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2024年12月2日月曜日

火野正平と北の富士

 

火野正平の「こころ旅」と北の富士の相撲解説は、数少ない見たいテレビ番組でした。二人とも健康の理由で番組を休んでいましたが、相次いで訃報が知らされました。本当にがっかりという気持ちになりました。

kokorotabi.jpg 「こころ旅」は東日本大震災直後の2011年から始まりました。彼の歳は僕と同じですから60歳を過ぎてからのスタートでした。実は僕も同じ頃から自転車に乗りはじめていて、彼が乗る格好いいロードバイクがうらやましくて、ちょっと安いイタリア製を買ったりもしました。日本中を走り回る「こころ旅」とは違って、僕が走るのは毎回同じコースでしたが、この番組がしんどくても続ける支えになっていたことは確かでした。

番組はコロナ禍でも続いていましたが、次第に走る距離が短くなり、下り坂からスタートしたり、登り坂はタクシーを使ったりして、相変わらず20km程を走っている僕には、ちょっと物足りない感じもしていましいた。70歳を過ぎてかなりくたびれてきているから、そろそろ辞めるのではとも感じていましたが、今年も春からスタートしました。ところが数回やったところで腰痛で中止になってしまったのです。で、秋はピンチヒッターによる継続となって、突然の訃報でした。

いやいやもうびっくりで、なぜ?とつぶやいてしまいました。死因は明かされていませんが急なことだから癌だったのかも知れません。僕は火野正平が走る限りは自転車を続けようと思っていましたが、さてどうするか。体力の衰えは自覚していますが、まだまだ走る気力はあります。もっとも観光客が殺到して、平日でも道が混雑しますから、ここのところしばらく走っていないのです。空いているのは早朝ですが、もう寒いしなー、と言い訳ばかりです。

大相撲は大の里などの若手が台頭して面白くなってきました。で、今場所も毎日見ましたが、解説者の北の富士の訃報が飛び込んできました。テレビに出なくなってずいぶんになりますからもう復帰はしないだろうと思っていたのですが、亡くなってしまったと聞くと、やっぱりがっかりという気になりました。彼の解説は時にやさしく、また辛辣で、誰にも何にも邪魔されずに思ったことをそのまま話すところがおもしろかったです。好きな力士もはっきりしていて、特に身体が小さくてがんばっている炎鵬や宇良を応援する口調には同調することがしばしばでした。

北の富士は横綱で、引退後は九重部屋の親方になって千代の富士と北勝海の二人の横綱を育てました。しかし、千代の富士が引退すると彼に部屋を譲り、親方も辞めてNHKの解説者になりました。もうちょっと権力欲があれば理事長になったかも知れなかったのにと、その欲の無さには好感が持てました。相撲取りには珍しく格好が良く、和服が似あっていました。欲の皮ばかりが突っ張っている連中が目立つ世の中では、彼の清々しさがいっそう目立っていたのです。女性にはずいぶんもてたようですが、生涯独身でした。

そういえば火野正平も女性にもてたと言われています。「こころ旅」でも別嬪さんを見つけると、まるで磁石に吸い寄せられるように近づいて、すぐに楽しくおしゃべりをしてしまう。握手をしたり肩を組んだり。それが中年の図々しいおばさんになると腰が引けていたのがおもしろかったです。彼もまた権力欲が皆無。そういう人が絶滅危惧種になりました。

2024年11月25日月曜日

やっと雪が降った

 

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やっと雪が降った、というのは富士山の話だ。もう11月の末だというのに、これまで、うっすら白くなってすぐに消えるという程度にしか降っていなかった。時には20度を超える日もあって、雨の日も多いのだが、山頂も暖かかったのだろう。初めての寒波がやって来て、冷たい雨が降ったから、我が家の薪ストーブにも初めて灯がともった。で、観測史上最も遅い本格的な雪景色である。

forest205-2.jpg アメリカから友達家族がやって来た。総勢5人で大変だったのだが、久しぶりに楽しい日を過ごした。そのうちの2人と裏山に登り、上左のような富士山と河口湖を眺めて下山すると、右のような鹿の角を見つけた。角に傷があったからオス同士で闘って負けたのかも知れない。鹿を見かけることは多いのだが、角を見たのは初めてだった。

家から近い河口湖湖畔に自然生活館がある。以前はひっそりしていたのだが、今では湖畔越しに富士山を眺める名所として人気になっている。レストランやカフェ、それに土産物屋などがたくさんある。ここ始発の新宿行きのバスもできて、友人家族をここで送り迎えをしたが、平日なのに観光客の多さにびっくりした。この日は富士山がよく見えた。

forest205-3.jpg まだ雪の積もっていない富士山の太郎坊と富士宮の5合目までドライブした。太郎坊からは宝永火口と頂上がよく見えたのだが、次第に霧に覆われて、5合目まで行っても何も見えないのではと思った。しかし急に霧が晴れて、次第に雲が下に見えるようになった。まるで飛行機に乗っているような気分で見とれてしまった。河口湖は平日でも人やクルマでごった返しているのに、太郎坊も5合目もガラガラだった。

forest205-4.jpg 伐採して山積みになっていた枝の片づけをはじめて、ふさがっていた通り道が開通した。この後は、枝を細かく切って、積み上げなければならない。太い幹も含めて、薪ストーブで燃やそうと思っている。何とか年内には枝だけでも片づけるつもりでいる。何しろ広葉樹は貴重品なのである。松と混ぜて大事に使って、暖かい冬が過ごせるようにとがんばっている。

母の納骨式が済んで、やっと一段落という気持ちになった。父も母の遺骨と隣り合わせになって喜んでいることだろうと思う。

2024年11月11日月曜日

レベッカ・ソルニット『ウォークス』 左右社

 

solnit1.jpg レベッカ・ソルニットの『ウォークス』は副題にあるように、歩くことの歴史を扱っている。歩くことは人間にとってもっとも基本的な動作なのに、それについて本格的に考察した本は、これまで見かけたことがなかった。山歩きが好きで興味を持って買ったのだが、500頁を超える大著でしばらく積ん読状態だった。この欄で何か取り上げるものはないかと本棚を物色して見つけて、改めて読んでみようかという気になった。そこには、最近歩かなくなったな、という反省の気持ちもある。

人類は二足歩行をするようになって、猿から別れて独自の進化をするようになった。直立することで脳が発達し、手が自由に使えるようになったのである。アフリカに現れたホモサピエンスは、そこから北上してヨーロッパやアジア、そしてアメリカ大陸の南の果てまで歩いて、地球上のどこにでも住むようになったのである。それは言ってみれば二足歩行が実現させた大冒険だったということになる。

『ウォークス』はもちろん、そんな人類の進化の歴史と歩くことの関係にも触れている。しかし、この本によれば、人間が歩くこと自体に興味を持ったのは、意外にも近代以降のことなのである。どこへ行くにも何をするにも歩かなければならない。だから馬や牛、あるいはラクダにまたがり、車を引かせ、船を造って海洋を移動できるようにしてきた。要するに歩くことは苦痛で、移動には時間がかかりすぎるから、人間たちは歩かずに済む工夫を長い歴史の中でいろいろ考案してきたのである。

歩くことに意味を見いだしたのはルソー(哲学者)やワーズワース(文学者)だった。町中を歩き、人とことばを交わし、道行く人を観察する。あるいは山や川、あるいは海の美しさを再認識して、自然の中を歩き回る。そこにはもちろん、歩きながらの思考や発想の面白さがあった。ここにはほかにもH.D.ソローやキルケゴール、ニーチェ、あるいはW.ベンヤミンやG.オーウェルなどが登場するし、奥の細道を書いた松尾芭蕉にも触れられている。さらには風景画を描き始めた画家たちも入れなければならないだろう。

そんなことが影響して、普通の人たちも、街歩きの楽しさや自然に触れる素晴らしさを味わうようになる。しかし、道路には歩くスペースがほとんどないし、山や野原は地主によって入ることが制限されていたりする。歩道を作り、屋根付きのアーケード(パッサージュ)ができる。あるいは散歩を目的にした公園が街の設計に欠かせないものになる。また私有地に歩く道を作ることがひとつの社会運動として広まったりもした。近代化にとって歩くことが果たした意味は公共性をはじめとして、あらゆる意味で大きかったのである。

自然の中を歩くことへの欲求は、次に山を登ることに向かうことになる。アルプスの山を競って踏破し、やがてヒマラヤなどの世界に向かう。歩くことは文学や美術に欠かせないものになり、またスポーツにもなるのだが、それはまた旅行の大衆化を促進することにもなった。

歩くことはまた、近代以降の民主政治とも関連している。人々が何かを訴え主張しようとした時に生まれたのは、デモという街中を行進する行為だった。環境問題や性差別について発言する著者はサンフランシスコに住んで、そこで行われるデモに参加をしている。言われてみれば確かにそうだ。そんなことを感じながら、楽しく読んだ。

もっとも、あまり触れられていない日本についてみれば、芭蕉以前に旅をして歌を詠んだりした人は平安時代からいたし、お伊勢参りや富士講は江戸時代以前から盛んになっている。修業で山に登った人の歴史も長いから、近代化とは違う歴史があるだろうと思った。

2024年9月16日月曜日

気になる二人のYouTuber

YouTubeには気に入ってずっと見続けているYoutuberが何人もいる。いや正確にはいたというべきか。たとえばあちこち旅行をする人、ロードバイクに乗って面白い試みをする人、山歩きを楽しむ人などなどである。しかし、最初は面白いと思って見ていても、登録者や再生回数が増えるにつれて内容が変わってくる。旅行なら飛行機の座席がグレードアップして、ファーストクラスでニューヨークヘなどとなる。あるいはロードバイクも高級車を購入したといった話題になったりする。山歩きは次第に危険なコースに挑戦、といったことになる。そうなればますます登録者や再生回数が増えるから、当のYouTuberにとっては狙い通りということになるのだろう。しかし僕は、そうなってくると興味をなくして見なくなることがほとんどだった。

MySelfReliance.jpg ただし例外が一人だけいる。カナダでログハウスを一人で作っている人で、2017年の3月から始まった。最初は小さなログハウスで完成までに2年かかったが、僕は毎回更新するたびにその過程を見守ってきた。カナダ人の大工さんが作ったログハウスに住んでいるから、余計に興味が湧いたということもあった。我が家のログは当然、カナダから運んだ松なのである。彼は2年かけて作ったログハウスを売りに出すと、次に別の場所でまた、ログハウスを作りはじめた。今度はもっと大型で、使う機材もびっくりするほど多様になった。何しろ登録者数が200万人を超え、毎回の再生回数も多い時には数千万にもなるのである。入る収入も莫大なものになったのだろう。

しかしそうなったからといって、見ることをやめる気にはならなかった。自分一人で作ることは一貫していて、その作業の大変さや確実さ、丁寧さなどにいつも感心していたからだ.ログハウスの隣には畑を作り、いろいろな野菜も作るようになった。メープルシロップを作り、川に出かけてサケを釣り、猟銃を持って鹿を撃つ。で、その肉や野菜を保存食にして地下室に蓄え、時折やって来る家族や友人たちに饗するのである。

atsusi.jpg ここにもう一人。最近見つけた、アラスカからアルゼンチンまで、リヤカーを引きながら歩いている日本人の若者を加えたい。僕が気づいたのは、すでにカリフォルニアまで歩いていて、その全体をまとめたビデオだった。アラスカの北の端のプルドー・ベイからアルゼンチン南端の町ウシュアイアまで、2万キロを超える距離を時速6kmで歩くという計画で、現在はメキシコのバハカリフォルニアの半島を歩いている。

調べると、アラスカからアルゼンチンまでという行程をクルマやオートバイ、あるいは自転車で走った人は何人もいるようだ。実際この若者も、オートバイや自転車で同じ行程を旅をしている人に出会っている。ただし荷物を満載したリアカーでというのは、おそらく初めてのことだろう。夏に出発したとは言え、アラスカは寒い。白夜で、山もあれば谷もあるし、熊に出会うこともあった。途中でユーコン川のカヌーによる川下りなども楽しんだようだ。まずその体力に驚くが、泣き言を言わずに笑い飛ばして続けているその精神力には感服せざるを得ない。

すでに寒さも暑さも経験して、今は順調に歩いているように見える。それほど危険な目に遭わなかったのが不思議だが、これから通る中米は、政情不安で強盗団などもいると聞いている。何しろここまで歩いても、まだ半分になっていないのである。どうか無事でと祈りながら、週2回ほどある更新を楽しみに見続けている。


2024年6月17日月曜日

観光スポットに異変あり!

 

今、河口湖周辺は外国人観光客で大賑わいだ。最寄りの富士急行線河口湖駅に行くと、一体ここはどこの国かと思うほど、多様な外国人で溢れている。その駅近くにあるコンビニの上に乗っかるようにして富士山が見えるというので、それを写真に撮ろうと大勢の人が集まっているようだ。道に出て、あるいは向かいの歯科医の駐車場から撮ろうとするから、交通の妨げになるし、クルマも駐車できなかったりする。町は撮影できないように黒幕を貼ったが、そこに穴を開ける人が続出しているようだ。それが全国に報道されているから、知人からのメールの話題になったりしている。

journal4-249-1.jpg 外国人観光客がたまたま撮ってSNSに載せた画像がきっかけで、観光スポットになった最初は、河口湖周辺では隣の富士吉田市にある忠霊塔から写した富士山だろう。右の景色はなるほど絵になっていて、外国人にとっては行って見たいという気にさせると思う。しかし、ここはそれ以前には、桜の季節以外には、訪れる人もまばらで、僕も一度行っただけだった。周辺には駐車場はないし、バスも通らないところだったのである。

journal4-249-3.jpg 富士吉田市は河口湖町と違って、観光客などほとんど来ないところだった。ところが忠霊塔をきっかけにして、他にも富士山を写すスポットが発見され、それがまた、交通や騒音、そしてゴミなどの問題を引き起こしているようだ。その一つが商店街の真ん中にそびえる富士山の画像らしい。おかげでほとんどシャッター通りだった商店街に観光客が目立つようになったのだが、それで店が繁盛するようになったわけではないようだ。富士吉田市はかつては富士山の登山口で、浅間神社があり、御師(おし)の宿もたくさんあった。

もっとも、そんな流れに乗ったあざとい狙いも目立っている。たとえば、三ツ峠に上る登山道にある母の白滝近くの山の上に、右のような鳥居が突然できた。以前はそこも、訪れる人もまばらなところだったが、わざわざ歩いて登ってくる観光客を見かけるようになった、それだけではなく、付近の森を伐採してキャンプ場が出来たりしたから、細い山道をクルマや人が行き交うようになった。河口湖周辺では他にも、斜面にキャンプ場が造られたりして、反対運動も起こっている。この町に住んで四半世紀になるが、周辺の景観の変わりようにはがっかりすることが多いのである。

forest179-7.jpgがっかりといえば、何と言っても新道峠から見た富士山の景色だろう。ここには下から歩いて登るか、御坂峠や黒岳から尾根伝いに歩くか、あるいは芦川村経由で林道をクルマで行くかのルートがあった。僕はここが富士山を見る一番のスポットで、あまり知られていないことが何よりもいいと思っていた。ところが、芦川村が笛吹市と合併し、町おこしの一環として、ここに展望台を作ったのである。

forest179-8.jpg ツインデッキと名づけられたこの地には、それ以降、一般のクルマは行けなくなって、専用のバスに限られてしまった。ところが、訪れる人が増えて費用が嵩んだことで、笛吹市はその料金を往復400円から1800円に値上げしたのである。市はこの件について、年間3700万円の赤字が出ていることを理由にしているが、これほど人気のスポットになるとは予想しなかったのだろう。

forest179-6.jpg こんなふうにして、周辺が急激に様変わりしている。クルマや人が多いのは週末に限らなくなっているから、出歩くことも時間や場所を考えてということになっている。実は富士山を眺める、ほとんど僕だけの場所がもう一つあって、そこには家から30分ほどの時間で登ることが出来る。いつ行っても誰もいないところだが、最近熊の出没が相次いでいるから、登るのを控えている。観光客とは違う困った客だが、熊にとっては自分の縄張りにやってくる人間の方こそ迷惑なのかもしれない。とは言え、我が家の周辺をうろつくことはやめてほしいと願っている。

2024年6月3日月曜日

とんだ1泊旅行だった

 
花畑が見られる時期に伊吹山に行こう。これは何年も前から考えていたことだった。で、今年こそと実現しようとしたのだが、とんでもない天候で行くことが出来なかった。庭の松の木の伐採が終わったら伊吹山に行こうか。そんな話をして宿の予約をしたのは半月ほど前だった。1週間ほど前の天気予報では雨マークがついていたが、何しろ僕ら夫婦は晴れ男と晴れ女で、めったに雨に降られたことがない。そう思って予報の変化を期待していたのだが、2日ほど前になっても雨は変わらなかった。それどころか大雨の予報である。さて、どうしようか。ちょっと高い宿を予約したからキャンセル料がもったいない。そんな気持ちも働いて決行することにした。

最初の旅程は家から新東名に出て名神の関ヶ原インターで降りて伊吹山ドライブウェイを山頂まで行き、しばらく散策して郡上の山奥にある宿まで行くというものだった。2日目は高山から松本に帰るとしていたのだが、翌日が晴れだったから、伊吹山は2日目に行くことにした。宿までのコースだが、松本から高山を考えて、中央高速で出かけた。最初はそれほどの雨ではなかったのだが、諏訪湖に近づくあたりから土砂降りになって、これは高速を使った方がいいと思い、そのまま中央高速を走り、東海環状道から東海北陸道で郡上八幡で降りた。雨は断続的に土砂降りになり、時には前が見にくくなるほどだった。

gujo1.jpg 郡上八幡は一昨年に能登に行った帰りに通過したが、訪れるのは初めてだった。長良川と合流する吉田川沿いの谷間に出来た街で、雨にも関わらず観光客が大勢歩いていた。そば屋で自然薯入りの蕎麦を食べて、せめてお城ぐらいはと、傘を差して歩いたのだが、背中も足もびしょぬれになるほどの雨だった。そこからかなり早かったが、宿に向かい、2時前にはチェックインして温泉につかった。晴れていれば満天の星が見えるはずだったが、大雨で、すぐ近くも何も見えなかった。夕食時から警報を告げるチャイムが何度も鳴った。通って来た道路も通行止めになったようだった。

翌日は天気が回復して、伊吹山に行けると思ったのだが、カーナビで行き先をセットすると100 km先に通行止めがあるいう。ちょうど伊吹山の辺りで、スマホで調べるとドライブウェイで土砂崩れがあって終日通行止めと出てきた。それでは仕方がないと、高山経由で帰ることにした。時間的に余裕があるから下道を北上すると、長良川最上流の夫婦滝という表示を見つけた。水量が多くて豪快な滝だったが、普段は二つに分かれていて、だから夫婦滝というのだということだった。そのすぐ先には太平洋と日本海(富山湾)に別れる分水嶺があった。小川とも言えないほどの小さな流れで、それが左右に別れている。本当かどうか疑わしいほどの流れだが、きっとそうなのだろうと思うことにした。

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fallenbirch.jpg で、高山の町を通り抜けて、上高地から松本に出て、中央道で家まで帰った。走行距離はおよそ700kmで、何のことはない、ドライブしただけの旅行だった。ところが帰宅すると、あたりに枝が散らばっている。それどころか、庭の白樺の木が根こそぎ倒れて、工房に寄りかかっていた。留守中にものすごい風が吹いたことがわかる有り様だった。知らぬが仏だが、こんな日に出かけるとはいい歳をして何と無茶なと、反省するばかりだった。しかし、伊吹山には絶対行きたい。そんな気持ちもますます強くなった。



2023年10月9日月曜日

上高地と穂高

 

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恒例のパートナーのバースデーの小旅行は,一昨年行った穂高になった。内風呂つきの部屋が気に入って,ロープウェイ近くのホテルに1泊したのである。ロープウェイに乗って西穂高口まで行って、少し歩こうかと思ったのだが、前日にチェックすると、何と緊急点検で休止だという。それでは乗鞍岳にしようとしたら、ここも道路が全面封鎖で,バスは運行していないという。となったら,上高地しかない。と言うわけで朝6時に出発して、平湯温泉までクルマを走らせた。天気は快晴でバス乗り場に着くと,駐車場はすでに満杯。上高地の人気に改めて驚かされた。バスは満員で,上高地に着くと,やっぱり人でいっぱいだった。もちろん,平日のことである。

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新穂高温泉に移動して,せっかくだからと途中まで運行しているロープウェイに乗った。前回は天気が悪くて何も見えなかったが,今度は笠ケ岳がよく見えた。ダケカンバの森を少し歩いて宿に戻り,さっそく内風呂に入った。硫黄の臭いがきつかったが、最近痛めた足のふくらはぎをマッサージして、長湯につかった。夕食に食べた飛騨牛はさしが多くてあぶらっぽかった。赤身の方がおいしいのに,何でさしをもてはやすのだろうか。

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翌日は前回思いがけない雪で引き返した安房峠を通って松本まで走らせた。安房トンネルができるまではこの道を観光バスが通ったのだ,と改めて驚いた。峠にはお地蔵さんがいて、紅葉にはまだ早かったが、つづら折れの道はなかなか走りごたえがあった。この日は夜中からの雨で、何も見えなかったが,上高地に行くバスはひっきりなしだった。一昨年寄った飛行場近くの農園で、前回は遅くてなかった栗と林檎や野菜を買って帰宅した。

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2023年8月7日月曜日

東北太平洋岸を北上した

 

河口湖から宮古まで片道800kmを6日間で往復した。それにしても暑かった。クーラーがなくても30度を超えないところに住んでいる者にとっては、35度超なんていう温度はとても耐えられない。だから、クルマから降りるのを躊躇する。そんな旅になった。

初日は平まで。日曜日だったから高速は空いていて、ほとんど渋滞なしに4時間ほどで小名浜に着いた。まずは水族館を見学したのだが、とにかく暑い。トドと潮目の海が売り物なのだが、それほど驚くほどではなかった。細々とした展示が多くて、暑いせいかほとんど素通りという感じだった。マンタやさめが泳ぐ沖縄の「美ら海水族館」とは比べるまでもないが、ちょっとがっかりだった。

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2日目は平から相馬まで。津波や原発事故後の様子を見たいと思い、なるべく海沿いの道を走った。福島第二原発に近づくと、帰還困難区域にぶつかり先には進めなくなった。そんな道をあちこち抜けたのだが原発そのものを見ることはできなかった。逃げてそのままになった店舗や住宅には雑草が伸びて、月日の経過を教えてくれた。浪江町の請戸小学校の遺構を見学。津波は校舎の2階まで押し寄せたようだが、生徒全員が近くの山に逃げて助かったとあった。

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tohoku6.jpg 3日目は相馬から石巻へ。朝から雷と豪雨だが涼しい。宮城県にはいって山元町を通るとヒマワリ畑が目に入った。そこで道案内をする人に聞くと、周囲には家もあったけど、水没してしまったと話していた。新しくできた道路は堤防の役割もできるように造られていた。おかしいのは多くの道がカーナビには載っていないことだった。昨年更新したばかりなのに、それ以後できたのだろうか。この後も、そんなカーナビにはない道を多く走ることになった。

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4日目は石巻から宮古へ。新しい高速道路は無料だったが気仙沼からは下道を走った。以前に来たことがある魚市場周辺は一変していて、泊まった旅館もどこにあったのかわからなかった。そこから、これも以前に行った大理石海岸に寄って、陸前高田、大船渡、釜石と走り、宮古の国民休暇村に着いた。道路には津波がここまで来たという表示があって、中には50メートルを越える高さにも達していたことがわかった。どこも堤防が張り巡らされていて、新しい街が作られていた。下の画像は大理石海岸と碁石浜。

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tohoku9.jpg 5日目は宮古から福島へ。もう帰り道になるが早池峰山を見ながら花巻に抜けた。狭くて曲がりくねった道で、土日は通行止めになるという。対向車が来たらと気になったが、何とか早池峰山の登山口に着いた。そこから大谷選手の花巻市や奥州市を走って福島へ。
6日目は福島から我が家まで。東北道はスムーズだったが圏央道に入って鶴ケ島から八王子まで大渋滞。途中のパーキングでトイレ休憩をすると気温は何と42度。まるでサウナブロで、車に逃げ帰った。それにしても圏央道はいつでも渋滞している、大型トラックが多くて嫌いな道だが、都心を抜けるともっと時間がかかってしまう。6時間ほどかかってやっと我が家に着いた。28度でホッとした。

2023年5月29日月曜日

長峰山から北アルプスを望む

ゴールデン・ウィークの喧騒もすんで気候も良くなった。で、どこかに出かけようということになって、桜の季節に新聞で紹介されていた光城山(ひかるじょうやま)と隣の長峰山から北アルプスを眺める計画を立てた。一番楽で横着なのは二つの山を車で走ることだが、残念ながら途中工事個所があって、車で行くのは長峰山だけにして光城山にはがんばって登ることにした。
天気は前日まで雨が降っていたのに,長峰山からの眺望はご覧の通り,素晴らしいものだった。山の名前はよくわからないが、北アルプスの北半分はきれいに眺めることができた。しかも前日までの雨で山は雪景色になったようだった。

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長峰山には大勢の人がいて、寝ころんだり歩き回ったり。僕もあたりをうろうろした。とにかくさわやかで気持ちよかった。

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光城山は頂上まで60分。登山道には桜の木が植えられていて、花の時期にはさぞ見事だっただろうと感じられた。ただ、あちこちに咲く花もあって、しんどさも程々だった。頂上には山の名前が分かる透明のシールドがあったが、残念ながら、雲に隠れて分からなかった。

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ちなみに、甲府盆地から見えた南アルプスもきれいだった。桃の木の背後に、右から北岳、間ノ岳、農鳥岳。もう一つ,富士山も冷たい雨で雪化粧したが、森林限界に沿った波形ではなく、一直線に白くなったのは珍しかった。おそらく雪と雨の境界線だったのだろう。

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2023年3月20日月曜日

沢木耕太郎『天路の旅人』(新潮社)

sawaki1.jpg 第二次大戦中に満州鉄道で働いていた西川一三には、西域地方に対する強い憧れがあった。チベットのラサまで行くには歩くしかないが、その旅程で必要な荷物や食料を買い、それらを運ぶラクダを手に入れるにはかなりの金が必要になる。で、密偵として西域地方を探るという使命を軍に申し出て受け入れてもらった。そこから砂漠や沼地、山岳を越える過酷な旅が始まるのだが、旅立ちの日から猛吹雪に襲われることになる。

沢木耕太郎の『天路の旅人』は蒙古人のラマ僧に扮してラサまでたどり着き、ヒマラヤを越えてインドまで行った西川の旅を、極めて忠実に再現したドキュメントである。暑さや寒さ、渇きや空腹、あるいは盗賊に襲われるということはあるが、旅の記述は極めて単調な日々の連続といっていい。600頁近い大著で、眠る前にベッドで少しづつと思って読みはじめたが止まらない。一日一章と決めて半月ほどで読了した。おもしろかった。

密偵といっても、特に探らなければならない任務があるわけではない。強いて言えば、中国の力がどの程度西域に及んでいるかといったことぐらいだった。もちろん、西川にとっても、旅の目的はそこにはなくて、未知の地に到達することにあった。密偵としての報告も、たまたま満州まで行くというラマ僧に出会った時に手紙を託すといった程度だった。もちろん、資金はすぐに尽きてしまうのだが、後は托鉢をしたり、寺に居候をしたり、行商人になって稼いだりと、極めてたくましく、インドで釈迦にまつわる地を訪ねる時にはほとんどが無賃乗車だった。

日本が敗戦したことを知った後も、もっと旅を続けるつもりだったのだが、日本人であることやスパイであることがわかり、強制送還されて旅は終わる。その経験は西川本人が『秘境西域八年の潜行』と題して本にし、ベストセラーにもなったのだが、沢木耕太郎は、その旅を自らの手で再現しようとしたのである。

戦後盛岡で化粧品店を営んでいた西川に沢木が会ったのは、今から四半世紀も前のことである。何度も出向いて取材を重ねたが、なかなか本にまとめることができなかった。その間に西川が死に、その後で会うことになった西川の妻も亡くなった。あとがきで沢木は、すでに本人が書いた本があるのに、なぜ彼の旅を描くのかと自問したと書いている。そして旅そのものではなく、旅をした西川を描くのだという結論を導き出す。

沢木耕太郎には多くの著作がある。ノンフィクションの作家として、人物や事件を客観的に描くのではなく、自分がそこに関わることを特徴にしている。デビュー時には、そのスタイルが「ニュー・ジャーナリズム」という呼び方をされたりもした。僕はあまり歳の違わない彼の初期の著作を熱心に読んだが、『深夜特急』以後については興味をなくしていた。売れっ子になってしまったと思ったのかもしれない。ただし、久しぶりに彼の本を読んで、若い頃と変わらない、その描こうとする対象に向かう真摯な姿勢と、強くて軽やかな筆致を再認識した。