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2024年1月15日月曜日

お正月に見た映画

 

いつものことだけれど、暮から正月にかけては見たいテレビがほとんどない。というより、 NHKのBSが一つになってから、それまではつけていた食事中も、テレビを消したままにすることが多くなった。テレビはこのまま無用のデカ物になりかねない。そんなふうに思うことが多くなった。それでも2日と3日は箱根駅伝を長時間見た。青山学院の独走で、今一つ面白くなかったが、正月が来たと思うことはできた。

もっとも1日に起きた能登の地震の後は正月番組を潰して地震情報ばかりになった。「津波が襲う危険があるので早く逃げてください」とくり返し放送していたが、全国放送で長々やる必要があるのか疑問に思った。それに被災地だって、テレビが映るのかどうかわからない。そうしたら、突然の羽田空港の航空機衝突事故である。正月から大変なことが起こって、明けましておめでとうどころではなくなってしまった。

potter1.jpg"・薪割り仕事は終わったし、代車では遠出をする気もないからと、久しぶりにアマゾンのプライム・ビデオを見ると、『ハリー・ポッター』がすべてフリーで公開されている。で、毎日2本ほど見ることになった。1作目の『ハリー・ポッターと賢者の石』は1997年に出版されている。作者のジョアン・ローリングが極貧生活の中で書き上げた作品は、児童文学の枠を超えて世界中で読まれ、その後2007年までに7冊が出版された。総発行部数は6億部を超えたそうで、日本でも3000万部近く売れているようだ。

で、映画だが、一言で言えば、これは「ハリー・ポッター」の成長物語である。孤児のハリーが12歳の時に、魔法使いの家系に生まれていることを告げられ、寄宿制の魔法学校に入ることになる。さまざまな魔法を覚え、いくつもの事件に出くわして、何とか解決して大人になっていく。最初は12歳だったハリーも、だんだん成長して。最後は子どもを持つ父親になっていた。映画は2001年が初作で最後は2011年だから、12歳だった少年も映画と一緒に成長していったのである。こういう物語はいつまで経っても歳をとらないことが多いから、原作を読んだら、だいぶ違うのかもと思った。

beast1.jpg"・アマゾン・プライムにはローリングが脚本を書いた『ビースト』の三部作もあった。このうち2本は以前に見たが、今回また見直した。大人である僕には、こちらの方がはるかに面白かった。暗いお城のような魔法学校が主な舞台だった『ハリー・ポッター』と違って、『ビースト』はロンドンやニューヨーク、あるいはパリが舞台になっているし、魔法を使う動物がいろいろ出てくる。時代も半世紀前の20世紀前半で、今とはだいぶ違う。映像技術にも驚くやら感心するやら。いずれにしても、連日複数の映画を見て、さすがにかなりくたびれてしまった。

『ホビット』や『ロード・オブ・ザ・リング』を見た時にも思ったが、ファンタジー映画の映像技術には本当に驚かされる。残るは『スター・ウォーズ』だが、これもアマゾンでやってくれないかなと期待している。

2023年5月15日月曜日

最近見た映画

このコラムは「メディア」がテーマだが、最近は映画を取り上げることが多い。と言って取り上げるべき映画が多いというわけではない。新聞にしてもテレビにしても、面白いものが少ないし、もう批判する気にもならないほど堕落したと思うからだ。そこにいくと映画には、権力に対して正面から立ち向かって、その悪を告発するといった作品が少なくない。今回はそんな作品を取り上げてみた。ただしどれもAmazonビデオであって、映画館で見たわけではない。

mauritanian.jpg" 『モーリタニアン・黒塗りの記録』は、ニューヨークで起きた同時多発テロに関わった疑いをかけられ、モーリタニアの自宅で警察に連行されて、キューバのグアンタナモ収容所に捕らえられたモハメドゥ・ウルド・スラヒの手記をもとにしている。厳しい訊問や拷問が繰り返されるが、主人公は決して関与を認めない。しかも起訴されたわけではないから裁判もなく14年も収監され続けたのである。

その不当さに気づいた弁護士のナンシー・ホランダーがさまざまな妨害にも屈せずに、無実であることと、不当な扱いを受けていることを告発する。開示された記録文書は黒塗りだが、スラヒ自身に収監中に受けた拷問や虐待を手記させて、裁判にまで持ち込むのである。裁判は2009年に始まり、2010年には勝訴するのだが、控訴されて2016年まで収用され続ける。で、アメリカ政府からの謝罪は結局行われなかった。

これはもちろん実際にあったことで、映画の最後は本人がディランの "The Man in Me" を「これは俺のことだ」と言って歌うシーンで締めくくられている。グアンタナモ収容所はオバマ大統領が閉鎖を決め、収容者の多くが釈放されたが、トランプが中断したためにまだ閉鎖されていない。

spotlight.jpg" 『スポットライト・世紀のスクープ』はボストンの新聞社で働く記者たちがチームを作って、カトリック教会内で行われた少年に対する性的暴行を取材し、記事として公開する話である。もちろんこれも実話で「ボストン・グローブ」紙は2003年に公益報道部門でピューリッツァー賞を受賞している。

始めは一人の神父を追ったのだが、やがて類似したケースが次々と見つかり、マサチューセッツ州だけで90人程度の神父が浮かび上がってくる。被害を受けた人たちから、その真相を聞きだすシーンは極めてリアルだが、一方でカトリック教会の圧力があり、記事にする最後の段階で同時多発テロが起こり、いくつもの壁にぶち当たることになる。最後には記事は公開されて、世界的な反響を呼ぶことになった。

こういう映画を見て、しかもそれが事実に基づくものであることを知ると、いっそう、今のメディアのだらしなさや権力への追従に腹が立ってくる。もちろん、例外的な事例だからこそ映画になるんだとも言えるだろう。権力に押しつぶされ、闇に葬られてしまうことがほとんどなのかも知れないとも思う。しかし日本では、こんな話はついぞ聞いたことがない。何しろ、「ジャニーズ」の件のように、外国のメディアに取り上げられても、国内のメディアは沈黙したままなのである。

2023年4月10日月曜日

坂本龍一の死に想う

 
坂本龍一が逝ってしまった。享年71歳、僕より三つも若い、早すぎる死だった。癌と闘いながらも反原発や憲法の擁護、そして自然破壊などを批判する言動を繰り返してきた。同じような活動をしてきた大江健三郎の訃報を聞いたばかりだったから、ショックはいっそう大きかった。日本の良心と呼べる人の相次ぐ死は、軍備増強に舵を切った日本の状況を歯止めのきかないものにしてしまう。そんな気持ちに襲われた。

sakamoto2.jpg" 坂本龍一が有名になったのは『YMO』からだが、僕が彼に興味を持ったのは、1983年に公開された『戦場のメリー・クリスマス』がきっかけだった。大島渚が監督したこの映画に、彼はデビッド・ボウイやビート・タケシとともに出演し、主題歌を作った。これがきっかけだったかどうか分からないが、坂本は『YMO』を解散し、『ラスト・エンペラー』にも出演し、音楽も担当してアカデミー賞やグラミー賞などを獲得して、一躍世界的なミュージシャンになった。


sakamoto1.jpg" 坂本龍一が音楽を使って政治的なメッセージをすることを知ったのは、2001年にTBSが企画した「地雷ZERO 21世紀最初の祈り」に出演した時だった。彼は地雷撤去のためのチャリティソング「ZERO LANDMINE」を作曲して,親交があって彼の意志に共鳴するミュージシャンたちを集めてCDを作った。ニューヨークに移り住んだ90年代から2000年代にかけては『YMO』の再結成もあって,彼がもっとも精力的に活動した時期だったが、9.11を経験することにもなった。音楽にいったい何ができるのか。そんなことに悩み,自分の表現活動を試行するきっかけになったようだ。

彼の政治的な発言がより際立つきっかけになったのは、2011年の東日本大震災と福島原発事故だった。2014年に中咽頭癌を発症して,療養生活を送ることになったが,すぐに回復して音楽活動も政治的発言も精力的に行った。それは21年に直腸や肺に転移した癌の摘出した後も続いていて,つい最近も神宮の木を伐採する方針に抗議して小池都知事などに直訴する手紙を書いていることが報道されたばかりだった。

ジョージ・オーウェルを評価する時に使われたことばに「ディセンシー(decency)」がある。オーウェルを評価した大江健三郎もまた、この「ディーセンシー」を使ってオーウェルを論じることがあった。それは大江自身が自らを律する時に使ったことばでもあるが、僕はまた,坂本龍一にももっとも当てはまることばであるように思う。「品位」「良識」「人間らしさ」などと訳されるが、世界の政治や経済,そして社会の分野で今,大きな力を持つ人たちにもっとも欠けているものである。

P.S. NHKの「クローズアップ現代」が坂本龍一を追悼する番組を放送した。しかし、光を当てたのは彼の音楽のみで,政治的な言動についてはまったくふれなかった。それは彼の一面だけを捉えて、その全体存在を矮小化する愚行だが、NHKが「ディセンシー」とは無縁のメディアに堕してしまっていることを露呈した番組でもあった。

2023年4月3日月曜日

『プラン75』

 



plan75.jpg" 75歳を過ぎたら10万円と引き換えに死を選べる。『プラン75』は高齢化社会を是正するために国が考え出した制度だ。失業して身寄りがない主人公が最後に選択するのだが、見ていて何も救いがない、憂鬱になるだけの映画だった。

そもそも、こんな姨捨山そのものの制度が何の反対もなく合法化されるのだろうか。見る前から、そんな疑問を感じていたが、窓口で業務をしたり、プランに入った老人のケアをする職員たちが何の疑問もなく仕事をする姿に違和感を持った。彼や彼女たちも次第に疑問を持ちはじめるのだが、最初から思わなければおかしいはずである。

主人公(倍賞美津子)が最後に夕日を眺めるところで映画は終わって、プランを中止したことを暗示させるのだが、それで何か救われた気になるわけでもなかった。いったいこの映画は何が言いたいのだろうと、首をかしげたが、すぐ後に、「老人は集団自決をすべき」といった暴言を吐いたテレビのコメンテーターがいて、批判されたりもして、そういう空気があるのかと、改めて思った。

もっとも、今の日本の状況は政治的にも経済的にも、そして社会的にもひどいことになっているのに、デモ一つ起こらないし、メディアはどれも何一つ本気になって批判していない。収入が上がらないのに税金などでその半分が召し上げられ、五公五民などと言われている。破綻してもおかしくない借金財政なのに、防衛予算だけが突出して増えている。子供の出産数がどんどん減って、少子化を食い止めるのはもう無理になっているのに、今さら口先だけの「異次元の政策」などと言い出している。

であれば、近い将来に「プラン75」のような制度ができてもおかしくない世の中になるのかもしれない。そんなふうにも思いたくなった。何しろいつの間にか国の防衛が大事だということになって、「新しい戦前」などと言われはじめているのである。「国のために年寄りは早く死ね」といった思いが空気となって漂い始めているのだろうか。この映画はそれに警鐘を鳴らしたのかもしれない。そう思えば、納得できないこともないが、それではダメなんだと言うメッセージがなければ、やっぱり映画としてはダメなんだと感じた。

2023年1月9日月曜日

『キネマの神様』

 

cinema1.jpg"『キネマの神様』は沢田研二が主演する活動屋の物語だ。ただし最初は志村けん主演の予定だったが、コロナに感染し、急死したために代役となった。撮影開始も延期になったが、映画そのものも、ラグビーのワールドカップとコロナ流行の話題から始まっている。

主人公はアル中でギャンブル好きのダメジジイだが、かつては将来を嘱望されて映画監督になるはずだった。借金取りに追われ妻や娘に愛想つかされる現在と、若い頃に撮影現場で働く姿が代わり番こに描かれる。映画が全盛だった半世紀前の昭和の時代と現在との対比である。

その時代には、小さな町にも映画館があって、多くの観客でにぎわっていた。しかし今は、映画館で見ようと思えば、大きな町のシネコンに出かけなければならない。その代わりに、家でいつでも見たい時に見たい映画が見られるようになった。この映画には今となっては懐かしい小さな映画館が登場する。若い頃に映写技師をしていた主役の友達が経営しているが、コロナ禍もあって閉館に追い込まれている。

監督の山田洋次は、この作品に映画はやっぱり映画館で見るべきだと言おうとしたのかも知れない。それがコロナ禍と重なって、映画館の危機という切実な訴えのように聞こえてきた。僕はこの映画をAmazonで家のパソコンで見た。今では映画館も普通に開館されているが、コロナ禍になってから一度も映画館にはいっていないし、当分は出かけることもないだろうと思う。その意味では何とも皮肉といえるかもしれない。

「キネマの神様」という題名は主人公が監督第一作として撮るはずだった映画の題名である。映画館に足しげく通って同じ映画を何度も見る主人公に気づいた映画の主人公が、スクリーンから客席に呼びかけて飛び出してくるといった話だった。そのシナリオに共感した孫が、映画のシナリオを公募する木戸賞(実際には城戸賞)に応募するために主人公の爺さんと書き直しをして、見事受賞することになる。

スクリーンから登場人物が客席に飛びだすというのはウッディ・アレンの『カイロの紫のバラ』のモチーフである。映画や演劇は、それを見せるために作られるが、演じられる世界と見る世界はまったく別の世界として考えられている。二つの世界の間にコミュニケーションは起こらないのが大前提だが、ウッディ・アレンは映画の中でしばしば、その掟を破って観客を当惑させた。

山田洋次もそのことを当然知っているだろうと思う。知っていてなぜ使ったのか。映画のラストは、主人公がかつて自分が助監督をした映画を、映画館で見ながら死ぬという場面になっている。スクリーンから主演の女優が飛び出してきて、一緒に行こうと言われてついていくのである。このシーンを撮るところから思いついたのかなどと、勝手に思ったりもした。ちなみにこの映画には原作があるが、その物語は映画とはまったく違うものである。

2022年11月7日月曜日

村瀬孝生『シンクロと自由』(医学書院)

 

僕の両親は10年前に老人ホームに入り、父は数年前に亡くなって、母はまだお世話になっている。コロナ以降会えずにいて、直近の記憶が怪しくなっていたから、今会っても、僕のことはわからないかも知れない。淋しい思いをしているのではと考えたりもするが、子どものことがわからなくなっているなら、それも感じないのかもしれない。いずれにしても、老人の介護は大変で、それを免れているのは、正直なところ助かっている。

murase1.jpg 村瀬孝生の『シンクロと自由』は介護の現場におけるレポートだ。介護現場では、どうにもならない認知症の老人に対して、我慢の限界を超えて暴力を加えてしまうことがあるようだ。犯罪のように扱われるが、そうなることはあるだろうな、と思うことが少なくなかった。そうならないために、介護する人はどうしたらいいか。この本に書かれているのは、介護する人とされる人が右往左往しながらも、やがて互いの心が通じ合う瞬間に出会うという物語だ。それがまるで漫才のぼけと突っ込みのようにして語られていて、面白いと思った。

食事を食べてくれない。どこにでも排泄してしまう。身体を触られるのを拒絶する。預金通帳が無くなったとくり返し言う。夜中の徘徊。家に帰ると言って聞かない。それを無理やり強制したり、叱ったりするのではなく、なぜそうするのかを探り当てようとする。そうするとその原因が分かり、改善する方法が見えてくる。何かを教えるのではなく、逆に教えてもらう。そんな発想の大切さが「シンクロ」ということばでくり返し語られている。

そんな発想は「自由」と言うことばにも及んでいる。不自由な身体には新たな自由がもたらされているはずだし、時間や空間の見当がつかなければ、そこから解放されてもいるはずだ。子どものことがわからなければ、親の役割も免じられているし、忘れてしまえば毎日が新鮮になる。「それらは私の自己像が崩壊することであり、私が私に課していた規範からの解放でもある。私であると思い込んでいたことが解体されることで生まれる自由なのだ。」

father1.jpg この本を読んで、この欄で紹介しようと思っていたら、たまたまアンソニー・ホプキンス主演の『ファーザー』をAmazonで見た。認知症が進んで、徐々に昔の記憶が薄れ、娘や近親者との関係があやふやになっていく。その過程を、主人公と周囲の人の両方の立場から描いていて、そのリアルさに引き込まれた。老人はやがて自分が誰だか分からなくなっていくが、映画ではそれがつらいこととして結論づけられる。

『シンクロと自由』と『ファーザー』は、心や身体の解体をまったく異なる視点で捉えている。心や身体がまだ正常だと思っている立場からは、映画の方にリアルさを感じるが、実際にそうなった時の自分を想像した時には、それが新たな自由に思える心持ちになりたいものだと感じた。

2022年10月17日月曜日

『MINAMATA ミナマタ』



minamata.jpg" ジョニ・デップが主演する『MINAMATA ミナマタ』は、制作をするというニュースを聞いてから、是非見たいと思っていた。それを見たのはもちろん、Amazonでだ。普段なら無料で見られるものしか見ていないが、これは別。水俣病にはずっと関心を持っていたし、ユージン・スミスと活動を共にしたアイリーンは、ユージンの死後京都で暮らしていて、ちょっと知っている人だったからだ。

『MINAMATA ミナマタ』は、熊本県水俣市に発生した「水俣病」をテーマにしている。高度成長期に起きた公害で日本の四大公害病と言われている。「チッソ水俣工場」による排水が不知火海を汚し、そこで取った魚を食べた人や産まれた子どもが発症した病気で、身体の痙攣や変形が症状として起きるものである。「チッソ」はその関連性を否定し続けてきたが、公害を告発し追及する運動が根強く続き、裁判で認定されたのは、ユージン・スミスが水俣に住み着いて写真を撮り続けて来た時期に重なっている。

minamata2.jpg" ユージン・スミスが水俣で撮った写真は「入浴する智子と母」が有名だ。1972年の『ライフ』に「排水管からたれながされる死 ―水銀中毒が日本の村を破壊する―」と題されたエッセイとともに発表され、水俣病が世界中に知られるきっかけになった。その写真も含めて『写真集 水俣』(三一書房)が出版されたのは、スミスが死んだ2年後の1980年だった。なお、この写真集はその後も普及版などが出されたが、映画の公開に合わせて『MINAMATA』(Creviis)が出版されている。

『MINAMATA ミナマタ』は水俣ではなく、日本の他の地でもなく、セルビアとモンテネグロで撮影されている。水俣市やチッソが反対したのかと思ったが、1970年代とは様変わりした水俣市には撮影に適した場所がなかったというのが理由のようだ。また映画には当然、多くの日本人が登場するが、一部の俳優以外はヨーロッパに在住したり滞在していた人たちを募って集めたということだった。そのモンテネグロのティヴァトの町に再現された舟小屋や居酒屋、そしてユージンの使った暗室は、そう言われなければわからないほど自然なものだった。

で、肝心な映画だが、かつては報道写真家として活躍していたスミスがニューヨークで酒に溺れた孤独な生活をしているところから始まっている。そこにアイリーンが来て、水俣病の話をして、二人で水俣に行くことになる。人生にもカメラにも絶望していたスミスが、水俣の人たちと親しくなり、病気の残酷さやチッソや日本政府の冷淡さに直面して、実情を写真で世界に伝えることを決心するのである。

『MINAMATA ミナマタ』はまるでドキュメントのように作られている。病に苦しむ人たちが入院している病院に潜入して、その変形した身体や痙攣している様子を写真に収め、チッソ工場前での抗議の座り込みでは、スミス自ら暴行を受けて負傷してしまう。写真の公表を抑えるために金を持ちだすチッソの社長とスミスとのやり取りもあって、ジョニ・デップはすっかりユージン・スミスになりきっていて、デップのすごさを改めて見た気がした。

映画はもちろん、日本でも公開されたが、それほど話題にもならなかったようだ。正確な数字は分からないが、ジョニ・デップの他の映画に比べたら、観客動員も桁違いに少なかっただろう。ただ、ネットでは見られるから、ぜひ見て欲しいと思う。何より大事なのは、水俣病は過去の話ではなく、現在でも国やチッソを相手に闘われている問題なのである。 

2022年9月26日月曜日

Lady Gaga "A Star Is Born"

 

star1.jpg"レディ・ガガはマドンナの二番煎じだろうぐらいにしか思っていなかった。だから彼女のCDは一枚も持っていない。もちろんかなり過激な政治的発言をして話題になったことは知っていたが、それもまた、マドンナと一緒と思っていた。

そんな程度の関心だったが、Amazonでたまたま見つけた『アリー/スター誕生』という題名の映画を見た。もちろんガガが主演であることも知らずにだったし、誰が監督で誰が出ているかも確認しないで見始めた。面白くなければ途中でやめる。そんなつもりだったが、最後まで見て、サウンドトラックまで買ってしまった。

star2.jpg"『スター誕生』はすでに三作作られていてこれが四度目のリメイク版である。僕はこの三作目を見たはずだが、内容についてはあまり覚えていない。主演したのはクリス・クリストファーソンとバーバラ・ストライサンドで、今調べるとアカデミーの歌曲賞を取ったようだ。クリスファーソンはカントリーのミュージシャンだが、この時期には多くの映画に出ていて、そのほとんどを見ている。たとえば、ボブ・ディランと共演した『ビリー・ザ・キッド/21才の生涯』(1973)、三島由紀夫の原作を映画化した『午後の曳航』(1976)、『アリスの恋』(1974)、そして『コンボイ』(1978)などである。もちろん、いい歌もあって、ジャニス・ジョプリンが歌ってヒットした「ミー・アンド・ボビー・マギー」が代表作になっている。

ガガが主演する四作目もカントリーの人気ミュージシャンに見いだされてスターになるという話である。共演したブラッドリー・クーパーは、ステージでのパフォーマンスも彼がやり、監督も務めている。知らない俳優だと思ったが、後で調べると、Amazonで見た『世界にひとつのプレイブック』(2012)でアカデミー主演男優賞にノミネートされているし、『アメリカン・スナイパー』(2014)とこの『スター誕生』でもノミネートされている。あるいは『ジョーカー』(2019)では製作者になっている人である。

で、肝心の映画についてだが、酒とドラッグに溺れたカントリーのスターだったジャクソン・メインが、たまたま入った酒場で歌うアリーに興味を持つところから始まる。その自作の歌にほれ込んで、自分のステージで一緒に歌わせたりして、彼女を人気者にし、恋に落ちて結婚もする。しかし、自分を上回る人気者になることで、また酒やドラッグに溺れるようになり、最後には自殺をしてしまう。アリーはグラミー賞を取るのだが、そこで歌うのは彼に対する愛と惜別の歌である。

いい歌が多かったからサウンドトラック盤を買ったが、あらためてガガの声量に感心した。ただ、彼女の他のアルバムについてはすぐ買おうという気にはなっていない。

2022年9月5日月曜日

最近見た映画

 

journal3-210-1.jpg"どこにも出かけないから映画をよく見ている。もちろん、映画館ではなくAmazonでだ。自分が歳取ったせいもあるが、長年見てきた俳優が同じように高齢化していることもある。で、老人ホームをテーマにした作品を何本か見た。ダイアン・キートンはウッディ・アレンの作品に出ていた頃からのファンだが、『チア・アップ』は老人ホームに入ってチアリーディング・チームを作るという話である。余命のかぎられた癌を宣告されて、最後はホームで過ごそうと思ったところから話は始まる。いくつもの難局を乗り越えて、大会に出場して大喝采を得た後で死ぬという話だが、彼女のチャーミングさは健在だった。




journal3-210-3.jpg" 『43年後のアイ・ラブ・ユー』は、演劇評論家の主人公が、昔恋人だった舞台女優がアルツハイマーになって老人ホームに入ったというニュースを見て、自分も同じホームに入るという設定である。もちろん、病気を装ってだが、彼の家族はそれを鵜呑みにしてしまう。彼の目的は、女優の病状を何とか回復させようとすることで、いろいろ昔話を持ちかけるが、彼女にはまったく届かない。しかし、そんな目的を理解した孫娘の協力で、女優がかつて演じた芝居を老人ホームで上演して、彼女の記憶を呼び覚ますことに成功するのである。





journal3-210-2.jpg"『チア・アップ』で共演していた女優が主演する映画をAmazonが勧めていたので『Stage Mother』を続けて見た。ゲイの息子が薬物依存で死んだという連絡を受けとるところから始まる。葬式に参列するためにテキサスからサンフランシスコに出かけるが、ゲイばかりの異様さに、途中で退出してしまう。しかし、息子が主役で出ていたゲイ・バーの仲間たちと親しくなり、観光客を対象にしたショー・ホールとして再建させて成功するのである。そのジャッキー・ウィーヴァーはオーストラリア出身で、『世界にひとつのプレイブック』でアカデミー助演女優賞を得ている。この映画もAmazonで見ていたのだが、まったく印象に残っていなかった。

こんなふうにAmazonでの映画鑑賞が半ば習慣化している。最近見て面白いと思ったのは他にもたくさんある。聾唖の家族の中で一人だけ耳が聞こえて歌もうまい娘が、いくつもの難局を乗り越えて音楽大学に進学する『コーダ・あいのうた』、デブでいじめられっ子だった少年が、やはり歌の才能を生かしてオペラ歌手になるという『ワン、チャンス』、イギリスで捕虜になったナチスの兵士が、サッカーのゴールキーパとして「マンチェスター・シティ」に入り、やがて国民的英雄となる実話に基づいた『キーパー』、自分の不注意で家が火事になり子どもを死なせた主人公の再生物語である『マンチェスター・バイ・ザ・シー』、年老いた美術商が最後に、名前がなくて価値の定まらなかった肖像画を描いた画家を突き止めるという『ラスト・ディール』などである。

映画三昧と言いたいところだが、出かけることができないかわりに仕方なくといったところでもある。ジョニ・デップがユージン・スミス役になった『MINAMATA ミナマタ』も見たが、これは次回のコラムで書くつもりだ。


2022年7月11日月曜日

The Bandという名のバンド

 
theband1.jpg"ザ・バンドはボブ・ディランのバックとしてデビューした。ディランが生ギターからエレキギターに持ち替えた時期で、彼の信奉者たちのなかには拒絶反応を示す人たちが多かった。政治や社会を風刺したり批判したりするフォークソングはインテリの好む音楽で、ロックンロールは商業的なガキの音楽だと思われていた時代だった。

ただし、この『ザ・バンド かつて僕らは兄弟だった』を見ると、彼らはロニー・ホーキンスのバックとしてカナダで1950年代の終わりに結成され、その後ディランのバックになったとあった。有名なのは1965年のニュー・ポート・フォーク・フェスティバルや、翌年に行ったロンドンのロイヤル・アルバート・ホールを始めとしたヨーロッパ公演で、客との緊張関係が伝わってくるステージは、今では伝説化している。

ディランが交通事故に遭ってウッドストックに隠遁すると、ザ・バンドのメンバーも移り住んで、レコード制作をした。ディランの「Basement Tape」とザ・バンドの「Music from Big Pink」で、ザ・バンドはこれを機に独立したバンドとして活躍した。ピーター・フォンダの『イージー・ライダー』に使われた「ザ・ウェイト」やディランの「アイ・シャル・ビー・リリースト」が大ヒットして70年代前半を代表するバンドになったが、1976年に最後のコンサートをしてバンドは解散した。そのライブは『ラスト・ワルツ』として映画にもCDにもなった。監督したのはマーティン・スコセッシだった。

その後メンバーはそれぞれ独立して音楽活動を続けたり、再結成されたりしたが、目ぼしいヒットは生まれていない。だから今では忘れられたバンドになったと言えるかもしれない。メンバーのうち、ベース担当のリック・ダンコ、ドラムスとボーカルのリヴォン・ヘルム、そしてキー・ボードのリチャード・マニエルは死んで、存命なのはガース・ハドソンとロビー・ロバートソンの二人だけである。

『ザ・バンド かつて僕らは兄弟だった』はロビー・ロバートソンが制作し、彼自らがザ・バンドの歴史を振りかえって語るという構成になっている。その話を聞くと、知らなかったことがずいぶんあった。ロバートソン自身にはネイティブ・インディアンの血が流れていて、養子として育てられたことが明かされているし、少年時代からの仲間であったメンバーの結束の強さや、有名になった後の仲たがい、そしてドラッグやアルコールにおぼれたり、自殺をしたメンバーのことが語られている。ザ・バンドと一時期音楽活動を共にしたディランはもちろん、影響を受けたエリック・クラプトンやブルース・スプリングスティーンも登場して、70年代前半に輝いたザ・バンドのことが語られている。

このビデオを僕はAmazonで見つけて見た。最近はめったに聴くこともなかったが、改めて何度も聴き直した。フォークソングとロックンロールの融合、ビートルズやローリングストーンズなどに代表されたブリティッシュ・ロックとの出会いなど、ポピュラー音楽がエネルギーに溢れた時代に、ザ・バンドという名のバンドがいたことを、改めて思い出した。

2021年8月30日月曜日

二つの映画主題歌

・テレビがオリンピックやパラリンピックばかりやっているから、Abemaで大谷の試合を見たり、Amazonで映画を観ることが多くなった。何本も見た映画の中で主題歌が二つ気になった。映画のエンディングはほとんど見ずにやめてしまうのだが、「いい歌だな!」と思って二つとも最後まで聴き、誰の何という歌なのかをネットで確認した。

themule.jpg・一つ目はクリント・イーストウッドが監督主演する『運び屋』で、2019年に公開された彼の最新作だった。クリント・イーストウッドは91歳でなお現役の監督兼役者だが、この映画の主人公も90歳を過ぎたコカインの運び屋だった。園芸家としての仕事がうまくいかず、家族とも不仲になった老人が、それとは知らずにコカインの運び屋になって、何度も成功させる。老人が運び屋とは思わない警察のまごつきや、疎遠になった妻の最後につきあう様子などがあって、いい映画だと思った。

・その最後に流れたのはトビー・キースの「Don't let the Old Man in」で、切々と歌う低音の歌声に聴き入った。ベテランのカントリー・ミュージシャンのようだが、僕は知らなかった。ウィキペディアで調べると、愛国的な内容の歌もいくつか作っていて、トランプの大統領就任式にも招かれて歌ったようだった。YouTubeで他の歌も聴いてみたが、確かにそんな感じの歌が多かった。だからCDを買う気にはならなかったが、「Don't let the Old Man in」は歌詞もなかなかいいと思って、YouTubeでくり返し聴いている。

もう少し生きたいから この年寄りを呼びに来ないでくれ
ドアをノックしたって 呼ばれるままにはならない
自分の人生にいつかは終わりが来ることはわかっているんだから

rbg.jpg・もう一つはアメリカ初の女性連邦最高裁判事だったルース・ベイダー・ギンズバーグを主人公にした『ビリーブ 未来への大逆転』で、主題歌はケシャが歌う「Here Comes the Change」だった。ぼくはケシャについても何も知らなかったが、奇抜なメイクなどで、日本でも人気があるようだ。

・この歌は映画のために作られたもので、彼女はオファーをもらった時の気持ちを「自分はふさわしくないと思った。作曲はとても個人的なプロセスで、大体は自分自身が体験したことからインスピレーションが来る。だから、誰か他の人の人生についての曲で、それもルース・ベイダー・ギンズバーグ判事っていうことで、ちょっとおじけづいてしまった」が、「生涯をかけてたゆむことなく、また速度を緩めることもなく平等のために闘ってきたギンズバーグ判事に敬意を表するために私ができることをやりたいと思ったし、私も声を上げたいと思った」と語っている。

・ギンズバーグ判事は昨年87歳で亡くなって、トランプ大統領は選挙間近にもかかわらず、その後任に保守派の女性を任命した。ギンズバーグの人生がアメリカの法律にある性差別を指摘し、改善するために戦ってきたものであることは、映画でもよくわかった。大学に女性用トイレがなかったこと、弁護士として女性を雇う法律事務所がなかったことなど、この映画は「性別」を当たり前とする社会ヘの挑戦がテーマで、題名も「On the Basis of Sex」だが、邦題には、そんな意味が考慮されていなかった。『ビリーブ 未来への大逆転』では、何のことかわからないが、日本人にはこの方が訴求力があるのだろうか。

2020年3月30日月曜日

外出自粛でネットで映画

 

・東京オリンピックが延期になった途端に感染者が急増して、都知事が都内への移動を自粛と言い始めた。何か怪しい。感染者数を意図的に操作しているのではないかと疑ってしまう。お彼岸の3連休には高速道路の渋滞が久しぶりにひどかったようだ。僕の住む河口湖でも他府県ナンバーの車が多かった。そんな状態をほったらかしにしておいて、延期決定後の態度豹変である。最初にオリンピックありき。現金の給付ではなく、観光券や牛肉券、魚券などといったニュースを耳にすると、この国は本当にもうダメなのだとつくづく思う。

amazon1.jpg ・とは言え、人ごみに出るのは極力避けて、週一回のスーパーでの買い物だけにしている。もちろん外出はほかにもしているが、それは山歩きだったり、自転車での湖一周だったりするから、ウィルス菌に感染する心配はほとんどない、だろうと思っている。で、多くなったのは午後の数時間をネットでの映画鑑賞に費やすことだった。Amazonでの映画鑑賞は今までもやっていて、目ぼしいものはほとんど見てしまっていたから、探すのにちょっと苦労をした。最初はよく知っている俳優のものということで、 マイケル・ダグラス, ロバート・デニーロ, モーガン・フリーマンが出ている『ラストベガス』を見た。誰もがもう年寄りになっていて、病気持ちやら孤独な暮らしやらをしている。悪ガキ時代の仲間が久しぶりに集まってラスベガス旅行に出かけるという話だった。そこから芋づる式に見たのは、老人が主役の映画だった。「じいさん」になった自分にとっては、おもしろいものが次々見つかった。

amazon2.jpg ・モーガン・フリーマンの『最高の人生のはじめ方』は友達の家を借りた作家が、そこで隣家の子供たちと仲よくなっていく話だった。生きる気力の萎えた老人が子供とのかかわりによって再生する。そんな話はほかにもあって、ビル・マーレイが主演する『ヴィンセントが教えてくれたこと』も、隣家に引っ越してきた母子家庭の少年との関係がテーマだった。そんなふうにして見ていくと、老人の尊厳死(『92歳のパリジェンヌ』)や認知症や癌(『ロング,ロングバケーション』)、一人暮らし(『ラッキー』)をテーマにしたものが結構あって、退屈しなかった。どんな映画も、自分だったらどうするかと言ったことを思いながら見た。さて次は何を見るか。見られる作品はたくさんあるが、つまらなくて途中でやめてしまうものも少なくない。

・コロナ・ウィルス騒ぎがなければ、今ごろはMLBが始まって、DAZNで大谷やダルビッシュや田中、そして前田や菊池の投げる試合を観ていたはずだった。今年は秋山や筒香などもいて、忙しかったはずなのに、いつ開幕になるのか未だにわからない。日本の野球もサッカーもF!も同じだから、DAZNなどスポーツ中継を売り物にするところは大変だろうと思う。ぼくもDAZNは休止していてMLBが開幕するまで再開するつもりはない。その分つまらないから、やっぱり映画ということになる。

・さてコロナ・ウィルスだが、いったいいつになったら終息するのだろうか。ヨーロッパやアメリカは大変なことになっている。今は夏のオーストラリアや赤道周辺の国でも流行しているから、暖かくなったら感染力が衰えるということはないのかもしれない。薬が開発されたとしても、インフルエンザでは毎年世界で数万人もの人が亡くなっているから、完全な終息ということはないのだろうと思う。

・いずれにしても、世界中に蔓延したウィルスによってはっきりしたのは、各国の政治的リーダーの力量や立ち位置の違いだ。ウィルスに対応するには雑念があってはいけないと警告した専門家がいた。日本のリーダーは、自らの悪行を隠すことやオリンピックありきといった雑念ばかりで行動している。安倍や小池や森を見ていると、政治家こそがウィルスだと言いたくなる。どこまで行ったらすでに感染してしまっている支持者が陰性になるのだろうか。

2020年2月24日月曜日

『パラサイト 半地下の家族』

 

parasite1.jpg・韓国映画の『パラサイト・半地下の家族』が話題になっていることに気づいたのは、ひと月ほど前だった。カンヌ国際映画祭でパルム・ドール賞をとったことと、韓国の貧富の格差をテーマにしていることなど、その前年にパルムドール賞をとった『万引き家族』と似たもののように思えた。しかし、すぐに見に行く機会がなかったので、旅行から帰ってから見ようと思っていた。その間にアカデミー賞にノミネートされた6部門のうち4つで受賞をしたから、これはやはり見ておかねばと思った。

・『パラサイト』は、アカデミー賞では非英語映画で初めての受賞のようだ。それも作品賞、監督賞、脚本賞、国際長編映画賞といった主要部門での受賞である。白人ばかりが取るという批判を受けて、ここ数年ではそうではない受賞も増えてきたが、字幕嫌いのアメリカでも高収益をあげての受賞は、画期的なものだと言えるかもしれない。

manbiki1.jpg・『パラサイト』と『万引き家族』は日本と韓国の貧困家族を扱ったものとは言え、二つの映画は全く違っていた。血のつながらない老若男女が身を寄せあって、つましく暖かい家族を作り出す。そんな『万引き家族』と違って『パラサイト』の家族は現状には満足せず、何とか上昇しようと考えている。ソウルに多い、北の攻撃に備えて建物に作られている半地下に住んでいる。窓からは立ち小便をする酔っ払いが見え、近所のWifiを借用し、どういうわけかトイレが一段高いところに、目隠しなしに作られている。

・そこから這い上がるきっかけは息子に来た家庭教師の話だった。高台に住むIT企業の社長宅で女子高生に英語を教える仕事だった。家族はそこから、娘も家庭教師として潜り込ませ、父親を運転手、そして母親を住み込みの家政婦として雇わせることに成功する。もちろん、それ以前にいた運転手や家政婦を追い出してのことである。大富豪の家に、まんまと家族ぐるみで寄生(パラサイト)できたというわけだ。

・うまくいったと祝杯をあげるが、そこから破綻が始まる。その意外な展開が面白いし、スピード感もあって、娯楽映画としての魅力も十分で、アメリカでも受けている理由がわかった。しかし、2年続けてパルムドール賞をとったアジアの映画には、同じ貧困をテーマにしたものとは言え、その動と静の違いや結末の両極端に驚かされ、考えさせられもした。

・『万引き家族』は文化芸術振興費補助金を2000万円受けて作られた。しかし、日本の恥部をさらすといった批判を受け、返上騒ぎを起こしている。『万引き家族』は45億円ほどの収益を上げたようだが、製作費は公表されていない。他方で『パラサイト』はサムソンから別れたCJグループのエンタテインメント部門が13億円ほどの製作費を出し、国の補助もあって、すでに200億円近い収益を出している。アカデミー賞を取ったから収益はさらに飛躍的に増えるだろう。

・財閥系の企業が、韓国が今抱える社会問題を取り上げ、それをブラック・コメディに仕立て上げて、全世界に向けて送り出す。そのような発想は、今の日本には全くないものであることを映画を見ながら実感した。是枝監督は自分が撮りたいテーマを撮りたいようにして作品を作った。地味だがそれが評価されて、日本はもちろん海外でも意外にヒットした。しかし『パラサイト』は始めから全世界、とりわけアメリカを意識して作られている。もちろん、どっちがいいかということではなく、二つの作品に見る対照は、日本と韓国の文化政策の違いそのもののように感じられた。

2019年11月18日月曜日

『ジョーカー』

 

joker1.jpg・「ジョーカー」は『バッドマン』に出てくる最強の悪役である。この映画の舞台も同様に、ゴッサム・シティというニュー・ヨークに似た架空の都市だ。物語は「ジョーカー」が誕生するいきさつを描いたものだということだが、そんな架空のことではなく、きわめてリアルな話のように感じられた。

・主人公はピエロのメイクをしてサンドウィッチマンをしたり、病院に入院する子どもたちを慰問する仕事をしている。コメディアンとして有名になるという夢を持っているが、すでに中年になって、母親を介護して一緒に暮らしている。そんな母思いで子ども好きの男が豹変するきっかけは、黒人少年たちの悪ふざけだった。同僚が護身用にと貸してくれたピストルを持ち歩くことで、地下鉄で三人を撃ち殺すことになる。女性をからかう男たちを見て、突然笑い出したことが原因だった。彼には発作的に笑い出すという病気があって、その症状が出てしまったのだった。

・母親は自分の父が町の有力者だと言うのが口癖だった。しかしそれを確かめると、それが母の妄想にすぎなかったことがわかる。それだけでなく、母は幼い自分を虐待してきたことなどもわかってくる。で脳梗塞で入院した母を、病室で窒息死させ、ピストルを貸してくれた同僚をはさみで刺し殺す。疲弊した町で不満を鬱積した人たちが、ピエロを英雄視し、仮面をかぶってデモをするようになる。たまたまテレビ出演をすることになって、憧れていたはずのキャスターを撃ち殺して逮捕されるが、その護送車が襲われて、彼は自由になる。

・この映画を見ていて、その展開に引き込まれたが、同時にまた、最近起こった悲惨な出来事を思いだした。京アニの放火事件、障害者施設での殺傷事件、あるいはちょっと古いが秋葉原での無差別殺傷事件等々である。もちろん、アメリカで頻発している銃連射事件のこともだった。思い通りに行かない自分の境遇や人間関係のつまずきに対する悩みや不満が、他人に向けた暴力に向かう。そんな傾向は車のあおり運転や子どもに対する暴力などにもありふれている。

・映画を見ていてもうひとつ考えたのは『タクシー・ドライバー』との類似性だった。大統領候補の事務所で働く女性に好意を持って近づくが、嫌われてしまうことで、候補を暗殺しようと思う男の話だ。ところが、少女売春の現場でひもを殺して少女を解放することで、メディアからヒーロー扱いされることになる。どう転ぶかわからない、そんな社会の不条理さがテーマだった。70年代の映画で、これを見た時には、リアルさと言うよりアメリカ社会の怖さを覚えた記憶がある。ところが『ジョーカー』に感じたのは、身近にもありそうなリアリティだった。

・『タクシー・ドライバー』を思いだしたのは、ロバート・デ・ニーロが出ていたせいなのかもしれない。彼はバラエティ・ショーの人気司会者役で、発作的な笑いがおもしろいと「ジョーカー」を抜擢して番組に登場させて、番組中に彼に撃ち殺されるのである。主人公の名前はアーサーだが、放送中に初めて、自分を「ジョーカー」だと名乗り、殺人鬼であることを国中に印象づける結果になった。

・この映画は日本でもヒット中のようだ。けっして荒唐無稽ではない怖さを感じさせる映画を、どんな思いで見ているのだろうか。そんな興味もあるが、映画館では決して多くはない観客の多くが、紙コップにあふれるポップコーンをもって座席に着いていた。そんなもの食べながら見る映画ではないだろうにと思ったが、ちゃんと食べたかどうかはわからなかった。客席を見回す余裕のないほど没入してしまったからである。

2019年8月26日月曜日

『新聞記者』を観た

 

sinbun1.jpg・『新聞記者』がやっと甲府に来た。話題になったのは参議院選挙の時で、東京まで見に行こうかどうか迷ったほどだった。もう諦めていたがマイナーの映画をよくやる「シアターセントラルB館」が上映した。我が家はもう一時ほどの暑さではなかったが、甲府に行くとさすがに暑い。駅前通も人通りは少なかったが、映画館にいたのもまた10数名で、しかもほとんどがシニアだった。この映画館いつまでつづけられるのだろうか。いつ来てもそんな心配が感じられるほど観客は少ない。

・ 映画では、政権にまつわる現実の問題を想わせるレイプ事件や大学認可が取りあげられ、原案となった東京新聞記者の望月衣塑子や元文科相事務次官の前川喜平がテレビ画面として登場するなど、きわめてシリアスに作られていた。主演女優のシム・ウンギョンの勝ち気さと、男優の松坂桃李の真面目さが対照的で、ジャーナリストと官僚の違いを人間性として際立たせてもいた。

・ しかし、ぼくがこの映画を見て一番恐ろしく思い、実際にもそうなんだろうなと感じたのは、内閣情報調査室という機関と、そこで実際にも行われているだろうと容易に想像できる光景だった。いわゆる「内調」は、この映画では政府主導のスパイ機関で、マスコミをはじめとしてありとあらゆる情報を集め、都合が悪ければもみ消したり、誤報だと触れ回ったりするし、自ら積極的にフェイク・ニュースを流して情報操作もやっているところとして描かれている。政府に批判的な官僚や政治家、ジャーナリスト等々の情報を集め、素行調査などもしてスキャンダルを作りだす。これが信憑性があるのは、伊藤詩織や前川喜平の件でも明らかである。

・ もちろん「内調」は現政権が作り出したものではない。しかし、政権を保持することを目的に、スパイ活動や情報操作に露骨なほどにエネルギーを注ぐのは、現政権が段違いに強いだろう。SNSを駆使してフェイク・ニュースを流したり、ネトウヨまがいの誹謗中傷を流しているとしたら、これはもう犯罪といってもいいのだが、そこには警察関係者も多数送り込まれているし、実態がつかめないから、やりたい放題なのだろうと思う。映画を見て、そんなことを考えたが、政権はこの映画での内調の描き方に抗議をしていない。

・ この映画が公開されたのは参議院選挙の期間中だった。ずい分話題になったが、選挙結果に何か影響があったとは思えない。何しろ投票率が50%を割って、自公はほとんど議席を減らさなかったのである。テレビでの選挙報道を抑え、選挙に対する無関心を作りだすことに成功したのだから、マイナーな映画が予想以上にヒットしたからと言って、「内調」自体が強く動く必要もなかったのかもしれない。それだけ、現政権の情報操作の効果は圧倒的なのである。

・ それにしても、官僚もジャーナリストも、今はやりたいことができず、やりたくないことばかりを半ば強制的にやらされている。不満があっても口にも出せず、ただ言いつけに従うのみ。それはもちろん、企業にしても似たようなものなのかもしれない。組織の中で働くことが、これほど、個人の思いややる気をそいでしまっている社会は、少なくとも戦後の日本では初めてのことだろう。一体、このままどこに行ってしまうのだろうか。映画を見ながら何とも憂鬱な気分になってしまった。

2018年11月5日月曜日

マイケル・ムーア『華氏119』

 

fahrenheit119.jpg・マイケル・ムーアの『華氏119』はトランプ批判をメッセージにしたドキュメンタリーである。題名は『華氏911』に似ているが、続編というわけではない。しかし、前作がJ.W.ブッシュの大統領再選を阻止することを狙いに作られたものだから、トランプを糾弾し、上下両院選挙にぶつけた今回の内容は、続編といってもいいものになっている。いつもながら彼の作る映画は攻撃的で、音のすさまじさもあって、見ていて圧倒されるほどだった。

・アメリカ国民はなぜ、トランプのような人間を大統領に選んでしまったのか。大統領選ではそんな疑問を感じたし、就任後に彼が実行した政策や、常軌を逸した言動には、驚きや怒り、そして不安を抱かされ続けてきた。この映画には、そんな疑問に応えるヒントがあり、怒りや不安を増幅させるような恐ろしさがあり、また、それを食い止める可能性が盛り込まれていた。

・そもそもトランプはなぜ、大統領選に立候補したのか。それはなかば冗談の遊びだったかもしれないのに、予想以上に反響があり、集まった支持者の数に驚き、いい気持ちになって本気になってしまった。しかも言いたい放題に既存の価値観を批判すれば、支持者はますます増えてくる。他の多くの候補者は、きれい事を並べても、裏では利権と結びついているから、トランプの攻撃には耐えられない。そんな感じで共和党の候補にのし上がった。意外というのは大統領選でも例外ではなく、開票序盤でも、クリントン陣営は楽勝ムードだった。

・きれい事を並べても、実態は利権や既得権と繋がっている。それは民主党の候補になったクリントンも一緒だし、オバマ大統領も例外ではなかった。かつては自動車産業の町として栄えたフリントが、水道水に含まれた鉛の害に見舞われた。経費削減のために水源を汚染のひどいフリント川に変えたためだった。住民は大統領に訴えたが、オバマはその水を飲むふりをして安全宣言をした。フリント出身のムーアがオバマに向ける批判は強烈だ。

・表と裏が違うのは政治家に限らない。クリントンは選挙期間中にメールや政治資金を問題にして批判されたが、その批判の先頭に立った著名なジャーナリストの多くが、「ミーツー」以降に性差別やセクハラで訴えられている。これではタテマエとしての「正しさ」はホンネにかなわないというものだ。もっとも、権力や金とは縁遠かったサンダースが格差の拡大や差別の蔓延を批判して、クリントンに拮抗する支持を集めもした。ひょっとすると大統領選はトランプとサンダースという両極端の候補者で争われたかもしれなかったが、民主党大会では票数では劣るクリントンを支持する州が続出するといった不正が行われた。

・こんなひどい話を次々と見せられると憂鬱になるばかりだが、アメリカには何とか状況を変えようと立ち上がる人たちが数多くいる。既存の政治家に代わって上下両院や地方議会の選挙に立候補して、その人達を支援する動きも強まっている。ムーアが何より注目して期待を寄せるのは、学校内での銃乱射による無差別殺人事件に遭い、銃社会のおぞましさを糾弾した高校生達の存在だ。彼や彼女たちが主宰したワシントンでの銃規制要求デモには数十万人が集まって、その多くは未成年の高校生達だった。

・この映画ではトランプはヒトラーに重ねられている。彼が強調するのは、独裁者を生むのは人びとが諦めた時だという点だ。だからこそ政治の素人や女性が多く民主党から立候補した今回の選挙に期待をする。あるいは銃規制を要求する高校生に未来を託している。それは確かに希望の持てる光明だが、残念ながら日本にはそんな兆しも見られない。

2018年5月28日月曜日

最近見た映画

 

『モリのいる場所』
『ラッキー』
『ペンタゴン・ペーパーズ』
『ウィンストン・チャーチル』

・ここのところよく映画館に出かけている。もっぱら甲府で、メジャーな映画は「東宝シネマ」、マイナーなものは「シアターセントラルB館」だ。いつ行っても見ている客は僕等以外に数人だったのだが、『モリのいる場所』は珍しく20名以上いて、笑い声や話し声が聞こえた。

mori1.jpg・『モリのいる場所』は画家の熊谷守一のたった一日の生活を描いたものだ。演じるのは山崎努でその妻役は樹木希林。老夫婦の一日は朝食で始まり、昼食を挟んで夕食で終わるが、出入りする人の数は多い。出版社の編集者、カメラマン、若い画家たち、そして旅館の看板を書いてもらいに来た人などだ。そんな忙しいやりとりの中でモリはお構いなく、毎日の日課をこなす。
・彼が出かける場所は庭のあちこちで、そこで蟻や蝶やメダカを飽きもせず眺めている。彼はもう30年以上、家から出たことがないという。そんな大事な庭が近くに立った高層マンションで陽があたらなくなってしまう。家の塀にはマンション反対を訴える張り紙がいくつも並んでいる。しかし、夕御飯は、その現場で働く人たちを呼んでのにぎやかなすき焼きパーティだった。
・熊谷守一は文化勲章を辞退している。映画にはこれ以上来客が増えては困ると電話で断るシーンがある。盛りだくさんの話題を、小宇宙を巡るモリの日課と対照させて一日の物語にした。話としてはおもしろい。そんな感想を持った。

lucky.jpg・『ラッキー』は『パリ・テキサス』でトラビス役を演じたハリー・ディーン・スタントンが死ぬ一年前に撮った映画である。90歳を超えた老人が主人公である点で『モリのいる場所』と似ているし、毎日する事が同じだというのも共通していた。ただし、ラッキーは一人暮らしで、一日の大半を出かけて過ごしている。朝昼晩、同じ所に出かけて、顔なじみの人とおきまりのやりとりをする。家に帰って一人になってする事は、自分の人生を振り返ることと、もうすぐやってくる「死」について考える事だ。
・ラッキーはヘビースモーカーでしょっちゅうたばこを吸っている。やせ衰えた風貌は明らかに癌に犯されたもので、スタントン自身もこの映画を撮った一年後に肺がんで死んでいる。映画にはスタントン自身の体験にもとづく話も描かれていて、ラッキーはスタントン自身のように思えてきた。まさに遺作と呼べるものだろう。

pentagon.jpg ・『ペンタゴン・ペーパーズ』は、ベトナム戦争についての最高機密文書を巡る政府とメディアの戦いを描いている。監督はスピルバーグで、メディアとの戦いに明け暮れるトランプ大統領の存在に危機感を持って作られたようだ。この機密文書はベトナム戦争とトンキン湾事件に関して作られた政府報告書だった。その執筆者の一人であるダニエル・エルズバーグが全文をコピーしてニューヨーク・タイムズに渡した。
・ただし、映画の舞台はワシントン・ポストで女社主役のメリル・ストリープと編集主幹役のトム・ハンクスで、社運と報道の自由をかけた政府との戦いが描かれている。ワシントン・ポストはこの戦いに勝利した後、「ウォーターゲート事件」を暴露してニクソン大統領を辞任に追い込む働きもした。トランプを追い詰めて止めさせよ、というスピルバーグのメディアに対する叱咤激励のメッセージのように感じたが、日本のメディアの弱腰さを思い知らされる内容でもあった。

Churchill.jpg・『ウィンストン・チャーチル』の原題は"Darkest Hour"でチャーチルの名はない。『ペンタゴン・ペーパーズ』の原題も"The Post"で機密文書ではない。題名はその作品をもっとも良く表象するものだが、原題のままでは日本人には何の映画かよくわからないだろうと思う。原題と邦題の違いは時に奇妙な感じをもってしまうこともあるが、この二作は賢明な名づけだと思った。
・台頭するヒトラーのドイツがフランスに攻め込んで、加勢するイギリス軍が苦境に立たされている。イギリス議会はその苦難に対処するためにヒトラーに批判的なチャーチルを首相に選んだ。徹底抗戦を主張するチャーチルと、あくまで和平交渉で解決すべきだとする勢力とのせめぎ合いがこの映画の主題になっている。
・この映画では日本人のメイクアップ・アーティストがアカデミーを受賞した。しかし僕にはチャーチル役はフルシチョフのように見えた。また、映画を見ながら、カズオ・イシグロの『日の名残』の執事が、和平交渉派の貴族政治家に仕えたことなども思い出した。そのせいか、チャーチルを英雄視した国威発揚映画のように感じられた。

・最近、テレビやパソコンでも映画をよく見るようになった。暇になったおかげで、今のところ「毎日が日曜日」を満喫している。それにつけても、「働かせ改革」は企業の側に立ったひどい法案だと思う。

2017年11月27日月曜日

『オン・ザ・ミルキー・ロード』

 

journal3-169-1.jpg・去年の9月に久しぶりに映画を見に行って以来、たびたび出かけるようになった。ただし、映画館はその時々で甲府、三島、新宿と、まったく違っている。シネコンがあちこちにできたとは言え、マイナーな映画は、どこでもやるわけではない。だからその時によって、東に北に南と車で出かけることになる。今回は三島の「サントムーン」で上映期間が短かったから、日時が限られていた。日曜日でショッピングセンターは一杯の人だったが、見た映画の観客はわずか13名だった。しかも同世代の人ばかりで、若い人はいなかった。スクリーンをいくつも持つシネコンがあちこちに作られていればこそだと思う。

・「オン・ザ・ミルキー・ロード」は、ボスニア・ヘルツェゴビナ出身のエミール・クストリッツァが監督する、戦時下の農村を舞台にした喜劇映画である。特に場所は明らかにしていないが、ユーゴスラビア分裂後の紛争地であることは間違いない。戦争中で銃撃戦があり、大砲の音が鳴り、ヘリが上空を旋回するなかで、村人たちは何ごともないかのように働いている。泣き叫ぶ豚を屠殺場に引っ張り込み、殺処分した後の血をバスタブに流し込むと、アヒルたちが次々飛び込んで、羽根を真っ赤にする。すると虫がたかってきて、アヒルたちはそれを次々食べ始める。卵をひたすら割る人たちがいて、空襲警報が鳴ると卵を抱えて家に避難する。そんななかで、主人公の男がロバにまたがり日傘を差して牛乳を調達に出かけるのである。

・映画は最初から、えーっと驚くようなシーンが続く。出くわした熊にミカンを食べさせたり、こぼれたミルクを飲みに来た蛇に絡まれたり、なついいているハヤブサが時に彼の右肩に、時に頭の上を旋回したりする。村の男たちも女たちも豪放磊落で、飲み食い、大騒ぎをし、歌を歌い踊るが、そこは同時に戦争中の場所で、突然空爆や銃撃戦が始まるのである。物語はイタリアから逃げてきた美しい女と恋に落ちた主人公が、その女を追いかける兵士たちから逃れて、女と一緒にさまよう展開になる。主人公を演じたのは監督自身で、共演の女優はモニカ・ベルッチだ。

・ユーゴスラビアは第二次大戦後に、チトー大統領によって独自の社会主義を基本にして、東にも西にも距離を取る立場を取る国になった。しかし、その死後、以前からあった民族や地域的な対立が起こり、ソ連が崩壊し、東欧諸国が非共産化すると、ユーゴスラビアからスロベニアとクロアチアが独立を宣言し、内戦状態になった。隣人同士が殺し合うその様子は長期化とともに悲惨さを極めたが、6つの共和国になって終結したのは2006年のことで、戦争は15年も続いたのだった。

・クストリッツァは、これまでにも第二次世界大戦からユーゴスラビアの分裂と内戦にいたる壮大な物語を描いた『アンダーグラウンド』(1995)で、カンヌ国際映画祭パルム・ドールを獲得している。もっともこれは2回目の受賞で、最初はまだ20代だった85年の『パパは出張中!』である。他にも『黒猫・白猫』でヴェネツィア国際映画祭で監督賞、初の長編作の『ドリー・ベルを覚えている?』ではヴェネツィアで新人賞を得ている。ジム・ジャームッシュやジョニー・デップが敬愛し尊敬する監督のようだ。僕はこの監督のことをこれまで何も知らなかった。

・クロアチアやスロベニアは最近では、日本人旅行者の訪れる観光地として人気になっている。自然はもちろん、その歴史や人々の気質など、日本とはずいぶん違うようだ。この映画を見て、そんな違いも実際にこの目で見て確かめたいと思うようになった。そのためにもこの監督の映画をもっと見ることにしよう。

2017年7月24日月曜日

サウンドトラックから知ったミュージシャン

 

"me before you"
Ed Sheeran "Divide" "X"

・昼食後の午後のひととき、うつらうつらしながらテレビを見る。面白いものがなければアマゾンのプライムビデオをさがしたりもする。退職後の悠々自適の生活。で、『ホビット』の次に目にとまったのは『世界一キライなあなたに』だった。
・富豪の家に生まれ、自らも実業家として活躍していたハンサムでスポーツ万能の青年が、交通事故に遭って下半身不随になる。その世話をする仕事に就いたのは労働者階級の貧しい家庭に育った女性。人生に絶望している彼は彼女を無視し、冷たくあしらうが、彼女は意地悪されながらも、明るくけなげに世話をする。やがて二人は心を通わせあうようになるのだが、彼は安楽死を選択することになる。

me.jpg・安楽死と自殺幇助といった問題をテーマにした映画だが、それだけに映画のタイトルの陳腐さが気になった。原題は“me before you" で世界中でベストセラーになった原作の邦訳には『ミー・ビフォア・ユーきみと選んだ明日』というすなおな題がついている。よくできた映画だと思ったが、挿入されている歌に気になるものがいくつかあって、原作ではなくサウンドトラックのCDを買うことにした。

・CDには知っているミュージシャンはいなかったが、その中でエド・シーランが歌う“photograph”という名の曲が一番いいと思った。ネットで調べてみると、つい最近見たばかりの『ホビット』の挿入歌 “I see fire”も歌っている。2012年にイギリスの音楽賞で男性ソロ部門と新人賞を取っていて、2016年にはグラミー賞の年間最優秀楽曲賞も取っている。日本にも「フジロック」などで来ているようだ。今年の秋にコンサートをやるようだが武道館も大阪城ホールもソールドアウトだという。全然知らなかった。

ed1.jpg ・エド・シーランは1991年生まれだからまだ26歳だ。これまで3枚のアルバムを出していて、そのタイトルは"+” “x” “÷”と意味深でシンプルである。経歴を調べると、ストリートやライブハウスでかなりの経験を積んでいるようだ。YouTubeにはたくさんのビデオがある。挿入歌だった“photograph”は、彼が生まれた頃からよちよち歩きの時、そして少年時代や最近までの写真やビデオで作られている。かわいがられて素直に育った様子がよくわかる。ピアノなども早くから習っていたようだ。撮ったのはお母さんだろうか。

・彼の歌は自分の経験を素直に表現したものが多いという。そうだとすると、育った家庭は必ずしも幸福なものではなかったのではないか。“Runaway”の歌詞には、次のような一節がある。
ed2.jpg

僕はずっと知っていた
親父が夜9時に起きて酒を飲み
一晩中いなくなることを
彼がどこで倒れていようと知りたくはなかった
僕がしたいのはあなたと逃げることだった

・多芸多才で、ラップもやれば、R&B風の歌も歌う。生ギター一本でも説得力がある。そんなところが受けているのかもしれない。それは、最近この欄で取りあげたライリー・ウォーカーやダミアン・ライスなどにも共通した特徴でもある。幼い頃からいろいろな音楽スタイルに馴染んで、すべてを自分のものにした。今はそんな人が活躍する時代なのかもしれない。

2017年7月10日月曜日

ホビット

 

hobbit1.jpg・土曜日の昼、食事の後に寝転がってテレビをつけると『ホビット 思いがけない冒険』をやっていた。昼食の後はうつらうつらするのだが、見ているうちに引き込まれた。
・『ホビット』はJ.R.R.トールキンの作で、『指輪物語』の前作にあたるものだ。映画ではそれが原題のまま『ロード・オブ・ザ・リング』として先に製作され、大ヒットした。『ホビット』は『ロード・オブ・ザ・リング』の前史として、後から作られたものである。

・見終わった後に気になったから、アマゾン・プライムで検索すると、字幕番で続きが見られることがわかった。で『ホビット 竜に奪われた王国』と『ホビット 決戦のゆくえ』を見た。この三部作は2012年から14年にかけて製作され、公開されている。見ながら気づいたのだが、僕はこの二作目をロンドンに行く飛行機の中で見ていた。ただし、ビールやワインを飲みながらだったし、字幕もなかったから、断片的に思い出す程度だった。画面も小さかったから、面白いとは思わなかった。

・テレビで、そしてパソコンの大きな画面で見ると、壮大な風景や、コンピュータ・グラフィックスの技術を駆使したシーンの見事さに驚かされた。奇妙な、あるいはグロテスクな風体の登場人物や生き物たちは、どこまでが実写なのか、メイクなのか、そんなことに感心しながら見た。ただし、あまりにたくさんのキャラクターが登場して、その名前やいわれを覚えることができないので、原作を買って読んでみたくなった。

・『ホビット』についてはずっと前から、名前になじみがあった。1960年代の終わり頃に米軍の岩国基地の前に作られた反戦喫茶の名前だったからだ。基地に配属された米兵にヴェトナム戦争に反対することを呼びかける。マスターの鈴木正穂は息子に穂人〔ホビット〕という名前をつけた。僕は原作そのものを知らなかったから、なぜ反戦喫茶や息子に「ホビット」という名前をつけたのかは、一度も聞いていない。

hobbit2.jpg ・竜に滅ぼされた「ドワーフ族」が、祖国を取り戻すために「はなれ山」に向かうこの物語は、「ホビット族」のビルボの家に集まるところから始まる。招かれざる客に食べ物を食べ尽くされ、怒り心頭のビルボだが、魔法使いのガンダルフに説得されて、この冒険につきあうことにするのである。改めて原作を読むと、その映画との違いばかりが気になった。

・映画は戦うシーンの連続だが、原作にはあまりない。ホビットは身体の小さい種族で、ドワーフは毛深さが特徴だ。他に美形のエルフという種族がいて、人間という種族もいる。この冒険を妨げるのは地下に住む異形のゴブリン族やオーク族だが、映画とは違ってオーク族の存在は、原作では大きくはない。映画にはオオカミに乗ったオーク族との戦いのシーンがある。しかし原作では、オオカミだけが襲ってくるのであり、そのオオカミはことばをしゃべり、その窮状から救ってくれた大鷲もまたことばを話すのである。

・映画にはまた、原作にはない恋物語も登場する。そして、原作の魅力の中心であることばのやりとりや歌が、映画ではかなり省略されている。どれも2時間半を越える長編だが、原作のかなりの部分が省略され、勧善懲悪の物語になっている。映画と原作の違いを改めて、再認識した。

・トールキンは作家ではなく、英語学の研究を本来の仕事にしてきた。古英語や中英語、北欧やケルトの神話にも精通していて、W.モリスの作品を好んだという。この物語の中心である竜退治は、古英語の時代に書かれた「ベオルフ」がモチーフになっているようだ。『指輪物語』よりは研究者として書いたものを読みたくなった。