2004年5月25日火曜日

Lou Reed"Animal Serenade",Patti Smith"trampin'"

 

・ ルー・リードの"Animal Serenade"は久しぶりのライブ盤だ。2003年6月で、場所はロサンジェルス。しかし、歌われている曲はほとんどニューヨークに関連している。静かに、じっくりと歌われていて、明るく陽気なロスの聴衆には受けない気がするが、リードと客とのやりとりもおもしろくて、彼の充実した気持ちが伝わってくる。2枚組みでたっぷり2時間のライブ盤だが、僕はくりかえし何度も聴いている。

・アンディ・ウォホルのことを歌った"Small Town"から始まって、ヴェルヴェット・アンダーグラウンド時代の曲、ビートニクの詩人ウィリアム・バロウズにまつわる歌、ニューヨークの風景や人の様子を描いたもの、そしてエドガー・アラン・ポーをテーマにした 前作の"The Raven"。まるで、自分の足取りや心の軌跡を辿るように構成されたステージで、彼のアルバムを全部聴きなおしてみたい気になってしまった。

・"Small Town"はアンディ・ウォホルの故郷であるピッツバーグを歌っている。ピカソともミケランジェロとも無関係な町。そんな町とそこに住む自分から逃れたくても逃れられなくて神経衰弱になってしまったウォホルの歌だが、リードは歌いながら客席に「ここはスモール・タウンか?」とくりかえし聞いている。聴衆の反応は圧倒的に「ノー」。何しろロサンジェルスなのだからあたりまえだが、その後で、彼は「この町を離れなきゃって思うだろう」とくりかえし、「離れろ!」とくりかえす。続けて歌った曲と合わせて、若い聴衆に対して皮肉な目と叱咤激励したい気がないまぜになっているようで、笑ってしまった。
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金持ちの息子は父親が死ぬことを待ち望んでいる
貧しい奴はただ飲んで泣くだけ
で、おれはというとまったく無関心
運のいい男は得てして何もしないが
恵まれないヤツがしばしば、何事かをし始めるものだ
"Men of Good Fortune"

・ニューヨークの風景や人模様を歌う曲を聞いていると、知らない場所や知らない人なのに、その景色や有様がまるで一枚の絵を見るように浮かんでくる。豊かさと貧しさ、虚飾とゴミ、若さと老い、喧噪と沈黙………。特に"Dirty BLVD"はいい。あるいは、そこにリード自身が登場する歌。

夜のハドソン川の畔に立っている
向こう岸に見えるのはジャージー
ネオンライトがコーラの名前を綴っている
タイムズスクエアのどんな広告塔よりも大きく
君の名前が光り輝いて踊ってもいいはずじゃないか
(Tell It to Your Heart")

・ 歌う詩人といえばもう一人。パティ・スミスの"trampin'"は久しぶりに出たニュー・アルバムだ。前作の"LAND"はベスト・アルバムで、デビュー以来の総括といった内容だったから、今度のアルバムは2000年に出た"Gan Ho"以来ということになる。静かな歌と激しい歌、自分を見つめる詩と政治に向けたメッセージが混在していて、パティの世界は健在だ。
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太陽に向かって散歩をしても、けっしてたどりつけない
円を描くような夢を追いかけても、けっしてつかまえられない
左に左に左に踏み出し、右に右に右に踏み出す
心の心の一歩のために、手がかりを探し続ける
(Stride of the Mind)

チグリスとユーフラテス川の土手
メソポタミアには深い無関心が漂っている
足下の大地に穴をあけて地球の血を絞り出す
小さな宝石のブレスレットのために石油を一滴
涙を流しながらルビーを差し出す
まさにアラビアの悪夢 (Radio Baghdad)

2004年5月18日火曜日

風景が緑に変わった

 

・去年と違って今年は春が早かったが、5月になると、まるで夏のような陽気になった。だから森の植物の活動は早く、勢いも去年とはまったく違っている。近くを散歩して見つけるのは、もうおなじみの花や木ばかりだが、去年の印象が薄かっただけに、今年はまたあらためて新鮮に感じられる。


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 ↑左から、富士紅空木(うつぎ)、山ツツジ、サルスベリ
 ↓上段左から、藤、都忘れ、すずらん、下段左たらの芽、右タンポポ


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・この時期にはまた、薪にする木を探さなければならないのだが、3月に西湖の湖岸で見つけた後、連休前に河口湖でも見つけた。西湖は道路工事、河口湖は造成による伐採だ。これで、次の冬の分は確保できた。
・連休後に、二カ所から家の木を切ったので持って帰ってくれないかという連絡がはいった。二件とも東京の三多摩で、大学の帰りに車に積んで運んだ。東京から木を運ぶのはおかしなものだが、どちらも落ち葉が近所迷惑になるからという理由だった。落ち葉や虫を嫌ったのでは、東京からはますます緑がなくなってしまう。ガーデニング・ブームで気に入った木を植える家が増えているとはいえ、狭い庭では大木になったら手入れもままならなくなってしまう。引き受けた木は、それなりに存在感があったのかもしれないが、わが家に運んで材木置き場に積んだら、ほんのわずか。燃やしたら一週間がやっとといった程度のものだった。


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himenezumi1.jpeg・屋根裏のムササビは健在だが、別荘の住人が犬や猫を連れてくると、落ち着かなくなる。夜な夜な台所にやってくるヒメネズミは最近見かけない。森の食べ物が豊富になったのかもしれない。もっとも、昼日中に庭で見かけた。日なたのせいか灰色が濃い。目がカワイイのだが、残念ながら後ろ姿だけ。

・暖かくなって、日中は外に出てベランダで過ごしはじめた。野鳥の鳴き声がにぎやかなのだが、シャッター・チャンスをつかまえるのは難しい。

2004年5月11日火曜日

月尾嘉男がカヤックでホーン岬に行った


月尾嘉男はテレビにも良く出るコンピュータ研究家だが、NHKのハイビジョンで、カヤックを使ってホーン岬に挑戦した記録を見た。ホーン岬は南米の最南端にあって、海の難所として知られている。陸路でいけるところまで行って、あとはカヤックというわけだが、その距離は尋常ではない。島から島、海峡から海峡へというルートだから潮の流れも早いし、天候が急変する。


彼は東大を定年前にやめて、独自の活動をしている。その一つにカヌーやカヤックを使って、日本の河川や海岸の環境破壊や汚染の状況を観察するという試みがある。今回の冒険はいわばその延長にあるわけだが、とても一人で冒険できるようなコースではない。番組ではプロのカヌーイストが3人つき、ドキュメントを制作するスタッフが乗る船が伴走した。一ヶ月以上の時間、何人ものスタッフ、それ相当の資材や食糧。カヤックでホーン岬にたどりつく行程はもちろんおもしろかったが、見ていて感じたのは、一人の冒険とそれを記録することに費やされる時間や労力や費用の大きさの方だった。


これはたぶん、意地悪な見方だと思う。60歳を過ぎた人が冒険に挑戦する。それがコンピュータや環境問題を研究する学者であれば、興味深い試みであることは間違いない。何しろ彼は、日頃から日本の海岸や河川をカヤックを使って観察しているのだから。コンピュータ化と自然破壊、人口の増加と食糧危機、豊かさや便利さの追求と地球の破滅。月尾嘉男は今、そのことについて最も精力的に活動し発言する人でもある。


しかし、僕が意地悪な見方をしてしまった理由もたぶん、そこにあったのだと思う。彼が『縮小文明の展望』(東京大学出版会)で提唱するのは「生活水準の向上→経済活動の拡大→資源消費の増大→環境問題の拡大」という現在の図式を「生活水準の向上→経済活動の拡大→資源消費の減少→環境問題の緩和」という図式に変えることである。ここには具体的には、コンピュータなどの最新技術はどのようにしたら、資源の浪費ではなく、節約に使えるのか、食べずに捨てられる食糧を減らすためにすべきことは何か、また、エネルギーの効率の悪い使われ方はどのようにしたら是正できるか、といった無数の課題がある。


さまざまなデータを駆使して彼が描きだす現代文明の異常さには説得力がある。地球の誕生から現在までを1年間(地球時計)に換算すると、最初の人類が登場するのは大晦日の12月31日で、現在の人間の直系の祖先が現れるのは23時58分頃になるそうである。その1年間の最後の2分間に起きたこと自体が地球にとっては異常なことだが、産業革命以後に人類がしてきたことはさらに異常で、地球時計ではわずか数秒の

時間だという。人口の爆発、資源の枯渇、環境の破壊、多くの動植物種の死滅………。
もちろん、その数秒間で、人間はかつてないほどの豊かさや便利さを手にし、知識や芸術や娯楽を享受してきた。しかし、その破綻が目の前にやってきていることは明らかで、大きな転換をはからなければ、地球に未来はない。このような指摘なのだが、いったいどうしたら、そのような危機は回避できるのか。それは数値的に見れば、途方もないものである。たとえば温暖化を食い止めるために炭酸ガスの総排出量を減らすためには、一人当たりの量を1900年頃の水準に戻す必要があるという。


生活水準を変えず、しかも経済活動を拡大させながら、エネルギーの消費や環境の破壊を100年前の数値に低下させる。こんなことは絶対不可能なことだと思う。月尾嘉男が鳴らす警鐘はきわめて深刻なものだが、それに対する対応策はまた、何とも些細な例の連続で、また抽象的でありすぎたり、技術の進歩に頼りすぎていたりもする。


大がかりな冒険をテレビ番組の制作として行う。それがオールで漕ぐ一人乗りのカヤックでというのは、何ともエネルギーの無駄づかいではないのか。マゼラン海峡の雄大さや厳しさを映し出し、波や潮の流れと格闘するさまを見ていて、僕はそんなことばかりを考えてしまったのだが、それはまた『縮小文明の展望』を読みながら感じたちぐはぐさと同じものでもある。

2004年5月4日火曜日

布施克彦『24時間戦いました』ちくま新書

 

・日本は世界のなかでもとびきり豊かな国で、平均寿命もダントツだ。しかし、老後の生活の見通しはというと、はなはだ心許ない。定年まで働けるのか、年金はもらえるのか。とりわけ不安に感じるのは、その数が多い団塊の世代だろう。
・日本が経済的に頂点に達したのは八十年代で、団塊の世代はその屋台骨を支える役割を果たしてきた。ところがバブル期後の不況の時代になると、真っ先にリストラの対象になり、定年が間近に迫った今、年金問題に遭遇している。戦後の食糧難の時代に生まれ、受験戦争と大学紛争をくぐり抜けた世代はまた、その老後の生活においても生存競争を強いられるのだろうか。
・本書は、団塊の世代に属する著者が提案する退職後の人生設計である。著者は鉄鋼貿易を担当する商社マンとしてアジア、アフリカ、そしてヨーロッパで働き続けてきた。で、五十代半ばに退職。現在はNPOのスタッフとして活動し、文筆や大学での講師として働いている。
・団塊の世代は戦後の象徴的な存在として、これまでにもさまざまに取りざたされてきた。話題には事欠かない世代だが、その分、批判されることも多い。自己主張が強い、過度の思い入れや感情移入、数にものをいわせて存在を誇示しすぎる、自分の生き様の自慢話………。だから、上の世代からは厄介者扱いされ、下からは煙たがられてきた。
・この本は、そんな団塊の世代の特徴を良くも悪くも丸出しにしている。24時間働きづめの人生であったことを感慨深くふりかえり、にもかかわらず将来の生活が不安であることを嘆く。危機意識をつのらせているが、その批判の矛先は上の世代の失政に向き、下の世代のやる気のなさや遊び指向に向く。
・著者が力説するのは、ただ一点。どうせ頼りにならないのだから、あてにするな、である。定年が迫っている今から、老後の人生設計を真剣に考えること。必要なのはお金、時間の使い道、そして人間関係。生活苦に喘いだり、生きる目的をなくしたり、引き籠もってしまわないためにはどうするか。著者の結論はやっぱり、そのためには戦いしかないというものだ。
・確かにそういう面はあるのだと思う。年金はあてにならないし、子どもに負担もかけられない。企業戦士が鎧(背広)を脱いだら、いったい何が残るのか。定年退職の時期が迫っているだけに、問題は切実だろう。この本で提案されていることは、いかにも団塊の世代が言いそうな夢にあふれているけれども、それだけに、実現は難しい。いわく、田舎に行って農業をやろう、海外に出てボランティア活動をしようなどである。
・24時間働きづめだった人に見えなかった世界は、何より自分の足もとだったはずである。家庭生活を奥さんや子どもたちとどれだけシェアできたのか。自分の姿が彼女や彼たちにはどう映っていたのか。残念ながらこの本には、そんな話題はまったく出てこない。だからこそ、団塊の世代の将来は大変なのだと思うのだが………。

(この書評は『賃金実務』4月号に掲載したものです)