2002年3月25日月曜日

毛無山からの富士

 


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forest15-7.jpeg・春になると近くの山を歩こうかという気になる。今回は河口湖と西湖の間にある毛無山。河口湖から西湖にむかう道は急な坂道で、登り切ったところにトンネルがある。その文化洞トンネル脇の駐車場に車を停めて登る。久しぶりの山歩きで5分もたたないうちに息が荒くなる。道が真っ直ぐ登っているから余計にきつい。毛無山は1500メートルで登り口は950メートル。今回は標高表示のできる時計、PDAに装着できるGPS、それにビデオカメラをもってきた。
forest15-11.jpeg・しばらく登ってふりかえると、足和田山の裏から富士山が顔を出す。赤茶けた山の上から真っ白な富士。思わず、おーと声を出してしまう。30分ほどたつと河口湖と西湖が眼下にはっきりと見えるようになる。入り組んで長細い河口湖と、小さいが藍色に澄んだ西湖。真ん中に真っ白い富士。ひょっとしたら、周辺では一番の景色かもしれない。西湖の彼方には南アルプス。雪を抱いているのは赤石岳だろうか。遠くに富士山がもう一つという感じだった。
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forest15-4.jpeg・山歩きをすると倒木が目につく。ストーブの薪集めに苦労しているから、倒れた木は涎がでるほどだが、担いで帰るわけにはいかないから、どうしようもない。しかも、麓から近いところは植林した松や杉や檜の森で、高くなると自生して伐採されない広葉樹になる。ストーブに使う薪は広葉樹がベターだから、欅の大木などが倒れているとため息をついてしまう。そんな林がなくなりかけたところに樅の木が一本、登山道をふさぐようにたっていた。まさに山の見張り役という感じ。




forest15-9.jpeg・登りはじめてから1時間半ほどで頂上に着く。ここから西には尾根伝いに十二ヶ岳。そこから北に回り込むように御坂山系が続いている。金山、節刀ヶ岳、金堀山、そして不逢(あわず)山。その先は、黒岳、御坂山、三つ峠山と続く。一度ぐるっと回ってみたいと思っているが、今の体力ではちょっと無理。
・毛無山の頂上周辺には名前の通り木はあまりない。枯れた木、倒れた木が目立つ。環境はなかなか厳しいようで、横にのびた木はまるで象の鼻のよう。ほとんど根っこしか残っていない木からは、細い若枝が数本生えている。


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2002年3月18日月曜日

「Isamu Noguchi」(BS朝日)

  • 最近みるのはもっぱらBS放送。それほど熱心ではなかったがオリンピックもちらちらと見た。メジャー・リーグの情報もBSの方が詳しい。映画も追いきれないほどおもしろいものが流れる。今はアカデミー特集を数局でやっているからなおさらそうだ。しかし、一番おもしろいのは各局がじっくりつくったドキュメント番組。最近見たなかでは、イサム・ノグチを扱ったものがおもしろかった。レポーターは伝記を書いたドウス昌代。
  • イサム・ノグチは世界的に有名な彫刻家である。彼は日本人を父にアメリカ人を母にもち、20世紀の激動の時代を二つの国の間で翻弄されて生きた。ドキュメントはその生い立ちから死までをていねいに追った秀作である。
  • イサム・ノグチの父は野口米次郎、アメリカに留学中に詩人として注目された文学者で、母は滞米中に知り合ったアイルランド系アメリカ人の女性レオニー・ギルモア。恋愛というよりはレオニーが野口にいだいた一方的な思いだったようだ。ドウス・昌代は、米次郎にとってレオニーは英語で書いた詩のチェックをしてもらう人として大事だったにすぎなかったのではという。米次郎は妊娠をしたレオニーを残して日本に帰り、やがてイサムが産まれる。当然だが、20世紀初めのアメリカでは、白人と日本人の混血はきわめて奇異な目で見られた。
  • レオニーは米次郎のすすめにしたがって、イサムを連れて日本に行く。しかし、やがて米次郎には別に家庭があることがわかり、イサムも育つなかで日本の環境、とりわけ学校になじめなくなる。日本においてはアメリカ以上に、混血の子どもは異端視される。大工仕事や設計に興味をもち才能を示したイサムはアメリカに戻る決心をするが、レオニーは日本に残る。
  • イサム・ノグチは大学にすすむが、医者になるか芸術家になるか迷う。そこで進路の決めてとなったのは、自分の生い立ちだった。芸術家はその血や民族で評価を左右されたりはしない。ミケランジェロの再来といわれるほどの才能を見せたイサムには、周囲の期待する目も大きかった。彼は20代の前半で彫刻の技法はすべてマスターする。奨学金をもらってのパリ留学。
  • 一方で彼の才能は大きな注目を集めるが、しかし、他方で彼の血が問題になる。日米の開戦は彼の存在基盤を自他共に不安定なものにする。日系アメリカ人は戦争中に収容所に強制的に送られるが、彼も例外ではなかった。
  • 戦後になると、イサム・ノグチは石を素材にした大きな彫刻を作るようになる。京都の日本庭園に影響されたり、イタリアの大理石にも興味をもつ。発想の新鮮さはもちろん、その文化的な融合やスケールの大きさが魅力になる。彼の血と、その育った環境が、創造力の源泉になりはじめたのだ。
  • その名声は、たとえば日本では原爆慰霊碑の製作に、そしてアメリカではJ.F.ケネディの墓石の依頼というかたちになる。けれども、そういったプランにはかならず強い反対がおこる。広島に原爆を落としたアメリカ人の血が混じる人間に、慰霊碑など作らせては行けない。アメリカ大統領の墓石をどうしてジャップに作らせるのか。彼は、結局自分のなかの二つの国のどちらにも受けいれてもらえない自分を自覚してしまう。
  • イサム・ノグチの人生は自分を引き裂く二つのアイデンティティに悩みつづけたものだったと言える。しかし、彼の彫刻は引き裂かれてばらばらになるのではなく、二つがぶつかりあい、時に融合しあいながらつくりだすスケールの大きな斬新な世界だった。
  • 2002年3月11日月曜日

    "O Brother" Jerry Garcia and David Grisman "Grateful Dawg"

     

    o-brother.jpeg・ "O Brother"は今年のグラミーでアルバム賞をとった。コーエン兄弟の映画のサウンドトラックだ。コーエン兄弟は『ファーゴ』などどちらかといえばちょっとマニアックな奇妙な映画をつくっているから、その映画のサントラがアルバム賞を取るとは驚きだった。しかし、ほかの賞はU2が去年と同じアルバムで総なめ状態だったから、これしかなかったのかな、という気もする。要するに超不作の年だったのである。


    ・いい作品が生まれなければ、売上げも落ち込む。グラミーの授賞式では、その原因をインターネットでの違法コピーのせいにしていた。近いうちにCDはコピーができないようになるらしい。音楽は商品なのだから、その価値を守るのは当然だが、買いたい気をおこさせるほどのものがない状況の方がもっと深刻だろう。


    ・45回転のシングル盤が開発され、ロックンロールが誕生した1950年代以降、レコードの売上げは盛況と沈滞を交互にくりかえしてきた。たくさん売れた時期は、新しい音楽の波がうまれたときで、サウンドはもちろん、パフォーマンスもファッションも一新される。それに、考え方や行動の変化が伴う。音楽はまさに、若い世代の文化を左右する動因という役割を担ってきた。


    ・ところがである。90年代の女性シンガー・ソング・ライターが続出した一時期以降、新しい流れはまったくでていない。ユース・カルチャーに占める音楽の重要性もひどく低下した。ここ数年グラミーを取ったのは、ボブ・ディラン、エリック・クラプトン、サンタナ、U2とベテランばかり。そして映画のサントラである。しかも"O Brother"はブルーグラスとカントリー、それにブルース。どちらかといえばトラディショナルといったほうがいいような地味な内容である。


    ・とはいえ、"O Brother"の内容そのものに不満があるわけではない。もともと音楽に興味をもったのもフォークだったから、ぼくはカントリーもブルーグラスも大好きだ。挿入歌の大半は地味な人たちが唄うトラディショナル。ぼくが知っているのはエミルー・ハリスぐらいだ。"I am a man of constant sorrow"が3種類入っているが、ぼくにとってこの曲はディランで聞き慣れていて、「いつも悲しい男」という題名とあわせて印象が強かったから、とても懐かしかった。

    dawg.jpeg・新しいものがうまれないときには、初心に帰る。そんな傾向があるのかもしれない。タワー・レコードでも気のせいかもしれないが、ブルーグラスやカントリー、それにブルースの棚がにぎやかだった。そのなかで見つけたのはJerry GarciaとDavid Grisman の"Grateful Dawg"。ジェリー・ガルシアはグレイトフル・デッドのリーダーでとっくに死んだ人だが、このアルバムは2001年の発売である。中味はロックではなくてブルーグラスとカントリー。ぼくは初めて知ったのだが、ガルシアは60年代半ばにグレイトフル・デッドでデビューする前は、バンジョウ奏者だった。


    ・ガルシアは60年代後半のサンフランシスコでヒッピー文化の中心にあって、音楽はもちろん、その言動や生き方で教祖的な存在になった人だ。グレイトフル・デッドのファンは「デッド・ヘッズ」と呼ばれる。ガルシアの影響力の強さを物語る名前だが、彼はポップな絵も描いたし、『自分の生き方をさがしている人のために』といった本も書いた。ガルシア本人のものだけでなく、デッドのアルバムも解散後に数多く発表されている。デッドは精力的にコンサートをこなし、カメラやテープレコーダーの持ち込みを禁止しなかったから、海賊版も数多いようだ。


    ・で、"Grateful Dawg"だが、これも映画のサウンドトラックである。David Grismanはマンドリン奏者でガルシアは生ギター、それにバンジョー。どちらも真っ白な長髪とあごひげ。同名の映画は、2人のコンサートやスタジオ録音、あるいは日常生活をおったドキュメントのようだ。だから、曲はほとんどがライブになっている。


    ・ぼくにとってグレイトフル・デッドは、何といってもディランとの共演『ディラン&ザ・デッド』での印象が強い。だからこのアルバムをみつけて、今頃になって、ガルシアの新しい側面を教えられた。もう死んでしまって残念だが、改めて、彼に注目して見たい気になった。