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2024年4月29日月曜日

地震対応に見るこの国のお粗末さ

 



taiwan14.jpg台湾の花蓮で4月3日にマグニチュード7.7の大きな地震があった。ビルが傾いたりして被害の大きさが報道された。僕は2012年に台湾一周旅行をして、花蓮にも数日滞在し、太魯閣峡谷に出かけている。海でできた分厚い石灰岩が大理石に変成し、隆起した後に、長い年月をかけて雨によって削られた場所で、何千万年という時間が作り出した絶景だった。ところがこの地震で一番人的被害が多かったのがこの地域で、がけ崩れで埋まった人やトンネルに取り残された人、あるいは交通遮断で孤立した人たちなどが多数いたのである。一度行ってその景観に圧倒されただけに、その峡谷が崩壊したらと考えただけで恐ろしくなった。

しかし、もっと驚いたのは花蓮で避難所を設置する様子で、それほど時間が経っていないのに、体育館にずらっと個室が並んでいたのである。まだ被災者がほとんどいないのに食べ物や衣料など、必要なものも整えられているという報道だった。日本では正月に能登の地震があって、相変わらずの体育館に雑魚寝の様子が伝えられていたから、その違いに驚かされた。

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花蓮は最近でも2018年と22年に大きな地震に見舞われていて、その度に大きな被害を受けている。だから地震に対する備えが出来ていたのだろう。報道では、台湾の災害対応は1999年の地震以後に日本から学んだということだった。花蓮では2018年の地震でうまく対応できなかったことを反省して、必要なものの備蓄を整え、人々の訓練も行われてきたと報じられた。傾いたビルの撤去がすぐに始まったことにも感心させられた。花蓮では23日にも大きな余震があってビルが傾くなどの被害があった。おそらくまた迅速な対応をしているのだと思う。

ところが日本では能登地震から4ヶ月が過ぎようとしているのに、未だに避難所生活をしている人がいる。家が住める状態だとしても、上下水道が普及していないところが多いようだ。仮設住宅の建設もほとんど進んでいないのである。倒壊した建物や、破損したクルマがそのままに取り残された光景を見ると、4ヶ月も経っているのに、いったい何をしているんだろうと怒りたくなる。

もっともテレビは、そんな普及の遅さを批判的に伝えたりはしない。水道が使えないのにレストランやカフェを営業しているなどといった事例を美談のようにして紹介するものが多いのである。政府や県の対応のまずさ、というよりはやる気のなさが目立つのに、強く批判するメディアがほとんどないという現状には呆れるばかりである。ネットでフリーのジャーナリストの現地報告を何度か聞いたが、能登の人たちがまさに棄民状態に置かれたままであることを一様に話していた。被災した人たちの政府や自治体、そしてメディアに対する不信感はかなりのものようだ。政治もダメだがジャーナリズムもダメ。この国のお粗末さは、いったいどこまでひどくなるのだろうかと空恐ろしくなる。


2024年4月15日月曜日

エドワード・E.サイード 『オスロからイラクへ』『遠い場所の記憶 自伝』みすず書房

 

ハマスのイスラエル襲撃以来、パレスチナのガザ地区攻撃が半年も続いている。すでに3万人以上の死者が出て、建物の半数以上が破壊され、人口の7割以上が難民となり、食糧危機の中にあるという。ハマスによってイスラエルにも多くの死者が出て、人質にもとられているとは言え、これほどの仕打ちをするのはなぜなのか。そんな疑問を感じてサイードの本を読み直すことにした。

said1.jpg エドワード・E.サイードは『オリエンタリズム』や『文化と帝国主義』などで知られている。そして、パレスチナ人であることから、イスラエルとパレスチナの関係については両者に対して鋭い批判を繰り返してきた。『オスロからイラクへ』は、彼の死の直前まで書かれたものである。それを読むと、現在のような事態が、これまでに何度となく繰り返されてきたことがよくわかる。このアラブ系の新聞に連載された記事は1990年代から始まっているが、この本に記載されているのは2000年9月から2003年7月までである。

題名にある「オスロ」は、1993年にノルウェイの仲介で締結された「オスロ合意」を指している。「イラク」は2001年9月に起きた「アメリカ同時テロ事件」と、その後に敵視されて攻撃され、フセイン政権が倒されたことである。「オスロ合意」はイスラエルの建国以来続いていた紛争の終結をめざして、イスラエルを国家、パレスチナを自治政府として相互が認めることに合意したものだった。この功績を讚えてパレスチナのアラファト議長、イスラエルのラビン首相、ペレス外相にノーベル平和賞が授与されたが、紛争はそれ以後も続いた。サイードはこの合意を強く批判した。イスラエルは建国以来、パレスチナの領土を占領し、住居を破壊し、それに抵抗する人たちを殺傷してきたが、アラファトがそれを不問に付したからだった。

そんなイスラエルの横暴に対して、パレスチナは2000年9月に2度目の「インティファーダ(民衆蜂起)」を行った。この本はまさに、そこから始まっていて、イスラエルの過剰な報復を非難し、また「インティファーダ」の愚かさを批判している。アメリカで同時多発テロが起こると、イスラエルはパレスチナを同類と見て、いっそうの攻撃をするようになる。白血病を患って闘病中であるにもかかわらず、それに対するサイードの論調は激しさを増していく。サイードの批判の矛先は、イスラエルの後ろ盾になっているアメリカ政府と、パレスチナの現状を無視したアメリカのメディアにも向けられている。しかし、彼の声は、アラブ系の雑誌であるために、アメリカにもヨーロッパにも届かない。

said2.jpg サイードはパレスチナ人でエルサレムに生まれているが、実業家として成功した父のもとで、エジプトやレバノンで少年期を過ごしている。父親がアメリカ国籍を取得したために、エドワードもアメリカ国籍となり、エジプトのアメリカン・スクールに通って、プリンストン大学に進学し、ハーバードで博士号を取得している。『遠い場所の記憶』はそんな少年時代から大学を卒業するまでのことを、主に父母との関係や親戚家族との暮らしを中心に語られている。豊かなパレスチナ人の家庭で成長し、イスラエルの建国を少年期に体験して、アメリカ人として大人になった。そんな複雑な成り立ちを辿りながら、絶えず見据えているのは「パレスチナ」の地と、そこに暮らし、悲惨な目に遭い続けている人びとのことである。

この2冊を通してサイードが思い描き、力説し続けているのは、ユダヤ人とパレスチナ人が共生しあって作る一つの国家である。それは夢物語だと批判され続けるが、それ以外には解決の道がないことも事実だろう。サイードが亡くなってからすでに四半世紀が過ぎて、また同じ殺戮が繰り返されている。もう絶望しかない状況だが、それでも、サイードが生きていたら、「共生」にしか未来の光がないことを繰り返すだろう。そんなふうに思いながら読んだ。

2024年3月18日月曜日

株だけが高いのはなぜ?

 



kabuka.gif 日本の株価がバブル期を超えたと大騒ぎになった。これまでの最高値は1989年の12月29日につけた3万8957円44銭で、これはバブルがはじける直前に出た値である。株価はその後急落して2003年の4月には7607円88銭まで落ち込んでいる。その後少し持ち直したものの、リーマンショックや民主党政権の成立で1万円以下で推移し、安倍政権誕生とともに急上昇を始めて、2万円を超える額になった。それが21年には2万5000円、23年5月に3万円を超え、この3月には一時4万円を超えたのである。

en.gif 株価については円と関係があって、株が上がれば円安になり、円高になれば株が下がるといった特徴がある。これは日本の経済が輸出に依存しているからで、円安になれば輸出産業の売り上げが増すと予測されるからである。その円のレートは80年代の前半は1ドル200円台で推移していたが、後半には急激な円高になって、株が最高値をつけた89年には130円前後になっている。バブルがはじけて株が急落しても、円は100円台の前半を推移して、民主党政権が成立した2010年以降には円高が進んで2013年には79円になった。それが円安に転じるのは安倍政権以降のことである。

このような経過をグラフで見ると株価と円の関係が対照的になるのは安倍政権以降であることが分かる。株価が上がったのは「アベノミクス」によるもので、そこには日銀や年金機構が株価を買い支えるといった操作が顕著であった。実際国内の最大の株主は日銀で、保有する時価は70兆円で、年金機構の額も30兆円以上だと言われている。これは日本の株式全体の6分の1にもなる額で、極めて不自然なものである。もう一つ、円安を誘導したのが日銀のゼロ金利、さらにはマイナス金利政策であったことも加えておく必要がある。

日本の経済の実態はバブル期を境に下がり続けていて、失われた30年と言われている。日本のGDPが戦後の経済復興によってアメリカに次いで世界2位になったのは1968年のことである。それが2010年には中国に抜かれ、去年の23年にはドイツに抜かれて4位に下がった。新興のインドが急速な経済成長を遂げているから、そこにも抜かれて5位になるのは時間の問題だと言われている。あるいは、一人当たりのGDPで言えば、日本はすでに先進7カ国の最低で、世界全体では37位に下がっていて、韓国と台湾にはさまれた位置にある。

このように見れば、現在の株高が経済の実態とはかけ離れたものであることがわかるだろう。最近の円安がインバウンド増の要因と言われているが、円そのものの値よりは、この30年間、物価が上がらなかったことで、日本にやって来る人には、何でも安いと感じられるからである。もちろん、その間、個人収入もほとんど増えていないし、パートやアルバイト、あるいは契約といった形で働く人が増えて、貧富の格差が大きくなっているのである。株高が外国人投資家によるとも言われているが、そこにもやはり、割安感があるのだろう。

現在の株高は、日本の経済とは関係ないものだから、いずれは暴落すると言う人もいる。ゼロ金利政策を是正したい日銀は、株価が急落しないようにして、それを改めなければいけないが、それはおそらく至難の業である。もっとも日銀は国債の5割以上を保有しているから、金利をマイナスから0、そしてプラスに上げれば、今度はその利子の支払いに苦慮することになる。それもこれも「アベノミクス」が招いたことだから、安倍元首相の罪はとんでもなく大きいのである。


2024年2月26日月曜日

TVにもの申す市民ネットワークを

 

テレビがひどいことについては、このコラムでも何年も前からくり返してきた。しかしますますひどくなるばかりで、もう取りあげる気にもならないのが現状だ。しかも、ジャニーズや吉本関連など、TV自体がスキャンダルに深く関わっているのに、そのことについて、まともに発言すらしないのである。ぼくはそんなテレビに絶望しているが、何とか生き返らせようとして立ち上がった人たちがいる。

「テレビ輝け!市民ネットワーク」は田中優子、前川喜平などが中心になって始めた運動である。その趣旨は、1)報道機関としてのテレビに本来の役割を果たさせることで、具体的には、2)株主提案権の行使という取り組みにあって、テレビ朝日の株を3万株(約6000万円)購入して、株主総会で株主提案を行うのである。テレビ朝日をターゲットにしたのは「報道ステーション」におけるコメンテーターやスタッフの降板を、テレビ報道の危機の典型としているからである。

テレビに対する権力の圧力は安倍政権から強くなった。批判的なキャスターやコメンテーターが降ろされ、提灯持ち的な人が大きな顔をするようになって久しい。それはもちろん、テレビ朝日に限らないし、民放よりは NHKの方がもっとひどいと言えるだろう。だから今度の動きは、テレビ朝日をとっかかりにして、他の民放、そしてNHKに広げていくという流れを狙う、その第一歩なのである。

その共同記者会見で前川氏は「経営側は番組の制作や報道の自由に余計なことをするな、外部の権力に忖度や迎合をするなと。権力には政治権力もあるが、民間もある。ジャニーズ事務所や吉本興業は民間の権力。そういうのに忖度するのもいかん。放送事業者の独立性を担保する」と発言した。この会は前川喜平を社外取締役として推薦することも予定しているが、テレビ朝日がこの動きにどう対応するかは見ものだろう。その株主総会は6月に開催される。

もちろん、これだけでは動きは単発に終わってしまう。おそらくテレビ各局は、これをニュースとして報道することをいやがるだろう。テレビ局と新聞社は「クロスオーナーシップ」(相互依存)で繋がっているから、当たり障りのない取り上げ方しかしないに違いない。だから、つづけて他の民放でも同じような動きをしていく必要がある。果たして賛同者が増えて、大きな運動になるのだろうか。

1年ほど前に会長の任期満了を控えたNHKに前川喜平を会長にという動きがあった。 NHKの会長は公選ではなく経営委員会が任命するから、現実的には不可能なことだったが、ある程度の話題にはなった。今回の市民ネットワークの動きはこれにつづくものだったのだろう。その意味では一時的なものではなく、これからも持続する動きを狙っているはずである。テレビが輝きを取り戻すことなど期待しないが、せめて膿を出すぐらいの力にはなって欲しいと思う。

2024年2月5日月曜日

国政を改革する法律は国会議員には作れない

 

自民党の安倍派を中心にしたパーティ収入のキックバックの問題は、大山鳴動ネズミ一匹で、収束してしまった。数名の議員と会計責任者の逮捕でしかなかったのだが、自民党は刷新改革と称して、派閥の解消でやり過ごそうとしている。しかし問題は自民党の改革ではなく、議員の不正行為については議員自身に罪を負わせる連座制を法律に定めることにある。もっともパーティで得た収入を裏金にしたのは脱税だから、やる気になれば検察は有力議員の逮捕に踏み込めたはずだが、それをしなかったのは、政権に忖度をしたといわれても仕方がないだろう。

日本の国政は衆議院と参議院の二院政で、定数はそれぞれ480人と242人である。この数は決して多くはない。と言うよりはOECDの中ではアメリカに次いで少なく、100万人あたり3.7人である。ちなみに韓国は6.2人、イギリス、イタリアは10.4人で、北欧諸国は30人台で、一番多いのはアイスランドの210人である。しかし、私利私欲に走る国会議員ばかりが目立つから、議員が多すぎると感じてしまう。

国会は立法機関で、さまざまな法律を決めることを主な仕事にしている。しかし、安倍政権以降、行政機関である内閣が「閣議決定」を連発して国会軽視の姿勢を取りつづけている。実際安倍首相は「私は立法府の長」と言い放ったのである。衆議院も参議院も自公の安定多数だから、国会の採決に任せたって政権の意向通りになるのだが、国会での議論もすっ飛ばしてしまえという傲慢な姿勢が、10年以上もつづいているのである。これでは国会議員は無用の長物になってしまっている。

ろくに仕事をしていないのに、歳費は高く、活動費などももらい、議員一人あたりの収入は4000万円を超えるようだ。もちろん、新幹線のグリーンや飛行機もただである。この額はシンガポール、ナイジェリアに次いで世界第3位で、アメリカの2倍、イギリスの3倍である。このお金にはもちろん、税金が使われているが、政党にはそのほかに「政党助成金」が交付されていて、総額は300億円を越えている。他方で、国民の平均収入はバブル崩壊以降停滞しつづけていて、OECD34カ国の中で20位以下に落ちているから、議員の収入の多さが一層際立つのである。

にもかかわらず、自民党の議員はパーティと称して企業献金を集め、それを明記せずに隠し金を蓄えてきた。さまざまな面で、日本が今難しい状況におかれていて、それを解決するために働かなければいけないのに、やっているのは「今だけ金だけ自分だけ」なのである。今肝心なのは、議員の収入を国民の年収に合わせて下げることと、政治資金規正法を厳格にすることだろう。それを国会で決めるのは、泥棒が泥棒を取り締まる法律を作ることになるわけだから、第三者機関を作って決めて、ざる法にならないよう監視する以外にないだろう。それを認めさせるのは世論の高まりだが、メディアの論調は頼りない。

2024年1月29日月曜日

災害対応のお粗末さに想うこと

 

能登の地震から一ヶ月近くが過ぎました。真冬の季節の中、未だに一万人以上の人たちが体育館などの避難所で過ごしているようです。生活していた土地を離れて金沢などに二次避難する人が増えているようですが、土地や近隣の人たちから離れることを拒否する人も多いようです。高齢者ばかりの小さな集落が多いという特徴が、今後の復興にも大きな影響を持つかもしれません。誰もいなくなった集落が廃墟になっていく。それが現実にならないよう願うばかりです。

能登半島には一昨年の10月に出かけました。主に海岸沿いの道を先端の狼煙灯台まで行きましたが、黒い屋根瓦の家が点在する風景が印象的でした、ところが地震によって倒壊した家のほとんどがまた黒瓦の家だったようです。いかにも重そうな感じがしましたし、地震に備えた補強もしていなかった家がほとんどだったようです。能登の地震はすでに何年も前から群発していて、大きな地震も数回ありました。その時に倒壊した家もあったわけですから、なぜ、その後に対応しなかったのかと、行政の怠慢を非難したくなりました。実際大きな地震が起きる危険性があることは、以前から指摘されていたことなのです。

新幹線が金沢まで延伸されて、金沢をはじめ能登も観光客で賑わっていました。風光明媚で温泉もあり、食材も豊かな土地ですから、観光客の増加を目指す気持ちはわかります。しかし今回の被害の大きさやその特徴を見ると、しっかり対応しておけば、もっと小さなものにできたのではと思いました。経済重視の政治の無策がまた露呈したわけですが、復興に全力投入するために万博は中止という声は、少なくとも政治家からは聞こえてきません。停止中だったために大きな被害をかろうじて免れた原発についても、相変わらず見直す動きは起こらないようです。自分の懐を肥やす以外に能のない政治家をのさばらしておいた結果というほかはないでしょう。

東日本大震災以来、熊本や能登と大きな地震に見舞われてきました。これからも大きな地震の危険があると言われている地域はいくつもあります。それに対して対策をという声は聞こえてきますが、今回の対応を見ていると、何度被災しても何も変わらないことが多すぎるという印象を持ちました。一番は被災者が体育館で雑魚寝をしているという相変わらずの風景でした。体育館などに敷き詰めるように作られた段ボール製の仮設小屋やベッドなどがあるようですが、なぜ備えておかないのでしょうか。各自治体が全国的に備えておけば、被災地にすぐに提供できるはずですから、避難所の風景はずい分違ったものになるはずです。

大きな地震には停電と断水がつきものです。暖房ができない、トイレが使えない、そしてもちろん風呂にも入れない。そうならないために何を用意しておいたらいいのか。地震大国の日本ですから、このような備えについてのノウハウがもうとっくに出来上がっていていいはずです。必要なものを全国的な規模で分散的に備蓄しておいて、災害が起きたらそれをどういう手段で被災地に運ぶかを考えておく。そんな備えがなぜできないのでしょうか。用もない兵器を爆買いしたり、隣国を敵視して有事を煽る前に、やらなければいけないことが山積みのはずなのです。


2023年12月11日月曜日

加藤裕康編著『メディアと若者文化』(新泉社)

 

journal1-246.jpg 「メディアと若者文化」というタイトルは何とも懐かしい感じがする。そう言えばずっと昔に、こんなテーマで論文を書いたことがあったなと、改めて思った。1970年代から80年代にかけての頃だが、自分が若者とは言えない歳になった頃には「若者文化」には興味がなくなっていた。

この本の編著者である加藤裕康さんは、僕が勤めていた大学院で博士号を取得している。ゲームセンターに置かれたノートブックをもとに、そこに集まる人たちについて分析した『ゲームセンター文化論』は橋下峰雄賞(現代風俗研究会)をとって、高い評価を受けた。そんな彼から、この本が贈られてきたのである。

僕にとって「若者文化」は何より社会に対して批判的なもので、メディアとは関係なしに生まれるものだった。それがメディアに取り上げられ、社会的に注目をされると、徐々にその精気を失っていく。典型的にはロック音楽があげられる。そんな意識が根底にあるから、日本における70年代の「しらけ世代」とか80年代の「新人類」、そして90年代以降の「オタク」などには批判的で、次第に関心を薄れさせていった。当然、現在の若者文化などについてはまったく無関心で、そんなものがいまだに存在しているとも思わなかった。

「若者」は第二次大戦後に注目された世代で、政治的、社会的、そしてもちろん文化的に世界をリードする存在として見られてきた。それが徐々に力を失っていく。この本ではそんな「若者論」の系譜が、加藤さんによって、明治時代にさかのぼって、「青年」といったことばとの関係を含めて語られている。そう言えば大学院の授業で取り上げたことがあるな、といった文献やキーワードが並んでいて、何とも懐かしい気になった。

若者文化がメディアとの距離を縮め、やがてメディアから発信されるものになったのは80年代から90年代にかけての頃からだった。「新人類」とブランド・ファッション、「オタク」とアニメがその典型だろう。しかし、2000年代に入ると、メディアは携帯、そしてスマホに移っていき、若者文化もそこから生まれるようになる。あーなるほどそうだな、と思いながら、彼の分析を読んだ。

で、現在の若者文化だが、この本で取り上げられているのは、「自撮りと女性をめぐるメディア研究」や「『マンガを語る若者』の消長」そして「パブリック・ビューイング」に参加する若者の語りに<にわか>を見る、といったテーマである。知らないことばかりだったから面白く読んだが、現在の若者文化とは、そんなものでしかないのかという感じもした。そう言えば、この本には「語られる『若者』は存在するのか」という章もある。そこで指摘されているのは。「若者」に対して語られる、たとえば保守化といった特徴や、それに向けた批判が、この世代に特化したものではなく、全世代や社会全体に現れたものだということである。

そう言った意味で、この本を読んで感じたのは、それで「若者」はいなくなったし、「文化」も生まれなくなったということだった。あるいは、かつては「文化」を作り出す上で強力だったマス・メディアが、スマホやネットの前に白旗を掲げたということでもあった。

2023年11月27日月曜日

NHKのBSが一つ減ると言わないのはなぜ?

 

NHKのBSが12月から一つ減る。つまり「プレミアム」と名がついた3チャンネルがなくなるのだ。しかし、なぜそうなるのかという理由をNHKはまったく言わないし、減って申し訳ないなどとも言わない。数カ月前からしつこく繰り返しているのは、「BSが変わります!」とあたかもサービスが向上するかのようなメッセージである。3チャンネルの人気番組を1チャンネルに移すから、当然、番組数は減る。しかし移動する番組については予告をしても、消えてしまう番組については何も言わない。

他方でNHKは4K放送の宣伝も繰り返している。4Kを見るにはどうしたらいいか。この同じ説明を毎日数回放送しているのである。しかし、両者の関係については何の説明もない。12月が近づくにつれて、あまりにしつこく放送するから、もう腹が立ってきて、実際はどうなっているのかを書いておいた方がいいと思うようになった。

BS放送のチャンネルを二つ持っていたのはNHKだけである。NHKは地上波も二つ持っているが、これは公共放送の特権として許されている。しかし、4Kや8Kといった新しいチャンネルができ、試験的放送の期間が終わって本放送になるとNHKのチャンネルが増えてしまう。それは不公平だから、代わりにBSを一つ減らそうというのが実情なのである。

これはもちろん、NHKの自発的な変更ではなく、総務省からの命令なのである。だから、チャンネルが減ることで不便をかけたり、4Kを見るために新しいテレビやアンテナなどの負担をかけるのは申し訳ないなどとは決して言わないし、言えないのである。これは政府に忖度をした詭弁にほかならない。このことにかぎらず、こんな言い方、論法があまりに多いから、NHKは何の後ろめたさも感じていないのだろう。しかし、こんな言い方が当たり前になってはいけないと思う。

そもそも、BS放送で見たい番組を作っているのはNHKだけで、民放は地上波の再放送かテレビ・ショッピングばかりでほとんどやる気がないのである。僕は地上波の番組にはほとんど興味がなくNHKのBSぐらいしか見るものはなかったから、テレビはますます見なくなるだろうと思っている。もちろん4Kが見えるテレビに買い替えたりする気はまったくない。パソコンでネットを見る時間が増えるだけである。だからだろうか、NHKはネットでも見られるように準備を進めている。そうなるともちろん、視聴料も取るようになるのだろう。しかし、とんでもない話だ。

こんなふうに、最近謝るべきところで屁理屈をこねたり、別の話題にすり替える論法が目立っている。慇懃無礼な丁寧すぎることばが気になることとあわせて、正直に、正確に話すという当たり前のやり方ができないのは困ったものだと思う。NHKがそのお先棒担ぎをしているのだから、もうめちゃくちゃだという他はないのである。

2023年11月20日月曜日

批判する気も失せたけれど

 

日本はもう壊れていると思ってから久しいけれど、それがますますひどくなっている。一度劣化しはじめると止まらない。その見本のような光景は、どたばた喜劇のようで面白い気もするが、それが私たちの生活や未来に関わってくるから、もう絶望的な思いに囚われてしまう。

大阪万博がどうしようもない状況に陥っている。中止の声が高まっているが、国も大阪府・市もやめる気はないようだ。で、予算ばかりが膨らんでいく。東京オリンピックの二の舞いだが、そのずさんさは、オリンピック以上のようだ。そのオリンピックだって、いったいいくらのお金がかかって、どこにどう使われたのか、事後の検証はまったくなされていない。やりっぱなしで後は知らんという態度である。

大阪万博の会場はゴミの埋め立て地で、軟弱で地盤沈下が激しいから高い建物は造れない。そんなところを会場にしようというのがそもそもの間違いなのだが、お構いなしに決めたのが維新の松井や橋下が安倍を口説いた酒の席だったと言われている。しかも本当の目的はカジノをメインにしたIRの設置だったのである。事前の入念なチェックもなしに決めてしまう。そんなところは他にもたくさんある。沖縄の辺野古基地や原発などで、どれも中止という決断ができないでいる。

アベノミクスは沈滞する日本の経済を活性化させるというふれこみで行われたが、その結果は惨憺たるものである。経済はますます落ち込み、国の借金が激増し、円安が加速化して、収入は増えないのに物価ばかりが上がっている。経済大国といわれた日本で、毎日の食事に窮する人がたくさんいるなどという現状をいったい誰が予測できただろうか。介護保険もがたがたになってきているから、将来に対する不安を感じる人も多いだろう。日本はすでに、貧しい国になっているのである。

健康保険証をマイナカードと一体化させるとしたが普及率は10%にも満たないようだ。デジタル化は避けられない世の趨勢だが、国のやり方はお粗末の限りだ。デジタル化は何であれ、アナログを残した形式で普及すべきだが、今までの無策を棚に上げて遅れを取り戻そうとするから混乱するのである。住基ネットなどの失敗がまるで生きていないのが何ともお粗末なのである。

賃金は上がらないのに、物価は高騰し続けている。しかもインボイスその他で、増税が進んでいる。すでに五公五民と言われて、収入の半分が徴収されているのに、国はさらに税を納めさせようとしている。「増税メガネ」などと言われて慌てて減税を打ち出しても、岸田の人気は下がるばかりである。欧米なら暴動が起きてもおかしくない状態だが、誰もがおとなしいのはどうしてなのだろうか。

こうした現状をしっかり調査して国民に伝えるのがメディアの一番の仕事だが、そんなことを社是にしているメディアはほとんどない。政治家や経済界に忖度ばかりして、何も言わない態度である。しかもジャニーズの問題で明らかになったように、テレビは芸能プロダクションにまで忖度し続けてきたのである。それにしても吉本興業や宝塚など、芸能界も壊れているようだ。

と書いてきたら、もう止まらなくなった。しかし虚しくなるばかりだから、このぐらいにしておくことにしよう。

2023年11月13日月曜日

4 Non Blonds "Bigger, Better, Faster, M"

 
YouTubeには見聞きした傾向にあわせて並べる機能がある。あるいは、一つ見ると、類似のものが続く機能もある。レディ・ガガのライブをクリックした。曲目は"What's Up?"で、聴いたことがあるいい歌だと思った。それが終わると次に同じ曲で、ピンクやドリー・バートンのライブになって、その後、4 Non Blondsという名のバンドになった。知らなかったから調べると、この歌を作ったバンドで、歌っているのはリンダ・ペリーという名前だった。今度は4 Non Blondsやリンダ・ペリーで検索すると、騒がしいのが多かったが、いくつかいい歌もあった。で、Amazonで買うことにした。

4nonblonds.jpg" 見つかったのは、4 Non Blondsでは1枚だけで、発売されたのは1992年だから、もう30年も前である。"What's Up?"は「どう?」「どうしたの?」といった意味だが、歌の中には出てこない。代わりにくり返し歌われているのは "What's going on?" で、どちらも同じような意味である。調べて見ると、同名の歌がすでにあるから"What's going on?"ではなく、"What's Up?"にしたとあった。

4 Non Blondsはブロンドでない4人という意味で、女三人、男一人の編成だ。女ばかりでやりたかったようだが、いいミュージシャンがいなかったとあった。そんな姿勢と同様、歌詞も男中心の社会を批判する内容だった。「目標に向かって希望の丘を登ろうとしたが、世界が男で成り立っていることがすぐわかった」とあって、こんな社会ってどうなんだ?と繰り返す。リンダ・ペリーの声はハスキーがかってボリュームがあるから、説得力は十分という感じだった。このアルバムのタイトルになっている曲はない。「より大きく、より良く、より早いM(男?」という意味だろうか。

rindaperry.jpg" 4 Non Blondsはこの1枚だけで解散したが、リンダ・ペリーは歌い続けていて、1枚だけアルバムを出している。女の立場からの社会批判という姿勢は一貫していて、収められた歌の中には、他のミュージシャンに提供されたものもあったようだ。実際彼女は、プロデューサーとして何人もの女のミュージシャンをデビューさせてもいるし、ジャニス・イアンやアリシア・キーズ、それにピンクなどとも共作したり、アルバムの製作に関わったりもしているようだ。

彼女はデビュー時から自分がレスビアンであることを公言して活動してきた。活動の拠点がサンフランシスコだということもあって、LGBTの運動を支え、リードする役割もこなしてきたようだ。1965年生まれだから、もうすぐ60歳になる。しかし、最近も歌っていて、その迫力は衰えていない。

2023年10月30日月曜日

グレン・H・エルダー・Jr.『大恐慌の子どもたち』 (明石書店)

 

journal1-245.jpg 1920年代に未曾有の好景気を味わったアメリカは、1929年に大恐慌に陥った。その不況の嵐は世界中に及んで人々を苦しめたが、この本は子どもたちに注目して、その不況の時代だけではなく、それ以後の人生において、大恐慌の経験がどのように影響したかを辿ったものである。とは言え、最近出版された新しいものではない。最初の刊行は1974年で、日本語に訳されたのは86年である。その改訂版(完全版)であある本書には「その後」という章が追加されている。

監訳者の川浦康至さんは勤務していた大学の同僚で、一緒に退職したのだが、彼からはすでにパトリシア・ウォレス著『新版インターネットの心理学』 (NTT出版)もいただいている。このコラムでも紹介済みだが、そこで退職した後にほとんど何もしていない僕とは違って、しっかり仕事をしていると書いたが、また同じことを書かねばならなくなった。改訂版とは言え、何しろこの本は500ページ近い大著なのである。ご苦労様としか言いようがない。贈っていただいたのだから、せめて読んで紹介ぐらいはしなければ、申し訳ないというものである。

著者のグレン・H・エルダー・Jr.は1934年生まれだから、大恐慌を経験していない。その彼が大恐慌を経験した子どもたちに関心を持ったのは、博士課程在学中に図書館で見つけた資料と、その後に、それを作成したカリフォルニア大学バークリー校にポストを得たことだった。資料はポーランド移民の調査研究で有名なW.I.トマスが中心になって、大学近くのオークランドでおこなった調査だった。エルダーは当時の被調査者に再度面接し、第二次大戦やその後の経験を含めた聞き取りをして、『大恐慌の子どもたち』 にまとめた。改訂版にはさらにその25年後におこなった再調査が追加されている。

調査に協力したのは1920年から21年にかけてアメリカに生まれ、オークランドに住んでいた167人で、ほぼ男女同数の子どもたちだった。驚くのは、その後の調査にもほとんどの人たちが協力をしていて、100人を超える人たちの人生(ライフコース)聞き取っていることである。オークランドは湾をはさんで対岸にサンフランシスコがあり、北には大学町のバークリーがある。南はシリコンバレーとして70年代以降に急発展した街がある。ここにはパートナーの友人が住んでいて、数日滞在したことがある。湾に面した街の中では地味で寂れた感じがした。

大恐慌はオークランドに住む人たちの暮らしを大きく変えた。調査は、中間層と労働者層に分け、さらに影響の大きさによって二つに分けている。そこで、少年少女たちに訪れた生活の上での変化と、それによる心理的な影響について分析している。それが30年代後半の景気の回復や高等教育の有無、そして第二次世界大戦における兵役の経験へと繋がっていくのである。大学に行ったのか行かなかったのか、どんな職業についたのか、結婚と子どものいる家庭での暮らし方はどんなだったのか。そんな聞き取りが、一般的な調査や研究と比較されて分析されていく。

僕は浮気者だから、その時々に興味を持った対象をつまみ食いのようにして分析してまとめてきた。量的・質的調査もほとんどせずに、社会学や哲学の理論を援用して分析をするといった似非科学的な手法だった。だから、一つのテーマを聞き取りといった手法で追い続けるこの著者とこの本とは対照的な位置にいて、すごいな、と思いながら読んだ。自分にはできないが、研究とは、こういうふうにしてやるべきものだという見本であることを再認識した。

2023年9月25日月曜日

ヴァン・モリソンの2枚

 Van Morrison "Moving On Skiffle"
"What's It Gonna Take? "
 

このコラムでは、今年は死んだ人ばかりを取り上げてきて、僕自身も、聴いてきたミュージシャンも、そんな歳になったのだと、改めて気づかされた。そう言えば、新譜もとんと見かけない。そろそろ更新しなければと思っていたら、Youtubeでヴァン・モリソンがベルファストでやったライブを見つけた。Van Morrison - Up on Cyprus Avenueというタイトルで8年前とあるから2015年に行われたものだ。森に囲まれた公園の特設ステージは満席で、その周囲に多くの人が立って聴いている。1時間近いライブを見ていて、ヴァン・モリソンが気になった。

morrison12.jpg" 探してみると、毎年のように新譜を出していることがわかった。このコラムで取り上げたのは21年に出た『Latest Record Project Volume 1』で、コロナ禍でコンサートが禁止されたことに抗議して作られたと紹介してあった。『What's It Gonna Take?』は翌22年に出ていて、全曲がコロナ禍での国の規制や人々の振る舞いに対する批判になっている。このアルバムには賛否両論あったようで、自己中心的で悪質だとする批判や、文化の最近の抑圧を描写しているといった肯定的な評価もあったようだ。確かに、メッセージは直接的で辛辣だが、聴いている限りはいつものモリソン調で軽やかだ。それにしても80歳近いのに元気だと感心した。

morrison11.jpg" そのエネルギーはまだまだ衰えを知らないかのようだ。今年も『Moving On Skiffle』という名のアルバムを出していて、やっぱり軽やかに元気に歌っている。スキッフルというのは50年代のイギリスで流行った音楽だが、もともとは20年代のアメリカで、まともな楽器を持たない黒人たちがタライや洗濯板などを使って始めたものだった。だから音楽的にはごたまぜだったのだが、イギリスでリバイバルしたスキッフルもまた、ブルースやフォーク、カントリーなどが混在する音楽だった。

ただしモリソンはそんな音楽を聴いて成長し、やがて本格的にミュージシャンをめざすようになった。このアルバムは当時のヒット曲を23曲も収めた2枚組みである。いくつかはアメリカのフォークソングとして聴いた曲もあるが、サウンドはいつものモリソン節である。毎年出していることに驚いたが、モリソンの次の新譜が11月発売と予告されていて、次はロックンロールをとりあげた『Accentuate The Positive』だという。自分史を作ろうとしたのか、20世紀のポピュラー音楽を振りかえったつもりなのか。回顧的なアルバムを作るのはすでにボブ・ディランがやっているが、アメリカとイギリスを代表する二人のミュージシャンならではだと、改めて思った。

2023年9月11日月曜日

万博って何なのか

井上さつき『音楽を展示する パリ万博1855-1900』(法政大学出版局)

2025年に開催される大阪関西万博が工事の遅れなどで話題になっている。そもそもなぜ今万博なのか。その意図がよくわからない。と言うより大阪市はカジノを中心にしたIR(統合型リゾート)を作ることを狙って、万博をその隠れ蓑にしたと批判されている。地盤がまだ安定していないゴミの埋め立て地だから、建物を造っても沈下してしまうし、交通手段もかぎられている等々、問題は山積みだ。

この万博のテーマは「いのち輝く未来社会のデザイン」で、サブテーマとして「いのちを救う」「いのちに力を与える」「いのちをつなぐ」と極めて抽象的でよくわからない。確かに温暖化は深刻だし、戦争や紛争はたえないが、そんな現実的な問題を具体的にテーマにしているわけではないようだ。

xpo1.jpg そもそも万博って何なんだ。そう思って、書架に読まずに積んであった万博関連の本を探してみた。井上さつきの『音楽を展示する』は19世紀中頃から20世紀初頭にかけて何度か行われた「パリ万博」について、主に音楽に焦点を合わせて論じたものである。万国博覧会は1851年にロンドンで初めて開催された。パリ万博は1855年に開催され、続いて1867年、78年、89年、そして1900年とほぼ10年ごとに開かれた。パリでの開催はこの後1937年で、その後は開かれていない。

パリ万博は産業革命を誇示したロンドン万博と違って、産業の他に芸術の展示を重視した。しかし絵画や彫刻と違って、音楽は、常設の展示ではなくコンサートという形で行われる必要がある。この本には、その音楽の展示方法の工夫や、演奏され歌われる音楽の種類、それらを聴きに来る聴衆の階層などが、開催年度によっていろいろと見直されてきたことがよくわかる。パリ万博といえばエッフェル塔ぐらいしか思い浮かばなかったが、パリが芸術の街と言われるようになる上で、万博が果たした役割が大きかったことを再認識した。

万博は産業の発展を目的に始まり、文化的な側面を追加して、人々に近代化による社会の変化を実感させることに役立ったが、その産業は20世紀になると二つの世界大戦を引き起こすことにもなった。1970年に開催された大阪万博は、大戦から立ち直った日本や世界の現状、あるいは宇宙への関心などを展示する上で大きな意味があったと言われている。しかし、その後の万博ははっきりいって、もうやる必要のないものになってきていると言えるだろう。今さら世界中から最新技術や文化的なイベントを一ヶ所に集めて開催される意味がどれほどあるのか、はなはだ疑問なのである。

だからこの本を読んでまず感じたのは、万博の意義はすでになくなっているということだった。クラシック音楽がコンサートホールで聴くものとして確立し、印象派やキュービズムなどの美術が美術館に展示され、高額の値段で売買されるようになったのは、まさに19世紀の後半の万博が華やかに開催された時期と重なるのである。あるいは20世紀になると映画やラジオやレコードといった技術が普及し、やがてテレビが登場するようになる。そして、20世紀終わりからのインターネットである。19世紀末から始まったオリンピックと併せて、こんなものを未だに当てにしている日本の政治家たちの古びた感覚に、もううんざりするしかないのである。

2023年8月28日月曜日

Xって何?

twitterx.jpg" 「Twitter」が突然「X」になった。何で?と思ったが、ツイート自体に変化はない。それにしても、長いこと馴染んできたロゴが消えて、謎の「X」になるとは。どうせイーロン・マスクの仕業だろうと思って、理由を調べることにした。

「X」はイーロン・マスクがこれまでも好んで使ってきた文字のようだ。彼がPayPalと合併して作った会社が「X.com」で衛星打ち上げ企業は「Space X」、さらにテスラにもモデルXがある。息子の名前にもXを使っているし、最近立ち上げた人工知能のベンチャー企業名も「xAI」だという。そして、単に「X」が好きというのではなく、彼には未来に向けた遠大な計画があるようだ。

 Xは、オーディオ、ビデオ、メッセージング、支払い/銀行業務を中心とした無制限のインタラクティビティの将来の状態であり、アイデア、商品、サービス、機会の世界的な市場を創造します。AIを活用したXは、私たちが想像し始めた方法で私たち全員を結びつけるでしょう
「Twitter」は鳥のさえずりを意味することばを使って名づけられた。日本語では「ピーチクパーチク」で、周囲にうるさくまき散らすイメージだが、どういうわけか「つぶやき」と訳された。「さえずり」は周囲に向けたコミュニケーションのやり方だが、「つぶやき」は独り言で、相手を意識しない。いかにも日本人的な発想で、始まった頃に批判した覚えがある。面と向かったやり取りではなく、独り言をつぶやきあう。もちろん、つぶやきに反応してつぶやくのだが、さえずりよりは発言の力が弱められて広がることになる。発言に対する責任回避のやり方だと思ったものだった。

しかし、「Twitter」が「X」になることで、やがてこのSNSは「さえずり」でも「つぶやき」でもない別のメディアになってしまうのだろう。イーロン・マスクの野心には、そんな危惧も持つ。「X」は、これから彼が経営する他の「X」と名のつく企業と連携させて、よりビジネスに傾斜したものにするつもりだからだ。もうそうなったら、僕には用がないなと思ってしまう。

そう言えば、最近は「Twitter」をチェックすることも減っていたし、「FaceBook」などは、ほとんど見なくなっていた。どっちにしても、自分で書き込むことは、もう何年も前からやめていたが、最近では書き込む人の数もずいぶん減っていた。それに、どちらにしてもCMが多くなって、開けてもうんざりして、ろくに見もしなくなっていたのだ。

ネット上で面白いなと思ったメディアが人気になると、やがて買収されてビジネスの道具になる。その途端にCMが溢れ、面白さが失せていく。YouTubeもCMばかりだし、Amazonプライムも値上げをした。テレビに続いてネットも面白くなくなったら、何を見て毎日を過ごそうか。そんな不満を感じることが少なくない。


2023年7月30日日曜日

旅行者には円安がよくわかるはず

大谷選手の試合を見にロサンジェルスまで行った人たちがYouTubeに観戦記を載せています。おもしろいのは、球場までの乗り物について説明したり、球場内のストアでユニフォームや帽子などを物色したり、食べ物や飲み物を買ったりする様子で、一様に値段の高さに驚いています。

たとえば球場内でのビールの値段は16ドルで、円に換算すると2200円ほどになります。大きいとは言え紙コップ一つですから、買うのを躊躇したりする人も多いです。バイキング形式のレストランは35ドルですから5000円にもなりますし、スタンドで買う食べ物も2000円ぐらいはざらのようです。大谷選手のユニフォームは150ドル前後しますし、帽子だって50ドルもします。入場料を払い、飲食をして、お土産にユニフォームをということになると、一人でも数万円で、家族で行ったりすれば、10万円を超える出費になってしまうのです。

アメリカは好景気が続いていますから、物価の上昇はすさまじいようです。しかし、収入も増えていますから、暮らしている人たちにとっては、それほど驚くことではないでしょう。ところが日本人にとっては円安で1.5倍ほど多く払わなければなりませんし、上がりはじめたとは言え、日本の物価はここ10年以上、ほとんど変わらなかったのです。もちろん賃金だって上がっていませんから、実質的には、ここ数年で、日本人にとってアメリカの物価は4倍にもなったということになります。

逆に日本にやって来る旅行者たちにとっては、日本の物価の安さが大きな魅力になります。何しろ1コインで昼食が食べられたりして、しかもおいしいときたら、いろいろ食べ歩きもしたくなるでしょう。コンビニは24時間開いていて、いろいろな品物が満載です。100円ショップも驚くほどの値段と品数です。

アメリカに住む友人家族が来た時にも、日本の物価の安さが話題になりました。ちょっといいとか面白いと思ったものを次々と買って、こちらは驚くやら呆れるやら。コロナ前には中国人の爆買いが話題になりました。それをインバウンドによる景気回復などと言って喜んでいていいのかと思いました。

もちろん、裕福な外国人観光客目当てに、ばか高い値段をつけるといったこともあるようです。河口湖周辺のホテルや旅館でも、1泊4、5万円といった料金を付けるところがあります、他方でコンテナを改造した宿泊施設なども増えて、観光客も様々になっています。毎週通うスーパーのレジの人と話をすると、外国人の客が増えているようです。素泊まりの安いところに泊まって、食事はスーパーで調達。若い人たちにとっては、安く旅行が楽しめることでしょう。

最低賃金がやっと1000円を超えたといったニュースがありました。最近の物価高で食事も満足にできない人が増えていると言われています。外国人には安いと驚かれる品物も、収入がさほど増えない人にとっては、最近の物価高で死活問題になっているようです。税収をどうやって増やすかばかり考えている政府にとっては、目に入らない存在なのでしょう。

2023年7月3日月曜日

ジャニーズ騒動に見るメディアの正体

 

メディア、とりわけテレビのひどさは改めて指摘するまでもないことだが、ジャニーズ騒動での対応には、ここまで来たかと思わせられた。ジャニーズ事務所のオーナーだったジャニー喜多川による、自らスカウトした少年たちに対する性的虐待が、長い間にわたって行われてきたのに、一部の週刊誌を除いて、大半のメディアが不問に付してきた。それが話題になったのはイギリスのBBCが取り上げたからである。

喜多川がプロダクションを作ったのは1960年代後半で、最初のタレントは4人組みの「ジャニーズ」だった。そこから「フォー・リーブス」や郷ひろみなどの人気者を出して台頭し、80年代以降には「たのきんトリオ」「シブがき隊」「少年隊」「光GENJI」「SMAP」「TOKIO」「嵐」といったアイドル・グループを排出して、日本の芸能界を支配し続けてきた。ここにはグループから独立して、現在でもテレビで見かける人気者たちが大勢いる。

ジャニー喜多川による性的虐待を明るみに出せば、テレビは途端に、番組作りに困ってしまう。音楽やドラマ、あるいはバラエティーといった番組に出演するジャニーズ事務所のタレントは、それだけ大きな存在になっていた。しかもテレビだけでなく、新聞も雑誌も、この問題を隠し、遠ざけてきた。理由はおそらく、損得勘定によるものだったと思う。その根深さはBBCが大きく取り上げても、多くのメディアが無視し続けてきたことからもわかることである。

ネットで大きく取り上げられるようになってやっと、テレビや新聞が扱いはじめたが、まるで他人事で、自社がなぜ不問に付してきたかといった釈明をするメディアはほとんどない。このような態度はもちろん、今回に始まったことではない。原発広告と福島原発事故について、東京オリンピックと電通支配について、そして政権に対する忖度の姿勢について等々、取り上げたら枚挙に暇がないほどである。

テレビも新聞も、自らが社会的に影響力のある存在であるのに、そのことに対する自負も矜持もない。もちろん一貫した態度は自己保身と金儲けだけだから、責任の自覚とは無縁である。テレビの視聴率は落ち、新聞の発行部数は減り続けている。そうなればなるほど、目先の利益や保身に走るから、もう救いようのない泥沼に落ちていると言わざるを得ない。

しかしこのような状況はメディアにかぎらない。日本全体が今、泥沼に落ち込んでいる。で、そのことを見て見ぬふりをしているから、救いの道は見つけようがない。暗澹たる気持ちをずっと持ち続けているが、暗闇は増すばかりである。


2023年6月5日月曜日

なぜ政権支持率が上がるのか

岸田内閣の支持率が上がって不支持を上回ったという。およそ信じられないことだが、さもありなんとも思う。G7のサミットでは広島の原爆資料館を案内する岸田首相や、ウクライナからやってきたゼレンスキー大統領が大きく報道されて、会議が成功裡に終わったかのように世論操作されたからだ。サミットに反対する人たちの抗議行動があって、それが機動隊によって暴力的に抑えられたのに、メディアではほとんどふれられなかった。海外のメディアに報じられたことがネットで話題になったが、新聞もテレビもまったくの無視だった。

国内の緊急的な問題があって出席できないかもと言われていたバイデン米大統領は,今回も米軍基地から日本に入った。岩国基地から広島へである。日本を独立した国と思っていないからこそできる行為だが、この点についてもほとんど批判は聞こえてこなかった。もうそれが当たり前になったかのような振る舞いだが、屈辱的なことに違いはないのである。

サミットで自信を持った岸田首相については、首相補佐官にしているバカ息子が大学の友達を官邸に呼んで、大臣就任式に使う赤絨毯の階段でふざけて遊んだ様子が文春に暴露された。さすがに息子は更迭されたが、それでもたいした批判は起こらないから、首相自身は知らん顔を貫いている。自ら親族を呼んで忘年会をしたのにである。ぼんくらが傲慢になったら,これほど恐ろしいことはないだろう。

マイナンバー・カードについても不祥事が相次いでいる。行政機関や企業によるマイナンバーの紛失や漏えい、住民票の誤発行、あるいは悪用等々である。そのカードと健康保険証が一体化されて,医療機関ではすでにカードでの提出が行われていて、来年には健康保険証がなくなるという。任意のカードになぜ一体化できるのか。正当化できないことなのにごり押しして平然としているのはどうしてなのだろうか。そのカードに所有している金融機関の口座をすべて紐付けするといったニュースもやってきた。国民の財産すべてを国が管理するというのだから、独裁国家以外の何ものでもない。そんなひどい法案が国会で強行採決された。

ふざけた制度の改悪はほかにもある。介護保険制度について要介護1と2をはずして3だけにするようだ、しかも1割負担を2割にするという。それは富裕層限定だというが、その基準が年収280万円以上だというから呆れてしまう。制度があってもほとんどの人が使えないようにして、家庭で何とかしろというのである。言うまでもないが,メディアはそのことも批判どころかほとんど報じもしない。

収入は増えないのに物価は上がる。軍事費だけが倍増して、健康保険や介護保険といった社会制度が崩壊しはじめている。借金財政は破綻しかねない状況で、それを避けるために消費税をさらにあげようともしている。原発は60年を超えて、さらに使い続けるという。こんなひどい状況なのにどういうわけか株価はバブル期並に上がっている。もうめちゃくちゃだと思うが、選挙をすればやっぱり自民党が勝つようだ。

2023年5月22日月曜日

ルー・リードとビロード革命

rreed&havel.jpg" NHKのBSで「ロックが壊した冷戦の壁」という番組を見た。デビッド・ボウイ、ルー・リード、そしてニナ・ハーゲンを取り上げていたが、ルー・リードとチェコ・スロバキアの関係にふれた部分に興味を持った。共産党政権が倒れた後に大統領になったヴァーツラフ・ハヴェルとルー・リードの関係については、リードの伝記を読んで知っていたはずだが、そのほとんどは忘れてしまっていた。

velvet.jpg" ハヴェルが中心になって共産党政権に抵抗し,打倒した運動は「ビロード革命」と呼ばれているが、それはルー・リードのバンド名である「ヴェルヴェット・アンダーグラウンド」に由来する。ただし、ルー・リードが直接、その革命に関わったというのではない。ハヴェルがニューヨークで手に入れたレコードをチェコに持ち帰ったことで、それが大きな影響力を持ったということだった。共産党政権下ではロック音楽は厳しく弾圧された。リードの作る歌は決して政治的なメッセージを持つものではないが、何より「自由」であることをテーマにする。そのことがハヴェルの心に響き、チェコの若いミュージシャンたちに共鳴した。

ハヴェルが大統領に就任した直後の1990年4月に,ルー・リードはプラハを訪れている。この番組にはなかったが,彼の伝記によれば、最初は躊躇していたのに、「ヴェルヴェット・アンダーグラウンド」の曲を忠実に再現するバンドの演奏を聴いた後に,リード自らステージに上がって歌ったとある。番組では、ホワイトハウスに招待されたハヴェルがルー・リードの出席と演奏を求め,クリントン大統領の前で歌った様子が映されていた。ホワイトハウスはおよそ,ルー・リードには似合わないが、ハヴェルにとってはどうしても一緒にいてほしい人だったようである。

「私が大統領になったのはルー・リードがいたからだ」。このようなことばを公言する人がチェコスロバキアの大統領になった。ハヴェルは政治家ではなく劇作家だったから、共産党政権下からの変容がどれほどのものだったかと、今さらながらに思った。そのハヴェルはチェコスロバキアがチェコとスロバキアに分離した後も、チェコの大統領を2003年まで務めている。2011年に亡くなっているが,ルー・リードもまた2013年に亡くなった。ベルリンの壁前でコンサートをしたデビッド・ボウイ、東ドイツで弾圧に屈せず,抗議の歌を歌ったニナ・ハーゲンとは対照的なハヴェルとリードの関係に、僕は音楽の持つ力を強く感じた。

2023年5月15日月曜日

最近見た映画

このコラムは「メディア」がテーマだが、最近は映画を取り上げることが多い。と言って取り上げるべき映画が多いというわけではない。新聞にしてもテレビにしても、面白いものが少ないし、もう批判する気にもならないほど堕落したと思うからだ。そこにいくと映画には、権力に対して正面から立ち向かって、その悪を告発するといった作品が少なくない。今回はそんな作品を取り上げてみた。ただしどれもAmazonビデオであって、映画館で見たわけではない。

mauritanian.jpg" 『モーリタニアン・黒塗りの記録』は、ニューヨークで起きた同時多発テロに関わった疑いをかけられ、モーリタニアの自宅で警察に連行されて、キューバのグアンタナモ収容所に捕らえられたモハメドゥ・ウルド・スラヒの手記をもとにしている。厳しい訊問や拷問が繰り返されるが、主人公は決して関与を認めない。しかも起訴されたわけではないから裁判もなく14年も収監され続けたのである。

その不当さに気づいた弁護士のナンシー・ホランダーがさまざまな妨害にも屈せずに、無実であることと、不当な扱いを受けていることを告発する。開示された記録文書は黒塗りだが、スラヒ自身に収監中に受けた拷問や虐待を手記させて、裁判にまで持ち込むのである。裁判は2009年に始まり、2010年には勝訴するのだが、控訴されて2016年まで収用され続ける。で、アメリカ政府からの謝罪は結局行われなかった。

これはもちろん実際にあったことで、映画の最後は本人がディランの "The Man in Me" を「これは俺のことだ」と言って歌うシーンで締めくくられている。グアンタナモ収容所はオバマ大統領が閉鎖を決め、収容者の多くが釈放されたが、トランプが中断したためにまだ閉鎖されていない。

spotlight.jpg" 『スポットライト・世紀のスクープ』はボストンの新聞社で働く記者たちがチームを作って、カトリック教会内で行われた少年に対する性的暴行を取材し、記事として公開する話である。もちろんこれも実話で「ボストン・グローブ」紙は2003年に公益報道部門でピューリッツァー賞を受賞している。

始めは一人の神父を追ったのだが、やがて類似したケースが次々と見つかり、マサチューセッツ州だけで90人程度の神父が浮かび上がってくる。被害を受けた人たちから、その真相を聞きだすシーンは極めてリアルだが、一方でカトリック教会の圧力があり、記事にする最後の段階で同時多発テロが起こり、いくつもの壁にぶち当たることになる。最後には記事は公開されて、世界的な反響を呼ぶことになった。

こういう映画を見て、しかもそれが事実に基づくものであることを知ると、いっそう、今のメディアのだらしなさや権力への追従に腹が立ってくる。もちろん、例外的な事例だからこそ映画になるんだとも言えるだろう。権力に押しつぶされ、闇に葬られてしまうことがほとんどなのかも知れないとも思う。しかし日本では、こんな話はついぞ聞いたことがない。何しろ、「ジャニーズ」の件のように、外国のメディアに取り上げられても、国内のメディアは沈黙したままなのである。

2023年5月8日月曜日

一角獣とユニコーン

 

unicorn.jpg" 「ユニコーン」は角の生えた馬のような伝説上の生き物です。力強く勇敢で足が速いということから、一昨年以来、大谷翔平選手の活躍を讚える時の敬称として使われています。ヨーロッパに伝わる伝説上の生き物で,もちろん,実在したわけではありません。しかし、ギリシャの古典文学や旧約聖書、あるいはケルトの民話などに登場する,極めてポピュラーなものでもあるのです。確かに打って,投げて,走ると何役もこなして、しかもすべてが超一流という大谷選手にはふさわしい呼び名かも知れません。とはいえ、日本では馴染みのあるものではなかったので、「ユニコーン」だと言われても,あまりピンと来ませんでした。

その大谷選手は,WBCでの躍動以降、今年も投打にわたって絶好調です。4月の月間MVPは取れませんでしたが、それは投手と打者の二部門に別れているためで、両方で活躍しているのは彼だけですから、総合すれば毎月MVPをとってしまうのだろうと思います。まさに「ユニコーン」ですが、今年も彼のような二刀流の選手が現れてこないところを見ると、これは彼にしかできないことなのかもしれません。フリー・エージェントになってどこに行くのかといったことが連日騒がれていますが、ケガをしないで,このまま元気で活躍してほしいものです。

ところで「ユニコーン」は日本語では「一角獣」と訳されます。それに見合う伝説や物語はありませんが、先週紹介した村上春樹の『街とその不確かな壁』や『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』には壁に囲まれた「世界の終わり」という名の街に住む生き物として登場します。決して強くはなく,むしろ穏やかで弱く,冬には寒さと食べ物の不足で多くが死んでしまうのです。この街に住むためには、街の入り口で影を切り離さなければなりません。その影はやがて衰弱して死んでしまうのですが、「一角獣」がしているのは、その影が持っていた「心」を吸い取ることなのです。

この本を読みながら思ったのは,今の日本の社会そのものではないかということでした。「日本の終わり」という街では、徐々に衰えているのが事実なのに,人々はそのことに無関心です。もちろん,落日の経済大国で、生活が苦しくなっているのは明らかですが、そのことに目を向けないようにすることが、暗黙の了解事項であるかのようなのです。まるで「心」を「一角獣」に吸い取られてしまったかのように見えるのです。

他方で,この「日本の終わり」という街を支配する人たちは強欲で、壁の外に対する敵対心も強烈です。まさにやりたい放題ですが、それを批判する声は挙がりませんし、行動も起きません。こんな状況を見た時に思い当たるのは,「一角獣」とはメディアと教育システムではないかということでした。校則を厳しくして、自由な発言を制限する教育制度や、政権に忖度して、現実を見えないようにしているメディアこそが、人々の「心」を育てないように、失わせるように働いている。「ユニコーン」と「一角獣」が似て非なるものであることに、改めて気づかされた思いです。