2001年1月30日火曜日

美しくて、楽しくて、そして何より怖い雪

 

  • 雪雲は北にある御坂山系を越えてやってくる。


  • 大雪がおさまった翌日の朝、真っ白な御坂山系と、
    真っ青な青空、屋根に積もった雪。


  • 屋根に積もった雪が溶けると、巨大なつららができはじめる。


  • 雪かき、雪かき、雪かき。


  • スタックした車の救出。ブルで雪をどけて、
    押してもらって、何とか脱出。




  • 道路も開通、駐車スペースの雪かきもすんで
    車もやっと定位置に落ち着いた。
  • 2001年1月29日月曜日

    冷や汗、大汗の大雪物語

     

    snow4.jpeg・2001年1月27日、土曜日。この日のことは、たぶん死ぬまで忘れないだろう。
    ・雪は未明から降り始めていた。ぼくは試験監督や教授会、それに修論審査などで、今週はほとん出ずっぱりの一週間だった。木曜日からずっと東京で、河口湖には帰っていない。雪は昼になっても激しく降っていたから、今日も東京泊まりを覚悟しかけた。しかし、一日遅らせたからといって明日確実に帰れるわけではない。雪が降り積もってしまえば、かえって家までは辿り着けなくなるかもしれない。行くかやめるか迷った末に、高速の入り口まで行ってみることにした。
    ・「チェーン装着」の表示。動いている。車は4駆でスタッドレスをはいているからチェーンは必要ないはず。入り口での検査を通って高速に入ると車はほとんど走っていない。雪はシャーベット状になっているが、50kmぐらいでは走れた。これならいつもの倍の時間で着くかなと思った。時間はちょうど4時。到着は7時頃か、ちょっと気楽になった。
    ・八王子で再チェックを受け、小仏トンネル、相模湖、そして上野原。道路に積もった雪がでこぼこになっている。まるで洗濯板の上を走っているみたい。とても快適とは言えないが、流れそのものはスムーズだった。しかし、談合坂にさしかかる手前の鶴川橋でストップ。20分ほど待っただろうか。動き出してはじめて理由がわかった。急坂にスリップをして立ち往生する車が続出。しかも大型のトラックやバスばかりで、登れる車はその障害物を避けてそろそろ走らなければならなかったのだ。車を捨てた人たちは談合坂のSAまで歩くのだろうか。車を乗り捨てなければならなくなったら、と考えたら、急に恐怖心におそわれて冷や汗が出てきた。で、頻繁にタバコ。

    snow14.jpeg・坂を登り終わった後はまた比較的スムーズだった。猿橋、そして大月。この分なら後30分ほどで河口湖インターに着く。と思ったら大月で「通行止め、降りよ!」の表示。そのまま進入する車もあって、一瞬迷ったが、降りることにした。それが第一の選択間違い。国道139号線に入ると、車の列は止まったまま動かない。時間は6時。動き出したのは7時半だった。原因はカーブで坂道のところでの除雪作業。ヤレヤレと思っているとしばらく走ってまた停車。今度は、トラックの立ち往生だった。その後も立ち往生する車は続出で、都留に着いたときにはもう9時で、富士吉田にたどり着いたのは11時半だった。おそらく、そのまま高速を走ることはできたはずで、そうすれば、たぶん7時には河口湖の出口にいたはず。大月からは20kmちょっとで、それを6時間近くというのは、とても想像できないことだった。
    ・坂を登れない車は国道でも大型車ばかりだが、しかし、タイヤを取られて蛇行するのはどの車も例外ではない。特に急坂の急カーブは本当に冷や汗もので、ぼくは改めて4駆でABSのついた車に感謝した。それに、2駆でノーマルタイヤなどという無茶というか無知なやからが一人もいなかったことに感心した。感心したことはそれだけではない。車が立ち往生すると、ドライバーたちが相談して、流れを作る算段をしたり、地元の人が裏道案内をかって出たりする。これがなければたぶん、車に閉じこめられて徹夜ということになっただろう。

    snow10.jpeg・もちろん、感心したことばかりではない。雪かきのすんだはずの道路に、所々、雪の山があって、車で踏みつけられた後はスリップの原因になる。雪は道路端の民家や商店の人たちが自分の土地から放り出したものだ。ひどいのはコンビニで、駐車場の雪を機械を使って道路に吹き上げている。車が動けなくなったら客も来ないだろうに、自分のところさえきれいになればという「自己中」まるだしの行為。
    ・河口湖の湖畔を通って我が家に近づいてくると、急に疲労を覚えた。あと少し、と思って近道を選択。これが第二の選択間違い。除雪はしてないが車の轍が残っている。だから通れるだろうと思って進入したら、意外と雪は深かった。前進できなくなって、バックしようと思ったが、タイヤは空転して動かない。家はもうすぐそこなのに、と思うと、この道をうっかり選んだ自分が情けなくなった。で、車を降りて、轍をたどって歩くことにした。雪の止んだ空には星がきれいに出ていた。その明かりを頼りに轍をたどる。

    snow9.jpeg・ところが、家まであと100mというところまで来て目を疑った。まるで除雪がされていない。積雪は1mほどもある。そのきれいに積もった雪の中に足を踏み入れる。からだは腰のあたりまで沈む。次の足を出すのに一苦労。靴は冷たく、肺は息切れして、顔からは汗が噴き出してくる。やっとの事で、家に到着。12時半。大学を出てからちょうど9時間。つくづく、遠くから通っているなと思った。体を薪ストーブで温めてベッドに入ると、あっという間に眠りの世界に。
    ・翌日は早朝から雪かき。何とか道路までかいて、車2台分のスペースを作ったらもうお昼。午後からは、乗り捨ててきた車のところまで行って、また周囲や車の下の雪かき。運良く町のブルドーザーが来て、救出。ついでに家の前も除雪をしてもらって、無事駐車スペースへ。時間は午後の4時だった。大汗かいてくたくたの一日。手も足も、腰も痛い。積雪1mの世界は見とれるほど美しいが、今日ばかりは、今畜生と言いたくなった。昨夜に続いて爆睡。
    ・雪かきは二日目も丸一日かけての作業だった。

    2001年1月22日月曜日

    "海の上のピアニスト"


    ・大西洋を往復する大型客船ヴァージニア号のなかで産まれた男の子が、ピアノの上に捨てられた。1900年。客の大半はヨーロッパからアメリカへの移民たちだった。彼は、船倉で働く黒人に育てられる。その黒人も仕事中の事故で死んで、父も母も知らずに船のなかで育った男の子は、やがてピアノの演奏に天才的な能力を発揮するようになる。「海の上のピアニスト」。原題は「Legend of 1900」で、1900は主人公の名前である。


    ・監督のジュゼッペ・トルナトーレは『ニュー・シネマ・パラダイス』で有名だが、「海の上のピアニスト」を見ながら、つくづく、情感に溢れた物語を描き出すのがうまいな、と思った。見終わった後の虚脱感。映画にそれだけ没入した証拠だが、こんな感覚を味わったのは久しぶりだった。


    ・ピアニストは生まれてからずっと船で過ごして一度も陸にあがったことがない。もちろん港につけば、ニューヨークやジェノバといった街の風景を間近に見る。そして客たちは続々と降りて町の中に歩き出していく。多くはアメリカへの移民で、自由の女神が見えると一斉に狂喜乱舞しはじめる。彼らにとっては夢の実現を願ってやってきた「約束の地」なのである。その様子をくりかえし見ながらも、ピアニストは、降りてみたいとすら思わない。彼にとっては船が一つの完結した世界で、彼はそこで十分存在感を確認し、また人びととのつながりも確信している。父や母がいなくても、それで寂しいということもない。そもそも彼には父や母といった存在が意味のあるものには感じられていないのである。多くの船員たちが彼に愛情を注ぎ、また客たちが彼に注目する。ピアニストはそのことだけで十分満ち足りていた。


    ・見せ場の一つは「ジャズ」の生みの親というピアニストとの船上対決。プライドの固まりのような黒人ピアニストとは対照的に、1900は全くの平常心。相手が誰であろうと、そこは彼の世界であり、そこに入りこんだら、誰であれ、彼以上にはなり得ないからである。
    ・けれども、そんな彼が一人の少女に恋をすると、彼女の後を追ってニューヨークの街に出て行こうかという気持ちとらわれることになる。船を降りることを決心して、仲間との別れを惜しむ。しかし、タラップの途中まで進んだところで立ち止まってしまう。で、帽子を放り投げて、また引き返す。


    ・船はその後第2次大戦中も航行を続け、やがて老朽化して廃船になる。バンド仲間のトランペッターはその船が爆破して沈められることを知り、まだ中にいるはずのピアニストを探しに出かける。しかし、ピアニストは船を降りようとはしない。


    ・彼の世界はこの船とピアノ。どちらも世界の区切りがはっきりしている。だからこそ、世界の大きさも自分の居場所も、その中での可能性も確認できる。限られた数の鍵盤と10本の指。その限定が逆に、音楽の創造に無限の可能性を持たせる。しかし、ニューヨークの街に一歩足を踏み出したら、その途端に、自分の居場所も、行き先も、そして何より自分自身の存在感が不確かになってしまう。彼にとってはあまりに大きすぎて自分が消えてしまいそうな世界。ピアニストはすでにピアノが撤去され、爆破されるだけの船に残ることを告げる。物語には必ず終わりがある。自分の人生の終わりを船とともに迎えるという決心をトランペッターも納得する。


    ・評判を聞きつけたレコード会社が船上での録音を試みるシーンがあった。その時演奏されたのは即興曲で、たまたま窓の外に見えた少女に見とれながら弾いたものだった。レコード会社の者たちは、それが大ヒット間違いなしだと喜ぶが、ピアニストはその原盤を割ってしまう。録音された音楽など、彼にとっては聴く価値のあるものではないし、名声や富にも意味を感じなかったからだ。


    ・この小さな世界で生きた、俗物根性のまるでない存在が見せる充実した日々と終末。それは際限のない世界で生きる人間が苦慮する自らの存在感の確認や他者へのアピール、そのいつまでいっても果てることのないくりかえしとは極めて対照的である。そのような自分の世界を持ち得たことに羨ましさを感じるが、しかしまた同時に、船とともに海に散った主人公にたまらない悲しさを覚えてしまう。これは、俗物の世界にいささかうんざりしながら、なおかつおもしろさも感じている証拠なのかな、と思った。

    2001年1月15日月曜日

    メールと掲示板

  • 7月からこのHPにも掲示板(BBS)をつけ始めた。ぼくはBBSは好きではなかったが、新しく出す本の宣伝をかねて、おもしろい使い方を工夫してみようと思った。携帯の延長のような、ショウもないおしゃべりや質の悪い冗談ではなくて、もうちょっと役に立つものをつくってみたいと思った。
  • 個人の出すHPにはほとんど掲示板があって、そこが一番にぎやかな部分になっている。ホームページの作り方などを書いたものには、アクセス数を増やそうと思ったらBBSは必須アイテムとなっている。もう一つの定番は日記だから、個人の出すページはどうしても、極私的なものになる。日記がプライベートな話題のモノローグだとしたら、BBSは仲間内のおしゃべりといったダイアローグ的性格を持つ。そしてどちらも、自分一人の世界、あるいは友達同士の狭い世界に限定されて閉じたままになってしまう。それでも、やっている当人が面白がって、それにアクセスする人がのぞき趣味を満足させることができるなら、それはそれで結構だが、えてして安直で中身がない。日常生活というものがしょせんは同じことのくりかえしで、誰にとっても似通っているのは当たり前で、その表現を個性的にしようと思ったら、それなりの工夫が必要なのである。
  • 一方に、映画になったりテレビ・ドラマになったり、あるいは小説になったりして描き出される世界がある。それはいわば一つの時代や社会を代表する一つの現実だが、その分どうしても、巨大な受け手を想定した、最大公約数的な作り方をしなければならない。そして、他方に、一人一人が日常的に経験し、さまざまに考え、悩み、思いを巡らす個別の世界がある。HPはこの今まではほとんど公にならなかった世界の表現手段として興味を持たれている。しかしあまりに対照的に、ここに描き出されるのは、極私的でしかも画一的な世界でしかない。
  • このような傾向が、これからどんなふうに展開していくのか、ぼくは頭から否定せずに見ていきたいと思っている。けれども、インターネットやHPの世界には、もっともっといろいろな可能性があるはずで、それは基本的には先にあげた二つの世界の間を埋める中間領域の世界の表出だと思っている。
  • BSデジタル放送がもうすぐはじまる。ケーブル・テレビとあわせて、やがて100チャンネルを超えるテレビの時代が実現する。そんなにたくさんのチャンネルを埋める番組があるのか、と心配する声があるが、ぼくはそうは思わない。日本のテレビ局も、そして視聴者も数百万から数千万人が同じものを見るというスタイルに馴らされてしまっていると感じているからだ。数万から数十万人の視聴者が有料で獲得できれば採算がとれるとすれば、1億分の数万、つまり1万人に1人から千人に1人に関心をもたれればいいのである。問題は独自性を持った局の、あるいは番組の成立と、我々視聴者が、みんなと一緒ではなく、自分独自の関心を大事にするという意識に転換できるかどうかだろう。
  • インターネットは、いうまでもなく世界に開かれている。しかも、大半のHPは個人や小集団が自発的につくっているものだから、大量の受け手を想定しなくてもいい。と言うより、1日数十人のアクセス数があれば、個人の出すページは十分に成功していると言える。そのような手軽さを武器に、おもしろい内容にしようと思うなら、工夫の仕方はいくらでもあると思う。たとえば、それほど特殊なものではないが、しかし、ほとんど近づくことのない世界の紹介や描写。こういうHPが多様に共存するようになれば、インターネットの世界はもっともっと魅力的になる。そして私たちには、さまざまなメディアを通して、あらゆる世界に接近できるチャンスが生まれてくる。
  • ちょっと大げさに書いてしまったが、今度ぼくがHPにBBSをつけた意図もそこある。普通、本は書店で買う。その目的はもちろん内容を読むことで、その本がどのような人によって、どのようなプロセスを経てできあがり、本屋に並べられているのか意識することはほとんどない。しかし、その隠れた世界は動機づけしだいで多くの人に関心をもたれるものではないかと思った。
  • 学生のなかには出版社に就職したいと希望するものがかなりいる。多くは雑誌の取材や編集などを考え、頭に描くのはテレビ・ドラマなどの格好いい世界である。だからぼくは出版という仕事がいかに地味で、しかも経済的に不安定な業種であるかという話をする。そしてそれでも、やりがいは十分にある世界であることも。ぼくは、自分の本を出す機会に編集者の人にお願いして、作成の工程をBBSで公開することにした。なかなか、書き込んではもらえないが、興味を持って読んでくれている人は少なくないと思う。少なくとも本が店頭に並ぶ11月末か12月はじめまでは続けるつもりだから、徐々に書き込む人が増えてくれればと期待している。
  • 2001年1月8日月曜日

    H.D.ソロー『ウォルデン』その4「退屈」について

     

    ・年末から正月にかけて、子どもたちが代わりばんこにやってきて、久しぶりに、長い時間、テレビがついていた。彼らの見るのはお笑いタレントの出るバラエティ番組。馬鹿話やいたずら、いじめをへらへら笑いながら見ている。その姿にまた、久しぶりに腹が立った。「しょうもない番組をだらだら見ていないで、もっと他にすることはないのか!」と怒鳴りたくなった。「暇やし………」。

    ・返事はわかっている。退屈だからテレビを見る。暇つぶしをして時間をやり過ごす。で、その結果はやっぱり何もない。そのことは本人が一番自覚をしていて、このパターンは何とかならないものかと反省もしているのだが、なかなか抜け出せない。忘れていた親父のイライラが戻ってきて、心休まる正月、というわけにはいかなかった。

    ・暇、退屈………。これは息子たちだけでなく、つきあう学生たちからも感じるもので、若い人たちの共通感覚と言ってもいいと思う。学ぶべき知識、身につけるべき技術の種類は多様にあって、しかも、そのための場も人もたくさん用意されている。本人にその気さえあって、それなりに努力すれば、誰にでも何でもできる時代。なのに、大半の人たちは、そこにぶつかっていかない。向かいはじめても、ハードルが一つ出てくればあきらめてしまう。だから、意気地がない、だらしがないとまた、怒りたくなる。

    ・しかし、努力して知識を身につけたり技術を習得したりするのはいったい何のためだろうか。将来の仕事や生活のため………。実際、売り物を持たなければ、やりたいことは何もできない社会になったのだから、ぼやぼやしていたら本当に取り残されてしまうだろう。だから、つまらなくて退屈でも、我慢して何かを身につけなければならない。子どもや学生についついこんなセリフをはいてしまうが、その後で、必ず、そうではないのではないかとも思ってしまう。

    ・どんなことでも楽しいから夢中になってやると、それがいつの間にか知識や技術として身についてくる。そんな動機づけから入らなければ、どんなことでも持続させるのは難しい。だから、将来のためというのは、彼らには脅し文句にしか聞こえない。これでは「退屈の強制」で、それは「暇つぶし」とあまり変わらない。このパターンからぼく自身もなんとか抜け出したいのだが、子どもや学生たちのやる気の発見は、そうそう簡単にできるものではない。

    ・子どもがテレビを見ているかたわらで、ぼくはナイフやカンナやヤスリを使って木工に精を出していたが、ちらちらと見るだけで、やってみようとはしなかった。薪割りは半ば強制的にやらせたが、楽しそうというふうではなかった。何もない森のなかでの生活は、彼らにとってはテレビでも見る他には時間のつぶしようがないほど退屈なところのようだった。


    ぼくはわが家の煙突を築く段取りになったとき煉瓦の積み方を習い覚えた。………ぼくが一番手間どったのは、家の心臓部である暖炉のあたりだった。現にぼくの働きぶりは実に慎重で、朝は地面から仕事を始めるのだが、夜には床からわずか数インチ、一段だけの煉瓦の列がぼくの枕がわりになってくれるというあんばいだった。(pp.364-365)


    ・たった一段だけの充実感。ソローのこの時の気持ちは、最近ちょっと分かるようになった気がする。そんな親父の最近の楽しみは木工と薪割り。それを楽しそうにやってみせると、子どもは、興味はないが余裕のある生活力がなせる技だなと言いたげな反応をした。で、だからしっかり勉強しなければ、というふうに考えたようだ。ぼくが伝えたかったのは、そういうことではなかったのだが、あえて、訂正はしなかった。「退屈の我慢」は少なくとも「暇つぶし」よりましだろう。退屈を我慢しているうちにおもしろさを見つけるということもある。などと思っていると、「暇つぶし」にとことん飽き飽きするところからだって何かを見つける余地はあるのかもしれない、とも考えてしまった。「退屈」っていったい何なのか?もうちょっと考えてみたくなった。

    2001年1月1日月曜日

    新世紀に思うこと


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    ・明けましておめでとうございます。いよいよ21世紀の始まりです。と言って、世紀が変わったという実感は、まだほとんどありません。いつもながらの年明けです。 ・しかし、昨年は20世紀の締めくくりと、自分が生きてきた半世紀をふりかえる作業をして、一冊の本にまとめることができました。引っ越しをして新しい生活を始めたのが2000年だったこともふくめて、自分のなかでは人生に一区切りをつけたという感じはしています。 ・もう若くはありませんから、時代の先端につきあうのも少し距離を置いてと思っていますし、森の生活をもっともっと楽しみたいという気もあります。そんなことを書いていると、「世捨て人」にならないで、とご心配下さる方もありますが、なりたくても、大学でいろいろ仕事をさせられていて、俗世のしがらみから抜け出すことはできないのです。 ・大学院の博士課程が始まりますから、博士論文の指導をしなければなりません。学部の受験生は年々減少しています。入試委員に選ばれてしまったので、その対応などにもつきあわされそうです。関西の大学よりはのんびりしていますが、これからの10年が大学の存亡をかけた時期であることはまちがいないのです。失業者にならないためにも、まるっきり知らん顔というわけにもいかないでしょう。 ・河口湖は真冬です。人影はほとんどありません。しかし、雪をかぶった富士山は毎日顔を見せていますし、風のない日には逆さ富士も映ります。道は所々凍っていますが、訪れるには今が一番いい季節であることは間違いありません。行楽客というのはなぜ、わざわざ込み合う季節に集中するのか、という疑問は、たぶん社会学的な想像力を働かせるにはいいテーマだろうと思います。それはもちろん、大都市ばかりに人が集中するのはなぜ、という問いかけに重なります。 ・今年からは、また、「生活スタイル」をテーマにしばらく考えてみようかと考えています。皆様、このHPを今年もごひいきください。また『アイデンティティの音楽』(世界思想社)もよろしくお願いします。