2019年6月24日月曜日

年金だけでは暮らせないのは当たり前の話

 

・金融庁が財務大臣の諮問によって検討し、作成した年金に関する報告書が、物議を醸しています。仕事を辞めてから死ぬまでの間に、年金の他に2000万円必要という報告がなされたからです。最初は「100まで生きる前提で退職金って計算してみたことあるか?普通の人はないよ、たぶん。オレ、ないと思うね」と他人事のように話していた財務大臣も、批判の強さに豹変して、この報告書を受けとらないと、言い出しました。この態度にはあきれますが、今さらながらに驚いている世論にも首をかしげたくなりました。年金だけでは生活できないのは、受給者の多くにとって自明のことだからです。

・ 報告書によれば、夫65歳、妻60歳の無職夫婦がモデルで年金が21万円弱となっています。ところが支出は26万円強ですから、月々5万円不足して、100歳まで生きれば不足総額は2000万円になるということです。ごく当たり前の報告だと思いますが、いわれて初めて気づいて、驚いたり憤慨したりする人が多いという報道の方に、ぼくは驚きました。ところが、財務大臣だけでなく官房長官やその他の首相側近の議員たちが「不安や誤解を広げるだけの報告書で、評価に値しない」と発言して、金融庁に撤回要求を出したことには、またかという腹立ちを覚えました。目先の参議院選挙への影響しか頭にない発言としか思えないからです。。

・ 年金支給額が21万円というのは、国民年金だけでなく厚生年金も合わせて受給されることを意味します。しかも決して平均ではなくかなり多い額になります。厚労省によれば、国民年金の平均受給額は5万5千円で、厚生年金と合わせた平均額は15万円となっています。年金受給者がこの額ではとても暮らしていけないことは、言うまでもないことです。ぎりぎりに切り詰めるか、仕事をして収入を増やすか。そんな暮らしが高齢者にとってはごく当たり前になっているのです。しかも年金額はこれから減らされる可能性がありますし、破綻してもらえなくなる危険性だってあるのです。その意味では金融庁の報告書は、それでも甘いものだと言えるでしょう。

・ 国民生活基礎調査によると、1世帯あたりの貯蓄額は1000万円ちょっとのようです。当然、高齢者ほど額は大きいのですが、それでも60代が1300万円、70代が1250万円ほどで、2000万円には届いていません。ここにはもちろんばらつきがあって、今年還暦を迎えた人の4人に1人は貯蓄なしという調査結果も出ています。すでに年金が主たる収入源になっている人たちの多くは正規雇用で退職金も手にできた人たちが多いのだと思います。その人たちですら2000万円以上の貯蓄をするのは難しかったわけですから、若い人たちにとっては、絶対無理と思われてしまう数字なのかもしれません。現在、非正規で働く人の割合が4割になっていて、その平均所得は200万円に達していないのです。老後どころか働いているのに生活が困窮している人がこれほど多いのです。

・ 高齢化社会になれば年金制度が破綻しかねないことはとっくの昔からわかっていたことです。しかし政府は100年安心などという標語を掲げながら、ほとんど無策でやり過ごしてきました。それどころか「グリーンピア」などで大損したり、最近では株に多額の投資をしてその危険性が問題になっています。社会福祉に使われるはずの消費税が企業の減税などに使われてきたのですが、10%にあげる理由についても、相変わらず福祉の財源ということばがつかわれているのです。

・ 金融庁が出した年金を20万円もらってもなお、2000万円の貯蓄が必要という報告には、一面の真実があります。高齢者の多くはもちろん、若い世代の人たちの大半が、困窮した生活の中で長生きしなければならないという未来図を提示したからです。これにはもっともっと怒るべきだと思います。2000人程度のデモではなく香港並みの規模になってもおかしくない問題だからです。参議院選挙を控えて、政府や自民党の嘘にだまされないよう、現実をしっかり見つめるべきなのです。

2019年6月17日月曜日

DAZNをはじめた

 

dazn.jpg・スポーツには見たいもの、気になるものがいくつかある。そのうちテレビで見ることができるのはごくわずかだ。たとえばメジャー・リーグは毎日中継しているわけではないし、見たい試合をやっているわけでもない。日本のプロ野球(NPB)やJリーグにはそれほど興味はないが、それでも見たくなる時はたまにある。サッカーの国際試合は我が家では映らない民放が中継することが多いから、見られないことがしばしばある。ましてや自転車やF1などは、テレビではほとんどやっていない。そんな物足りなさを感じていたら、ブラウザーにしきりにDAZNの広告が載るようになった。

・DAZNはダズンではなくダゾーンと呼ぶ。各種スポーツを提供するインターネット・テレビで、イギリスに拠点を置いているようだ。日本では2016年からサービスを始めている。野球やサッカーはもちろん、モーター・スポーツや自転車、ラグビーやアメリカン・フットボール、さらには格闘技などのライブや動画を配信している。ぼくはたまたま自転車の「ジロ・デ・イタリア」の様子をYouTubeで見て、DAZNがライブを配信していることを知った。DAZNに行くとメジャー・リーグも毎日数試合やっている。自転車が気になったし、NHKのBSではMLBは限られているから、契約することにした。最初の1ヶ月は無料で、継続したければ月々税込みで1890円払うことになる。継続するかどうかはわからないが、今は1ヶ月のお試し視聴を楽しんでいる。

・スポーツならライブが一番だが、そうでなければ、視聴する時間を自分で決められるインターネットは、自分にとっては好都合だ。だからますます地デジからは遠のくようになった。そんな傾向に対応するためかNHKもネット配信を予定しているようだ。広告費がネットに移動して収益が落ち込んでいる民放も追随することだろう。しかし、同じ番組をただネットに垂れ流しても、それで視聴者数を維持したり、増やしたりできるわけではない。バラエティばかりのテレビは飽きられているし、政府にべったりの報道姿勢にも批判は高まっている。

・大体、政権に批判的な報道番組がここ数年でずい分減ってしまっていて、そのうちのいくつかはネットで放送されたりしている。ぼくは愛川欽也が「朝日ニューススター」で放送していた「愛川欽也パックインジャーナル」を楽しんでいたが、それが廃止になり、2012年に欽也自身が開局したkinkin.tvの「愛川欽也パックインニュース」を視聴するようになった。彼が亡くなって、2013年に「デモクラTV」として再開されてからずっと視聴しつづけている。月額525円ですでに6年が経過した。最近の政治や経済、社会について、意見や認識を共有できる論客やジャーナリストがいる番組になっている。こことは別れてYouTubeで「デモクラシータイムス」という名のチャンネルを提供しているところもあって、前者は東京新聞、後者は日刊現代と提携している。

・インターネットではすでにAmazonプライムに契約して、映画視聴を楽しんでいる。YouTubeでテレビやラジオの番組を見たり聞いたりすることも多い。YouTubeはCMで中断して不快に感じることがあるが、お金を払ってCM抜きにする気はない。他にも映画、スポーツ、音楽など、お金を払えば見放題、聞き放題のサイトが乱立しているが、今のところ、これ以上に増やすつもりはない。

・ところでDAZNだが、アメリカ旅行中にはMLBのライブを楽しむことができなかった。配信しているのはアメリカ国外であることがわかって、帰国するまで見ることができなかった。MLBのライブ配信はMLB自体がやっているから、アメリカではここと契約する必要があるのだろう。しかしDAZNは日本のプロ野球を毎日ほとんど全試合、ライブ配信している。ライブ配信によるMLBの収入はかなりの額になると思うが、NPBはライブ中継からどれほどの収入を得ているのだろうか。そんなことが気になった。

・放送はNHKなら受信料の徴収、民放なら広告収入で成り立っている。NHKはなかば強制的だし、民放には見たくないCMがたくさん入る。だから、見たいもの、聞(聴)きたいものだけをお金を払って楽しむという方式は、ぼくにとってはずっと好ましい形態に思える。とは言え、既存の放送局もネットに本格的に進出しようとしていて、視聴者の奪い合いがますます熾烈になっていくことに、DAZNを見始めて改めて気がついた。

2019年6月10日月曜日

久しぶりの海外旅行 シアトル、ポートランド

 

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・海外旅行は5年ぶり。パートナーの脳梗塞でイタリア旅行が直前でキャンセルされて以来です。リハビリの甲斐あって、短期間の海外旅行を試せるようになりました。8日間で、友人のKちゃんが住むポートランドへ。これは最初はKちゃんのところ行くと彼女と約束したからでした。ぼくの狙いはエンジェルスの大谷選手で、シアトルでマリナーズとやる試合に合わせて旅程を組みました。6月2日出発で、シアトルについてすぐに球場へ。荷物を球場近くにとったホテルに預け、セイフコではなく、今年から名前の変わったTモバイル球場に出かけました。

photo84-2.jpg・この日は日曜日で、少年野球チームがたくさん招待され、スタンドは子どもたちでいっぱいになりました。ゲームはエンジェルスの大勝で、大谷選手は3打席エラーで出塁というおかしな結果でした。試合そのものはおもしろくなかったけれど、メジャー・リーグの雰囲気を楽しみ、大谷選手を目の前で見ることができました。
・とにかく眠かったので、七回の「テイク・ミー・アウト・ツー・ザ・ボール・ゲーム」を歌ったところで、ホテルに戻ることにしました。球場を出ると自転車のリキシャがいて、30ドルと高かったけれど宇和島屋まで乗っていくことにしました。上り坂があって汗ビッショリになりながら漕いでいると、申し訳ないような気持ちになりました。

・翌日はアムトラックでポートランドへ。のんびり走って4時間で着きました。その日は息子さんの所でバーベキュー。分厚いステーキに焼きおにぎり。次の日は息子さんたちの運転でMt.フッド近くでキャンプ。目指したところはまだ雪で、ランクルがスタックしかかりましたが、何とか抜けて川べりに落ちつきました。5人と犬3匹でしたから、車内はぎゅうぎゅう詰めでした。枯れ木を集めてキャンプ・ファイヤーをして食事。水場もトイレもないところでキャンプするのが、ここでは当たり前のようでした。

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・ところで犬3匹の散歩は大変です。特に若いクロラブのサムは力が強くて元気ですから、散歩に連れていってもらえないことが多いようでした。そこでぼくがひいて、近所のローズ・ガーデンや森を散歩することにしました。
・というわけで、一週間の旅もあっという間に終わり、帰国の途につきました。ポートランドの町は、最近人口が急増して交通渋滞も激しかったですが、飛行機から見下ろすと、緑に囲まれたのどかな風景でした。

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2019年6月2日日曜日

井上俊『文化社会学界隈』 (世界思想社)

 

inoue1.jpg・井上俊さんはぼくにとって社会学の先生である。ぼくは60年代後半にアメリカで盛んになった「カウンター・カルチャー」に興味があって大学院に進んだが、それをどう分析するかはさっぱりわからなかった。院の授業で、映画や文学、あるいはポピュラー音楽などについて、雑談のようにして話をしたり、「文化」についての最新の研究を教えてもらったりすることで、視点の取り方や分析手法みたいなことが少しずつわかってきた。「大衆文化」や「若者文化」が関心をもたれるようになり、それらを分析する社会学的な考察にもまた、従来とは異なる新しい波が押し寄せていた。70年代初めは、新しい文化現象を新しい手法で分析できる、おもしろい時代のはじまりだったのである。

・ぼくが書いた修士論文のタイトルは「ミニコミの思想 対抗文化の行動と様式」だった。「ミニコミ」については、やはり大学院で、この分野の第一人者だった田村紀雄さんから、いろいろ教わった。大学院には教員と学生の間に「教える者」と「教わる者」という明確な違いがあって、その垣根を越えることは、学生にとってはしてはいけない行為のように思われていた(今でもそういうところはかなりあるようだ)。しかし、二人とは最初から友達関係のようにしてつきあうことができた。その意味で、たまたま行った大学院で二人の方と出会うことができたのは、幸運以外の何ものでもなかったとつくづく思う。

・『文化社会学界隈』を読んでいると、そんな半世紀も前のことが思い出されて楽しくなった。とは言え、書かれているのは決して古いものではなく、大半は今世紀になって書かれたり、話されたりしたものである。たとえば「社会学と文学」の章では文学と社会学の関係を改めて整理している。社会学にとって文学とは何か。それは社会学の理論をわかりやすくする具体例の宝庫というだけでなく、先行研究として、その中にある社会学的な芽を見つけるべきものでもある。社会学が扱うテーマや視点、あるいは考え方は文学だけでなく、社会や人間を扱うさまざまな表現形態のなかにもある。映画や音楽、アート、そしてスポーツなど。まさにこの本の題名が示す「文化社会学界隈」である。

・また、「初期シカゴ学派と文学」では、その代表的な存在であったR.E.パークがジャーナリスト出身であることを取りあげて、社会学の調査とジャーナリズムの取材における類似性と違いについてふれている。社会の実態をより正確につかむためには、その表層だけでなく、非行や犯罪、浮浪者や売春婦などを研究対象にして、いかがわしさの側から見る視点が必要になる。そんな伝統は20世紀前半に、シカゴ学派から始まった。他方で社会学には統計調査をもとにした「科学的手法」もある。社会学は社会科学の一分野だから文学とは違う。こんな考えは現在でも根強くある。だからこそ、社会学は文学と科学の中間の営みとして発展してきたという指摘は、今でも大事だと思った。

・この本ではさらに、武道を中心にしたスポーツや、コミュニケーションと物語についての考察がされている。そう言えば、スポーツを社会学として本格的に研究すべきとして立ち上げた「スポーツ社会学会」では、井上さんは中心的な存在だった。そしてここから、スポーツを単に体育学の中だけではなく、その近代化の過程やナショナリズム、消費社会や商業化、あるいはメディアや芸術との関係としてとらえ直すことが始まった。今日のスポーツが、政治、経済、社会の多くの問題と絡みあっていることはいうまでもない。

・同様のことはコミュニケーションについても言える。コミュニケーションや人間関係を、「話せばわかる」といったコミュニケーションの理想型から見るのではなく、通じない、わからない部分、つまりディスコミュニケーションとの関係を前提にして捉えていく。このような考え方も、ぼくが学生の頃に指摘され始めたものだった。ここでは鶴見俊輔が作りだした「ディスコミュニケーション」という概念を取りあげながら、人間関係やコミュニケーションにおける「感情」の問題に目を向けている。「コミュニケーション力」の必要性が盛んに叫ばれているが、「ディスコミ」の部分や人間の感情の複雑さにもっと目を向けることは、今こそ必要なのである。

・井上さんはぼくより一世代上である。体調を崩して心配したこともあったが、本を出されたことでほっとした。ぼくは退職して、研究活動もやめてしまったから、このような本をいただいて恐縮している。論文を書く気はないが、文化社会(学)界隈についての関心は持ち続けようと思っている。