2023年2月27日月曜日

マイナカードは断固拒否!

 



mynumber1.jpg" 国はマイナカードをさまざまなポイントをつけて普及させようとしている。直近の数字では取得率は7割といったところだ。そもそも任意のカードなのに、健康保険証だけでなく車の免許証まで一緒にするというから、まったくあきれた話だと思う。カードを作らなければ、健康保険証は別に作ってもらうよう請求する必要があるというが、車の免許証も同じになるのだろうか。

国が国民にカードを持たせたいのは、個人情報の一括管理を目的にしているからだ。それは預金口座にまで及んでいて、カードを作った時に拒否しなければ自動的に口座とつなげてしまうというのである。実際、このカードと健康保険証の紐付率は5割ほどで、口座は4割を超えたところだという。ずいぶん素直な人が多いな、とあきれるが、紐付すればそれだけポイントとしてお金が入るというのだから、つられて気安く応じているのだと思う。

しかし、健康保険証にしても免許証にしても、いつも携帯していて、なくしてはいけないものなのである。それにくらべてマイナカードはいったいどういう時に必要になるのかわからないものである。そもそもマイナンバーは他人には教えてはいけないものだったはずだから、カードもどこか大事なものを入れておく場所に保管すべきはずである。これをいつも携帯して、免許証のように、身分証明にも使えということなのだろうか。

これが信用できる国のやっていることなら、まだ納得できる。しかし、やることなすことヘマばかりで、失言や不祥事も多いし、世論を無視してオリンピックをやり、原発再稼働も決め、兵器の爆買いもやろうとしているのである。そんな国に個人情報をすべて管理されたら、いったいどういうことになるか。空恐ろしい気になるのだが、メディアはどれも、そのことに本気で警鐘を鳴らして政府を批判したりはしない。

そうであれば、ここは個人として断固拒否し、面倒でも保険証も免許証も別々に発行させるようにしようと思っている。「マイナ保険証」のシステム導入が義務付けられているのは違法だとして、都内の医師が集団で地裁に訴えを起こしたようである。このような動きが、もっともっと高まればいいと思うがどうだろうか。


2023年2月20日月曜日

4K、4Kってうるさいぞ!

 


4k1.jpg"去年の暮れ頃から、急にテレビが4k、4kとうるさく連呼しはじめた。4kの番組を見るためには、それに対応した受像機が必要だが、我が家のテレビはまだ元気だから買い替えるつもりなどない。あまりに繰り返されるから腹が立ってチャンネルを変えることもしばしばだ。

4kテレビとは現行のハイビジョン画像が2kだから、その2倍の解像度ということになる。現物を見たことがないが、興味がないから電気屋に見に行こうとも思わない。第一、今のテレビだって画像は十分にきれいで、それが2倍になったからといって見違えるほどになるとは思えないからだ。もちろん、より大きな画面でもきれいに見えることはあるだろうが、今以上に大きな画面にしたいとも思わない。

4kの番組は今のところ衛星放送だけで、地上波はまだのようだ。NHKのBS放送は現在の2チャンネルのうち、ひとつが来年の4月から4k対応になるようだ。テレビはあまり見ないが、それでも BSの3チャンネルはよく見るから、これがなくなったら、見るものがますます少なくなってしまうだろうと思う。それで不便さを感じても、買い替えるほどのことではないだろうと思っている。

そもそも我が家は難視聴地域にあって、地デジの民放が2局しかない山梨県なのに、見えるはずの4局だってまともに見ることができないのである。以前にそれについて苦情を言ったら1年だけBSで地デジの全局を見ることができた。ただし1年だけで、あとはケーブルテレビに加入しろと言われてしまったが、今さらばからしいからと、ケーブルテレビに加入などしていない。

地上波のテレビがつまらないものばかりなのは、番組表を見ればすぐわかる。よくもまあ、こんなバカ番組ばかり、毎日やるものだと思うことが少なくない。政府に偏ったニュース番組を見ても腹が立つだけだ。駅伝やマラソンなどのスポーツ番組もCMで中断されてばかりで、あきれて途中でやめてしまうことが多い。だから地上波が4kになったからといって、テレビを買い替える気にもならないだろうと思う。

振りかえれば、テレビも何台も買い替えてきた。最初に買った14インチの白黒テレビの宣伝文句が「一生のお買い物です」というほど高価だったことは今でも良く覚えている。しかし数年後には画面の大きいものになり、また数年後にはカラーになった。家を出てアパート住まいの部屋に買ったテレビ、結婚して買い替えたテレビ、そしてハイビジョン対応に合わせて買ったテレビ。それが壊れて買った液晶のテレビが今見ているものである。

今ではもちろん、テレビは家の主役ではない。はるかに長い時間をパソコンを眺めて過ごしているし、他にタブレットもスマホもある。実際僕がテレビを見るのは昼と夜の食事前後の数時間だけで、それも何かやりながらとか、居眠り半分にというのが現状だ。テレビには将来性がない。だからこその4kかと思うと、妙に納得した気分になった。

2023年2月13日月曜日

棄民政策がまかり通っている

 

コロナ禍に襲われて3年が過ぎました。今は第8波で、感染者数も死者数も段違いに多いのですが、政府の態度は、もう終息したかのようです。5月にはインフルエンザと同じ5類にするという方針が出されました。確かに若くて健康な人にとっては、風邪の一種ぐらいで済んでいるようです。けれども高齢者や疾患を持っている人にとって、重症化や死の危険がある感染症であることにはかわりはないのです。このような現状を見た時に思うのは、この国は社会の役に立たない弱者や高齢者は切り捨ててもいいという方針を暗黙の了解事項にしたのではという懸念です。

現在の日本は超高齢化社会で、2021年の平均寿命は女が世界1位の87.57歳、男は81.47歳で3位です。.コロナの影響で2020年より下がったようですが、2022年度はもっと下がるでしょうし、23年度にはさらに下がるのは明白です。何より第8波で死んだ人の大半は高齢者で、老人ホームなどでの集団感染が多かったと言われています。それを大変なことだと考えないのは、政府が健康保険や年金の制度を破綻させないためには良いことだと思っているからだと言われても仕方がないことでしょう。

それは公にはされない棄民政策ですが、別の事柄で同じような発想を公言する政治家や官僚が後を絶たないのも事実です。同性婚は生産性がないと言った政治家が役職を解かれましたが、今度は首相秘書官が同性婚は気持ちが悪いとオフレコ発言をして更迭されました。岸田首相は同性婚の法制化には消極的ですが、今回の発言が海外で問題視されたことに慌てて、広島サミットまでに法制化しようかなどと言い出しています。何しろサミットに出席する国で同性婚を認めていないのは日本だけですから、議題に挙げられたら、世界の恥さらしになってしまうのです。

物価高騰を受けて、賃金を上げることが喫緊の課題になっています。しかし、そこでも4割にもなった非正規雇用の人たちは後回しにされています。一体時給が1000円に満たない収入で、どうやって暮らしていけと言うのでしょうか。これでは若い人たちが結婚などできないし、子供も作れないと思うのは当然でしょう。出生数の大幅な減少を受けて、慌てて子供の養育費などを考えても、もう手遅れという他はないのです。

人口減少に対応して雇った外国人労働者に対する扱いもひどいものだと言えるでしょう。あくまで一時的で、定住されたり、子供を作られたりしては困る。そんな身勝手なルールがまかり通っています。「技能実習制度」というのは、現実には認められていない非熟練労働をやらせるための隠れ蓑で、単純労働では、何の技能も身につかないのが実態です。それに苦情を言ったり逃げたりすれば、強制送還というのですから、人として扱わないと言われても仕方がないでしょう。

こんなふうに、今の日本には暗黙の「棄民政策」が溢れていますが、他方で権力者たちの私利私欲を求める行動が見過ごされてもいます。国会議員は一体いつから殿様になって、世襲が当たり前になったのでしょうか。最近の首相の多くは2世、3世議員ですし、その子どもたちが、当たり前のように後継だと言われています。ひどい国になったものだとつくづく思います。若い人たちはこんな国を見限って海外に出たらいいし、外国の人には見向きもされなくなったらいい。ほとほとあきれて、そんなことも言いたくなりました。

2023年2月6日月曜日

内山節『森にかよう道』『「里」という思想』(新潮選書)

 

山歩きをしていてよく思うのは、登り始めが杉や桧の人工林で暗いということだ。間伐もしないで鬱蒼としているところや、間伐しても置き去りになって腐りかけているところが多いのである。それがある程度の高さになると広葉樹になって、明るさも見通しも一変する。杉や桧はほとんど戦後に植えられたもので、木材にすることを当てにしたのだが、安価な輸入材のために放置されたままになっているのである。そんな森を歩くたびに、何とかならないものかと思ってきた。

mori2.jpg 内山節の『森にかよう道』は1992年から2年近く「信濃毎日新聞」に連載された記事をまとめたもので、出版されてから30年近く経っている。しかし、ここで指摘されていることにはほとんど何も対応策が採られていないから、現状はいっそうひどいことになっている。この本には取材をかねて出かけた北海道から屋久島までの多くの森が取り上げられている。面白いと思ったのは著者が考える「豊かな森」が必ずしも、人の手が入らない自然な森ではないということだった。

『森にかよう道』で語られる「豊かな森」とは、そこに住む村人が茸や山菜などを取り、薪や炭にするために枝打ちや伐採をした、手を入れた森である。あるいは家や農地を守るために作られた防風林や防砂林といったものもある。それを「暮らしの経済」と呼べば、広葉樹をすべて伐採して杉や桧の人工林を作るのは、あくまで木を商品価値を持った材木としか考えない「市場経済」ということになる。それは「山仕事」から「林業」への転換であるが、そうなると、森を管理するのは村人ではなく、森を所有する国や自治体になり、働く人たちは製材業者やパルプ会社に雇われる人になった。

もちろん、ここには戦後の経済成長による人々の働き方や暮らし方の大転換という要因もある。それによって村は過疎化し老齢化して、森に人の手が入るということも少なくなった。日本の森林率は7割近くで先進国の中では1位を維持しているようである。イギリスでは1割以下でヨーロッパの3割、ロシアの4割に比べれば、かなり多いといえる。しかし日本の木材利用の7割以上が輸入に頼っていて、それが熱帯の森を減少させる大きな原因にもなっている。

mori3.jpg 森林率が多いといっても、人工林によって起こされた影響は多岐にわたる。大雨によって山が崩れる。川から海に流れる養分が減って沿岸で魚が取れなくなる。あるいは花粉症の蔓延などなどである。著者が主張するのは「里」や「里山」への注目で、そのことは彼の続編とも言える『「里」という思想』で語られている。すでに「市場経済」が成り立たなくなった日本の森を「暮らしの経済」として再生させる必要性ということだ。

森とともに生きてきた村人には、森を維持し、生活する上で必要なものを森から手にするための「作法」がある。それは代々受け継がれてきたもので、村人たちはいちいち深く考えたり、ことばにしたりしないが、著者には一つの思想として受け止められるようになる。若い頃から群馬県の上野村に住み着き、職場がある東京との間を行き来してきた著者ならではの結論だと思う。近代化によって消しさられようとしている「里の思想」を再認識し、どう未来に生かしていくか。それが切実な問題であることは、山歩きをすればすぐに気づくことである。