2002年12月31日火曜日

目次 2002年

12月

30日:目次

23日:レコードコレクターからのメール

16日:山梨放送「1億人の富士山」

9日:ベストというアルバム

2日:HP開設6周年!

11月

25日:THINK EARTH PROJECT『百年の愚行』

18日:K's工房の作品

11日:薪集め

4日:研究室とネット環境の変化

10月

28日:「アメイジング・グレイス」はどこから来たのか?

21日:「トリビュート」という名のアルバム

14日:煙草の吸える場所

7日:村上春樹『海辺のカフカ』

9月

30日:栗と茸とコスモス

23日:やっぱり野茂が一番!

16日:夏休みに読んだ本、読み残した本

9日:夏休み回顧

2日: Bruce Springsteen "The Rising

8月

26日:携帯の怪

19日:東北小旅行と高速道路

12日:BSデジタル放送の不満と満足

5日:デビット・ゾペティの作品

7月

29日:暑中見舞い

22日:Patti Smith "Land(1975-2002)"

15日:佐渡の荒海

8日:ラベンダーと紫陽花と蚕

1日: 携帯その後

6月

24日:「メディア・イベント」の極み

17日:ワールドカップについて

10日:つれづれ

3日:Tom Waitsの2枚

5月

27日:メールがあたりまえになって

20日:富士吉田のうどん

13日:「聞く」ことのむずかしさ

6日:連休中に見た映画

4月

29日:高原の花

22日:TVCMソング集、映画音楽集

15日:『文化社会学ヘの招待』の紹介

8日:春休みに読んだ本

1日:携帯メールをはじめた

3月

25日:毛無山からの富士

18日:「Isamu Noguchi」

11日:"O Brother" and "Grateful Dawg

2月

25日:亀山佳明『子どもと悪の人間学』

18日:通勤の風景(河口湖〜国分寺)

11日:二度目の冬

4日:今年の卒論

1月

28日:「はるかなる音楽の道」

21日:HPの感想から

14日:Travis"The Invisible Ban"

7日:原田達『鶴見俊輔と希望の社会学』

1日:新年のご挨拶

2002年12月23日月曜日

レコードコレクターからのメール

  外国からやってくるメールの大半はDMだ。金儲けの誘い、ヴァイアグラ、アダルト・サイト………。だから受け取ると同時に削除。最近少なくなったが留学生として受けいれてほしいという問い合わせもある。しかし、何を専門にしたいのか、研究テーマはなど、何も書いていないものがほとんどだから、これも無視。だいたい日本に留学希望なのに日本語で書いてこないのではとても受けいれることはできない。
次にときどき見かけるのが、レコードコレクターからのもの。このHPのディスコグラフィを探し当てて、そこに載っているお目当てのミュージシャンの日本盤を見つけた人たちだ。この種のメールはかなり前からあって、以前にもこのコラムで紹介したことがある。(シンガポールとフィンランドからのメール)で、最近でも相変わらず、ときどきある。たとえば、次のような文面。

(1)Hello, Im interested by your 56 Hope Roads album (Bob Marley). Do you want to trade it with me? (or eventually sell me a copy) I got lots of bootlegs, demos or rehearsals of Bob
rthanks

(2)I am from Austria/Europe and iォm strongley searching for the japanese Promo CD Mr D's Collection #3, from 1993.Think I saw this Bob Dylan Recording is included in your Record Collection,as listed on your Homepage.I will pay a very good price for a CDR-Copie, I also can offer you a couple of Bob Dylan Field Recording for Exchange (see the list). I have this information from Google Search-Results about Mr D's Collection,hope it is't a Problem for you.
(2)のメールにはご丁寧に自分のコレクション・リストが添付されていた。もちろん交換も売却もお断りだから、どちらも無視。特に"Mr D's Collection"は非売品で、貴重なものだからコピーもだめ。しかし、次のような内容にはたすけてやりたいという気になった。
In the early 60's I had a rock band called 'The Denvers'. We recorded an album in France for Polydor records called "Liverpool Party" (cat # 46-144).
Some time after the group broke up I was told by Polydor that the album had been reissued in Japan by Nippon Grammophone and had sold moderately well.
要するに自分のバンドが出したアルバムが日本から発売されたはずだから探してほしいというのだ。しかし残念ながらネット上で検索しても、それらしい情報は何もなかった。残念ながら期待に添えませんでした、という内容の返事を書いたが、その返事はない。
つい最近来たものはしつこかった。David McWilliamsというイギリスのフォーク・シンガーのアルバムをぼくは一枚持っている。買ったのは1968年だ。印象的だったが、その後の作品はあまりよくないという気がして忘れてしまっていた。このアルバムをオランダから見つけてやってきたのだ。例によって無視したら、2週間後に再度催促のメール。で、それも無視したらまた2週間後に3度目のメール。


実は今年David McWilliamsが死んで、大ファンであった彼は自分でDavidのHPをつくったのだが、そこに日本で発売されたアルバムについて載せたいのだという。アルバムに収録された曲名とジャケットのコピーがほしいからスキャナーでとって送ってほしいという。日本で発売されたその他のアルバムも調べてほしいし、ぼくが持っているアルバムもできたら買い取りたいという。かなり図々しいお願いだが、3度もきたから仕方なしに返答することにした。
レコードは売らないがジャケットはコピーしてあげて、一応ネット上でDavid McWilliamsの検索もした。あまり情報はなかったが、合わせて返送。そうしたら、数日後にHPに掲載したというメールがやってきた。

Thanks very, very much!!! Have a look a David's website. "button" LPs; dubble click on the 5th LP Golden! David McWilliams.
よかった、よかった。やれやれ………

2002年12月16日月曜日

山梨放送「1億人の富士山」

 富士山の麓に家を買って4年がすぎた。四季をそれぞれ何度か経験して、気候や人の気風にもなれてきた。いろいろ良いところや悪いところもわかってきて、自分の住んでいる場所、これからも住み続ける土地として馴染みも持ちはじめてきた気がする。ただ残念なのは、テレビの難視聴地域で地上波やUHFが見にくいから、地元のローカル放送が見られないことだ。ケーブルがあるのだが、BSで十分だと感じているから、ローカル放送のために加入する気にはならない。前ににも書いたように、インターネット・サービスがこの地区までくれば、考えようかと思っている。しかし、いつになるやら、という状況だ。


新聞のテレビ欄に載っている地元の放送局の番組でいくつか気になるものがあった。たとえば、富士山にまつわる番組。で、陶芸教室にきているKさんに頼んで録画して持ってきてもらうことにした。「1億人の富士山」。ローカル放送の番組だから地味だしお金もあまりかけていない。しかし面白い内容で、毎週録画してもらって楽しんでいる。
番組ではたとえば、山小屋でガイドのアルバイトをする東京の大学生にスポットを当てて、その仕事の内容を紹介した。ぼくは大学生の時に同じ仕事をした経験があるから、懐かしかった。山小屋のハッピを着て毎日5合目までお客さんを迎えに行き、8合目まで案内する。その他、食事や寝床、食糧や燃料の荷揚げと何でもやった覚えがあるが、今はもうちょっとスマートになっているようだ。山のガイドとして、それなりの技術や資格も必要なようだった。こういうところで働く学生を見ると、懐かしいし、頼もしい。


登山についてはその他、救急の医療施設があって、そこに医学部の学生やインターンが交替で常駐していることとその仕事ぶりを紹介したこともあった。見習いのお医者さんが、つぎつぎやってくる患者に対応する。たいがいは高山病や擦り傷、打撲程度なのだが、実習経験としては、かなり有効な場だと思った。しかし、富士山は日本一高い山なのに、登山をするという意識なしに登ってくる人が多いのには、あらためて驚いた。


頂上からパラグライダーで舞い上がる計画を立てて実行した若い女性の話もおもしろかった。富士山の頂上は気流が複雑で、それを見極めないと舞い上がることができずに落下したり、たたきつけられたりしてしまう。何日も試みてやっと飛び立って朝霧高原への飛行が成功。これはこの番組の今年のクライマックスといえるものだった。ぼくの家の近くでも、休みの日にはパラグライダーが舞っている。空からの眺めを体験したい気もあるが、ぼくは高所恐怖症だから、これだけは難しい。


富士山の気流についてはイギリスのBOAC機が空中で分解して山腹に落下した事故が有名である。それを取り上げたこともあって、番組では、その現場の現在の様子や当時の目撃者へのインタビュー、あるいは専門家による原因の説明などで、事故をふりかえっていた。
この番組の面白さは一方では歴史を掘りさげるところにある。たとえば山頂の測候所や富士山レーダーの建設について、また戦時中の測候所の活動や、戦後のアメリカの進駐軍の話、最初に富士山に登った外国人、あるいはシーボルトと富士山の関係などよく調べてつくっているものが多かった。


話題はほかに女性キャスターの米作りへの挑戦、本栖湖の湖底探索、富士吉田のうどんなどがあって、これは逆に身近な感じがして興味深かった。うどん屋を訪ねたのは立松和平。あの独特の語り口で、うどんの話。彼のほかにも結構有名なゲストが登場して、地方でもしっかり稼いでいることがよくわかった。


テレビの現状や将来は地方の放送局にとってはなかなか厳しい。地上波の全国放送がどこでも見られるし、BSやCSの衛星放送もある。多チャンネル化とデジタル化のなかで、その存在価値を示していくためにはよほどの努力が必要になるだろう。たくさんある番組のなかで、面白そうだと選択してもらうためにはどうしたらいいか。一つは「1億人の富士山」のように地元ならではの番組を作ることだと思う。できれば、富士山というテーマに関心をもつ人は山梨県にかぎらないはずだから、他県の放送局に売りこんでいく。小さな放送局には、守りではなく、攻めの姿勢、あるいは小さな放送局同士の相互の協力や競争が欠かせない気がする。

2002年12月9日月曜日

「ベスト」というアルバム

 

"Queen;Greatest Hits I, II"
"Talking Heads; Popular Favorites 1976-1992 Sand in the Vaseline"

・最近、ベストと名がつく、あるいはそれに類したアルバムがよく発売される気がする。もちろん、デビューして人気になって、何年かのうちに数枚のアルバムを出せば、コンサート盤を出して、それからベストをというのはありふれたパターンではある。しかし、それにしても目立つな、と思う。 
・何度もふれているが、音楽の状況は、その商品としての市場はもちろん、サウンドやリズム、あるいはファッションやメッセージにしても沈滞が続いている。日本では特に、若い世代が内向き志向になって久しいから、洋盤のCDの売り上げ不振は深刻なようだ。だから、有名なミュージシャンのベスト・アルバムが高額な宣伝費を投じて売り出される。U2、ポール・マッカートニー、エリック・クラプトン、あるいは今年死んだジョージ・ハリスンの遺作(息子による編集)、中にはMTVのアンプラグドのベストなどというものもある。ぼくは日本のミュージシャンには詳しくないが、坂本龍一が映画やTVのテーマ曲、あるいはCM等々をまとめた何枚ものCDを一挙に発表した。
・ポピュラー音楽は何よりビジネスだから、売上げを伸ばすために企業もミュージシャンも工夫を凝らす。これは当たり前の話だ。ぼくは既発表の作品を編集しなおして再発売というやり方には積極的に賛成しないが、時にはありがたいと思うこともある。
・たとえば、最近クイーンのベストアルバムを聴いた。ぼくは70年代のイギリスのロックは食わず嫌いであまり熱心に聴かなかった。とくにデビッド・ボーイなどのグラム系は化粧やチャラチャラしたコスチュームを見ただけで聴く気にもならないという感じだったが、クイーンもそのなかの一つだった。で20年以上たってあらためて、その代表作の大半を聴きなおすとこれがなかなかいい。今さらと笑われてしまうが、ぼくにとっては大発見だった。なかでもやっぱり「Bohemian Rhapsody」がいい。これはイギリス人が20世紀で一番好きな歌に選んだ一曲だそうだ。


queen.jpeg ママ、人を殺しちまった
ヤツの頭に銃をつきつけて
引き金を引いたら、死んじまった
ママ、ぼくの人生は始まったばかりなのに
もう駄目だ、放り出しちまったんだ
ママ、泣かせるつもりだったんじゃない
明日この時間に戻って来なくても
何もなかったように暮らしていって

・ぼくはCDを90年代になってから買い始めている。それ以前はもちろんLPだった。『アイデンティティの音楽』を書いたこともあって、そのLPの大半をCDで買い直した。今となってはさほど聴きたいと思わないのはベスト・アルバム一枚だけという場合もある。で、逆にレコードでは買わなかったけど、再認識というミュージシャンもやっぱり、まずはベストからということにしている。クイーンはそんな中の代表的なものだ。
・ぼくのところには音楽好きの学生が多く集まる。しかし、彼らの好きなミュージシャンは日本人だから、その名を聞いても、ぼくにはほとんどわからない。「日本人のラップなんてダメだ」と言えば、そうでないのもあると言ってCDを持ってくる。今はインディーズ系ががんばっているようで、それを得意になって説明してくれる学生もいる。あるいはもっと目立たないミュージシャンについても。学生が勧めるものを聴くと、なるほど悪くはない。テレビやラジオから流れてくるものばかりが最近の傾向ではないことはよくわかる。
・けれども、それはそれとして、ロック、あるいはポピュラー音楽には時間的にも空間的にも、もっとさまざまな音楽や歌がある。しかもそれはCDとしてたやすく手に入る環境にある。だからもっと時間をさかのぼって、あるいは日本から出て音楽の旅をしてほしいものだと思う。
・そういったときに、勧めるのはベスト・アルバム。有名なミュージシャンは何十枚もアルバムを出しているから、興味をもってもどれを選んだらいいかわからない。その時に確実で失敗がないのがベスト・アルバムだ。昔のロックというとビートルズ、といったステレオタイプではなくて、もうちょっと違ったところにも目を向けてほしい。
talkingheads.jpeg ・そんなお勧めは、それぞれの時代に新しい流れを作り出した人たち。特にCD以前に活躍したミュージシャンは、力を入れてCD化しているものが少なくない。たとえば、トーキング・ヘッズの"Popular Favorites 1976-1992 Sand in the Vaseline" は出色。パティ・スミスの"Land(1975-2002)"はすでに紹介済。ボブディランの"Live 1961-2000"も同様。レッド・ツェッペリンの"Remasters"、ジョン・ケールの"Seducing"………
・そうやって見ていくと、ロバート・ジョンソンとかライトニン・ホプキンスといった源流のブルースから現代まで、これといったミュージシャンでベストやコレクションのアルバムを出していない人はいないことに気づく。これは何ともいい時代だと思うけれども、だからこそ、いっぱいありすぎてわからないということになってしまうのかもしれない。
 

2002年12月2日月曜日

HP開設6周年!


・自前のHPを開設して6年がたった。そんなになるのかという気もするし、まだそんなもんかとも思う。いずれにしても、ずいぶんな量のHPになった。毎週1回の更新を、ほとんど休みなくつづけたから、レビューやコラムの数は300本を越え、貼りつけた画像は1200枚になろうとしている。アクセス・カウンターももうすぐ10万になる。まさに、塵も積もれば山である。もっともこの数字は、東経大に移籍した1999年4月からだから、3年8カ月でということになる。通算では13万超というところだ。


・HPを公開したのは1996年11月。最初のコラムはルー・リードのコンサート・レビュー(大阪フェスティバル・ホール)で、ブック・レビューは長田弘の『アメリカの心の歌』(岩波新書)からだった。ちょうど『アイデンティティの音楽』の構想を立てて、少しずつ書きはじめているところだったから、それ以降も音楽関係のコラムがかなり多い。


・勤務していた大阪の追手門学院大学では、1995年から学内でインターネットが使えるようになっていた。1年間、内外のホームページを探索しては、新しいメディアをおもちゃにしていたが、自前のメディアを作りたいという気持がじょじょに湧いてきた。で、法政大学の平野秀秋さんに刺激されてHTMLを勉強した。それが96年の夏休み。大学のサーバーには教員のページはまだ一つもなく、「情報センター」にも、HPについての規定ができていない時期だったから、催促して特例として試験的に公開、という形で11月に開店した。一人では気恥ずかしいから、同僚の原田達さんを誘い、ついでに社会学科のHPも作った。


・この6年のあいだにインターネットは大きく様変わりした。大学で教員だけが使っていたものが、今では職員も学生も使うようになって、さまざまなやりとりをメールで済ますようになった。回線が細いために画像は極力小さくということになっていたのだが、ブロードバンドの普及で大きな画像も動画も珍しくなくなった。ミニコミのような個人のメディアとして面白いと思っていたのだが、もうすでにビジネスの道具として認識されている。学生たちが卒論や修論のテーマにするのも珍しくない。携帯の普及とあわせると、この6年間のコミュニケーション手段の変化はものすごいものだったと思う。


・それで便利になったことはずいぶんある。新聞はもちろん、テレビよりも早くニュースを知ることができる。それも国内ばかりでなく世界中のサイトから入手できる。何を買うにも、わざわざ出向かなくてもよくなった。ぼくにとっては何より英語の本の購入だが、その気になれば何でも変えてしまう。このHPについて言えば、何といっても未知の人からの反応やそこから発展する関係だろう。


・もっともいいことばかりではない、HPの更新が日課になって、その分読書量が半減した。やってきたメールに返事を書く時間もかなりのものだ。もちろん、ネット・サーフィンが日常化して、用もないのにあちこちぶらぶらしたりするから、それにとられる時間もばかにできない。携帯ほどではないが、こんなもの別になくてもいいのではないか、と思うこともしばしばである。


・今、このHPには毎日100人ほどの人がやってくる。だから週1回の更新をさぼることは難しい。それが励みにもなっているが、また、重荷に感じるときもある。最近では書評欄で紹介してくださいといって出版社から本が送られてくるようになったが、ほとんど無視している。卒論の時期になると他大学の学生から「卒論が読みたい」というお願いが来るが、これもほとんどお断り。副収入が得られるバナー広告をなどという誘いももちろん無視。


・これは個人のページだから、書くテーマは自分で見つけたもの、探したもの、買ったもの、気づいたこと、したこと、考えたことに限定する。不親切だと言われるかもしれないが、そうでなければ持続は無理。最近そんな思いがますます強くなるばかり。しかし、こんなページでよかったらこれからもご贔屓によろしく。

2002年11月25日月曜日

THINK EARTH PROJECT『百年の愚行』(紀伊国屋書店)

  20世紀が人間の歴史の中で特別で異常な時代だったことはあきらかだ。20世紀の初めには15億程度だった人口が2000年には60億人になった。まさに人口爆発で、中国では子どもの数を制限する「一人っ子政策」が厳しく行われたが、それでも人口は13億人に達している。しかも、アジアやアフリカでは、この人口増加の勢いはいまだに衰える気配はない。
一方で20世紀は戦争の世紀ともいわれる。二つの世界大戦と無数の小さな戦争。20世紀に起こった戦争は、6000人以上の死者が出たものだけで165件、犠牲者の総計は1億8千万人ともいわれている。さらにスターリンの粛正やナチのホロコーストに象徴される虐殺の数々や、飢饉や戦争による餓死をあわせると、その数はさらに拡大する。そしてもちろん、戦争や飢餓による死者は、現在も地球上のあちこちで増え続けている。
この、人口急増と大量の死者に象徴されるように、20世紀はあらゆる意味で「マス」の時代だった。「マスメディア」「大衆社会」「大衆文化」、そして「大量生産」。都市が巨大化し、一カ所に数千万人もの人が集中した。そこで消費されるモノと大量にでるゴミ、もちろん生産や流通の過程ででる産業廃棄物や排気ガスも桁違いに増え、資源の消費量も極端に肥大化した。しかし、大量生産・大量消費の形態は21世紀になっても継続したままだ。
今中国は経済成長のただ中にあって、たとえば車の需要が急増している。13億人もいる国で人々が車を持つことが当たり前になったらエネルギーや公害はどうなるか。想像するだけで空恐ろしい気がするが、これから産業化しようとする人口の多い国は他にもたくさんある。ちなみに2000年度の自動車の生産台数は5562万台。この数字は1908年にT型フォードが作られてから30年間の累計生産量に匹敵する。このペースで行けば、1年間に1億台の生産といった数字ももうすぐのことだろう。
20世紀の後半から毎年1500万ha以上の熱帯林が減少した。絶滅しかかっている生物の急増、砂漠化、温暖化、オゾン層の破壊と、地球環境の変化はすさまじい。そのあいだに、電気の総発電量は1930年からの70年間に48倍に増え、化石燃料(石炭・石油・天然ガス)の消費は20世紀後半の50年間で4倍にふえた。
『百年の愚行』は写真によって記録された20世紀の足跡を集めたものである。上に書いたような状況がさまざまな写真によって具体的に示されている。「タンカーからの石油流出」「水俣湾に流れ込むチッソ工場の廃液」「酸性雨で枯れた森」「鉱山からでる廃棄物や廃液による汚染」「動物の密猟」「原子力発電所の事故」「原爆のキノコ雲」「投下される爆弾の雨」「破壊された町」「殺される捕虜」「地雷に足を吹き飛ばされたこども」「収容所に積まれた死体の山」「餓死する難民」………
もちろん、戦争も飢餓も、あるいは自然破壊も人間の歴史とともにずっとあったはずのことだ。そしてそれが映像として記録できたのも、また20世紀の特徴である。映画監督のアッバス・キアロスタミはそのことを「『映像』がこの百年の人間の愚かさと人類史全体の愚かさの違いを決定づけている」という。20世紀になって人間は、その愚かさはもちろん、あらゆることを映像として永遠に残るものに変換させるようになった。彼はまた、その映像が「自らの妄想を増幅させるもの」として人間を虜にしたという。写真、映画、テレビ、インターネット………。映像は記録するものであるだけでなく、それ以上に人間の夢や欲望、野心をかきたてるものでもある。
このまま行けば確実に、人間の世界は破綻する。そのことに不安を感じながら、また自覚しないようにしている。クロード・レヴィ=ストロースは「人権の再定義」を再構築する作業が必要だという。権利の行使にはその犠牲になるものがともなう。だから「権利」には「義務」が不可欠なのだが、20世紀は「権利」の行使とそれを巡る競争や戦いが繰りかえされてきた。人間が特権的に権利を行使できる存在ではないこと、権利にともなう義務を果たすこと。レヴィ=ストロースはそれを「人権の再定義」と呼んでいる。
確かにそうだろう。けれども、またわたしたちは、義務が、権利と違って自覚しにくく、行使しにくいものであることをよく知っている。ほっといても何とかなる、目をつぶって見なければ、忘れてしまえばいいと思うずる賢さをしたたかに身につけている。いったいどういうきっかけがあれば、すなおに義務に目を向けるようになるか。『百年の愚行』は一瞬だけでも、そのことに気づかずにはいられない時を作り出す本だと言えるかもしれない。

2002年11月18日月曜日

K's工房の作品

 


・家の北側に工房を作って2年になる。40歳をすぎて陶芸に目覚めたパートナーの仕事場だ。ここで、せっせと製作している。作品は各地の展示会に出かけて売る。この2年で、松本のクラフトフェアをはじめ、駒ヶ根や琵琶湖の長浜、あるいは新宿などに出かけてきた。photo26-6.jpeg


・河口湖周辺には陶芸家はもちろん、ガラスや石、紙や木といったさまざまな材料で作品を作る人たちがいる。そんな人たちが集まる催しも、河口湖や富士吉田にはいくつかある。作ったものは人に見てもらいたい。できれば買ってほしい。数は多くはないが、作品を介した人との出会いも生まれた。photo26-7.jpeg


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・そんな人たちの中から、いくつか東京のギャラリーとの繋がりもできて、作品を常備している店もできはじめた。彼女の世界はゆっくりとだが、広がりはじめている。バブルの時代はともかく、今はもの作りの人には状況は決してよくはない。イメージ作りをし、手間暇かけて製作する。しかし、できあがった作品には、それに見合う値段はなかなかつけられない。


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・工房には地元の人たちが陶芸を習いにやってくる。興味を感じて何人もの人が来たが、なかなか持続する人は少ない。今は富士吉田のKさんが一番熱心にやってきている。



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・対照的に、体験教室にやってくる人は増えている。東京や横浜付近からの人が大半で、多くはホームページで探し当ててくる。カップル、職場の同僚、あるいは学生(時代の)仲間、家族………。



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・そんな人たちが3時間ほどで作る作品は、個性的でなかなか面白い。パートナーも楽しそうにやっているが、その後の作品の管理(乾燥)や素焼き、釉薬掛け、本焼きには、相当の神経を使っている。せっかく作った作品を壊すわけにはいかないからだ。

2002年11月11日月曜日

薪集め

 

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forest20-1.jpeg・ 唐松の葉が落ちたら、木のてっぺんに大きなスズメバチの巣。この森にはかならず毎年、どこかに巣ができる。今年もストーブを焚く季節になった。外は寒いが中は暖かい。風が吹き出すエアコンと違って、薪の火は静かにじんわりと暖まる。一度味わったら、やめられない心地よさだ。だからこそ、薪は十分に用意しておかなければならない。

・というわけで、これから来春までに燃やす薪は、この春から夏にかけてせっせと割って家のまわりに積んできた。調達したのは去年の話である。で、今は次の冬のための木を探し歩いている。家のまわりの倒木はほとんどとりつくしたから、車で出かけたときには、きょろきょろしてめぼしいものを見つけなければならない。 ・毎週一回買い物に行くスーパーへの通り道に、この夏伐採した木の山を見つけた。何日も積んだままになっているし、持ち主はわからないから、子どもが来たときに、広葉樹だけいただくことにした。ワゴンの後部座席を倒して、10本ほどを積んだ。そうしたら息子に「これって盗木とちゃうか?」といわれてしまった。確かにそうかもしれない。しかし、直径10〜20cmほどでまがりくねった広葉樹は薪にする以外には使い道がない。だいたいそのまま放置されて腐るのが普通だ。「だからいいのだ!」とは言ってみたが、はっきり指摘されると、やっぱり何となく後ろめたい。

forest20-5.jpeg・湖畔の道路にトンネルを造る工事をしている。その近くに白樺林があって、伐採された白樺をひろって、木工の材料につかってきた。その林に、道路を広げるためか、伐採のしるしの赤いテープが貼られていて、気になっていた。そうしたら10月の末にきれいさっぱり切り倒されて、ちょうど車で運べるほどの長さに揃えて積んであった。これはいいと思って翌日現場に出かけると、数人の人がトラックに積み終わったところ。で、「それください」とは言えなかった。県の土木課か東電の仕事だと思うから、頼めばもらえたかもしれないが、ちょっと遅かった。前から狙っていたから本当にがっかり。


・木工用の白樺がもう残り少ない。で、気を取り直して少し遠出をして探すことにした。そうしたら、山道からちょっと離れたところに広葉樹を伐採した木の山。砂防ダムを造るので伐採した木のようだ。パートナーと一緒だったからとりあえず7本ほど積んで帰ったが、気になって仕方がない。何しろ木の山の下の方に白樺が3本ほどあったのだ。で、翌日、ひとりでまた出かけた。今度は助手席も倒して運転席以外にびっしり積んだ。もちろん、白樺もだ。それでも木の山はまだまだ半分以上残っている。これは後数回来なければと思うと、何となくうきうき、わくわくしてきた。

forest20-2.jpeg・というわけでせっせと運んだかいがあってご覧の通り集まった。これで次の冬も大丈夫かなという気もするが、割って積んでみなければ安心はできない。残りの木も雪が積もる前に取りに行かなければ、と考えているが、頑張ったせいか、からだのあちこちが痛い。


・こうやって集めた木をチェーンソウで30cmほどにカットして、斧で半分か四半分に割る。それを積んで1年以上乾かして、やっとストーブで燃やすことができる。薪ストーブは暖をとる前に何度も汗をかく。赤い炎と温もりはまさしく汗の結晶で、そう思うからいっそう暖かさも増してくる。わが家に来る客人は助っ人のつもりで薪を割る。けれども、薪割りは燃やすのに次ぐ楽しみだから、ぼくはそれを分けてあげてやってると思っている。


・台風の風が強くて付近でも松の大木が何本も倒れた。地区の管理人さんがカットして、それを知らせてくれた。当然、さっそく運んだが、実は松はあまりうれしくない。最初の頃は、どんな木でも喜んで集めていたのだが、松は、脂があるからストーブには火力が強すぎるし、煤も多い。ストーブを傷めるからつかわない方がいいようだし、木質が疎で燃焼時間も短い。それに比べると、木質が密で硬い広葉樹はゆっくりと長く燃える。そういうことに納得してからは、松はあまりうれしい木ではなくなった。とはいえ、そんな贅沢を言ってはいられないから、松も集めている。


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・大木になった松は風をまともに受けて折れやすいから、わが家の木も切ってしまいたい気になっている。かわりに白樺や桜、楓、ポプラなどを植えてみたい。そんな広葉樹の森を想像してみるけれど、森になるには植えてから少なくても20年ほどかかる。その時ぼくはいくつになるのかと考えると、想像力はとたんに萎えてしまう。森の時間は確実だが、人間の思惑など無視するほどゆっくりしたものだ。

2002年11月4日月曜日

研究室とネット環境の変化

  • 夏休み明けに新しい研究室に引っ越した。今までの1.5倍の広さだが、鍵型の変わった間取りになった。従来の3部屋を2部屋にしたためだが、有効に使うためには、ちょっと工夫が必要だった。院のゼミは研究室でやっている。だから10人ぐらいは楽に座れるテーブルと椅子がほしい。そう思っていろいろやったのだが、右図のように幅の狭い縦長にせざるを得なかった。折り畳み式のテーブルを2本つなげて、そのうえにちょっと幅の広い板を乗せ、テーブル・クロスをかけた。板は家の近くのDIYの店で買い、カンナをかけ、角をとってから車で運んだ。
  • ついでに、殺風景なドアに名札と居所知らせをはった。どちらも白樺の木で、もちろん手作りのものだ。我ながら、なかなかのできだと自惚れている。残念ながら、これに気がつく人は少ない。
  • もう一つほしかったのが横になれる椅子。朝早く起きて夜まで授業や会議ということがあるから、時折、横になりたくなる。で、リビングで使っていた籐の長椅子をもちこんだ。向かいには備えつけの机とパソコンラックを並べたから、そのあいだは椅子を置くのがやっとだ。狭い。
  • そう思うと、鍵型の出っ張りが何ともじゃまくさくなる。実は改装工事で2倍の広さの部屋もできているのだが、勤続年数順でそこには入れなかったのだ。しかし、次の機会にはそろそろ希望がかなってもいいはずだ。
  •  

  • 今年は研究費がたくさんもらえたから、マックを買おうと思っていた。新型の登場と部屋の改装が重なったから、あわせて生協に注文した。G4でデュアルの1ギガを積んだ機種と液晶の22インチを購入。研究費の大半はそれで使ってしまったが、大きくてきれいな画面とOSXは素晴らしい。新しいソフトを買う余裕はもうないが、ぼくが一番利用するAdobeのDTPソフトのIn DesignはすでにOSX対応で、A4で2頁が完全に表示できる。おもわず「スゲェ!」とつぶやいてしまった。今まで使っていたソフトも、OS9が自動的に立ち上がってつかうことができるし、付属のソフトも使いやすいから、買い直す必要はないかもしれないと思っている。メール・ソフトもなかなかいい。何より、一度もシステムエラーが起こっていないのが、マックにしては画期的だ。
  • アカウントをもう一つもらい、ハブをつけて、今まで使っていたPower Bookも横に並べてつかっている。これをインターネット専用にしてG4で作業をと思っているのだが、プリンターもスキャナーも来年の研究費待ちだから、しばらくは宝の持ち腐れになってしまう。
  • 大学のネット環境はどんどんよくなるが、わが家はというと、いまだにブロードバンドになる可能性は見えてこない。ADSLはNTTから遠すぎるし、ケーブルの敷設工事の予定もない。ファイル添付されたジャンク・メールがあると、それを受け取るだけで数分もかかってしまう状況は、もう我慢の限界を超えているが、選択肢がないのだから、これはどうしようもない。ただ、アメリカからのジャンク・メールで毎日一杯のAOLは契約をうち切った。京都からずっとつかっていた、すっきりしたアドレスともさよならした。
  • もう一つPDA。Viser-Edgeを買って1年になるが、老眼が進む目にはモノクロ画面が見にくくてつかいにくかった。で、カラー版の発売を待っていたのだが、Viser自体が店頭から消えてしまう状況になった。Handspring社は日本から撤退するつもりなのかもしれないが、キイボードやGPS(モデム内蔵)などの付属品も買ったから、他社の機種に乗り換えるのもしゃくにさわって、つかいつづけている。Palmにすればよかった、Clieでもよかったのに、などと考えては後悔している。只今、買い換え思案中。
  • もっとも、これはあくまで手帖であってネットにつなぐ道具ではない。簡単なメールは携帯の方が安いし、長いものやファイル添付はパソコンでないとダメだ。PDAという道具は結局、電話機能を付属させなければ、中途半端なものとして消えてしまうのではないか。1年つかってみてそんな感じがしている。
  • 最後に携帯だが、相変わらず、ごくプライベートなやりとりにしかつかっていない。ぼくのもっている機種は半年前にでたものだが、広告で0円になっていた。今は写真のとれるやつが大人気らしい。ぼくはあれは痴漢を誘発する道具だと思っている。ワン切りの次は覗きの社会問題化か?などと、自分でつかうようになっても携帯については悪い印象が消えない。これはたぶん、電話機能をもったPDAがでるまで改まらないだろうと思う。それなのに、Handspring社はなぜ日本でつかえるTreoを出さないのだろうか。障壁はやっぱりNTT?
  • 2002年10月28日月曜日

    アメイジング・グレイス」はどこから来たのか?

     

    ・「アメイジング・グレイス」はアメリカ人、とりわけ黒人たちの心の歌として歌いつがれてきた。おそらく、一番多くレコードやCDになった歌でもある。NHKのBSで、その歌の由来をたどる番組を見た。今までいろいろな人の歌う「アメイジング・グレイス」を聴いてきたが、はじめて知ることが多くておもしろかった。

    Amazing grace, how sweet the sound
    That saved a wretch like me
    I once was lost but now I'm found
    We blind but now I see

    ・ この歌の作者はジョン・ニュートン。1725年生まれ。英国国教会の牧師で自作の賛美歌を集めた歌集を出版している。曲はアイルランド民謡から採られたようだ。イギリスの白人がつくった歌がなぜアメリカの黒人たちに歌いつがれるようになったか。それはニュートンの経歴に関連している。
    ・ニュートンは若い頃、奴隷船の船長としてアフリカでつかまえた多くの黒人を、船に積んで運ぶ仕事をしていた。奴隷は人間ではなく家畜だったから、排泄物は垂れ流しのままの船底に押しこまれた。病気や飢えで死ぬものが多かった。
    ・そんな仕事のなか、彼の船は嵐に遭い難破しかかる。沈没しかかる船のなかで神にすがってお祈りをする。九死に一生を得た彼は、その経験をきっかけに信仰心に芽生え、今までの自分を懺悔する気持をおぼえる。「神は私のような卑劣な者(wretch)を救ってくれた」という「アメイジング・グレイス」の歌詞のゆえんである。
    ・番組はそこから別の話に移るのだが、実際にはニュートンはそのあとも16年間、奴隷船の仕事をつづけている。彼が牧師になったのは39 歳で、「アメイジング・グレイス」がつくられたのは、さらにその数年後のことのようだ。改心というのは物語のように劇的におこるわけではないということなのか、あるいはことばに表すのにはそれだけの時間がかかるということなのか。そのあたりにかえって新たな興味をもった。

    ・こうしてできた「アメイジング・グレイス」はアメリカに移住したアイルランド人たちのなかで歌いつがれる。アパラチア山脈のあたりで、カントリー音楽の発祥の地でもある。その歌がミシシッピー川に届き、南下してニューオリンズに行き着く。運んだのは綿摘みや農作業をするために南部の農場に買われた奴隷たち。キリスト教を信仰する彼らの心をとらえたのは、何よりこの「神は私のような卑劣な者(wretch)を救ってくれた」だったという。 wretchには卑劣の他に哀れな者という意味もある。
    ・不意に拉致され、船に乗せられ知らない土地に連行された。そこで牛や馬と一緒に生き物の商品として売られ、牛や馬と同じように働かされ、生活させられた。「アメイジング・グレイス」は、そんな絶望的な境遇に希望を感じさせてくれる歌として歌いつがれてきたのだという。

    ・米国南部に住む黒人たちは20世紀になると北部に移動をしはじめる。メンフィス、セントルイス、シカゴ、そしてニューヨーク。ブルースとジャズがたどった軌跡だが、それはまた、「アメイジング・グレイス」が広まっていった道筋でもある。
    ・アメリカはさまざまな理由で生まれた土地から離れてきた人たちによってできた国である。夢を求めてきた人、追われてきた人、そしてむりやり連れてこられた人。そのさまざまに異なる境遇や思いをもった人たちの間で、またさまざまな種類の歌や音楽が人びとの心の支えや、楽しみのもとになってきた。
    ・「アメイジング・グレイス」はその多様な人びとや音楽の間を、垣根を越えて口ずさまれた。ジャンルを越え、立場や境遇を越える歌。素晴らしい歌だが、これが必要とされたのは社会が悪夢のようだったからだ。いい歌が引きずる暗い歴史。もちろん、「アメイジング・グレイス」は今でも歌いつがれているから、これはけっして、昔を懐かしむ歌ではない。

    2002年10月21日月曜日

    「トリビュート」という名のアルバム

     

    "Hank Williams;Timeless"
    "Good Rockin' Tonight; The Legacy of Sun Records"
    "Kindred Spirits; A Tribute to the Songs oF Johnny Cash"
    "Return of the Grivous Angel; A Tribute to Gram Parsons"

    tribute1.jpeg・別に集めようという意図があったわけではないが、ここのところ「トリビュート」と名のついたアルバムを何枚も買った。要するに、いまはもう死んでいない偉大なミュージシャンを偲んで、強い影響を受けた人たちが集まって好きな歌を歌ったものである。ぼくはこの種のアルバムは好きだ。捧げられた人に対して関心があれば、参加しているミュージシャンもまた、好きな人たちが多いことが普通だからだ。

    ・ハンク・ウィリアムズはカントリーのジャンルでは伝説的なミュージシャンだ。ロカビリーといったジャンルが一時もてはやされたが、ロックンロールの誕生に橋渡し役をした人だといってもいい。参加しているのは、ボブ・ディラン、シェリル・クロウ、ベック、マーク・ノップラー、エミルー・ハリス、トム・ペティ、キース・リチャーズ、ジョニー・キャッシュ他。各自がハンク・ウィリアムズの持ち歌を歌っているが、ハンク・ウィリアムズそのままの人もいれば、独自の歌にしてしまっている人もいる。だから、誰かわからないままに聞き流す曲もあれば、誰かがすぐわかるものもある。

    tribute2.jpeg・そういう存在感の強さと言うことでいえば、やっぱりディランにかなう人はいない。どんな歌を歌ってもディランはディランでしかない。そんな気持をあらためて強くした。実はディランはその他のアルバムにも顔を出していて、それぞれに、自分のではない歌を歌っているのだが、どれもやっぱりディランの歌としてしか聴けないものに変わってしまっている。

    ・2枚目はサン・レコードに対するトリビュートだが、要するにエルビス・プレスリーに捧げられている。ここへの参加者は、ポール・マッカートニー、ジェフ・ベック、クリッシー・ハインズ、ジミー・ペイジ、ジョニー・アリディ、エルトン・ジョン、トム・ペティ、ヴァン・モリソン、ブライアン・フェリー、エリック・クラプトン、シェリル・クロウ他。ポール・マッカートニーはエルビス本人と聞き間違えるほどだが、ディランはやっぱりディラン。そんな違いがとてもおもしろい。

    tribute3.jpeg・3枚目のジョニー・キャッシュは最近亡くなった。多くのロック・ミュージシャンとは違って低くて太い声で歌う無骨な感じの人だった。参加者はボブ・ディラン、リトル・リチャード、ブルース・スプリングスティーン、スティーブ・アール、ジャネット・カーター他。スプリングスティーンもやっぱり、しっかりスプリングスティーンだが、黒人のロックンローラーのリトル・リチャードがジョニー・キャッシュの持ち歌をロックンロールにしてしまっているのにはかなわない。ディランはここでもディランだ。こんなだから、他の二枚に比べて、いろんなサウンドが錯綜した感じになっている。もちろん、それはそれで面白い。

    ・最後はグラム・パーソンズ。彼は若くして死んだカントリーのミュージシャンで、前記した3人ほどには知られていないが、早すぎる死ということもあって、彼を偲ぶ人もまた多様だ。死因はドラッグ。ジミ・ヘンドリクス、ジム・モリソン、ジャニス・ジョプリンが相次いで死んだ時期と同じだった。バーズのメンバーだったこともあって、カントリー・ロックの草分けといった役割をした人として語られることが多い。参加しているのはエミルー・ハリス、クリッシー・ハインズとプリテンダーズ、ベック、スティーブ・アール、シェリル・クロウ、デビッド・クロスビー他。

    tribute4.jpeg・どのアルバムもそれぞれに味わいがあっていい。けれども、このような企画が相次ぐということは、それだけ、あたらしい音楽やミュージシャンが少ないということでもある。このコラムでも、もう何度も書いているけれども、本当にあたらしい音楽やミュージシャンがでてこない。21世紀になっても音楽は、完全に行き止まりの袋小路に突きあたったままだ。だから当然後戻りする。
    ・4枚のCDをくりかえし聴いて楽しみながら、同時に思うのは、音楽のこれからの動きだ。音楽をつくり、発信、受信する技術がこれほどに高度になった時代はこれまでなかったのに、あたらしい音楽が生まれない。これは大いなる皮肉のようにも思えるが、また当然の帰結のようにも感じられる。

    2002年10月14日月曜日

    煙草の吸える場所

    ・東京の千代田区で歩行中の喫煙が禁止されるようになった。違反をしたら2千円の罰金だという。世論の支持は強いから、近いうちに、あちこちに同様の条例ができるだろう。スモーカーにはますます居心地の悪い世界になる。外に出かけたら、うっかり煙草は吸えない。今さらながらに、そんなことを自分に言い聞かせなければならない。 ぼくは煙草を吸うから、えらそうなことは言えないが、スモーカーのマナーがいつまでたっても改善されないのは事実だ。たとえば、歩きながら煙草を吸って、そのまま道路に吸い殻を捨てる。あるいは車を運転しながら喫煙して、やっぱり道路にポイ。こんな光景をしょっちゅう見かける。歩きながら吸いたければ携帯の吸い殻入れをもてばいいし、車には灰皿がついているはず。もっともドライバーが運転中に窓から捨てるのはタバコにかぎらない。空き缶、ペットボトルなどをグリーンベルトに置き去りにする。道路は同時にゴミ捨て場なのが現状である。 

     ・ぼくの勤める大学は住宅街に隣接している。国分寺駅からの通学路は民家の並ぶ路地でもある。そこを学生たち(ひょっとすると教職員も)が煙草を吸いながら歩く。で、吸い殻を道ばたにポイ。当然周辺からは苦情が来る。だから、清掃の仕事は学内ばかりでなく、通学路をずっとたどることになる。 ・ゴミを所定の場所以外に捨てることが、無神経なマナー違反であることは、誰でも知っているはずだ。ところがまた、ほとんど自覚なく、平気でポイしてしまう。これはもちろんタバコにかぎらないし、場所を選ばない。

     ・河口湖には多くの釣り客や観光客が来る。美しい環境を求めてやってくるはずだが、やっぱり平気でゴミを散らかして帰る。だから湖畔にはさまざまなゴミが散乱してしまう。それをやっぱりボランティアの人たちや町の職員が拾って回るのだ。吸い殻はもちろん、釣り針、釣り糸、ルアー、バーベキューの残骸………。実際、連休の後などはひどい状況で、うんざりしてしまう。 

    ・タバコを巡る問題は、ひとつはこのような公共の場でのマナーやルールにある。なにげなくする喫煙やポイ捨てによって迷惑を被る人がいる。あるいは、汚したり散らかしたりした後始末する人がいる。このような行為を条例で罰するのは、それを自覚できない人が多いのだから仕方がないことだと思う。ぼくは数年前から携帯の灰皿をポケットに入れている。それでちょっと得意になって歩きながらの喫煙をしていたのだが、これからはそれもやめなければならない。タバコを気兼ねなく吸える場所はどんどん狭まっている。

     ・ぼくの研究室は夏休みに改装工事をして、今までの1.5倍の広さになった。テーブルを大きくして、学生たちがゆったり座れるようになったから、大学院の授業はやりやすくなった。これで長時間になっても、休憩して部屋の外で吸う必要がなくなるかなとも思ったが、換気の悪い部屋だから、煙はやっぱり部屋にこもってしまう。窓を開けたりドアを開けて風通しをよくしてみたりしているが、分煙のできる空間にはなりそうもない。もちろん、ひとりの時には気兼ねなく吸っているが、いったん外に出て帰ってくると、タバコの臭いがかなり強く残っていることに気づく。プライベートな空間でも他人が入ってくれば公的な場として考えなければならないから、この臭いはやっぱり気になっている。

     ・学部のゼミの学生を研究室に集めると、飲み残しのペットボトルやゴミをそのままテーブルに置いて帰ることが少なくない。気がつけば「ここはぼくの部屋だよ。そのゴミ誰が捨てるの?」と言ったりするのだが、置き去りはいっこうに減らない。しゃくにさわるが、ただ叱るのではなく、人間関係についての話の材料することにしている。 

    ・人との不要な関わりを避ける作法をE.ゴフマンは「儀礼的無関心」と呼んだ。しかし、それは文字どおりの無関心ではなく、関わらないようにたがいに配慮しあう気持、あるいは行為を指し示している。ゴフマンは都市で暮らす人々にとって何より重要な意識が、この儀礼的無関心であるといった。単なる無関心と儀礼的無関心。この違いは微妙なもののように思えるが、タバコやゴミを例にして考えれば、一目瞭然のことでもある。

     ・ここにぼくがいるということを必要以上に意識させないこと、そこにいたという痕跡をやたらに残さないこと。「儀礼的無関心」は都市に住む人間が自然に身につけるものではなく、自覚して学ばなければならないことだが、日本人にはこの意識はほとんど根づいていない。そこにはもちろん、世代の違いもない。

    2002年10月7日月曜日

    村上春樹『海辺のカフカ』(新潮社)

     

    ・今度の物語の登場人物は15歳の少年「田村カフカ」、字の読めないナカタ老人、私設図書館の館長の佐伯さんと館員の大島さん、トラック運転手の星野さん。舞台になるのは東京中野区野方、戦時中の山梨県のどこか、それから四国の高松とそこまでの旅程。さらには高知に行く途中にある深い森。

    ・例によって話は二つの世界を順繰りに追うことで進む。家出をする15歳の少年。戦時中に何かの原因で記憶を失うナカタさん。少年は父と二人暮らし。母は姉を連れて4歳の時に家を出た。彼には捨てられた記憶が鮮明に残っている、母親に愛されて育つという思い出の喪失。父親には何の愛情も感じない。ナカタさんは字が読めない。生活保護を受けていて、中野区から一歩も出ないで生きてきた。しかし彼は猫と話ができる。

    ・この、まるで関係のない二人が、何かに導かれるように高松に向かう。少年は小さな私設図書館にたどりつき。そこで佐伯さんという女性と出会う。彼女は15歳で大恋愛をしたが、相手は東京に行き大学紛争に巻きこまれて、不当な殺され方をしている。愛の対象の喪失。少年は彼女に惹かれ、彼女に母親を見つける。そして霊のように、あるいは無意識の世界から飛び出してきた虚像のようにして彼の前に出現する15歳の彼女に夢中になる。

    ・ナカタさんは猫探しをしてジョニーウォーカーに会う。猫を殺して心臓を食べる男。彼は自殺願望をもっていて、ナカタさんの手を借りて自殺を図る。ナカタさんが彼を刺し殺したとき、少年は突然意識を失う。気づいたときにはシャツにべっとりと血がついている。そしてナカタさんには人を刺した痕跡は何も残らない。ナカタさんは突然、西に向かって旅をはじめなければと感じる。ヒッチハイクをして、富士川SAで名古屋に住む星野さんという長距離トラックの運転手と出会う。そこから、二人の珍道中が始まる。

    ・まったく繋がりの感じられない二つの世界、二人の人物の話のトーンは、少年の部分はいつも通りのものだ。しかし、ナカタさんについてはだいぶ違っている。少年の時に記憶を喪失し、文字を失い、家族からも距離をおかれ、ほとんど生活実感のない時を過ごしてきた人物だが、また奇妙にユーモラスな一面を持つ。猫と話をする。敬語を使い、人間とのあいだにほとんど区別をしない。彼に出会う人たちはそこに興味をもち、また惹かれていって、いろいろ手助けをする。トラック運転手の星野さんは結局、物語の最後までナカタさんとつきあい、彼の死を看取り、彼に代わって物語を完結させる。漫画のような世界だが、また奇妙にリアリティがある。

    ・ジョニー・ウォーカーはウィスキーのラベルの人物だ。彼は猫をさらい、殺して、まだ動いている心臓を食べる。頭を切り落として冷蔵庫で保管。もう一つの世界では彼は少年の父親で著名な彫刻家。ジョニー・ウォーカーはいわばメタファーなのだが、父親そのものよりもはるかに生き生きしている。

    ・話にエネルギーを持ち込む人物がもう一人。高松で星野さんを呼び止めてポンビキをするカーネル・サンダース。星野さんはとびきりの女の子を紹介されてすっかり満足するが、カーネル・サンダースはまた異世界への扉となる石のありかも教えてくれる。彼もまた誰か、あるいは何かのメタファーなのだが、実体の方ははっきりしない。

    ・物語を紹介していると、それだけで終わってしまいそうだが、ものすごくよくできている。ストーリー・テラーとしての村上春樹の本領発揮。『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』『ねじまき鳥クロニクル』以来の長編だが、読んでいて先の世界が楽しみという気持を久しぶりに味わった。彼の作品はほとんど読んでいるが、『ねじまき鳥』は1994年だから、面白いと思ったのは8年ぶりということになる。

    ・この物語のテーマは「喪失」と「メタファー」。登場人物のすべてが、心のなかに、あるいは記憶のなかに「喪失感」もっている。その空白部分を埋めるために、それぞれの人物が関わりあう。そして登場人物はまたたがいに、誰かのメタファーとして描きだされている。関係がないのはおそらく、星野さんひとりだけだろう。ナカタさんは少年のメタファーなのかもしれないし、佐伯さんのメタファーなのかもしれない。そして佐伯さんは少年の母親のメタファー。あるいは少年の方が佐伯さんが恋した青年のメタファーなのだろうか。もう一つ、この物語には、ギリシャ神話の「オイディップス」のメタファーという意味あいもある。

    ・おそらく、もう少したつと、『海辺のカフカ』の謎解きがにぎやかになるだろう。そうしたい衝動を誘発する作品。きっとこれは傑作ナノダと思う。

    2002年9月30日月曜日

    栗と茸とコスモス

     

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    ・今年の夏は暑かったが、秋になると雨の日が多くて、肌寒い感じのする日もあった。そうなると、あたりにはコスモスの花が目立ちはじめる。湖畔に、休耕田に、あぜ道に、道路端に………きれいだが、それだけに、日当たりが悪くて全滅だったわが家のコスモスがうらめしい。もちろん、向日葵も同じだ。今年は3連休がつづいたが、休みになると天気が崩れる周期がくりかえされている。それでも、湖畔は人で一杯。ぼくは集中講義などで東京に行かざるをえなかったが、がら空きの中央高速の上りとは対照的に、下りはべったりと数珠繋ぎだった。
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    ・集中講義の帰りに修論を控えた院生をわが家に連れてきた。中間発表前の点検をしたのだが、何とも心もとない状況で、どんより雲って雨の降る天候そのものの気分だった。で、元気づけに薪割りをやらせたが、ご覧のとおりのへっぴり腰。栗拾い、栗むき、そして栗ご飯。茸もいろいろ出ているのだが、これはあたると恐いからご馳走しないことにした。

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    ・コスモスの他にも花はつぎつぎと咲いている。月見草、アザミ、赤つめ草、野生のラン(ほととぎす)。けれども、ススキがめだち、紅葉も色づきはじめたから、そろそろ花の季節も終わりに近づきつつある。最低気温が10度を切るようになって、夜は灯油のストーブが必要になった。富士山にも初冠雪の知らせ。河口湖では、夏の終わりは冬の始まりでもある。



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