2009年5月25日月曜日

マスクと濃厚接触

・新形インフルエンザの騒ぎがはじまって1ヶ月が経った。この間の政府の方針やマスコミの対応にずっと違和感を持ちつづけている。ウィルスの国内侵入を水際で阻止できると、ほんとうに思っているのか?からはじまって、発症者の扱い、その報道の仕方、病院の対応、そしてマスクの着用の勧めと品切れなど、ひと言でいえば、その過剰さ過敏さに呆れもするし、気味の悪さも感じてしまう。

・発症したからといって、なぜその関係者が「ご迷惑をおかけしました」と謝罪しなければならないのか。弱毒性だとわかっているのに、なぜ感染をこれほど恐れるのか。そのためにマスクの着用が、どれほどの効果があるというのだろうか。冷静な対応を、などと呼びかけながらなぜ、政府は右往左往して、大げさな会見をするのだろうか。新聞やテレビはなぜ、どれも画一的に重大事であるかのように報道するのだろうか。

・今回のインフルエンザは最初は豚インフルエンザと呼ばれた。それがインフルと省略されたり、H1N1亜型となったり、新形とついたりして、現在でも統一されていない。あるいはフェーズ5とか6とかいうことばもピンと来ないし、パンデミックもわかりにくい。しかし何と言っても、聴いた瞬間に奇妙な感覚をもったのは「濃厚接触」ということばだ。ぼくはすぐに卑猥な連想をしてしまったから、テレビでアナウンサーが平気で口にするのが不思議でならない気がしてしまう。もっとも英語では"Close Contact"で、きわめて物理的な近接を意味するに過ぎないのだが………
・で、考えたのだが、ぎゅうぎゅう詰めの満員電車などでは、確かに接触は濃厚に行われている。身体はぴったりくっついているし、たがいが同じ空気を吸っては吐いて共有しあっている。そんな場所に慣れている日本人は、日頃から見知らぬ人との濃厚接触に慣れていて、違和感をもたないと言えるだろう。だからこそ、マスクで防御と言うことになるのだが、マスクにはたいした効果はないと言われたりもしている。ほんとうに防ごうと思ったら、ガスマスクでなければいけないし、ウィルスは目からも入るからゴーグルをつけることも必要になる。

・その意味で、マスクは感染の予防と言うよりは、何より、気をつけて迷惑がかからないようにしていますという社会的なメッセージを伝える役割をしているように思われる。何も問題がない状況なら、日本人は見知らぬ他人を無視して平気でいられるが、緊急時にはその関係が途端に「世間」のそれになって、互いに必要以上に気をつかいあわなければならなくなる。そう思うと、マスクの着用は合点がいくし、政府やマスコミの対応も理解しやすくなる。
・急激な都市化によって近隣関係が壊れ、再生できないままにある日本の社会では、マスメディアがその代用品として機能している。だから、「世間」というあるのかないのかわからない社会の枠組みが、メディアを通して繰りかえし再確認されるのだが、それが何によらず強く出る傾向にあるようだ。人混みを避け、テレビを見ないようにする。そんな生活に居心地の良さを一層実感する自分がいる。

2009年5月18日月曜日

ディランとラジオ


dylan11.jpg・アマゾンから「Bob Dylan Radio Radio」という名の新譜の案内が入って、てっきり新しいアルバムだと思って買ってしまった。4枚組みだから、また海賊盤シリーズかと思ったのだが、聴いてみるとディランの歌はなく、50年代のポピュラー・ソングやブルースばかりだった。サブタイトルにある"Theme time hour"をネットで検索すると、これがディランがDJをした衛星ラジオの番組で選んだ曲を集めたものであることがわかった。
・ディランが現在のポピュラー音楽の原点に目を向けているのは、最近のアルバムからもよくわかっていた。しかし、このラジオ番組を聴くと、その熱意のほどが一層伝わってくる。曲目の全てはディラン個人のコレクションだというが、一度も聴いたことがなかった曲が少なくない。もっとも、ディランが伝えたいのは、そんな古い曲を聴き直すことではなく、ラジオというメディアがポピュラー音楽の発達に果たした役割だ。

・アメリカのラジオ放送局は、テレビの登場と共に、3大ネットワークから安価に売却されて、50年代には、小さなエリアをカバーするローカル局が独自の放送をするようになった。ナイトクラブやレコード・ショップなどを営むオーナーが、その宣伝手段に使ったから、局によって、地域によって、さまざまな音楽が発信されることになった。それが夜中であればかなり遠くまで届き、多くの若者たちが周波数をあわせて、お気に入りの局を見つけ、音楽を楽しむことになった。当然、それまでは肌の違いによって分離されていた音楽の垣根も取りはらわれたのである。黒人のブルースやR&Bから白人のロックンロールへという流れに果たしたラジオの役割の大きさは、すでに歴史的な事実として理解されていることだ。

dylan10.jpg・ディランがこの時期の音楽にこだわるのは、音楽があまりにも大きなビジネスとして生産され、有名性やお金にばかり左右されて、ろくな音楽が出てこない、最近の状況を危惧し、批判するからだ。その思いは、彼がここ数年発表する新しいアルバムにもこめられている。最新の"Together Through Life"でも、サウンドは50年代というよりもっと昔を感じさせるし、ことばも象徴的で抽象的な難しさは消えて、素直な気持ちのラブソングといった内容になっている。そんな地味なアルバムが、アメリカはもちろん、イギリスのほか、ベルギー、オランダ、フィンランド、スウェーデンなどで1位になったそうだ。

・このアルバムには、ラジオ番組そのものを記録したCDと、やはりラジオ番組に関連したDVDが付録されている。だからアルバムにたいする評価がそれらをあわせたものであることは間違いない。ディランの訴える、最近の危機的な音楽状況に共感する声だといってもいいのかもしれないと思う。もうひとつ、ディランについて驚くことがある。それは彼が世界中を回るコンサート・ツアに多くの時間とエネルギーを費やしていることだ。彼の公式サイトを見ると、今年のコンサート・ツアは3月から5月の初めまでヨーロッパ(スカンジナビアからドイツ、フランス、スイス、イタリアなどをめぐり、イギリス、そして最後はアイルランド)をまわり、7月からはアメリカ国内を1ヶ月半回る予定だということだ。その会場は決して大きなところばかりではない。
・ラジオと共に広まったブルースやフォーク、そこから生まれた新しいロックなどの音楽の力とその意味、そしてなによりそのすばらしさを、アルバムに表現し、ライブで歌い、語り、説いて回る。70歳になろうかという老人が自覚する使命感や発散するエネルギーに感服するばかりである。

2009年5月11日月曜日

ニート、クール、クリエイティブ

 

リチャード・フロリダ『クリエイティブ資本論』(ダイヤモンド社)

・翻訳したクリス・ロジェクの『カルチュラルスタディーズを学ぶ人のために』(世界思想社)のなかに、「ニート資本主義」をテーマにした章が二つある。「ニート」というと日本では、働く気のない若者に対する呼称を思い浮かべられてしまう。しかし、そのneetではなく、もともと英語にある、きちんとしたとか洒落たといった意味のneatで、従来の資本主義とは違う新しい流れを指摘したものだ。本の中では、その例として、イギリスの「ヴァージン」、「ボディショップ」、アメリカの「アップル」そして出版社の「ルートレッジ」などをあげている。
・その源流は60年代の「対抗文化」にあって、「ヴァージン」のリチャード・ブランソンはロンドンで始めたレコード店を出発点にして、飛行機や鉄道などに拡大させているし、「アップル」のスティーブ・ジョブスはパソコンのマッキントッシュから 最近のiPodやIPhoneなどでデジタル文化をリードしてきた。60年代の「対抗文化」はその名の通り、既成の政治や経済のシステム、そして既存の文化に対して「ノー」を突きつけたムーブメントだったが、そこから生まれた新しい文化が80年代から90年代にかけてビジネスとして台頭し、現代では大きな産業に成長した。「ニート資本主義」はその潮流を指して名づけたものだ。

florida.jpg ・この流れには、「クール資本主義」「ニューエコノミー」など、他にも幾つもの名前があって、「クリエイティブ階級」というのもその一つだ。リチャード・フロリダの『クリエイティブ資本論』(ダイヤモンド社,2008年)は2002年に書かれていて、「新しいアイデアや技術、コンテンツの創造によって、経済の成長を担う知識労働者層」の増大がひとつの階級を形成し始めていることを指摘したものだ。パソコンが普及し、インターネットが世界をつなぐようになった90年代から00年代を考えれば、このような傾向を理解するのは難しくない。けれども、そこで見逃せないのは、クリエイティブ階級を形成する人たちに共通した好みや傾向があることだ。
・フロリダは第一に、仕事と生活、あるいは遊び(余暇)を区別しない点に注目する。常識的には、糧を稼ぐ仕事は楽しいものであるとはかぎらない。だから、稼いだお金を生活や遊びの中で使ってリフレッシュする。けれども、この新しいクラスの人たちは、何より楽しいこと、夢中になれることを仕事にしようとするのだという。あるいは、形式や礼儀、組織的忠誠心などに対する拒絶感もある。だから、衣服は職場でも家でも一緒だし、仕事につまれば、職場の近くを散歩したりジョギングしたりもする。社内で出世するという上昇志向は稀薄で、むしろより興味深く働ける先をもとめて水平的に転職をする。と同時に、生活する場所自体に対するこだわりもある。そこはまた、自分の創造力を刺激する場所でなければならないからである。実際、アメリカの都市の盛衰は、このクリエイティブ・クラスの人たちを引きつけるために、企業を誘致し、文化的な活気に溢れた街づくりをすることにかかっているというのである。この本によれば、その魅力的な街は、ニューヨークやサンフランシスコ以上にワシントンDC、シアトル、そしてテキサスのオースチンのようだ。

・フロリダが強調するように、生き方としては悪くないと思う。けれども、ここには大きな落とし穴がある。楽しければ報酬にはあまりこだわらないし、就業時間も気にしない。そして安定や出世にも無頓着になる。これは雇う者には好都合の発想で、仕事環境を整えて居心地良く働ける場にすれば、そこは「人に優しい搾取工場」になる。有能な人材を留めておくにはかなりの努力がいるが、用がなくなれば、役立たずだと判断すれば、簡単に首を切ることもできる。多様な働き方、多様な生き方を可能にする一方で、できる・できないの差が明確になり貧富の格差が拡大する。現在の大不況の中で、フロリダの言うクリエイティブ・クラスの人たちの仕事や生活の状況は、いったいどうなっているのだろうかと考えてしまう。

・もうひとつ、「対抗文化」は確かに、つまらない仕事とそこで得た収入で生活や遊びを消費するシステムを批判して、仕事と生活、そして遊びの融合を唱えたが、同時に、人びとが生きる上で味わう格差や差別にも強い批判の声を上げた。クリエイティブな生き方を誰もができるようになることの基盤には、そのクリエイティブ資本を搾取する・されるという関係に対する自覚と抑制が欠かせない。フロリダにはそういった視点がほとんどない。ニート、クール、クリエイティブといったことばをもう一回見つめなおしてみたくなった。

2009年5月4日月曜日

連休はどこにも行かずに

・今年の連休は、長くとれば16日間にもなったところがあるようだ。仕事が暇になったせいかなと思うが、どうだろうか。海外旅行も2週間ならゆっくりできるし、飛行機代ももったいなくない気がする。燃料も安くなって余分なお金を取られなくてすむようになった。他に長い休みがとれない人には、またとないチャンスだったはずだ。ところが、突然の「豚インフルエンザ」騒ぎである。

・新種のインフルエンザは、警戒してきた鳥ではなく豚で、アジアではなくメキシコだった。だからあまり気にしていなかったのだが、あっという間に大きな騒ぎになった。成田空港では、国内にウィルスを入れないために警戒を厳しくしたから、せっかくの旅行に不安がつきまとったり、長時間待たされて検査を受けたりさせられている。旅行をあきらめた人も多いのだろうと思う。移動が手軽に頻繁になった時代には、病気もあっという間に世界中に広がる。そんなことを目の当たりにした。

・国内では高速料金が1000円になって、どこも渋滞で大変だったようだ。安くなったからといって、何百キロも車を走らせてどこがおもしろいんだろうと思うし、ガソリン代はかかるのだが、テレビのニュースでは、儲けたと言う人のコメントを何度も見た。行きたいところに行くのではなく、できるだけ遠くに行く。そんなドライブの楽しみ方があってもいいとは思うが、渋滞や混雑を我慢してまですることではないだろう。いったい何が儲かったのかと首をひねったのは僕だけなのだろうか。
・旅行会社は定額給付金で旅行できる旅を知恵を絞って企画して、連休前の新聞には、その広告が連日何頁も載っていた。確かに安いし、国からもらったお金だから、首相が言うようにぱっと使うのもいいのかもしれない。けれども、そのお金は結局、国の借金になって国民に跳ね返ってくる。拒否してやろうかと思ったが、つけは後からしっかり回ってくる。そう思うといまいましい金だが、いったいいつ給付されるのだろうか。

・大学で教えていると毎年思うのだが、ゴールデン・ウィークは少しもうれしくない。4月に新学期が始まって、やっと調子が出たところで小休止になるから、かえって邪魔くさい。もう1ヶ月後なら、ちょうどくたびれたところでホッとするのに、といつも文句を言ってしまう。
・文部科学省の指導で大学の授業は半期15回、通年なら30回やらなければならなくなった。以前から15週や30週だったのだが、祭日があれば当然授業回数も減ったし、試験期間も1回や2回として数えられたから、実際には12回程度が普通だった。それが、きっちり15とか30回やるように学事歴を組まなければならなくなったのである。

・大学は授業を受ける以上に、自分で勉強するところだ、と僕はずっと思ってきたし、今でもそう思っている。ところが学生たちは、授業にさえ出ていれば勉強していると考えるようになっている。それは錯覚で、自分でやらなければ何も身につかないよ、と学生には繰りかえすのだが、文科省の発想は学生と一緒で、学生の態度をますます受け身にするだけなのである。
・だから夏休みがえらく短くなった。入試の多様化で授業のない2月や3月もずるずると仕事が入るから、まとまった仕事もできないし、長期の旅行もできなくなってしまった。そうやってだらだら働かせる一方で、研究成果を要求したって、いいものができるわけはない。そんなわけで、連休中はたまった仕事の片づけで、あっという間に過ぎてしまった。

・忌野清志郎が死んだ。高田渡に続いて、骨のある数少ない日本人のミュージシャンがまた一人、いなくなってしまった。もう日本人で聴きたいミュージシャンはほとんどいない。