2021年12月27日月曜日

目次 2021年

12月

27日:薪割り、ペンキ塗、そして山歩き

20日:維新とタイガース

13日:品格と矜持

6日:中川五郎『ぼくが歌う場所』(平凡社)

13日:オリパラの後は自民総裁選ばかり

6日:拝啓菅総理大臣様

8月

30日:二つの映画主題歌

23日:伊藤守編著『ポストメディア・セオリーズ』

16日:どこにも行かない夏

9日:強者どもが夢の跡

2日:自転車ロードレースだけ観た

7月

26日:榛名富士と軽井沢

19日:大谷選手の活躍の裏で

12日:追悼 中山ラビ

5日:宮沢孝幸『京大おどろきのウィルス講義』

6月

28日:梅雨とリフォーム

21日:「原子力村」から「五輪村」まで

14日:自転車と「こころ旅」

7日:Travis "10 songs"

5月

31日:宮入恭平・杉山昴平編『「趣味に生きる」の文化論』

24日:原木とリフォーム

17日:春の立山、大谷歩き

10日:Bloggerを始めました

3日:バカな大将ウィルスより怖い

4月

26日:子育て日記に想うこと

19日:MLBがおもしろい 

12日:ヘンリ・ペトロスキ『失敗学』(青土社)

5日:早い春が来た

3月

29日:斜陽のBS放送

22日:言葉遣いがおかしいですね

15日:新譜がないのはコロナのせい?

8日:何ともお粗末なデジタル化

1日:ジリアン・テット『サイロ・エフェクト』

2月

22日:富士山がやっと白くなった

15日:原木探しと薪作り

8日:改めて、CMについて想うこと

1日:感染より世間が怖い

1月

25日:露骨な情報操作

18日:斉藤幸平『人新世の「資本論」』ほか

11日:Jackson Browne, "Downhill from Everywhere"

4日:静かな正月と新しい本

薪割り、ペンキ塗、そして山歩き

 

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雨上がりにわが家の上に虹が架かった

forest180-2.jpg 紅葉が終わって、河口湖も静かになった。ストーブを燃やしはじめてスペースができたので、原木を注文して薪割りをやった。新しいチェーンソウだから、太い木もあっという間に切って、3立方メートルの原木を1週間ほどで薪にした。付近で集めた倒木と違って重いが、その分じっくりとよく燃える。ストーブにはやっぱり、ミズナラやクヌギが最高だと再認識した。倒木は温度が上がらないのにすぐ燃え尽きてしまう。

forest180-7.jpg 紅葉の頃に控えていた自転車は、寒くなって厚着をして乗るようになった。それでも最初は寒くて、最後にはやっぱり汗をかく。それに週に1回程度だと、途中で息が上がって家にたどり着く頃にはへとへとになる。もちろんタイムも遅い。雪が積もったら春までできなくなるから、条件のいい日を見つけて走っているが、薪割り優先だから、出かける日を見つけるのが難しい。

家の周りに積んでいた薪を燃やして、スペースができたので、ログのペンキ塗りも始めた。4年前にやったから、まだ早い気もしたが、屋根を新しくして2階部分のペンキも塗ったので続けてやってしまおうと思っていた。色はマホガニーで前回のチークよりは赤みがかっている。ツヤもあってなかなかいい。はしごに乗っての作業は大変だが、薪をどかしながら10日で完成した。自転車に乗れないのは、これも原因だった。

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人混みを避けての山歩きも、何度かした。わが家から車で10分ほどで登山口に行ける大石峠は、くねくねと60回以上も曲がる山道だ。以前にはそれほど苦にならなかったが、きつかった。その1週間後に箱根の金時山に登った。ここも2度目だが、石ころだらけの道や急登が多くてやっぱりきつかった。それに人気の山だから、登山者も多くて、休憩時にはマスクをすることになった。大石峠も金時山も、晴天だったから頂上から見る富士山は見事だった。多分今年の山歩きはこれが最後で、次は春になってからということになるだろう。
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こんな具合に晩秋から、毎日忙しく動き回っている。コロナの感染者数が減ったこともあって、孫たちが久しぶりにやってきた。特に下の男の子は初めての訪問で、マンションとは違うログハウスや周囲の森に興味津々で、楽しく動き回った。上の男の子は来年は小学校に通う歳になった。しばらく会わないとすぐに成長してしまう。次はいつ会えるか。それはやっぱりコロナ次第だ。


2021年12月20日月曜日

維新とタイガース

 衆議院選挙における維新の躍進は驚きだった。コロナの第4波の時の大阪はひどかったし、それが保健所や病院の削減を行ってきた大阪府や市の失政に原因があったことは明らかだったからだ。それ以外にも知事や市長は雨合羽やイソジンといったしょうもない発言や行動で失笑をかっていた。少なくとも大阪や関西以外の人たちには、そんなふうに見えていた。なのに、大阪では1選挙区を除いて維新が勝利した。一体全体、大阪市民や府民は何を評価して維新に投票しただのだろうか。そんな疑問を感じてもおかしくない結果だった。

理由としてあげられたのは吉村知事や松井市長、それに橋下徹が毎日のようにテレビに出ていたことや、府議会や市議会、そして府下の首長の多くが維新で占められてきている実情だった。維新は少なくとも大阪では自治体の多くを治めていて、テレビもその勢いを後押しする役割を果たしている。どんなにダメでもがんばっている姿を連日テレビで流せば、人びとも応援したくなる。何しろ維新は大阪で生まれた、まじりっけなしの浪速っ子の集まりなのである。

こんな様子を見ていて思ったのは、関西における阪神タイガースの人気との共通性だった。僕は25年ほど京都に住んで大阪の大学で教えた経験がある。そこで感じたことの一つに強烈な阪神びいきがあった。いつも弱くて内紛を起こしてばかりの球団に、なぜ人びとは惹かれるのか。在阪のパリーグには南海や近鉄、そして阪急といった球団があって、どこもペナントを制した強い時期があった。しかし人気は阪神には全くかなわなかった。

それはもちろん、日本のプロ野球がセリーグ偏重で、東京の巨人が圧倒的に強かったことに原因があった。何しろ関西人は東京に対するライバル意識が強く、とりわけ大阪人はその傾向が顕著だった。だから東京を代表する巨人をやっつける試合を見たい。それが時々でも、勝ってくれれば溜飲を下げることができる。端で見ていて半ば呆れ、うんざりしながら感じたのは、そんな印象だった。

当然、テレビも他の在阪球団の試合は無視して阪神ばかりを中継したし、スポーツ新聞の一面は、いつも阪神のことばかりだった。そんなテレビや新聞の現状は、おそらく今でも変わらないのだろう。そして、もう一つの目玉が維新なのだ。僕はもちろん、関西のテレビや新聞には接していないが、おおよその見当はつく。アンチ東京が関西、とりわけ大阪のアイデンティティの基盤にあるのは決して悪いことではないが、阪神はともかく維新はアカン。そんな感想を強く持った。

維新は山犬集団だ。東京の批評家には、そんなことを公言する人もいる。実際僕もそう思う。トップの人たちは誰もが吠え立てるように、ドスを利かせるように発言するし、犯罪事件を起こした政治家も多党に比べて桁違いに多い。関西の中心である大阪が経済的に発展するなのならば、カジノでも万博でも何でも誘致したらいい。市をなくして大阪都にする政策は失敗したが、公共の場に使う金を極力減らそうとする政策も次々と実行されている。その結果がコロナ禍における悲惨な状況だったのである。

維新は今回の選挙での躍進に勢いを得て、全国的な制覇をもくろんでいるようだ。はたして阪神タイガース程度に人気が浸透していくのだろうか。僕は難しいと思うが、そうなったらもういよいよ、日本は終わりなのだと思う。維新はコロナ以上に悪い疫病神なのである。

2021年12月13日月曜日

品格と矜持

 政治や経済、そして社会を見渡してみて感じるのは、「品格」とか「矜持」といったことばが全く通用しなくなったことである。典型的には「今だけ金だけ自分だけ」といった風潮がある。何より利権によって動く政治家ばかりだし、大企業は内部留保を貯めこむことに精出している。そして人びとの中からも「相互扶助」の気持ちが見えてこない。こんな風潮に対して新聞やテレビといったメディアは何も問題にしない。それどころか、権力に忖度し、スポンサーの顔色を窺うことばかりをしている。

マスメディアは「ウォッチドッグ」であるべきだ。権力や社会を監視して、何か不正があれば吠えたてる。マスメディアの存在価値が何よりジャーナリズムにあるとすれば、「ウォッチドッグ」として仕事をすることが、ジャーナリストとしての矜持になるはずである。大学の「マスコミ論」には当たり前のように、こんな姿勢が強調されてきた。ところが最近のマスメディアは吠えることをほとんどしなくなった。そうなってしまった理由はいろいろあるだろう。

一つは安倍政権誕生以降続いているメディアに対する締めつけや圧力だろう。しかしここには、新聞社やテレビ局のトップが進んで首相と会食するといった擦りよりもあった。二つめには新聞の発行部数減やテレビのCM料の低減があって、何より営業利益を優先するといった方針変更がある。今メディアのトップにはジャーナリストではなく営業出身の人が就いていることが少なくない。そして三つめとしては、ジャーナリストの質の低下があげられる。権力者に対して厳しい質問を浴びせることが出来ないのは、官邸での会見の様子を見れば明らかである。

この三つの理由は経済、つまり企業の姿勢にも共通する。内部留保を増やすことばかりに精出して、社員の給料は据え置いたまま、というよりは正規を減らして派遣を増やしている。そして新たな可能性を求めて積極的に投資をすることもない。こんな経営者の姿勢に組合が抵抗どころか擦りよっているのは「連合」を見れば明らかだろう。

品格や矜持は自らの使命や理想を持っているところから生まれてくる。それがないのは、現状の日本にはどの分野にしても、使命や理想が失われていることに原因がある。経済の落ち込みや人口の減少は止めることが出来ず、国の借金ばかりが増加する。それがわかっていながら、いや、わかっているからこその、「今だけ金だけ自分だけ」の風潮なのだと思う。

そんな中で一人だけ、「品格」を口にする人がいる。メジャー・リーグでMVPをとった大谷選手だ。一流の選手には、記録や能力だけでなく「品格」がある。それを目指したいといった発言で、久しぶりにそんなことばを聞いたと思った。彼は今、日本に帰っているが、ほとんどテレビに出ることもない。タレントたちにちやほやされて浮かれてもいいはずだが、毎日トレーニングに励んでいるようだ。国民や県民栄誉賞なども断ったようだ。

メジャー・リーグはオーナーと選手会が対立して、オーナー側がロックアウトという強行手段を実行した。来春のキャンプまでには解決するだろうと言われているが、下手をすれば開幕に間に合わないかもしれないと危惧する声もある。金をめぐる対立だから、多くのファンはどちらも支持していないようだ。一人の選手が何十億も稼ぐのに、マイナーには食事や住居に苦労する選手がたくさんいる。超高額の契約更新が約束されている大谷選手は、そんな現状をどう思っているのだろうか。そんなことをふと考えた。

2021年12月6日月曜日

中川五郎『ぼくが歌う場所』(平凡社)

 

goro2.jpg 中川五郎は50年も歌い続けているフォークシンガーだ。本書はその半世紀を越える時間を個人史として辿ったものである。小学生の頃に洋楽に関心を持ち、ギターを弾きはじめた少年が、当時のヒット曲からフォークソングに興味を持ちはじめる。そのきっかけになったミュージシャンはウッディ・ガスリーやピート・シーガーだった。そして、彼らの歌には今まで聞いたことがない政治や経済、あるいは社会に対する批判的なメッセージが込められていることを知る。少年はその歌詞を訳して、日本語で歌うことに夢中になった。

そんな関心は中川五郎一人だけのものではなく、やがて「関西フォーク運動」と呼ばれる大きな動きになった。当時高校生であった彼は、ボブ・ディランの歌を替え歌にした「受験生のブルース」を作って歌ったが、それが高石友也によって「受験生ブルース」としてヒットすることになった。フォーククルセイダースの「帰ってきた酔っ払い」が大ヒットしてブームとなり、彼も入学したばかりの大学にはほとんど行かず、音楽活動に没頭するようになった。

1960年代後半から70年代初めにかけては大学紛争が各地で起こっていた時期であり、ヴェトナム戦争に反対する運動も盛んに行われていた。メッセージ性のある歌が大きな注目を集め、岡林信康や高田渡といった人気ミュージシャンも生まれ、時代の寵児としてメディアで扱われたりもした。この本には、彼らとコンサートなどの活動を共にしながら起きたさまざまな動きやそこで生じた問題が、彼の経験を通して振りかえられている。

レコードが売れ、コンサートに多くの人が集まれば、当然、金銭的な問題が起こる。所属したプロダクションとの契約は給料制であり、レコードは印税ではなく買い取りだった。だからどれほどレコードが売れても、コンサート活動が忙しくなっても、ミュージシャンには少額のお金しか払われなかった。ところが、新宿駅西口広場で始まった「フォーク集会」では、彼らの作った歌が歌われたにもかかわらず、金儲けのために歌う連中だと非難されたりもした。それほど有名でもなかった著者は、両方の中間にいてうろたえたり、また面白がったりもしている。

そんなフォークソングは大学紛争の鎮静化やヴェトナム戦争の終結とともにはやらなくなり、「四畳半フォーク」と呼ばれる極私的な内容になり、やがてメッセージ性の乏しいニューミュージックと呼ばれた歌に変容することになった。著者自身も音楽活動よりは雑誌の編集作業や洋楽のレコードに解説を書いたり、歌詞を訳したりといった仕事が中心になり、やがて小説の翻訳や自ら小説を書くようになった。

音楽活動とは縁遠くなった著者が再び歌いはじめたのは90年代になってからである。気になるミュージシャンとの出会いや、親しい人たちの死などがあって、改めて死や生について考えて歌を作ることもはじめた。2006年に25年ぶりのアルバム『ぼくが死んでこの世を去る時』(offnote)を出して、本格的な音楽活動をするようになると、目立たないけれども、政治や社会に対して抗議して歌う人たちが見えてきて、その人たちと一緒に歌う機会も増えた。

中川五郎が歌うことの必要性をさらに感じたのは、東日本大震災と福島原発事故だった。被災地で何を歌えばいいのか悩みながらも精力的に活動し、その中からアメリカのフォークソングにあるトーキング・ブルースという形式を使った時宜的な歌や、関東大震災時に起きた朝鮮人虐殺事件などを歌うことも始めた。それは2017年に出したアルバム『どうぞ裸になってください』(コスモスレコーズ)にまとめられていて、今を見つめた数々の語り歌は、強烈でありながら優しさも滲むメッセージで溢れている。

この本のテーマは歌であるが、ここには同時に彼の私的な生活史も語られていて、恋愛や結婚、子どもの誕生と育児、そして不倫や別居などについても触れられている。決して品行方正ではないし、家庭を大切にしたわけでもない。そんな自分のダメな部分についても正直に吐露していて、私小説風にも読める内容になっている。その意味では本書は最新のアルバム同様に、自分を裸にして語った個人史であり、そこから見た日本の半世紀を歌ったトーキング・ブルースでもあると言えるだろう。

『週刊読書人』12月3日号に掲載

2021年11月29日月曜日

AmazonはもうCDを売る気がないようだ

 Amazonのトップ・ページがAmazon Basicsという名称になって、書籍とCDの欄がなくなってしまった。最近あまり買わないせいもあるのかもしれないが、その他の欄にも見つからないから、お目当てのものを検索して探さなければならなくなった。対照的に、プライム会員なら本は読み放題だし音楽は聴き放題だという知らせがやたら目立つようになった。ところが、そこでは読みたいものも聴きたいものも、ほとんど見つからない。そう言えば、あなたにお勧めの本やCDとか、新刊本やニュー・アルバムを知らせてくることもなくなった。Amazonは本とCDを売る店として始まったのに、もう初心を忘れてしまったのかと思いたくなった。

僕はインターネットを1995年から始めている。最初は大学の研究室でしか使えなかったが、すでにAmazonは本とCDを売る店を構えていて、洋書や洋楽を手に入れるのに重宝した。特に英語の専門書は、洋書専門店から注文して1ヶ月以上待たなければ届かなかったし、円レートも高く設定されていて、ずいぶん高額なものになっていた。それが、その時々のレートで買えて、航空便で注文すれば1週間とかからずに届くようになった。同じことはCDにも言えたから、大学から毎年付与される研究費の多くが、Amazonでの本とCDの購入に使われることになった。

そんなふうにしてAmazonを四半世紀に渡って使い続けてきたが、AmazonはGAFAとして世界有数の企業に成長した。ぼくも最近では、本やCDだけでなく、探し物を検索してはありとあらゆるものを買うようになり、コロナ禍以後は特にその傾向が強くなった。Amazonは客の購入履歴に基づいて、それぞれページを作るようになっているから、本やCDが目立たなくなったのは、大学をやめてから、僕があまり買わなくなったせいなのかもしれない。しかしそれにしても、本とCDは目立たなすぎる。

ここにはもちろん、書籍もCDも売れない時代になったということもあるだろう。モノそのものではなくデータで購入することが当たり前になったこともあるが、それ以上に本もCDも売れなくなっている。ごく一部のベストセラー作家や人気のミュージシャンを除けば、文筆業や音楽活動だけで生計を立てることが難しくなっている。コロナ禍で講演会やライブ活動もできなくなったから、文化的な衰退はこれからますます顕著になるだろう。

Amazonは一部の売れ筋だけではなく、街では見つけることが難しいレアなものでも見つけられることが売り物だった。「ロングテール効果」などと言われて、僕もずいぶん便利に使ってきた。スマホの普及で、その効果自体はますます一般的になっているようだが、Amazon自体の方針は、逆に売れ筋のものに特化させるという方向に変わっているのかもしれない。Amazonのトップ・ページの変更は、何よりそんな違和感を持たせるものだった。

2021年11月22日月曜日

批判は必要なことです

 衆議院選挙の後、立憲民主党や共産党の議席減の原因として、いつも反対ばかり、批判ばかりしているからという声が聞こえてきます。大阪維新がえげつなくののしるので、それが本当のように思われるかもしれませんが、政府が出す法案について、立憲も共産も多少の修正要求はあっても8割ほどには賛成しているのです。事実でないことでも大きな声を上げれば、それが本当であるかのようになっています。メディアがそれを大きく取り上げれば、否定し難いものにもなってしまいます。そんなことが多すぎるのです。

とは言え、問題なのは反対や批判をしてはなぜいけないのか、それは悪いことなのかといった方にあると思います。そもそも第二次安倍政権以降の特徴は、嘘と誤魔化し、隠蔽と無視に終始してきたといっていいでしょう。それを野党がいくら批判しても、メディアが忖度して取り上げなければ大きな声にはなりませんし、なってもすぐに鎮静化してしまいます。世論はすぐに忘れるから、放っておけばいい。ここ10年ほど、政府はそんな傲慢な態度を取り続けているのです。

今回の衆議院選挙で10代から40代にかけての層は、自公や維新に多く投票したようです。理由はいろいろあるでしょうが、それも当然と思える理由がひとつあります。大学で40年ほど教員をしていて感じてきた学生の変化として、ゼミで議論をしにくくなったという傾向がありました。特に最後の10年ほどはそれが顕著で、テーマを与えて学生に発言させても、それに対する反対や批判が出てこなくなってしまっていたのです。最後の頃には「批判してもいいんですか?」などと質問する学生が出るようになりましたから、もう呆れるやらうんざりするやらで、すっかりやる気を無くしてしまいました。定年前にやめた理由のひとつでした。

議論はスポーツとともに、近代社会の中で生まれた闘いの場です。ルールにのっとってやれば、互いの地位や立場や属性などは関係ないですから、勝負がつくまで全力で戦えばいいし、終われば「ノーサイド」で互いを讚えればいい。そんな話をしても全く通じなくなりましたし、そもそも、世の中のことについてほとんど関心を示さない学生が大勢を占めるようにもなっていました。彼や彼女たちにとって何よりの関心は、友達関係を表面上うまくやり過ごすことにありましたし、思い通りの就職をするためには、それに役立つこと以外はやる気にならないという態度でした。

今の政権に批判的なのは高齢者層だけで、中年から若者層にかけては、現状維持派が大勢のようです。世の中がどうなろうと自分のことが一番。それは理解できる考えですが、日本の現状はすでに、維持することが難しいところに陥っているのです。もちろん危機的状況にあるのは環境問題などでも明らかなように地球規模のことでもあるのですが、この点についても日本の政府の態度に対する若い人たちの批判や反対の声はほとんど聞こえてこないのです。

と書いていたら、福井の高校生が行った演劇について、原発などを話題にしたという理由で、テレビでの放送が中止されたというニュースが目につきました。「明日のハナコ」という題名の創作劇ですが、こんなふうにして表現の芽を摘むことが当たり前に行われているのですから、言いたいことがあっても言えないと思うのは、無理もないことだとも感じました。

ちなみに、日本の学校教育が世界の中でかけ離れて、批判的思考を促す教育をしていないかについて、次のようなデータがありました。批判精神を育てる重要性を無視した教育をしているのが日本だけであることがよくわかる数字です。

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2021年11月15日月曜日

紅葉と冠雪した富士山

 

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去年はいつまでたっても冠雪しなかったのに、今年は早々とたっぷり積もった。富士山はやっぱり雪があってこそだと今さらながらに思った。そう言えば、寒い日が続いて、ストーブもひと月早く火を入れた。去年は原木が手に入らないこともあって我慢していたが、今年は付近の倒木などを集めたから薪は豊富にある。そんなことも理由だった。とは言え、枝はすぐ燃え尽きるし、倒木は火力が弱い。そしてもちろん、切り倒した木はまだ乾いていない。今さらながらにストーブにはミズナラやクヌギが最適であることを実感した。

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forest179-6.jpg湖畔やわが家の紅葉も、今年はいつになく早く、しかもきれいになった。町が整備した紅葉回廊や紅葉トンネルには大勢の人が集まっているが、気づかれないところもたくさんある。何より御坂山塊の山肌が赤黄緑になっているのがいい。時折登っている裏山からの紅葉と富士山、そして足和田山と河口湖の眺めは、いつ行っても誰もいないからほとんど独り占めだ。

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ところが、富士山を眺める秘密の絶景ポイントだった新道峠が様変わりした。車で尾根の直下まで行けたのだが、今年はいつまで経っても道が閉鎖されたままだった。おかしいと思って検索すると、「新道峠ツインデッキ」なることばが飛び込んできた。笛吹市が作ったもので、市専用の無料バスでしか行けなくなっていたのである。さっそく出かけると、朝一番のバスが満員で、積み残しが出るほどの混みようだった。週末には800人来たと言っていたから、今頃は千人を越える賑わいだろう。もう秘密でも何でもないから、二度と行くかという気になった。

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2021年11月8日月曜日

衆議院選挙の結果について

 衆議院選挙の結果は、ちょっと意外というものだった。減るのが当然といわれた自民党は微減で、増えると思われていた立憲民主党が大幅減、逆に維新が4倍増というのは、どういうことなのだろうか。あれこれ言われているが、メディアのせいだというのが一番だろうと思った。メディアはコロナが猛威を振るった時期はオリンピック一色になり、その後は自民党総裁選を追いかけ回した。ところが肝心の衆議院選挙になると、特番どころかニュースでもあまり扱わなかった。そして選挙結果についてはまた大騒ぎである。

この露骨なやり方が自民党に有利に働いたことは明らかだろう。それは維新にも言えて、大阪のコロナ対策がひどかったにもかかわらず、吉村知事が毎日のようにテレビに出て、その奮闘ぶりを伝えてきた。それを吉本の芸人が後押ししたのだから、頼りになると思わせた効果はずいぶんあっただろうと思う。対照的に立憲民主党の枝野代表は、ほとんどいないも同然の扱いだった。

メディアの扱いがポイントになったのは、甘利や石原、それに平井といった脛に傷持つ候補者が落選したことでも明らかだろう。自民党の幹事長でも大臣経験者でも、疑惑が強く追及されれば批判票は集まる。石原については山本太郎の立候補宣言と辞退といった動きが、有権者に好意的に受け取られたと言われている。そしてもちろん、これらについてもメディアの取り上げ方が影響した。

出来たばかりの岸田政権には当然、何の実績もない。しかも総裁選であげた公約のほとんどが、新政権の政策には盛り込まれなかった。ハト派の首相とは思えない右寄りの政策があげられたが、それをめぐって論争が起こることもなく、短期間での選挙戦になった。争点を隠してイメージだけの選挙になったのは、メディア、とりわけテレビが協力した結果だったといわざるを得ないだろう。

そのイメージ作りという点では枝野はへたくそだった。対抗しようと思えば、総裁選の時から出来ることはあったはずなのに、彼はほとんど何もしなかった。と言うよりは、共産党との連携や連合との関係で右往左往して煮え切らない印象を与え続けた。統一候補について何とか選挙に間に合ったが、今度は自民党が「立憲共産党」などといって体制が変わる怖さを喧伝したこともマイナスのイメージになった。

僕は今回共産党の候補者に投票した。主張が一番納得できると思ったからだ。しかし立憲民主党同様に共産党も議席を減らした。政策としては優れているのになぜ受け入れられないのか。それは何より党名にあると思う。いくら関係ないと言っても、この党名を名乗る限りは中国や北朝鮮との関係をイメージされてしまうからだ。現状の方針から言えば「コミュニズム」ではなく「コモンズ」で、共有党とか共生党がいいのではないだろうか。

国会で嘘を連発しても、公文書の隠蔽や改竄をしても、汚職やスキャンダルにまみれた議員が続出しても、それでも自民党が安定した政権の座につき続ける。安倍や麻生の院政のもとで、これからどんなことになるのか。日本の将来がますますひどいことになるのは明らかだろう。

2021年11月1日月曜日

大谷選手のMLBだった

 
MLBが終わった。プレイオフには出られなかったが、今年は大谷のシーズンだった。ホームラン46本、100打点、103得点、打率0.257、OPS(出塁率+長打率).965、9勝2敗、奪三振数156、防御率3.18、投球回数130.1という成績で、MVPも間違いないと言われている。すでに野球雑誌が選ぶMVPを複数受賞しているし、「MLBヒストリック・アチーブメント(歴史的偉業)賞」 というコミッショナー特別表彰や選手間投票によるMVPも獲得した。

こんな成績はめったに出来るものではないが、彼はこの数字を最低の基準にして、来年以降がんばりたいと言った。ものすごい自信だが、今年はまだ肘や膝の手術からの回復途中であって、来年はもっとよくなるはずといった感覚があるのだろうと思う。

それにしても、この4月からはエンジェルスの試合を見るのが一日の中心だった。早朝の試合は5時起きしたし、出かけるのも試合が終わってからとか、試合のない日にということになった。何しろ彼は、投手として出場する試合の前後も休まなかったから、DHのないナショナル・リーグとの試合以外はほとんど出場したのである。特に開幕から7月末までは、また撃った、また走ったという勢いで、投げるほうも6月以降はほとんど負けなしという状態だったから、最初から最後まで見逃すわけにはいかなかったのである。

7月後半から8月にかけてのオリパラ期間中はNHKは中継をしなかったが、AbemaTVやYouTubeでも見ることが出来たから、スマホをテレビと接続して見ることになった。その時期は敬遠されることが多くなり、悪球に手を出して調子を落としたが、投手としては、四球が減って、まるでベテランのような力の配分を考えた投球をして、見ていて感心することが多かった。もっともエンジェルスは故障者続出で、大谷がホームランを撃っても、好投しても結局は負けという試合が多かったから、後味の悪さを感じることも少なくなかった。

これほどMLBの試合に夢中になったのは野茂以来だから20年ぶりということになるが、野茂と違って大谷は毎試合出たから、初めてのことだったと言える。しかも今は中継以外にもネットでさまざまに取り上げられている。試合が終わればすぐダイジェストが載るし、追っかけをやる人も大勢いて、内外野のあちこちから撃ったり投げたりする様子を映していたし、試合前の練習風景や、試合中のダッグアウトでの様子も見ることが出来た。そんなチャンネルには10万人を越える登録者がいて100万回を越える再生数になったりもしていて、遠征にもほとんどついていっているから YouTuberとして仕事にしてるのかもしれないと思った。

大谷選手は最後の試合後の取材で、もっとヒリヒリするような試合をして勝ちたいと発言して、契約終了後には優勝争いが出来るチームに移籍するのでは、といったことが話題になった。確かに、プレイオフに出てワールドシリーズまで出続ける姿を是非みたいものだと思う。そのためにはフリーエージェントになった有力選手を獲得せよといった意見が多く飛び交っている。しかし、大谷選手の契約が数百億円になるといった予測も含めて、お金の話は敬遠したくなってしまう。一方で一年で数十億円も稼ぐ一部のエリート選手がいて、他方ではハンバーガしか食えない大勢のマイナーリーグの選手がいる。それはとんでもなく歪んだ格差社会だから、彼がそこで最高の年俸をもらったりするのは歓迎したくないと思ったりしている。

2021年10月25日月曜日

穂高と八ケ岳

 


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hodaka1.jpg 毎年この時期にはパートナーの誕生日に合わせて小旅行をしてる。去年は会津だったが今年は穂高に行くことにした。といっても山登りをするわけではない。ロープウエイに乗って。穂高や槍ケ岳が間近に見える所までということにした。途中で上高地に立ち寄ろうかなどと計画したが、天気予報はあいにくの雨。温泉につかるだけでもいいかという気持ちでスタートしたら、甲府の町並みが見えはじめた頃から、西の空が青空になってきた。で、しばらくいくとかんかん照り。何度も書いているが僕たちはそろって晴れ男と晴れ女で、旅行に出て雨に降られたことがほとんどない。

中央高速を塩尻で降りて果物街道を通って新穂高温泉まで走った。さっそくロープウエイに乗って上まで行くと、残念ながら雲が出はじめていて、笠ケ岳も槍ケ岳も隠れてしまっていた。風が強くて寒かったので、歩くのは少しだけにして、やどで温泉に入った。硫黄がきつかったが部屋にある露天風呂だったので、ゆっくりつかった。

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翌日は平湯でバスに乗り換えて上高地へ行こうと思ったが、朝起きると雨で、紅葉の名所の平湯峠に行き、旧道で安房峠を越えて帰ることにした。ところが走り始めると雨がみぞれにかわり、本格的な雪になった。平湯峠まで行ったが降りずに戻って、今度は安房峠に向けて走ったが、登るにつれてやっぱり雪で、道路もシャーベット状になりはじめた。峠近くまで行くと車がスリップするようになったので、諦めてまた戻った。

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photo93-2.jpg 松本まで降りるといい天気。リンゴや野菜を買って、下道を諏訪湖から八ケ岳に走らせた。ジャージー牛がのんびり反芻するところや、うっすら雪化粧した八ケ岳を眺めたが、これはすごいという紅葉の風景には出会わなかった。かわりにひと足早い雪景色を見たのだが、帰りの車から見える富士山もきれいに雪がかかっていた。そう言えば河口湖の紅葉もやっと色づきはじめたばかりで、もうすでに、訪れる人が増えている。急に気温が下がったから、もうすぐ見ごろになるかもしれない。

2021年10月18日月曜日

エリック・アンダーソンとヴァン・モリソン


eric1.jpg" エリック・アンダーソンは1943年生まれだからもうすぐ80歳になる。1964年のデビューで半世紀を越えているが、まだ現役で歌い続けている。僕が初めて聴いた彼の歌は"Come to my bedside"で、いい歌だと思ったが、フォークと言えばメッセージ・ソングが当たり前の時代だったから、それほど興味を持たなかった。実際、彼の出したアルバムは40枚近くあるというのに、これまで一枚も手に入れなかった。そんなふうにほとんど忘れていた人の3枚組みCDをたまたま見つけて、懐かしさもあって買ってみようかという気になった。

『Woodstock Under the Stars』は1991年から2011年にかけて行われたコンサートやスタジオ録音が収められているから、長いスパンで彼がどんな歌を作ってきたかがよくわかる。タイトルに「星空のウッドストック」とあるのは、収録されたコンサートが主に、伝説的なロック・コンサートで有名なウッドストックにあるカフェなどで行われたことにある。もっともここは、牧場が多い小さな村で、有名になる前からディランなど多くのミュージシャンが暮らした所でもある。エリックもまた、ここで暮らしていたことがあったようだ。

収録された歌は35あるがエリックの作ったのは25曲で1960年代に作ったものから2000年代に作ったものまで幅広い。彼の歌は多くのミュージシャンにカバーされているが、このアルバムにもまた、多くのミュージシャンが参加している。小さな場所でそれほど多くはない人たちと楽しく歌い演奏する様子が再現されていて、いいアルバムに仕上がっている。ウィキペディアにはカミュやバイロンをテーマにしたアルバム・タイトルが最近のものとして載っている。ずいぶん遅くなってしまったが、もう少し彼の歌を聴いてみようかという気になった。

van3.jpg 対照的に1945年生まれのヴァン・モリソンのアルバムは、そのほとんどを持っている。最新作の『Latest Record Project Volume 1』は彼の42作目のアルバムである。コロナ禍でコンサート・ツアーが出来ず、日常から隔離された中で作られたアルバムのようだ。28曲が収められていて、ジャズ風なものやR&Bやブルース、そしてケルティックなど、いつもながらの調子の歌が並んでいる。ほとんどが新作というから、彼の創作意欲が健在であることがわかる。

彼についての最近の情報を探していると、ライブ演奏を全面禁止した英領北アイルランド自治政府に対して、その決定を見直すよう提訴したというニュースを見つけた。また、コロナやその対策に抗議して「Born To Be Free(自由になるため生まれた)」「As I Walked Out(外に出たら)」「No More Lockdown(ロックダウンをやめろ)」といった歌も作ったようだ。残念ながらこれらの曲は、今回のアルバムには収められていない。

とは言え、収められた歌には彼らしいタイトルのついたものが多い。「精神分析者のボール」「誤りのアイデンティティ」「ダブル・バインド」「ジェラシー」は心理学や社会学の論文名のようだし、「なぜフェイスブックに載ってるんだ?」「愛は警告なく来るべきだ」「反逆者はどこに行った」といった題名もある。なお意気盛んな様子がよくわかる歌が並んだアルバムだと思った。心臓が弱くて飛行機には乗りたくないから日本には来ないと聞いたことがあるが、いつまでも元気な様子で何よりだ。

2021年10月11日月曜日

ジェニファー・ラトナー=ローゼンハーゲン 『アメリカを作った思想』(ちくま学芸文庫)

 

america1.jpg アメリカ合衆国はコロンブスから数えてもまだ、530年ほどの歴史しかない。政治や宗教、あるいは貧困や一獲千金目当てにヨーロッパから移り住んだ人、その人たちによって奴隷として送り込まれた人、そしてもちろん、新住民によって追い立てられ、滅ぼされた先住民などによってできた国である。極めて雑多で多様な人たちによって出来た国だが、20世紀以降、現在に至るまで、世界をリードし、支配してきた国でもある。一体、そのアメリカとは、どんなふうにしてでき上がったのか。この本は、その思想的側面に注目して分析した歴史書である。

ヨーロッパからの入植者が始まった時、北アメリカにはすでに5千万人を越える人たちが1万年以上も暮らしていた。この人たちは、中南米にあったマヤやインカといった帝国と違って、数千にも別れた部族社会で、ことばも暮らし方や習慣も違っていた。入植者たちは先住民に助けられ、また教えられることも多かったが、土地を奪い、殺し、また天然痘などを感染させて、その多くを滅ぼすことになった。しばらくは先住人との対比でしか自らのアイデンティティを自覚できなかった新住人たちが、アメリカ人として自覚し、建国するまでには数百年の時間が必要であったという。

アメリカが作られる過程では、もちろん、ヨーロッパからの新しい思想や哲学、あるいは文学が輸入された。そこからアメリカ的なものが生まれるのだが、この本でまず取り上げられているのはアメリカの独立の必要性を説いたトマス・ペインの『コモン・センス』であり、エマソンやソローに代表される「トランセンデンタリズム」(超絶主義)である。この自由と平等に基づくアメリカ生まれの新しい思想は、当然、奴隷を使う農耕を基本にする南部では受け入れられず、南北戦争が起こされることになる。

「トランセンデンタリズム」はダーウィンの「進化論」をもとに、人間が神によって現在のままにつくられたのではなく、多様な形態で進化してきたことを説き、白人も奴隷も同じ人間であることを主張した。しかしここには対立的な立場もあって、進化の過程で優劣が生じ、白人の優越性が生まれたと主張する「社会的ダーウィニズム」と呼ばれる動きもあった。この「進化論」をめぐる両極端の考えは、今でもなおアメリカを二分する思想の根にあるようだ。

アメリカを代表する哲学は「プラグマティズム」だと言われている。ジョン・デューイによって始められたこの哲学は、「普遍的で時間を超越した真理の探究を放棄し、かわりにある命題が真なのはそれが含意ないし予測する実践上の帰結が実際に経験として現れる場合だと言うことを強調した。」真理や信念はテストされる命題に過ぎない。それは何より実証的、経験的であるべきであり、現実に目を向け、そこから出発すべきだと考えた。「ダーウィニズム」や「トランセンダリズム」に影響されて生まれた「プラグマチズム」は20世紀のアメリカを根元から支える哲学になった。

こんなふうにしてアメリカの歴史を読み解いていくこの本には、今まで読んだことも聞いたこともない本や人の名前が次々登場する。先住民について、奴隷について、そしてもちろん移住者たちについて、今まではあまり注目されなかった文献を丹念に集め、徐々にアメリカ的なものが自覚され、思想が生まれ、国家として確立していく過程が丁寧にまとめられている。アメリカの歴史も「トランセンデンタリズム」も「プラグマティズム」も興味があって、ずいぶん読んできたが、今までとは少しだけ違うアメリカの歴史を知ることができた。

2021年10月4日月曜日

iMacで悩んでます

 マッキントッシュのOSが"Catalina"から"Big Sur"に更新されたようです。ようですと書いたのは、僕の使うiMacには更新の通知が届いていないからです。パートナーがビッグ・サーに更新しろと言ってきてると聞いて、初めて気がつきました。どうして僕の所には来ないのか、気になってAppleを調べると、"Big Sur"はiMacでは2014年以降のモデルに対応とありました。僕のiMacは2012年ですから、もう新しいOSには対応しないというわけです。さて、どうしようか。かなり悩ましい問題です。

そう言えば、僕の使うiMacはすでに9年も経っているのです。そんなになるのかと思いましたが、今でも問題なく動いています。壊れるまでは使うつもりでいましたが、OSが更新できないとなると、ぼちぼち買い替えを考えなければなりません。けれども 、iMacにつなげて使っているディスプレイは、新しいiMacでも使えるのでしょうか。Appleは現在、ディスプレイを販売していないのです。

僕は1989年からマッキントッシュを使い続けています。今までに購入したマックはおそらく10台を超えているでしょう。何しろ最初の頃は数年経つと処理速度が遅くなって買い替えなければならなかったのです。しかも、最初に買ったSE30は100万円近くもしたのです。そこにいくと、最近のパソコンは進化が遅くなった気がします。今使っているiMacのプロセッサーを調べると、Quad-Core Intel Core i7で処理速度は3.4GHz、プロセッサーの個数は1、コアの総数は4とありました。今売っているものとどれほど違うのでしょうか。

同じ27インチで調べると、3.1から3.8GHzまで3種類あってコアが6〜8とありました。ターボブーストを使うと最大5GHzになるとありましたが、ここ10年、あまり変わっていないことがわかりました。これなら壊れない限りは買い替える必要などないなと思いました。しかし、24インチのiMacは新しいのが出たばかりで、プロセッサーはApple M1チップという新しいもののようです。さらに、これから発売されるものとして30インチのiMacの噂があるようです。今は大きな変化の時期なのかもしれません。

もう一つ気になるのは、新しいiMacを購入したら、古いiMacをディスプレイとして使えないかという問題です。壊れていないのに捨てるのは何とももったいない気がするからです。今のところダメという記事が多いですから、やっぱり壊れるまではこのまま使うことにしようと思っています。そのためにも、iMacにあるデータは確実にバックアップしておかなければなりません。

AppleはGAFAの一角として世界を席巻しています。その旗手(機種)は何といってもiPhoneでしょう。僕は2014年に最初のiPhoneを購入して、昨年SE(第2世代)に買い替えました。最初の5sが6年で使い物にならないほどに遅く感じられたからでした。もっともiPhoneは電話以外にはほとんど使っていませんでしたから、買い替える必要もなかったのですが、今さら電話だけで使う携帯に代える気にもならなかったのです。Appleは毎年新機種を出しています。それに合わせて毎年買い替える人がかなり多いのでしょう。パソコンとは力の入れ方がずいぶん違うとつくづく感じました。

2021年9月27日月曜日

巣ごもりの秋

 

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家の修復工事が終わった。とは言え、母屋の屋根や壁はとっくに済んで、後は工房の入り口と玄関の腐ったログの補修だけだった。しばらくおいて9月に再開となったのだが、ログの補修には感心した。下左のように、雨に晒されて左半分が腐食をしていたのだが、それをきれいに削り取って、形に合わせて積み木のように木を重ねて紙を貼り、その上からモルタルを塗った。仕上げには木目なども入れて出来上がりで、後は僕が塗料を塗れば、ほぼ元通りになって、ちょっと見ではわからないほどになる。これはアートだなと、満足した。

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コロナ禍がまた下火になりはじめたが、ワクチンを打っていないから、ほとんどどこにも行かずに過ごしている。出かけるのは自転車で河口湖か西湖一周で、これは週に3~4回やってきた。家を出たら信号以外には止まらないし、誰かと話をすることもないから、マスクなどはしない。それでももちろん、人や車が増える週末は避けている。暑い日もあったし、雨が続いて走れない日も多かったが、晴れた日の早朝は気持ちが良かった。

forest178-4.jpg暑いので歩くのは気が進まなかったが9月になって歩きはじめるようになった。上の富士山と河口湖は母の白滝に行く途中から見える風景だが、2年ぶりに行くと、キャンプ場が出来ていて、なお造成中だった。キャンプブームにあやかったものだろうが、いつまで続くものかと疑問に思った。静かな所だったのに狭い山道をすれ違う車が多かった。母の白滝は三ツ峠ヘの登山口にあって上と下に二つの滝がある。冬に行くと流れが見えないほどに凍っている。今年は雨が多いから、水量も多かった。

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どこにも行かなくても、家の周囲で季節を感じることは出来る。今年初めてムクゲの花が咲いた。白とピンクの二色で、それぞれ別のまだまだ細い幹だ。花が咲くまでは、それがムクゲだとは知らなかった。そうしたら、パートナーがすぐ近くにもう一つ花を見つけた。コルチカム(花サフラン)という名のようで、球根らしい。種なら鳥が運んだと思えるが、球根は誰が持ってきたのだろうか。葉はなくて、土から茎が伸びて花がついている。毒があるようだが、痛風の薬になるという。こんなふうに新しく咲くものもあれば、いつの間にかなくなってしまうものもある。花畑を作らなくても、結構楽しめるものだと思った。

2021年9月20日月曜日

使える翻訳ソフト

 インターネットが始まった時に、欲しいと思ったのが翻訳ソフトだった。海外のサイトにアクセスして、面白そうな記事に接する楽しさを味わうのに、辞書片手に訳したのではまだるっこしいと感じたからだった。そこで、学科の予算で高額の翻訳ソフトを購入したのだが、ほとんど使い物にならずにがっかりした記憶がある。それに懲りて、以後ソフトを購入することはなかったが、新しいフリーのソフトが出るたびに試してみて、まだまだダメだなと感じ続けてきた。

最近、使える翻訳ソフトがあるという記事に触れて、実際に試してみた。そして、その実力にびっくりした。"Deepl"はドイツのケルンにある"Deepl GmbH"が開発したソフトである。ウィキペディアには「Google翻訳より精度が高く、微妙なニュアンスのある翻訳ができると肯定的な報道を受けている。」とあった。

"Deepl"は英語だけでなく24の言語を552の言語ペアで翻訳することができるようだ。何より、5000文字以内であれば、無償で利用できるのがありがたい。もちろん長文でも、5000文字ずつに分けて翻訳すれば、どれほどの量でも訳すことができる。日常的によく利用しているが、英語から日本語だけでなく、自分の書いたものを英語にすることも試していて、ちょっとした修正だけで、十分使えることも確認した。

たとえば、最近では大谷選手の活躍を伝えるMLBのニュースをコピペして、日本語にすることをよくやっている。たとえば、次のような文章だ。

Angels manager Joe Maddon indicated on Thursday that Ohtani could be shut down for the season with soreness in his pitching arm, but Ohtani threw a 32-pitch bullpen session without any issues on Friday. Ohtani was originally scheduled to start Friday's series opener against Oakland, but will now take the hill in Sunday's finale. Right-hander Jaime Barria is expected to be pushed back to start against the Astros on Monday..

 エンゼルスのジョー・マドン監督は、木曜日に大谷選手が投球腕の痛みで今シーズンを棒に振る可能性があると指摘しましたが、大谷選手は金曜日に32球のブルペンセッションを行い、問題なく投球しました。当初、大谷は金曜日のオークランドとのシリーズ開幕戦に先発する予定でしたが、日曜日のフィナーレで登板することになりました。また、右腕のハイメ・バリアは、月曜日のアストロズ戦での先発に延期される見込みです。
ほぼ修正のいらない翻訳だが、それでは和文英訳はどうか。自分の書いた文章で試してみた。前回載せた「オリパラの後は自民総裁選ばかり」の冒頭の部分だ。
 オリンピックが始まると、NHKはもちろん、民放までが中継一色になった。そうなったらもう見るものがまるでない。当然、パソコンでネットを見る時間が多くなった。Amazonで映画を見ることが増えたし、大谷の出る試合もAbemaで楽しむようになった。どちらもスマホとテレビをつなげて大画面で見ることができたから、放送局の提供する番組など、ほとんど見る必要もなかった。

When the Olympics started, NHK and even the commercial broadcasters went all in on the coverage. Then there was nothing left to watch. Naturally, I spent a lot of time on the Internet on my computer, watching more and more movies on Amazon and enjoying Otani's games on Abema. In both cases, I was able to connect my phone to the TV and watch on the big screen, so I hardly needed to watch the programs offered by the broadcasters.

自分で訳すよりずっとましな気がする。これだけできれば、英文のサイトを作ろうかといった誘惑にかられてくる。とはいえ、数ヶ月をかけてホームページを丸ごとBloggerに転載したばかりだし、英文でのコメントがたくさん来たら、その返答に忙殺されるかもしれないからと、二の足を踏んでいる。 

2021年9月13日月曜日

オリパラの後は自民総裁選ばかり

・オリンピックが始まると、NHKはもちろん、民放までが中継一色になった。そうなったらもう見るものがまるでない。当然、パソコンでネットを見る時間が多くなった。Amazonで映画を見ることが増えたし、大谷の出る試合もAbemaで楽しむようになった。どちらもスマホとテレビをつなげて大画面で見ることができたから、放送局の提供する番組など、ほとんど見る必要もなかった。ついでに言えば、この間の新聞もまるでスポーツ新聞のようで、ほとんど読むものがない日が続いた。

 ・ところが、やっとパラリンピックが終わると思ったら、菅首相が突然、総裁選に出ないと発言して、テレビは自民党の総裁選一辺倒になった。これは政権をとった民主党が次の衆議院選挙で負けた時の再現で、不人気の菅に代わる総裁を選ぶことで、自民党の支持率を大きく挽回させるだろうと思った。これが政権に対するテレビメディアの忖度だということはできるだろう。けれども、誰が総裁になり、選挙で勝って首相になるのかは、視聴率のとれる話題であることも間違いないのである。 

・僕はもちろん、そんなテレビ番組は見ていない。しかし、政治問題に特化したYouTubeのサイトでも、批判的とは言え、やはり総裁選で盛り上がっている。そして以前にも増して、視聴者数が増えている。いち早く立候補して、幹事長の任期を限定して注目された岸田。世論調査では一番支持されている河野、二番目の石破。そしてウルトラ右翼の高市等々、候補者の顔ぶれにはバラエティがあるし、裏で安倍や麻生が暗躍しているようだから、政策などそっちのけで、まるで競馬の予想をするようににぎわっている。 

・それに比べて、野党はほとんど無視されたままだ。菅再選が順当とされていた時には、衆議院選挙で与党が大敗し、政権交代もありうるのではと言われていたのに、あっという間の政局の反転である。とは言え、野党も選挙に向けて体制を整えてきたようだ。立憲、共産、社民、そしてれいわが共闘して、政策協定も結んだ。コロナ対策、消費税、原発など、自公政権とは違う施策を盛り込んで、対決姿勢を鮮明にしたと言えるだろう。ただしメディアの扱いを見ていると、政策の違いを検討して投票に行くという人がどれだけいるのか、といった疑問は残る。

 ・自民党総裁選挙は変人の河野とウルトラ右翼の高市が注目されて、テレビはもちろん、週刊誌やネットで盛り上がっている。不人気の高市のイメージ作りをして、人気のある河野にスキャンダル攻勢をかけているのは電通だと言われている。仕掛けの張本人は河野を総裁にしたくない安倍のようだ。権力闘争をむき出しにした醜悪なドラマだが、物語として興味をそそられるのは間違いないだろう。コロナそっちのけでこんなことをやっていることに、テレビはほとんど批判の目を向けない。 

・衆議院選挙が行われるのは11月になるようだ。コロナの感染者が減少傾向にあるが、冬には第六波がやって来ると警告されている。おそらく、それに備えて対処しようとする動きを政府はほとんどやらないだろう。それどころか、また「Go to」や「ワクチンパスポート」をなどと言い始めている。だから第五波以上のひどい状況になるのは容易に推測できるが、その時にはまた、何とか選挙で過半数をとった自公政権に任せるほかはないのかもしれない。オリパラ、総裁選、そして衆議院選挙と、ただ囃し立てるだけのテレビの責任は重いのである。

2021年9月6日月曜日

拝啓菅総理大臣様

 

・首相宛にこのコラムを書くのは7年ぶりです。前回は安倍前総理で、首相の座について2年ほどで、「集団的自衛権」「秘密保護法」「TPP」「消費税増税」「年金の減額」「介護保険制度の改悪」「残業手当の廃止」、そして「憲法の軽視」と続いた暴挙に危機感を持って書いたのですが、安倍政権はその後6年も続きました。その間に、日本はずいぶんひどい国になってしまいました。後を継いだ菅政権が’、いっそうひどい状況をもたらしましたのは言うまでもありませんが、とうとう、辞任を表明しました。

・コロナ禍はオリンピック直前から第5波に入り、最大では全国で一日に25000人以上の人が感染しました。これまでで一番大きなもので、軽症者だけでなく中等症者も入院しにくい状況に陥っています。政府はそれを「自宅療養」といったことばで誤魔化していますが、それは「自宅放置」以外の何ものでもありません。ほとんど治療を受けず、ただ家で寝ているだけの人が全国で12万人を超えました。急に重症化する人、亡くなってしまう人がたくさんいるのは明らかですが、厚労省はその実態を把握できていないようです。

・今流行している「デルタ株」は飛沫ではなくエアロゾル(大気浮遊粒子状物質)で感染すると言われています。互いに飛沫が届かない距離をとりあっても、同じ部屋にいるだけでうつってしまう危険があるのです。感染例の一番は家庭内だと言われていますから、感染して自宅に放置された人が、他の家族にうつしてしまうことは避けられないでしょう。ところが政府は、このエアロゾルを公言せずに、相変わらず、人流や飲食を共にすることによる濃厚接触の危険ばかりを訴えています。しかし、外食はするな、人の集まる所へは行くな、県をまたいだ移動はするなと言っておきながら、オリンピックもパラリンピックも強行したのですから、国民が言うことを聞くはずはないのです。

・今がこれほどひどい状況なのに、菅首相は自らの政権の維持に懸命なようでした。コロナ対策のための臨時国会を拒否しながら、衆議院解散のためだけに国会を開こうとしているなどと聞くと、自分のことしか考えていないことがよくわかりました。どんなにあがいても、菅は既に国民の信頼を失い、早くやめて欲しいと思われていたのですが、そんなことはお構いなしに、権力の座にしがみつこうとしていたのです。その最後の悪あがきは、みっともないことこの上ないものでした。

・安倍前総理について、このコラムで戦後最悪で最低の政権だと書きました。しかし菅政権は、最悪・最低をさらに更新し続けたと言えます。安倍は嘘つきで、戦前回帰のアナクロニズム(時代錯誤)の持ち主でしたが、菅は権力の座につくことだけしか能のない人で、頭は空っぽの頑固者です。そもそも自分のことばで人を説得させる能力に欠けた人間がなぜ、首相にまで昇りつめることができたのか。日本の政治がなぜダメなのかを、これほど体言した政治家は、他にはいないでしょう。

・政治家とは、自分の考える理想や哲学を演説によって人びとに訴えかけて、その支持を力に政策を実現させる人のことです。残念ながら日本には、それを得意とした政治家はごく少数でした。安倍は嘘で誤魔化すことに長けた政治家ですが、菅は演説はもちろん、嘘さえうまくつけない話し下手で、官僚の書いた原稿すら読みまちがえるお粗末な人間です。

・この後誰が首相になるのか分かりませんが、安倍がキングメーカーだなどと聞くとうんざりします。オリパラで騒いだメディアが、次は自民党の総裁選びを煽って、野党の存在感がますます薄くなっています。衆議院選挙が終わった頃には、さらにひどい第6派が始まっているかもしれません。オリパラ後の不況も深刻化するでしょう。政治の無能さばかりが目立つ中で、日本は一体どうなってしまうのか。古今未曾有の厳冬の到来にならないことを願うばかりです。

2021年8月30日月曜日

二つの映画主題歌

・テレビがオリンピックやパラリンピックばかりやっているから、Abemaで大谷の試合を見たり、Amazonで映画を観ることが多くなった。何本も見た映画の中で主題歌が二つ気になった。映画のエンディングはほとんど見ずにやめてしまうのだが、「いい歌だな!」と思って二つとも最後まで聴き、誰の何という歌なのかをネットで確認した。

themule.jpg・一つ目はクリント・イーストウッドが監督主演する『運び屋』で、2019年に公開された彼の最新作だった。クリント・イーストウッドは91歳でなお現役の監督兼役者だが、この映画の主人公も90歳を過ぎたコカインの運び屋だった。園芸家としての仕事がうまくいかず、家族とも不仲になった老人が、それとは知らずにコカインの運び屋になって、何度も成功させる。老人が運び屋とは思わない警察のまごつきや、疎遠になった妻の最後につきあう様子などがあって、いい映画だと思った。

・その最後に流れたのはトビー・キースの「Don't let the Old Man in」で、切々と歌う低音の歌声に聴き入った。ベテランのカントリー・ミュージシャンのようだが、僕は知らなかった。ウィキペディアで調べると、愛国的な内容の歌もいくつか作っていて、トランプの大統領就任式にも招かれて歌ったようだった。YouTubeで他の歌も聴いてみたが、確かにそんな感じの歌が多かった。だからCDを買う気にはならなかったが、「Don't let the Old Man in」は歌詞もなかなかいいと思って、YouTubeでくり返し聴いている。

もう少し生きたいから この年寄りを呼びに来ないでくれ
ドアをノックしたって 呼ばれるままにはならない
自分の人生にいつかは終わりが来ることはわかっているんだから

rbg.jpg・もう一つはアメリカ初の女性連邦最高裁判事だったルース・ベイダー・ギンズバーグを主人公にした『ビリーブ 未来への大逆転』で、主題歌はケシャが歌う「Here Comes the Change」だった。ぼくはケシャについても何も知らなかったが、奇抜なメイクなどで、日本でも人気があるようだ。

・この歌は映画のために作られたもので、彼女はオファーをもらった時の気持ちを「自分はふさわしくないと思った。作曲はとても個人的なプロセスで、大体は自分自身が体験したことからインスピレーションが来る。だから、誰か他の人の人生についての曲で、それもルース・ベイダー・ギンズバーグ判事っていうことで、ちょっとおじけづいてしまった」が、「生涯をかけてたゆむことなく、また速度を緩めることもなく平等のために闘ってきたギンズバーグ判事に敬意を表するために私ができることをやりたいと思ったし、私も声を上げたいと思った」と語っている。

・ギンズバーグ判事は昨年87歳で亡くなって、トランプ大統領は選挙間近にもかかわらず、その後任に保守派の女性を任命した。ギンズバーグの人生がアメリカの法律にある性差別を指摘し、改善するために戦ってきたものであることは、映画でもよくわかった。大学に女性用トイレがなかったこと、弁護士として女性を雇う法律事務所がなかったことなど、この映画は「性別」を当たり前とする社会ヘの挑戦がテーマで、題名も「On the Basis of Sex」だが、邦題には、そんな意味が考慮されていなかった。『ビリーブ 未来への大逆転』では、何のことかわからないが、日本人にはこの方が訴求力があるのだろうか。

2021年8月23日月曜日

伊藤守編著『ポストメディア・セオリーズ』(ミネルヴァ書房)

 

postmediatheories.jpg オーソドックスなメディア論はメディアの種類や特性ごとに分類して行われてきた。新聞や雑誌といった印刷物、ラジオや電話といった音によるもの、そしてテレビや映画などの映像によるものである。もちろん現在でも、それぞれのメディアは別々に存在していて、独自なものとして扱われている。けれどもまた、それらのメディアから発信される情報や作品は、パソコンやスマホで見たり聞いたり読んだりすることがあたりまえになった。たとえば電車の中でよく見られる光景は、新聞や雑誌、あるいは本を読むのではなく、スマホを見つめる乗客たちである。この変化をメディア論はどう扱うのだろうか。この本が狙うのは、そんな変化の理論的な考察である。

メディアにおける大きな変化の根幹にあるのは、アナログからデジタルヘの移行である。それは個々のメディアにあった紙や音や映像といった特性や垣根を超えて一つにしてしまった。そして、この新しいメディアはマスメディアが特権的に所有していた一方向性という特徴を崩して、誰もが送り手になりうるという双方向性を可能にした。しかし、アナログ・メディアがそれぞれに持っていた固有な特徴が消えてしまったわけではないし、双方向性の実現がメディアの民主化をもたらしたというわけでもない。そんなポストメディア的な状況は、極めて複雑で渾沌としていて、また絶え間ない変化を伴っている。

このような難しい課題について、この本は「マシーン(機械)」「フォルム(形式)」「デザイアー(欲望)」「アルケオロジー(考古学)」の四部構成で展開している。そのすべてを紹介することはできないので、興味深かった発想や視点をいくつか取り上げることにしよう。

ひとつは映画やテレビ、パソコンやスマホなどを「スクリーン」として一括して捉えるという視点である。とりわけパソコンとスマホは、映画作品もテレビ番組もネットを介してみることができる。それは場所も時間も規制されないし、もちろん、その持ち主や仕事や遊びといった使用目的にも限定されない。公共の場にたまたま集う人たちは、それぞれが「スクリーン」を手にしていても、その使い方はさまざまである。このような現状をどう理論化していくか。それは「部分部分の描出の積み上げ自体が全体の認知を導くような枠組みとしての理論を複数実装」する必要性だという。

デジタル・メディアが提供するコンテンツには必ず、特定のフォルムがある。文字にはUnicodeなどの符号化形式があるし、音や映像にはmpgやmovといたファイル形式がある。アナログのデータはこのようなフォルムに変換して初めて、文字や音や映像として、スクリーンに再現させることができる。ただし、再現されたものの本質は、何にしても、0と1の数字の並びに過ぎない。アナログ(オリジナル)とデジタル(コピー)は同じものだと言えるのかどうか、といった疑問があるし、デジタル化されたものには加工が容易だといった特徴も生じた。

この本では大きく取り上げていないが、検索サイトから出発した「Google」や、「Twitter」、「Facebook」,そして「LINE」といったSNSの場や多種多様なゲームの世界が、それぞれ独自のフォーマット(プラットフォーム)によってできていることは言うまでもない。この「プラットフォーム」には技術的な問題だけでなく、当然、政治的、経済的、そして社会的問題がつきまとう。「GAFA」はそれぞれ巨大な「プラットフォーム」として世界の政治や経済、そして社会を動かす存在になっているが、また、その場は、影響力の強い政治的発言の場となり、有名人を生み出し、巨額な収入を得る場ともなっている。買い物の仕方を変え、音楽や映画、そしてスポーツの享受の仕方も変えたことは言うまでもない。

このような変容をどう捉えたらたらいいのか。この本の最後で語られているのはメディアのアルケオロジーである。もう一度古いメディアに立ち返って、そこから現在の状況を問い直してみる。それをメディアに関する技術と理論、そしてメディアがもたらした社会、さらには人間の意識下の動きから考えるというのは、極めてまっとうな方法だと思う。しかも重要なのは、既存の主流のメディア論ではなく、「傍流のメディア思想」だと言う。もちろん、この本はその出発点に立っている。


2021年8月16日月曜日

どこにも行かない夏


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・先月榛名湖と軽井沢に一泊旅行をしただけで、この夏はどこにも行っていないし、行く予定もない。大きな理由はもちろん、コロナの感染爆発だ。去年は北海道に十日間ほど出かけたが、この夏の感染状況を考えたら、とても無理だと判断した。もちろん東京にも、今年は一度も行っていない。母とも孫とも会えない日が、一体いつまで続くのか。いい加減うんざりするが、当分は無理だと諦めている。

forest177-2.jpg・山梨県もこのところ感染者が増えていて、つい最近、車にドライビング・レコーダーをつけようと予約したら、スバルの営業所から感染者が出ましたという連絡があった。店には入らず車を置いて帰ったが、身近で聞く初めてのニュースだった。いよいよ迫ってきたかと思ったが、だからといって、ワクチンをとは思わなかった。家にいればほぼ無菌状態だし、出かけるのは週一回のスーパーへの買い物だけで、後は自転車と山歩きだけで、訪問者もいないからだ。もっとも、絶対拒否というわけではない。必要だと思ったらやろうと考えている。

forest177-3.jpg・もちろん、どこかへ出かけたいし、誰かとも会いたい気持ちはやまやまだ。しかし、コロナ以外にも、ここ数年の夏は、どこに行っても猛烈な暑さだから、家にいるのが一番!といった気持ちにもなっている。先日は八王子で39度といったニュースを見た。その時わが家は27度だったから、「ここは天国だね」とパートナーとうなずきあった。湖畔は30度を超えていたようだが、森の中は数度低いし、屋根の葺き替えをしたおかげで照り返しがなくなって、家の中はさらに涼しくなった。だから去年買った扇風機も、今年はあまり使う必要がなくなった。

forest177-4.jpg・それでも自転車は朝の涼しい時にと決めている。家に帰れば汗びっしょりになるし、熱中症にもなりかねないからだ。オリンピックのロードレースを観てから、心なしか気張って漕ぐようになった。先日西湖に出かけて急坂を登りはじめると、ちょっと前に先行者がいて、思わず力が入って抜き去ってしまった。後で記録を見ると、いつもより1分以上も早く駆け上がっていて、競う相手がいるとこんなに違うものかと驚いた。コロナでカヤックもご無沙汰だったが、久しぶりに西湖に浮かべた。組み立て方を迷うほどしばらくぶりだったが、快晴の中、富士山を見ながら湖に浮かんで心地よかった。

・お盆になって、湖畔にも車の列や人混みができはじめた。ちょうど天気も悪くて雨ばかりだったから、本当にどこにも行かずに家の中で過ごした。一日の中心は大谷君の出る試合だった。オリンピックが始まって、NHKが中継をしなくなったが、スマホをテレビにつなげてAbemaTVで見ることができた。ここのところホームランが出なくて心配だが、投手としては、力任せではなく頭脳的なピッチングで安定している。若いのにこんな面でも感心してしまう。

creampuff.jpg・ここのところ、菓子作りにも励んでいて、カボチャやサツマイモのプディング、それにシュークリームを作ったりしている。プディングはクリーム状にならずに、どうしてもざらつきが残ってしまう。卵を少なくしているせいか、生クリームを入れないためか、これからもあれこれ考えて作ろうと思っている。外食しないから、食事もデザートも時間をかけてじっくり、ゆっくり作る。生きるをおいしく味わうために、お金を払って人にやってもらうのではなく、自分でやる。コロナ禍もあって、こんなモットーが、ますます生活にしみ込んできた。

2021年8月9日月曜日

強者どもが夢の跡

 ・オリンピックが終わった。残ったものはコロナの感染爆発で、日本選手の活躍はメダル・ラッシュとはいっても、地味な種目ばかりだったから、その勢いで衆院選にという思惑は、外れたと言っていいだろう。当初の予算の4倍以上の金を使い、終わった後も維持管理に高額な費用がかかる施設を造ったのだから、後始末をしっかりする必要があるのだが、おそらく政府や都や、オリンピックの組織委員会は、フタを閉めて知らん顔を決め込むことだろう。後は野となれ山となれで、まさに「強者どもが夢の跡」になることは明らかだ。おそらくパラリンピックも中止になるだろう。

・しかし、この2週間の間、一番腹が立ったのは、テレビや新聞といったメディアだった。テレビはどの時間にどのチャンネルを見ても、オリンピックばかりで、ほとんど見るものがなかったし、新聞もオリンピックに割いているページばかりで、読むものが少なかったからだ。そこに、全く無関係であるかのようにコロナの感染拡大を報じるニュースや記事を挟み込んでいるから、両者がまるで別世界の出来事であるかのように感じてしまったが、その関係を問わない、というよりはあからさまに隠そうとする姿勢に、もう日本のマスメディアは本当に死んだと思ってしまった。

・コロナ禍と猛暑の中で行われた競技で、参加した選手たちも大変だったろうと思う。暑すぎるから時間をずらせと抗議したのはテニスのジョコビッチ選手だが、有名だからこそ取り上げられたわけで、何も言わずに我慢した人たちも多かったのかもしれない。事前の国内キャンプがキャンセルされて、不十分な調整で望んだ選手が多かったなどの条件が重なって、いつもなら続出する陸上や水泳の世界新記録がほとんど聞かれなかった。日中は40度にもなったフィールドでは、世界新など出るはずもなかったのである。猛暑の中でのオリンピック自体が無謀だったのに、それにコロナが加わっても決行した日本について、おそらくこれから批判の声が上がるだろうと思う。

・そもそもオリンピックは、海外からの観光客の増加をいっそう進めようとする国策のひとつだった。それがコロナ禍で無観客でやらざるを得なくなった。コロナ禍はまだまだ続くから、当てが外れたホテルや外食産業が受ける打撃は、この後ますます大きなものになるだろう。オリンピックは「コロナに勝った証し」どころか「コロナに負けた見本」として語り継がれることになれば、後世の人に、なぜ中止しなかったんだと責められることなってしまう。負けるとわかっていた戦争を日本はなぜ始めてしまったのか。戦後生まれの人たちには謎だったことが、オリンピックを強行した過程をつぶさに見ることで、その理由がよくわかったはずである。

・ところで、オリンピック自体も、金にまみれたうさんくさいものであることが白日に晒されたと言えよう。IOCのぼったくり体質や貴族のように振る舞う委員の態度は世界中から反感を買ったし、それに異を唱えたり、批判することもしなかった日本政府や都の卑屈な姿勢もあからさまになった。オリンピックは次回はパリで、その次はロサンゼルス、そしてオーストラリアのブリスベンと決まっている。冬季は来年の北京の後はミラノだが、その次は未定だ。果たしてこれらの大会が予定通り開催されることになるのだろうか。大会自体の性格や質を大きく変えなければ、続けることが難しくなるのではないだろうか。少なくとも僕は、オリンピックはもうやめたほうがいいと思う。以前から感じていたが、今回のオリンピックではっきりそう思うようになった。

・スポーツは各種目や競技でそれぞれ、ワールドカップや世界大会などの大きなイベントが開かれている。サッカーや野球に典型的なように、オリンピックはマイナーな大会と捉えられている競技も数多い。しかも、普通はほとんど話題にもならないし、メディアにも大きく取り上げられることのない競技や種目が、連日、次々行われて、観戦者はただ自国の選手が出ているかどうか、どの程度の成績かなどの興味しか持てない場合が多い。サーフィンやスケボー、あるいはクライミングをなぜ、オリンピックでやらなければならないのか。若者に人気の新種のスポーツを加えて注目度を増すことを狙ってのことで、あからさまな商業主義の見本のようなものだろう。オリンピックはもうやめよう。そんな声が大きくなるきっかけの大会だったと思う。

2021年8月2日月曜日

自転車ロードレースだけ観た

 

・ テレビがオリンピック一色になって、見るものがなくなった。毎日楽しみにしていたMLBの試合をNHKは中継しないから、スマホをテレビに接続してAbemaTVやYouTubeで見ている。今日はどっちで見るか、見られるか。試合が始まるとあれこれ試さなければならないから、オリンピックが邪魔で仕方がない。もともと興味のない種目で日本がいくら金メダルを取っても、そんなことには興味も関心もない。大騒ぎしているだろうテレビなどは、見る気にもならない。それにしても、エンジェルスは弱いが、大谷は打って、投げて、走ってと孤軍奮闘の活躍だ。このまま行けば間違いなくMVPだろう。試合中も大谷が出ると「MVP!、MVP!」の大合唱になる。

roadbike2.jpg ・ オリンピックは観ないと書いたが、一種目だけ観たものがある。男女の自転車ロードレースで、両方とも、ネットで長時間つきあった。レース自体は単調だが、マラソンとは違って面白いシーンもあった。何よりスタート地点の武蔵の森公園は実家の近くで、周囲の道は熟知しているし、道志から山中湖、篭坂峠を下って富士山に登り、富士スピードウェイに至るコースも、車では何度も走っていて、わかっていた。山中湖は自転車で1周したこともあった。

・コースの全長は男子が244kmで女子が147km、獲得標高は男子が4865mで女子は2692m。この距離と大半が登り坂のコースを男子は6時間、女子は4時間ほどで走った。僕は平坦な道をおよそ30km弱で1時間ほど走るのを日課にしているから、レースがどれほどの早さで走っているかがよく分かった。平坦な道なら50km、登り坂でも30km、下り坂になると80kmを超えるスピードを出すのだから驚いてしまう。しかも連日の酷暑で山中湖だって30度近くあったはずだ。熱中症になって倒れる選手がいなかったのが不思議なくらいの過酷なレースだったと思う。

roadbike1.jpg・ロードレースは個人競技だが、複数の選手が参加する国では、それぞれに役割が与えられている。強い国は最高5人まで参加できるから、一人は、水や食料の調達と配布役になって、集団の中を行ったり来たりする。あるいはエースに何かあって遅れたりすれば、風よけになって先導して集団に追いつけるようにする選手もいる。オランダは、そうやってサポートされた女子選手が銀メダルを獲得した。ツールド・フランスでもそうだが、ロードレースには役割分担を徹底させた団体競技という性格が強くある。

・もうひとつ、6時間も休まずに走り続けていれば生理的欲求もあるはずだ。今回代表で参加し、35位で完走した新城選手が、走りながらしちゃうんだという話をしていたことがある。タイツの脇からちょっと出してするから、自分だけでなく周りの選手にも飛沫がかかる。皆やるから気にしないんだと笑っていたのが印象的だった。さて今回はどうか。そんなことも気にしながら観ていたのだが、そういう行為に及んでいる選手は見つからなかった。さて女子は………。いや、やめておこう。

・ところで、今回のコースの最大の難所は富士スピードウェイから三国峠に登る道で、平均斜度が10%で最大では20%を超えるところもある。7キロほどの道で500mも上がるから、車で走ってもアクセルを強く踏む必要があるし、下る時にはエンジンブレーキを利かせないと危なく感じる道でもある。道路にはすべり止めのドーナツ状の穴があいている。そんな道を先頭の選手は平地でも走るように登っていった。すでに東京から200km近く走ってきて、なおこの元気さは人間離れしていると思ったが、多くの選手は3週間に及んだツールド・フランスを終えて、すぐに日本に来ているのだった。

・プロ選手の強靭さと過酷なスケジュールを改めて知ることになったが、女子は数学を専門にする研究者でもあるオーストリアのアマ選手が優勝した。スタートしてすぐに飛び出して、そのままゴールまで先行したのだが、プロのレースでは、ありえないことのようだった。彼女にはもちろん、サポート役もついていなかった。2位になったオランダの選手はゴールするまで優勝したと思っていたようだ。他の大きなレースでは使われるコーチからの無線連絡が禁止されていた結果で、それも面白いと思った。

・テレビ中継がなかったせいか、沿道には大勢の観客がいた。特に府中の大国魂神社周辺は大混雑だったようだ。テレビや新聞には批判の声が多く上がったようだが、オリンピックを強行しておいて、見に行くなというのは、主催者の身勝手というものだろう。それで感染者が増えるのなら、それは主催者にこそ責任がある。メディアから聞こえる批判は、責任逃れの言い分でしかないのである。もっとも僕は、ワクチン接種をしていないから、人混みには出かけない。

2021年7月26日月曜日

榛名富士と軽井沢

 

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photo92-2.jpg・いつもなら、夏休みは長期の海外旅行をとなるはずなのに、去年も今年もできないでいる。代わりに、去年は車で北海道に行き、都市部は避けて10日間ほど旅したのだが、さすがに今年は無理だと判断した。もちろんコロナ禍が理由で、効き目や副作用がはっきりしないワクチンを打っていないということもある。とは言え、どこにも行かないというのもつまらない。と言うわけで、榛名山に行って軽井沢に1泊しようということになった。榛名山にしたのは榛名神社の奇岩をちょっと前にテレビで観て、興味をもったからだ。

・早朝、まだ涼しい時間に出発して、中央道から圏央道、関越道と乗り継いで3時間ほどで着いた。車を降りると海抜は高いのに、榛名神社はむっとする暑さで、湿度がものすごく高かった。奇岩をめぐって神社まで歩くと、もう汗びっしょりになって、ぐったり疲れてしまった。奇岩や巨岩を御神体にする神社としては熊野の新宮にある神倉神社に行ったことがある。その時は圧倒されたが、今回はテレビで見たほどではなかったと思った。道々にある七福神の像は余計なもののように思ったが、何か理由があるのだろうか。

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・神社から榛名湖へ移動。ロープウェイに乗って山頂に登った。湿気が多く、かすんでいたから、遠くにあるはずの山々はほとんど見えなかった。榛名湖は富士五湖の西湖よりも小さい円形の湖で、もう少し涼しければ、自転車やカヤックを持ってきたのだが、何しろ暑い。標高が高いのに30度を超えている。長居をせずに軽井沢に向かった。途中で妙義山の山容に出くわして麓の神社に行くことにした。急坂の上にあって行きたかったが、あまりに暑くて諦めた。碓氷峠のつづら折りを登って軽井沢へ。車が多いし、人も多い。どこにも寄らずに万平ホテルに着いた。一休みして付近を散策すると、旧軽井沢だから、瀟洒な別荘が並んでいた。

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・万平ホテルはジョン・レノンが滞在したことで有名で、一度泊まりたいと思っていた。レノンゆかりのものはなかったが、居心地の良さはわかった。ただし高額だから何日も滞在というわけには行かない。翌日は佐久から清里を走り、八ケ岳や甲斐駒ケ岳を眺め、道の駅で野菜をたくさん買って家路に着いた。甲府は35度超えのようだったが、家に近づくと気温がどんどん下がって、家に着くと25度ほどだった。涼しくてほっとした。