1997年11月24日月曜日

Patti Smith "peace and noise"


・パティ・スミスの新しいアルバムが一年ぶりで出た。「peace and noise」今年の一月に大阪でコンサートを聴いたばかりだったから、「おや?」という感じがした。何しろ、去年出たアルバム「gone again」は10年ぶりだったのだから。

・何かあったのかな、と思ったら、コンサート・ツアーで組んだバンドのギタリストのオリバー・レイと一緒に暮らしはじめたらしい。彼は 24歳だというからダブルスコア以上ということになる。ちなみにパティは50歳だ。この「peace and noise」ではオリバーが7曲も曲作りに関わっている。「愛は人をクリエイティブにする」ということだろうか?ぼくにはそんなエネルギーはないから、とてもできそうもない。だから、羨ましいというよりはおもわずすごいと言ってしまった。もっとも、当然のことながら、甘いラブ・ソングなどはほとんどない。相変わらず強いエネルギーのあるメッセージ。

・中国の江主席が先日アメリカに行ったが、チベットに対する弾圧への抗議やダライ・ラマを支持するデモが各地で起こった。中国の人権政策に対する批判はアメリカ人にとってはかなり敏感に感じられる問題のようだ。このアルバムにも、1959年の中国によるチベット弾圧とダライ・ラマの追放をテーマにした「1959」という歌がある。

中国は混乱を極め/狂気の沙汰が氾濫した
ダライ・ラマはまだ若かった
自分の国が炎に包まれるのを目の当たりにした/暗雲の縁に吹き倒されるのを
はなはだしい不名誉だ
そびえるヒマラヤの地平に/チベットは流星のような存在だったが
理性と協調は押し潰された/地上の楽園

・また、このアルバムには今年死んだアレン・ギンズバーグの詩を歌った曲「スペル」もある。

世界は神聖/霊魂も神聖/肉体も神聖
鼻も/舌もペニスも/手も肛門も聖なる部分
すべてのものは神聖/人間はみな神聖
いたるところ聖なる場所/毎日は永遠
すべての人間は/天使のように気高く燃え上がる力
狂人もあなたとおなじように神聖/わたしの魂か、それ以上に神聖

・このアルバムを聴いていると、歌はやっぱりことばだな、という気になってくる。一方ではきわめてパーソナルな世界。子どものこと、死んだ夫のこと、友人のこと、そして新しい愛のこと。また他方では今関心のある外の世界。チベットのこと、オカルト教壇のこと、そして、ビート詩人の死とビートの風化........。

・サウンドはオリバーのアレンジでちょっと耳新しいところもあるが、パティ節に変わりはない。けれども、そんないつもながらの彼女の声と歌い方が伝えるのは、彼女にとっての、悲しいことやつらいことや悔しいことや腹立たしいこと、そして楽しいことだ。たえず変わり続けている、彼女の経験する世界。それはやっぱり、歌詞を追うことでしかわからない。

1997年11月17日月曜日

中野不二男『メモの技術 パソコンで知的生産』(新潮選書)

 

・大学で講義しているときに見る学生の行動に、最近気になることがいくつかある。私語、携帯電話のための途中退出、再入場、あるいは手をあげての「トイレ行ってもいいですか?」。けれども、そんなことはたいしたことではない。うるさきゃ怒鳴って静めるまでだし、途中の出入りは無視することにしている。ところが、これは何とかしなければと考えてしまっていることが一つある。ぼくが一番気になっているのは、彼らがしているノートのつけかたである。

・最近の大学生は、ぼくが黒板に書いたことしかノートを取らない。まったく同じように写すから、ときどきおもしろがって赤や黄色のチョークを使うと、一斉に筆箱からマーカーやボールペンを取り出して、カチャカチャといった音が教室内にこだまする。しかし、そんな彼らをからかっているうちに、彼らがつけるノートとはいったい何なのか疑問に思うようになってしまった。ぼくは、黒板に書くことの4倍も5倍もの話をするから、黒板だけでは話の骨組みしかわからないはずである。その骨組みに、話を聞きながらメモを書き込んでいく。そうしなければ、ぼくの話は再現できないはずだが、学生たちはぼーっと聞いていることが多い。

・実はぼくの奥さんは予備校で英文法を教えている。彼女に学生のノートの付け方の話をすると、即座に「当たり前よ!」ということばが返ってきた。予備校では、テキストのどこに重要だという印をつけるのかまで懇切丁寧に指示するし、大事なことはすべて黒板に書いて、何度もくりかえし読んでは強調する。そんな話を聞きながら、あー要するに「指示待ち人間」という性格が人の話を聞く姿勢にまでしみこんでしまっているのだな、と考え込んでしまった。

・人の話を聞くというのは、同時に自分で理解するという作業をしなければ、ただ右から左に流れていってしまうばかりである。主体的な理解がなければ、疑問や批判も湧いてはこない。これでは質問や反論が出てくるはずもない。これははっきり言えば、小学校から高校までの授業での教え方に責任がある。しかし、そんなことを言っても仕方がないので、今さらやっても手遅れかもしれないけれど、メモの取り方を何とか教えて習慣づけなければならないと思った。

・学生は授業がおもしろくないと言うけれど、主体的に聞くという姿勢にならなければ、どんな授業も絵に描いた餅でしかない。本も同じで、学生たちは本を読むのはおもしろくないし、いやいや読まされるから嫌いだという。彼らに質問すると、レポートや論文を書くときに、大事なところを抜き書きしたり、書名や著者名、出版社名、それに発行年などをメモしたりはしないと言う。それでは、まともなレポートも論文も書けないはずだし、本のおもしろさも発見できないはずである。本のおもしろさは何より、主体的な「読み」のなかから味わえるはずのものだからである。そのようにして本を読めば、そこから、次に読みたい本や考えてみたいテーマが現れてくる。学生たちは、結局、このような基本的な技術を教えてもらわずに大学まで来てしまっているのである。

・と書いているうちに、ずいぶんな分量になってしまった。肝心のブック・レビューをするスペースがない。それでは、この本の著者に失礼というものである。しかし、けっして話のだしにするつもりだけでこの本をとりあげたのではない。

・この本には、物書きを本業にする人にとっての資料やデータ、あるいはさまざまな情報収集とその整理、そして文章にまとめあげるときのそれらの使い方などが書かれている。京大型カードからパソコンのデータベースへの移行といった道具の問題と、簡単なメモをどうとって、利用するかといったノウハウの問題まで、きわめてわかりやすく書いてある。これなら、大学生にも理解できるだろう、と思ったし、読みながら実践させれば、身に付くようになるかもしれないと考えた。来年のゼミではまずこの本をテキストにして、学生たちの受け身の姿勢を崩してやることにしよう。

1997年11月11日火曜日

永沢光雄『風俗の人たち』筑摩書房,『AV女優』ビレッジセンター

 

・おそらく「風俗」を研究対象にしやすいのは社会学が一番だろう。現実に、そのような題名の本はたいがい社会学者によって書かれている。けれども、そこに「風俗の人たち」のことが書かれるのは、めったにない。書かれたとしても、周辺をさっと撫でた程度で終わってしまうか、自分を無関係な場所に置いて、得意の客観的分析をするかのどちらかである。要するに、性の生態は、社会学者が自分の問題として正面から扱うことのほとんどないテーマだといってもいい。もちろんこれは、他人への批判である以上に、自分に向けるべきものである。映画のレビューはやっても、AVのレビューは気が進まない。第一、レンタルするのでさえ気が引ける。品位が邪魔するといえば聞こえがいいが、要するに勇気がないのである。けれどもわかったような顔はしたがるから、何ともずるい性根だと思う。
・永沢光雄の『風俗の人たち』は、『AV女優』につづくルポルタージュである。前作はずいぶん話題になって、ぼくもおもしろい本だと思ったが、今度の作品も、またなかなかの力作である。ぼくは2作とも社会学のフィールドワークとして見ても、傑出したものだと思う。
・『風俗の人たち』は雑誌『クラッシュ』に6年間にわたって連載されたレポートをもとにしている。雑誌やスポーツ紙の風俗レポートといえば、自らの体験をもとにするというのがふつうだが、永沢はそれをしない。いや正確にいえば一度だけしかしなかった。だから、読んで欲望を刺激させるような内容のものにはなっていない。次々と新手がでてくる風俗産業を訪ねては、それを仕事にしている人たちに話を聞く。そんなやり方で、およそ70回ほどのレポートが書かれた。
・ 実践のない性風俗レポートなんて書いた本人と編集者しか読まない。永沢はあとがきで、そんな中途半端な記事が本になってしまった、と申し訳なさそうに書いている。謙遜ではなくて、たぶん正直な気持ちなのだと思う。何といってもこの文章が掲載された雑誌は、男たちが欲望をむき出して読みあさる種類のものなのだから。けれども、また、そんな雑誌にふさわしい内容のレポートだったならば、決して本になることはなかったはずである。実際ぼくも、こんな真面目なレポートがよくも6年間も続けられたものだと感心してしまう。そんな意味では、この本が生まれるうえで功績があったのは、作者以上にこの雑誌の編集者の見識と姿勢だといってもいいのかもしれない。
・性風俗のレポートを体験として書かなかったことについて、永沢は恥ずかしかったからと書いている。たぶん、このような感性の持ち主では、この種の雑誌のレポーターは勤まらないのがふつうだろう。けれども、その恥ずかしいという気持ちが、このレポートにまったく違うおもしろを生みだす結果をもたらしている。性に対する欲望とそれを何とか処理したいという気持ちは誰にでもあるものだが、ところが体面や自信のなさ、あるいは倫理観が、それを実行させにくくする。この本には、一言で言えば、そんな浅はかな男の性(さが)と心の揺れ動きをテーマにした私小説といった世界がつくり出されているといってもいいかもしれない。
・だから、このレポートにはセックスが好きとかテクニックが上手とかいうのとは違う女たちの正直な気持ちも描き出されることになる。たとえば永沢は、「今の少年少女たちは、性というフィルターを通して大人たちを軽蔑していることは確かだと思う」とドキっとするようなことを書いている。性と金を媒介にした男と女、大人と子どもの不信のドラマ。そんな傾向がますます強くなることに恐れながら、同時に性の欲望も否定できないアンビバレンス。この本には、そんな単純な性風俗レポートや、性の商品化を頭ごなしに否定する短絡的なフェミニズムとは異なる、きわめて説得力のある性にまつわる今日的なテーマが描き出されていると思った。

京都の秋



  •  柳谷観音
       京都とはいっても、ここは京都と大阪の境目、天王山の奥にあります。目の病気に御利益がある観音様で、土日はお年寄りでにぎわいますが、この日は火曜日、誰もいないお寺の紅葉を独占という感じでした。今年は雨が少なく、寒暖の差が大きいせいか、例年になく紅葉がきれいです。
       ここに載せた写真は、ディジタル・ビデオカメラで歩きながら撮り続けたものを静止画像として取り込んで、Photo Shopで加工をしました。水彩画風、切り絵風、あるいは油絵のタッチと、ちょっと手を入れすぎたかもしれません。したがって、実際の紅葉とは、ちょっと違った風景になってしまいました。

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    1997年11月10日月曜日

    ホームページ公開1年

  • ホームページを公開して一年が過ぎた。あっという間だったような気がするが、かなりの時間を費やし、エネルギーを使い、知恵も絞った。ホームページがなければ、僕にはこの一年でもう2本ぐらいの論文が書けたかもしれない。そんなふうに考えると、正直いってもうやめとこうかとも思う。けれども、ホームページ作りは論文とは比較にならないくらい楽しい。だから、ついついホームページのことを考えてしまう。この魅力はいったい何なのだろうか?
  • 一つは、ホームページが昔から関心を持ち、自分でも作ってきたミニコミに似ていることである。新聞や雑誌に何かを書いたり、本を出したりするのは、基本的には専門家の仕事と考えられている。実際、普通の人がそんなことのできる機会はめったにない。けれども、誰でも、何かを表現したい、誰かに伝えたいという欲求はあって、安価で少部数の発行物ならそれを実現するのはむずかしくはなかった。そんな発想は60年代に盛んになったが、いつの間にか下火になってしまった。
  • ミニコミは誰かに伝えるためには、それを置いてくれる場所(本屋とか喫茶店など)を探さなければならないし、直接送るには郵送料がかかる。ぼくは数年前まで『Newsletter』を定期的に作って60〜70部ほど送っていたが、文章やレイアウト、あるいは印刷はともかく、封筒につめて切手を貼ってポストに入れる作業は面倒くさかった。個人的なものだから、特定の人にしか出さなかったが、もうちょっと、広がりのあるものを作ってみたいとずっと思ってもいた。
  • ぼくのホームページには、この1年でおよそ4000人が訪れている(カウンターは12月20日から)。ものすごい数字だが、もちろんじっくり見てくれる人はもっとずっと少ないはずだ。実際、メールに感想を書いてくれた人は50人ほどだった。けれども、その半分が面識のない人たちだったことは、ぼくにはカウンターの数以上に驚きだった。卒論やレポートの相談をする学生、卒論集やぼくの論文を読みたいといってくれた人、あるいは、自分で作ったホームページを見てくれといってきた人、その人たちとは何度かのメールのやりとりもした。ホームページのおもしろさややりがいが、また、こんな出会いにあることはいうまでもない。大学や高校の同級生、そして昔教えた学生からの「久しぶりです。ホームページ見ました」といったメールもうれしかった。
  • もちろん、このページは大学のサーバーに載っているものだから、基本的には、ぼくの大学の学生に見てほしいと思っている。講義などで「見ろ」といっているから、かなりの学生がアクセスしているのだと思う。けれども、今一つ反応が弱い。講義に関連させて文献の紹介などもやっているから、役に立つとは思うのだが、そんな感想を耳にすることは一度もなかった。本を読まない、勉強をしないというのは、どこの大学の教員も口にする最近の一般的な傾向だが、実はぼくには、ホームページで何とか突破口をという気持ちが強くあった。なかなか思うようには行かないが、これから、一番工夫しなければならないところかもしれない。
  • もうひとつ、このページ作りには、大学にこれから入ってくる人、つまり予備校生や高校生にアクセスしてもらいたいという狙いもある。実は、河合塾ともリンクしているのだが、残念ながら、メールはまだ一通も来ていない。通りいっぺんの大学の入学案内などよりは、このようなページの方がずっと役に立つと思うのだが、受験生にはホームページなどを見ている余裕などないのかもしれない。
  • ホームページを見る側に立てば、ぼくにとって役に立つのは、何より、知りたい情報が詳しく紹介されているものである。それは逆に言えば、ぼくのホームページも、そのような、何か特徴のある情報を提供しなければ、あまりお役にはたてないということになる。なかなかそんな材料がなくて困っているが、これも、これから何とかしたいと思案している。そんなわけで、何か、いい示唆を与えてくれるメールがほしい今日この頃である。
  • 1997年11月3日月曜日

    B.バーグマン、R.ホーン『実験的ポップミュージックの軌跡』勁草書房

     

    ・たとえば、音楽のジャンルを「芸術」「ポピュラー」「民俗」といった枠で分類する考え方がある。「芸術」とはいわゆるクラシック音楽と呼ばれる分野だが、ここにはもちろん、比較的新しい前衛音楽もふくまれる。一方「ポピュラー」は主にマス・メディアの発達の中で生まれた音楽をさし、典型的にはジャズやロックなどがある。この二つの音楽のちがいは、もちろん聞けばすぐわかるものとして考えられている。けれども、最近の音楽の傾向としては実際には、二つのジャンルの境目はますます曖昧になってきているようである。

    ・ B.バーグマン、R.ホーンの『実験的ポップミュージックの軌跡』には、さまざまなミュージシャンが紹介されている。あまりに数が多すぎて、その分、個々にはカタログ的な簡単な記述しかないという不満が残らないわけではない。けれども、この本を読むと、60年代のロック登場以降の音楽、とりわけ「芸術」と「ポピュラー」の前衛的な流れがよくわかる。

    ・ 一方に、シュトックハウゼンやジョン・ケージといった人に代表される現代音楽の流れ、そしてもう一方にプログレッシブ・ロックやパンクからの流れがある。この二つを最初から、そして現代においても峻別しているのは、学校で学んだ音楽かそうでないかのちがいだけだろう。だから、サウンドではうまく区別がつけられない音楽も、それを作り演奏している人に採譜の能力があるかないかを確かめれば、一目瞭然になってしまう。逆に言えば、楽譜が書けるとか読めるといった能力(技術)は、音楽作りや理解にとって必要不可欠なものではないということになる。

    ・「芸術」は何らかの予備知識なしにはわからないものとして考えられてきた。一定の評価を与えられた作品には、またそれなりの聴き方、解釈の仕方があって、それにしたがうことではじめて、その作品を理解できるのだという前提があった。他方で、「ポピュラー」は何より大勢の人に楽しまれることを第一の目的として作られてきた。独創的で難解な音楽と、画一的でわかりやすい音楽。そのちがいがまるでベルリンの壁のように崩壊してしまっている。この本は80年代以降の音楽の特徴を、何よりそこに見ているのである。

    ・けれども、この本の作者は、一見融合してしまったかのように聴こえる音楽の中に、楽譜の読み書き以外のちがいも見つけだしている。たとえば、「コマーシャリズム」に対する姿勢のちがいである。ロックはビートルズやローリング・ストーンズ以来、自分の音楽が商品として売られ、巨額のお金をもたらすことにさほどの抵抗感を持ってこなかった。だから「ポップ」には、何より、たくさん売れて、大勢の人に好まれて、なおかつ新しさやユニークさを持った音楽というニュアンスがずっとふくまれてきた。前衛的な実験音楽を志向する人たちには、この点について二律背反的なジレンマがあるという。「ポップ」は好きだが「ポップ」にはなりたくないというわけだ。

    ・こんな話を読んでいると、僕はついついスポーツにおけるプロ化の波とアマチュアリズムの問題にダブらせて考えたくなってしまう。プロを目指す人は何より名声とお金を重視する。サッカーにしてもバスケットにしても、プロ選手になることはどん底の世界から身を立てる数少ない可能性の一つになっている。それはたぶん音楽でも同じだろう。レゲエ、パンク、ラップとそのことを裏付ける音楽の流れを指摘するのはむずかしくない。だから、一流の才能を持ちながら、アマチュアリズムにこだわる姿勢には、ある種の貴族主義的なニュアンスを感じてしまう。そう考えると、同じようなサウンドを志向しながらも、個々にはやっぱりまだまだ大きな壁が残されていると感じざるを得ない気になってくる。