をする。そういったやり方に納得できないのなら、裁判にでも訴えればいい。事の正否や善悪は公の場で争いましょう。そんな態度が垣間見られた気がした。実際、パソコンのバッテリーの不良やそれによるパソコンの発火といった事例は世界中で多数起きていて、なかには裁判沙汰になったもののあるようだ。

・そんなドライな対応に驚いたり、腹を立てたりする一方で、ただただ謝るといったやり方にも、不快感や解せない気持を感じてしまう。そのちがいがアメリカ的なものと日本的なものの間にあるのだとすれば、その二つの感覚に違和感をもつぼくは、いったいどこにいるのだろうか、などと思わないでもない。

2007年11月19日月曜日

細見和之『ポップミュージックで社会科』

 

hosomi.jpg ・ぼくは森山良子という歌手が大嫌いだ。その理由は、外国生まれのいくつものいい歌を、その心や意味を台無しにして日本に広めたからだ。そう思って憤慨し、毛嫌いしたのは40年も前だが、最近また、その名前をたびたび耳にすることがあって、その度に不快な気持ちを呼び覚まされている。そんなときに、その理由を詳しく説明している本を見つけたから、これはどうしてもとりあげねば、と思った。

・細見和之はアドルノの研究者だが、同時に詩人で、ポピュラー音楽にも詳しい人のようだ。ぼくは以前、彼の書いたアドルノ論のなかにある「ミメーシス」という概念を引用して音楽論を書いたことがある。「ミメーシス」は「主体と客体が一体となって、その一体感のなかでその内側から知られるようなあり方」で、アドルノが音楽をはじめ、あらゆる芸術にとってなにより重要な成立の要素としているものだ。少しむずかしい説明だが、ぼくは、それを次のように読みかえてみた。


・たとえば、日本人にとっては、英語の歌を聴いて、その歌詞の意味をすぐに読みとることはむずかしい。けれども、その歌声から、あるいはメロディや演奏の音色から、何となくわかる感覚といったものはある。ごく単純にいえば「ミメーシス」とはそんな理解のあり方である。『アイデンティティの音楽』(世界思想社)

・ある特定の音楽や歌に対して示すのがこの「ミメーシス」的共感であることはいうまでもない。けれども、歌の場合には、そこにことばがあるだけに、それがわからなければ伝わらないこともすくなくない。細見はそれをジョーン・バエズが英語で歌い、森山良子が日本語でヒットさせた二つの曲を例に上げて説明している。その一つは「ドナドナ」で、もうひとつは「思い出のグリーングラス」である。

・この本によれば、「ドナドナ」はもともとはイディッシュ語でつくられていて、ユダヤ人に対してくりかえしおこなわれてきた虐待や虐殺をテーマにしている。荷車に手足を縛られて乗せられた子牛が屠殺場にひかれていく。うめく牛に農夫が「いったい誰がおまえに子牛であれと命じたのか」という。空を燕が自由に旋回し、ライ麦畑には風が子牛あざ笑うかのように吹き続ける。この歌はナチのユダヤ人虐殺と重ねあわせられることが多いが、生まれたのはそれが起こる前だった。
・日本語訳された「ドナドナ」にはユダヤ人の悲劇を歌ったものであることが、まったく抜け落ちている。これはあくまで、殺されて食べられてしまうかわいそうな子牛の歌であり、だから子供向けの歌として小学校や中学校の音楽の教科書にも載るようになった。日本語で強調されているのは元歌にはない「悲しそうなひとみ」の「かわいそうな子牛」であり、「もしもつばさがあったなら、楽しいまきばにかえれるものを」という同情の念である。

・もうひとつ「思い出のグリーングラス」はジョーン・バエズ以前にトム・ジョーンズがヒットさせた曲として知られている。歌詞の内容は、昔懐かしい家にもどる男の話だ。汽車を降りるとそこには、家を出たときそのままに、パパやママがいて、恋人が出迎えてくれている。緑の草に囲まれた懐かしいわが家。子供のころに遊んだ樫の木もそのままある。しかし、3番目の歌詞になると、男のまわりには突然、冷たい灰色の壁が見えてくる。そこは刑務所で、今朝は処刑の日。思い出のわが家は、彼が牧師や看守の前で一瞬回想した風景だったのである。ところが、日本語訳では、その3番目が見事に抜け落ちていて、主人公は都会に絶望して田舎に帰った若い娘になっている。

・フォークソングにメッセージ性があるのは、その誕生からいって必然的なことである。で、それに影響を受けたロックやその他のポップ音楽にも、その要素は受けつがれている。ところが、日本にはいると、その要素は、まるで検閲されたかのように抜け落ちてしまう。あるいは、ポップ音楽は単に若者の娯楽ではなく、そこには他の芸術や文学と同様に、作品としての奥行きや広がりを持たせる可能性が確かにある。ところが日本では、ポップ音楽にそんな可能性があると信じている人は多くないし、そんな作品もきわめてまれにしか存在してこなかった。

・中身を換骨奪胎して抜け殻を消費する。だから、受けとめるのはあくまで、表層のところにある、「かわいい」「かわいそう」「たのしい」「うれしい」「かっこいい」「つらい」「せつない」「くるしい」「つまらない」といった「ミメーシス」まがいの感情でしかない。細見はこのように翻訳してしまう日本人の感性を批判しながら、同時に、つくる側が、そうしなければ、歌が商品として成功しないことを知っていたためだという。なぜそうなるのか。そこを明らかにすることは、またもうひとつのおもしろいテーマになるのかもしれない。
・しかし、ぼくはだからこそ、そういう仕組みを拒絶して新しい歌を作ろうとした動きが、ここにあげた歌のようにして元の木阿弥にされてしまったことに、批判的であり続けたいと思う。フォークシンガーまがいの歌手が、日本のジョーン・バエズとか、日本のボブ・ディランとかいわれて、大物気取りでいつづけている。その能天気さや鈍感さは、また、その後のディランやバエズやそのほかのミュージシャンの作品にある真摯さやこだわりとはきわめて対照的なものである。

・ちなみに、この本では取りあげられていないが、ディランの「風に吹かれて」のリフレインは、森山良子の歌ではやはり、童謡化されて「かわいい坊や、お空吹く、風が知ってるだけさ」となっていた。「かわいい文化」は今も、日本人の感性の基本だが、それはまさに「無知は力」(オーウェル)といった姿勢の蔓延でもある。

2007年11月12日月曜日

古い本をPDFにしました


・新しい本『ライフスタイルとアイデンティティ』(世界思想社)が出たのを機会に、すでに品切れで手に入らなくなっている本を、PDFとして公開することにしました。引用などをしやすくするために、ページのレイアウトも本と同じにしました。

book3.jpeg・PDFにして公開する理由はいくつかあります。それなりに需要があるのに本として手に入りにくいこと、データとして著者がもっていて、ネット上に公開することができることなどで、ここには、ある期間(本の場合には品切れ)を過ぎた著作物は公開して共有物(パブリック・ドメイン)にすべきだという考えに同意するという理由もあります。

・実際に、これまでにもいくつかのファイルをWeb上に公開してきましたが、中にはびっくりするぐらいのアクセス数のあるファイルもありました。もちろん、メールでさまざまなものを要求してくるケースもあります。学生の卒論などは原則的にお断りしていますが、出せるものは利用していただこうと考えました。

book4.jpeg・今回公開するのは、筑摩書房から1988年に出した『私のシンプルライフ』と1989年の『メディアのミクロ社会学』です。残念ながら、それ以前のものについては、デジタル化したデータがありません。ワープロを使い始めたのが86年頃で、マッキントッシュを購入したのが89年ですから、それ以前の原稿は、原稿用紙に手書きで書いたということになります。今のところ、改めてデジタル化する予定もありません。

・PDFのダウンロードは、「作品」のページからできますが、容量が多いですし、印刷をするとそれぞれ200ページを越えますから、お気をつけください。

2007年11月5日月曜日

新しい本が出ました

 

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・すでに予告済みですが、ぼくが書いた新しい本がやっと出版されました。『ライフスタイルとアイデンティティ』(世界思想社、2625円)です。内容については「ライフスタイルとアイデンティティ」のページをご覧ください。目次やあとがきの他、表紙やオビについての欄もあります。

・「ライフスタイル」にしても「アイデンティティ」にしても、ぼくにとっては、大事なことばですが、すでに手垢にまみれてほとんど魅力を失ったことばのようにも感じられます。それが、広告のことばのなかには、相変わらず氾濫していて、何かまだ特別のイメージを感じさせるかのようにつかわれています。そんな傾向にたいして、出発点に帰って問いなおしをして、最近の風潮を批判してみたいと思いました。

・現代は、本当に高度に発展した「消費社会」です。学生たちと長年接してきて、そのことを年々強く実感するようになりました。彼や彼女たちにとっては、あらゆることが「消費」という行動を通して実現されます。衣食住に関わることはもちろんですが、「楽しい」「うれしい」から「悲しい」「怖い」、あるいは「くやしい」といった感情の経験でさえ例外ではないようです。だからそのために一生懸命バイトをする。勉強はといえば、きめられたことを要領よくこなすことであって、じぶんなりの興味や関心にしたがって、ということではありません。だから当然、こんな社会の傾向やシステムそのものに疑問を感じるなどといったこともありません。このシステムは何より「豊かさ」を感じさせてくれるものですから、すべきことは、そのなかでうまく立ち居振る舞うことだというわけです。

・このような意識はもちろん、もっと上の世代の人たちにも共有されています。というよりは、かつてはそうでなかった社会を経験した人たちほど、現在の社会のありようを肯定しているといってもいいかもしれません。しかし、本当にそうだろうか、という疑問を、ぼくはずっと持ちつづけてきました。たとえば「豊かさ」とはいったい何なのか、それは実際どう生きることで実感されるものなのか、あるいはじぶんはどんな人間になりたかったのか、といった問題です。『ライフスタイルとアイデンティティ』ではそのことを、現在に関わるいくつかのテーマと、「ユートピア」思想を手がかりにした近代化以降の歴史を軸に考えてみました。

・欲しいと思うものの大半は、実は欲しいと思わされてしまったものであるし、お金を出して買うものの多くは、実はじぶんで作れるものでもあるのです。「モノ」はもちろん、「経験」だって例外ではありません。ということは、欲しいわけではないモノやことのために、したいわけではないしごとをしているということになります。生きていくためにはだれもが「何者」かにならなければいけないけれども、そのためには、じぶんのなかにある、そうではない部分を抑えたり、捨象したり、無能にしたりすることが要求されます。だからまた、違うじぶんを求めて「消費」に走ったりもする。

・もちろん、この本で問いかけているのは、現代に典型的な「ライフスタイル」や「アイデンティティ」を全面否定せよ、といったラディカルなものではありません。何かをする前に、たちどまって考えてみる。そんな気持の持ちよう提案したものであるにすぎません。しかし、学生たちにそんな話をすると、「そんなこと考えたこともなかった」といった応えがかえってきますから、そんな提案でさえ、強いインパクトを与えるのではないかと考えています。