2023年9月25日月曜日

ヴァン・モリソンの2枚

 Van Morrison "Moving On Skiffle"
"What's It Gonna Take? "
 

このコラムでは、今年は死んだ人ばかりを取り上げてきて、僕自身も、聴いてきたミュージシャンも、そんな歳になったのだと、改めて気づかされた。そう言えば、新譜もとんと見かけない。そろそろ更新しなければと思っていたら、Youtubeでヴァン・モリソンがベルファストでやったライブを見つけた。Van Morrison - Up on Cyprus Avenueというタイトルで8年前とあるから2015年に行われたものだ。森に囲まれた公園の特設ステージは満席で、その周囲に多くの人が立って聴いている。1時間近いライブを見ていて、ヴァン・モリソンが気になった。

morrison12.jpg" 探してみると、毎年のように新譜を出していることがわかった。このコラムで取り上げたのは21年に出た『Latest Record Project Volume 1』で、コロナ禍でコンサートが禁止されたことに抗議して作られたと紹介してあった。『What's It Gonna Take?』は翌22年に出ていて、全曲がコロナ禍での国の規制や人々の振る舞いに対する批判になっている。このアルバムには賛否両論あったようで、自己中心的で悪質だとする批判や、文化の最近の抑圧を描写しているといった肯定的な評価もあったようだ。確かに、メッセージは直接的で辛辣だが、聴いている限りはいつものモリソン調で軽やかだ。それにしても80歳近いのに元気だと感心した。

morrison11.jpg" そのエネルギーはまだまだ衰えを知らないかのようだ。今年も『Moving On Skiffle』という名のアルバムを出していて、やっぱり軽やかに元気に歌っている。スキッフルというのは50年代のイギリスで流行った音楽だが、もともとは20年代のアメリカで、まともな楽器を持たない黒人たちがタライや洗濯板などを使って始めたものだった。だから音楽的にはごたまぜだったのだが、イギリスでリバイバルしたスキッフルもまた、ブルースやフォーク、カントリーなどが混在する音楽だった。

ただしモリソンはそんな音楽を聴いて成長し、やがて本格的にミュージシャンをめざすようになった。このアルバムは当時のヒット曲を23曲も収めた2枚組みである。いくつかはアメリカのフォークソングとして聴いた曲もあるが、サウンドはいつものモリソン節である。毎年出していることに驚いたが、モリソンの次の新譜が11月発売と予告されていて、次はロックンロールをとりあげた『Accentuate The Positive』だという。自分史を作ろうとしたのか、20世紀のポピュラー音楽を振りかえったつもりなのか。回顧的なアルバムを作るのはすでにボブ・ディランがやっているが、アメリカとイギリスを代表する二人のミュージシャンならではだと、改めて思った。

2023年9月18日月曜日

弔いの仕方

 
journal5-205.jpg"義兄が亡くなって通夜と葬式に参列しました。近親者だけの小さな弔いの式でしたが、久しぶりに顔を合わせた人や、初対面の人などもいて、和気あいあいとした雰囲気でした。最近ではコロナ禍もあって、近親者でもほとんど顔を合わせないままでしたから、こんな機会は貴重なのだと改めて感じました。

義兄は僕より二つ上で、学年では1年違いでしたから、余計に身につまされる思いになりました。胃ガンが見つかった時にはステージ4で、健康診断をしておけば、もっと早く見つかったのにと、悔やまれる最後でした。車の後部に山歩きやキャンプの道具、あるいは折り畳みの自転車などをつめて、いつでも気軽に出かけていましたが、車の荷物はそのままなっているようでした。

歳が近い近親者の死は、昨年もあって、京都に住む従兄弟の葬儀に参列しました。彼には近親者が甥っ子しかいませんでしたから僕が喪主になりました。彼は100歳近くまで生きた伯母と二人暮らしで、白血病が発症してから4年ほど、伯母の介護と亡くなった後始末などをしながらの闘病生活でした。友達もいたでしょうし、仕事仲間もいたと思いますが、連絡先が分からないので、弔いの席に出たのは僕ら夫婦と甥っ子、そして友達一人の4人だけでした。

その火葬場で驚いたのは、京都では遺骨を一部しか残さないということでした。骨壷は手の平に乗るほど小さなもので、そこに、ここはどこ、と言った説明をしながら入れて、後は捨ててしまったのです。京都には25年住みましたが、火葬の場に参列したのは初めてでした。京都人の合理的発想を改めて認識した瞬間でした。

義兄の火葬では参列者が食事をし、その後で、二人で一つの骨を箸でもって骨壷に入れました。粉になったものも残さず入れましたから、両手で抱えるほどの大きな骨壷一杯になりました。その骨壷は49日が過ぎた頃にお墓に納めます。その墓には。すでに義父と義母の骨が入っています。それほど大きな墓ではありませんから、やがてはまとめてということになるのでしょう。

従兄弟のお骨などを含めて、こちらの後始末はすべて甥っ子に任せました。お墓はありましたが、後に入る人はいません。無縁仏になった後の始末はどうするか。僕にはどうすることもできないことです。僕は義兄と同じ霊園に新しいお墓を造り、父親の骨を納めました。祖父や祖母の墓はすでにあったのですが、遠方のために、新しくすることにしたのです。父には相談しませんでしたから、お墓の中で文句を言っているかもしれません。

葬儀の仕方やお骨の納め方には、いろいろなやり方があるようです。先祖代々の墓に入って、子孫が末長くお参りする。そんな家族はもうとっくに少数派になっています。葬式やお墓を必要と思うかどうかなども含めて、昔とは違う、新しいこととして考える必要があると、改めて思いました。とは言え、祖父と祖母の墓をどうするか。何とも悩ましい問題です。



2023年9月11日月曜日

万博って何なのか

井上さつき『音楽を展示する パリ万博1855-1900』(法政大学出版局)

2025年に開催される大阪関西万博が工事の遅れなどで話題になっている。そもそもなぜ今万博なのか。その意図がよくわからない。と言うより大阪市はカジノを中心にしたIR(統合型リゾート)を作ることを狙って、万博をその隠れ蓑にしたと批判されている。地盤がまだ安定していないゴミの埋め立て地だから、建物を造っても沈下してしまうし、交通手段もかぎられている等々、問題は山積みだ。

この万博のテーマは「いのち輝く未来社会のデザイン」で、サブテーマとして「いのちを救う」「いのちに力を与える」「いのちをつなぐ」と極めて抽象的でよくわからない。確かに温暖化は深刻だし、戦争や紛争はたえないが、そんな現実的な問題を具体的にテーマにしているわけではないようだ。

xpo1.jpg そもそも万博って何なんだ。そう思って、書架に読まずに積んであった万博関連の本を探してみた。井上さつきの『音楽を展示する』は19世紀中頃から20世紀初頭にかけて何度か行われた「パリ万博」について、主に音楽に焦点を合わせて論じたものである。万国博覧会は1851年にロンドンで初めて開催された。パリ万博は1855年に開催され、続いて1867年、78年、89年、そして1900年とほぼ10年ごとに開かれた。パリでの開催はこの後1937年で、その後は開かれていない。

パリ万博は産業革命を誇示したロンドン万博と違って、産業の他に芸術の展示を重視した。しかし絵画や彫刻と違って、音楽は、常設の展示ではなくコンサートという形で行われる必要がある。この本には、その音楽の展示方法の工夫や、演奏され歌われる音楽の種類、それらを聴きに来る聴衆の階層などが、開催年度によっていろいろと見直されてきたことがよくわかる。パリ万博といえばエッフェル塔ぐらいしか思い浮かばなかったが、パリが芸術の街と言われるようになる上で、万博が果たした役割が大きかったことを再認識した。

万博は産業の発展を目的に始まり、文化的な側面を追加して、人々に近代化による社会の変化を実感させることに役立ったが、その産業は20世紀になると二つの世界大戦を引き起こすことにもなった。1970年に開催された大阪万博は、大戦から立ち直った日本や世界の現状、あるいは宇宙への関心などを展示する上で大きな意味があったと言われている。しかし、その後の万博ははっきりいって、もうやる必要のないものになってきていると言えるだろう。今さら世界中から最新技術や文化的なイベントを一ヶ所に集めて開催される意味がどれほどあるのか、はなはだ疑問なのである。

だからこの本を読んでまず感じたのは、万博の意義はすでになくなっているということだった。クラシック音楽がコンサートホールで聴くものとして確立し、印象派やキュービズムなどの美術が美術館に展示され、高額の値段で売買されるようになったのは、まさに19世紀の後半の万博が華やかに開催された時期と重なるのである。あるいは20世紀になると映画やラジオやレコードといった技術が普及し、やがてテレビが登場するようになる。そして、20世紀終わりからのインターネットである。19世紀末から始まったオリンピックと併せて、こんなものを未だに当てにしている日本の政治家たちの古びた感覚に、もううんざりするしかないのである。

2023年9月4日月曜日

いろいろあった8月

forest194-1.jpg


暑い、暑い東北旅行から帰ってほっと一息ついた。台風などで雨が多かったが、その分気温は低くて、旅の疲れを癒やすことができた。もう夏にはどこかに出かけるのはやめよう。何度かそんな思いをしたが、今度こそは身にしみてわかった。逆にここを訪れる人たちは、猛暑から解放されて楽しんでいるようだ。天気が良ければ早朝に自転車に乗ることにしているが、レンタルに乗った外国人が大勢いる。ロードバイクを走らせる人もいつもより多い。夏は富士山が隠れることが多いが、涼しさだけでも、来た甲斐があったと思うだろう。

forest194-2.jpg それほど強い風が吹いたわけでもないが、家の近くの大木が道を塞ぐように倒れた。町役場から来た人がチェーンソーで切って片づけていたので、木が欲しいから後は僕がやると言うと、それは好都合という返事だった。トラックを用意してどこかに捨てる手間が省けたのだから、それはそうだろう。こちらも原木が手に入らなくて困っていたから、少しでもあれば大助かりだ。

forest194-3.jpg と言うわけで、一輪車に乗せて運べる大きさに切り、家まで運んだのだが、いったい何往復しただろうか。持ち上げるのもやっとなものを、傾斜のある100m近い道を運んだのである。手が震え、足がなまり、汗が噴きだした。カエデの大木は根腐れして倒れたのだが、その根っこの部分は相当の太さだった。チェーンソーを動かしたのは久しぶりだったが、夏場だからすぐにエンジンがかかった。これを薪にして乾すのだが、もう少し涼しくなってからにすることにした。

forest194-4.jpg最初に作った陶器は毎日の食卓に乗っているが、二度目のは机の上において、物入れにしている。今まではガムの容器を使っていたのだが、これからもいくつも作っていこうと思っている。粘土遊びもだいぶうまくなってきて、ちょっと大きな器もできるようになった。土の種類によって色や粘り、それに手触りが違うし、焼いた跡の感じもだいぶ違っている。そんなことが新しい発見として面白くなってきた。釉薬のかけ具合で色がでたりでなかったりと、ますますやる気になっている。

そんな毎日を過ごしていたら癌で闘病中の義兄が末期の自宅療養になったという連絡があった。さっそく千葉まで出かけたのだが、やっぱり暑かった。義兄はベッドに寝たままで、こちらの言うことに首を動かすような反応だった。もう長くはないだろうなと思って帰ったが、数日後に亡くなったという電話があった。で、また千葉に出かけた。通夜と葬式は10日後にあって、近親者が久しぶりに集まった。76歳で登山好きの人だったから、もっともっと元気でいて欲しかった。