2013年10月28日月曜日

Danny O'Keefe

"O'Keefe"

" Good Time Charlie's Got The Blues"

O'Keefe1.jpg・ダニー・オキーフの"O'Keefe" は1971年に発売された彼の2枚目のアルバムだ。その中に入っている’Good Time Charlie's Got The Blues’がプレスリーにカバーされてヒットして、一躍注目を集めた。町から人びとが次々出て行ってしまって置き去りにされた男の物語だ。


勝った奴もいれば、負けた奴もいる
いい時もあったチャーリーだって、憂鬱になるさ

・オキーフはジェームズ・テイラーやジャクソン・ブラウンといったフォーク・シンガーより少しだけ年上で、デビューも早かったが、それ以後のアルバムはほとんど注目されなかった。’Good Time Charlie”は道楽者とか落ちぶれた者といった意味の慣用句だから、たった一つのアルバム、その中のたった一曲だけヒットした「一発屋」の自分を予言したような歌だが、その後も音楽活動は続けていて、アルバムも出している。

O'Keefe2.jpg・その一つだけのヒット曲を題名にしたアルバムはオキーフが1970年から2000年の間に発表したアルバムから選んだベスト・アルバムである。ヒット曲名をタイトルにしたのはビジネス上の理由なのかもしれない。けれども、地味で気取らないいい曲ばかりが集められた傑作だと思う。2000年にリリースされた”Runnin' From the Devil”からはディランとの合作の'Well, Well, Well'が収められた。


水を盗んだ男は永遠に泳ぎ続けるだろう
だが、けっして黄金の岸辺の大地にはたどり着けない
ぼんやりした白い明かりが彼の心をとらえる
闇の中でたった一つの思い出をなくすまでは

・オキーフの歌は、たまたま読み始めたエリック・ホッファーと強く重なり合う部分がある。放浪と出会い、そして別れ。一攫千金とは無縁だが、アメリカ人の開拓者魂を持って、何かを探し続けている。アメリカは祖国を追われ、あるいは捨てた放浪者達が作った国。フォークやカントリーには、その魂がくり返し歌われている。そんな典型の’The Road'は’Good Time Charlie”同様、この2枚のアルバムに入っていて、ジャクソン・ブラウンもカバーしている歌だ。

遠くから電話がかかってきた
何してたかって
失ったものを忘れ
勝ち取ったものを誇張する
ここで足を止めたのは
ただたまたまのこと
道の途中の一つの町っていうだけ

・Youtubeでも彼の生の歌を聴くことができる。'Good Time Charlie's Got The Blues'''Well, Well, Well'、そして'The Road'。オキーフは21世紀にになってからもアルバムを出し続けている。最近はどんな歌を歌っているのか、聴きたくなった。

2013年10月21日月曜日

秋の山歩き

 

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9月になっても山歩きをする気にならなかったのは暑さのせいだった。ところが、涼しくなってもあまり行く気にならない。やはり、こういうことは続けていないと、億劫になってしまうものである。で10月になって前から行こうと思っていた宝永山に登ることにした。快晴の朝で富士山もくっきりとよく見えた。さぞかしいい眺めになるだろうと思ったのだが、富士宮口の五合目に着くと、霧が立ちこめ始めて、宝永火口まで歩いた頃には、濃い霧で何も見えなくなった。宝永山に登る時には風も強くなったから、頂上まで行ってすぐに引き返した。本当なら、上の画像のようなところだったのだが、何も見えなかった。
とは言え、一度歩けば弾みはつく。パートナーの誕生祝いに昨年は木曽御嶽山に登った。スイスのアルプスを歩いた勢いで、3000m級の山に挑戦したのだが、今年はもっと楽な所ということで池ノ平湿原にした。2000mほどの所だが山は白く薄化粧をしている。台風が過ぎて急に冷え込んだせいだろう。台風の影響で池ノ平に行く林道は車はもちろん、歩くのもだめだということで、篭の登山(かごのとやま)に登ることにした。



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篭の登山には他に東と西がついた三つのピークがある。歩いたのは2000m弱の高峰温泉から東篭の登山までで登ったのは300m弱だったが、木々は凍りついていて、岩場の多いルートも滑りやすくて慎重に歩かざるをえなかった。崩落箇所も多かったが、尾根づたいに歩くと、東には浅間山、西にははるかに槍ヶ岳が望めたし、北には志賀高原も見えるなかなかの風景だった。南側に雲がかかっていなければ、八ヶ岳や富士山も見えたはずで、まさに360度のパノラマの風景を満喫できるコースだった。
 
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2013年10月14日月曜日

「大丈夫です」って何?

 ・「コーヒー飲む?」って聞いた時に「大丈夫です」という返事が返ってきて、ちょっとむっとして「飲むの、飲まないの?」と聞き返した。ほんの数ヶ月前のことだが、ところがその後、違う人から同じ返事を何度も聞いた。また変なことばがはやり始めたようだ。

・コーヒーについて、「大丈夫です」という返事が意味を持つのは「コーヒー飲める?」と聞かれた時だろう。ところが現実には、飲めないとか、いらないの意味で「大丈夫です」と言う。なぜ、そうなるのか、使う人には自覚があるのだろうかと疑ってしまう。だから、「大丈夫です」と答えてきたら、「それどういう意味?」としつこく問い詰めることにしている。

・もちろん、意味がわからないわけではない。はっきり言わずに、婉曲的に答える。それが相手に対する心遣いだという風潮は、言い方を変えて、もう何年も前から続いている。最初は「語尾上げ」で、断定を避けて判断を相手に委ねる言い方だったと思う。ジェンダー論的な言語学では、英語でも典型的な女ことばとされてきて、批判の矢面に立ってきたが、日本では女も男も「語尾上げ」なんて時期があった。

・次にはやったのは「〜じゃないですか?」「〜でありません?」といった付加疑問や、「とか」「みたいな」で、その後に「かなかな虫」が鳴き始めた。「かなかな」については2年半ほど前に、このコラムでも書いたことがある。付加疑問は断定を避けて相手に判断を委ねる、一種の社交的な言い回しだが、「とか」や「かな」は、相手の反応を意識してと言うよりは、自信のなさの表明に聞こえてしまう。

・他にもあると言うわけではないのに、最後に「とか」を入れる。はっきりしたことなのに、最後に「かな」と言う。こういう言い方がはやるのは、もちろん、自信のなさに共感してというのではないのだと思う。自信過剰な人、強引な奴、そして上から目線の輩(やから)などと思われたくない。そんな人間関係における用心深さが、こんな言い方を次々生んで、あっという間に世間に広まる原因であることは容易に察しがつく。

・ただし[大丈夫です」はいただけない。そこまで意味を曖昧にしたのでは、ことばのやりとりが意味をなさなくなってしまう。「コーヒー飲む?」の返事になっていないのに、[大丈夫です」と言って、何もおかしいと思わない。その感覚に対する違和感は、語尾上げや「とか」や「かな」に感じたものとはちょっと異質な感じがしたからだ。

・「大丈夫」とは語源的には「立派な男」のことを言う。そこから「しっかりした」、そして「間違いない」という意味に転じてきた。そのことばになぜ「ノー、サンキュウ」に似た丁寧な断りの意味が出てくるのだろうか。ことばは変化するものだから、「日本語は大丈夫なの?」と言うつもりはないが、曖昧さもここまでくると、人間不信きわまれりと言いたくなってしまう。もっと素直に、正直に、ことばを使ってつきあいたいものである。

2013年10月5日土曜日

エリック・ホッファーについて


『波止場日記』
『エリック・ホッファー自伝』
『魂の錬金術』
『人間とは何か』

hoffer1.jpg・働くことと暇な時間を過ごすこと。その関係についてずっと考え、何冊もの本を読んでいて、エリック・ホッファーがたびたび登場することに気がついた。で、名前は知っていたけれど、今まで読んでなかったホッファーの本を読むことにした。

・エリック・ホッファーはまったく学校に行っていない。7歳で失明し、15歳で奇跡的に回復した。18歳の時に父親が他界した後、放浪と日雇いの仕事を続け、40歳を過ぎたころから65歳までサンフランシスコで沖仲仕の仕事をした。その間、暇な時間は読書と思索という暮らしをずっと続けた人である。

・『波止場日記』は1958年6月から59年5月までの日記をまとめたものである。次々やってくる外国の船の荷揚げ作業のこと、一緒に仕事をしている仲間のこと、つきあっていて子どももいるが結婚しないリリーのこと、そして時事的な問題に対してや読んでいる本について、さらには考えていることと著作作業について等々、といったことが綴られている。

hoffer2.jpg・ホッファーの最初の著作『大衆運動』(紀伊國屋書店)は1951年に出版されている。1902年生まれだから49歳の時である。沖仲仕をしながら思索をしながら文章を書く。そんな存在に興味を持った雑誌の編集者との出会いがきっかけだった。学校に行かず、放浪と日雇いの仕事を生活のスタイルにしたホッファーにとって、「大衆」とは、彼自身が出会ってきたさまざまな人びとのことである。そして、移民によってできたアメリカという国はまさに「大衆」が作った国だった。『エリック・ホッファー自伝』には放浪と日雇い仕事の生活の中での人びととの出会いが語られている。

・「ホッファー自伝』と『波止場日記』を貫いているのは、何より汗して「働くこと」の重要さだ。それがあって初めて、暇な時間を有意義に過ごすことができる。彼にとってはもちろん、読書と思索だった。だから、肉体労働とは無縁で、ただ頭だけで何事も理解する知識人に対しては、彼は一貫して辛辣な批判を投げかける。

hoffer3.jpg・それは人との関係についても言えることである。放浪と日雇い生活の中での出会いは、気取りのない素顔の人間同士のぶつかり合いになりがちだ。それが時には生き死にに関わることも少なくない。そんな出会いと別れの中で彼が示す「思いやり」は、知識人には持ち得ないものだと言う。

・移民の国アメリカが世界の大国になったのは20世紀のことで、1902年生まれのホッファーは、まさにアメリカの成長と変貌と共に生きてきたと言える。第二次大戦後のアメリカは、まさに豊かな国を実現させた。その豊かな生活の中で成長した若者達が起こした60年代の反乱に対してもまた、ホッファーは手厳しい。働くことを軽視するその態度に対しては次のようなことばをぶつけている。

若者の革命は体勢に向けられているのではなく、努力、成長、そしてとりわけ見習いという慣習に向けられている。彼らは学びもせずに教えたがり、働きもしないのに引退したがり、成熟もしないのに腐敗したがる。彼らは努力しないことが自由であり、刹那的充足が努力だと考えている。(『人間とは何か』113p.)

hoffer4.jpg・ところがホッファーはこの時代の若者に支持されるという一面も持った。それは彼の思想の中に、働くこと以上に遊ぶことの楽しさや重要さに注目する視点があり、自分や他者に対する愛の大切さを説く発言が多かったからだ。そして何より、当時の若者にとって、放浪と日雇いという生活スタイルを貫いた人生が魅力的だったことはいうまでもない。

・ホッファーは「実用的な道具はすべて非実用的な関心の追求や暇つぶしにその起源がある」と言っている。60年代の甘やかされた若者達が、仕事を拒否して遊びに惚けたなかで生みだしてきたものには、音楽、ファッション、そしてパソコン等々いろいろある。それらが70年代以降から現代にいたる文化産業の興隆はもとより経済や政治のシステムまでも変えてしまったことは言うまでもない。今の仕事の多くを支配しているのは、その遊びの中で生まれたものである。働くことと遊ぶことの関係の難しさとおもしろさ。ホッファーの本を読んで感じるのは、何よりその関係である。