2007年8月27日月曜日

南アルプス・甲斐駒ヶ岳

 

forest62-1.jpgforest62-2.jpgforest62-3.jpgforest62-4.jpg



forest62-5.jpg・甲斐駒ヶ岳登山は春から計画を立てていた。以前から憧れていた山で、京都に住むSさんに話すと、即座に行きましょう、ということになった。彼女は大学時代からあちこち登り続けていて、南アルプスにも詳しいが、甲斐駒ヶ岳だけはまだだという。「じゃー、夏休みに」ということになった。
・甲斐駒ヶ岳は南アルプスの北端にある。八ヶ岳あたりに行くといつも、そのそびえ立つ姿に見とれて、いつか登ってみたいと思っていた。で、夏休み前に日程を決め、8月にはいると、少しずつ距離を伸ばして、歩き慣れておくことにした。しかし、である。
・数日、付近の山を歩いて自信もつきかけた頃に、癖になっているぎっくり腰をやってしまった。予定の日までは10日ほどあるが、非常にやばい。Sさんにお詫びして中止にしようかと思ったが、4,5日でなおることもあるからと、様子を見ることにした。

forest62-6.jpg・状態はなかなか改善しなかったが、散歩をすると、むしろ調子はよくなる。これなら、頂上までは無理でも、ちょっとなら歩けるかも、と思うようになった。で、決行!
・出発は夜中の3時。暗闇のなかを河口湖、西湖、本栖湖と抜けて、本栖道を下部へ下る。富士川を渡り、早川沿いに南アルプス街道を奈良田まで。1時間半の行程で、着いたときには夜が明け始めていた。ここからマイクロバスで広河原まで行き、バスを乗り換えて北沢峠まで、1時間半揺られたのだが、切り立った断崖の連続で、狭い道が所々陥没している。7月の豪雨のときには崖崩れもあったようだ。マイカー規制は当然で、とてもじぶんでは運転する気にならない道だった。途中幾つもの発電所がある。たぶんその工事のためにつくった道なのだろう。

forest62-7.jpg・バスが何台も増発され、北沢峠付近には幾つものテントが張られている。すでに明け方前から、登山ははじまっている。腰の不安をかかえながら、とりあえずは、少しずつ登る仙水峠まで。7時半。松や白樺、あるいはブナがはえる森を川沿いに登る。最初は寒かったが、すぐに汗が出はじめる。仙水小屋をすぎると一面の岩の瓦礫に遭遇する。氷河期にできたもののようだが、地震があったら間にも崩れてきそうだ。1時間ほどで仙水峠に着く。そうすると、目の前に甲斐駒ヶ岳と摩利支天。その姿に思わず「うわー、すげぇ」と言ったまましばし絶句!



forest62-8.jpg・最初はここまでと思っていたが、目の前の山を見ると、もっと先に行きたくなる。実は、膝の調子が悪くて行かないと言っていたパートナーも、花崗岩がむき出しの甲斐駒に興味をそそられて、一緒に来てしまったのだが、彼女ももう少し行ってみると言い出した。
・次のポイントは駒津峰だが、500Mをほぼ直線的に登るかなりきつい行程で、頂上をめざすSさんとは別にゆっくり登ることにした。しかし、きつい。たびたび休み、次々に抜かれるが、そのほとんどは中年で、なかにはぼくよりも高齢の人もいる。その健脚ブリに感心するばかりだが、こちらは腰や膝と相談して、無理はできない。
・ほんとうに長い登りで、頂上に着くまで2時間はたっぷりかかった。めげる気持を取りなおさせたのは、登るごとに見えてくる周囲の山々だった。鳳凰三山の一つ、地蔵ガ岳はまるで乳首のたった乳房のように見える。その右に富士山が顔を出したときにはまた感激の歓声。そして北岳。日本一と第2位の山が目の前にある。駒津峰に着くと南アルプスがはるか彼方まで見える。Sさんがいれば塩見岳や赤石岳もわかっただろうが、彼女はすでに甲斐駒に向けて歩いている。西には中央アルプス、木曽駒ヶ岳とその向こうに御嶽山。その北には北アルプス。文字どおり、何の障害もなく見渡せる360度のパノラマの世界だ。


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鳳凰三山・地蔵ガ岳
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富士山
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北岳・間の岳・農鳥岳
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木曽駒ヶ岳・御嶽山





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間の岳・農鳥岳
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仙丈ヶ岳
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塩見岳・赤石岳
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地蔵岳



・登山は登りがきついけど、下りもきつい。特につま先が痛くなってくると、やっかいだ。今回は腰痛もあって、そっと足をおろすといった感じで降りたから、下りもかなり時間がかかった。北沢峠に着いたのが2時過ぎで、しばらくすると甲斐駒まで行ってきたSさんも戻ってきた。いやいやすごい。
・とはいえ、甲斐駒まで行けなくて残念とは全然思わなかった。山を征服するという気はさらさらないから、景色や植物、あるいは石や地層などが楽しめれば、途中までで十分。そう思うと、今度は北岳に行きたくなった。Sさんは赤石岳もいいという。日頃の鍛錬をしなければ………。

2007年8月20日月曜日

BSと地デジ

 

・NHKBSのアナログ・ハイビジョンが9月末で終了する。独自開発もデジタルに負けてとうとう消滅というわけだ。デジタル・チューナーがあるから不都合はないが、アナログの画面の良さを感じていたから、ちょっと残念だ。ぼくは、デジタルののっぺりした画面は好きではない。ハイビジョンでもアナログは、近づいて見ると細かな画素の集合であることがよくわかる。ディジタルはその情報を省略するから、一見きれいに見えても、深みがない。両方を見比べていると、そのちがいがよくわかる。だから、液晶大画面のテレビなどは、できれば買いたくないものだと思っている。
・現在見ているハイビジョン・テレビを買ったのは98年だ。もう10年近くなるが、その時の印象をこの欄でも書いている。NHKと民放が共同で実験放送をやっていて、まだまだ手探りの番組づくりの段階だったことがよくわかる。BSのデジタル放送が始まった 2001年にBSチューナーを買った。各民放が放送を開始したからだ。山間部の難視聴地域にあるわが家では、地上波はざらざらで色なしといった画面で、見るものがあまりなかった。この欄には、その時の様子も残されている。
・BS放送については、それ以降も何度か取り上げているが、放送内容もずいぶん充実してきているし、地上波の番組も放送しているので、最近では地上波は民放のニュースぐらいしか見なくなった。どうせバラエティ番組ばかりで何の不満もなかったのだが、肝心のBSチューナーが壊れてしまった。で、仕方ないから電気屋に行くと、地デジとBS、そしてCSも見られるものがあった。というよりは、それしかなかったといった方が正確だろう。

・デジタル化は地上波でも進んでいて、4年後の2011年にはアナログ放送が廃止されるようだ。大画面の液晶テレビが一般的になってきたが、普及は予想ほどではないらしい。古いテレビでもチューナーを買えば見ることができるとか、そのチューナーを格安で売るような行政指導があったとか、いろいろ話題になっている。地デジはもちろん、ケイタイでもカーナビでも見ることができるから、地上波がますます身近なものになるのかもしれない。
・ところが、わが家はやっぱり地デジでも視聴できない地域ということになっている。いずれにしてもアンテナをつけ替える必要があるし、CS も今のBSアンテナではダメなようで、用のないものが多いとは思ったが、BSが見られなければ不便なので、チューナーを買いかえることにした。
・例によってテレビやビデオとの接続は煩雑で、反応がない、音しかでないといったことがあって、イライラしながらあれこれつなぎ直して、やっと見ることができると、CSもちゃんと見える。へエーと思ったが、ほとんどが有料で、しかも特に見たいものはない。MTVは昔ほどおもしろくないし、 MLBを全中継といったって、野茂がいなければ、どうしても見なければということもない。映画はWowowでさえ、最近は何日も見なかったりもする。

・NHKは受信料の不払いや、チャンネル数の削減要請などがあって、BS放送にかなりの力を入れている。実際、わが家ではほとんどの時間、NHKBSに繋がっている。ここのところは、見逃した番組の再放送が多いし、意欲的な番組も目につく。
・たとえば小田実の追悼番組として、彼がベルリンを訪れた『世界・わが心の旅「ベルリン 生と死の推積」』。先週のコラムにも書いたように、『何でも見てやろう』を読みなおしていたので、いっそう興味深く見た。ナチの収容所ではベルリン陥落の直前まで処刑がおこなわれ、しかも、処刑をするとその家族に処刑費の請求が行われていたそうだ。唖然とする話で、彼はそのことを涙ぐみながら話した。
The Chieftansのコンサートで紹介した"Santiago"をなぞるような番組もあった。毎回楽しみに見ている「世界ふれあい街歩き」が地中海に近いフランスのモンペリエ、ピレネー山脈の東にあるトゥールーズ、スペイン北部の古都レオン、そしてサンティアーゴと続けて放送した。数百キロから千キロを超える道のりを歩いて、ヨーロッパ中からさまざまな人びとがやってくる。出会った人たちの話を聞いていると、宗教的というよりは、じぶんを見つめ直す旅という意味合いが強かった。
・旅番組を見ていると、たまらなく、じぶんも出かけたくなる。しかし、次はどこに行こうかでは夢中になれても、いつ?になると困ってしまう。2週間ほどの休みがとれるのは夏休み以外には難しいし、夏休みは飛行機もホテルも高すぎるからだ。

2007年8月13日月曜日

追悼!小田実

 

『何でも見てやろう』講談社文庫

oda1.jpg・小田実が死んだ。ぼくは彼を個人的に知っているわけではないが、その報に接して思いだすことがいろいろあった。彼はベトナム戦争に異議申し立てをした「ベ平連」のリーダーで作家だが、ぼくにとっては、まず、『何でも見てやろう』との出会いが強烈だった。読んだのは高校生の時だったと思う。もう40年も前の話だ。
・世界中を貧乏旅行をして回る若者たちは、今ではさほど珍しい存在ではない。そのためのガイドブックや旅行記がいくつも出ているし、ネットという情報ルートもある。けれども、ぼくが『何でも見てやろう』を読んだ時代には、外国へ行くこと自体が特別の出来事だった。しかも、ぼくが読んだのは、この本が書かれてから10年近くたった時だったから、出版時の衝撃は、もっと強いものだっただろうと思う。当然、ベストセラーになった。

・彼が死んだことを聞いて、その『何でも見てやろう』をあらためて読みなおしてみた。その行動力やタフネスさには今さらながらに驚くが、一人の若者の目を通して眺められ、体験された第2次大戦後10年ほどたった世界の状況がきわめて新鮮なものとして感じられた。
・アメリカの50年代は戦後の好景気に沸き、豊かな暮らしが大衆レベルにまで行き渡るようになった時代である。ぼくはそのことをD.ハルバースタムの『ザ・フィフティーズ』で認識したが、同様の様子が、日本人の目を通して見えてくることに興味を覚えた。彼がとまどい、考えるのは、たとえば黒人の公民権運動そのものよりも、それに対する日本人の立場の曖昧さといった点だ。つまり日本人は、白か黒かにはっきりと区別されたトイレやホテルやレストランのどちらにはいるのか迷ってしまったということだ。しかし、彼はその二重性を逆手にとって、旅をいっそう豊かなものにもしている。白人が行けない場所に行き、また、黒人が行けない場所にも行く。小田が経験したアメリカ社会は、肌の色ではっきりと区別された二つの世界を自由に往還することによって、きわめてユニークなものになっている。
・同様のことは、ニューヨークのグリニッジヴィレッジで出会うビート族にもいえる。50年代はアメリカ人の多くがおなじような家に住み、おなじようなしごとをし、おなじようなものを食べ、おなじような遊びをするようになった時代だが、ビート族はその「画一主義」を拒絶して、貧乏生活に興じて、自前の快楽を模索した。小田は、ビート族の若者と大勢知り合いになる。しかし、彼はそのような行動に共感よりは違和感をもち、彼や彼女らを「さびしい逃亡者」といい、「甘えん坊のトッチャン小僧」と批判する。日本人である彼にとってはアメリカの豊かさは、反感よりは驚きであり、憧れのようにも感じられたからである。
・フルブライト留学生として渡米した小田は帰国の際にヨーロッパからアジアを貧乏旅行している。その各国の様子も、今とはずいぶん違っていておもしろい。しかも、徹底した貧乏旅行だから、どこに行っても、その最底辺の生活を覗いているし、インテリだから、中流の知識人とも沢山出会っている。

・ぼくは浪人中に代ゼミで小田実の授業を受けている。とはいえ、彼が出てくることはめったになく、いつも旅行中で、小中陽太郎が代講していた。たまに授業があるとベトナムの話で、ぼくは受験勉強そっちのけで彼の『義務としての旅』などを読み、そのほか、政治や思想や哲学の本を読むようになった。
・小田実は、その後も精力的に行動し、本を書いたけれども、ぼくは『世直しの倫理と論理』以外には読んでいない。そういう意味では、彼の考えや行動にそれほど強い影響を受けたとはいえないかもしれない。けれども、『何でも見てやろう』を読みなおすと、そこには、ぼくが今でもかわらずに持ちつづけている関心が随所にちりばめられていて、ぼくの出発点にいた重要な人物の一人であったことが、あらためて実感される。もちろん、今、若い人たちが読んでも、十分に新鮮で教えられることが多い本だと思う。

2007年8月6日月曜日

夏の旅

 

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・今年の夏の旅は信州と越後、それにアルペンルートをつかって立山まで。3泊4日の行程だった。パートナーと一緒にする国内の旅行は、最近ではもっぱら石や粘土を探すものになっている。ほとんど興味はなかったが、花崗岩とか安山岩とか聞いているうちに、その組成や成分がなんとなくわかるようになってきた。
・で、1日目は野尻湖と妙高、黒姫、斑尾といった高原地帯。ドライブと散策、それにカヤック。台風が近づいてフェーン現象のせいか、やたらと暑く、カヤックを組み立てるだけで汗びっしょりになってしまった。しかし、湖に出ると、風は心地よく、水は冷たい。

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・2日目は日本海をめざした。ほんとうに何十年ぶりかで見はじめたNHKの大河ドラマ『風林火山』では、ちょうど上杉謙信(長尾景虎)が出はじめたところで、その春日山城址を見た。今回の旅程は、家から甲府に出て、諏訪から長野(川中島)と来たから、信玄の辿った道と重なっている。
・泊まったのは親不知にある古いホテル。断崖絶壁の上にあり、海岸に降りる階段の途中で、旧北陸本線のトンネルを見つけた。そういえば、現在の北陸本線も北陸道も、すぐ近くの土中を通っている。北アルプスが日本海まで貫いて、越中と越後を分断しているさまがよくわかる。泊まった部屋からは夕焼けも日の出も見ることができた。ということは、海岸線がちょうど東から西に走っているということになる。


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・ホテルの前に「栂海新道登山口」の標識があった。ここから登って朝日岳や白馬岳、あるいは上高地まで行ける登山コースのようだ。白馬までなら1週間、上高地だと2週間以上もかかるという。海抜0Mから3000M。歩いてみたい気はしたが、その道のりを想像することもできない。家に帰ってグーグルすると、やっている人が確かにいた。「白馬岳〜日本海」「親不知〜北鎌尾根〜上高地縦走」。すごい人がいるものだ。

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・3日目は糸魚川から信濃大町まで戻り、立山アルペンルートを弥陀ヶ原まで。といっても途中歩くところは黒 4ダムだけで、あとはトロリーバス(扇沢〜黒4ダム)、ケーブル(〜黒部平)、ロープウエイ(〜大観峰)、トロリーバス(〜室堂)を乗り継いで、2時間もかからずに3000mの世界へ。台風が接近中なのに視界は良好で、黒部平からは黒部湖のむこうに赤沢岳、遠くには鹿島槍ヶ岳まで見え、ロープウエイの乗り場からは立山連山が手に取れるほど鮮明にそびえ立っていた。ここまで自分の足で歩いてきたわけではないが、やっぱりそのすばらしい景色には感激した。

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・室堂には極楽と地獄がある。信仰の山だが、実際に来てみると、たしかにそう思う。富士山と違って山頂まで緑におおわれている。残雪も多いし、雪解け水をたたえた池がいくつもある。あたりは一面の高山植物だが、他方で、ガスが吹き出る場所もある。幾つもの山に囲まれた別天地で、重いリュックを背負って2時間ほど散策した。連山の所々に山小屋があって、何日もかけて歩くコースもできている。紅葉の頃にまた来てみたいし、雪の景色も見てみたい。翌日は台風で視界0だっただけに、余計にそう思ってしまった。

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