ラベル Travel の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル Travel の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2023年10月9日月曜日

上高地と穂高

 

kamikouti0.jpg


恒例のパートナーのバースデーの小旅行は,一昨年行った穂高になった。内風呂つきの部屋が気に入って,ロープウェイ近くのホテルに1泊したのである。ロープウェイに乗って西穂高口まで行って、少し歩こうかと思ったのだが、前日にチェックすると、何と緊急点検で休止だという。それでは乗鞍岳にしようとしたら、ここも道路が全面封鎖で,バスは運行していないという。となったら,上高地しかない。と言うわけで朝6時に出発して、平湯温泉までクルマを走らせた。天気は快晴でバス乗り場に着くと,駐車場はすでに満杯。上高地の人気に改めて驚かされた。バスは満員で,上高地に着くと,やっぱり人でいっぱいだった。もちろん,平日のことである。

kamikouti1.jpgkamikouti2.jpg
kamikouti3.jpgkamikouti3.jpg


新穂高温泉に移動して,せっかくだからと途中まで運行しているロープウェイに乗った。前回は天気が悪くて何も見えなかったが,今度は笠ケ岳がよく見えた。ダケカンバの森を少し歩いて宿に戻り,さっそく内風呂に入った。硫黄の臭いがきつかったが、最近痛めた足のふくらはぎをマッサージして、長湯につかった。夕食に食べた飛騨牛はさしが多くてあぶらっぽかった。赤身の方がおいしいのに,何でさしをもてはやすのだろうか。

kamikouti5.jpgkamikouti6.jpg


翌日は前回思いがけない雪で引き返した安房峠を通って松本まで走らせた。安房トンネルができるまではこの道を観光バスが通ったのだ,と改めて驚いた。峠にはお地蔵さんがいて、紅葉にはまだ早かったが、つづら折れの道はなかなか走りごたえがあった。この日は夜中からの雨で、何も見えなかったが,上高地に行くバスはひっきりなしだった。一昨年寄った飛行場近くの農園で、前回は遅くてなかった栗と林檎や野菜を買って帰宅した。

kamikouti7.jpgkamikouti8.jpg

2023年8月7日月曜日

東北太平洋岸を北上した

 

河口湖から宮古まで片道800kmを6日間で往復した。それにしても暑かった。クーラーがなくても30度を超えないところに住んでいる者にとっては、35度超なんていう温度はとても耐えられない。だから、クルマから降りるのを躊躇する。そんな旅になった。

初日は平まで。日曜日だったから高速は空いていて、ほとんど渋滞なしに4時間ほどで小名浜に着いた。まずは水族館を見学したのだが、とにかく暑い。トドと潮目の海が売り物なのだが、それほど驚くほどではなかった。細々とした展示が多くて、暑いせいかほとんど素通りという感じだった。マンタやさめが泳ぐ沖縄の「美ら海水族館」とは比べるまでもないが、ちょっとがっかりだった。

tohoku1.jpgtohoku2.jpg


2日目は平から相馬まで。津波や原発事故後の様子を見たいと思い、なるべく海沿いの道を走った。福島第二原発に近づくと、帰還困難区域にぶつかり先には進めなくなった。そんな道をあちこち抜けたのだが原発そのものを見ることはできなかった。逃げてそのままになった店舗や住宅には雑草が伸びて、月日の経過を教えてくれた。浪江町の請戸小学校の遺構を見学。津波は校舎の2階まで押し寄せたようだが、生徒全員が近くの山に逃げて助かったとあった。

tohoku3.jpgtohoku4.jpg


tohoku6.jpg 3日目は相馬から石巻へ。朝から雷と豪雨だが涼しい。宮城県にはいって山元町を通るとヒマワリ畑が目に入った。そこで道案内をする人に聞くと、周囲には家もあったけど、水没してしまったと話していた。新しくできた道路は堤防の役割もできるように造られていた。おかしいのは多くの道がカーナビには載っていないことだった。昨年更新したばかりなのに、それ以後できたのだろうか。この後も、そんなカーナビにはない道を多く走ることになった。

tohoku5.jpg

4日目は石巻から宮古へ。新しい高速道路は無料だったが気仙沼からは下道を走った。以前に来たことがある魚市場周辺は一変していて、泊まった旅館もどこにあったのかわからなかった。そこから、これも以前に行った大理石海岸に寄って、陸前高田、大船渡、釜石と走り、宮古の国民休暇村に着いた。道路には津波がここまで来たという表示があって、中には50メートルを越える高さにも達していたことがわかった。どこも堤防が張り巡らされていて、新しい街が作られていた。下の画像は大理石海岸と碁石浜。

tohoku7.jpgtohoku8.jpg


tohoku9.jpg 5日目は宮古から福島へ。もう帰り道になるが早池峰山を見ながら花巻に抜けた。狭くて曲がりくねった道で、土日は通行止めになるという。対向車が来たらと気になったが、何とか早池峰山の登山口に着いた。そこから大谷選手の花巻市や奥州市を走って福島へ。
6日目は福島から我が家まで。東北道はスムーズだったが圏央道に入って鶴ケ島から八王子まで大渋滞。途中のパーキングでトイレ休憩をすると気温は何と42度。まるでサウナブロで、車に逃げ帰った。それにしても圏央道はいつでも渋滞している、大型トラックが多くて嫌いな道だが、都心を抜けるともっと時間がかかってしまう。6時間ほどかかってやっと我が家に着いた。28度でホッとした。

2023年5月29日月曜日

長峰山から北アルプスを望む

ゴールデン・ウィークの喧騒もすんで気候も良くなった。で、どこかに出かけようということになって、桜の季節に新聞で紹介されていた光城山(ひかるじょうやま)と隣の長峰山から北アルプスを眺める計画を立てた。一番楽で横着なのは二つの山を車で走ることだが、残念ながら途中工事個所があって、車で行くのは長峰山だけにして光城山にはがんばって登ることにした。
天気は前日まで雨が降っていたのに,長峰山からの眺望はご覧の通り,素晴らしいものだった。山の名前はよくわからないが、北アルプスの北半分はきれいに眺めることができた。しかも前日までの雨で山は雪景色になったようだった。

northalps2.jpgnorthalps1.jpg


長峰山には大勢の人がいて、寝ころんだり歩き回ったり。僕もあたりをうろうろした。とにかくさわやかで気持ちよかった。

northalps3.jpgnorthalps7.jpg


光城山は頂上まで60分。登山道には桜の木が植えられていて、花の時期にはさぞ見事だっただろうと感じられた。ただ、あちこちに咲く花もあって、しんどさも程々だった。頂上には山の名前が分かる透明のシールドがあったが、残念ながら、雲に隠れて分からなかった。

northalps4.jpgnorthalps9.jpg
northalps10.jpgnorthalps5.jpg
northalps6.jpgnorthalps8.jpg


ちなみに、甲府盆地から見えた南アルプスもきれいだった。桃の木の背後に、右から北岳、間ノ岳、農鳥岳。もう一つ,富士山も冷たい雨で雪化粧したが、森林限界に沿った波形ではなく、一直線に白くなったのは珍しかった。おそらく雪と雨の境界線だったのだろう。

southalps1.jpgfujisan1.jpg


2023年3月20日月曜日

沢木耕太郎『天路の旅人』(新潮社)

sawaki1.jpg 第二次大戦中に満州鉄道で働いていた西川一三には、西域地方に対する強い憧れがあった。チベットのラサまで行くには歩くしかないが、その旅程で必要な荷物や食料を買い、それらを運ぶラクダを手に入れるにはかなりの金が必要になる。で、密偵として西域地方を探るという使命を軍に申し出て受け入れてもらった。そこから砂漠や沼地、山岳を越える過酷な旅が始まるのだが、旅立ちの日から猛吹雪に襲われることになる。

沢木耕太郎の『天路の旅人』は蒙古人のラマ僧に扮してラサまでたどり着き、ヒマラヤを越えてインドまで行った西川の旅を、極めて忠実に再現したドキュメントである。暑さや寒さ、渇きや空腹、あるいは盗賊に襲われるということはあるが、旅の記述は極めて単調な日々の連続といっていい。600頁近い大著で、眠る前にベッドで少しづつと思って読みはじめたが止まらない。一日一章と決めて半月ほどで読了した。おもしろかった。

密偵といっても、特に探らなければならない任務があるわけではない。強いて言えば、中国の力がどの程度西域に及んでいるかといったことぐらいだった。もちろん、西川にとっても、旅の目的はそこにはなくて、未知の地に到達することにあった。密偵としての報告も、たまたま満州まで行くというラマ僧に出会った時に手紙を託すといった程度だった。もちろん、資金はすぐに尽きてしまうのだが、後は托鉢をしたり、寺に居候をしたり、行商人になって稼いだりと、極めてたくましく、インドで釈迦にまつわる地を訪ねる時にはほとんどが無賃乗車だった。

日本が敗戦したことを知った後も、もっと旅を続けるつもりだったのだが、日本人であることやスパイであることがわかり、強制送還されて旅は終わる。その経験は西川本人が『秘境西域八年の潜行』と題して本にし、ベストセラーにもなったのだが、沢木耕太郎は、その旅を自らの手で再現しようとしたのである。

戦後盛岡で化粧品店を営んでいた西川に沢木が会ったのは、今から四半世紀も前のことである。何度も出向いて取材を重ねたが、なかなか本にまとめることができなかった。その間に西川が死に、その後で会うことになった西川の妻も亡くなった。あとがきで沢木は、すでに本人が書いた本があるのに、なぜ彼の旅を描くのかと自問したと書いている。そして旅そのものではなく、旅をした西川を描くのだという結論を導き出す。

沢木耕太郎には多くの著作がある。ノンフィクションの作家として、人物や事件を客観的に描くのではなく、自分がそこに関わることを特徴にしている。デビュー時には、そのスタイルが「ニュー・ジャーナリズム」という呼び方をされたりもした。僕はあまり歳の違わない彼の初期の著作を熱心に読んだが、『深夜特急』以後については興味をなくしていた。売れっ子になってしまったと思ったのかもしれない。ただし、久しぶりに彼の本を読んで、若い頃と変わらない、その描こうとする対象に向かう真摯な姿勢と、強くて軽やかな筆致を再認識した。

2022年12月5日月曜日

円安とインバウンド

 

アメリカのポートランドに住む知人一家が3年ぶりに我が家に来た。日本でやるべきことがあったのだが、コロナにかかわる規制が緩んでやっと実現できたのだった。僕らはワクチンを打っていないので、どうしようか迷ったのだが、歓迎することにした。総勢4人が我が家に泊まって、にぎやかに過ごした。最初はマスクをしてと思ったが、それもすぐにやめてしまった。今のところ、症状は出ていないから大丈夫だったのではないかと思っている。

いろいろ話をしたが、彼らにとっての驚きは、物価の安さだった。何しろ円は去年まで110円前後で推移していたのに、今年になって急激に円安になって、一時は150円にもなったのである。3年前に来た時に比べて、2割以上も安くなっている。彼らにとっては何でも安くて大助かりだが、日本人にとっては輸入品の価格が高騰して、さまざまなものが値上がりしはじめていて大変なことになっている。しかも物価の上昇は、これからさらにひどくなると言われているのである。

日本の物価はここ20年、あるいは30年ほとんど上がってこなかったが、日本人の収入は逆に減り続けてきた。正規の勤め人は、それなりに定期昇給があったが、非正規が4割にもなって、貯蓄がほとんどなく、生活に困窮している人が増えている。食事も満足にできない子どものいる家庭もあって、民間の援助が盛んに行われているが、国はほとんど手当てをしていないのである。

他方で裕福な人もいて、国はその人たちに旅行を勧める支援を復活させてもいる。「Go to トラベル、イート、イベント、ショッピング」などといったおかしな和製英語の話などもしたが、政治のお粗末さは、ことば以上のおかしさなのである。おかげで紅葉の季節には、河口湖には大勢の人が訪れて、外出を控えるほどだった。

知人たちが久しぶりに日本に来たように、海外からの旅行者も増えていて、河口湖でも目立つようになった。しかし主流は欧米からの人たちで、コロナ前に目立った中国を始めとしたアジアからの人はまだ少ないようである。何より団体で押しかける中国人の姿が見当たらないが、これはゼロコロナ政策で、旅行が制限されているためのようである。他方で韓国からの旅行者は復活しているようだが、多くは九州などの西日本に来ているから、関東ではあまり目立たない。

コロナが収まったわけでもないのに、インバウンド復活を積極的に支援する国の政策はどうかと思う。円安を生かしてなどと言うが、そもそも円安を是正するためにどうするかを考えないことのほうが問題なのである。輸出立国として成長した日本が、今、輸入超過の赤字国に転落している。インバウンドで補っても焼け石に水にしかならないことなのに、これしか方策がないのだから、もうお先真っ暗な現状なのである。

2022年10月24日月曜日

能登半島小旅行

 


noto1.jpg
朝日に映える八ケ岳


今年はどこにも出かけなかったが、パートナーの誕生日だけはと能登半島に行くことにした。出発時は雨で、八ケ岳に近づく頃には晴れてきた。アルプスは雲に隠れていたが、手前の山は紅葉が進んでいた。やっぱり晴れ男・女だと思ったのだが、糸魚川が近づくあたりから雲行きが怪しくなり、日本海沿いを走ってる時は土砂降りの雨になった。親不知の海岸で翡翠を見つけはじめたのだが、雨で諦めた。どこにも寄れないと思ったが、魚津の埋没林博物館を見つけて立ち寄った。和倉温泉のホテルから向かいの能登島を眺める。天気は回復して夕焼けが鮮やかだった。

noto2.jpgnoto3.jpg
noto4.jpgnoto5.jpg


二日目は能登半島を一回りした。まず能登島に渡り、そこから半島の先端に向けて走った。能登に来たのは大学生の頃以来で半世紀ぶりだった。半島最先端の狼煙集落にある禄剛崎灯台にはその時にも来たのだが、きれいに整備されていて、あまりの様変わりに驚いた。その後は塩田と千枚田に寄り、時間が遅くなったので、輪島はパスして金沢まで走らせた。途中、千里浜なぎさドライブウェイを走って金沢へ。

noto6.jpgnoto7.jpg
noto8.jpgnoto96.jpg


三日目は金沢のホテルを出てすぐ高速に乗った。東海北陸道から高山に行って、安房峠から松本に抜けるつもりだったのだが、白川郷で降りて、そのまま下道を走って御母衣湖を過ぎたところで高速に戻ったために、おかしいと思った時には郡上八幡まで来てしまった。仕方がないので東海環状道から新東名経由で帰った。大回りしたために、全行程は1100kmにもなってしまった。久しぶりの長距離運転でぐったり。

noto10.jpgnoto11.jpg


2021年10月25日月曜日

穂高と八ケ岳

 


photo93-1.jpg


hodaka1.jpg 毎年この時期にはパートナーの誕生日に合わせて小旅行をしてる。去年は会津だったが今年は穂高に行くことにした。といっても山登りをするわけではない。ロープウエイに乗って。穂高や槍ケ岳が間近に見える所までということにした。途中で上高地に立ち寄ろうかなどと計画したが、天気予報はあいにくの雨。温泉につかるだけでもいいかという気持ちでスタートしたら、甲府の町並みが見えはじめた頃から、西の空が青空になってきた。で、しばらくいくとかんかん照り。何度も書いているが僕たちはそろって晴れ男と晴れ女で、旅行に出て雨に降られたことがほとんどない。

中央高速を塩尻で降りて果物街道を通って新穂高温泉まで走った。さっそくロープウエイに乗って上まで行くと、残念ながら雲が出はじめていて、笠ケ岳も槍ケ岳も隠れてしまっていた。風が強くて寒かったので、歩くのは少しだけにして、やどで温泉に入った。硫黄がきつかったが部屋にある露天風呂だったので、ゆっくりつかった。

hodaka2.jpghodaka3.jpg
hodaka4.jpghodaka5.jpg


翌日は平湯でバスに乗り換えて上高地へ行こうと思ったが、朝起きると雨で、紅葉の名所の平湯峠に行き、旧道で安房峠を越えて帰ることにした。ところが走り始めると雨がみぞれにかわり、本格的な雪になった。平湯峠まで行ったが降りずに戻って、今度は安房峠に向けて走ったが、登るにつれてやっぱり雪で、道路もシャーベット状になりはじめた。峠近くまで行くと車がスリップするようになったので、諦めてまた戻った。

hodaka6.jpghodaka7.jpg


photo93-2.jpg 松本まで降りるといい天気。リンゴや野菜を買って、下道を諏訪湖から八ケ岳に走らせた。ジャージー牛がのんびり反芻するところや、うっすら雪化粧した八ケ岳を眺めたが、これはすごいという紅葉の風景には出会わなかった。かわりにひと足早い雪景色を見たのだが、帰りの車から見える富士山もきれいに雪がかかっていた。そう言えば河口湖の紅葉もやっと色づきはじめたばかりで、もうすでに、訪れる人が増えている。急に気温が下がったから、もうすぐ見ごろになるかもしれない。