2009年12月30日水曜日

目次 2009年

12月

30日:目次

29日:癌細胞の不思議

21日:Merry Christmas!

14日:日本とアメリカの関係

7日:ペット残酷物語

11月

30日:山歩き、ペンキ塗り、そして薪割り

23日:ディランとスティングのクリスマス

16日:ベルリンの壁

9日:インターネットの現在、過去、未来

2日:秋の山歩き

10月

26日:恩人の死

19日:祭日と授業日数

12日:団塊再び

5日:自転車ブーム

9月

28日:BOSEの音

21日:模倣とミラーニューロン

14日:テレビの凋落

7日:Adobeに腹が立った!

8月

31日:千客万来

24日:友人の死

17日:政治哲学なき選挙

10日:尾瀬ヶ原を歩いた

3日:新譜がない

7月

27日:「ソーシャル・ビジネス」と「21世紀の歴史

20日:テレビと政治

13日:飛行機と自転車

6日:BlackberryとMacbook Air

6月

29日:マイケル・ジャクソンの功罪

22日:変わったライブ盤2枚

15日:『やさしいベイトソン』

8日:エコという名の浪費

1日:清志郎が教えてくれた

5月

25日:マスクと濃厚接触

18日:ディランとラジオ

11日:ニート、クール、クリエイティブ

4日:連休はどこにも行かずに

4月

27日:新刊案内

20日:いつもと違う春

13日:テレビで見たくない顔

6日:U2とSpringsteen

3月

30日:大学のテキスト

23日:K's工房個展案内(京都)

16日:イラク戦争とは何だったのか?

9日:雪のない冬

2日:セブ島の海と人

2月

23日:グリーン・ニューディールを本気でやるには

16日:歌とことば

9日:今年の卒論

2日:浅間山噴火

1月

26日:『地下鉄のミュージシャン』

19日:寒波到来

12日:還暦に思う

6日:スポーツの値段

2009年12月29日火曜日

癌細胞の不思議

・癌は外からやってくるものではない。そこがインフルエンザ・ウィルスとは根本的に違うところだ。癌は、もともと体内にある細胞が、何らかの理由で暴走をはじめて増殖し、他の組織を壊していく病気である。だから、癌をやっつけるために開発された薬は、当然、他の健康な細胞にも影響を与えてしまう。これが抗がん剤につきもののひどい副作用である。

・立花隆がレポーターになって最近の癌研究を取材した番組がNHKのBSで放送された。癌は人類にとって最大の敵だが、実はそれが自分自身の体にもともとあった組織であることで、癌治療の難しさとなっている。番組では、それをどう克服しようとしているかといった最新の研究を訪ねていた。癌は外からやってくる敵ではなく、変身して自分に攻撃をしかける分身である。それだけに、どう対応するかが重要であることを、今さらながらに実感させられた。

・癌細胞は突然、何の前触れもなく暴走しはじめる。たとえば8月になくなった僕の友人が最初に異変に気づいたのは1月で、車の座席に座った時に背中が気になるといったことだったようだ。それがだんだんひどくなり、いくつかの病院で検査をして、肺癌だとわかったのが3月で、その時にはすでに進行して末期の状態だったという。その後の闘病生活の苦しさや、癌との折り合いの付け方、あるいは自分の現在と過去、そして未来への思いなど、病床に伏した数ヶ月間を思うと、自分がそういう状況になったら、と考えざるを得ないし、そうなった時の気構えを、今から考えておく必要があるとも感じざるをえなかった。

・抗がん剤は最初の発病の時にはある程度効いたとしても、再発の場合にはほとんど効果のないのが現状のようだ。薬によって一度成長を邪魔されて退散した癌細胞も、薬に対する耐性を身につけ、正常な細胞の中に身を潜めて、再度の暴走の機会を狙っている。しかも、正常な細胞の中には、癌細胞の潜伏や、進行を補助するものもあるようだ。その意味では、癌は闘う敵ではなく、家族内の手に負えない不良息子や娘として考えるべきものだという。

・番組では、抗がん治療などはせず、入院もさせずに自宅療養で、往診をして患者と対応する医者が登場した。癌は体の病だが、それに襲われることで心も異常をきたすし、病院のベッドに寝たきりになれば、自分自身が今までの自分とは違う異物のように感じてしまうことにもなる。いつも生活している家の、いつも寝ているところで、いわば癌とつきあいながら最後の時間を過ごす。癌という病気は、癌とのつきあい方をどうするか、死ぬまでの時間をどう生きるか、といった人生観やライフスタイルの問題でもある。

・癌の克服が医学にとって、最大のテーマであることは間違いない。しかしそれは癌のみではなく、同時に、生物や命の不思議を解明することの一部であり、人間にとっては「生きること」や「生き方」を考える哲学に結びつけるべき問題でもある。そういった自覚がなければ、私たちは新薬開発の競争に明け暮れる製薬会社や、それを使って利益を上げようとする病院の「資本の論理」の言いなりになってしまう。

2009年12月23日水曜日

Merry Christmas!!

 

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オバマが大統領になり
自民党政権が敗れて
日本や世界の情勢に
少しだけ希望が持てそうな気がした年でした

還暦を迎えましたが
親しい人や信じられる人が何人も死んだ年でもありました
とりわけ、同年代の人たちの死はつらくもあり、寂しくもありました

健康であることを目的にはじめたわけではありませんが
自転車で河口湖や西湖を走ることを習慣にするようになりました
秋になると山歩きもはじめて
富士山の周辺を以下のように歩きました

10.15 忍野・高座山
10.22 猿橋・百藏山
10.29 精進湖・パノラマ台
11.06 西湖・王岳
11.20 籠坂峠周辺
11.23 節刀ヶ岳・大石峠
11.27 田貫湖・長者が岳
12.04 箱根・金時山
12.12 愛鷹山・越前岳

今年はクリス・ロジェクの
『カルチュラルスタディーズを学ぶ人のために』を
5月に世界思想社から出版しました
また、来年度の講義に使うための本が
仕上げの最終段階に来ています

そうそう、還暦の祝いを理由に
久しぶりに家族そろって
フィリピンのセブ島に出かけました
来年は、ちょっと長めの海外旅行に出かけたいものだと思います

それでは

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2009年12月14日月曜日

日本とアメリカの関係

 

秋尾沙戸子『ワシントンハイツ GHQが東京に刻んだ戦後』新潮社
ハワード・ジン、レベッカ・ステフォフ 『学校では教えてくれない本当のアメリカの歴史(上下)』あすなろ書房
エリコ・ロウ『本当は恐ろしいアメリカの真実』講談社

・沖縄の普天間基地移転の問題が揺れている。辺野古か県外か、あるいは国外か、民主党の姿勢がはっきりしないから、アメリカも苛立っているという。日米関係を損なうといった批判が自民党から浴びせられている。しかし、アメリカが苛立ったからと言って、なぜ慌てる必要があるのだろうか。政権が変わったのだから、根本的な見直しをすることがたくさんあるのは当たり前で、日米関係と国内、とりわけ沖縄に多くある米軍基地をどうするかといったことは、今こそきちっと考えてアメリカと交渉をする問題だと思う。

・日本に米軍基地があるのは、日本を他国の侵略から米軍に守ってもらうためだ。1951年にサンフランシスコで平和条約とともに締結された「安全保障条約」がその根拠になっている。これは第二次世界大戦の敗戦国として否応なしに結ばざるを得なかった条約で、10年の期限が切れた1960年と 70年には、この条約の批准に反対する大きな運動が起こった。それは、侵略される脅威があるから基地が必要だとする意見と、基地の存在が脅威を産むのだと考える立場の対立だった。70年以降は単年ごとに自動的に更新されるものに変わって、現在に至っている。

j&u1.jpg ・秋尾沙戸子の『ワシントンハイツ GHQが東京に刻んだ戦後』を読むと、敗戦後のアメリカの対日政策とそれに対する日本政府の対応が、きわめて一方的で屈辱的なものだったことがよくわかる。「ワシントンハイツ」は明治神宮に隣接して作られた米軍関係者の宿舎で、元は陸軍の練兵場が会った土地だった。そこは64年の東京オリンピックの直前に変換され、オリンピック村になった後、代々木公園になり、競技場やNHKが作られた。原宿が異国情緒のある流行の先端の街になったのは、ワシントンハイツの住人を顧客にした店があったせいだ。だから旧ワシントンハイツ地区は、日本人の中に共通して持ちつづけられているアメリカに対する卑下と憧れ、反米と親米といった感情を象徴する場所だといっていい。

j&u4.jpg・ハワード・ジンの『学校では教えてくれない本当のアメリカの歴史(上下)』は『民衆のアメリカ史』をレベッカ・ステフォフが子ども向けに書き直したものだ。歴史の教科書には載らない裏面史だが、インディアンの虐殺から始まって、奴隷の輸入と人権の無視、正義と民主主義をふりかざした他国への攻撃が世界大戦からヴェトナムやイラク戦争にいたるまで批判的に記述されている。もちろん個々の出来事や問題については、もっと詳細に分析された本がそれぞれいくつもある。しかし、アメリカという国に滅ぼされ、差別され、痛みつけられてきた人びとの目から見たアメリカの歴史は、よく知られた英雄や美談、豊かさや自由を強調したイメージを覆していく。アメリカの表と裏の乖離をこれほどに感じさせる歴史書は他にはないといってもいいだろう。

j&u2.jpg ・もっともアメリカの二面性は現在でも変わらない。エリコ・ロウの『本当は恐ろしいアメリカの真実』には、ブッシュ時代のアメリカの状況からリーマン・ショック、そしてオバマ大統領の誕生へといたる現状が、マイノリティである在米日本人の批判的な目を通して描き出されている。オバマはブッシュの残した後始末に苦慮している。一方で核兵器廃絶と言いながら、アフガニスタンでは兵力を増強して、タリバンを力でねじ伏せようとしているし、日本の米軍基地に対する政策も、これまでと変える気はないようだ。しかし、日米の政権が大きく変わった今こそ、従来の日米関係を見直すチャンスであることは間違いない。アジアの現在の政治状況にとって、日本にある米軍基地がどれほど重要なものなのか。今大事なのは、そのことを問いかけて交渉する外交能力であることは間違いないように思う。

2009年12月7日月曜日

ペット残酷物語

・去年の夏に近所に引っ越してきた家から、複数の犬の鳴き声が聞こえるようになった。それもかなりの数で、一斉に鳴き出すとすさまじい音になる。ただし、犬の姿はまったく見かけない。奇妙な感じを抱きながらも、苦情は言わずに放っておいた。寒くなって窓を開けることもなくなり、鳴き声がそれほど気にならなくなったからだ。

・ところが春になって、少し暖かくなると、また鳴き声が気になり始めた。さらに、異臭もする。風向きによっては我が家の中にもその臭いが侵入しだした。家主は引っ越してきた時に挨拶もしなかったし、滅多に見かけることもない。訪問者もほとんどないし、郵便や宅配が来ても一切出ないようだ。直接苦情を言って聞くような相手ではないと思ったから、町の役場や保健所、そして警察署に出かけて相談をした。で、見回りに来てくれたのだが、どこもどうしようもないという返事だった。ブリーダーなら届け出る必要があるが、確かめるためには承諾を得て家の中を調べなければならない。もちろん、家主はそれを拒否したらしい。

・夏に長期滞在した隣にある別荘の住人が、苦情を言いに行った。いつもレトリバーを連れてくる犬好きで、元の家主の知人として、家を売る際に一緒に立ち会っていたようだ。いろいろ話をして、ブリーダーであることもはっきりした。ラブラドールとレトリバーの成犬が7匹ほどいて、そのほかに子犬がいることもわかった。もちろん、付近に大変な迷惑をかけていることも言ってきたようだが、だからといって立ち退くことも、ブリーディングをやめることもできないという話だった。

・それ以来、鳴き声が少しだけおさまったし、秋になると窓を開けることも減ったから、音も臭いも我慢ならないほどではなくなった。だから、そのままにしているが、一年中家に閉じ込めて、まったく外に出さずに、ただ子どもを産ませられる犬の存在がずっと気になっている。太陽も浴びず、散歩や運動もしないのは、犬にとって心身ともにいいことはない。産まれてくる子どもにだっていいはずはない。もちろん、犬は「いったい何のために生まれてきたのか」などとは思わないし、苦情も言わない。だからこそ、いっそう、人間の身勝手さや残酷さを感じてしまう。

・ペットショップには、いろいろな種類の子犬が売られている。それを見て「かわいい」と言う人たちに違和感をもつことがよくあった。親離れしていない子犬が、小さな檻に閉じ込められっぱなしという状態が気になったからだ。日本人にとってペットを選ぶ第一の条件は「かわいらしさ」にあるようだ。だから子犬の時期が好まれる。しかし、親から早く離せば、親の愛を受けられないし、生きるすべを学ぶ機会も持ちえない。それを人間が自分勝手な愛で穴埋めするから、言うことを聞かない犬に育って手に負えなくなってしまったりする。

・「かわいい」と思う子犬が、どこで、どんな状態で、どんな親から生まれてくるのか。その仕組みの一端を知ってしまうと、とても犬を買う気にはならない。犬たちの鳴き声がする家の前を通り過ぎるたびに、そうつぶやいてしまう。

2009年11月29日日曜日

山歩き、ペンキ塗り、そして薪割り

 

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王岳登山中に出会ったニホンカモシカ

・11月も周辺の山を歩いた。精進湖の北にそびえる王岳に登りはじめてまもなく、ニホンカモシカに遭遇した。こちらが気づく前にとっくに気がついていて、じっと睨みつけられた。微動だにしないので、こちらもじっくり構えて写真を撮った。猿の群れは我が家の庭にも時折やってくるし、ウリ坊をつれたイノシシを見かけたことも何度もある。子鹿を間に挟んでゆっくり歩く鹿の群れにも出会った。しかし、ニホンカモシカははじめてだったから、ちょっと驚いた。

forest79-2.jpg ・家の前を流れる奥川の源流に行ってみようと出かけたのだが、そのまま山の上まで登ってしまった。林道の終点に着くと、砂防ダムの工事中で、ロープウェイでコンクリートを運んでいる。トロッコの一本線路がまっすぐ上に伸びていて、登山道は線路と何度も交差しながらジグザグと続いていた。1時間ほど登ると5人乗りのトロッコがあった。工事現場の人が乗ってきたのだろう。楽だが急傾斜で不安定だから、とても乗りたいなどとは思わない。

forest79-4.jpg・砂防ダムの工事は、もっと怖いところでやっていた。崩落した面をセメントで固めて、急斜面のところに新しい砂防ダムを造っている。ブルドーザーはヘリコプターで運んだのだろうか。そんな様子を横目で眺めながら尾根まで登った。歩き始めてから2時間ほどで、金山で昼食をとった。富士山が真正面に見え、東に行くと十二ヶ岳、西に行けば鬼ヶ岳から王岳に続く地点だ。
・そこから北に向かい、節刀ヶ岳でパノラマの景色に見とれた。下の写真には左が十二ヶ岳から毛無山、そして河口湖と富士吉田の町が写っている。右の写真は南アルプスだ。アルプスの先には甲府盆地がひろがっていた。精進湖のパノラマ台よりもっとスケールの大きい風景で、まさしく絶景と言えるものだ。


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・山中湖から御殿場に行く途中にある籠坂峠を歩いた時に、帰りがけにストーブ用の薪を買った。断面積の総計が2立米で長さは2m、運び賃込みで35000円だった。2t車いっぱいの量で30本ほどだが、一冬使う量の半分だろう。もちろん、この冬ではなく、次の冬のために使うものだ。もうすでに一日中燃やしていて、積んだ薪もかなり使った。これから、家の南面をあけて、そこに新しい薪を積んでいく。切って、割って、積んでと大汗をかく作業だが、同時にペンキ塗りも始めた。薪に隠れて作業ができなかったところを、薪を移動させては塗っている。今年は暖冬だという予報だが、雪が積もる前にやり終わらなければならない。

2009年11月23日月曜日

ディランとスティングのクリスマス

 

・ディランの"Christmas in the heart"は楽しいアルバムだ。1曲目から「サンタクロースが今晩やって来る」と歌うディラン自身の声が弾んでいる。全曲が有名なクリスマス・ソングでおなじみだが、あのだみ声で歌われると、やっぱり、ディランの歌になってしまうから不思議だ。クリスマスまではまだだいぶ日にちがあるが、我が家では夕方暗くなり始める頃に毎日かけている。

・大不況でアメリカの失業率は10%を超えている。クリスマスどころではない人が大勢だが、ディランはこのアルバムの印税を全額寄付するようだ。ディランのオフィシャル・サイトには発展途上国の子どもたちに50万食、イギリスのホームレスに1万5千食、そしてアメリカの140万の家庭に 400万食の食事を提供するだろうと書いてある。もちろん、これは目標だが、このサイトでは印税の他に募金も求めている。今度のクリスマスには、ディランがサンタになって、大勢の人の飢えを癒すことになる。

dylanxmas.jpg・ディランに孫がいるのかどうか知らないが、このアルバムを聴いていると、ディランが小さな子どもに囲まれて歌っている姿をイメージしてしまう。しかも、何の違和感もなく自然に思える。ところが、ブログを検索していたら、孫の前で歌って泣かれた話が出てきた。本当なのかどうかわからないが、このクリスマス・ソングだったら喜ぶだろうと思う。
・彼は相変わらず精力的にコンサート活動をこなし、ラジオでは20世紀のポピュラー音楽の講義を続けている。今年は新しいアルバムも出した。きわめて自然体で、好きな音楽とともに生きている。どこに行って、誰の前で、どんな歌を歌うのか。その幅の広さは年の功だが、いずれにしても薄っぺらでない深みを醸し出すのは、彼が歩いてきた歴史以外の何ものでもない。

stingwinter.jpg ・ほぼ同時に出たスティングの"If on n winter night......"はきわめてまじめだ。静かで厳粛なサウンドでできあがっている。歌われているのはイングランドやスコットランドで歌われているクリスマス・ソングで、聴いているとジャケットの写真のような雪景色をイメージするし、イギリスに出かけた時に見かけた石でできた田舎の小さな教会を思い出す。まだ聴いていないが、スティングの前作もまた、イギリスに伝わる古謡を集めて、彼なりにアレンジしたものでできているようだ。クリスマスのアルバムを聴きながら、そっちも聴いてみたい気になった。

・ちょっと前にBSでスティングのライブを見た。アルゼンチンのブエノスアイレスでの収録だったと思う。例によってベースを弾くスティングのバックにはドラムとギターしかいなかった。シンプルなサウンドでいつもながらに歌うスティングの声や姿は10年前に大阪で見たのと変わらなかった。肌や声がしわしわになったディランはなるがままという感じだが、スティングからは節制に徹する求道者のような雰囲気を感じる。今度の2枚のクリスマス・ソングには、そんな二人の違いがくっきりと映し出されている。

・今頃になって、Youtubeを見始めている。公式に提供されたU2のコンサートをダウンロードして何度か聴いた。よくできたコンサートで、歌われている曲目も新旧盛りだくさんでなかなかいい。しかし、太ったボノはいただけない。若いままである必要はないが、それなりのふけ方が必要だ。なにより、ボノに贅肉は似合わないだろう。

2009年11月16日月曜日

ベルリンの壁

・ベルリンの壁が崩壊して20年になる。ドイツでは盛大な式典が催されたようだ。その特集番組がNHKのBSでいくつかあった。意外な気がしたのは、現状を批判して、壁の復活を望む人たちがいる反面で、壁の存在やその意味をほとんど知らない子どもたちがいることだった。それは、壁がなくなって20年も経つのに、ドイツ人の中にある意識の壁が未だになくなっていないことと、20年も経つと、壁自体の意味がなくなってしまっていることの両面を教えてくれた。

・第二次大戦後にドイツは東西に分割されたが、東ドイツに位置するベルリンもまた二つに分断された。とは言え、市民の中には東に住んで西の大学に通ったり、住居は西で職場は東といった人も少なくなかったから、道路も鉄道も自由に往来できた。だからまた、東から西への亡命も比較的簡単だった。壁ができたのは分断から16年たった1961年である。その時から、東から西への亡命はきわめて困難になったが、それだけではなく、ベルリンの東西を行き来して生活していた人たちの中には、家族や恋人、友人関係を分断され、職場や学校に通うことができなくなった人たちも数多くいた。ドイツで制作されたドキュメントには、突然行き別れにされた学生結婚をしたカップルの脱出作戦と失敗、拘留と裁判、そして再会が本人のことばによって再現されていた。

・ベルリンの壁は徐々に堅固なものになり、およそ30年の間、一つの都市を分断し続けた。一つの都市が政治体制の対立を理由に引き裂かれ、行き来が自由にできなくなる。しかし、ラジオやテレビの電波は、壁を乗りこえて伝播する。東と西の対立はまた、互いを批判し、自らの正当さを主張し合う情報戦争の舞台でもあった。西からは自由な言論や表現と、豊かな物質文化を謳歌する声が発信され、東からは国家が保障する平等で安定した暮らしが宣伝された。そのような対立は、ソ連の揺らぎと共産圏諸国の混乱によって崩される。ベルリンの壁はそういった第二次大戦後の世界情勢の象徴として存在し、冷戦構造の消滅の象徴として壊された。

・壁を懐かしむ旧東ドイツの人たちは、西側の貧富の格差や不安定な生活を批判する。物質的には豊かでなくても、国によって保障された安定した生活を懐かしむ。しかし、そういった態度が、旧西ドイツの人たちから、怠け者として批判される理由になる。壁のあった30年の間に生まれたイデオロギーから生活スタイルの違いが、東西に分断されて来た人たちの意識に壁を作っていて、それが対立の原因になっている。だからいっそ壁を作って、昔の東の世界に戻りたいという気持ちを募らせることにもなるのである。

・放送されたドキュメントには東ドイツのライプチヒで起こったデモと取り締まりの過程と、当時を振り返る人たちのコメントによって構成された番組もあった。監視され、統制された世界から自由な世界への希求が小川から大河になる。それは一大ドラマのようだが、20年経って実現した社会は、ユートピアにはほど遠かった。けれども、豊かで自由に思えるけれども、幸福だと感じにくい社会という実感は、旧東ドイツの人たちだけが持つ思いではない。東への郷愁と片づけるのではなく、西への批判として受けとるべきことだと思った。

2009年11月9日月曜日

インターネットの現在・過去・未来

 

ジョナサン・ジットレイン『インターネットが死ぬ日』ハヤカワ新書
ジェイムズ・ハーキン『サイバービア』NHK出版

internet1.jpg・新聞やテレビが死ぬ日ならわかるが、インターネットの死ぬ日というのはぴんとこない。そう思いながら『インターネットの死ぬ日』を読んでみた。原題は「インターネットの未来」で、この方が内容を的確に表している。
・この本によれば、インターネットの未来が問題なのは、あまりに巨大になりすぎた現状にある。ただし、それは大きさ自体にではなく、大きくなったゆえに政治力や資本に左右され、専門家や大企業だけに任されるようになってきた点、あるいは何より、安心して便利につかえることが最優先されるようになったところにある。インターネットは草の根の民主主義から生まれたメディアで、新聞や雑誌、ラジオやテレビとはまったく異なる形で発展してきた。その本来のメディア特性が、巨大化したことで失われつつあるというのである。

・20世紀に新しく生まれたさまざまなメディアや道具の多くは、完成品として特定のメーカーが生産し、商品として売られてきた。だから利用者には、そのハードもソフトも、自ら改良して使いやすくしたり、新しい機能を追加することなどはできなかった。不満を聞いて改善するのはあくまでメーカーの責任と権利で、それが次の新商品のセールス・ポイントにもなってきたのである。ユーザーが勝手に手を加えることは主として安全性の観点から法律で厳しく規制されてきた。しかし、パソコンとインターネットはまるで違う。

・インターネットとパソコンの特徴は,さまざまな人びとが夢を描き、アイデアを出し、実用化し、改良してきたことにあり、それを無料か少額の使用料で共有し合ってきたことにある。パソコンはAppleやIBMが商品化し、日本をはじめ世界中にメーカーが開発にしのぎを削ってきた。それを動かすソフトはMicroSoftの独壇場だが、新しい世界の開拓には、無数の人たちによる自由な競争や協力の成果であるものが少なくなかった。インターネットはまさに、その好例だと言えるだろう。

・ユーザーを利用だけに限定して、製品やサービスの機能の改善や開発はメーカーがおこなう。ジットレインは、パソコンやインターネットが、そういった発想の通用しないところで発展したことを力説する。そして同時に、巨大な企業によるユーザーを利用者として限定する新たな戦略の普及に危惧を抱く。ハードもソフトもブラックボックスになっていて、利用者には手も出せない。その例としてIphoneやXBoxの普及をあげるのだが、日本のケータイはその典型だと言えるだろう。

cyburbia.jpgg ・パソコンやインターネットの登場と草の根の民主主義の関係には60年代の対抗文化の影響がある。ジェイムズ・ハーキンが主張するのは、そのまた源流として、ノーバート・ウィナーのサイバネティックスの発想だ。サイバネティックスは情報は一方的な流れではなく相互のもの、つまり一つの情報が発せられた時には、すぐにそれに対するフィードバックがあり、そのやりとりがくりかえされることが重要だと考える。多様な人たちが平等に参加し、自由にやりとりすることで誤りや誤解が正される。それは権力による大衆操作に抗する力にもなる。パソコンとインターネットは、そんな発想に基づいて蓄積された情報の産物であり、それを可能にしたメディアだというのである。

・パソコンとインターネットはハードもソフトも、誰もが自由に参加して、新しい使い道を探し、改善できるメディアである。だからこそ、ウィルスが蔓延したりもする。商品として売られている映画や音楽が無償でダウンロードされて被害を被ったりもする。そういったリスクを防いで安全に使えるメディアにすることが何より必要だと考えれば、それに応じてさまざまな制限が施されることになる。しかしそれは、当然、これからも生まれるはずの可能性を摘むことになるし、人びとを受け身のユーザーに限定していくことになる。インターネットの未来は確実に、国家や企業のもとに舵きりがされはじめているのである。

2009年11月2日月曜日

秋の山歩き

 

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パノラマ台から本栖湖、その向こうの山は龍ヶ岳と雨ヶ岳

・10月になってから毎週山歩きをしている。車で出かけて3〜4時間ほど歩くのだが、すべて、付近の山ばかりだ。当然、山頂に登って見るのは富士山ということになる。冠雪して消えたと思ったら、また冠雪。そのたびに、雪の量が多くなり、やがて根雪になって、上半分が真っ白になる。山に登ると、そんな経過がいっそうよくわかる。

photo53-2.jpg・富士吉田市の東に杓子山がある。河口湖インターから高速に乗ると、すぐに右手に見えるひときわ高く、尖った山だ。いつも気になっていたが、その登山ルートの途中にある高座山(たかざす)まで行くことにした。明見(あすみ)から忍野に抜ける山道を鳥居地峠まで車で行くと、歩くのは1時間ほどで頂上に着く。ただし、ほとんど一直線の山道で、ロープがなければ上り下りが難しい場所もあった。木を切った後の茅場からは、忍野の村と北富士演習場、そして富士山が間近に見えた。長年、入会権を巡って闘ってきた「忍草母の会」のシンボル的な存在だった天野美恵さん(85歳)が亡くなったという記事を見たばかりだった。演習場からは大きな砲撃音が聞こえた。頂上には必死に登る小学生の一群。


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・百藏山(ももくら)は中央線の猿橋駅の北にある。中央高速で岩殿トンネルを抜け葛野川橋を渡る頃に左手に見えてくる山だ。大月市の百藏浄水場に車をとめて歩いたが、ここもきつい登りだった。汗びっしょり。1時間半ほどで頂上に着くと、眼下の桂川と遠くの富士山がよく見えた。

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・パノラマ台は精進湖と本栖湖の間にある。三つ峠から続く御坂山系の西端で、富士山に向かって突き出ている。この先にもうひとつ烏帽子岳があるが、眺めはまさにパノラマで、360度見渡せる。広葉樹の森はブナやケヤキなどをはじめ種類が多様で紅葉もすばらしい。栗やドングリがいっぱい落ちていて、栗ご飯用に十粒ほど拾った。

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photo53-9.jpgphoto53-10.jpgphoto53-11.jpgphoto53-12.jpgphoto53-13.jpg
左から精進湖、王岳、十二ヶ岳、遙かに三ツ峠、西湖、河口湖、手前の烏帽子岳、眼下の樹海、富士山、朝霧高原、龍ヶ岳

2009年10月26日月曜日

恩人の死

・仲村祥一さんが亡くなった。もう一月ほど前のことで、「誰にも知らせるな」という遺言だったようだ。ご高齢(85歳)とは言え、井上俊さんからのメールを読んだ時には驚いたし、からだから力が抜けた思いだった。

・仲村さんと僕の関係については、彼が75歳の時に出された『夢見る主観の社会学』(世界思想社)をレビューした時にふれた。読み返してみると、それ以降、年数回の手紙のやりとりだけで、一度もお会いしなかったことに気がついた。勤務先の大学を変えて引っ越す前にお会いした時に、「今生の別れになるかもしれん」と言われて、まさかと思ったが、本当にあの時が最後だったわけで、一度お訪ねすべきだったと、今になって反省している。


教員生活を50年してきたが、納得しがたい命令に従うのが嫌いでこの業界に入り、抵抗できる他者には我を通し、妥協の余地ない組織からは身をそらし、「思想の科学研究会」的な勝手連は別として、どのような政治団体にも加わらず、教え子たちにも我が見るところは明言しても好き勝手に勉強せよと励ます式に五つほどの大学を転々としてきた。私はしたくないことをできるだけ回避し、したいことが可能な方へと生活を導いてきたらしい。

・非常勤の時代から数えれば、僕の教員生活もすでに30数年になる。仲村さんの生き方を真似たわけではないが、ほとんど同じ思い、同じ姿勢でここまで生きてきた。「したくないことをできるだけ回避し、したいことが可能な方へと生活を導く」。こんな自分勝手な生き方は、仲村さんと出会わなかったらできなかったかもしれない。その意味では、彼は僕にとって一番の師と言える。

・歳相応と言えばそれまでだが、身近な人や気持ちの通じる人がいなくなるのは寂しいことこの上ない。今年はそんな二人が続いたから、心にぽっかりふたつ、穴が開いてしまった気がしている。

2009年10月19日月曜日

祭日と授業日数

・今年度から、大学の年間の授業回数が1科目30回になった。もちろん、文部科学省からの指導で、日本全国、どこの大学でも、そのスケジュールに改変させられている。とは言え、回数が増えたわけではない。祭日などで減る授業数を、減らさずに実行しろというお達しなのである。しかし、そのために、年間のスケジュールはきわめてタイトで変則的にならざるを得なくなった。とりわけひどいのは月曜日だ。他大学に勤める友人や知人とのメールのやりとりでも、このことがまず話題になることが多くて、どこも対応に苦慮していることがよくわかる。

・後期の授業は9月の第3週から始まった。しかし5連休で月火水が最初から休みで、月曜日はその後も10月12日、11月23日と祭日がある。それに加えて11月の第1週は大学祭で2日が休みになる。つまり、11週で4回休みになるわけだが、その分をどこかで穴埋めしなければならないのである。一方で月曜日を祭日にしておきながら、他方で授業回数を減らすなという国の政策は、まさしく「ダブルバインド」で、奇妙なスケジュールを組むことを強いる結果になっている。つまり、祭日でも授業をおこなうとか、他の曜日におこなうといったもので、これまではあまり気にする必要のなかったスケジュールの確認や、他の仕事との調整に気をつかわなければならなくなったのである。

・おかげで夏休みの開始が8月になってからになったし、学年末のスケジュールも、試験期間、採点や成績の提出が入学試験と重なって、春休みも短縮された。さまざまな業務で飛び飛びに出校しなければならないから、休みという感じがしないままに、新学期が始まるようになった。これでは落ち着いて仕事もできないし、長期間の旅行もままならない。文科省は一方で大学教員の研究業績にもシビアな目を向けるようになったから、大学の教員は教育と研究の二つの仕事について、これまで以上に勤勉になることを強いられている。

・しかも、学生の獲得を巡る競争は大学間でますます熾烈になっている。少ないパイを定員増という形で奪い合うから、条件のよくない魅力に乏しい大学は定員割れで存続の危機にも立たされている。そんな大学が全国で半数近くになろうとしているのが現状なのである。教育と研究の他に学務や広報に時間とエネルギーを割くこともまた、大学にとっては重要なことだから、大学の先生は、どこも休む間もなく働かされるのである。

・授業の回数を増やして、休まずにやる必要が出てくる原因は、大学生の学力低下にある。しかし、皮肉なことに、大学生はますます、授業さえ出ていれば勉強をしていると錯覚するようになっている。知的好奇心にしたがってさまざまに関心をもつことはもちろん、自発的に予習や復習をやることもない。問題意識を持たずにただ教室に来て座っているから、言われなければノートもつけないし、注意すると、話したことは何でもメモをするようになる。手取り足取りでやれば、それだけ受動的で他力本願な態度になるのは当然で、そういう扱いを、生まれた時からずっと受け続けているから、自主的になどと言ってもどうしたらいいのかわからずに、途方に暮れてしまうのである。

・大学が大学と言える場ではなくなってきている。文化の発信基地ではないし、魅力的な人材が育つ場でもない。忙しくて、息苦しくて、何をやっても徒労感ばかりが募ってしまう。大学は時間に余裕がある場だからこそ、新しいものが生まれ、人も育つ。形式的な勤勉さは百害あって一利なしなのである。

2009年10月12日月曜日

団塊再び

・民主党が政権を取ったことで、また、「団塊」ということばを目にするようになった。鳩山をはじめ政権の中枢部に団塊世代が多いからだ。そういえば、自民党には団塊世代と言える有力な政治家は見あたらない。大学紛争やカウンター・カルチャーの世代だったから、当たり前かと思うけれども、改めて、自民と民主の違いに気づかされた

・選挙後の動向を見ていると、政治が大きく変わりはじめていると思う。僕は民主党を支持しているわけではないけれども、その変化には、これまでにない新鮮さを感じて、期待したい気がしてしまう。予算の使い方の大幅な見直しやアメリカとの関係の仕方といったことはもちろんだが、何より、イメージとして印象が強いのは、テレビに映る鳩山夫妻の姿だろう。

・飛行機のタラップから手をつないで降りる二人はきわめて自然で、わざとらしさがほとんどない。それが普段の生活そのままであることは、感覚的によくわかる。同様のことは菅直人夫妻にも以前から感じていたことだが、それは、僕自身が普段している夫婦の関係の仕方に共通した特徴であるからにほかならない。

・僕は「団塊の世代」というくくり方には、以前から異議を唱えてきた。それはこの呼び名が広まったのが、当の世代が三十代になろうかという時点だったことと、数が多いという以外に、何の特徴も意味していない、身も蓋もないことばだと思ったからだ。この世代は、「団塊」と名のつく以前には「全共闘世代」「ビートルズ世代」などと呼ばれていたし、アメリカでも「ベビーブーマー」のほかに「緑色世代」「ヒッピー」「対抗文化」等々さまざまな名がつけられていて、それらはすべて、中身の特徴をあらわしていたのである。

・僕にとってこの世代の特徴は、何より「ライフスタイル」への自覚にあると思ってきた。生活の仕方、人間関係の持ち方について、従来の常識を疑い、新しいものを模索する。それは一方で、社会全体に大きな影響を与える力も持って、今では当たり前のものになった部分もあるけれども、ほとんど忘れられてしまった側面も少なくない。結婚した夫婦が作る関係は、日本では明らかに後者に属していて、そのことは後の世代でもあまり変わっていないと言えるだろう。

・僕が結婚した頃に「ニュー・ファミリー」ということばがはやった。対等な関係で、家事や育児も分担する。そんな生活の仕方が注目を集めて、実践しながらそのことを本に書いた僕のところに新聞やテレビや雑誌がよく取材にきたのは、もう30年近くも前のことだ。僕はそのことをずっと自覚しながら生活スタイルを実践し、記録し、考察もしてきたが、実際に夫婦関係のスタイルは、30年たった今でも、あまり変わっていないと言える。特に僕の世代の人たちの多くは、昔ながらの関係に収まってしまっている。

・僕が鳩山や菅夫妻に感じるのは、「ニュー・ファミリー」の洗礼をライフスタイルとして実践し、定着させたカップルだという仲間意識に近い印象だ。それは「団塊」世代から始まったスタイルだが、「団塊」世代に共通したものでは決してない。むしろ、ごくごく少数の人だけに見られる特徴だろう。だからこそ思うのだが、世代が一緒であることで感じるのは共通性ばかりでなく、同じ時代を過ごしたのに「なぜ?」と思う違和感のほうが遙かに多いのである。保守とか革新とは何より、身近な生活の中でこそ検証できるものなのである。

2009年10月4日日曜日

自転車ブーム


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本栖湖を自転車で一周してカヤックを漕ぐ

・今年の夏休みには河口湖と西湖を、およそ30回ほど自転車で回った。距離にしたら650キロほどだろう。一年前のこの欄では河口湖を10周以上したと書いてあるから、この夏は去年の三倍も走ったことになる。せっせと漕いだおかげで、ベルトの穴二つ分だけ腹が締まったし、河口湖一周では2度ほど50分を切った。もちろん、今も続けていて、寒くなる11月の末ぐらいまでは続けられるだろうと思う。最近では、雨が降って出かけられないと、何となく物足りない気にもなっている。

forest78-3.jpg ・速く走るようになれば、転んだ時の怪我が気になってくる。で、夏前にヘルメットを買った。ところが、ちょうどその頃から、すれ違ったり、追い越されたり、追い越したりする自転車の数が目立つようになった。夏休みの週末などには、一周する間に数十台の自転車と出会うようになった。これは去年にはなかったことで、急なブームに驚いてしまった。しかも、半分以上の人はヘルメットを着けているし、そのまた半分はウェアも身につけている。年齢はというと、僕と同じか少し若い人たちが多い。メタボ解消に自転車を、といった意図がありありで、一緒に走るのがちょっと恥ずかしくなった。だから、走りたくても週末は我慢することもあった。

・この自転車ブームの火付け役は、いったい誰なのだろうか。そういえば、夏にNHKのBSでは、ウィーンからプラハまで500キロ(茂山宗彦と黄川田将也)とフランス国境からからローマまで1200キロ(蟹江一平と猪野学)のツーリングをやっていた。若いから上り坂でも思いっきり漕いで登るし、雨でも走ったようだ。ツールド・フランスに日本人の選手が出て活躍したり、レーサーの片山右京もサイクリング・ツアーのコラムを新聞に書いている。車やオートバイよりエコだし、マラソンよりは体への負担が軽いからだろうか。

forest78-2.jpg ・漕ぐのに慣れて、それなりに早く走れるようになると、もっと速く走っている人が気になるようになる。だから、すーっと追い抜かれたりすると無気になって追いかけたくなるが、それはきっと、自転車のせいだと思って追わないことにした。僕の自転車はロードとマウンテンに共用できるクロスバイクだからタイヤが太いし、折りたたみだから部品も多く、フレイムも頑丈にできている。当然重いわけで16kgもある。ロード専用の自転車はタイヤが細くて、フレイムも軽量にできているから8kgほどしかない。速く走ろうと思ったら軽い自転車にするのが一番だが、値段は10万円を越えるのが普通だ。

・仕事が始まって少し疲れが残っていたが、10月になって最初のサイクリングは、西湖まで行ってきた。途中80mほどを一気に駆け上がるので大変だが、その一番きついヘアピン・カーブを登り切ったところで、大きな山栗を二つほど見かけた。しかし、止まってしまうと後が続かないので、そのまま漕いで帰りに拾うことにした。西湖を一周して帰り道を下ってくると、大きな栗の木があって、その下に、栗の実がいっぱい落ちていた。ポケットいっぱいに詰め込んだが、思わぬ収穫だった。我が家の周辺で採れる栗の何倍も大きな栗だから、皮をむいたら冷凍にして、正月の栗きんとんにとっておくことにした。

 

2009年9月27日日曜日

BOSEの音


・夏の間も、一枚のCDも買わなかった。だから、このコラムで紹介する CDもないのだが、Amazonで探しても、気になるものは何もない。ビートルズのリマスター盤が話題になったり、マイケル・ジャクソンが相変わらず売れていたりといった状況は、音楽の夏枯れそのものを象徴しているように思えてしまう。もうCDも溢れるほどあって、毎日聴くものに困ることもないのだが、新しいものがないと、何となく物足りない。

beck1.jpg ・ジェフ・ベックとエリック・クラプトンが2月に日本で競演をした。それにあわせてNHKが放送したジェフ・ベックのライブが気に入ったのですぐに購入した。もう60代半ばだというのに昔のままの痩せたからだで、ピックを持たずに演奏する姿に興味を持った。隣でベースを弾いていたのが孫ほども年の違う少女だった。実は、彼のCDは一枚も持っていなかった。レコードもロッド・スチュアートがヴォーカルをやっていた当時の"Truth" (1968)一枚だけだから、懐かしいと言うよりは、はじめてじっくり聴いたという感じだった。その後何枚かCDを買ったのが、最近購入したCDということになる。

・iTunesにGeniusという機能がついて、一つ曲を選ぶと類似したものを集めてくれるようになった。 iPodでは、それを使って作ったリストばかりを聴いている。だから、CDそのものは、買ってしばらくの間だけということになってしまっているのだが、そのCDを何ヶ月も買っていないから、CDをかけないことが普通になってしまった。こんな状態が続くと、音楽をCDで買う習慣も忘れてしまうかもしれないと思ったりもしている。とは言え、まだ一度もiTunes Storeで買ったことはない。

bose1.jpg ・もっとも、パートナーの工房ではCDがかかっている。しかし、そのCDプレイヤーが壊れて、新しいものを買うことになった。彼女はシンプルで安いのでいいと言ったのだが、僕は前から気になっていたBOSEのWave Music Systemを勧めた。以前に御殿場のアウトレットで聴いて、いい音が出ると思っていたからだ。コンパクトだけど他社の製品に比べると随分高いし、まったく値下げをしない。性能に自信があるのか、薄利多売を嫌っているのかわからないが、Amazon経由で買うことにした。

・注文すると数日で届いた。さっそく工房のロフトにおいて聴いてみたが、確かに音がクリアで低音が効いている。建物(鉄骨、モルタル床)のせいか音が堅い感じがする。置き場所にもよるのだろうと思って、母屋に持ってきて聴いてみた。ある程度ヴォリュームをあげると、室内によく響く気がした。しかし、壁に吊ったBOSEのスピーカーのほうがやっぱりいい。本体にはボタンが一つもない。すべてはリモコン操作だが、ヴォリューム以外に音質を調整する機能は何もない。いい音はこれ以外にないという姿勢だが、場所によって音は随分違うから、聴く者に選択する余地を持たして欲しいと感じた。

・工房の決まった場所で、同じヴォリュームで、作業の邪魔にならない程度に心地よい音楽を鳴らす。そういう意味では、悪くないと思う。

2009年9月21日月曜日

模倣とミラーニューロン

 

Tarde.jpg・「模倣」という行為は、得てして低い評価をされがちだ。コピーではなくオリジナル、偽物ではなく本物、ものまねではなくクリエイティブなものをというのが、一般的な発想だろう。しかし、人間にとってほとんどの能力は、まず「模倣」から始まるのも事実なのである。そしてその重要性は、さまざまな社会学者によって繰りかえし強調されてきた。

・たとえば、群集や公衆の分析で有名なタルドは、その『模倣の法則』のなかで、「模倣」が生殖に匹敵する社会的な反復作業だと指摘している。つまり、生殖が遺伝子情報の伝達であるように、「模倣」は社会や集団に記憶された情報の伝授だというのである。誰に習わなくても本能としてできることと、まねをし、学習をして身につけることの違いと考えたら、それは生物全般に共通した、生きるために必要なふたつの情報や能力だということはわかるだろう。そして、人間には、他の生物に比べて、圧倒的に、後天的に身につけなければならないものが多いのである。

・このことは、自分が誰であるかを確認する「アイデンティティ」ということばに注目したらよくわかる。それは何かに「同一化」することによって自分を確定させる行為であって、もともとあったものを見つけることではないのである。これはフロイトの「超自我」、G.H.ミードの「me」、そしてエリクソンの「アイデンティティ」などに共通した認識である。ただし、そうして自覚していく「私」という意識が、自分のからだ、とりわけ脳のなかのどこにあるのかということは、つい最近になるまでほとんど問題にされてこなかった。脳のどこかと考えることはあっても、それは何か神秘的な領分として、曖昧にされたままだったのである。

neuron2.jpg ・ところが、最近の脳科学のめざましい進歩が、人間の意識や能力について、脳のどこの部分のどんな働きによっておこなわれ、制御されているのか、といったことが明確になりつつある。脳のなかで情報の処理と伝達をおこなう組織は「ニューロン」と呼ばれる「神経細胞」である。その動きは、具体的には電気と化学物質によっておこなわれるから、さまざまな実験をして、その動きを突きとめれば、何をした時に脳のどの部分でどんな働きが起こるのかがわかるのである。

・「ミラーニューロン」は別名、「ものまねニューロン」と呼ばれている。他者が何かをしている時に、それを見るという行為のなかで、脳が反応する部分は、同じことを自分がする時にも同様の反応をする。それはたとえば、何かを手に持つという行為や、何かを食べるという行為など、ありとあらゆることに及ぶものである。しかも、同様の反応は猿などにも見られるが、人間は比較にならないほど強く複雑であるようだ。もっとも、発見のきっかけになったのは猿を実験した時の思わぬ結果からだった。

neuron1.jpg・「ミラーニューロン」を発見したのは、『ミラーニューロン』の著者であるイタリアのパロマ大学に所属する、ジャコモ・リゾラッティとコラド・シニガリアを中心としたチームである。もう一冊の『ミラーニューロンの発見』はアメリカのUCLAに所属するマルコ・イアコボーニが書いている。その発見の当事者たちと、研究仲間という違いがあるが、二冊の本に書かれていることはよく似ている。

・「ミラーニューロン」は人間という生き物に特に顕著に見られる脳の組織で、「模倣」という行為に大きく関連したものである。ということは、「模倣」は常識的に考えられているように低級な行為ではなく、きわめて高度な能力なのだということになる。だからこの本を読んでの教訓は、けっして「模倣」を馬鹿にしてはいけないということだろう。人間のクリエイティブな能力は、「模倣」によって獲得した土台があってはじめて発揮されるものである。そうであれば、オリジナリティへの評価は、もっと相対化して考える必要がある。

2009年9月14日月曜日

テレビの凋落

・民放テレビ局の業績が悪化しているようだ。直接的には不景気で広告収入が減ったことが原因となっている。どの局も似たようなバラエティで時間を埋めていれば、飽きられるのも当然だし、もっと大きな理由はほかにあるはずだ。そのことがわからないとすれば、惨敗した自民党と同じで、権力に安住して民意が離れてしまっていることに気づかないとしか言いようがない。

・テレビにとって一番の強敵はインターネットで、その力関係が逆転しはじめているのは明らかだ。新聞はすでに大きな影響を受けていて、ネットを前提にした上で、新聞が生きのこる道を真剣に考えはじめている。これも今さらというほど遅い対応で、新聞もテレビも自民党のおごりや怠慢ぶりを批判できる立場にはないはずなのである。

・新聞は印刷されて各戸に配達されてきた。その仕組みが収縮していくことは明らかだが、それに代わってどういう形で生きのころうとしているのだろうか。テレビはNHKと民放数社が全国をカバーして、たがいに視聴率を競ってきた。衛星放送(BS,CS)やケーブルテレビは、日本ではあくまで数局の地上波を補完する位置づけでしかない。地上波がデジタルだけになった後にできる空きチャンネルも既存の局が支配すれば、衛星放送並の位置づけでチャンネルが増えるだけのことでしかない。

・インターネットは回線で世界中をつなげたものだ。しかし、地デジであいた電波領域をつかって無線のブロードバンドも可能だと言う。アメリカではGoogleがそういった理由を主張してアメリカ政府に要求していいるそうだ。そうなれば、プロバイダーと契約してインターネットに入る必要もなくなるのだろうか。あるいはNTTやKDDなど電話の会社が支配権を巡って争うことになるのだろうか。

・ボブ・ディランが第二次大戦後にラジオから流れた曲を集めて、衛星ラジオで何度もレクチャーをした。その番組や、そこで紹介された歌が続々CD化されている。もちろん、その中身もおもしろいが、人工衛星を使ってラジオやテレビの放送が可能で、しかも巨大なネットワークではなく、小さな独立局が個性豊かな番組作りをしていることに興味を持った。新しい可能性ができた時に、それを手にしたり、つかったりする権利は、アメリカでは誰にでも平等に開かれているのが原則だ。ところが日本では、電波は国が完全に管理していて、市販されている発信器をつかったごく小規模の放送でさえ、つい最近まで認められてこなかった。これでは新しい動きは起こりようがないのである。

・受信料の不払いで業績を悪化させていたNHKの収入が回復傾向にあるようだ。お金を払ってもらうためにはいい番組作りをという姿勢が評価されたのかもしれない。確かに、民放とは比較にならないほど見応えのある番組が少なくない。地上波2局にBSを3局もっているから個々の民放と比較しても仕方がないが、全部まとめてもNHKの方が上と言えるような気がする。少なくとも我が家では、テレビを見ている時間の8割以上はNHKだ。

・テレビの視聴時間に減少傾向が見られたのは2004〜5年と言われている。毎年10分ずつ減りつづけているという統計もあるが、その大半は民放のようだ。気づいたら、誰も見てくれなくなったといったことが遅からずやってくる。そんな危機意識が画面からはまったく感じられないから、いい気なものだと思ってしまう。

2009年9月7日月曜日

Adobeに腹が立った!

・僕が一番使うソフトはアドビの”In Design"と"Photoshop"だ。"Illustrater"はあまり使わないが、CSになってからパッケージされたものにしてCS2、CS3 とアップ・デートをしてきた。"inDesign"の使い勝手は、実際、アップデートしてもほとんど変わらないから、する必要はないのだが、大学のパソコン教室(メディア工房)に合わせないと何かと不便だから、渋々おこなってきた。

・このソフトはCS2になってからネットを介してライセンスの認証登録が必要になった。2台のパソコンで使用することはできるが、それ以上の場合には、使うたびに登録の変更が要求されるのである。僕は自宅と研究室のパソコンのほかに持ち運びできるMacbookを一台もっている。出かける時には必ず携行するが、自宅でも、使う場所を自由に変えられるから、登録の変更をしては3台で使い分けてきた。

・ところが8月の中旬頃から、ライセンスの認証の登録の変更が急にできなくなった。Adobeに電話をすると、制限回数を超えたためだという。そんな注意書きはどこにもないはずなのに、もう変更はできないの一点張りでとりつく島もない。しかも、1本のソフトは2台のパソコンにだけインストールをすることが許可されていて、3台に入れるのは違反だと言う。そうではなくて、ユーザーひとりに1本ではないの?と聞き返しても、向こうが設けた規則を繰りかえすだけだ。話をしながら、だんだん腹が立ってきた。

・登録の変更が駄目だという画面がネット上にでた時に、「追加のライセンスがオンラインですぐに購入できます」という文面が出るのだが、これをクリックしてAdobeのサイトに行っても、どこでどういう手続きをすれば購入できるのかまったくわからない。そのことを問いただすと、それはアメリカだけの話で日本では駄目だという。だったら、なぜ、そんな文面を出しているのかと問いかえすと、英語の文面をただそのまま訳しているだけだと言う。もう本当に腹わたが煮えくりかえる思いだった。もちろん、アメリカではいいけど日本では駄目という理由も聞いたのだが、何の返答もなく、削るようにしますと言っただけだった。

・僕は、文章の作成をずっとDTPソフトでやってきた。1989年にマッキントッシュのSE30を買った第一の理由が"PageMaker"を使ってDTP(卓上印刷)ができることだったからだ。Aldus社をAdobe社が買収して、 ”Pagemaker"は販売されなくなり、代わって"InDesign"が売り出された。改善はいろいろされたと言うが、僕の使い方では"PageMaker" とほとんど変わっていないし、かえって、用もないものが余計について値段が高くなるばかりで、ちっともいいことはないと思ってきた。

・ソフト会社がコピーによる不正利用に苦慮している現状は、それなりに理解をしているつもりである。だから、ライセンス認証の登録そのものに反対するつもりはない。けれども、ユーザーが一本のソフトをどのように利用しているのかについて、もうちょっと融通性があってもいいと思う。20年近くにわたって使い続けているユーザーが不満に思ったり、不審に感じたりすることには、もうちょっと慎重であるべきだし、それなりの対応もすべきだろう。

・実際、もう"InDesign"を使うのはやめてしまおうかと思っているが、残念ながら、安価でシンプルで使いやすいソフトは見あたらない。当分使い続けるしかないと思うと、またいっそう、腹が立ってくる。

2009年8月31日月曜日

千客万来

 

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・ぐずついた天気でちっとも夏らしくなかったが、お盆あたりから太陽が照りつけるようになった。で、京都や東京から来客が続いた。その客を迎えるために、家のログや屋根の裏側のペンキを塗ることにした。はしごを使っても届かないところや、屋根の裏側を塗るためにJマートでローラーを買った。半信半疑だったが、これがなかなかの優れもので、いつも気になっていた白カビなどもきれいに塗ってしまうことができた。一部をきれいにすると、他との違いが目立ってくる。だから、玄関のログや屋根裏も塗った。上を見ながらの作業だから、当然、首と背中が痛い。
・京都からやってきたキミちゃんは友人の娘だが、短大を出た後ニュージーランドで暮らしていたと言う。山好きで、この後、単独で鹿島槍ヶ岳に行くと言って大きなリュックを担いでやってきた。思わず「ひとりで?」と聞いてしまったが、それは日頃接している、最近の学生とずいぶん違う印象を受けたからだ。陶芸を体験し、自転車で河口湖も西湖も走り回った。

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・そして、後半は、大学院の学生、OBたち。『カルチュラルスタディーズを学ぶ人のために』(クリス・ロジェク著、世界思想社)の出版パーティを我が家でやり、編集を担当していただいた川瀬さんも京都からおいでくださった。庭でのバーベキューは4時頃から始まり、夜中まで続いた。パートナーや子どもを連れてきた人もいて、家では収容しきれないので、テントで寝てもらった。歌を歌う人、せっせと食べる人、アルコールのだめな人、底なしで飲みたい人、それぞれに、たき火と冷気を楽しんだ。
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・翌日は西湖に出かけて、カヤックと自転車。ゆったり漕いで爽快な気分を味わった人もあり、転覆しかけるハプニングに奇声を上げた人もあり。西湖一周10km のサイクリングでは、日差しが強くて、みんな久しぶりに筋肉を使い汗だくになった。残念ながら富士山は雲に隠れていて姿を見せなかったが、澄んだ湖と樹海の風景を満喫したようだった。その後は富士吉田の名物「うどん」を食べに行って、富士急ハイランドのバス停で「さようなら」。やれやれ、楽しかったけど、疲れた!。 ・この1週間に訪ねてきた人は12人。パーティに参加できない三浦さんがカップルで陶芸体験にやってきた。早起きをして午前中に体験教室をすませたから、お昼は、かき揚げ天ぷらとうどんをご馳走した。にぎやかさが過ぎ去って久しぶりに静かになった晩は、夜更けに13度にまで下がって寒いほどになった。夏もこれで終わり。あれこれ仕事も山積みだ。

2009年8月21日金曜日

友人の死

 

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・関大の木村洋二さんが亡くなった。肺ガンで寝耳に水の話しだった。同年代というだけでなく、彼とは若い頃からつきあいがあって、ある意味では、一番影響を受けた人だったし、非常勤をはじめ、ぼくの就職先をいろいろ心配してくれる優しい人だった。昨年の秋に東北大学で開催された「日本社会学会」で会ったときには、いつもながらの元気さで、一緒に飲みながら、よく笑っていたことを思うと、未だに信じられない気がしてしまう。

・木村さんは亀岡の山奥に住んで、そこから大阪まで通っていた。最初にバイクで訪ねたときには、急斜面に数軒の集落と段々畑がある風景に驚いたが、すっかり気に入って、その後、何度もお邪魔した。付近を歩いて、生えているキノコの名前を言いながら、食べられるものをとって、おみやげにしてくれた。もう30年近くも前の話だ。ぼくが田舎暮らしを本気になって考えたのは、彼との出会いがきっかけだったと言っていい。

・山奥に住むには車が欠かせない。彼は4輪駆動のスバル・レオーネを絶賛して、乗るならこれと力説したから、ぼくもその気になって、しばらくして、レガシーのワゴンを購入した。子ども達とあちこちキャンプをして回ったり、北海道をはじめ国中を走り回って、今では彼以上のスバリストになってしまっている。職場への通勤ももちろんレガシーで、片道100キロの道のりを往復して10年になる。

・高らかに笑いながら話す人で、最初の本も『笑いの社会学』(世界思想社)だった。一見豪快で達観したように見えるが、きわめてデリケートな感性をしていて、いろいろ気を遣う一面もある人だった。出会ったのは、胃潰瘍を患って胃を切除した直後だったようで、玄米食などを勧められたが、ぼくも程なくして胃潰瘍になって苦しんだ。幸い特効薬が出たばかりで、ぼくの場合は切除を免れたから、気にせずに食べたいものを食べて、今ではメタボを指摘されるようになっている。

・会ったときはいつでも話すのは彼で、ぼくは聞き役だった。人間の感情やそれをもとにした関係をルービックキューブの六面体で構想するというアイデアが、彼の追求するテーマで、あれこれ思いついたことを目を輝かして話した。しかし同時に、人間関係における日本人的な特徴にも興味を持っていて、2冊目の本は『視線と私』(弘文堂)という題名で出された。私は他者の視線によって捉えられたものの集積として自覚される。そんな鳥瞰図と虫瞰図の間を行ったり来たりしながら思索をし、また人づきあいをする人だった。

・ぼくが東京の大学に移ってからは、会う機会も少なくなったが、しばらく前に、新聞に出た顔写真つきの記事を見たときには、笑ってしまった。笑いの程度を測定する器械を考案して、その単位を"aH"にしたという話しだった。いかにも彼らしいと思ったし、性の革命を提唱したウィルヘルム・ライヒを思い浮かべた。自然界に偏在するエネルギーを「オルゴン」となづけ、それを集積して身体や精神の治療に役立てようとした試みだ。ライヒの発明は受け入れられなかったが、笑いの測定器と"aH'という単位は傑作だと思ったし、いろいろ話題にもなった。

・その「笑い」とライフワークの「ソシオン理論」が、これからどう展開するのか、またあってゆっくり話を聞いてみたいと思っていたのだが、それがかなわぬうちに他界してしまった。彼の流儀からすれば、笑ってさようならをするのが適切なのかもしれないけれど、あまりに唐突で、早すぎる死だから、今はとても笑う気にはなれない。

2009年8月16日日曜日

政治哲学なき選挙

・いよいよ衆議院選挙がはじまる。もう間近だと言われてから、2年近くにもなるが、その間に国内はもちろん、世界の状況もずいぶん変わった。日本の首相もころころ変わったが、選挙での訴えやマニフェストを斜め読みしても、相変わらずといった印象が強い。だから、政治家に何かを希望したりする気もまったく起こらない。人里離れた所に住んでいるから、選挙運動の声がうるさいということもほとんどないだろう。興味がないと無視してしまうのは楽なのだが、そうすればするだけ、そのダメさ加減に腹が立ってくる。

・各党の党首達は当然、全国を飛びまわって、街頭演説をくり返している。その様子を伝えるテレビのニュースを見ていて気になるのは、何を訴えているのかではなく、どう訴えているかという、その口調にある。「国民の皆様」「ご理解願いたい」「ご支持をよろしくお願いいたします」といった言い方を聞いていて思うのは、それは政治家の口調ではなく、商人が客に対する話し方じゃないの?という疑問だ。一票ほしさに腰を低くしてお願いする。そんな気持ちばかりが目立つのである。

・人びとの支持の取りつけ方にはいろいろある。国民受けするパフォーマンスで人気を得た小泉元首相以来、政治家は国民のご機嫌伺いをいっそう気にするようになったようだ。「ポピュリズム」(大衆迎合主義)と呼ばれて、批判されるやり方だが、それを小泉ほどの演技力がない政治家がやると、票集めしか頭にない無能な政治家丸出しになってしまうから、何ともみっともなく見えてしまう。この国の財政はとっくに破綻していて、年金や健康保険などの社会保障もいつダメになるかといった現状なのに、マニフェストに並ぶ政策は、自民も民主も景気のいいばらまきばかりなのである。

・そんな国民への媚びへつらいの姿勢が目立つのは、自分の政治哲学を提示して、国民を説得しようという意思がないからだろう。広島と長崎の原爆の式典では、市長が口をそろえて、オバマ大統領の核廃絶の宣言に続き、それを推進する役割を果たそうと宣言した。ところが、それに声高に賛同する日本の政治家はほとんどいなかった。世界的な不況を乗り切る政策は同時にエネルギーや環境の問題と重ねあわせてやらなければならない。そんな「グリーン・ニューディール」の提案も、日本の政治家達には馬の耳に念仏でしかない。とにかく景気を回復させてというだけの自民党と、高速道路の無料化を目玉にする民主党の政策のどこに、環境やエネルギーの問題に対する危機感があるのだろうかと疑ってしまう。

・環境やエネルギーの問題に真剣に対処するためなら、今の生活レベルが下がってもいい。そう考える人の割合がかなりあるという調査結果があった。あるいは、社会保障を確かなものにして安心できるなら、消費税が上がっても仕方がないと考える人の割合も少なくないという。そういう国民の意識を自覚して、日本という井の中にとどまらず、世界を見据え、将来を見通した政策を提案できる政治家や政党の出現を期待したいのだが、選挙運動の流れを見る限りはそんな動きは皆無のようだ。

2009年8月9日日曜日

尾瀬ヶ原を歩いた

 

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・尾瀬はずっと行ってみたいと思っていたところだ。理由はやっぱりあの歌だろう。♪夏が来れば思いだす/遥かな尾瀬遠い空♪ところが、今年はいつまでも梅雨空で、最初の予定はキャンセルした。神津島に続いて二度目の中止で、今年はもうどこにも行けないかと思っていたのだが、天気予報を見ると、何とか雨は避けられそう。で、ペンションの予約をしなおして、思い切って出かけることにした。

photo52-2.jpg ・出がけはやっぱりどんより曇り空。中央道から圏央道にはいるあたりから真っ黒い雲がたれ込めて、イヤーな空模様だったが、関越道で北上するにつれて青空が見えてくる。高速を降りて下道を走る頃には、日差しがきつくてまぶしくらいになった。さい先良しで、とりあえずは「吹割りの滝」の見物から。沼田街道は通称「日本ロマンチック街道」と言うようだ。もうちょっとましな名前をつけたらどうか、などとぶつぶつ言いながら、尾瀬の入り口に着いた。

photo52-3.jpg ・時間はもうすでに1時を過ぎていたが、行けるところまでと、富士見下で車を止めて、富士見峠をめざす。今は尾瀬に入るルートはいくつもあるが、もともとはここだけだったようだ。林道をだらだら登っていくと、降りてくるハイカーが3組と富士見山荘の車と出会った。ブナ、ミズナラ、ダケカンバ、それに巨大な朴の木と広葉樹の豊かな森が続く。富士見峠まで行けば尾瀬ヶ原が望めたのだが、いかんせん歩き出したのが遅すぎた。3時になったところで引き返すことにした。ウグイスが鳴き通しで、しかもなかなかの美声だった。
・宿は丸沼高原にあるロッジ「ネイチャー莫」。オーナーは周辺の山、動物や植物を熟知したネイチャー・ガイドで、当日も尾瀬笠ヶ岳をガイドして歩いてきたと言う。いろいろ話を聞いて、明日の尾瀬沼が一層楽しみになった。

photo52-4.jpg ・尾瀬沼をめざして7時半に出発。オーナーは今日もガイドで至仏山に登るという。鳩待峠まで車を駐車させて歩きはじめた。駐車場は昨日は8 時で満杯になったらしい。今日はまだ余裕があるが、それにしてもすごい人だ。尾瀬ヶ原のはじまりの山の鼻までは下り道だが全部木道が敷かれている。尾瀬から戻ってくる人もたくさんいて、「おはよう」「こんにちは」がだんだん面倒になった。たまに会うから声をかけたくなるんで、この混雑では「儀礼的無関心」の方がいいかも、などと思う。
・山の鼻に着くと、これぞ尾瀬という眺めが見えた。歩荷(ぼっか)と呼ばれる荷担ぎの人もいて、「重さはどのくらい?」と聞くと「今日は 110キロぐらい」と言った。食べ物や飲み物をこんなふうにして運ぶのかと思っていたら、空をヘリコプターがしきりに飛んでいる。大きな荷物を運んでいて、それなら歩荷なんて必要ないのでは?と不思議な気がした。
・木道の両脇にはさまざまな高山植物が咲き、ハチやチョウチョが飛んでいる。途中に何度も交差する川や池には魚も見えた。遠くには至仏山と燧ヶ岳も望めるほどの好天で、本当に久しぶりの青空だったようだ。


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photo52-11.jpg・尾瀬ヶ原は山の鼻から牛首、竜宮、そして見晴まで続き、そこから尾瀬沼に至るが、竜宮まで来ておにぎりを食べたところで引き返すことにした。鳩待峠から7.5キロで、ゆっくり来たから3時間半ほどかかった。この行程を戻ることを考えると、ここまでが限界かなと思った。くたびれていたが、帰り道は登りにもかかわらず2時間で鳩待峠に戻った。15キロを6時間ほどで歩いたことになる。ここのところ毎日、河口湖や西湖でサイクリングをしていたから、足には自信があったが、それでも、最後は棒のようになってしまった。
・ロッジに帰って、オーナーとまた、尾瀬の話をした。写した植物の写真を見せると、すぐに名前を教えてくれた。聞けば同年代で、大学も京都だったという。学科は違うが僕の後輩で、卒業後に尾瀬の山小屋に就職?したようだ。ただ歩くだけでなく、何倍も、尾瀬のことがわかったし、また是非来たいと思わされた。
・尾瀬の自然は極力残さなければいけないが、こういう自然を是非、大勢の人に体験してほしい。そのジレンマをずっとかかえながらガイドをしてきたと言う。ロッジをはじめて20年。何度も歩いている周辺の山々に、飽きるどころかますます魅せられている。こんな生き方をしてきた人がいるんだと思うと、ちょっと羨ましくなった。