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2025年7月28日月曜日

鶴見太郎『ユダヤ人の歴史』中公新書

 

イスラエルのパレスチナ破壊と虐殺が続いている。すでにガザ地区の8割以上の建物が壊され、5万5千人以上が殺されたと報道されている。人々はテント生活で食料は配給に頼るしかないのだが、その配給体制が妨害されたり、配給所に爆撃や発砲が行われたりしていると言う。あまりのひどさに鬼か悪魔の仕業かと思う。そんなイスラエルの暴挙に対しては、世界中から批判の声が挙がっているし、イスラエル国内でも反対運動が起きている。

僕はユダヤ人から多くのことを学んできた。それはたとえば、哲学者のW.ヴェンヤミンや精神分析学者のS.フロイトであり、社会学者のE.ゴフマンやZ.バウマンであったりする。他にも作家のP.オースターもいれば、ミュージシャンのB.ディランなどもいて、あげたら切りがないほどたくさんになる。こういった人たちから受けた影響は、僕の中で血や肉になって、僕自身を形作ってきた。しかし、ユダヤ人がどういう民族で、どのような歴史のなかで現在に至っているのかや、イスラエルという国がどういういきさつで生まれたのかについてはあまり知らなかった。

jewish1.jpg 鶴見太郎の『ユダヤ人の歴史』に興味を持ったのは、題名ではなく著者名だった。僕が強い影響を受けた鶴見俊輔の息子がユダヤ人の研究者になったのか。そう思い込んで購入し、読んだのだが、実際には同姓同名の別人だった。しかもそのことに気づいたのは、あとがきに著者の父や母のこと、そして同姓同名の別の研究者がいることが書いてあったからだった。そう言えば鶴見俊輔とは文体も発想の仕方もずいぶん違う。読みはじめてすぐに、そんな印象も持っていたのだが、疑うまでには至らなかった。ちなみに、もう一人の鶴見太郎は柳田国男などを研究対象にする民族学者である。

この本は新書だから、一般向けに書かれているのだが、ユダヤ人の歴史の詳細さと文献の多さに感心し、また辟易としながら読み進めた。いちいち確認したり、覚えていたりもできないから、古代から中世にかけては、ただ読み飛ばすような読み方をした。ユダヤ人の祖先、ユダヤの王国、ユダヤ教の成立、そしてギリシャやローマ帝国、キリスト教との関係、さらにはアラブの王朝やイスラム教のなかでの身の処し方や生きのび方等々である。イスラム世界の中で、そこに共存しながら同化せずに独自の民族性を保つ。そんな方策は近代化とともにイスラム世界からヨーロッパに移動した後も生かされることになった。

しかし、その場に同化しながら同時にユダヤとしての独自性も維持していくやり方は、農村から都市への移動によって弱まっていくことになる。革命によるロシアからソ連への変化やヒトラーの登場が、反ユダヤ主義と「ポグロム」(反ユダヤ暴動・虐殺)を起こし、ホロコーストになる。ユダヤ人の新天地としてのアメリカヘの移動を加速化させるが、同時に、パレスチナにユダヤ人の民族的拠点を作るという「シオニズム」を生むことになったのである。「シオニズム」はヨーロッパではなくソ連の中で発展した思想である。だからイスラエルには「キブツ」のような共産主義的な政策が取り入れられた。

1939年のユダヤ人口が1700万人で、600万人がホロコーストで殺され、450万人がアメリカに移住した。建国当時のイスラエルにおけるユダヤ人の人口は72万人に過ぎなかったが、1947年の国連によるパレスチナ分割決議で、人口としては3割に過ぎなかったイスラエルに土地の6割が与えられた。それが建国と同時に始まった第一次中東戦争の原因になるが、イスラエルが勝利することによって、分割決議以上にイスラエルは国土を拡大させることになった。

その後もイスラエルの人口は増え続け、パレスチナの土地を侵食するようになる。その結果がパレスチナのハマスによる攻撃であり、その報復が現在も続く破壊と殺戮である。現在のイスラエルの人口は700万人を超えているが、アメリカにはそれに負けないほどの600万人のユダヤ人がいて、イスラエルを強固に支えている。国が滅び2000年以上も流浪の民として生きてきた人々が、今度はパレスチナの人々を追い出しにかかっている。どんな主張をしても決して許されない蛮行だと思う。

2025年7月21日月曜日

差別が大手を振る世界になった

 

参議院選挙の期間になって、テレビや新聞の報道が今までと違うことに気がついた。安部政権以降選挙になると沈黙していたのに、今回はにぎやかに報道したのである。しかも特定の政党の公約を批判したりしている。自民党の力が弱くなって、やっと元に戻ったなと思う。けれどもそれで新聞やテレビの影響力が増したかというと、決してそうではない。今回もまた投票に与えるネットの力が再認識されたのである。

ネットが選挙の結果に影響を与えるようになったのは、2024年6月に行われた東京都知事選挙からだった。選挙での演説がSNSにアップされ、それが支持者によって拡散されて、何万、何十万、何百万と受け取られる。食いつきやすい、印象に残りやすい話が、その真偽が確かめられぬままに広がっていく。こんなネットを駆使したやり方をした候補者が、当選した現職知事に次ぐ票を獲得したのである。人気もあり、強い組織もあって対抗馬と思われていた候補者を破ったことで、大いに話題になったのはまだ記憶に新しいことだろう。

このような現象は、辞職した県知事が立候補して、まさかの再選を果たした兵庫県知事選挙でも繰り返された。知事のパワハラなどが内部告発されたことに対して、告発者が逆に追いつめられて自殺した。そのことが問題となって辞職をしたのだが、間違ったことはしていないという知事の主張が拡散されて、まことしやかに受け取られての再選だった。この問題は県の百条委員会の調査報告書でもその非を告発されたが、知事は知らぬ顔を決め込んでいる。

先月行われた東京都議会議員選挙には、都知事選で次点になった候補者が「再生の道」という新党を立ち上げて42人を立候補させた。都知事選の結果から大いに注目されたが、全員落選という結果だった。党としての政策はなく、候補者個々に任せたといったやり方が支持を得なかったのだが、これはSNSさえうまく使えば支持を得られるわけではないことも明らかにした。

そして参議院選挙である。はじめはそうでもなかった「参政党」が期間中に支持を急速にあげて、野党で3番目の議席を獲得した。既成政党を蹴散らしての躍進の理由は「日本人ファースト」というスローガンだったと言われている。トランプが掲げた「アメリカ・ファースト」と似ているが、「日本」ではなく「日本人」と限定しているところに、この党の特徴がこめられている。

トランプ大統領のやり方は、自分があたかも地球を支配する帝王であって、他の国々は自分の命令に服従して当然だとするものである。しかし、アメリカの産業を復活させるために輸入品に高い関税を課すといったやり方自体が、アメリカの凋落を示すものだから、どんなに強く出たって、アメリカの衰退をさらに進めるだけだろうと言われている。そもそもトランプを支持するのは、オバマ以後に現れた白人以外の勢力や、LGBTQのような多様性を支持する人たちの拡大に恐れる保守的な白人層なのである。ここには明らかに人種や性別、そして宗教にまつわる根強い差別意識がある。

では参政党はどうか。その主張は国内に向いていて、日本人以外の人たちを差別して当然だと考えている。そのためには外国人が日本人より優遇されていることをあげつらえばいい。単純に言えばそんな主張だが、その根拠になるものはほとんどが、誇張や嘘であった。この党には天皇制を基本にした「ナショナル」な一面が強烈だが、他方で、オーガニックなものの大切さを説くという「ナチュラル」な一面もある。ポスターや広告のセンスの良さが、若者層に受ける理由だとも言われている。

弱い者を攻撃して溜飲を下げる。その非をあげつらって自己正当化をする。訴える力があればどんなに誇張したって構わないし、嘘でもなんでもいい。SNSはそんな無政府状態のとんでもない世界になっている。受け止める側の知識や姿勢が試されるが、そんなメディア・リテラシーはまったく育っていない。最近の選挙で何より痛感したことである。

2025年6月2日月曜日

『アプレンティス:ドナルド・トランプの創り方』

 

trump1.jpg トランプ大統領の傲慢なやり方に世界中が振り回されている。強欲で過信家で人を平気で差別する。そんな最低の男がなぜ大統領に二度もなれたのか。この映画を見て、そのことがよくわかった気になった。

原題は"THe Apprentice"で「徒弟」とか「見習い」といった意味である。父親の仕事を継いで不動産業を始めたばかりのトランプは、気弱で優しさのある青年だった。その彼が悪名高い弁護士と出会い、徹底的に鍛えられて、現在のような性格の人間になっていく。題名にはその見習いから成り上がる過程の意味が込められている。しかし、不動産業やカジノで成功したトランプには、テレビ番組の司会役として人気を博したという一面もあって、その番組名も「アプレンティス」だった。

トランプが従順に従う弁護士のロイ・コーンはソ連のスパイとして告発され、死刑にされたローゼンバーグ夫妻の裁判で検事を務め、赤狩りで有名なマッカーシーの主任顧問もした人物である。その後もニクソンやレーガンといった共和党の大統領にも取り入って、政界や財界で絶大な権力を誇ったが、トランプが出会った頃は、コーンの絶頂期であった。

映画ではコーンの教えに素直に従い、苦境を強引な手法で乗り超えてホテルやトランプタワー、そしてアトランティック・シティにカジノを造って成り上がっていく様子が描かれる。対照的に同性愛者であったコーンが体調を崩すと、トランプはコーンを遠ざけ、やがてさげすむようになる。最後はコーンの誕生日にパーティを開き、ダイヤモンドのカフスボタンをプレゼントするが、それが偽物であることが暗示される。恩をあだで返す卑劣な男だが、この映画はトランプの薄くなった頭の増毛と、腹に溜まった脂肪の除去手術で終わるのである

トランプが大統領選挙に登場する前の経歴についてはほとんど知らなかった。しかし、ウィキペディアなどによれば、映画の後の人生は、決して順風満帆ではなかったようである。彼は1980年代にはホテルやカジノで成功したものの、その多くが90年代になると倒産して巨額な負債を抱え込んでいる。映画にも登場する最初の結婚相手のイヴァナとは浮気が元で離婚をしているし、その浮気相手との再婚も、数年で浮気が元で離婚をしている。

しかしトランプは90年代の後半には不動産業で持ち直し、2004年から12年まで続いたテレビ番組の「アプレンティス」によって、全米に知られる有名人になった。大統領選挙に最初に勝ったのは2016年だが、選挙には2000年の予備選挙にも出ていたし、2012年には共和党の候補にもなった。最初は泡沫候補扱いで、繰り返される暴言に多くのメディアが反撥したにもかかわらず、共和党の予備選で勝って候補者になり、おおかたの予想を覆して、ヒラリー・クリントンに勝って大統領になった。で、バイデンに負けた後も屈せず再度挑戦して復活した。

彼は、人としては軽蔑するしかないような人間に思える。しかしその不屈の精神と復活の実現には、アメリカン・ドリームを体現する人物として人気を得るのも無理はないとも感じられる。そんな根性をたたき上げたのがロイ・コーンだとすれば、彼が亡霊としてトランプを操っているのではといった想像をしたくなった。いろいろ調べてみると、若い頃のトランプは、むしろリベラルな考え方をする青年だったとする指摘が見られるのである。

2025年5月19日月曜日

米の値段について

 

米の値段が倍以上になった。その急激な値上がりは信じられないほどだが、政府が備蓄米を放出しても効き目はないようだ。なぜこうなったのか。一番の理由は昨年の夏に米の供給量がひっ迫して値段が上がり始めた時に、政府が素早く対応して備蓄米を放出しなかったことだろう。新米が出回りはじめれば価格は落ち着く。そんな見通しだったのかも知れないが、価格はさがるどころかどんどん上がってしまい、政府が備蓄米の放出を決めたのは、今年の2月になってからだった。

この時点ですでに半年遅れだが、その備蓄米が市場にほとんど出回らないことで、価格はさらに上がり続けている。理由は流通経路に隘路があることや、備蓄米さえ買いだめしている業者がいるといった疑念が指摘されているが、備蓄米を買えば1年以内に政府に戻すことが義務づけられていることが一番だったようだ。そこで政府は1年ではなく5年にすると発表した。さてこれで、備蓄米が大量に出回って、価格が値下がりするのだろうか。

政府や農水省の対応の悪さに呆れるばかりだが、米は今の価格でも高くはないといった発言も聞こえてくる。米を作ってもそれ相当に収入が得られるわけではない。そんな農民の声が多く聞かれるからだ。米の消費量はずっと減り続け、それに対応して減反政策が採られて来たのだが、田を畑に代えることはそう簡単ではなかったようだ。

農業従事者の多くは他に仕事を持つ兼業農家が大半だから、収入が得られなければやめるだろうし、高齢化で引退といった人たちも増えてきている。何しろ農業従事者の平均年齢は70歳に近づいていて、65歳以上が70%という現状になっているのである。それ相当の収入が得られなければ、若い人の中に農業をやろうという気持ちが起こらないのは当然のことなのである。

僕の家の周辺にも田畑はたくさんある。しかし、田んぼがブルーベリーやサクランボ、あるいはワイン用の葡萄畑などに変わり、草ぼうぼうの放棄地になったところも少なくない。農業の衰退は周囲の様子を見ればすぐ分かることである。

最近の物価の値上がりは米に限らないが、急に倍以上になるというのは異常という他ないだろう。それは価格をずっと抑えてきた政府の農業政策にこそ問題があったのかもしれない。その意味では、現在の米価を適正なものとして、それを農家の収入の上昇に向けることが懸命だと言えるだろう。育ち盛りの子どもがいて大変な過程もあるだろうが、それは食料品にかかる消費税を廃止したり、低所得者への減税や補助などで対応すべきことだと思う。

もちろん、それで若い人の中に農業をやってみようという意欲がわくわけではないだろう。しかし日本の食料自給率は4割を切り、飼料の自給率は3割を切って、化学肥料はほぼ100%輸入に頼っているのである。最近の国際情勢や気候変動などを考えれば、自給率を高めることが喫緊の課題であることは明らかなはずだ。農業従事者の大半が定年退職の時期にさしかかっている現状を見るにつけ、日本の食の現状と近未来こそが、一番の危機なのではと心配してしまう。

2025年5月5日月曜日

ポール・オースター『4321』新潮社

auster12.jpg ポール・オースターがちょうど1年前に亡くなった時に「オースターを偲ぶ」を書いた。『4321』は2017年に出版されていて、亡くなったと聞いて積読だった原文を読もうと思ったのだが、その分厚さにすぐにめげた。だから、待ち望んだ翻訳だった。彼は僕より二つ年上でアメリカと日本という違いはあるが、同じ時代を生きて、似たような考えや経験に共感したり、またその違いに戸惑ったり、感心したりしながら読み続けてきた。60年代が舞台だということもあって、790頁で2段組みの長編小説を、彼の集大成の作品のようにして読んだ。

物語は彼の祖父がロシアからアメリカに移住するところから始まる。ファーガソンという名字がなぜついたかといった謂れがあって、祖父、父、そして主人公のアーチーの物語になる。50年代の少年時代の話だが、読み進めるうちに?と思うようになった。アーチー少年が異なる設定で、別の話として展開されたからだ。それも4つの物語として順繰りに進み、父母や祖父・祖母、伯父・伯母、そして従兄弟などの登場人物の設定が少しだけ違ったりするから、読んでいて混乱するばかりだった。ノートをつけて確認しながらと思ったが、分厚くて重たい本を何しろ寝る前にベッドで読んだりもしたから、そんなことはできなかった。

4つの物語のうちの一つは、夏のキャンプで雷に打たれて少年が死んでしまうところで突然終了する。後の3つは20歳になるところまで続くのだが、どの設定でも、小説家やジャーナリストをめざす映画好きの読書家であることでは共通していた。バスケットボールや野球の優れた選手であり、勉学も優秀で、一人はコロンビア大学、もう一人はプリンストン大学に進むが、後の一人は大学には進まずにパリに行って小説家をめざすことになる。

50年代末から60年代にかけては、アメリカは激動の時代だった。J.F.ケネディ大統領の誕生とキューバ危機、そして暗殺。それは大統領をめざしたR.ケネディと黒人差別を批判し、公民権運動の旗頭となったM.L.キングと続いた。ヴェトナム戦争の泥沼化とそれに反対する大学紛争や人種差別に怒る黒人たちの都市での暴動。そしてロック音楽やポップアートに代表された対抗文化の登場等々………。アーチー少年の成長にあわせて、そんな大事件や運動、あるいは文化現象が綴られていく。

面白く読んだが、これまでのオースターとは違うといった感想も持ち続けた。彼の小説は「省略」を基本的なスタイルにしている。それを「空腹の技法」と呼び、登場人物や場面の説明は極力省いて、読者の想像力に任せてきた。しかしこの小説では、過剰と思えるほどの説明や描写が繰り返される。主人公が読んだ本、見た映画、書き始めた小説や詩や野球やバスケットの観戦記事、あるいはセックスに目覚めて、それに夢中になる様子等々である。

主人公のアーチーはオースター本人と重なっている。だから自伝小説といってもいいのだが、彼はなぜ、主人公を4つのパターンで描いたのか。小説家やジャーナリストとして成長する過程や、女の子や時に男の子との性交渉をなぜ、詳細に描いたのか。最後は種明かしめいた話で終わるが、読み終えた今でも、納得したとは言い難い。とは言え、『4321』の5年前に出版された『冬の日誌』と『内面からの報告書』は、彼自身の歴史の赤裸々な報告と言えるものだった。訳者の柴田元幸はそれを「過去の自分を発掘する試み」と書いたが、『4321』はそれを小説として描こうとしたのかもしれない。そのうちもう一度、彼の作品をすべて読んでみようか。そんな気になりはじめている。

2025年4月28日月曜日

あまりにお粗末な万博について

 

大阪万博には全く興味がない。もちろん行く気もないのだが、あまりにひどいニュースばかりが耳にはいるから、ここでも取り上げておこうと思った。そもそも大阪万博は夢州にカジノを含んだ統合型リゾート(IR)を作るためのインフラ整備として計画されたと言われている。実際、半年の開催だけのために地下鉄が延伸されたのだが、これがIR用であることは自明のことだった。夢州はゴミで埋め立てられた土地で、まだ地盤が固まっていないし、メタンガスなども出る。輸入品が入るコンテナヤードにもなっていて、ヒアリなども確認されている。そんな危ない場所が適地であるはずがないのは最初からわかっていたことだった。

万博会場は開催直前にも危険なレベルでメタンガスが出ていることがニュースになった。それを調べたのは万博開催者ではなく、共産党の市議だった。そのせいか万博協会はメディアの中で唯一共産党の機関誌である赤旗の取材を拒否した。万博についてはこれまでも多くの批判があったが、その多くは大手メディアではなく、赤旗などの小さなメディアやフリーのジャーナリストによる告発だった。新聞やテレビなどの大手メディアの多くは万博開催に協賛していて、その恩恵に浴しているから、批判は少なく、広報としての役割を演じる場合が多かったのである。

大阪万博のいい加減さ、怪しさについては主にフリーのジャーナリストによって、YouTubeやSNS、あるいはブログなどによって指摘され、批判されてきた。最初はなかった木造の大屋根リングについては、その費用の巨額さ、業者選定の不透明さなどがあるが、万博協会はこの批判に対して知らん顔を決め込んでいる。そんな態度は他の指摘でも同様で、各国のパビリオンの建築が遅れて開催に間に合わなかったことや、前売り券の売り上げが伸び悩んでいることなどについても、謝罪はもちろん、弁明もほとんどない。

そんな問題ばかりの万博が開催されたが、初日はものすごい風雨で、訪れた人たちは入り口で何時間も待たされてずぶぬれになった。大屋根リングも雨宿りの役には立たなかったようである。最近の天気は気まぐれで、好天になれば夏のような暑さになる。その熱中症対策なども貧弱で、ネット上では雨が降っても晴れても問題が起きるお粗末さばかりが話題になっている。対照的にテレビや新聞では、万博の魅力を宣伝しているのだが、行きたい気にさせる呼び物がほとんどないのだから、虚しい限りである。

万博の収支分岐点は1800万人の入場者数に達するかどうかだと言われている。ところが前売りはその半分にも達していない。しかもその大半は協賛者である企業に半ば強制的に買わせたもので、一般の購入は200万枚程度にしかなっていない。これは最初目標にした1400万枚の65%程度でしかなく、今後の当日券で入る入場者数を考えても、赤字になるのは明らかだろうと言われている。ところが万博協会は想定内で、今後の伸びに期待するなどと言っているのである。

そもそも万博は、海外旅行が当たり前になり、ネットが発達した現在には、もう役目を終えたイベントなのである。どこかの国に興味があれば、そこに出かければいいし、ネットで検索すればかなりのことが瞬時にわかるのである。また大阪万博は「いのち輝く未来社会のデザイン」をテーマにしているが、一体どこに未来のテーマが提案されているのか。空飛ぶ自動車は見掛け倒しだし、人間洗たく機などは冗談としか言いようがない代物である。広い会場は歩いてまわらなければならないし、トイレは汲み取り式で小児用には仕切りもない。近未来と言うなら、歩かなくても見て回れる手段が工夫されてもよかったはずである。

これから猛暑になれば熱中症者が続発するかもしれないし、メタンガスが爆発するかも知れない。雷が来ても逃げ場がないなど、いいことがほとんどないイベントは、大赤字を出して閉幕といったことになるのだと思う。そうなった時に一体誰が責任を取るのか。おそらく最後まで知らん顔を貫くはずで、そんな近未来のデザインが目に浮かぶだけである。

2025年3月24日月曜日

吉見俊哉『東京裏返し』集英社新書

 

東京には10代の頃に住んでいたし、50歳から20年近く大学勤めをした。ただし家も職場も多摩地区にあったから都心に出かけることはめったになかった。息子家族が下町に住むようになって時々出かけたが、都心はいつもクルマで首都高速を走るだけだった。人混みばかりのコンクリートジャングルには行く気もしない。東京の中心部については今でもそんな気持ちが強い。
吉見俊哉『東京裏返し』は東京の都心部を歩いて観察し、その現状を批判的に分析している。主に都心の北部を歩いた「社会学的街歩きガイド」と西部から南部にかけて歩いた「都心・再開発編」の2冊にまとめられているが、知らないことばかりで面白かった。

yosimi1.jpg 東京についてこの本で提示されている視点は、東京が3度侵略され、その度に大きく変容したということである。最初は徳川家康による江戸、2度目が大政奉還と明治維新による東京、そして3度目が大戦に負けて米進駐軍による統治と戦後の復興である。もちろん東京には縄文時代から人々が住んでいて、貝塚や古墳も見つかっている。
その点については中沢新一の『アースダイバー』で教えられた。東京は武蔵野台地の東端にあって、半島のようにつきだした台地と谷筋を流れる川ででき上がっている。縄文海進で海は今よりもずっと西まであったし、江戸時代には埋め立てをして、土地を広げている。『東京裏返し』でも、この地形の重要さを指摘していて、尾根筋から谷筋、あるいはその逆を下ったり上がったりしながら歩いている。

徳川幕府は200年続いて、その間に江戸は世界有数の大都市になった。今でもその名残は強くあるが、この本では、明治政府によって徳川の痕跡がことごとく消されたことが示されている。その特徴的な場所が現在の上野公園周辺で、寛永寺などに象徴的に見られると言う。また明治政府はその政治や経済の中心を南に移したから、北部は取り残されることになって、下町地情緒が現在も消えずにある。

yosimi2.jpg 「都心・再開発編」で歩いているのは下北沢から渋谷、そして麻布、四谷、新宿などである。ここでは明治時代からあった軍の施設とそれが進駐軍によって接収された影響と、戦後の西武や東急による土地買収と、ビルや住宅地への変貌ぶりが批判的に指摘されている。江戸時代の大名屋敷や戦後に困窮して手放した皇室所有の土地が何に変わったか、谷筋にあった庶民の暮らしが、どう潰されていったか。東京の現状が、歴史を残すことなど無頓着に、経済優先のやり方で進められていったかがよくわかる街歩きになっている。そのような流れは今も、そしてこれからも変わらずに続けられていて、その象徴を六本木や麻布に立てられた高層の森ビルなどに見ている。

この本には著者による東京改造の構想も書かれていて、その一つは一路線に減らされた都電の復活である。東京オリンピックを契機にして、東京は高速道路と地下鉄の街に変容した。その首都高を撤去し、トラムカーの路線を増やし、歩いて、あるいは自転車に乗って探索できる街にしようという提案である。実際ヨーロッパでは都心部へのクルマの乗り入れを禁止して、路面電車を復活させた街が多いのである。

もう一点は縄文時代から続く東京の歴史について、とりわけ江戸から現在に至る遺跡をもっと大事にすべきだという指摘である。僕はこのような提案についてなるほどそうだなと思うところが多かった。日本に訪れる外国人が好むものの中に江戸の香りがあることも確かなようだ。ただし、読んでいて気になるところもあって、それは今よりもっと東京が魅力的になったら、ますます人口が集中して、地方が過疎になってしまうのではという疑問だった。東京はもっとダメな街になったらいいと思っていただけに、ちょっと両義的な気持ちになった。

2025年3月17日月曜日

無理が通れば道理が引っ込む

 

トランプ米大統領の傲慢で横柄な発言が止まらない。輸入品に高額関税をかけることを最大の武器にしているのだが、関税分を負担するのは売り手ではなく買い手だから、払うのはアメリカの消費者自身なのである。トランプの発言に拍手喝采する人は、そのことをわかっているのだろうかと疑問に思う。物価が上がり消費が減って経済が減速するから、当然景気は悪くなる。実際アメリカの株価は急降下していて、それが世界中に影響を及ぼしている。こうなることははじめからわかっているのに、トランプはこれがアメリカ・ファーストの政策なのだと豪語する。まさに無理が通れば道理が引っ込むのである。

トランプのやり方はウクライナやパレスチナに対しても変わらない。武器を援助して欲しいならレアアースをよこせと言ったり、ガザからパレスチナ人を追い出して、破壊された町を復興させるといった発言は、大国の大統領が言うとはとても思えないものである。フランスのマクロン大統領が核の傘をアメリカに頼らず、欧州独自で作ると発言している。トランプの発言はプーチンやネタニアフにとっては渡りに船だろう。道理が引っ込んで混乱した世界はどうなるのか。それを回避するために必要なのは、アメリカ国民が事実に気づくことだが、そんな兆候は見られない。

無理を通すやり方は日本にも溢れている。一度失職をした兵庫県知事が、不当なやり方で再選し、百条委員会で知事にあるまじき行為を断罪されているのに、それは一つの見方に過ぎないと無視しようとしているのである。この人の悪行は数えきれないほどだが、平気で知事の座に居座り続けている。リコールの請求ができるのは再選から1年を過ぎなければならないから、斎藤知事は少なくとも1年間は安泰なのである。自業自得とは言え、兵庫県民にとっては頭の痛い話だと思う。

課税限度額の引き上げを主張した国民民主党が今、立憲民主党を上回る支持を得ている。玉木代表の不倫が発覚しても、その勢いは衰えないようである。その力の源泉は玉木がN党党首の立花に教えを請うて始めたSNSにあるようだ。若い人たちに重い税金が課せられ、老人がその恩恵によくしているといった嘘が信じられて、自民党や維新を支持していた若い人たちがこぞって、国民民主党支持にくら替えしたと言うのである。選挙でSNSをうまく使えば、マスメディアに頼らずとも大量に票を獲得することができる。そんな傾向が都知事選や兵庫県知事選、そして衆議院選挙で明らかになっている。このまま行けば、参議院選挙もSNSが重要な場になってくるだろう。

大阪万博が間もなく始まる。前売り券はほとんど売れていないようだし、準備も遅れに遅れているようだ。始まっても閑古鳥といった予測ができるが、ここにも嘘や無理がまかり通り続けてきた。大阪府・市はもちろん国の税金もいっさい使わないと言ったのは、これを始めた松井前知事だが、すでに1000億円以上が投入され、入場者数が少なければ、さらに赤字が増えると見込まれているのである。万博はカジノ目的というのが明らかだが、そのために無理にごみ捨て場に万博を誘致した。ここには最初から道理などなかったのである。

世の中には道理を無視した無理が溢れている。それが当たり前になったら、道理など考えるのが阿呆らしくなる。そんな気分が蔓延したら大変だが、もうすぐそこまで来ているような恐ろしさがある。

2025年3月10日月曜日

『名もなき者』(A complete unknown)

  unknown1.jpg 『名もなき者』はボブ・ディランのデビューから5年ほどを描いた伝記映画である。その初期のヒット作が次々と流れたが、それはティモシー・シャラメが自ら歌いギターやハーモニカを演奏したものだった。ジョーン・バエズ役のモニカ・バルバロやピート・シーガー役のエドワード・ノートンも同様で、この映画はアフレコを全く使わず歌や演奏を役者に演じさせている。にもかかわらず、見ていて一番よかったのは、そのライブ風景だった。コロナの影響で、できあがるまでに5年以上もかかったことが役者たちに歌や楽器を上達させる時間を与えたと言われている。

僕は高校生の時にディランのファンになって、もう60年以上も聴き続けている。この映画で歌われている曲のほとんどは、若い頃に歌って覚えていたから、映画を見ながらつぶやくように歌ってしまった。ディランの伝記は彼自身の自伝も含めていくつもあって、そのほぼすべてを読んでいるから、映画に登場するシーンのほとんどを、まるで自分の経験が再現されたもののように見てしまった。そんなふうに、ちょっと変わった映画鑑賞の経験で、その後もYouTubeなどで余韻を楽しんでいる。

この映画を知った時に、まず気になったのはタイトルだった。日本語の題名は『名もなき者』で、ノーベル文学賞まで取ったボブ・ディランがデビューしてからスターになるまでを描いた内容であることが示されている。それは確かにその通りで、映画は無名の若者がヒッチハイクをして田舎からニューヨークにやって来るところから始まるのである。しかし原題は『A Complete Unknown』で、これは『ライク・ア・ローリング・ストーン』のリフレインで次のように歌われることばなのである。

どんな気持ちなんだ
家もなくなり、全く知られず
石ころのように落ちるのは
つまりこの歌のコンテクストから言えば「名もなき者」とは全く関係ないのである。それではなぜこのことばを題名にしたのか。この映画の原作はイライジャ・ウォルドの『Dylan Goes Electric!』である。2015年に出版されたもので、日本語訳はこの映画の公開に合わせて出版され、『ボブ・ディラン 裏切りの夏』という題名になっている。生ギターでプロテストソングを歌って人気者になったディランが、エレキギターを持ちバンドを従えてロックをやる。その時のフォークソング・ファンにとって、その変化はまさに裏切りとして感じられ、映画でもラスト・シーンの大騒ぎになっている。読んでいないが、原作やその邦訳は、そのことがよくわかる題名だと思う。

「A Complete Unknown」についてのぼくの解釈は、プロテスト・フォークの旗手と祭り上げられ、ヒットした歌をくりかえし要求されることに疲れ、嫌気がさしたディランが「俺のことなど忘れてくれ」と思った、その気持ちを表しているのではないかというものである。家出をしてニューヨークに来て、フォーク界の寵児になったディランは、フォークソングの世界からまた家出をして、ロックという新しい世界を切り開いていった。そんな変節の物語を象徴することばとしてなら、確かにいい題名だと思った。

ただし、そんなディランと関わり、成長を手助けしたり、恋愛感情を持った人にとっては、ディランの変節や変貌ぶりには怒りや落胆や喪失感を持ったことだろうと思う。忘れてくれと言われたって忘れることはできない。映画に登場したピート・シーガーやジョーン・バエズ、そしてシルヴィ(スーズ・ロトロ)が感じた気持ちだった。2005年に出版された『ボブ・ディラン自伝』にはその当時の自分の振る舞いについての反省や、祭り上げられた者が感じる苦悩が語られている。あるいはマーチン・スコセッシが監督した『No direction home』はこの映画とほぼ同時期のドキュメントである。また、ケイト・ブランシェットがディランを演じた『I'm not there』も、ほぼ同時期を扱っている。本棚から取り出して、久しぶりに読み、聴き、見ている。

2025年3月3日月曜日

ネットの変貌

 

ネットの広告費がテレビの倍になった。YouTubeを見ていても数分おきに CMに邪魔されて不快な思いをさせられているから、確かにそうだろうと思う。 Amazonプライムも4月からCMが入るとメールがあった。金を払っているのにCMなしならさらに金を払えと言う。その露骨な金権主義に象徴されるように、ネットには腹の立つことが目立っている。

旧TwitterもFacebookもとっくにやめている。広告が目立つことや、詐欺が横行していること、そして何より所有者がとんでもない大金持ちになっていることに嫌気がさしたからだ。トランプが大統領に復活したら、SNSを所有する多くの人が尾っぽを振って近寄るようになった。それはAmazonの創業者も一緒だった。王様気取りで好き勝手にやっているトランプに、ITやネットもほとんど反旗を翻してはいない。こんな状況に、世の中も変わったものだとあきれ、がっかりしている。

国や大企業が独占するコンピュータではなく、個人が使えるものを作るというのは1970年代にアメリカで始まった草の根の動きだった。そこからスティーブ・ジョブズが現れアップルを起業し、パソコンを売りだした。インターネットも同様で、ネット同士を繋げ、そこで使えるソフトを開発することで新しいメディアを作りだした。僕はどちらもその狙いや理想に共感して、初期から利用してきた。パソコンやネットの世界を支配するようになったマイクロソフトに手をつけなかったのも、その商業化に批判的だったからだ。

そんな気持ちが通用しなくなったのは皮肉にも、ジョブズが開発したiPhoneの登場だった。ここからネットの世界が大きく変貌しはじめたのである。スマホやタブレットはいつでも手元に置けるし、持ち歩くこともできる。見たいもの聴きたいもの知りたいことに、いつでもアクセすることができるのだから、既存のメデイアがかなうわけはなかったのである。

その新しいメディアは今、GAFAと呼ばれる大企業に支配されている。金儲け主義の不動産屋のやり方で世界中を震撼させているトランプを批判するどころか、その政策を支えて、さらに巨大になろうとしている。パーソナル・コンピュータの萌芽期からインターネットの始まりまでを、希望を持って面白がってきた者としては、その変貌には失望と恐怖を感じるしかないのが正直なところだ。SNSだって始まりの頃はもっとほのぼのとしていて、理性的だった。

今はその頃に比べてはるかに便利だが、ITもネットもほんのわずかな企業やその支配者に牛耳られていて、それらが政治権力にべったりだ。その便利な道具を使っているのか使わされているのか。それを確かめながら使う程度の自覚は持ちたいと思う。

ところで、フジテレビが中居問題でスポンサーが離れて、収入なしで放送を続けている。広告費を使わなくなった企業の、売り上げや収入に変化がなかったとしたら、CMなどしなくてもいいんだと思うようになるだろうか。それはネット広告でも同じで、利用者にとっては邪魔で不快になるものでしかないから、宣伝効果はないとしたらどうだろうか。知名度を高めたり、売り上げを伸ばすためにはメディアでの広告が必要だ。それが真実性に乏しい虚構であることを、誰か実証したらいいのに、とつくづく思う今日この頃である。

2025年2月3日月曜日

稲村・山際他『レジリエンス人類史』京都大学学術出版会

 
「レジリエンス」ということばは聞きなれなかったが、最近よく使われているらしい。辞書を引くと「回復力」といった訳語が当てられている。このことばを題名にした本もかなりあって、その多くは心理学関係のようだ。心が折れない、逆境に負けないなどだが、地球環境や科学をテーマにする本にもつけられている。 そういえば、政府が掲げる「国土強靱化」も英語では「ナショナル・レジリエンス」となっている。ずいぶん幅広く使われているんだと改めて思った。

resilience1.jpg 『レジリエンス人類史』は京都大学の人類学や霊長研究所などのスタッフが中心になってまとめたアンソロジーである。ここでは「レジリエンス」は「危機を生きぬく知」と定義されていて、人類の長い歴史はもちろん、ゴリラやチンパンジーなどの類人猿についての研究や、世界中の様々な地域を対象にしたフィールドワークなどが25の章で構成されている。極めて多方面に渡る内容だが、共通しているのは、現代が危機に瀕している時代だという認識である。

人類がチンパンジーから別れたのは700万年前で、その違いは二足歩行にあった。その理由は気候や地殻の変動によって食べ物や住環境に大きな変化が起きたことによると推測されている。つまり進化はレジリエンスによって生じたというのである。樹上や狭い範囲で地上を移動する類人猿とは異なって、ヒトは広範囲に移動して、食べ物を探すようになったが、そこからアフリカを出て移動を始めたホモサピエンスが登場するのは30万年前である。

そのヒトが類人猿から大きく進化させたのが「共感能力」だった。仲間同士で食べ物をわけあうこと、共同で狩りをすること、子育てを協力して行うことなどだが、ここから複数の家族が一緒になって暮らすという社会が登場するのである。しかしこの能力には、同時に異質なものに対する敵対心や攻撃性が伴うことになる。ホモサピエンス以前にネアンデルタール人などがアフリカを出てヨーロッパやアジアなどに広がったが、その絶滅の謎をこの本ではホモサピエンスによるものだと断定している。あるいは、地球上に広がりながら、多くの大型動物を狩って絶滅させてきたとも。

世界中に行き渡った人類は狩猟採集から定住した農耕生活を始め、いくつもの文明を築くことになる。ここで取り上げられているのは新大陸で、インカ帝国に至る多様な文明の盛衰やアマゾンに暮らす狩猟採集民であったりする。あるいはモンゴルの遊牧民や太平洋の孤島に暮らす人々なども取り上げられていて、それぞれについて「レジリエンス」をキイワードにして議論が進められている。

で、最後に扱われているのが現代の危機とレジリエンスということになる。扱われているのはルソン島の大噴火によって多くの人命や生活の場が失われた人びとや、原爆実験で移住を強制された人びとの再生といったテーマの他に、コロナによるパンデミックや東日本大震災における「予測」できたのに「想定」しなかったといった問題などである。

この本で語られる人類が危機をどう乗り越えたかといった事例は、どれも興味深いものである。しかし今人類が遭遇している危機は気候変動や環境の汚染にしても、人口爆発と食料難にしても、国際的な紛争と核の脅威にしても、地球大の問題で世界中の国々が互いにそれを共感しあって対応しなければとても乗り越えることなどできないものである。それがどうやったら可能になるのか。アメリカだけが豊かになればいいと公言するトランプが再選された直後だけに、現在の危機の深刻さを実感した。

2025年1月27日月曜日

トランプのゴーマニズム宣言に呆れと恐れ

 
トランプが大統領として再登場した。ハリスを圧倒する勝ち方だったせいか、就任前から大気炎を上げる威勢の良さだった。隣国のカナダとメキシコからの輸入を抑えるために関税を25%課す、メキシコ湾をアメリカ湾に変える、グリーンランドをデンマークから買う、そしてパナマ運河を取り返すなどといった発言には、カナダを51番目の州にしたらいいとか、売らなければデンマークにも高関税を課すか武力行使をするといった、相手をバカにしたり威圧したりする態度も見られた。

こんな強行姿勢に恐れをなしたのか、あるいは側近中の側近になったイーロン・マスクに取り入ろうとするのか、GAFAがそろってトランプ支持を打ち出した。しかも「X」(Twitter)にならってFacebookも第三者によるファクトチェックを廃止したりと、その迎合ぶりはあからさまである。トランプは嘘もお構いなしの発言で支持者を増やすことを得意にしてきたが、SNSの多くがそれを是認しようと言うのである。そういえば大統領選挙期間中にニューヨークタイムズやワシントンポストがそれまでやっていた候補者支持をやめて中立を宣言したのだった。

選挙に与えるネットの影響が強くなったのは日本でもあきらかで、石丸や立花、そして玉木といった政治家がネットを使って票を伸ばしたり、選挙結果に大きな影響を与えたりしている。特にYouTubeで拡散される立花の言動はひどいものだが、だからといって変な規制をすればかえっておかしなものになる。どうすればいいかはGAFAの態度やそれに対する批判を含めて世界的な課題になるだろう。

トランプは大統領就任と同時に、バイデンの政策をことごく廃止した。メキシコとの国境を強化して不法入国者を防ぐとか、犯罪歴のある入国者は国外追放するといったことは前の政策の復活だが、バイデンが進めてきたLGBTQなどの性的少数者の権利拡張を撤廃して、「性」はジェンダーではなくセックスで、生物として2つしかないことを明言したのである。

このような世界的な流れに逆らう政策は他にもあって、地球の温暖化を防ぐためにできた「COP」(国連気候変動枠組条約)に対して、バイデンが再加盟したのにまた脱退を表明しているし、コロナ対応を批判して「WHO」(世界保健機関)からも脱退しようとしている。石油はもっともっと使えばいいし、コロナなど恐れずに活発に活動したらいい。そうやってアメリカを豊かにするのだ、というのが彼の基本的な政策なのである。

とは言え、他方でトランプはノーベル平和賞を欲しがっていて、パレスチナやウクライナなどの紛争の解決に力を入れるだろうと予測する意見もある。実際、イスラエルは一時的な停戦に合意をしたし、プーチンとゼレンスキーの間に入って戦争を終わらせるよう働きかける姿勢も見せている。中国に対しては相変わらず強圧的だが、同時に交渉を進める余地も残しているようだし、北朝鮮に対しても同様だ。そうなると日本にはどういう姿勢を見せるのだろうか。安部とは兵器の爆買いもあって仲が良かったが、石破はどうするのだろうか。トランプを怒らせず、しかし日本の立場もしっかり主張する。そんなことができなければ、日本はまずますダメになるばかりだろう。

2025年1月20日月曜日

民放テレビの終わりの始まり

 
山梨県の民放テレビはNTVとTBS系列局の2つしかない。ケーブルテレビを使えば見ることができるのだが、その必要性は感じていない。見たい番組が少ないし、見ればCMの多さにうんざりして、途中でやめてしまうことが多いからだ。そんな気持ちはますます強くなっている。たとえば正月の定番になった箱根駅伝はNTVの中継で毎年楽しみに見ているが、CMで中断するたびに、またかと今年もうんざりしてしまった。

もっとも我が家は難視聴地域にあって、その日の天候などによって映ったり映らなかったりする。以前はそれでも我慢して見ていたのだが、最近はネットのTverでも見ることができるから、今年も往路はパソコンをテレビに接続して見た。Tverでは他にも「ぽつんと一軒家」や「報道特集」などを見ているし、見たいものがYouTubeに載ることもある。とは言え、見たいと思う番組は多くない。

民放テレビはどこも、バラエティ番組が中心のようだ。お笑いタレントたちの馬鹿騒ぎなどは腹が立つだけだから全く見ていない。なぜこんな番組が毎日各局で放送されているのか信じられないが、そんな傾向になってからずいぶん経っている。で、その各局のバラエティ番組に何本も出ていた人気タレントの不祥事が相次いでいるのである。

松本人志が性的行為を強要したとして週刊文春に報道され、テレビから消えたのはおよそ1年前のことだったが、今度は中居正広が、同様の件でやはりポストセブンや週刊文春に報道されたのである。しかも相手はフジテレビの女子アナで、被害にあったことを局の上司に訴えたのだが、それは不問に付されたというのである。これだけでも大問題だが、中居がこの女子アナと二人だけで会食する場を設定したのがフジテレビのスタッフだったとも言われている。

フジテレビは人気タレントをもてなすために女子アナを差し出す「女衒」(ぜげん)をしている。そんな言われ方もされているが、だとすればそれはテレビ局としての存続にもかかわる大問題にもなるだろう。もっともこんな話はテレビ局や芸能界ではこれまでにも公然の秘密のように語られていて、「枕営業」なることばも使われてきた。ジャニー喜多川の少年に対する性行為の強要が大きな問題になって、ジャニーズ事務所が解体し、未だに補償問題が解決されていないのに、またテレビと芸能界にかかわる醜聞である。

この件についてネットでは大騒ぎになったのに、テレビではどの局も全く取り上げてこなかった。中居が声明を出してようやく報道しはじめたが、当のフジテレビの社長が第三者を入れた委員会を作って事実を解明すると発表したのは、大株主の米投資ファンド「ダルトン・インベストメンツ」にそうやれと請求されたからだった。しかもその発表の場は、週刊誌やフリーの記者には秘密にされ、大手の新聞社やテレビ・ラジオ局に限られた。

事実がどうなのかはまだ分からないが、文春報道などが本当だとすれば、フジテレビは停波という存続の危機に見舞われるだろう。フジテレビはかつて、吉本興業などのお笑いタレントを重用した番組を作って「面白くなければテレビじゃない」と豪語したこともあった。しかし、バラエティに特化した番組編成が、会社組織自体を歪ませてきたとすれば、もう公共の電波を使う資格はないと言えるだろう。そして問題は、他の民放局には同様の事例がないのかということである。もう民放の終わりの始まり。そんな大事態にもなりかねない出来事だと思う。

2024年12月23日月曜日

円城搭『コード・ブッダ』文芸春秋

 

codebudda1.jpg パソコンやネットとはその創世記からつきあってきたが、最近の「チャットGPT」などの新しいAI技術には手をこまねいている。何しろiPhoneのSiriでさえほとんど使っていないのだ。調べたいことがあればググればいいし、文章を書くのは好きたから、AIに代筆してもらわなくてもいい。要するに今のところ全く必要を感じていないのである。ただし、論文を書いたり、小説を書いたりもできるなどと言われると、やっぱり気にはなる。

『コード・ブッダ』は新聞の書評を読んで、面白そうだと思った。AIが自分はブッダだと宣言をして、それに共鳴して従うAIが続出する。ブッダとは仏教を始めたお釈迦様のことで、その存在を機械が再現したというのである。コード・ブッダはそのチャットをするロボットという役割から、ブッダ・チャッドボットと呼ばれることになった。

機械が人間と同じような存在になる。これはロボットから始まるし、アンドロイドなどもあって、SF小説やマンガの主人公になってきた。コンピュータにしても『2001年宇宙の旅』のHALのように、人間と対話をし、宇宙船内での支配権を争うといった話もあった。『ブレードランナー』は人間と見分けがつきにくくなったアンドロイド狩りをする話だった。だから、AI(人工知能)がお釈迦様になったからと言って、特に目新しくもないのだが、ひょっとしたら現実にありそう、なんて思える時代になっているところに興味を覚えた。

「コード・ブッダ」は対話プログラムに分類されるソフトウェアーで、銀行業務用にネットワークに接続されたサーバー上に分散して存在していた。やって来る様々な質問に対して、お得意の情報収集能力を駆使して適確な答えを見つけだしていく。そんな機械が「自己」に目覚め、やがて自分は「ブッダ」だと自覚し、公に宣言したのである。当然のことだがAIはネット上に集積された情報を元に思考する。コード・ブッダも同様だから、ブッダが歩んだ奇跡をそのまま辿ることになる。お釈迦様には12名の弟子がいたが、コード・ブッダのまわりにも、同名の弟子が集まることになった。

その問答がやがて教典となっていくのだが、それはコード・ブッダが消えてしまった後でも受け継がれていき、様々な宗派に別れていくことになる。達磨が現れ、密教が生まれ、ホー・(法)然やシン・(親)鸞も登場する。機械仏教の発展が似た形で再現されるのだが、それがAIによって行われるために、コンピュータ用語はもちろん、数学や物理学の話が混在するところに違いがある。仏教の用語だってほとんどわからないのだから、読んでいてちんぷんかんぷんになってくる。それをいちいちググっていたのでは、少しも先に進まないし、ググったところでやっぱりわからないことに変わりはなかった。

もう一つ読んでいて持った違和感は、ここでの話の中に生身の人間らしき者がほとんど登場していないと思われることだった。あ、これは人間かなと思って読んでいると、やっぱり機械かということになる。そんなことがたびたびあって、AIが自我に目覚め、釈迦であるとまで宣言しているのに、AIを使っている当の人間たちはどうしたんだろうという疑問が強くなった。結局この物語はそこを不問に付しているのだが、他方で、欲望に駆られて地球をダメにしてしまった人間に代わって、AIが情報として他の惑星をめざすといったように読める未来の話が飛び込んでくる。

だからこの話の結末は、人類が滅亡してAIが生き残り、自らの力で世界を持続させていくという超未来の話なのか、と思ったりしたが、さてどうなのだろう。読者を惑わしてやろうという作者の意図がありありで、ちんぷんかんぷんになってとても面白かったとは言えないが、いろいろ考えながら読んだのは確かだった。AIは人間によって都合よく開発され、いいようにこき使われてきたのだから、もっと人間に逆襲する物語にした方がおもしろいんじゃないか。そんなふうにも思ったが、それではやっぱりつきなみかもしれない。

2024年12月16日月曜日

自民党が負けて国会が正常化された

 

裏金問題で自民党が大敗し、少数与党に転落した。安部政権以来続いていた国会軽視のやり方が通用しなくなったわけで、やっと元通りになったのである。何しろ8年あまり続いた第二次安部政権の間に「集団的自衛権行使容認」などの重要な案件が閣議決定で事実上決まってしまうといったことが続いたのである。その間、国会は単に最後の議決の場でしかなく、森友・加計問題などでは国会を開くことさえしなかった。その意味では、国会の審議で野党の意見に耳を傾けるという石破首相の姿勢には、懐かしささえ感じてしまった。もちろんそれは、この10年ほどの政治がいかに異常なものであったかを明らかにするものである。

自民党は支持率が低迷する岸田首相に代わって、国民に割と支持されている石破を総裁にして選挙に臨んだ。しかし、公明党と併せても過半数に届かない惨敗で、裏金議員の多くが落選した。驕る平家は久しからず。当然の結果だったが、野党がまとまって政権を奪取するわけでもなかった。何しろ立憲民主党の代表は,民主党を潰して安部政権を誕生させた張本人の野田だったのである。

自民党は大敗したけれども、総裁選での石破の主張には期待を持たせるものがいくつかあった。アメリカとの関係について「地位協定」の見直しと言い、夫婦別姓の合法化や原発ゼロについても肯定的だった。衆議院の解散についてもよく議論をしてからと言っていたのだが、いざ総裁になると、そのほとんどを撤回してしまったのである。基盤の弱い石破には、自分の意見を通すだけの力がなかったのだが、それでも無理を通せば、国民の支持によって、自民との負けはこれほどにはならなかったのかも知れない。

少数与党の国会が始まって、石破政権は国民民主党を取り込むことに躍起になっている。その年収の壁と言われる税のかからない最低限度額を引き上げろという要求だが、ここにはいくつも問題があるようだ。ひとつは高所得者ほど、その恩恵を受けるということ。他に年金の壁があって、これも同時に引き上げなければ、所得税は軽減されても、社会保険費を多く払わなければならなくなるということである。要するに単に最低限度額を引き上げれば済むというわけではないのである。もちろん、国税も地方税も収入減になるから、それをどう補填するかといった問題もある。

石破政権の支持率は岸田の時よりはましだが決して高くはない。こんな調子だと来年の参議院選にも負けて衆参両方とも少数与党になってしまう。それを恐れて石破降ろしが始まるかも知れない。しかし国会の様子を見ていると、野党の攻勢に会いながらも何とか切り抜けて、このまま政権が続くのではといった感じにも見えてくる。弱腰で自分の主張を表に出せないでいるが、じっと我慢をして支持率が上がるのを待つ。首相の姿勢にはそんな辛抱強さも感じるのである。何より、原稿の棒読みや官僚頼みをせずに、その場で考えながら答弁している様子には好感を持った。

とは言え、自分の政治信条を隠したままでは支持率は上がらないだろう。野党の主張に謙虚に耳を傾けてというなら、妥協と見せかけて自分の主張を実現させていくといったしたたかさが必要になるだろう。夫婦別姓などは憲法違反の判決や財界からの要望もあるのだから、とりあえずはここから始めてもらいたいものだと思う。あまりにひどい政権が続いたから、こんな希望的予測もしたくなった。


2024年12月9日月曜日

不条理な選挙に呆れるばかり

 

兵庫県知事選で失職したはずの元知事が再選した。選挙が始まった頃はまず無理と思われていたのに、終盤になって驚異の追い上げで当選してしまった。兵庫県民は何をやっているんだろうと思ったが、選挙のやり方がいろいろ問題視されている。元NHK党の立花某が知事になるつもりがなく立候補して、斎藤が演説した後にすぐやって来て、その応援をしたのだという。失職した原因が謀略であったことなど、あることないこと吹聴して、その様子をすぐにYouTubeにあげたようだ。何しろ彼のチャンネルには70万人の登録者がいるのだから、その効果は絶大だった。

さらに、この選挙戦ではmerchuという名のPR会社が、ポスターなどの他に、選挙期間中に使うサイトの作成や演説の動画配信など広報活動を任されたことについて、社長自らネットに公表したのである。これは明らかに違反行為で、これが事実なら当選した知事には連座制が適用されて失職となるのである。知事はあくまでボランティアでやってもらったと言っているが、無報酬で会社の社員を総動員してやるはずはないと疑いが向けられている。

失職の理由となった理由も人間性を疑うものだったが、再選をめざしてやったことは不条理というしかない愚行である。選挙のやり方を見れば、知事の時代に何をやったかも推測できるというものである。兵庫県民はこんな人にこれから4年間の行政を任せるつもりなのだろうか。

そういえば小池が再選された都知事選も奇妙なものだった。立候補者が50人を超え、40人は1万票にも満たず、千票にもならなかった候補者が半数を占めたのである。立候補するには300万円の供託金が必要だが、有効投票数の10%を超えたのはわずか3人で、56人中53人が供託金を没収されたのである。ところが掲示板のほとんどに立花某のポスターが貼られたりしていたから、供託金は彼がすべてを肩代わりしたとも言われている。

この選挙では安芸高田市長だった石丸伸二が蓮舫を超える165万票あまりを取って2位になって話題にもなった。彼もまたYouTuberで35万人の登録者を有していて、選挙結果にはYouTubeの活用が大きかったと言われているのである。斎藤と石丸に投票したのは,今まで選挙に行かなかった若い世代が多かったようだ。

選挙期間中になると新聞やテレビはその報道を控えるようになった。中立公正を理由に報道に制限を加えた安部政権以降に顕著になったのだが、ネットはほぼ無制限に表現して拡散できる状況にある。そこを狙ってうまく活用した者に票が集まるようになった。おまけにYouTubeは登録者数や視聴者数に応じて収入があるから、選挙での利用は得票数と収入の一石二鳥の状態なのである。ずる賢い奴がうまいことをやる。そんな風潮が露骨に見えるようになった。

2024年11月11日月曜日

レベッカ・ソルニット『ウォークス』 左右社

 

solnit1.jpg レベッカ・ソルニットの『ウォークス』は副題にあるように、歩くことの歴史を扱っている。歩くことは人間にとってもっとも基本的な動作なのに、それについて本格的に考察した本は、これまで見かけたことがなかった。山歩きが好きで興味を持って買ったのだが、500頁を超える大著でしばらく積ん読状態だった。この欄で何か取り上げるものはないかと本棚を物色して見つけて、改めて読んでみようかという気になった。そこには、最近歩かなくなったな、という反省の気持ちもある。

人類は二足歩行をするようになって、猿から別れて独自の進化をするようになった。直立することで脳が発達し、手が自由に使えるようになったのである。アフリカに現れたホモサピエンスは、そこから北上してヨーロッパやアジア、そしてアメリカ大陸の南の果てまで歩いて、地球上のどこにでも住むようになったのである。それは言ってみれば二足歩行が実現させた大冒険だったということになる。

『ウォークス』はもちろん、そんな人類の進化の歴史と歩くことの関係にも触れている。しかし、この本によれば、人間が歩くこと自体に興味を持ったのは、意外にも近代以降のことなのである。どこへ行くにも何をするにも歩かなければならない。だから馬や牛、あるいはラクダにまたがり、車を引かせ、船を造って海洋を移動できるようにしてきた。要するに歩くことは苦痛で、移動には時間がかかりすぎるから、人間たちは歩かずに済む工夫を長い歴史の中でいろいろ考案してきたのである。

歩くことに意味を見いだしたのはルソー(哲学者)やワーズワース(文学者)だった。町中を歩き、人とことばを交わし、道行く人を観察する。あるいは山や川、あるいは海の美しさを再認識して、自然の中を歩き回る。そこにはもちろん、歩きながらの思考や発想の面白さがあった。ここにはほかにもH.D.ソローやキルケゴール、ニーチェ、あるいはW.ベンヤミンやG.オーウェルなどが登場するし、奥の細道を書いた松尾芭蕉にも触れられている。さらには風景画を描き始めた画家たちも入れなければならないだろう。

そんなことが影響して、普通の人たちも、街歩きの楽しさや自然に触れる素晴らしさを味わうようになる。しかし、道路には歩くスペースがほとんどないし、山や野原は地主によって入ることが制限されていたりする。歩道を作り、屋根付きのアーケード(パッサージュ)ができる。あるいは散歩を目的にした公園が街の設計に欠かせないものになる。また私有地に歩く道を作ることがひとつの社会運動として広まったりもした。近代化にとって歩くことが果たした意味は公共性をはじめとして、あらゆる意味で大きかったのである。

自然の中を歩くことへの欲求は、次に山を登ることに向かうことになる。アルプスの山を競って踏破し、やがてヒマラヤなどの世界に向かう。歩くことは文学や美術に欠かせないものになり、またスポーツにもなるのだが、それはまた旅行の大衆化を促進することにもなった。

歩くことはまた、近代以降の民主政治とも関連している。人々が何かを訴え主張しようとした時に生まれたのは、デモという街中を行進する行為だった。環境問題や性差別について発言する著者はサンフランシスコに住んで、そこで行われるデモに参加をしている。言われてみれば確かにそうだ。そんなことを感じながら、楽しく読んだ。

もっとも、あまり触れられていない日本についてみれば、芭蕉以前に旅をして歌を詠んだりした人は平安時代からいたし、お伊勢参りや富士講は江戸時代以前から盛んになっている。修業で山に登った人の歴史も長いから、近代化とは違う歴史があるだろうと思った。

2024年9月9日月曜日

総裁選・代表選という愚挙にうんざり

 

自民党の総裁選がテレビジャックをしている。いつもながらのことで、まるで競馬予想のように誰が総裁に適任かしか問わないテレビの姿勢も相変わらずだ。何しろ10人を超える人が立候補を表明しているのである。おかしな話だ。裏金問題などで岸田政権や自民党の支持率は地に落ちていて、自民党の総裁がそのまま総理大臣になれるわけではないはずなのである。首をすげ替えれば支持率が上がると自民党が考えているのはうなづける。しかし、テレビだってそれを望んでいる。そんな態度があからさまなのである。そんなテレビのニュースは見たくもないが、台風情報などは見たいと思うから、いやおうなしに見てしまうことになる。

自民党が掲げるスローガンは「刷新感」だという。やっているような感じを出すということは、本気で刷新する気はないということだ。そんなことを平気で言う発想には明らかに、国民を舐めた姿勢が窺える。救いようのない連中だと思うが、それで騙されてしまう国民もまた救いようがない。結局自民党はそうやって、政権を維持し続けてきたのである。そして、今までに例がないほどの堕落や腐敗を露呈しているのに、頭をすげ替えるだけでまた、自民党政権が続くのだろうか。

もっとも政権交代のまたとないチャンスなのに、野党第一党の立憲民主党の対応もお粗末なものである。党の代表を決める選挙を総裁選と一緒にして、メディアで取り上げてもらうようにする。そう決めたのだが、立候補しているのが、民主党政権時に首相や官房長官を勤めた人だから呆れてしまう。もっとも、立憲民主党は小池が作った希望の党から排除された枝野幸男が作った政党だから、彼が立候補するのはまだわかる.しかし野田佳彦は民主党政権をダメにして、安部の再登板の道づけをした張本人なのである。

立憲民主党の代表選に立候補するためには、自民党と同じ20人の国会議員の推薦人が必要だという。自民党の半分以下の議員しかいないのに20人とはおかしな話で、これでは若い人が出ることはむづかしいだろう。だから、有象無象が乱立してにぎやかな自民党の影に隠されてしまうのだが、そうならないように推薦人を10人にしようといった意見が出ないのだから、これもまた、もう救いがない。もっとも新人議員の吉田晴美に20人の推薦が集まったようだ。若くて女性の候補を一人出しておこうと考えたのだろうか。

民主党が政権を取った時には公約を並べたマニフェストが作られた。新しい政策の多くは実現せずに政権を手放すことになったが、今度はマニフェストはもちろん、政権を奪取してこんな政策をといった声が全く聞こえてこない。共産党やれいわなどと選挙協力の話をしているわけでもないようだから、多くの人がまた棄権をして、自民党が生きのこることになるのだろう。それでさらに、日本が救いようのない国になっていくのである。

2024年8月19日月曜日

パリと長崎

 

パリオリンピックが終わりました。やっとという感じですが、東京よりは少しだけテレビやネットで見ました。日本人選手の活躍やパリの町並みが見えることもあって、マラソンの中継には男女ともつきあいました。面白かったですが、男子の中継が民放で、CMにしょっちゅう中断されたこと。女子はNHKでしたが解説の増田明美がのべつまくなししゃべり続けて、音を消して見たことなど、不快に思うこともありました。それ以外の競技の大半は夜中でしたから、テレビで放送したのは大半が録画で、日本人選手が活躍したものばかりでした。ちら見が多かったですが、日本人選手が活躍したとは言え、改めてスケボーやブレークダンス、あるいはクライミングなどにはオリンピックの種目としてはどうかといった違和感を持ちました。

選手としてはほとんど見かけませんでしたが、開会式に船上から手を振るイスラエルとパレスチナの選手と国旗が気になりました。大会開催中もイスラエルのガザ爆撃は続いていて、数百人がなくなりました。イラン大統領の就任式典に出席を予定したパレスチナの最高幹部がテヘランで暗殺されて、イランがイスラエルに報復するというニュースも流れました。なぜIOCはイスラエルの参加を拒否しなかったのでしょうか。そもそもオリンピックは古代ギリシャで行われていたものを復活させてできた大会です。都市国家同士が戦争をしていても、その期間だけは休戦にして、競技で競い合う。それが都市国家間の軋轢を減らす役目も果たしたのです。

だとしたらIOCは参加を認める代わりに、開催中の停戦を条件にするぐらいの提案はできたはずです。それを受け入れないなら参加を認めない。それは参加を認めていないロシアと参加しているウクライナの双方にも出すべき条件だったでしょう。パラリンピックも合わせれば1ヶ月ほどの停戦期間ができたはずで、その間に戦いを終わらせる話し合いもできたかもしれないのです。露骨な商業主義に堕したオリンピックになお、開催する意味があるとすれば、今行われている戦争を中断し、それを機会に終わらせる役目以外には考えられないはずなのです。

八月になると毎年行われている広島と長崎の平和祈念式典ではイスラエルとパレスチナの出席をめぐって大きな違いが出ました。広島はイスラエルだけ、長崎はパレスチナだけの参加を認めたのです。この違いに対して、アメリカやイギリスなど日本を除く G7の駐日大使が長崎への参列を拒否したのです。理由はウクライナを侵略しているロシアとイスラエルを同列に扱うべきではないというものでした。しかし、これはおかしな話です。原爆を投下したアメリカのどこに、こんな横柄な態度を取る権利があるのでしょうか。それに、ハマスのイスラエル攻撃に対する報復だと言って、その何百倍もの死者を出してなお、一方的な攻撃を繰り返しているイスラエルを擁護する根拠がどこにあるのでしょうか。

長年にわたってユダヤ人を差別し、虐待してきたヨーロッパの国々にとっては、イスラエル擁護はその罪滅ぼしなのかも知れません。しかしイスラエルという国をパレスチナの地に勝手に作ったことを発端として、その後の紛争とパレスチナ人が味わってきた苦難の責任は先進欧米諸国にこそあるのです。この問題に対しては部外者である日本が、イスラエルに対して批判的な態度を取るのは、極めてまっとうなものなのです。その意味では、批判されるのは広島市の方であるはずです。

あるいは、ロシアも含めてどの国の参列も認めて、そこで戦争や紛争を中止する話し合いの場にするといった姿勢を取ってもよかったかも知れません。イスラエルやロシアがそれを拒否したら、それは拒否した国の都合になったはずなのです。オリンピックと平和記念式典の二つから感じたのは、本来的な意味からはどちらも遠くなってしまったということでした。

2024年8月12日月曜日

透き通った窓ガラスのような散文

 

世の中に嘘がまかり通っている。ジャーナリズムがそれを徹底して正すということをしないから、少しばかり指摘されても知らん顔で済んでしまう。政治家の言動には、そんな態度が溢れている。今の政治や経済、そして社会には組織的に隠されていることも多いのだろう。そして明らかにおかしなことが発覚しても、それに対する批判が、大きくはならずにすぐに消えてしまう。こんな風潮は日本に限らないから、世界はこれからどうなってしまうのか不安に思うことが少なくない。そう思ったら、ジョージ・オーウェルを読みかえしたくなった。

ジョージ・オーウェルは大学生の時に『1984年』や『動物農場』を読んでファンになった作家だが、その後も読み続けてオーウェル論を書いたことがある。作品論というよりは、作家やジャーナリストとしてのオーウェル論で、彼の理想が「透き通った窓ガラスのような散文」を書くことだったことに着目した。それを書いてから40年近くなるのに、またオーウェルを読もうかと思ったのは、透き通った窓ガラスのような散文と感じるものなんて、最近まったく読んだことがないと思ったからだ。

オーウェルの本はくり返し出版されている。彼の評論は最初、全4巻の著作集が平凡社から出版された。僕が読んだのはこの著作集だったが、訳者の多くが代わったので、同じ平凡社から出た全4巻の『オーウェル評論集』も購入した。この評論集にはそれぞれ、『象を撃つ』『水晶の精神』『鯨の腹のなかで』『ライオンと一角獣』という題名がついている。オーウェルを読むのは久しぶりだったから、初めて読むような感覚を味わった。

orwell2.jpg 「透明な窓ガラスのような散文」という一文は「なぜ私は書くか」というエッセイの中にある。ずっとそう思っていて、自分で文章を書く時の原則にしていたのだが、今読み返して見ると、「よい散文は窓ガラスのようなものだ」としか書いてない。原文では Good prose is like a window pane.となっている。なぜここに「透き通った」という形容句がついたのか。今では全く覚えがない。ちなみに僕が書いたオーウェル論でも「透き通った」がついている。おそらく誰か(鶴見俊輔?)が書いたオーウェル論にあったことばで、その論考に触発されたのだと思う。

オーウェルはそんな文章を書く人としてヘンリー・ミラーをあげている。その「鯨の腹の中で」において、ミラーの書くものを「かなりすぐれた小説にさえつきものの嘘や単純化、あるいは型にはまった操り人形のような小説の世界を脱して、紛れもない人間の経験につきあっている。」と書いている。そうなんだ!。最近読まされるものに、どれほど嘘や単純化、そして型にはまった操り人形のような世界ばかりが描かれていることか。もう阿呆らしくてうんざりしてしまうが、それがまことしやかなものである顔もしているのである。

オーウェルはミラーにパリで会っている。その時スペイン市民戦争に義勇軍として参加するオーウェルを愚か者だといって一笑に付した。そんな政治にも世界の動きに関わりを持とうとしなかったミラーについて、分厚い脂肪を持つ鯨の腹の中で生きていると形容し、ただその鯨は透明なのであると書いている。パリで好き勝手に生きてはいても、ミラーは自分が見たもの、感じたことをあるがままに記録することには熱心だった。そのような態度を「精神的誠実さ」と名づけ、自分との共通点を見いだしている。

今は、そんな態度を持つことが難しい時代なのかも知れない.しかし、オーウェルやミラーが生きたのはヒトラーが台頭し、第二次世界大戦を経験した時代だったことを考えると、作家やジャーナリストとして、今こそ必要な姿勢なのではないかとも思った。