1997年5月31日土曜日

Van Morrison "The Healing Game"


・アイルランド出身のミュージシャンには個性的な人たちが多い。U2、エンヤ、シンニード・オコーナー、そしてヴァン・モリソン。サウンドはそれぞれにずいぶん違うが、彼/彼女らの誰もが、アイリッシュであることを表に出す。だから、アイルランドが政治や宗教、そして民族といったさまざまな問題を抱えた国であることが否応なしに自覚される。
・数年前にU2のコンサートに行ったときに、ボノが「今夜はみんなアイリッシュだよ」と言った。ぼくはそのことばにちょっと違和感を感じた。「ここはファー・イーストだよ。『血の日曜日』という曲は知ってても、アイリッシュの心に共感したくてコンサートに来たヤツなんていないだろ」。そう、ぼくにとって、アイルランドは遠いなじみのない国。だから、彼や彼女らの音楽にはたまらなく惹かれる気持ちを持っても、そこにいつでもつきまとう「アイリッシュ」には、できれば脇に置いておきたいという感じを持っていた。
・先日BSでアイルランドを訪れる番組を見た。黒ビールとパブとケルト人の遺跡を訪ねるのがテーマだった。ほとんど木が生えていない土地。というよりは、岩盤の上にわずかに堆積した土だけでできている土地。そこにしがみつくようにして生きてきた人たち。そんな土地からも追い出された人たち。そして、アメリカに逃げた人たち。アイルランドはアメリカに一番近いヨーロッパである。そのアメリカにはアイリッシュの子孫が数千万人も住んでいる。
・長田弘は『アメリカの心の歌』のなかでヴァン・モリソンにふれ「内なる土地」ということを書いている。生きるには厳しすぎる環境、だからこそ、かけがえのないものとして育まれた独特の文化。そんな土地からの追放という歴史が、自らの文化への愛着を持続させる。アイルランド人は心の中にもうひとつの土地を持つ。「内なる土地」は「どこでもない場所であるすべての場所」、「精神の国」。U2が僕らに言ったのはその場所、その国のことだったはずだが、ぼくにはそんなことはわからなかった。だとしたら、その時ぼくは、U2の音楽に何を聴いていたのだろうか?
・ヴァン・モリソンは「ゼム」のリーダーとして「ビートルズ」や「ローリングストーンズ」と同時代にロック・ミュージシャンとしてデビューしたが、1968年にソロ・シンガーとしてはじめてのアルバム『Astral Weeks』を出した。『T.B.Sheers』(1973)『Wavelength』(1978)などの初期のものから『Irish Heartbeat』(1988)『Avalon Sunset』(1989)などを経た最近の『Too Long in Exile』(1993)に至るまで、歌のテーマもサウンドもほとんど変わっていない。変わったことがわかるのはアルバム・ジャケットで見る彼の外見だけである。

ここにまた俺がいる
この街角に戻ってきた
いつも俺はここにいた
すべてが同じ
何も変わっていない
この街角に戻ってきた
癒しのゲームの中で

・『The Healing games』は今年出た彼の最新のアルバムである。歌詞の通り、何も変わっていない。けれども、いつも新しい。というよりは新鮮と言うべきだろう。彼の歌にはいつでも、僕らがとっくになくした、あるいはいまだ手にしたことがない「ハートビート」が確かにある。 (1997.05.31)

1997年5月27日火曜日

ジョゼフ・ランザ『エレベーター・ミュージック』(白水社)

 

・「エレベーター・ミュージック」というのは聞き慣れないことばだ。エレベーターに音楽なんてあったかしら?そんなことを考えながら、この本を手にした。中身は BGMの歴史といった内容だった。おもしろそうな感じがして買って読んだが、BGMがこんなに多様な世界を作り出してきた(いる)ことに改めて驚かされた。

・クラシックは精神を集中させて聴く音楽だ。だから、コンサートでは物音一つたてられない。ロックは聴衆が一緒になって手をたたき、躍り、歌う。リラックスはしているが、やっぱり、心も身体も音楽に向かっている。そして、音楽の聴取とは、普通、このような聞き方を指す。けれども、それ以外に、僕たちはいろんなところで、いろんな音楽を聴く、あるいは聴かされている。

・ BGMの歴史は電話を使った有線放送に始まる。だから、この本はラジオとレコードに始まる音響メディアの歴史書だといってもいい。サーノフが作った家庭用のラジオ受信機は、はじめは「ラジオ・ミュージック・ボックス」と名づけられた。ある意味では、電話もラジオも音楽を聴くために考案されたということになるようだ。映画がトーキーになると映画音楽というジャンルが生まれた。映画にとって音楽はあくまで背景だが、それによって観客は、物語により没入しやすくなった。やがて職場や公共の場所に音楽が侵入しはじめる。仕事の効率、公共の場での秩序の維持、あるいはちょっとした心の平安、そして騒音の隠蔽.........。

・20世紀になって日常生活のなかに侵入しはじめた音楽は、一方では、人びとの気持ちをリラックスするものとして受け入れられたが、同時に、人びとを管理統制する道具としてもみなされた。公共の場での音楽は、そこに集う人びとのためにあるのか、あるいは、人びとをコントロールしようとする人間のためにあるのか。これは、BGMについて最初からついてまわる議論だが、そのような論争は現在にまで持ち越されている。

・BGMは、さまざまな社会的場面の背景を色づける。特に関心を持って聴くことはないが、否応なしに誰の耳にも入る。ユニークさというよりは最大公約数、味わいというよりは耳障りの良さを心がけて作られる音楽だ。だから、音楽としての評価を受けることはほとんどない。というよりは、音楽に関心のある人には、必ず軽蔑される種類の音楽だと言っていい。けれども、サティが「家具の音楽」と言ったときには、そこには、かしこまって聴くだけが芸術だとするステレオタイプ的な音楽観に対する批判が強くあった。

・20世紀の後半になるとテレビが登場し、若者たちの騒がしい音楽であるロックンロールが生まれた。街にはさまざまな新しい空間が作られ、駅や空港などが巨大化した。そのような場は放っておけば、たちまち騒音が渦巻く空間になってしまう。あるいは音のない、気づまりで気味の悪い時間を作り出しかねない。だから、一定のコンセプトにもとづく音づくりが必要になる。「エレベーター・ミュージック」「ミュージック・フォア・エアポート」。もちろん、音楽による空間の演出は、プライベートな場においても例外ではない。ラジオ、ステレオ、CDラジカセ、そしてカー・ステレオやウォークマンによる好みの音楽世界の持ち運び。

・映画やテレビ・ドラマの世界にはいつでも音楽が流れている。そして、現在では、日常生活の中にどこでも、いつでも音楽が流れていることが自然になった。であれば、なおさら、音のデザインが必要になるはずだ。そんなふうに考えていたら、ふだん乗るエレベータにも音楽がほしくなった。

1997年5月25日日曜日

「矢谷さんと中嶋さん」

・矢谷さんと中嶋さんは職場の同僚だが、最近二人から、それぞれ、本をプレゼントされた。矢谷滋國『賢治とエンデ、宇宙と大地からの癒し』(近代文芸社)、鈴木・中道編『高度成長の社会学』(世界思想社)。いただいたものは読まなければいけないし、それなりの感想を述べなければならない。そうは思うのだが、実はこれがなかなかできない。読まなければいけない本、読みたいと思って買った本が山積みなのである。二人は同世代だが、矢谷さんは大阪、中嶋さんは福井の出身である。
熟読したとは言えないが、しかし、一応がんばって読んだ。日頃から話として聞いたり議論している内容で、正直言って目新しさは少ないが、だからといってどうでもいいテーマだというわけではない。そこで、書評というよりは、感想を少し書くことにした。
矢谷さんは現代の社会や生活の特徴を、自然のモノ化ととらえている。それが「作る人を賃金労働者に、作られたモノを商品に、使用する人を消費者に変形することによって、豊かないのちのつながりを分断してしまい、生命的な関わりを貧困化してしまった」と言う。彼は大学の近くに土地を借りて、学生と米や麦を作っている。あるいは学生を連れて山奥でキャンプをする。それは彼によれば、豊かないのちのつながりや生命的な関わりの再発見の試みである。
中嶋さんは、矢谷さんとは違って近代化を肯定する。「貧しいことよりも豊かであることの方がより望ましいことは確かである。........一定の経済的豊かさのなかで、人はそれなりの選択肢を持つことができる。」農家の貧しさや仕事のつらさを知っている彼には、自然や農業に対する思い入れはない。
中嶋さんは無類のパチンコ好きだが、矢谷さんから見れば、それは「日常生活の現実を一次的に忘れる」ものにすぎず、真の成長や変革をわれわれにもたらすものではない。しかし、そういう彼もしょっちゅう飲んだくれていて「日常生活の現実」を頻繁に忘れているように見えるし、中嶋さんから見れば、米づくりやキャンプとて、道楽の一つにしか映らないだろう。ちなみに矢谷さんは西宮のマンションに住んでいて、中嶋さんは奈良県の榛原である。山間に不似合いな新興住宅地だが、こちらの方が自然には恵まれている。
こんなふうに書くと、二人のちぐはぐさを並べておもしろがっているみたいだが、しかし、そんなちぐはぐさは、多かれ少なかれ現代人が共有するものである。
矢谷さんは現代の豊かさを捨てて昔に戻りたがっているが、中嶋さんはその意見には説得力を感じない。けれども、彼もまた、この豊かさにインチキ臭さを感じている。しかも、豊かさの追求は、今、アジアや中南米、そしてアフリカの人びとが抱く最大の関心事になり始めている。
一体人間は、これからどこへ行こうとしているのか。地球はどうなるのか。そんなことを考えると、底知れない不安に襲われそうになる。けれども、いったん手にしたものを捨てる気になど、とうていなりそうもない。いいじゃないか、とことん行くところまで行って、それで人間が消滅すれば、それはそれでしかたないじゃないか。ぼくは基本的には、そう思っている。願わくば、その時にもし立ち会うことになったら、自分一人でも生き延びたいなどと、悪あがきはしたくない。と思うのだが、ちぐはぐな日常に半ば無自覚に適応しているぼくとすれば、最後の最後まで悪あがきをするのでは、という心配がないでもない。


1997年5月20日火曜日

『デカローグ1-10』クシシュトフ・キェシロフスキ

 

  • 『トリコロール』三部作で知られるK.キェシロフスキはポーランド出身の映画監督だが、去年54歳で死んだ。『トリコロール』の三部作や『二人のベロニカ』を見た印象は、愛をテーマにして、人間関係を微細に、しかも自然に描くのがうまい人というものだった。彼が1987年にテレビ・ドラマとして制作した『デカローグ』の十話は、そんな印象をより鮮明にさせるような作品だった。十の話には、それぞれ「ある〜に関する話」という簡単なタイトルがついていて、〜には「運命」「選択」「クリスマス・イヴ」「父と娘」「殺人」「愛」「告白」「過去」「孤独」「希望」が入る。
  • 病気で生死の淵をさまよう夫のいるドロタの身体には、別の男性との間にできた子どもがいる。その子を産むべきかどうか、夫に告げるべきかどうかで彼女は悩む。それは同時にどちらの男を「選択」するかという決断を含む。十の話の中には男女の愛を描いた作品が他にもいくつかある。インポテンツになった男が、その妻に対して罪の意識を抱くが、同時に妻の浮気を疑う。尾行、盗聴をしながら、なおかつ彼はそんな自分を責める。「孤独」と苦悩。「クリスマス・イヴ」の一夜を描いた話には別れた男女が登場する。再婚して子どももいる男の家の前に女がいる。彼女は帰宅した男に、現在一緒にいる男が夜になっても帰ってこないことを告げる。交通事故か、あるいは何かの事件に巻き込まれたのか。家でクリスマス・パーティをするつもりだった男は彼女と一緒に街に探しに出かける。そして夜が明ける頃に、彼女は男とはすでに別れていること、寂しくて一人ではイヴの夜を過ごせなかったことを話す。男が家に戻ると、妻が寝ずに待っている。
  • あるいは親子について。父と二人で暮らす娘アンカには、父親を男としても愛しているという気持ちがある。それは父親にもあるが、しかし、彼はいつでも自制心を強くして、「父と娘」という関係の一線を越えまいとする。突き放す父と反抗する娘は、またどうしようもなくひかれあう。「告白」は16歳で子どもを産んだ娘と母の話である。学校の校長先生をする母は厳しく、娘はその母の期待には応えられなかった。母は孫を子どもとして育て、その子に生きがいを見いだす。けれども、娘も、産んだ子どもが必要だと感じるようになる。彼女は妹を連れだし、恋人だった男の家で、妹に自分の娘であることを「告白」する。生きがいとアイデンティティの確認をめぐって少女を奪い合う母と娘。
  • どれもこれも、愛や憎しみ、エゴイズムや自罰意識に囚われた地獄のような世界だが、しかし、描き方は淡々としていてストーリーはシンプルだ。すべての話がワルシャワにある同じ集合住宅を舞台にしているし、俳優も地味だ。話には必ず、かすかな救いが残されている。だからだろうか、見ながら、とんでもない状況に入り込んだ特別な人たちの話ではなく、自分の中にもある感情を自覚させられる思いがした。一歩間違えば、それは誰にでも訪れそうな世界。いや、実際にはすぐそこにあるのに、自分はそうではないと否定したり、気づかないふりをしているにすぎない世界。そんな感想を、どの話にも持った。
  • しかし、それにしても、テレビ・ドラマのシリーズをこんな作品として作ってしまうキェシロフスキはすごい。他の映画がまるで紙芝居のように感じられてしまった。けれども、キェシロフスキはもういない。人びとの生きる世界は多様だが、それを自然に描き出せる人は多くはない。
  • 1997年5月7日水曜日

    連休中に見た映画


  • 連休中はほとんど出歩かずに家で過ごした。信州にキャンプに行くはずだったのだが、学生とソフトボールをして肉離れをやってしまった。それと一緒に行こうと思った友人が、単身赴任先のシンガポールから帰らなかった。で、締め切りの近づいている原稿の準備をしようと思ったのだが、リビングで本を読んでいると退屈で、ついついテレビをつけてしまう。幸か不幸か、Wow wowでは24時間映画をやっているし、野茂に長谷川とメジャーリーグの中継も忙しい。カウチに横になりながら、時には引き込まれるように、そして時には居眠りしながら、だらだらと見てしまった。椅子の下には何冊も本を置いたのだが、それはほとんど読めなかった。
  • 面白かったのは『タイ・カップ』(Wow wow 4/29)、『彼女の彼は、彼女』(Wow wow 4/30)、『ユージュアル・サスペクツ』(Wow wow 5/3)、それに『マディソン郡の橋』(Wow wow 5/4)。見たことがあるものもついつい見てしまった。たとえば『存在の絶えられない軽さ』(Wow wow 5/1)。ミケランジェロ・アントニオーニの『欲望』(Wow wow 5/1)は、久しぶりで内容をほとんど忘れてしまっていた。今月は他に『情事』『砂丘』もやる。そのほかに見た映画はポランスキーの『吸血鬼』(大阪5/2)、『愛と情熱のジョセフィン・ベーカー』(関西5/1)、『スーパーの女』(Wow wow5/2)
  • Wow wowと契約して2年ほどになる。見ないときは見ないが、ときどき中毒になる。NHKのBS2と見たいものが重なっていたりすると再放送をチェック、そして朝や昼の番組は録画する。これでCSを受信してPerfect TVなんて言ったら、本当に映画ばかり見て毎日を過ごすことになりかねない。だから、当分はBSだけにしようと思っている。ただMTVだけは見たいのだが................。もっとも、おかげで民放の映画は見る気がしなくなった。CMがやたらうっとうしいからだ。
  • 昔ほどではないが、テレビを長時間見ていると、何となく空虚な気持ちになったり、時には罪悪感を感じたりする。ところが、本を読むと充実感に充たされる。ぼくは活字信奉者ではないつもりだが、この感覚は否定できない。今読んでいるSimon FrithのPerforming Riteには、欧米の中産階級には、映画はケーキのようなもので、おいしいけれど、食べ過ぎてはいけないもの、そして特に食べる必要はないものだとする倫理観があると書いてあった。読書は主食で映画はデザートというわけだ。
  • とすると、この連休はぼくはケーキばかりを食べて食事をろくすっぽしなかったことになる。どうりで最近腹の贅肉が目立つはずだ、と妙なところで納得。間食はやめて、地味でももっと栄養のある主食を食べないといけない。第一、締め切りのせまっている原稿、一体どうするつもりなんだ!! などと考えはじめたら、連休明けがますますブルーに感じられるようになってしまった。中嶋さん、締め切り一ヶ月待ってもらえるかな?