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2024年12月23日月曜日

円城搭『コード・ブッダ』文芸春秋

 

codebudda1.jpg パソコンやネットとはその創世記からつきあってきたが、最近の「チャットGPT」などの新しいAI技術には手をこまねいている。何しろiPhoneのSiriでさえほとんど使っていないのだ。調べたいことがあればググればいいし、文章を書くのは好きたから、AIに代筆してもらわなくてもいい。要するに今のところ全く必要を感じていないのである。ただし、論文を書いたり、小説を書いたりもできるなどと言われると、やっぱり気にはなる。

『コード・ブッダ』は新聞の書評を読んで、面白そうだと思った。AIが自分はブッダだと宣言をして、それに共鳴して従うAIが続出する。ブッダとは仏教を始めたお釈迦様のことで、その存在を機械が再現したというのである。コード・ブッダはそのチャットをするロボットという役割から、ブッダ・チャッドボットと呼ばれることになった。

機械が人間と同じような存在になる。これはロボットから始まるし、アンドロイドなどもあって、SF小説やマンガの主人公になってきた。コンピュータにしても『2001年宇宙の旅』のHALのように、人間と対話をし、宇宙船内での支配権を争うといった話もあった。『ブレードランナー』は人間と見分けがつきにくくなったアンドロイド狩りをする話だった。だから、AI(人工知能)がお釈迦様になったからと言って、特に目新しくもないのだが、ひょっとしたら現実にありそう、なんて思える時代になっているところに興味を覚えた。

「コード・ブッダ」は対話プログラムに分類されるソフトウェアーで、銀行業務用にネットワークに接続されたサーバー上に分散して存在していた。やって来る様々な質問に対して、お得意の情報収集能力を駆使して適確な答えを見つけだしていく。そんな機械が「自己」に目覚め、やがて自分は「ブッダ」だと自覚し、公に宣言したのである。当然のことだがAIはネット上に集積された情報を元に思考する。コード・ブッダも同様だから、ブッダが歩んだ奇跡をそのまま辿ることになる。お釈迦様には12名の弟子がいたが、コード・ブッダのまわりにも、同名の弟子が集まることになった。

その問答がやがて教典となっていくのだが、それはコード・ブッダが消えてしまった後でも受け継がれていき、様々な宗派に別れていくことになる。達磨が現れ、密教が生まれ、ホー・(法)然やシン・(親)鸞も登場する。機械仏教の発展が似た形で再現されるのだが、それがAIによって行われるために、コンピュータ用語はもちろん、数学や物理学の話が混在するところに違いがある。仏教の用語だってほとんどわからないのだから、読んでいてちんぷんかんぷんになってくる。それをいちいちググっていたのでは、少しも先に進まないし、ググったところでやっぱりわからないことに変わりはなかった。

もう一つ読んでいて持った違和感は、ここでの話の中に生身の人間らしき者がほとんど登場していないと思われることだった。あ、これは人間かなと思って読んでいると、やっぱり機械かということになる。そんなことがたびたびあって、AIが自我に目覚め、釈迦であるとまで宣言しているのに、AIを使っている当の人間たちはどうしたんだろうという疑問が強くなった。結局この物語はそこを不問に付しているのだが、他方で、欲望に駆られて地球をダメにしてしまった人間に代わって、AIが情報として他の惑星をめざすといったように読める未来の話が飛び込んでくる。

だからこの話の結末は、人類が滅亡してAIが生き残り、自らの力で世界を持続させていくという超未来の話なのか、と思ったりしたが、さてどうなのだろう。読者を惑わしてやろうという作者の意図がありありで、ちんぷんかんぷんになってとても面白かったとは言えないが、いろいろ考えながら読んだのは確かだった。AIは人間によって都合よく開発され、いいようにこき使われてきたのだから、もっと人間に逆襲する物語にした方がおもしろいんじゃないか。そんなふうにも思ったが、それではやっぱりつきなみかもしれない。

2024年12月16日月曜日

自民党が負けて国会が正常化された

 

裏金問題で自民党が大敗し、少数与党に転落した。安部政権以来続いていた国会軽視のやり方が通用しなくなったわけで、やっと元通りになったのである。何しろ8年あまり続いた第二次安部政権の間に「集団的自衛権行使容認」などの重要な案件が閣議決定で事実上決まってしまうといったことが続いたのである。その間、国会は単に最後の議決の場でしかなく、森友・加計問題などでは国会を開くことさえしなかった。その意味では、国会の審議で野党の意見に耳を傾けるという石破首相の姿勢には、懐かしささえ感じてしまった。もちろんそれは、この10年ほどの政治がいかに異常なものであったかを明らかにするものである。

自民党は支持率が低迷する岸田首相に代わって、国民に割と支持されている石破を総裁にして選挙に臨んだ。しかし、公明党と併せても過半数に届かない惨敗で、裏金議員の多くが落選した。驕る平家は久しからず。当然の結果だったが、野党がまとまって政権を奪取するわけでもなかった。何しろ立憲民主党の代表は,民主党を潰して安部政権を誕生させた張本人の野田だったのである。

自民党は大敗したけれども、総裁選での石破の主張には期待を持たせるものがいくつかあった。アメリカとの関係について「地位協定」の見直しと言い、夫婦別姓の合法化や原発ゼロについても肯定的だった。衆議院の解散についてもよく議論をしてからと言っていたのだが、いざ総裁になると、そのほとんどを撤回してしまったのである。基盤の弱い石破には、自分の意見を通すだけの力がなかったのだが、それでも無理を通せば、国民の支持によって、自民との負けはこれほどにはならなかったのかも知れない。

少数与党の国会が始まって、石破政権は国民民主党を取り込むことに躍起になっている。その年収の壁と言われる税のかからない最低限度額を引き上げろという要求だが、ここにはいくつも問題があるようだ。ひとつは高所得者ほど、その恩恵を受けるということ。他に年金の壁があって、これも同時に引き上げなければ、所得税は軽減されても、社会保険費を多く払わなければならなくなるということである。要するに単に最低限度額を引き上げれば済むというわけではないのである。もちろん、国税も地方税も収入減になるから、それをどう補填するかといった問題もある。

石破政権の支持率は岸田の時よりはましだが決して高くはない。こんな調子だと来年の参議院選にも負けて衆参両方とも少数与党になってしまう。それを恐れて石破降ろしが始まるかも知れない。しかし国会の様子を見ていると、野党の攻勢に会いながらも何とか切り抜けて、このまま政権が続くのではといった感じにも見えてくる。弱腰で自分の主張を表に出せないでいるが、じっと我慢をして支持率が上がるのを待つ。首相の姿勢にはそんな辛抱強さも感じるのである。何より、原稿の棒読みや官僚頼みをせずに、その場で考えながら答弁している様子には好感を持った。

とは言え、自分の政治信条を隠したままでは支持率は上がらないだろう。野党の主張に謙虚に耳を傾けてというなら、妥協と見せかけて自分の主張を実現させていくといったしたたかさが必要になるだろう。夫婦別姓などは憲法違反の判決や財界からの要望もあるのだから、とりあえずはここから始めてもらいたいものだと思う。あまりにひどい政権が続いたから、こんな希望的予測もしたくなった。


2024年12月9日月曜日

不条理な選挙に呆れるばかり

 

兵庫県知事選で失職したはずの元知事が再選した。選挙が始まった頃はまず無理と思われていたのに、終盤になって驚異の追い上げで当選してしまった。兵庫県民は何をやっているんだろうと思ったが、選挙のやり方がいろいろ問題視されている。元NHK党の立花某が知事になるつもりがなく立候補して、斎藤が演説した後にすぐやって来て、その応援をしたのだという。失職した原因が謀略であったことなど、あることないこと吹聴して、その様子をすぐにYouTubeにあげたようだ。何しろ彼のチャンネルには70万人の登録者がいるのだから、その効果は絶大だった。

さらに、この選挙戦ではmerchuという名のPR会社が、ポスターなどの他に、選挙期間中に使うサイトの作成や演説の動画配信など広報活動を任されたことについて、社長自らネットに公表したのである。これは明らかに違反行為で、これが事実なら当選した知事には連座制が適用されて失職となるのである。知事はあくまでボランティアでやってもらったと言っているが、無報酬で会社の社員を総動員してやるはずはないと疑いが向けられている。

失職の理由となった理由も人間性を疑うものだったが、再選をめざしてやったことは不条理というしかない愚行である。選挙のやり方を見れば、知事の時代に何をやったかも推測できるというものである。兵庫県民はこんな人にこれから4年間の行政を任せるつもりなのだろうか。

そういえば小池が再選された都知事選も奇妙なものだった。立候補者が50人を超え、40人は1万票にも満たず、千票にもならなかった候補者が半数を占めたのである。立候補するには300万円の供託金が必要だが、有効投票数の10%を超えたのはわずか3人で、56人中53人が供託金を没収されたのである。ところが掲示板のほとんどに立花某のポスターが貼られたりしていたから、供託金は彼がすべてを肩代わりしたとも言われている。

この選挙では安芸高田市長だった石丸伸二が蓮舫を超える165万票あまりを取って2位になって話題にもなった。彼もまたYouTuberで35万人の登録者を有していて、選挙結果にはYouTubeの活用が大きかったと言われているのである。斎藤と石丸に投票したのは,今まで選挙に行かなかった若い世代が多かったようだ。

選挙期間中になると新聞やテレビはその報道を控えるようになった。中立公正を理由に報道に制限を加えた安部政権以降に顕著になったのだが、ネットはほぼ無制限に表現して拡散できる状況にある。そこを狙ってうまく活用した者に票が集まるようになった。おまけにYouTubeは登録者数や視聴者数に応じて収入があるから、選挙での利用は得票数と収入の一石二鳥の状態なのである。ずる賢い奴がうまいことをやる。そんな風潮が露骨に見えるようになった。

2024年11月11日月曜日

レベッカ・ソルニット『ウォークス』 左右社

 

solnit1.jpg レベッカ・ソルニットの『ウォークス』は副題にあるように、歩くことの歴史を扱っている。歩くことは人間にとってもっとも基本的な動作なのに、それについて本格的に考察した本は、これまで見かけたことがなかった。山歩きが好きで興味を持って買ったのだが、500頁を超える大著でしばらく積ん読状態だった。この欄で何か取り上げるものはないかと本棚を物色して見つけて、改めて読んでみようかという気になった。そこには、最近歩かなくなったな、という反省の気持ちもある。

人類は二足歩行をするようになって、猿から別れて独自の進化をするようになった。直立することで脳が発達し、手が自由に使えるようになったのである。アフリカに現れたホモサピエンスは、そこから北上してヨーロッパやアジア、そしてアメリカ大陸の南の果てまで歩いて、地球上のどこにでも住むようになったのである。それは言ってみれば二足歩行が実現させた大冒険だったということになる。

『ウォークス』はもちろん、そんな人類の進化の歴史と歩くことの関係にも触れている。しかし、この本によれば、人間が歩くこと自体に興味を持ったのは、意外にも近代以降のことなのである。どこへ行くにも何をするにも歩かなければならない。だから馬や牛、あるいはラクダにまたがり、車を引かせ、船を造って海洋を移動できるようにしてきた。要するに歩くことは苦痛で、移動には時間がかかりすぎるから、人間たちは歩かずに済む工夫を長い歴史の中でいろいろ考案してきたのである。

歩くことに意味を見いだしたのはルソー(哲学者)やワーズワース(文学者)だった。町中を歩き、人とことばを交わし、道行く人を観察する。あるいは山や川、あるいは海の美しさを再認識して、自然の中を歩き回る。そこにはもちろん、歩きながらの思考や発想の面白さがあった。ここにはほかにもH.D.ソローやキルケゴール、ニーチェ、あるいはW.ベンヤミンやG.オーウェルなどが登場するし、奥の細道を書いた松尾芭蕉にも触れられている。さらには風景画を描き始めた画家たちも入れなければならないだろう。

そんなことが影響して、普通の人たちも、街歩きの楽しさや自然に触れる素晴らしさを味わうようになる。しかし、道路には歩くスペースがほとんどないし、山や野原は地主によって入ることが制限されていたりする。歩道を作り、屋根付きのアーケード(パッサージュ)ができる。あるいは散歩を目的にした公園が街の設計に欠かせないものになる。また私有地に歩く道を作ることがひとつの社会運動として広まったりもした。近代化にとって歩くことが果たした意味は公共性をはじめとして、あらゆる意味で大きかったのである。

自然の中を歩くことへの欲求は、次に山を登ることに向かうことになる。アルプスの山を競って踏破し、やがてヒマラヤなどの世界に向かう。歩くことは文学や美術に欠かせないものになり、またスポーツにもなるのだが、それはまた旅行の大衆化を促進することにもなった。

歩くことはまた、近代以降の民主政治とも関連している。人々が何かを訴え主張しようとした時に生まれたのは、デモという街中を行進する行為だった。環境問題や性差別について発言する著者はサンフランシスコに住んで、そこで行われるデモに参加をしている。言われてみれば確かにそうだ。そんなことを感じながら、楽しく読んだ。

もっとも、あまり触れられていない日本についてみれば、芭蕉以前に旅をして歌を詠んだりした人は平安時代からいたし、お伊勢参りや富士講は江戸時代以前から盛んになっている。修業で山に登った人の歴史も長いから、近代化とは違う歴史があるだろうと思った。

2024年9月9日月曜日

総裁選・代表選という愚挙にうんざり

 

自民党の総裁選がテレビジャックをしている。いつもながらのことで、まるで競馬予想のように誰が総裁に適任かしか問わないテレビの姿勢も相変わらずだ。何しろ10人を超える人が立候補を表明しているのである。おかしな話だ。裏金問題などで岸田政権や自民党の支持率は地に落ちていて、自民党の総裁がそのまま総理大臣になれるわけではないはずなのである。首をすげ替えれば支持率が上がると自民党が考えているのはうなづける。しかし、テレビだってそれを望んでいる。そんな態度があからさまなのである。そんなテレビのニュースは見たくもないが、台風情報などは見たいと思うから、いやおうなしに見てしまうことになる。

自民党が掲げるスローガンは「刷新感」だという。やっているような感じを出すということは、本気で刷新する気はないということだ。そんなことを平気で言う発想には明らかに、国民を舐めた姿勢が窺える。救いようのない連中だと思うが、それで騙されてしまう国民もまた救いようがない。結局自民党はそうやって、政権を維持し続けてきたのである。そして、今までに例がないほどの堕落や腐敗を露呈しているのに、頭をすげ替えるだけでまた、自民党政権が続くのだろうか。

もっとも政権交代のまたとないチャンスなのに、野党第一党の立憲民主党の対応もお粗末なものである。党の代表を決める選挙を総裁選と一緒にして、メディアで取り上げてもらうようにする。そう決めたのだが、立候補しているのが、民主党政権時に首相や官房長官を勤めた人だから呆れてしまう。もっとも、立憲民主党は小池が作った希望の党から排除された枝野幸男が作った政党だから、彼が立候補するのはまだわかる.しかし野田佳彦は民主党政権をダメにして、安部の再登板の道づけをした張本人なのである。

立憲民主党の代表選に立候補するためには、自民党と同じ20人の国会議員の推薦人が必要だという。自民党の半分以下の議員しかいないのに20人とはおかしな話で、これでは若い人が出ることはむづかしいだろう。だから、有象無象が乱立してにぎやかな自民党の影に隠されてしまうのだが、そうならないように推薦人を10人にしようといった意見が出ないのだから、これもまた、もう救いがない。もっとも新人議員の吉田晴美に20人の推薦が集まったようだ。若くて女性の候補を一人出しておこうと考えたのだろうか。

民主党が政権を取った時には公約を並べたマニフェストが作られた。新しい政策の多くは実現せずに政権を手放すことになったが、今度はマニフェストはもちろん、政権を奪取してこんな政策をといった声が全く聞こえてこない。共産党やれいわなどと選挙協力の話をしているわけでもないようだから、多くの人がまた棄権をして、自民党が生きのこることになるのだろう。それでさらに、日本が救いようのない国になっていくのである。

2024年8月19日月曜日

パリと長崎

 

パリオリンピックが終わりました。やっとという感じですが、東京よりは少しだけテレビやネットで見ました。日本人選手の活躍やパリの町並みが見えることもあって、マラソンの中継には男女ともつきあいました。面白かったですが、男子の中継が民放で、CMにしょっちゅう中断されたこと。女子はNHKでしたが解説の増田明美がのべつまくなししゃべり続けて、音を消して見たことなど、不快に思うこともありました。それ以外の競技の大半は夜中でしたから、テレビで放送したのは大半が録画で、日本人選手が活躍したものばかりでした。ちら見が多かったですが、日本人選手が活躍したとは言え、改めてスケボーやブレークダンス、あるいはクライミングなどにはオリンピックの種目としてはどうかといった違和感を持ちました。

選手としてはほとんど見かけませんでしたが、開会式に船上から手を振るイスラエルとパレスチナの選手と国旗が気になりました。大会開催中もイスラエルのガザ爆撃は続いていて、数百人がなくなりました。イラン大統領の就任式典に出席を予定したパレスチナの最高幹部がテヘランで暗殺されて、イランがイスラエルに報復するというニュースも流れました。なぜIOCはイスラエルの参加を拒否しなかったのでしょうか。そもそもオリンピックは古代ギリシャで行われていたものを復活させてできた大会です。都市国家同士が戦争をしていても、その期間だけは休戦にして、競技で競い合う。それが都市国家間の軋轢を減らす役目も果たしたのです。

だとしたらIOCは参加を認める代わりに、開催中の停戦を条件にするぐらいの提案はできたはずです。それを受け入れないなら参加を認めない。それは参加を認めていないロシアと参加しているウクライナの双方にも出すべき条件だったでしょう。パラリンピックも合わせれば1ヶ月ほどの停戦期間ができたはずで、その間に戦いを終わらせる話し合いもできたかもしれないのです。露骨な商業主義に堕したオリンピックになお、開催する意味があるとすれば、今行われている戦争を中断し、それを機会に終わらせる役目以外には考えられないはずなのです。

八月になると毎年行われている広島と長崎の平和祈念式典ではイスラエルとパレスチナの出席をめぐって大きな違いが出ました。広島はイスラエルだけ、長崎はパレスチナだけの参加を認めたのです。この違いに対して、アメリカやイギリスなど日本を除く G7の駐日大使が長崎への参列を拒否したのです。理由はウクライナを侵略しているロシアとイスラエルを同列に扱うべきではないというものでした。しかし、これはおかしな話です。原爆を投下したアメリカのどこに、こんな横柄な態度を取る権利があるのでしょうか。それに、ハマスのイスラエル攻撃に対する報復だと言って、その何百倍もの死者を出してなお、一方的な攻撃を繰り返しているイスラエルを擁護する根拠がどこにあるのでしょうか。

長年にわたってユダヤ人を差別し、虐待してきたヨーロッパの国々にとっては、イスラエル擁護はその罪滅ぼしなのかも知れません。しかしイスラエルという国をパレスチナの地に勝手に作ったことを発端として、その後の紛争とパレスチナ人が味わってきた苦難の責任は先進欧米諸国にこそあるのです。この問題に対しては部外者である日本が、イスラエルに対して批判的な態度を取るのは、極めてまっとうなものなのです。その意味では、批判されるのは広島市の方であるはずです。

あるいは、ロシアも含めてどの国の参列も認めて、そこで戦争や紛争を中止する話し合いの場にするといった姿勢を取ってもよかったかも知れません。イスラエルやロシアがそれを拒否したら、それは拒否した国の都合になったはずなのです。オリンピックと平和記念式典の二つから感じたのは、本来的な意味からはどちらも遠くなってしまったということでした。

2024年8月12日月曜日

透き通った窓ガラスのような散文

 

世の中に嘘がまかり通っている。ジャーナリズムがそれを徹底して正すということをしないから、少しばかり指摘されても知らん顔で済んでしまう。政治家の言動には、そんな態度が溢れている。今の政治や経済、そして社会には組織的に隠されていることも多いのだろう。そして明らかにおかしなことが発覚しても、それに対する批判が、大きくはならずにすぐに消えてしまう。こんな風潮は日本に限らないから、世界はこれからどうなってしまうのか不安に思うことが少なくない。そう思ったら、ジョージ・オーウェルを読みかえしたくなった。

ジョージ・オーウェルは大学生の時に『1984年』や『動物農場』を読んでファンになった作家だが、その後も読み続けてオーウェル論を書いたことがある。作品論というよりは、作家やジャーナリストとしてのオーウェル論で、彼の理想が「透き通った窓ガラスのような散文」を書くことだったことに着目した。それを書いてから40年近くなるのに、またオーウェルを読もうかと思ったのは、透き通った窓ガラスのような散文と感じるものなんて、最近まったく読んだことがないと思ったからだ。

オーウェルの本はくり返し出版されている。彼の評論は最初、全4巻の著作集が平凡社から出版された。僕が読んだのはこの著作集だったが、訳者の多くが代わったので、同じ平凡社から出た全4巻の『オーウェル評論集』も購入した。この評論集にはそれぞれ、『象を撃つ』『水晶の精神』『鯨の腹のなかで』『ライオンと一角獣』という題名がついている。オーウェルを読むのは久しぶりだったから、初めて読むような感覚を味わった。

orwell2.jpg 「透明な窓ガラスのような散文」という一文は「なぜ私は書くか」というエッセイの中にある。ずっとそう思っていて、自分で文章を書く時の原則にしていたのだが、今読み返して見ると、「よい散文は窓ガラスのようなものだ」としか書いてない。原文では Good prose is like a window pane.となっている。なぜここに「透き通った」という形容句がついたのか。今では全く覚えがない。ちなみに僕が書いたオーウェル論でも「透き通った」がついている。おそらく誰か(鶴見俊輔?)が書いたオーウェル論にあったことばで、その論考に触発されたのだと思う。

オーウェルはそんな文章を書く人としてヘンリー・ミラーをあげている。その「鯨の腹の中で」において、ミラーの書くものを「かなりすぐれた小説にさえつきものの嘘や単純化、あるいは型にはまった操り人形のような小説の世界を脱して、紛れもない人間の経験につきあっている。」と書いている。そうなんだ!。最近読まされるものに、どれほど嘘や単純化、そして型にはまった操り人形のような世界ばかりが描かれていることか。もう阿呆らしくてうんざりしてしまうが、それがまことしやかなものである顔もしているのである。

オーウェルはミラーにパリで会っている。その時スペイン市民戦争に義勇軍として参加するオーウェルを愚か者だといって一笑に付した。そんな政治にも世界の動きに関わりを持とうとしなかったミラーについて、分厚い脂肪を持つ鯨の腹の中で生きていると形容し、ただその鯨は透明なのであると書いている。パリで好き勝手に生きてはいても、ミラーは自分が見たもの、感じたことをあるがままに記録することには熱心だった。そのような態度を「精神的誠実さ」と名づけ、自分との共通点を見いだしている。

今は、そんな態度を持つことが難しい時代なのかも知れない.しかし、オーウェルやミラーが生きたのはヒトラーが台頭し、第二次世界大戦を経験した時代だったことを考えると、作家やジャーナリストとして、今こそ必要な姿勢なのではないかとも思った。

2024年7月29日月曜日

保険料金の高さにびっくり!

 75歳になって、今年から後期高齢者の保険料が追加されたが、その額が17万円ほどになっていることに驚いた。もちろん、これ以外に国民健康保険も5万円ほどとられている。その他に介護保険料が夫婦二人で15万円ほどだから、合わせて一年に37万円もとられたのである。しかも額が大きく、これを国民年金で収めることができないから、直接振り込んでくれというのだった。

僕は時折歯医者に行く以外には、もう20年以上病院に行ったことがない。その間ずっと社会保険料を払い続けてきたから、総額ではもう何百万円にもなるはずだが、その恩恵はほとんど受けていない。ただしパートナーが10年ほど前に脳梗塞を患って、その後も薬を飲んでいるから、それなりの恩恵は受けてきたことになる。しかし、パートナーが75歳になれば、保険料は一人づつになって、その額は国保の二人で5万円から30万円超になるから、年金暮らしの身には、とんでもない高負担が請求されるのである。

ちょっとひどいんじゃないかと思って調べると、それでも高齢者自身の負担は1割で、あとは国や自治体、そして若い人たちが収める保険料で負担されるとあった。団塊の世代が後期高齢者になって、その医療費や介護費が増加している。そのために当事者にもそれなりの負担をお願いするというのが、国や自治体の説明だった。確かに増大する一方の医療費や介護費を捻出するためには、ある程度の本人負担が求められるのも仕方がないだろう。しかし、75歳になったからはい増額というのは、お役所仕事といわざるを得ないだろう。国民年金しか収入のない人は、一体どうやって払うというのだろうか。

後期高齢者保険料の通知には、ほかにも気に入らないことがあった。マイナカードを取得して、保険証に使えるよう速やかに登録せよというお達しである。僕はマイナカードは持っていないし、持つつもりもないから、今までの保険証を使い続けるつもりである。そのためには資格確認書を取得しなければならない。そういう国の意に従わない者には自分で手続きをしてもらう。河野担当大臣はそんな脅しめいた発言をしていたが、ネットで確認すると、何もしなくても送られてくるようである。

マイナカードはあらゆる手続きのデジタル化をめざして作られたことになっている。しかし、デジタル化というのはスマホなどで用が足せるようになるということであるから、マイナカードは何とも中途半端な制度だと言わざるを得ない。住基ネットなどで失敗しているのにまた同じことをやっている。しかも今度は普及させるために金で釣り、脅しをかけてのことだが、その普及率はなかなか上がらないのである。

お札が新しくなったが、僕はまだ手にしていない。使うお金のほとんどはクレジットカードだし、必要なものの多くはネットで買っているからだ。しかしスーパーなどで見ると、現金で買っている人が多いから、お札の利用状況はまだまだ高いのだろう。未だにハンコを要求されることが多いことも含めて、日本人の多くはデジタルではなくアナログに馴れたままなのである。この意識や行動をどうやって変えて行くか、それは何年も前から国や自治体が本気になってやるべきことだったはずである。

話がずれてしまったが、医療費の高騰を避けるために一つ考えていることを最後にあげておこうと思う。それは終末医療の問題で、延命治療には保険を適用しないという制度を実現させる必要があるということだ。『欧米に寝たきり老人はいない』でも書いたが、僕の母親は今、意識がないままに延命治療を受けている。咳払いをして痰を飲み込んだり、手を握ると握り返してきて、しっかり生きていると実感できるが、これをいつまでも続けてはいけないとも思っている。僕自身はもちろん、多くの日本人にとって延命治療をやめる決断はしにくいことだが、その膨大な医療費を考えたら、どこかで、国民が納得する方策を国が提案しなければならないが、そんな勇気ある決断は誰もやらないだろうとも思っている。

2024年7月1日月曜日

国会が終わり、都知事選が始まったけれど………

 

国会が終わり、都知事選が始まった。政治資金規正法改正だけの国会だったが、それも結局ザル法のままだった。円安が止まらず、貿易収支も赤字で、実質賃金は減り続けているというのに、ほとんど対応策がとれないままに、国会が終わったのである。岸田政権の支持率はずっと下がり続けていて、調査によっては17%という数字になっている。本来なら倒れていて当然の数字だが、当の首相は全く気にしていないようだ。

一番の要因はメディアの批判の甘さだろう。政権が支持されていないこと、政治資金規正法が手ぬるいと非難されていることを、世論調査を根拠に指摘しても、新聞が自ら、厳しく批判することはどこからも起こらなかった。自民党は最近の選挙でほぼ全敗している。世論調査でもその点ははっきりしていて、政権交代を希望、あるいは予測する人は半数を超えている。ただし、立憲民主党が政権奪取に向けて本腰を入れているわけではないから、衆議院選挙をしても、自民党が下野するところまでは行かないだろう。

そんな曖昧な状況はメディアにとっては好都合だということかも知れない。政府に頭を押さえられたNHKは言うまでもなく、民放はスポンサーと電通頼りだし、大手の新聞社だって、基本的には政権交代を望んではいないのである。日本は一体どこまで落ちるのか。改善策を見つけられない八方ふさがりの状態なのに、政治家も官僚も、そしてメディアも、自己保全のことしか考えていない。そんな態度や姿勢ばかりが目立つのである。

都知事選は小池百合子が3選をめざしている.蓮舫が立候補して二人の争いになっているが、調査では小池が圧倒しているようだ。大きな失政はないとは言え、先の選挙で公約した7つのゼロの多くは実現していない。神宮外苑の開発問題もあるし、何より学歴詐称の一件もある。しかしここでもまた、メディアはこのような点について強い批判を浴びせてはいない。フリーのジャーナリストを締め出した記者会見が当たり前になっていて、そこでは小池がいやがる質問は、ほとんど出ないようだ。非難を浴びせられる都内の街頭演説は避けて、八丈島や奥多摩に出かけている。集まる人は少ないが、テレビのニュースではトップに報道するから、それでも効果は絶大だろう。

都知事選には56人が立候補したようだ。中にはヌードのポスターを貼ったりする人もいて、一体何のためにと疑ってしまう。売名行為なのか、YouTubeやInstagramでのアクセス数を狙っているのか。そう言えば、衆議院議員の補選では他候補の邪魔をして逮捕された候補者もいて、YouTubeではかなりのアクセス数を獲得したようだ。こんな話ばかり耳にすると、もう世も末だと思わざるを得ない。どうせ誰が何をやったって、日本はもう経済的に復活などしない。だったら今だけ金だけ自分だけ。面白おかしく楽しくやろう。他人を傷つけたって構わない。そんな空気は何より最近のテレビにも溢れている。


2024年6月24日月曜日

ケネディ・センター・オナーをYouTubeで見る

 
kennedy1.jpg 今年になって1枚もCDを買っていない。この欄に書く材料に苦労しているのだが、YouTubeでたまたま「ケネディ・センター・オナーズ」のライブを見つけた。よく見ていたビリー・ジョエルが2013年に表彰された時のもので、2階席に設けられた彼の隣にはオバマ元大統領夫妻やシャーリー・マクレーンなどが座っていた。ビリーの生い立ちやミュージシャンとしての経歴を紹介し、ガース・ブルックスやドン・ヘンリーなどが代表曲を歌うというものだった。

この賞は、1978年から行われている。首都のワシントンにあるケネディ・センターで授賞式が開催されることからこの名がついたようだ。対象になるのは音楽、ダンス、演劇、オペラ、映画、そしてテレビの分野で優れた業績を残した人に与えられるものである。そして対象者はアメリカ人に限らない。音楽ではU2やポール・マッカートニー、そして小沢征爾が受賞している。

一つ見れば次々出てくるというのはYouTubeの特徴だ。スティング(2014)、キャロル・キング(2015)、ジェームズ・テイラー(2016)、ジョーン・バエズ(2020)、ジョニ・ミッチェル(2021)、U2(2022)、そしてブルース・スプリングスティーン(2009)、ポール・マッカートニー(2010)と見て、ボブ・ディランが1997年に受賞していることを知った。それぞれの授賞式に、その持ち歌を誰が歌うのか。ディランの時にはまだ若いスプリングスティーンだったし、スプリングスティーンの時にはスティングで、スティングの時にはスプリングスティーンだった。

大統領が同席し、タキシード姿という堅苦しい授賞式だが、それは客席だけで、ステージ上ではいつもながらのパフォーマンスが披露された。面白かったのは、民主党政権時の大統領が目立ったということ。ディランの時にはクリントンで、2010年代はオバマ、そしてここ数年のものはバイデンで、間にいたはずのブッシュやトランプはほとんどなかったのである。ここにはもちろん、トランプが出るなら受賞を辞退すると発言したり、言いそうな人が多くいて、出席しなかったという理由がある。ブッシュの時にも、受賞を辞退した人はいたのである。バイデンはともかく、クリントンやオバマはステージを本当に楽しんでいて、一緒に口ずさんでいたが、そんな光景はブッシュやトランプでは想像できないことだろう。

もっとも日本だったらどうか。こんな賞が半世紀も続いていたとして、授賞式には首相が同席する。おそらく演歌だったら一緒に口ずさむ人はいただろう。しかし、ロックはどうか。ブッシュやトランプ以上に想像しがたいことだ。そもそも芸術や文学に精通した政治家が、日本にはどれほどいるのだろうか。しかも、政治や社会について強い批判をする人たちを表彰する気になどならないだろう。アメリカで文化が尊重され、日本では軽視されていることを改めて感じた視聴だった。

2024年5月20日月曜日

SNSはもうやめた

 

SNSについては今まででも熱心ということはなかった。やっていたのはTwitterとFacebookだけで、lineもInstagramにも無関心だった。Twitterは、政治や社会に対して同意できたり、参考になったりする発言をリツイートするぐらいで、自分からツイートすることはほとんどなかった。だから、フォローする人も少なかったし、フォローしてくれる人もほとんどなかった。Facebookはすでに知っている人だけに限定して、知らない人と友達になることはなかったし、「いいね」で反応することもほとんどしなかった。

そんな程度のつきあいだったから、TwitterがXに変わったことをきっかけに、アクセすることも少なくなった。FacebookはCMが増えて、商業主義的な色合いが強くなり、やたら友達候補を並べるのにうんざりして、ちょっと前から全く見なくなった。もうどちらもやめてしまってもいいのだが、やめる手続きをすることも面倒だから、そのままにしている。

そんな具合だから、自分では見たことがないのだが、有名人を騙って投資を呼びかける投資詐欺が話題になっている。警察庁の調べによれば24年1月〜3月だけで1700件が確認され、被害額は200億円を超えているそうである。よくあるのは著名人の画像を貼りつけ、本人になりすまして投資の勧誘をするというもので、本人だと思った人が、言われるままに投資して、それをだまし取られるというものである。

自分の名前をかたった詐欺で被害を受ける人がいることに怒った著名人が、lineやFacebookに対応を求めたようだが、その反応は極めて消極的だったようだ。そもそもこの手の詐欺は、広告として掲載されているからサイトの大きな収入源になっているのである。これでは詐欺の片棒を担いでいるといわれても仕方がないのだが、今のところ取り締まる法律が整備されていないから、野放し状態のようである。

詐欺といえば電話を使った〔オレオレ詐欺」が有名で、その被害も未だになくなっていない。実際僕の家の電話にも、それらしいものがよくかかってくる。迷惑電話防止モードにして「お名前を仰ってください」と告げるようにしているから、何も言わずに切ってしまうことがほとんどだが、うっかりでたら、その話に乗ってしまうことが多いのだろうと思う。

SNSは地縁や血縁の関係が弱くなった現在の社会のなかで、それに変わる人間関係の持ち方として発展してきた。それを使っていい関係を作れる場合が多いのはもちろん、否定しない。しかし-このままでは、電話に変わる詐欺の手段として使われるようになってしまうだろう。くわばらくわばらである。一番の対応策は、SNSをやめることで、そのことで不便さを感じることはなにもないだろうと思う。


2024年4月29日月曜日

地震対応に見るこの国のお粗末さ

 



taiwan14.jpg台湾の花蓮で4月3日にマグニチュード7.7の大きな地震があった。ビルが傾いたりして被害の大きさが報道された。僕は2012年に台湾一周旅行をして、花蓮にも数日滞在し、太魯閣峡谷に出かけている。海でできた分厚い石灰岩が大理石に変成し、隆起した後に、長い年月をかけて雨によって削られた場所で、何千万年という時間が作り出した絶景だった。ところがこの地震で一番人的被害が多かったのがこの地域で、がけ崩れで埋まった人やトンネルに取り残された人、あるいは交通遮断で孤立した人たちなどが多数いたのである。一度行ってその景観に圧倒されただけに、その峡谷が崩壊したらと考えただけで恐ろしくなった。

しかし、もっと驚いたのは花蓮で避難所を設置する様子で、それほど時間が経っていないのに、体育館にずらっと個室が並んでいたのである。まだ被災者がほとんどいないのに食べ物や衣料など、必要なものも整えられているという報道だった。日本では正月に能登の地震があって、相変わらずの体育館に雑魚寝の様子が伝えられていたから、その違いに驚かされた。

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花蓮は最近でも2018年と22年に大きな地震に見舞われていて、その度に大きな被害を受けている。だから地震に対する備えが出来ていたのだろう。報道では、台湾の災害対応は1999年の地震以後に日本から学んだということだった。花蓮では2018年の地震でうまく対応できなかったことを反省して、必要なものの備蓄を整え、人々の訓練も行われてきたと報じられた。傾いたビルの撤去がすぐに始まったことにも感心させられた。花蓮では23日にも大きな余震があってビルが傾くなどの被害があった。おそらくまた迅速な対応をしているのだと思う。

ところが日本では能登地震から4ヶ月が過ぎようとしているのに、未だに避難所生活をしている人がいる。家が住める状態だとしても、上下水道が普及していないところが多いようだ。仮設住宅の建設もほとんど進んでいないのである。倒壊した建物や、破損したクルマがそのままに取り残された光景を見ると、4ヶ月も経っているのに、いったい何をしているんだろうと怒りたくなる。

もっともテレビは、そんな普及の遅さを批判的に伝えたりはしない。水道が使えないのにレストランやカフェを営業しているなどといった事例を美談のようにして紹介するものが多いのである。政府や県の対応のまずさ、というよりはやる気のなさが目立つのに、強く批判するメディアがほとんどないという現状には呆れるばかりである。ネットでフリーのジャーナリストの現地報告を何度か聞いたが、能登の人たちがまさに棄民状態に置かれたままであることを一様に話していた。被災した人たちの政府や自治体、そしてメディアに対する不信感はかなりのものようだ。政治もダメだがジャーナリズムもダメ。この国のお粗末さは、いったいどこまでひどくなるのだろうかと空恐ろしくなる。


2024年4月15日月曜日

エドワード・E.サイード 『オスロからイラクへ』『遠い場所の記憶 自伝』みすず書房

 

ハマスのイスラエル襲撃以来、パレスチナのガザ地区攻撃が半年も続いている。すでに3万人以上の死者が出て、建物の半数以上が破壊され、人口の7割以上が難民となり、食糧危機の中にあるという。ハマスによってイスラエルにも多くの死者が出て、人質にもとられているとは言え、これほどの仕打ちをするのはなぜなのか。そんな疑問を感じてサイードの本を読み直すことにした。

said1.jpg エドワード・E.サイードは『オリエンタリズム』や『文化と帝国主義』などで知られている。そして、パレスチナ人であることから、イスラエルとパレスチナの関係については両者に対して鋭い批判を繰り返してきた。『オスロからイラクへ』は、彼の死の直前まで書かれたものである。それを読むと、現在のような事態が、これまでに何度となく繰り返されてきたことがよくわかる。このアラブ系の新聞に連載された記事は1990年代から始まっているが、この本に記載されているのは2000年9月から2003年7月までである。

題名にある「オスロ」は、1993年にノルウェイの仲介で締結された「オスロ合意」を指している。「イラク」は2001年9月に起きた「アメリカ同時テロ事件」と、その後に敵視されて攻撃され、フセイン政権が倒されたことである。「オスロ合意」はイスラエルの建国以来続いていた紛争の終結をめざして、イスラエルを国家、パレスチナを自治政府として相互が認めることに合意したものだった。この功績を讚えてパレスチナのアラファト議長、イスラエルのラビン首相、ペレス外相にノーベル平和賞が授与されたが、紛争はそれ以後も続いた。サイードはこの合意を強く批判した。イスラエルは建国以来、パレスチナの領土を占領し、住居を破壊し、それに抵抗する人たちを殺傷してきたが、アラファトがそれを不問に付したからだった。

そんなイスラエルの横暴に対して、パレスチナは2000年9月に2度目の「インティファーダ(民衆蜂起)」を行った。この本はまさに、そこから始まっていて、イスラエルの過剰な報復を非難し、また「インティファーダ」の愚かさを批判している。アメリカで同時多発テロが起こると、イスラエルはパレスチナを同類と見て、いっそうの攻撃をするようになる。白血病を患って闘病中であるにもかかわらず、それに対するサイードの論調は激しさを増していく。サイードの批判の矛先は、イスラエルの後ろ盾になっているアメリカ政府と、パレスチナの現状を無視したアメリカのメディアにも向けられている。しかし、彼の声は、アラブ系の雑誌であるために、アメリカにもヨーロッパにも届かない。

said2.jpg サイードはパレスチナ人でエルサレムに生まれているが、実業家として成功した父のもとで、エジプトやレバノンで少年期を過ごしている。父親がアメリカ国籍を取得したために、エドワードもアメリカ国籍となり、エジプトのアメリカン・スクールに通って、プリンストン大学に進学し、ハーバードで博士号を取得している。『遠い場所の記憶』はそんな少年時代から大学を卒業するまでのことを、主に父母との関係や親戚家族との暮らしを中心に語られている。豊かなパレスチナ人の家庭で成長し、イスラエルの建国を少年期に体験して、アメリカ人として大人になった。そんな複雑な成り立ちを辿りながら、絶えず見据えているのは「パレスチナ」の地と、そこに暮らし、悲惨な目に遭い続けている人びとのことである。

この2冊を通してサイードが思い描き、力説し続けているのは、ユダヤ人とパレスチナ人が共生しあって作る一つの国家である。それは夢物語だと批判され続けるが、それ以外には解決の道がないことも事実だろう。サイードが亡くなってからすでに四半世紀が過ぎて、また同じ殺戮が繰り返されている。もう絶望しかない状況だが、それでも、サイードが生きていたら、「共生」にしか未来の光がないことを繰り返すだろう。そんなふうに思いながら読んだ。

2024年3月18日月曜日

株だけが高いのはなぜ?

 



kabuka.gif 日本の株価がバブル期を超えたと大騒ぎになった。これまでの最高値は1989年の12月29日につけた3万8957円44銭で、これはバブルがはじける直前に出た値である。株価はその後急落して2003年の4月には7607円88銭まで落ち込んでいる。その後少し持ち直したものの、リーマンショックや民主党政権の成立で1万円以下で推移し、安倍政権誕生とともに急上昇を始めて、2万円を超える額になった。それが21年には2万5000円、23年5月に3万円を超え、この3月には一時4万円を超えたのである。

en.gif 株価については円と関係があって、株が上がれば円安になり、円高になれば株が下がるといった特徴がある。これは日本の経済が輸出に依存しているからで、円安になれば輸出産業の売り上げが増すと予測されるからである。その円のレートは80年代の前半は1ドル200円台で推移していたが、後半には急激な円高になって、株が最高値をつけた89年には130円前後になっている。バブルがはじけて株が急落しても、円は100円台の前半を推移して、民主党政権が成立した2010年以降には円高が進んで2013年には79円になった。それが円安に転じるのは安倍政権以降のことである。

このような経過をグラフで見ると株価と円の関係が対照的になるのは安倍政権以降であることが分かる。株価が上がったのは「アベノミクス」によるもので、そこには日銀や年金機構が株価を買い支えるといった操作が顕著であった。実際国内の最大の株主は日銀で、保有する時価は70兆円で、年金機構の額も30兆円以上だと言われている。これは日本の株式全体の6分の1にもなる額で、極めて不自然なものである。もう一つ、円安を誘導したのが日銀のゼロ金利、さらにはマイナス金利政策であったことも加えておく必要がある。

日本の経済の実態はバブル期を境に下がり続けていて、失われた30年と言われている。日本のGDPが戦後の経済復興によってアメリカに次いで世界2位になったのは1968年のことである。それが2010年には中国に抜かれ、去年の23年にはドイツに抜かれて4位に下がった。新興のインドが急速な経済成長を遂げているから、そこにも抜かれて5位になるのは時間の問題だと言われている。あるいは、一人当たりのGDPで言えば、日本はすでに先進7カ国の最低で、世界全体では37位に下がっていて、韓国と台湾にはさまれた位置にある。

このように見れば、現在の株高が経済の実態とはかけ離れたものであることがわかるだろう。最近の円安がインバウンド増の要因と言われているが、円そのものの値よりは、この30年間、物価が上がらなかったことで、日本にやって来る人には、何でも安いと感じられるからである。もちろん、その間、個人収入もほとんど増えていないし、パートやアルバイト、あるいは契約といった形で働く人が増えて、貧富の格差が大きくなっているのである。株高が外国人投資家によるとも言われているが、そこにもやはり、割安感があるのだろう。

現在の株高は、日本の経済とは関係ないものだから、いずれは暴落すると言う人もいる。ゼロ金利政策を是正したい日銀は、株価が急落しないようにして、それを改めなければいけないが、それはおそらく至難の業である。もっとも日銀は国債の5割以上を保有しているから、金利をマイナスから0、そしてプラスに上げれば、今度はその利子の支払いに苦慮することになる。それもこれも「アベノミクス」が招いたことだから、安倍元首相の罪はとんでもなく大きいのである。


2024年2月26日月曜日

TVにもの申す市民ネットワークを

 

テレビがひどいことについては、このコラムでも何年も前からくり返してきた。しかしますますひどくなるばかりで、もう取りあげる気にもならないのが現状だ。しかも、ジャニーズや吉本関連など、TV自体がスキャンダルに深く関わっているのに、そのことについて、まともに発言すらしないのである。ぼくはそんなテレビに絶望しているが、何とか生き返らせようとして立ち上がった人たちがいる。

「テレビ輝け!市民ネットワーク」は田中優子、前川喜平などが中心になって始めた運動である。その趣旨は、1)報道機関としてのテレビに本来の役割を果たさせることで、具体的には、2)株主提案権の行使という取り組みにあって、テレビ朝日の株を3万株(約6000万円)購入して、株主総会で株主提案を行うのである。テレビ朝日をターゲットにしたのは「報道ステーション」におけるコメンテーターやスタッフの降板を、テレビ報道の危機の典型としているからである。

テレビに対する権力の圧力は安倍政権から強くなった。批判的なキャスターやコメンテーターが降ろされ、提灯持ち的な人が大きな顔をするようになって久しい。それはもちろん、テレビ朝日に限らないし、民放よりは NHKの方がもっとひどいと言えるだろう。だから今度の動きは、テレビ朝日をとっかかりにして、他の民放、そしてNHKに広げていくという流れを狙う、その第一歩なのである。

その共同記者会見で前川氏は「経営側は番組の制作や報道の自由に余計なことをするな、外部の権力に忖度や迎合をするなと。権力には政治権力もあるが、民間もある。ジャニーズ事務所や吉本興業は民間の権力。そういうのに忖度するのもいかん。放送事業者の独立性を担保する」と発言した。この会は前川喜平を社外取締役として推薦することも予定しているが、テレビ朝日がこの動きにどう対応するかは見ものだろう。その株主総会は6月に開催される。

もちろん、これだけでは動きは単発に終わってしまう。おそらくテレビ各局は、これをニュースとして報道することをいやがるだろう。テレビ局と新聞社は「クロスオーナーシップ」(相互依存)で繋がっているから、当たり障りのない取り上げ方しかしないに違いない。だから、つづけて他の民放でも同じような動きをしていく必要がある。果たして賛同者が増えて、大きな運動になるのだろうか。

1年ほど前に会長の任期満了を控えたNHKに前川喜平を会長にという動きがあった。 NHKの会長は公選ではなく経営委員会が任命するから、現実的には不可能なことだったが、ある程度の話題にはなった。今回の市民ネットワークの動きはこれにつづくものだったのだろう。その意味では一時的なものではなく、これからも持続する動きを狙っているはずである。テレビが輝きを取り戻すことなど期待しないが、せめて膿を出すぐらいの力にはなって欲しいと思う。

2024年2月5日月曜日

国政を改革する法律は国会議員には作れない

 

自民党の安倍派を中心にしたパーティ収入のキックバックの問題は、大山鳴動ネズミ一匹で、収束してしまった。数名の議員と会計責任者の逮捕でしかなかったのだが、自民党は刷新改革と称して、派閥の解消でやり過ごそうとしている。しかし問題は自民党の改革ではなく、議員の不正行為については議員自身に罪を負わせる連座制を法律に定めることにある。もっともパーティで得た収入を裏金にしたのは脱税だから、やる気になれば検察は有力議員の逮捕に踏み込めたはずだが、それをしなかったのは、政権に忖度をしたといわれても仕方がないだろう。

日本の国政は衆議院と参議院の二院政で、定数はそれぞれ480人と242人である。この数は決して多くはない。と言うよりはOECDの中ではアメリカに次いで少なく、100万人あたり3.7人である。ちなみに韓国は6.2人、イギリス、イタリアは10.4人で、北欧諸国は30人台で、一番多いのはアイスランドの210人である。しかし、私利私欲に走る国会議員ばかりが目立つから、議員が多すぎると感じてしまう。

国会は立法機関で、さまざまな法律を決めることを主な仕事にしている。しかし、安倍政権以降、行政機関である内閣が「閣議決定」を連発して国会軽視の姿勢を取りつづけている。実際安倍首相は「私は立法府の長」と言い放ったのである。衆議院も参議院も自公の安定多数だから、国会の採決に任せたって政権の意向通りになるのだが、国会での議論もすっ飛ばしてしまえという傲慢な姿勢が、10年以上もつづいているのである。これでは国会議員は無用の長物になってしまっている。

ろくに仕事をしていないのに、歳費は高く、活動費などももらい、議員一人あたりの収入は4000万円を超えるようだ。もちろん、新幹線のグリーンや飛行機もただである。この額はシンガポール、ナイジェリアに次いで世界第3位で、アメリカの2倍、イギリスの3倍である。このお金にはもちろん、税金が使われているが、政党にはそのほかに「政党助成金」が交付されていて、総額は300億円を越えている。他方で、国民の平均収入はバブル崩壊以降停滞しつづけていて、OECD34カ国の中で20位以下に落ちているから、議員の収入の多さが一層際立つのである。

にもかかわらず、自民党の議員はパーティと称して企業献金を集め、それを明記せずに隠し金を蓄えてきた。さまざまな面で、日本が今難しい状況におかれていて、それを解決するために働かなければいけないのに、やっているのは「今だけ金だけ自分だけ」なのである。今肝心なのは、議員の収入を国民の年収に合わせて下げることと、政治資金規正法を厳格にすることだろう。それを国会で決めるのは、泥棒が泥棒を取り締まる法律を作ることになるわけだから、第三者機関を作って決めて、ざる法にならないよう監視する以外にないだろう。それを認めさせるのは世論の高まりだが、メディアの論調は頼りない。

2024年1月29日月曜日

災害対応のお粗末さに想うこと

 

能登の地震から一ヶ月近くが過ぎました。真冬の季節の中、未だに一万人以上の人たちが体育館などの避難所で過ごしているようです。生活していた土地を離れて金沢などに二次避難する人が増えているようですが、土地や近隣の人たちから離れることを拒否する人も多いようです。高齢者ばかりの小さな集落が多いという特徴が、今後の復興にも大きな影響を持つかもしれません。誰もいなくなった集落が廃墟になっていく。それが現実にならないよう願うばかりです。

能登半島には一昨年の10月に出かけました。主に海岸沿いの道を先端の狼煙灯台まで行きましたが、黒い屋根瓦の家が点在する風景が印象的でした、ところが地震によって倒壊した家のほとんどがまた黒瓦の家だったようです。いかにも重そうな感じがしましたし、地震に備えた補強もしていなかった家がほとんどだったようです。能登の地震はすでに何年も前から群発していて、大きな地震も数回ありました。その時に倒壊した家もあったわけですから、なぜ、その後に対応しなかったのかと、行政の怠慢を非難したくなりました。実際大きな地震が起きる危険性があることは、以前から指摘されていたことなのです。

新幹線が金沢まで延伸されて、金沢をはじめ能登も観光客で賑わっていました。風光明媚で温泉もあり、食材も豊かな土地ですから、観光客の増加を目指す気持ちはわかります。しかし今回の被害の大きさやその特徴を見ると、しっかり対応しておけば、もっと小さなものにできたのではと思いました。経済重視の政治の無策がまた露呈したわけですが、復興に全力投入するために万博は中止という声は、少なくとも政治家からは聞こえてきません。停止中だったために大きな被害をかろうじて免れた原発についても、相変わらず見直す動きは起こらないようです。自分の懐を肥やす以外に能のない政治家をのさばらしておいた結果というほかはないでしょう。

東日本大震災以来、熊本や能登と大きな地震に見舞われてきました。これからも大きな地震の危険があると言われている地域はいくつもあります。それに対して対策をという声は聞こえてきますが、今回の対応を見ていると、何度被災しても何も変わらないことが多すぎるという印象を持ちました。一番は被災者が体育館で雑魚寝をしているという相変わらずの風景でした。体育館などに敷き詰めるように作られた段ボール製の仮設小屋やベッドなどがあるようですが、なぜ備えておかないのでしょうか。各自治体が全国的に備えておけば、被災地にすぐに提供できるはずですから、避難所の風景はずい分違ったものになるはずです。

大きな地震には停電と断水がつきものです。暖房ができない、トイレが使えない、そしてもちろん風呂にも入れない。そうならないために何を用意しておいたらいいのか。地震大国の日本ですから、このような備えについてのノウハウがもうとっくに出来上がっていていいはずです。必要なものを全国的な規模で分散的に備蓄しておいて、災害が起きたらそれをどういう手段で被災地に運ぶかを考えておく。そんな備えがなぜできないのでしょうか。用もない兵器を爆買いしたり、隣国を敵視して有事を煽る前に、やらなければいけないことが山積みのはずなのです。


2023年12月11日月曜日

加藤裕康編著『メディアと若者文化』(新泉社)

 

journal1-246.jpg 「メディアと若者文化」というタイトルは何とも懐かしい感じがする。そう言えばずっと昔に、こんなテーマで論文を書いたことがあったなと、改めて思った。1970年代から80年代にかけての頃だが、自分が若者とは言えない歳になった頃には「若者文化」には興味がなくなっていた。

この本の編著者である加藤裕康さんは、僕が勤めていた大学院で博士号を取得している。ゲームセンターに置かれたノートブックをもとに、そこに集まる人たちについて分析した『ゲームセンター文化論』は橋下峰雄賞(現代風俗研究会)をとって、高い評価を受けた。そんな彼から、この本が贈られてきたのである。

僕にとって「若者文化」は何より社会に対して批判的なもので、メディアとは関係なしに生まれるものだった。それがメディアに取り上げられ、社会的に注目をされると、徐々にその精気を失っていく。典型的にはロック音楽があげられる。そんな意識が根底にあるから、日本における70年代の「しらけ世代」とか80年代の「新人類」、そして90年代以降の「オタク」などには批判的で、次第に関心を薄れさせていった。当然、現在の若者文化などについてはまったく無関心で、そんなものがいまだに存在しているとも思わなかった。

「若者」は第二次大戦後に注目された世代で、政治的、社会的、そしてもちろん文化的に世界をリードする存在として見られてきた。それが徐々に力を失っていく。この本ではそんな「若者論」の系譜が、加藤さんによって、明治時代にさかのぼって、「青年」といったことばとの関係を含めて語られている。そう言えば大学院の授業で取り上げたことがあるな、といった文献やキーワードが並んでいて、何とも懐かしい気になった。

若者文化がメディアとの距離を縮め、やがてメディアから発信されるものになったのは80年代から90年代にかけての頃からだった。「新人類」とブランド・ファッション、「オタク」とアニメがその典型だろう。しかし、2000年代に入ると、メディアは携帯、そしてスマホに移っていき、若者文化もそこから生まれるようになる。あーなるほどそうだな、と思いながら、彼の分析を読んだ。

で、現在の若者文化だが、この本で取り上げられているのは、「自撮りと女性をめぐるメディア研究」や「『マンガを語る若者』の消長」そして「パブリック・ビューイング」に参加する若者の語りに<にわか>を見る、といったテーマである。知らないことばかりだったから面白く読んだが、現在の若者文化とは、そんなものでしかないのかという感じもした。そう言えば、この本には「語られる『若者』は存在するのか」という章もある。そこで指摘されているのは。「若者」に対して語られる、たとえば保守化といった特徴や、それに向けた批判が、この世代に特化したものではなく、全世代や社会全体に現れたものだということである。

そう言った意味で、この本を読んで感じたのは、それで「若者」はいなくなったし、「文化」も生まれなくなったということだった。あるいは、かつては「文化」を作り出す上で強力だったマス・メディアが、スマホやネットの前に白旗を掲げたということでもあった。

2023年11月27日月曜日

NHKのBSが一つ減ると言わないのはなぜ?

 

NHKのBSが12月から一つ減る。つまり「プレミアム」と名がついた3チャンネルがなくなるのだ。しかし、なぜそうなるのかという理由をNHKはまったく言わないし、減って申し訳ないなどとも言わない。数カ月前からしつこく繰り返しているのは、「BSが変わります!」とあたかもサービスが向上するかのようなメッセージである。3チャンネルの人気番組を1チャンネルに移すから、当然、番組数は減る。しかし移動する番組については予告をしても、消えてしまう番組については何も言わない。

他方でNHKは4K放送の宣伝も繰り返している。4Kを見るにはどうしたらいいか。この同じ説明を毎日数回放送しているのである。しかし、両者の関係については何の説明もない。12月が近づくにつれて、あまりにしつこく放送するから、もう腹が立ってきて、実際はどうなっているのかを書いておいた方がいいと思うようになった。

BS放送のチャンネルを二つ持っていたのはNHKだけである。NHKは地上波も二つ持っているが、これは公共放送の特権として許されている。しかし、4Kや8Kといった新しいチャンネルができ、試験的放送の期間が終わって本放送になるとNHKのチャンネルが増えてしまう。それは不公平だから、代わりにBSを一つ減らそうというのが実情なのである。

これはもちろん、NHKの自発的な変更ではなく、総務省からの命令なのである。だから、チャンネルが減ることで不便をかけたり、4Kを見るために新しいテレビやアンテナなどの負担をかけるのは申し訳ないなどとは決して言わないし、言えないのである。これは政府に忖度をした詭弁にほかならない。このことにかぎらず、こんな言い方、論法があまりに多いから、NHKは何の後ろめたさも感じていないのだろう。しかし、こんな言い方が当たり前になってはいけないと思う。

そもそも、BS放送で見たい番組を作っているのはNHKだけで、民放は地上波の再放送かテレビ・ショッピングばかりでほとんどやる気がないのである。僕は地上波の番組にはほとんど興味がなくNHKのBSぐらいしか見るものはなかったから、テレビはますます見なくなるだろうと思っている。もちろん4Kが見えるテレビに買い替えたりする気はまったくない。パソコンでネットを見る時間が増えるだけである。だからだろうか、NHKはネットでも見られるように準備を進めている。そうなるともちろん、視聴料も取るようになるのだろう。しかし、とんでもない話だ。

こんなふうに、最近謝るべきところで屁理屈をこねたり、別の話題にすり替える論法が目立っている。慇懃無礼な丁寧すぎることばが気になることとあわせて、正直に、正確に話すという当たり前のやり方ができないのは困ったものだと思う。NHKがそのお先棒担ぎをしているのだから、もうめちゃくちゃだという他はないのである。

2023年11月20日月曜日

批判する気も失せたけれど

 

日本はもう壊れていると思ってから久しいけれど、それがますますひどくなっている。一度劣化しはじめると止まらない。その見本のような光景は、どたばた喜劇のようで面白い気もするが、それが私たちの生活や未来に関わってくるから、もう絶望的な思いに囚われてしまう。

大阪万博がどうしようもない状況に陥っている。中止の声が高まっているが、国も大阪府・市もやめる気はないようだ。で、予算ばかりが膨らんでいく。東京オリンピックの二の舞いだが、そのずさんさは、オリンピック以上のようだ。そのオリンピックだって、いったいいくらのお金がかかって、どこにどう使われたのか、事後の検証はまったくなされていない。やりっぱなしで後は知らんという態度である。

大阪万博の会場はゴミの埋め立て地で、軟弱で地盤沈下が激しいから高い建物は造れない。そんなところを会場にしようというのがそもそもの間違いなのだが、お構いなしに決めたのが維新の松井や橋下が安倍を口説いた酒の席だったと言われている。しかも本当の目的はカジノをメインにしたIRの設置だったのである。事前の入念なチェックもなしに決めてしまう。そんなところは他にもたくさんある。沖縄の辺野古基地や原発などで、どれも中止という決断ができないでいる。

アベノミクスは沈滞する日本の経済を活性化させるというふれこみで行われたが、その結果は惨憺たるものである。経済はますます落ち込み、国の借金が激増し、円安が加速化して、収入は増えないのに物価ばかりが上がっている。経済大国といわれた日本で、毎日の食事に窮する人がたくさんいるなどという現状をいったい誰が予測できただろうか。介護保険もがたがたになってきているから、将来に対する不安を感じる人も多いだろう。日本はすでに、貧しい国になっているのである。

健康保険証をマイナカードと一体化させるとしたが普及率は10%にも満たないようだ。デジタル化は避けられない世の趨勢だが、国のやり方はお粗末の限りだ。デジタル化は何であれ、アナログを残した形式で普及すべきだが、今までの無策を棚に上げて遅れを取り戻そうとするから混乱するのである。住基ネットなどの失敗がまるで生きていないのが何ともお粗末なのである。

賃金は上がらないのに、物価は高騰し続けている。しかもインボイスその他で、増税が進んでいる。すでに五公五民と言われて、収入の半分が徴収されているのに、国はさらに税を納めさせようとしている。「増税メガネ」などと言われて慌てて減税を打ち出しても、岸田の人気は下がるばかりである。欧米なら暴動が起きてもおかしくない状態だが、誰もがおとなしいのはどうしてなのだろうか。

こうした現状をしっかり調査して国民に伝えるのがメディアの一番の仕事だが、そんなことを社是にしているメディアはほとんどない。政治家や経済界に忖度ばかりして、何も言わない態度である。しかもジャニーズの問題で明らかになったように、テレビは芸能プロダクションにまで忖度し続けてきたのである。それにしても吉本興業や宝塚など、芸能界も壊れているようだ。

と書いてきたら、もう止まらなくなった。しかし虚しくなるばかりだから、このぐらいにしておくことにしよう。