2001年6月25日月曜日

湖に浮かぶ


forest8-1.jpeg・毎週1、2度カヤックに乗って湖に漕ぎ出すようになった。今のところ組みたてて漕ぎだす場所はほぼ一緒だから、乗るたびに時間は長くなっている。しかし、それでもゆっくりとした動きだから、まだまだ河口湖全体を漕ぎ回われていない。ぐるりと一周するためには、たぶん3時間ほどかかるだろう。それをやるためには、腕や胸、それに腹の筋肉がなまりすぎている。ここのところ腰の状態も不安定だし、もちろん手のひらにマメができるうちはだめだ。何より今のところ、半日の時間をのんびり過ごすゆとりがない。


forest8-2.jpeg・とは言え、先日は河口湖大橋の下をくぐりに出かけた。週末は水上スキーや釣りのモーターボートで真っ直ぐ進むこともままならない。何しろ横波は禁物で、波が来るたびに直角に向きを変えなければならないからだ。だから遠出は平日の早朝ということになる。カヤックは風を背に受けるとほっておいても進む。橋まではのんびりした漕ぎ方でも簡単に行けた。ところが、そこでUターンをすると、今度は漕いでも漕いでも進まない。まるで腕立てふせを連続でやらされているようなしんどさだが、もちろん途中でやめるわけには行かない。漕がなければカヤックは風を受けて後退をはじめてしまう。まさに「行きはよいよい帰りは恐い」。たっぷり2時間。これでも湖の半分にしかならない。いつもの岸に戻った時にはもうバテバテだった。


forest8-7.jpeg・湖から見える風景はやっぱり新鮮だ。新興宗教の建物、あるいは廃屋になったホテルや旅館や別荘。ふだんは近寄ってみることもない場所がかえって気になる。湖と富士山が見える露天風呂は、湖からはまるみえなんじゃないか。へんな好奇心につられて近づいてしまったりする。あるいは湖畔にすむ知人の陶芸家の家。もちろん、大橋の下をくぐったときはやっぱり感激ものだった。もっとも、梅雨に入ってからは富士山がほとんど隠れているから、富士に向かって漕ぐというシーンはない。
・梅雨空とはいえ、暖かくなってきたから、週末には釣り客で早朝からにぎわっている。だから糸を引っかけないように気をつけなければならない。もっともその釣り客が針や糸を捨てていくから、漕ぎだすときや戻るときにもカヤックに引っかけないよう辺りに気をつけなければならない。とにかく河口湖の週末はこみすぎている。

forest8-4.jpeg・そんなこともあって日曜日の夕方、西湖に出かけてみた。大学のオリエンテーション・キャンプをやった「くわるび」のあたりには、ウィンドウ・サーフィンをする人がちらほら、釣り客も河口湖にくらべるとぐっと少ない。溶岩がむきだしの対岸まで漕いでみた。西湖は青木ヶ原の樹海の端にあたる。まだ明るさが残っているとはいえ、湖の真ん中あたりまで来ると、溶岩と樹海にちょっとたじろぐ感じがする。


forest8-9.jpeg・「カントリーレイク」でカヌーの指導員をしている人は、一度、湖に落ちた方がいいという。ひっくり返ることになれておかないと、そうなったときにパニックになるからというのだ。たとえば水上スキーやウィンドウサーフィンをしている人は、水の中にいる方が多いんじゃないかと思うほどによくこけている。それを見ていると、ついつい笑ってしまうし、どうってことはないような気がする。落ちても必ず浮くように、ライフジャケットも着ているのだから、何も怖がることはないのだが、船体をわざと傾けるのは躊躇してしまう。


・しかし、もう少し暑くなったら、かならずやってみようと思う。西湖や本栖湖は水深があるから万が一の時のために経験は積んでおかなければならない。などと、我ながらだらしがない。

2001年6月18日月曜日

"The Hurricane"

 

・『ハリケーン』は世界チャンピオンだったボクサー、ルービン・カーターの物語である。彼は10代の大半を少年院で過ごし、また30代と40代を刑務所で過ごした。しかもどちらも、黒人差別に根ざした不当逮捕。獄中から何度も再審請求をし、モハメド・アリやボブ・ディランが支援したが、却下された。そしてその主張が認められて釈放されたときには。ルービン・カーターはすでに50代になっていた。『ハリケーン』はその実話にもとづく映画で、主役を演じるのはデンゼル・ワシントン。僕はディランの歌で、その話を知っていたから、楽しみにしていた。
・ 映画は一人の黒人少年に光を当て、ルービンが書いた自伝への関心と、そのあとに作られる二人の関係を軸に描かれている。同じように貧しい家庭に育ったが、環境保護運動をするカナダ人たちに引き取られて、高校に通う。その幸運に恵まれた自分の境遇とカーターの不幸の違いが少年の心を突き動かす。そして彼の気持ちを全面的にバック・アップするカナダ人たち。
# 映画そのものはハリウッド映画の常套手段で、主人公の苦悩や挫折にもかかわらず黒人少年の献身的努力でハッピーエンド、例によっての法廷での感動的な弁舌といったもので、少年を支えるカナダ人はまったく非人格的といっていいほどに心の葛藤や日常生活を捨象して描かれているが、それでも、夢中で見てしまった。原因はやはり、ディランの歌にあったのだと思う。

ピストルが響いた酒場の夜
パティ・バレンタインが降りてきて
バーテンが血の海に倒れているのを見る
「たいへん、みんな殺されている!」
というわけで、ハリケーンのはなしがはじまる
彼こそ権力が罪を負わせようとえらんだ男
なにもしなかったのに 独房にいれられた
だがかつては 世界チャンピオンだったはずの男

・ 改めてディランの「ハリケーン」を聴きなおすと、この歌が事件の経過を忠実に物語っていることに気がつく。バラッドとはまさにこういう内容の歌をいうのである。「みなさん聞いてよ、こんなことがあったんだ」。と語りかけながら、ことの真相や問題、あるいは結末を歌う。バラッドは新聞が登場する以前からあったジャーナリズムの原初形態で、それがフォークソングやロックに引き継がれた。おもしろいのは、その形式がラップにもしっかり残っていることだ。映画に挿入された同名の曲「ハリケーン」を歌うのはヒップ・ホップのザ・ルーツ他。

究極の犠牲を払うとはまさにこのこと
ハリケーンはずっと投獄されていたのさ
地獄の底に突き落とされ、刑務所の中で男は成長した

彼は自分のやるべきことをやり、リングの王者になった
話題になりはじめたハリケーンを当局の奴らは封じこめようとしたのさ
ヤツらは彼を陥れ、牢獄にぶち込んだ

・ことばは映像と違って簡潔だ。「血の海」の一言に、凄惨なシーンをイメージさせるのは受け手の役目だからだ。もちろん、そのことばに送り手が感情を込めることはできるが、それはあくまで、受け手がそれぞれにイメージさせるものに働きかけるにすぎない。一方映画はイメージそのものをつくりだすことで成り立つ表現手段だから、受け手は現実に近いものに直接立ち会うように経験する。そこにことば以上のリアリティを感じることもあれば、またかえってうそっぽさや陳腐さを受けとることも少なくない。『ハリケーン』でも、そういった作りすぎの描写にしらけたり疑ったりすることもあったが、また映画ならではというシーンも多かった。
・シーンの多くは独房でのカーターの表情。デンゼル・ワシントンの顔の演技は見応えがあった。絶望や希望、不安や安堵、怒りや喜び、そういった感情を微妙な顔の表情でどう表現するか。これは映像ならではの描写だと思った。
・映画俳優の仕事の特異性は、その演技を観客に対してではなく、カメラという無反応の機械の前で演じるところにある。それをいちはやく指摘したのはベンヤミンだった。観客は、役者が機械を相手にした演技を、あたかも至近距離で見ているかのようにして経験する。映画はそれが作られる場と公開する場が断絶していることによって成り立つ表現手段。そのことを自覚するのは写し取られる者だけであって、ふつうは観客は無自覚に見てしまう。デンゼル・ワシントンの演技に惹きつけられている自分を自覚しながら、時にボクサーになったり、弁護士になったり、刑事なったりするする映画俳優の仕事の奇妙さについて考えてしまった。

2001年6月11日月曜日

アンケートで考えたこと

 

  • 大阪市大の学生から卒論用のアンケートの依頼が来た。卒論のテーマは「発表という行為の価値の自明性」。質問は次のようなものである。
  •  釈迦と言う人物は仏教でいう「悟り」を見い出し、そしてその教えを広めた人物で すが、この「悟り」を見い出したときのエピソードがとても興味深いのです。釈迦は「悟り」を見い出したとき、余りの喜びに、「しばらく誰にも言わないでおこう」と思い、しばらくの間、誰にもその「悟り」を伝えなかったのだそうです。
  • つまり釈迦は最初はその発見を発表しないでいたのです。このエピソードから私は、「なぜ発表するのだろう」という素朴な疑問を抱きました(もちろん釈迦に対してではなく、発表一般に対して)。そこで、実際に発表していらっしゃる方、特に新しい発表の場であるインターネットのホームページ上に論文をアップしていらっしゃる人に直接お聞きし、探っていこうと思いました。あなたのように個人でこのようなホームページを運営されていらっしゃる方が、このテーマにふさわしいと思います。

    1.あなたにとって発表とは何ですか?
    2.何故あなたは、発表をしようと思ったのですか?動機をお聞かせ下さい。
    3.発表をしたことによって、どのような変化・効果・などがありましたか?
  • で、ぼくは次のように応えた。
    1)「発表」ということばに違和感を覚えますが、他人とは違う自分の思いや考えを持っているという自覚が、それを形にして公表しようとさせるのではないかと思います。ぼくが考えることは釈迦の「悟り」などというだいそれたものではなく、極めて私的な戯れです。世の中を変えようとか人を導こうなどとは間違っても考えたことはありませんが、やはり、反応があってコミュニケーションがおこることには喜びを感じます。
    2)研究者であるぼくにとっては、考えたこと、作り上げたものは公表するのが基本です。いろいろ考えてみたいことがあったから研究者になった。なったからには、考えたことは公表する。ようするに、それを職業として選択したのだと考えています。
    3)一概には言えません。紀要などに論文を書く、雑誌や新聞の依頼に応えて原稿を書く、あるいは本にまとめる。また学会で発表というのもあります。発表する場の違いは当然、受け手の違いになります。したがって、発表のスタイル(文体)や内容も変えることになります。発表が何か変化や効果をもたらしたという実感はあまり持ったことがありません。個人的な関係が生まれることはありましたが……。
     実は、このような反応の少なさには以前から物足りなさを感じていました。インターネットの存在を知ったときにいち早くホームページを開設したのは、それまでの発表の場とは違うスタイルで異なる人たちと出会えるのではという期待を持ったからです。そのような期待はある程度実現していますから、休業状態にならないよう、せっせとHPを更新しています。
     ですから、HPにいわゆる論文のたぐいは載せていません。本にしても、紀要にしても、それは図書館に行けば手にすることができます。そういうスタイルではない公表の場、幅広い受け手を想定して、思ったこと、考えたことを気楽に書いていく場として考えています。
  • と、もっともらしいことを書いたが、「書くこと」とそれを「公表すること」については、ぼくはその姿勢をG.オーウェルの「なぜ私は書くか(Why I Write)」というエッセイから学んだ。というよりは自覚させられた。彼が考える「書く」動機は次の4点である。
    1)純粋のエゴイズム………賢い人だと思われたい、人の話題になりたい、死んでからも覚えていてもらいたい、子どもの頃自分をバカにした大人たちを見返してやりたい、その他いろいろの欲望。
    2)美的情熱………自分の外の世界の美しさ、または言葉とその適切な組み合わせの美しさを感じること。一つの音がもう一つの音に与える衝撃、よい散文の確かさとか、おもしろい物語りのリズムの楽しみ。
    3)歴史的衝動………物事をあるがままの姿で見たい、本当の事実を見つけて後世の使用のためにたくわえておきたいという衝動。
    4)政治的目的………ある方向に世界をおしていきたい、どんな社会を実現することを目標として努力すべきか、などについて他人の思想を変えたいという欲望。
  • どれもあたっているが、「エゴイズム」を最初にあげているところが「精神的誠実さ」を作家としての基本姿勢にしたオーウェルらしいと思う。「エゴイズム」がなければ、エネルギーは続かないが、またそれだけでは人には伝わらないし共感も影響も与えない。
  • 2001年6月4日月曜日

    カヤックから見える風景

     ・河口湖にはカヌーをレンタルしたり、教室を開いたりしているところがあって、以前からやってみたいと思っていた。「カントリー・レイク・システムズ」という名で、修学旅行生にカヌーを体験させたりしている。そこに注文して、組み立て式のカヤックを手に入れた。フォールディング・カヤック「ウムナック380」。タンデム(二人乗り)で重量は15.5kg。組み立てには10分と書いてあるが、40分はかかる。慣れてもとても10分は無理だろう。もうこれで一汗かいてしまう。


  • 組み立ててさっそく漕ぎだしてみた。二人乗ると、やっぱり重いし、揺れるのが恐い。湖にある唯一の島を一周して40分ほど楽しんだ。岸辺には釣り人、ボートでの釣り客も多い。それにモーターボートと水上スキー。これは波を立てるから、近づいたら急いで波に直角にカヤックを向けなければならない。湖の上も結構混雑していて、のんびり浮かべて昼寝、などというわけにはいかない。
  • お尻はもう、湖面にあるから、ちょっとした揺れでも転覆しそうな感じがする。直進、旋回もなかなか難しい。まだまだこわごわだが、そのうち河口湖を一周したり、西湖や本栖湖にも遠征するつもりだ。
  • それにしても水が濁っている。藻がいっぱいだし魚のにおいで生臭い。岸辺には釣り糸やルアーが捨ててある。もちろんゴミも多い。湖に漕ぎ出すと風景はまた違って見えた。



  • 乗り終えて片づけていたら、中学生のカヌー教室が始まった。神戸から修学旅行に来ている子どもたちで、昨日はペンションに分宿したようだ。もう十分にやり慣れたインストラクターたちの説明だが、子どもたちの反応はおとなしい。大学のゼミと一緒。並んだ顔を見ていると、どうしてこんなに生きる力に乏しいんだろうと思ってしまう。
  • しかし、いざカヌーに乗り始めると、ワーワー、キャーキャーという歓声がではじめる。前進、後退、回転。オールの漕ぎ方を教わっても、カヌーは意のままにはならない。しかし、子どもたちの表情にやっと生気が溢れてきた。僕はやる気満々だったが、すぐくたびれてしまった。カヤックで体力の回復をと思ったが、やっぱり体力はもっと日常的に鍛えなければだめだな、とつくづく思った。