2023年12月26日火曜日

目次 2023年

12月

25日 :運転免許証更新の認知テストを受けた

18日 :大谷選手のドジャース移籍に思ったこと

11日 :加藤裕康編著『メディアと若者文化』(新泉社)

4日 :近所のベランダ修復を頼まれて

11月

27日 :NHKのBSが一つ減ると言わないのはなぜ?

20日 :批判する気も失せたけれど

13日 :4 Non Blonds "Bigger, Better, Faster, M"

6日 :暖かい紅葉の季節

10月

30日 :グレン・H・エルダー・Jr.『大恐慌の子どもたち』(明石書店)

23日 :薪割りと動物作り

16日 : ジャニーズ騒動その後

9日 : 上高地と穂高

2日 : 早すぎた大谷ロス

9月

25日 : ヴァン・モリソンの2枚

18日 : 弔いの仕方

11日 : 万博って何なのか

4日 :いろいろあった8月

8月

28日 :Xって何?

21日 :iMacのモニター接続で一苦労

14日 :シニード・オコーナーとアイルランド

7日 :東北太平洋岸を北上した

7月

31日 :旅行者には円安がよくわかるはず

24日 :富士山はなぜ文化遺産なのか

17日 :陶芸その後などなど

10日 :大谷報道は疑問だらけ

3日 :ジャニーズ騒動に見るメディアの正体

6月

26日 :陶芸を始めました

19日 :奇妙な読書経験

12日 :季節変化が早すぎる

5日 :なぜ政権支持率が上がるのか

5月

29日 :長峰山から北アルプスを望む

22日 :ルー・リードとビロード革命

15日 :最近見た映画

8日 :一角獣とユニコーン

1日 :村上春樹『街とその不確かな壁』(新潮社}

4月

24日 : カタクリ、原木、ゴミ穴等々

17日 : 呆れた選挙

10日 : 坂本龍一の死に想う

3日 :『プラン75』

3月

27日 :WBCが終わって思ったこと

20日 :沢木耕太郎『天路の旅人』(新潮社)

13日 :ジョニ・キャッシュの最後のアルバム

6日 :春が早く来た!

2月

27日 :マイナカードは断固拒否!

20日 :4K、4Kってうるさいぞ!

13日 :棄民政策がまかり通っている

6日 :内山節『森にかよう道』『「里」という思想』

1月

30日 :デヴィッド・クロスビーについて

23日 :寒暖差の大きい冬

16日 :新しいmacBookを買った

9日 :『キネマの神様』

2日 :アメリカ製ポンコツ兵器爆買いの愚挙

2023年12月25日月曜日

運転免許証更新の認知テストを受けた

 

75歳を過ぎると運転免許証の更新には、高齢者講習だけでなく、認知症テストが義務化されている。このテストを受け、高齢者講習に行った後で、やっと免許証の更新手続きに行けるのだから、何とも手間のかかる話である。老人にこんな手間をかけさせるのは、いやなら運転を止めなさいと言っているのと同じではないか。そんな文句を言いながら、認知症テストに出向いた。費用は1500円で、この後の講習にも7000円がかかる。もちろん免許証の更新にも費用がかかるから、出費という面でも決して少なくない額である。
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テストの形式は3種類だった。暗記力を試すために16枚のイラストを見せて、その後でどれだけ覚えているかを問うものが一番大きな問題で、後は今日が何年何月何日で、今何時何分かを問うもの、それに1から9の数字を並べた乱数表の数字二つに印をつけろというものだった。配点は記憶力が80点で「何年~」を問うものが20点。乱数表は点とは関係なかったから、暗記したことを忘れさせる魂胆だったのだろう。

僕はあらかじめYouTubeで予習をしていたから、85点から90点ぐらいを取った。周囲を見渡すと、4つや5つしか埋まっていない人もいたが、受けた全員が合格した。合格点は36点で、「年月~」が20点だから、記憶力は16点取ればいいのである。しかも「年月~」については事前確認もしたのである。各自の点数については教えてくれなかったから、どこまで厳密に採点したのか怪しいな、という気になった。

そもそも、自動車を運転するためになぜ、イラストを16枚も一気に覚える必要があるのか。僕にはまったくわからない。しかも、16枚中4枚を覚えていれば合格というのだから、老人をバカにするのもいい加減にしろと言いたくなった。高齢になれば事故を起こす危険性が増えるからというのであれば、もっと適切な検査があるはずなのである。それに認知能力の衰えを知る必要は運転にかぎらないから、どこの自治体でもやっている高齢者の健康診断の中に組み込めばいいのである。

運転免許証の更新には以前からうさんくさいところがあった。「安全協会」にお金を納めることを誰もが素直にやっているが、僕は最初に強制的に払わされて以後、一度も払っていない。以前は名前などの記入を和文タイプでやる費用と一緒だったから、免許証に手書きで記入したこともあった。そもそも集めた金が何に使われているのかが不確かで、批判をされるようになってやっと、払わなくてもいやな顔をされなくなったのである。その意味で、高齢者の認知テストは、教習所の収入増を狙ったもので、どうせ政治家が介入していることだろうと疑いたくなった。

今回、高齢者の免許証更新には他にもハードルがあることに気がついた。信号無視や横断歩道での停止といった比較的軽度の違反でも、試験場での運転技術の検査が義務づけられているのである。うっかりで捕まったら、さらに厄介なことになる。自分で運転しなければ生活できないところに住んでいて、クルマに乗ることはまだまだ必要だから、それを肝に銘じた経験だった。

2023年12月18日月曜日

大谷選手のドジャース移籍に思ったこと

 

エンジェルスの大谷選手がドジャースに移籍しました。契約は10年で破格の7億ドル。もう引退するまでドジャースでやると決めたのだと思います。ただし、決まるまでの数日は、代理人から箝口令が敷かれたこともあって、憶測記事が氾濫してかえって大騒ぎになりました。日本のメディアも「すごい、すごい」と言うばかりですが、僕はこの経緯について、大きな疑問を持ちました。

ウィンター・ミーティングが始まって、大谷選手がジャイアンツのオラクル・パークに行ったというニュースが入り、その後にブルージェイズのキャンプ地を訪れたと報道されました。ここからトロントが注目されるようになって、カナダドルで10億ドル払うという記事が出て、一気にブルージェイズ有利という様相になりました。しかし、その数日後にドジャースに決まって7億ドルという契約額になったのです。ブルージェイズが出した額とほぼ同じだったわけで、代理人はブルージェイズを出汁に使ってドジャースに契約金の釣り上げを迫ったのかもしれません。

もちろん大谷選手のドジャースに対する気持ちは、今に始まったことではないのです。高校卒業時にメジャーに行くと宣言した時に念頭にあったのはドジャースで、栗山監督に説得されて翻意したのでした。メジャー・リーグに行く時もドジャースとは面談しましたが、ナショナル・リーグにDHがなかったことで、アメリカン・リーグのエンジェルスに決めたのでした。大谷ルールでナショナル・リーグもDH制になりましたから、ドジャースに行くことには、何の障壁もなくなったのです。

だとしたら、もっと早くにドジャースに行くと発表しても良かったと思います。それがなぜ、ここまで時間がかかったのでしょうか。考えられるのは、競合球団を募って契約額をあげようとした代理人の戦略でしょう。契約額は最初は5億ドルだろうと言われていました。右肘靭帯の手術で来年はDHでの出場しかできませんが、それは関係なかったようです。いくつもの球団が名乗り出て5億ではなく6億だと言われるようになり、最終的には7億ドルになりました。

選手の価値をお金で計るのはアメリカでは当たり前のことですから、代理人の手腕は褒められるだろうと思います。しかし、大谷選手はどうだったのでしょうか。もしこの先ケガをして、欠場が多くなったり、成績が落ち込んだりしたら、猛烈なバッシングを浴びることになるのは明らかです。エンジェルスにはレンドーン選手がいて、そのつらさを目の当たりにしていたはずです。決断の裏には、大谷選手の相当の決意があったことでしょう。もっとも大谷選手のことですから、ダメだと思ったら自ら契約を破棄してしまうかも知れません。

大谷選手にとって気がかりだったのは、自分が年7000万ドルももらってしまうことが、ドジャースの選手補強の妨げになるということでした。そこで彼が提案したのは、大半を契約が終了した後に先延ばしするというものでした。何しろメジャーの球団の中で年俸総額が7000万ドルに達しない球団が8つもあるのですから、その額が破格なのがよくわかります。払いを先送りすることで、ドジャースには、もっと選手を取る余裕が生まれましたから、7億ドル払ってもいいだろうということになったのです。ちなみに来年から10年間の年俸はわずか200万ドルということで、これは副収入が5000万ドルもあることから税金対策を考えてのことでしょう。

こんな顛末でしたから、僕はちょっとがっかりしました。すでに強いチームではなく、自分が入ることでプレイオフまで行けるチームを第一に考えるはずですから、僕はオールスター前からジャイアンツが最適だと思ってきました。ジャイアンツも最後まで残っていましたから、サンフランシスコもまたトロント同様にがっかりしていることでしょう。ちょっと興ざめですが、来年からも、彼の出る試合につき合うことにかわりはありません。くれぐれもケガをしないように。そう願うばかりです。

2023年12月11日月曜日

加藤裕康編著『メディアと若者文化』(新泉社)

 

journal1-246.jpg 「メディアと若者文化」というタイトルは何とも懐かしい感じがする。そう言えばずっと昔に、こんなテーマで論文を書いたことがあったなと、改めて思った。1970年代から80年代にかけての頃だが、自分が若者とは言えない歳になった頃には「若者文化」には興味がなくなっていた。

この本の編著者である加藤裕康さんは、僕が勤めていた大学院で博士号を取得している。ゲームセンターに置かれたノートブックをもとに、そこに集まる人たちについて分析した『ゲームセンター文化論』は橋下峰雄賞(現代風俗研究会)をとって、高い評価を受けた。そんな彼から、この本が贈られてきたのである。

僕にとって「若者文化」は何より社会に対して批判的なもので、メディアとは関係なしに生まれるものだった。それがメディアに取り上げられ、社会的に注目をされると、徐々にその精気を失っていく。典型的にはロック音楽があげられる。そんな意識が根底にあるから、日本における70年代の「しらけ世代」とか80年代の「新人類」、そして90年代以降の「オタク」などには批判的で、次第に関心を薄れさせていった。当然、現在の若者文化などについてはまったく無関心で、そんなものがいまだに存在しているとも思わなかった。

「若者」は第二次大戦後に注目された世代で、政治的、社会的、そしてもちろん文化的に世界をリードする存在として見られてきた。それが徐々に力を失っていく。この本ではそんな「若者論」の系譜が、加藤さんによって、明治時代にさかのぼって、「青年」といったことばとの関係を含めて語られている。そう言えば大学院の授業で取り上げたことがあるな、といった文献やキーワードが並んでいて、何とも懐かしい気になった。

若者文化がメディアとの距離を縮め、やがてメディアから発信されるものになったのは80年代から90年代にかけての頃からだった。「新人類」とブランド・ファッション、「オタク」とアニメがその典型だろう。しかし、2000年代に入ると、メディアは携帯、そしてスマホに移っていき、若者文化もそこから生まれるようになる。あーなるほどそうだな、と思いながら、彼の分析を読んだ。

で、現在の若者文化だが、この本で取り上げられているのは、「自撮りと女性をめぐるメディア研究」や「『マンガを語る若者』の消長」そして「パブリック・ビューイング」に参加する若者の語りに<にわか>を見る、といったテーマである。知らないことばかりだったから面白く読んだが、現在の若者文化とは、そんなものでしかないのかという感じもした。そう言えば、この本には「語られる『若者』は存在するのか」という章もある。そこで指摘されているのは。「若者」に対して語られる、たとえば保守化といった特徴や、それに向けた批判が、この世代に特化したものではなく、全世代や社会全体に現れたものだということである。

そう言った意味で、この本を読んで感じたのは、それで「若者」はいなくなったし、「文化」も生まれなくなったということだった。あるいは、かつては「文化」を作り出す上で強力だったマス・メディアが、スマホやネットの前に白旗を掲げたということでもあった。

2023年12月4日月曜日

近所のベランダ修復を頼まれて

 

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forest196-2.jpg 隣人は横浜に住んでいて、年に数回しかやってこない。もう高齢だから、売却やレンタルなども考えたようだが、やっぱり残しておこうと思ったようだった。それで、ここ数年気にかかっていたベランダを何とかしたいと思ったのだが、気心の知れた大工さんが引退して、信頼して頼めるところがない。ということで、僕になおしてくれないかと頼みに来た。家のメインテナンスを自分でやっていることを知っていたからだ。現状はご覧の通りで、どうしようか迷ったが、元通りの修復ではなく、なおせる範囲でということで引き受けた。

forest196-3.jpg とりあえずは腐ったところを取り除くことから始まった。そうすると、大丈夫だろうと思ったところも腐っていて、これは困ったと悩むことになった。ベランダは西から北にかけてぐるっと回り込めるようになっていたが、ほとんどなおす必要のない北側を独立させて、柵をつけて塞いでペンキを塗った。この後をどうするかをあれこれ考え、ホームセンターに材木などを買いに出かけた。そうすると、値段が倍ほどに上がったと聞いて驚いてしまった。

forest196-4.jpg 必要な材木をカットしてもらい、いざ始めて見るとなかなか難しい。釘を打った後で間違いに気づいたり。そろえて切ったはずなのに、長短が出てしまったりと悪戦苦闘の連続だった。まずは階段を作ったのだが、組み立てて見ると、踏み板が前下がりになっている。で、直すと今度はわずかに斜めになってしまった。まあ、素人仕事だからと許してもらうことにして、少し狭くなるベランダ作りに取り掛かった。

forest196-5.jpg いらなくなった柱の土台を移動して階段の下に置き、横木を補強して、その上に板を打ちつける。それができたらペンキ塗り。やっと形が見えはじめたが、ここまでで10日ほどかかった。と言うのも、作業は午後の2時間だけと決めていたからだ。これぐらいでないと、毎日はできないし、3時を過ぎると寒くなる。お隣さんは途中で一度やってきたが、出来上がりを見るのは来春になってからなのである。急ぐ必要は何もなかったのだ。

forest196.jpg 最後は手すりをつけたのだが、ここでも失敗続きで、手すりの高さを合わせたはずなのに、微妙に隙間ができてしまっている。薄板を一枚かませてごまかしたりして何とか形をつくって、最後はペンキ塗り。我ながらなかなかいいと自己満足。気軽に引き受けてしまったが、何とかでき上がってホッとした。春に来たらきっと喜ぶだろうと思う。もちろん、この仕事には謝礼をいただいている。久しぶりの副収入だが、それだけに、いい加減にはできないと気が引き締まった半月だった。

2023年11月27日月曜日

NHKのBSが一つ減ると言わないのはなぜ?

 

NHKのBSが12月から一つ減る。つまり「プレミアム」と名がついた3チャンネルがなくなるのだ。しかし、なぜそうなるのかという理由をNHKはまったく言わないし、減って申し訳ないなどとも言わない。数カ月前からしつこく繰り返しているのは、「BSが変わります!」とあたかもサービスが向上するかのようなメッセージである。3チャンネルの人気番組を1チャンネルに移すから、当然、番組数は減る。しかし移動する番組については予告をしても、消えてしまう番組については何も言わない。

他方でNHKは4K放送の宣伝も繰り返している。4Kを見るにはどうしたらいいか。この同じ説明を毎日数回放送しているのである。しかし、両者の関係については何の説明もない。12月が近づくにつれて、あまりにしつこく放送するから、もう腹が立ってきて、実際はどうなっているのかを書いておいた方がいいと思うようになった。

BS放送のチャンネルを二つ持っていたのはNHKだけである。NHKは地上波も二つ持っているが、これは公共放送の特権として許されている。しかし、4Kや8Kといった新しいチャンネルができ、試験的放送の期間が終わって本放送になるとNHKのチャンネルが増えてしまう。それは不公平だから、代わりにBSを一つ減らそうというのが実情なのである。

これはもちろん、NHKの自発的な変更ではなく、総務省からの命令なのである。だから、チャンネルが減ることで不便をかけたり、4Kを見るために新しいテレビやアンテナなどの負担をかけるのは申し訳ないなどとは決して言わないし、言えないのである。これは政府に忖度をした詭弁にほかならない。このことにかぎらず、こんな言い方、論法があまりに多いから、NHKは何の後ろめたさも感じていないのだろう。しかし、こんな言い方が当たり前になってはいけないと思う。

そもそも、BS放送で見たい番組を作っているのはNHKだけで、民放は地上波の再放送かテレビ・ショッピングばかりでほとんどやる気がないのである。僕は地上波の番組にはほとんど興味がなくNHKのBSぐらいしか見るものはなかったから、テレビはますます見なくなるだろうと思っている。もちろん4Kが見えるテレビに買い替えたりする気はまったくない。パソコンでネットを見る時間が増えるだけである。だからだろうか、NHKはネットでも見られるように準備を進めている。そうなるともちろん、視聴料も取るようになるのだろう。しかし、とんでもない話だ。

こんなふうに、最近謝るべきところで屁理屈をこねたり、別の話題にすり替える論法が目立っている。慇懃無礼な丁寧すぎることばが気になることとあわせて、正直に、正確に話すという当たり前のやり方ができないのは困ったものだと思う。NHKがそのお先棒担ぎをしているのだから、もうめちゃくちゃだという他はないのである。

2023年11月20日月曜日

批判する気も失せたけれど

 

日本はもう壊れていると思ってから久しいけれど、それがますますひどくなっている。一度劣化しはじめると止まらない。その見本のような光景は、どたばた喜劇のようで面白い気もするが、それが私たちの生活や未来に関わってくるから、もう絶望的な思いに囚われてしまう。

大阪万博がどうしようもない状況に陥っている。中止の声が高まっているが、国も大阪府・市もやめる気はないようだ。で、予算ばかりが膨らんでいく。東京オリンピックの二の舞いだが、そのずさんさは、オリンピック以上のようだ。そのオリンピックだって、いったいいくらのお金がかかって、どこにどう使われたのか、事後の検証はまったくなされていない。やりっぱなしで後は知らんという態度である。

大阪万博の会場はゴミの埋め立て地で、軟弱で地盤沈下が激しいから高い建物は造れない。そんなところを会場にしようというのがそもそもの間違いなのだが、お構いなしに決めたのが維新の松井や橋下が安倍を口説いた酒の席だったと言われている。しかも本当の目的はカジノをメインにしたIRの設置だったのである。事前の入念なチェックもなしに決めてしまう。そんなところは他にもたくさんある。沖縄の辺野古基地や原発などで、どれも中止という決断ができないでいる。

アベノミクスは沈滞する日本の経済を活性化させるというふれこみで行われたが、その結果は惨憺たるものである。経済はますます落ち込み、国の借金が激増し、円安が加速化して、収入は増えないのに物価ばかりが上がっている。経済大国といわれた日本で、毎日の食事に窮する人がたくさんいるなどという現状をいったい誰が予測できただろうか。介護保険もがたがたになってきているから、将来に対する不安を感じる人も多いだろう。日本はすでに、貧しい国になっているのである。

健康保険証をマイナカードと一体化させるとしたが普及率は10%にも満たないようだ。デジタル化は避けられない世の趨勢だが、国のやり方はお粗末の限りだ。デジタル化は何であれ、アナログを残した形式で普及すべきだが、今までの無策を棚に上げて遅れを取り戻そうとするから混乱するのである。住基ネットなどの失敗がまるで生きていないのが何ともお粗末なのである。

賃金は上がらないのに、物価は高騰し続けている。しかもインボイスその他で、増税が進んでいる。すでに五公五民と言われて、収入の半分が徴収されているのに、国はさらに税を納めさせようとしている。「増税メガネ」などと言われて慌てて減税を打ち出しても、岸田の人気は下がるばかりである。欧米なら暴動が起きてもおかしくない状態だが、誰もがおとなしいのはどうしてなのだろうか。

こうした現状をしっかり調査して国民に伝えるのがメディアの一番の仕事だが、そんなことを社是にしているメディアはほとんどない。政治家や経済界に忖度ばかりして、何も言わない態度である。しかもジャニーズの問題で明らかになったように、テレビは芸能プロダクションにまで忖度し続けてきたのである。それにしても吉本興業や宝塚など、芸能界も壊れているようだ。

と書いてきたら、もう止まらなくなった。しかし虚しくなるばかりだから、このぐらいにしておくことにしよう。

2023年11月13日月曜日

4 Non Blonds "Bigger, Better, Faster, M"

 
YouTubeには見聞きした傾向にあわせて並べる機能がある。あるいは、一つ見ると、類似のものが続く機能もある。レディ・ガガのライブをクリックした。曲目は"What's Up?"で、聴いたことがあるいい歌だと思った。それが終わると次に同じ曲で、ピンクやドリー・バートンのライブになって、その後、4 Non Blondsという名のバンドになった。知らなかったから調べると、この歌を作ったバンドで、歌っているのはリンダ・ペリーという名前だった。今度は4 Non Blondsやリンダ・ペリーで検索すると、騒がしいのが多かったが、いくつかいい歌もあった。で、Amazonで買うことにした。

4nonblonds.jpg" 見つかったのは、4 Non Blondsでは1枚だけで、発売されたのは1992年だから、もう30年も前である。"What's Up?"は「どう?」「どうしたの?」といった意味だが、歌の中には出てこない。代わりにくり返し歌われているのは "What's going on?" で、どちらも同じような意味である。調べて見ると、同名の歌がすでにあるから"What's going on?"ではなく、"What's Up?"にしたとあった。

4 Non Blondsはブロンドでない4人という意味で、女三人、男一人の編成だ。女ばかりでやりたかったようだが、いいミュージシャンがいなかったとあった。そんな姿勢と同様、歌詞も男中心の社会を批判する内容だった。「目標に向かって希望の丘を登ろうとしたが、世界が男で成り立っていることがすぐわかった」とあって、こんな社会ってどうなんだ?と繰り返す。リンダ・ペリーの声はハスキーがかってボリュームがあるから、説得力は十分という感じだった。このアルバムのタイトルになっている曲はない。「より大きく、より良く、より早いM(男?」という意味だろうか。

rindaperry.jpg" 4 Non Blondsはこの1枚だけで解散したが、リンダ・ペリーは歌い続けていて、1枚だけアルバムを出している。女の立場からの社会批判という姿勢は一貫していて、収められた歌の中には、他のミュージシャンに提供されたものもあったようだ。実際彼女は、プロデューサーとして何人もの女のミュージシャンをデビューさせてもいるし、ジャニス・イアンやアリシア・キーズ、それにピンクなどとも共作したり、アルバムの製作に関わったりもしているようだ。

彼女はデビュー時から自分がレスビアンであることを公言して活動してきた。活動の拠点がサンフランシスコだということもあって、LGBTの運動を支え、リードする役割もこなしてきたようだ。1965年生まれだから、もうすぐ60歳になる。しかし、最近も歌っていて、その迫力は衰えていない。

2023年11月6日月曜日

暖かい紅葉の季節

 

journal5-206-1.jpg" 紅葉の季節が始まって、河口湖も観光客が激増しています。連休ともなるとあちこちで渋滞が起こり、名所はどこも人混みで大変です。いつもなら、そんな時に外出しないのですが、今年は来客があって、一緒に自転車で湖畔を走ったり、観光客が少ない秘密の場所を案内したりと出歩きました。案の定、人また人、車また車でうんざりしました。

我が家のカエデも今年はきれいな赤になりました。右のように、去年は黄色のままで枯れたのですが、今年は見事です。もちろん、湖畔の紅葉も鮮やかに色づいて、冠雪した富士山と一緒の風景も例年にない美しさでした。

journal5-206-2.jpg" もっとも今年の暖かさは例年にないもので、こんなに色づくのは、一時期、朝晩寒くなったせいなのかもしれません。何しろここ数日は、昼は20度以上になって、とても11月の気温ではないからです。暖かさはもちろん全国的なもので、中には夏日を通り越して30度にもなったところがあるというのですから、もう異常気象というほかはないでしょう。

普通なら、我が家はもう薪ストーブを燃やしている頃です。しかしこのままでは、まだまだ火入れは先になるのだと思います。とは言え、昨年も12月に寒い時期があったものの、立春を過ぎたあたりから暖かくなって、3月中旬には燃やす必要がなくなったのです。雪もほとんど積もりませんでした。さてこの冬はどうでしょうか。

journal5-206-3.jpg"この暖かさのせいかどうかわかりませんが、全国的に熊が集落に現れて、襲われる人が続出しています。山歩きをする時には少し注意をしますが、我が家周辺にまで出てくることはないだろうと、高をくくっていました。ところがすぐ近くで目撃したという新聞記事があった後、何と我が家の工房の近くに大きな熊の糞を見つけてしまったのです。おかげで、外に出る時にはいつでも、熊の気配をうかがうようになりました。このまま暖冬だと冬眠もしないのではないか。観光客同様、招かれざる客には困ったものだと思います。

2023年10月30日月曜日

グレン・H・エルダー・Jr.『大恐慌の子どもたち』 (明石書店)

 

journal1-245.jpg 1920年代に未曾有の好景気を味わったアメリカは、1929年に大恐慌に陥った。その不況の嵐は世界中に及んで人々を苦しめたが、この本は子どもたちに注目して、その不況の時代だけではなく、それ以後の人生において、大恐慌の経験がどのように影響したかを辿ったものである。とは言え、最近出版された新しいものではない。最初の刊行は1974年で、日本語に訳されたのは86年である。その改訂版(完全版)であある本書には「その後」という章が追加されている。

監訳者の川浦康至さんは勤務していた大学の同僚で、一緒に退職したのだが、彼からはすでにパトリシア・ウォレス著『新版インターネットの心理学』 (NTT出版)もいただいている。このコラムでも紹介済みだが、そこで退職した後にほとんど何もしていない僕とは違って、しっかり仕事をしていると書いたが、また同じことを書かねばならなくなった。改訂版とは言え、何しろこの本は500ページ近い大著なのである。ご苦労様としか言いようがない。贈っていただいたのだから、せめて読んで紹介ぐらいはしなければ、申し訳ないというものである。

著者のグレン・H・エルダー・Jr.は1934年生まれだから、大恐慌を経験していない。その彼が大恐慌を経験した子どもたちに関心を持ったのは、博士課程在学中に図書館で見つけた資料と、その後に、それを作成したカリフォルニア大学バークリー校にポストを得たことだった。資料はポーランド移民の調査研究で有名なW.I.トマスが中心になって、大学近くのオークランドでおこなった調査だった。エルダーは当時の被調査者に再度面接し、第二次大戦やその後の経験を含めた聞き取りをして、『大恐慌の子どもたち』 にまとめた。改訂版にはさらにその25年後におこなった再調査が追加されている。

調査に協力したのは1920年から21年にかけてアメリカに生まれ、オークランドに住んでいた167人で、ほぼ男女同数の子どもたちだった。驚くのは、その後の調査にもほとんどの人たちが協力をしていて、100人を超える人たちの人生(ライフコース)聞き取っていることである。オークランドは湾をはさんで対岸にサンフランシスコがあり、北には大学町のバークリーがある。南はシリコンバレーとして70年代以降に急発展した街がある。ここにはパートナーの友人が住んでいて、数日滞在したことがある。湾に面した街の中では地味で寂れた感じがした。

大恐慌はオークランドに住む人たちの暮らしを大きく変えた。調査は、中間層と労働者層に分け、さらに影響の大きさによって二つに分けている。そこで、少年少女たちに訪れた生活の上での変化と、それによる心理的な影響について分析している。それが30年代後半の景気の回復や高等教育の有無、そして第二次世界大戦における兵役の経験へと繋がっていくのである。大学に行ったのか行かなかったのか、どんな職業についたのか、結婚と子どものいる家庭での暮らし方はどんなだったのか。そんな聞き取りが、一般的な調査や研究と比較されて分析されていく。

僕は浮気者だから、その時々に興味を持った対象をつまみ食いのようにして分析してまとめてきた。量的・質的調査もほとんどせずに、社会学や哲学の理論を援用して分析をするといった似非科学的な手法だった。だから、一つのテーマを聞き取りといった手法で追い続けるこの著者とこの本とは対照的な位置にいて、すごいな、と思いながら読んだ。自分にはできないが、研究とは、こういうふうにしてやるべきものだという見本であることを再認識した。

2023年10月23日月曜日

薪割りと動物作り

 

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forest195-2.jpg義兄の49日にお墓に納骨をした。当日は大雨で、義兄は山歩きが好きだったのに,雨男だったのかなどと話をした。参列した小さな子どもたちのためにシュークリームを作った。みんな大喜びで,おいしそうに食べたのを見ると、作りがいがあって、また作ってやろうと思いたくなる。もっとも次に会うのは三回忌だから、1年後ということになる。

近くでチェーンソーの音がするので終わった後に行って見ると、大木が何本か倒されていた。原木が手に入らないから、これはいただきだ。しかし、チェーンソーで切って、斜面を道の近くまで転がし、一輪車に乗せて運ぶのは大仕事だ。それを斧で割って積んだのだが、我ながらよくやったと思った。もっとも、運ぶ木はまだ残っていて、しばらくは汗かいて働かなければならない。原木を買えば、切って割るだけだが、運ぶのが何ともきつい。原木を何とかしてほしいとつくづく思う。

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陶芸はビールジョッキや蕎麦猪口を作った後は、動物に興味が湧いた。で、ゴリラやチンパンジー、ライオン、カバ、サイ、アリクイ、馬にキリン、ウサギや犬などを作った。中を空洞にして、足や角をつけるのだが、いくつか作ると要領が分かってきた。ところが本焼きして見ると、馬やキリンの細い足が曲がってしまっていた。ビールジョッキと蕎麦猪口は緑が青みがかって、なかなかいい色になった。動物はそれぞれ近い色合いにするのは難しいので3種類ぐらいにした。ここまで作ったら、ひと休み。薪割りが終わったら、また何か作るかもしれないが、今のところ作りたいものは思い浮かばない。

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2023年10月16日月曜日

ジャニーズ騒動その後

 

ジャニーズ事務所についての問題が混迷を極めている。メディアもスポンサー企業も、今まで知らぬふりを決め込んできたのに、ジャニー喜多川による性犯罪が白日の下に晒されはじめた途端に、ジャニーズ事務所との決別を言い始めた。メディアもスポンサー企業もぐるじゃないかと疑われることを恐れての自己保身だと言わざるを得ない。

そんなふうに思っていたら,『日刊ゲンダイ』に興味深い記事があった。「ジャニーズ事務所のメディア支配…出発点はメリーによる弟ジャニーの『病』隠し」と題された記事で、そこにはジャニーの病を知っていた姉のメリーが、その病がまた、魅力的なアイドルを嗅ぎ出す特殊な才能であることに早くから気づいていたと書いてあった。そんなふうに見つけた少年たちを次々アイドルにして急成長した「ジャニーズ事務所」は、実質的な経営を姉のメリーが取り仕切ってきたというのである。

この記事を読んで、僕はトリフを見つけ出す犬のことを連想した。獲物がトリフだったらもちろん,罪はないが、相手が少年で,それが性的欲望をかなえる対象だったのだから、発覚すれば当然、大問題になる。姉のメリーにとって、弟のジャニーの性癖を野放しにすることと、それを徹底的に隠すことが、事務所の存亡にとって一番の課題になったのである。

「ジャニーズ事務所」から排出されたタレントが、やがてテレビの視聴率を左右するほどの力を持つようになると、ジャニーの性癖やその被害者のことを知っていても、テレビもスポンサー企業も、そのことを不問に付しつづけた。それは「週刊文春」がそのことを記事に書き,「ジャニーズ事務所」が訴えた裁判で、文春が勝ってジャニーの性犯罪が認められた時も、テレビはもちろん,大手の新聞も,そのことをほとんど取り上げなかった。

.ジャニーから性的被害を受けた少年は数百人に及ぶという。それ自体何ともおぞましいことで、僕は「ジャニーズ事務所」は別組織として出直すのではなく,即刻解散すべきだと思う。所属タレントたちはそれぞれ別の会社に所属すればいいのである。しかし,同じくらい重要なのは、テレビや新聞が罪深さを自覚して、反省することだと思う。そもそもこの事件はイギリスのBBCが明るみに出してやっと動き出したことなのである。

もう一つ,気になっていてうまく理解できないのは、ジャニーが性的欲望の対象にした少年たちが、アイドル・スターとして人気を博するようになっていったという事実である。そのスターたちに憧れ,ファンになった多くは少女たちだった。彼女たちにとっても、惹きつけられる要因は性的欲望だったのだろうか。そんな疑問は、そもそも日本に特殊に発展した「アイドル」という現象全般に繋がっていく。アニメが世界を席巻したことを含めて,極めて特殊日本的な特徴のように思う。それを読み解くのは、やっぱり「かわいい論」再考になるのだろうか。もう少し若かったらやって見たかったテーマだと思う。


2023年10月9日月曜日

上高地と穂高

 

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恒例のパートナーのバースデーの小旅行は,一昨年行った穂高になった。内風呂つきの部屋が気に入って,ロープウェイ近くのホテルに1泊したのである。ロープウェイに乗って西穂高口まで行って、少し歩こうかと思ったのだが、前日にチェックすると、何と緊急点検で休止だという。それでは乗鞍岳にしようとしたら、ここも道路が全面封鎖で,バスは運行していないという。となったら,上高地しかない。と言うわけで朝6時に出発して、平湯温泉までクルマを走らせた。天気は快晴でバス乗り場に着くと,駐車場はすでに満杯。上高地の人気に改めて驚かされた。バスは満員で,上高地に着くと,やっぱり人でいっぱいだった。もちろん,平日のことである。

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新穂高温泉に移動して,せっかくだからと途中まで運行しているロープウェイに乗った。前回は天気が悪くて何も見えなかったが,今度は笠ケ岳がよく見えた。ダケカンバの森を少し歩いて宿に戻り,さっそく内風呂に入った。硫黄の臭いがきつかったが、最近痛めた足のふくらはぎをマッサージして、長湯につかった。夕食に食べた飛騨牛はさしが多くてあぶらっぽかった。赤身の方がおいしいのに,何でさしをもてはやすのだろうか。

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翌日は前回思いがけない雪で引き返した安房峠を通って松本まで走らせた。安房トンネルができるまではこの道を観光バスが通ったのだ,と改めて驚いた。峠にはお地蔵さんがいて、紅葉にはまだ早かったが、つづら折れの道はなかなか走りごたえがあった。この日は夜中からの雨で、何も見えなかったが,上高地に行くバスはひっきりなしだった。一昨年寄った飛行場近くの農園で、前回は遅くてなかった栗と林檎や野菜を買って帰宅した。

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2023年10月2日月曜日

早すぎた大谷ロス

 
MLBのシーズンが終わった。エンジェルスは今年も負け越しで,プレイオフには進めなかった。大谷選手はホームラン王を取り、MVPも確実視されている。WBCの優勝とMVPから始まったシーズンだったが、ハードに働きすぎたせいか、8月後半で力尽きた。毎日のようにゲームを見ていたから、9月中旬の負傷者リスト入り後は、しばらく大谷ロスに襲われた。あまりに華々しい活躍だっただけに,突然の幕引きに,気持ちがついていかなかった。

しかし,そうなるのではという心配はオールスター開け頃から感じていた。彼は6月、7月の月間MVPを獲得したが、チームはけが人続出で、彼にかかる負担は増すばかりだった。打って投げてのハードワークなのに,ゲームをほとんど休まない。試合に出たいという気持ちが強いことはわかっているが,それ以上に,勝つためには休んではいられないという気持ちが強かったのだと思う。しかも,そんな頑張りにも関わらず、8月に入ると,チームはさっぱり勝てなくなった。

大谷選手は7月28日のタイガース戦に,第一試合で完封勝ちした後、続く試合にも出て2本のホームランを打った。しかし,その試合で腰が痙攣して,途中で退場した。完封した投手が次の試合でDHで出るというのは常軌を逸してると思ったが、メディアは大谷の活躍を絶賛した。本人も監督も、水分の取り方が足りなかったといった程度にしか思わなかったのか,翌日からのゲームにも出場した。で、痙攣は次に足に来て、指に来た。それでも彼は欠場せず、8月23日のゲーム後に右腕靭帯損傷となった。

彼の成績は、そのタイガース戦時点で投手として9勝し、38本のホームランを打っていた。脇腹の故障で故障者リスト入りした9月17日までの1ヶ月半で挙げた成績は,投手で1勝、ホームランは5本である。無理がたたっての不振と故障であったことは明らかで、手術したために来年は投げられなくなったのだから,その代償はあまりに大きかったと言えるだろう。選手の健康管理を厳しくしていれば、もっと休みを多くすることができたはずで、エンジェルスの罪は大きいと思う。今年のエンジェルスは故障者続出で野戦病院化してしまったのである。

こんなチームにはもうおさらばして欲しいと思うが,果たしてどうだろうか。来年はどこのチームに行くか。そんな話題が毎日繰り返されているが,相変わらずお金の話ばかりが目立っている。僕は肘の靭帯の手術を2度もした後の彼の選手生命が心配である。太く短くよりも少しでも長く続けて欲しい。大谷選手には,何より自分の身体のことを考えた選択をして欲しいと思わざるを得ない。

2023年9月25日月曜日

ヴァン・モリソンの2枚

 Van Morrison "Moving On Skiffle"
"What's It Gonna Take? "
 

このコラムでは、今年は死んだ人ばかりを取り上げてきて、僕自身も、聴いてきたミュージシャンも、そんな歳になったのだと、改めて気づかされた。そう言えば、新譜もとんと見かけない。そろそろ更新しなければと思っていたら、Youtubeでヴァン・モリソンがベルファストでやったライブを見つけた。Van Morrison - Up on Cyprus Avenueというタイトルで8年前とあるから2015年に行われたものだ。森に囲まれた公園の特設ステージは満席で、その周囲に多くの人が立って聴いている。1時間近いライブを見ていて、ヴァン・モリソンが気になった。

morrison12.jpg" 探してみると、毎年のように新譜を出していることがわかった。このコラムで取り上げたのは21年に出た『Latest Record Project Volume 1』で、コロナ禍でコンサートが禁止されたことに抗議して作られたと紹介してあった。『What's It Gonna Take?』は翌22年に出ていて、全曲がコロナ禍での国の規制や人々の振る舞いに対する批判になっている。このアルバムには賛否両論あったようで、自己中心的で悪質だとする批判や、文化の最近の抑圧を描写しているといった肯定的な評価もあったようだ。確かに、メッセージは直接的で辛辣だが、聴いている限りはいつものモリソン調で軽やかだ。それにしても80歳近いのに元気だと感心した。

morrison11.jpg" そのエネルギーはまだまだ衰えを知らないかのようだ。今年も『Moving On Skiffle』という名のアルバムを出していて、やっぱり軽やかに元気に歌っている。スキッフルというのは50年代のイギリスで流行った音楽だが、もともとは20年代のアメリカで、まともな楽器を持たない黒人たちがタライや洗濯板などを使って始めたものだった。だから音楽的にはごたまぜだったのだが、イギリスでリバイバルしたスキッフルもまた、ブルースやフォーク、カントリーなどが混在する音楽だった。

ただしモリソンはそんな音楽を聴いて成長し、やがて本格的にミュージシャンをめざすようになった。このアルバムは当時のヒット曲を23曲も収めた2枚組みである。いくつかはアメリカのフォークソングとして聴いた曲もあるが、サウンドはいつものモリソン節である。毎年出していることに驚いたが、モリソンの次の新譜が11月発売と予告されていて、次はロックンロールをとりあげた『Accentuate The Positive』だという。自分史を作ろうとしたのか、20世紀のポピュラー音楽を振りかえったつもりなのか。回顧的なアルバムを作るのはすでにボブ・ディランがやっているが、アメリカとイギリスを代表する二人のミュージシャンならではだと、改めて思った。

2023年9月18日月曜日

弔いの仕方

 
journal5-205.jpg"義兄が亡くなって通夜と葬式に参列しました。近親者だけの小さな弔いの式でしたが、久しぶりに顔を合わせた人や、初対面の人などもいて、和気あいあいとした雰囲気でした。最近ではコロナ禍もあって、近親者でもほとんど顔を合わせないままでしたから、こんな機会は貴重なのだと改めて感じました。

義兄は僕より二つ上で、学年では1年違いでしたから、余計に身につまされる思いになりました。胃ガンが見つかった時にはステージ4で、健康診断をしておけば、もっと早く見つかったのにと、悔やまれる最後でした。車の後部に山歩きやキャンプの道具、あるいは折り畳みの自転車などをつめて、いつでも気軽に出かけていましたが、車の荷物はそのままなっているようでした。

歳が近い近親者の死は、昨年もあって、京都に住む従兄弟の葬儀に参列しました。彼には近親者が甥っ子しかいませんでしたから僕が喪主になりました。彼は100歳近くまで生きた伯母と二人暮らしで、白血病が発症してから4年ほど、伯母の介護と亡くなった後始末などをしながらの闘病生活でした。友達もいたでしょうし、仕事仲間もいたと思いますが、連絡先が分からないので、弔いの席に出たのは僕ら夫婦と甥っ子、そして友達一人の4人だけでした。

その火葬場で驚いたのは、京都では遺骨を一部しか残さないということでした。骨壷は手の平に乗るほど小さなもので、そこに、ここはどこ、と言った説明をしながら入れて、後は捨ててしまったのです。京都には25年住みましたが、火葬の場に参列したのは初めてでした。京都人の合理的発想を改めて認識した瞬間でした。

義兄の火葬では参列者が食事をし、その後で、二人で一つの骨を箸でもって骨壷に入れました。粉になったものも残さず入れましたから、両手で抱えるほどの大きな骨壷一杯になりました。その骨壷は49日が過ぎた頃にお墓に納めます。その墓には。すでに義父と義母の骨が入っています。それほど大きな墓ではありませんから、やがてはまとめてということになるのでしょう。

従兄弟のお骨などを含めて、こちらの後始末はすべて甥っ子に任せました。お墓はありましたが、後に入る人はいません。無縁仏になった後の始末はどうするか。僕にはどうすることもできないことです。僕は義兄と同じ霊園に新しいお墓を造り、父親の骨を納めました。祖父や祖母の墓はすでにあったのですが、遠方のために、新しくすることにしたのです。父には相談しませんでしたから、お墓の中で文句を言っているかもしれません。

葬儀の仕方やお骨の納め方には、いろいろなやり方があるようです。先祖代々の墓に入って、子孫が末長くお参りする。そんな家族はもうとっくに少数派になっています。葬式やお墓を必要と思うかどうかなども含めて、昔とは違う、新しいこととして考える必要があると、改めて思いました。とは言え、祖父と祖母の墓をどうするか。何とも悩ましい問題です。



2023年9月11日月曜日

万博って何なのか

井上さつき『音楽を展示する パリ万博1855-1900』(法政大学出版局)

2025年に開催される大阪関西万博が工事の遅れなどで話題になっている。そもそもなぜ今万博なのか。その意図がよくわからない。と言うより大阪市はカジノを中心にしたIR(統合型リゾート)を作ることを狙って、万博をその隠れ蓑にしたと批判されている。地盤がまだ安定していないゴミの埋め立て地だから、建物を造っても沈下してしまうし、交通手段もかぎられている等々、問題は山積みだ。

この万博のテーマは「いのち輝く未来社会のデザイン」で、サブテーマとして「いのちを救う」「いのちに力を与える」「いのちをつなぐ」と極めて抽象的でよくわからない。確かに温暖化は深刻だし、戦争や紛争はたえないが、そんな現実的な問題を具体的にテーマにしているわけではないようだ。

xpo1.jpg そもそも万博って何なんだ。そう思って、書架に読まずに積んであった万博関連の本を探してみた。井上さつきの『音楽を展示する』は19世紀中頃から20世紀初頭にかけて何度か行われた「パリ万博」について、主に音楽に焦点を合わせて論じたものである。万国博覧会は1851年にロンドンで初めて開催された。パリ万博は1855年に開催され、続いて1867年、78年、89年、そして1900年とほぼ10年ごとに開かれた。パリでの開催はこの後1937年で、その後は開かれていない。

パリ万博は産業革命を誇示したロンドン万博と違って、産業の他に芸術の展示を重視した。しかし絵画や彫刻と違って、音楽は、常設の展示ではなくコンサートという形で行われる必要がある。この本には、その音楽の展示方法の工夫や、演奏され歌われる音楽の種類、それらを聴きに来る聴衆の階層などが、開催年度によっていろいろと見直されてきたことがよくわかる。パリ万博といえばエッフェル塔ぐらいしか思い浮かばなかったが、パリが芸術の街と言われるようになる上で、万博が果たした役割が大きかったことを再認識した。

万博は産業の発展を目的に始まり、文化的な側面を追加して、人々に近代化による社会の変化を実感させることに役立ったが、その産業は20世紀になると二つの世界大戦を引き起こすことにもなった。1970年に開催された大阪万博は、大戦から立ち直った日本や世界の現状、あるいは宇宙への関心などを展示する上で大きな意味があったと言われている。しかし、その後の万博ははっきりいって、もうやる必要のないものになってきていると言えるだろう。今さら世界中から最新技術や文化的なイベントを一ヶ所に集めて開催される意味がどれほどあるのか、はなはだ疑問なのである。

だからこの本を読んでまず感じたのは、万博の意義はすでになくなっているということだった。クラシック音楽がコンサートホールで聴くものとして確立し、印象派やキュービズムなどの美術が美術館に展示され、高額の値段で売買されるようになったのは、まさに19世紀の後半の万博が華やかに開催された時期と重なるのである。あるいは20世紀になると映画やラジオやレコードといった技術が普及し、やがてテレビが登場するようになる。そして、20世紀終わりからのインターネットである。19世紀末から始まったオリンピックと併せて、こんなものを未だに当てにしている日本の政治家たちの古びた感覚に、もううんざりするしかないのである。

2023年9月4日月曜日

いろいろあった8月

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暑い、暑い東北旅行から帰ってほっと一息ついた。台風などで雨が多かったが、その分気温は低くて、旅の疲れを癒やすことができた。もう夏にはどこかに出かけるのはやめよう。何度かそんな思いをしたが、今度こそは身にしみてわかった。逆にここを訪れる人たちは、猛暑から解放されて楽しんでいるようだ。天気が良ければ早朝に自転車に乗ることにしているが、レンタルに乗った外国人が大勢いる。ロードバイクを走らせる人もいつもより多い。夏は富士山が隠れることが多いが、涼しさだけでも、来た甲斐があったと思うだろう。

forest194-2.jpg それほど強い風が吹いたわけでもないが、家の近くの大木が道を塞ぐように倒れた。町役場から来た人がチェーンソーで切って片づけていたので、木が欲しいから後は僕がやると言うと、それは好都合という返事だった。トラックを用意してどこかに捨てる手間が省けたのだから、それはそうだろう。こちらも原木が手に入らなくて困っていたから、少しでもあれば大助かりだ。

forest194-3.jpg と言うわけで、一輪車に乗せて運べる大きさに切り、家まで運んだのだが、いったい何往復しただろうか。持ち上げるのもやっとなものを、傾斜のある100m近い道を運んだのである。手が震え、足がなまり、汗が噴きだした。カエデの大木は根腐れして倒れたのだが、その根っこの部分は相当の太さだった。チェーンソーを動かしたのは久しぶりだったが、夏場だからすぐにエンジンがかかった。これを薪にして乾すのだが、もう少し涼しくなってからにすることにした。

forest194-4.jpg最初に作った陶器は毎日の食卓に乗っているが、二度目のは机の上において、物入れにしている。今まではガムの容器を使っていたのだが、これからもいくつも作っていこうと思っている。粘土遊びもだいぶうまくなってきて、ちょっと大きな器もできるようになった。土の種類によって色や粘り、それに手触りが違うし、焼いた跡の感じもだいぶ違っている。そんなことが新しい発見として面白くなってきた。釉薬のかけ具合で色がでたりでなかったりと、ますますやる気になっている。

そんな毎日を過ごしていたら癌で闘病中の義兄が末期の自宅療養になったという連絡があった。さっそく千葉まで出かけたのだが、やっぱり暑かった。義兄はベッドに寝たままで、こちらの言うことに首を動かすような反応だった。もう長くはないだろうなと思って帰ったが、数日後に亡くなったという電話があった。で、また千葉に出かけた。通夜と葬式は10日後にあって、近親者が久しぶりに集まった。76歳で登山好きの人だったから、もっともっと元気でいて欲しかった。

2023年8月28日月曜日

Xって何?

twitterx.jpg" 「Twitter」が突然「X」になった。何で?と思ったが、ツイート自体に変化はない。それにしても、長いこと馴染んできたロゴが消えて、謎の「X」になるとは。どうせイーロン・マスクの仕業だろうと思って、理由を調べることにした。

「X」はイーロン・マスクがこれまでも好んで使ってきた文字のようだ。彼がPayPalと合併して作った会社が「X.com」で衛星打ち上げ企業は「Space X」、さらにテスラにもモデルXがある。息子の名前にもXを使っているし、最近立ち上げた人工知能のベンチャー企業名も「xAI」だという。そして、単に「X」が好きというのではなく、彼には未来に向けた遠大な計画があるようだ。

 Xは、オーディオ、ビデオ、メッセージング、支払い/銀行業務を中心とした無制限のインタラクティビティの将来の状態であり、アイデア、商品、サービス、機会の世界的な市場を創造します。AIを活用したXは、私たちが想像し始めた方法で私たち全員を結びつけるでしょう
「Twitter」は鳥のさえずりを意味することばを使って名づけられた。日本語では「ピーチクパーチク」で、周囲にうるさくまき散らすイメージだが、どういうわけか「つぶやき」と訳された。「さえずり」は周囲に向けたコミュニケーションのやり方だが、「つぶやき」は独り言で、相手を意識しない。いかにも日本人的な発想で、始まった頃に批判した覚えがある。面と向かったやり取りではなく、独り言をつぶやきあう。もちろん、つぶやきに反応してつぶやくのだが、さえずりよりは発言の力が弱められて広がることになる。発言に対する責任回避のやり方だと思ったものだった。

しかし、「Twitter」が「X」になることで、やがてこのSNSは「さえずり」でも「つぶやき」でもない別のメディアになってしまうのだろう。イーロン・マスクの野心には、そんな危惧も持つ。「X」は、これから彼が経営する他の「X」と名のつく企業と連携させて、よりビジネスに傾斜したものにするつもりだからだ。もうそうなったら、僕には用がないなと思ってしまう。

そう言えば、最近は「Twitter」をチェックすることも減っていたし、「FaceBook」などは、ほとんど見なくなっていた。どっちにしても、自分で書き込むことは、もう何年も前からやめていたが、最近では書き込む人の数もずいぶん減っていた。それに、どちらにしてもCMが多くなって、開けてもうんざりして、ろくに見もしなくなっていたのだ。

ネット上で面白いなと思ったメディアが人気になると、やがて買収されてビジネスの道具になる。その途端にCMが溢れ、面白さが失せていく。YouTubeもCMばかりだし、Amazonプライムも値上げをした。テレビに続いてネットも面白くなくなったら、何を見て毎日を過ごそうか。そんな不満を感じることが少なくない。


2023年8月21日月曜日

iMacのモニター接続で一苦労

 

imac2.jpg" 以前にこの欄で書いたようにiMacが古くなり、システムの更新もできなくなったから、1月にMacBookを買った。その時に、モニターで使っているCinema Displayの方が少し新しいからとMacBookと繋げられるばか高いアダプタも買ったのだが、Cinema Displayの方が壊れてしまった。夜寝る前は何ともなかったのに、朝起きてつけたら反応がない。さあ困った。画面二つで使っているから何とも不便で、新しいモニターを買うことにした。Apple純正のStudio Displayは22万円もするから今回は問題外。ネットであれこれ見て、Iiyamaの27インチを買うことにした。少し高いがAmazonではなく、馴染みの電気屋さんに注文した。

imac3.jpg" 東北旅行をはさんで、モニターが来た。MacBookとはUSBのTypeCで繋がったのに、iMacと繋ぐためには接続のためのアダプタを買わなければならない。iMacの出力はThunderbolt2だからそれをHDMIに変換するコードを買えばいい。あるいはUSBからHDMIでもいけるだろう。と思ってAmazonに二つを注文した。翌日には来て繋いでみたのだが、どちらも反応がない。ネットで調べると、iMacの製造年によって繋がるものとそうでないのがあることがわかった。しかたがないから、iMacは2012年製だからそれにに適合しているものを探して再注文したのだが、やっぱり繋がらない。

Macは30年以上使っているが、こんなトラブルはこれまでにもよくあった。その度にいらいらして胃が痛くなった。またかと思ったがもう諦めよう。そんなふうに考えたのだが、念のためにともう少しネットで探すことにした。そうするとThunderbolt HDMI変換ケーブルで、確かに2012年製のiMacに繋がると画像つきで紹介しているサイトを見つけた。コードはこれまでの黒と違って白色で、丁寧にワンクリックでAmazonで買えるようになっていた。もう一回試してみようかと思ってまた注文。半分ダメだろうと思っていたのだが、接続するとついたではないか。新しいモニターは解像度が低いし、スピーカーはお粗末だが、値段が5分の1だから仕方がない。とにかく、使えるようになって大助かりだった。

imac4.jpg" それにしても、同じアダプターでも繋がるのと繋がらないのがあって、iMacの製造年で違うとは、どういうことだろうか。Appleらしいといえばそれまでだが、こんなトラブルもこれっきりにしてほしいとつくづく思った。いずれにしても、2画面で使うことができるようになったので一安心だ。もっとも、このiMacももう12年目だから、いつ壊れてもおかしくない。その時のためにMacBookをもっと使うようにしようと思うのだが、やっぱり使い慣れた、大きな画面の方を使ってしまう。

2023年8月14日月曜日

シニード・オコーナーとアイルランド

 

sinead.jpg" シニード・オコーナーが死んだ。自殺のようだ。去年の12月に息子の自殺などがあり、本人も自殺をほのめかすツイートをして入院をしたというニュースを見つけて、彼女のことを振りかえった。結婚と離婚を四度くり返し、その度に四人の子どもを産んでいること。自殺したのは三度目に結婚したアイルランドを代表するミュージシャンのドーナル・ラニーとの間に生まれた三人目の子どもだったことなどを書いた。その時から、近いうちに彼女の訃報があるのではと思っていたが、現実になってしまった。

彼女については、このコラムで何度も書いている。最初は1999年で、フィンランドの青年が僕のディスコグラフィーに載っている彼女のCDがほしいとメールが来たことを紹介した。日本版が珍しかったからだが、インターネットが始まった頃には、こんなメールが世界中からやってきて、面白いメディアができたものだと思った。

sinead2.jpg" 僕がシニードのことを知ったのはボブ・ディランの30周年記念コンサートのライブだった。1992年で、テレビで生中継されたのをわくわくしながら見た記憶がある。ミュージシャンが全員、ディランの歌を歌ったのだが、彼女だけがボブ・マーリーの「ウォー」を歌い、泣き崩れて、クリス・クリストファーソンに慰められた。その行動や坊主頭の姿にびっくりしたが、彼女を有名にしたのはプリンスのカヴァー曲「ナッシング・コンペアーズ・トゥー・ユー」だった。カナダ人の友達の家を訪問した時に、壁にこの言葉が書いてあって、女性二人で暮らすカップルの関係が、この歌でよくわかる気がした。

ireland12.jpg" 僕は2005年に初めてイギリスとアイルランドに行った。その目的は、パブでギネスを飲みながらアイリッシュ音楽を聴くことだった。アイルランド出身のミュージシャンには好きな人がたくさんいた。一番古いのはヴァン・モリソンでU2などとともに、シニードもその一人だった。こういった人たちのライブは無理だったが、パブでのライブや、アイルランドのフォーク歌手が勢ぞろいしたコンサートを、偶然ダブリンで聴くことができた。シニードはイギリスに苦しめられたり、飢饉で大勢の人が死んだことや、アメリカに移り住んだ人のことをテーマにした曲をたくさん歌っている。

isinead1.jpg" その2005年に彼女が発表した"Sean Nos Nua"はアイルランドの伝統音楽を素材にしたものだった。このコラムで、「ゲール語で古いスタイル(Sean Nos)と新しさ(Nua)を意味するタイトルに見られるように、彼女自身の雰囲気をのこしたアルバムに仕上がっている」と書いた。彼女はその後も何枚かのCDを出したが、ここ10年ほどは、ほとんどその名前を耳にすることはなかった。1966年生まれだからまだ50代で、死ぬには早すぎるのにな、と思った。

P.S. と、書いていたらザ・バンドのロビー・ロバートソンが亡くなったという新聞記事を目にした。闘病生活の果てだったようだ。ザ・バンドについては、昨年「The Bandという名のバンド」というタイトルで書いた。ロビーが製作した『ザ・バンド かつて僕らは兄弟だった』をAmazonで見て、ザ・バンドについてはあまり書いていないことに改めて気づかされた。ボブ・ディランのバックとして活躍した印象が強かったが、このバンドでもいくつものヒット曲を作った。メンバーの大半が死んでしまったが、改めて聴き直して、もう一度取り上げようと思う。

2023年8月7日月曜日

東北太平洋岸を北上した

 

河口湖から宮古まで片道800kmを6日間で往復した。それにしても暑かった。クーラーがなくても30度を超えないところに住んでいる者にとっては、35度超なんていう温度はとても耐えられない。だから、クルマから降りるのを躊躇する。そんな旅になった。

初日は平まで。日曜日だったから高速は空いていて、ほとんど渋滞なしに4時間ほどで小名浜に着いた。まずは水族館を見学したのだが、とにかく暑い。トドと潮目の海が売り物なのだが、それほど驚くほどではなかった。細々とした展示が多くて、暑いせいかほとんど素通りという感じだった。マンタやさめが泳ぐ沖縄の「美ら海水族館」とは比べるまでもないが、ちょっとがっかりだった。

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2日目は平から相馬まで。津波や原発事故後の様子を見たいと思い、なるべく海沿いの道を走った。福島第二原発に近づくと、帰還困難区域にぶつかり先には進めなくなった。そんな道をあちこち抜けたのだが原発そのものを見ることはできなかった。逃げてそのままになった店舗や住宅には雑草が伸びて、月日の経過を教えてくれた。浪江町の請戸小学校の遺構を見学。津波は校舎の2階まで押し寄せたようだが、生徒全員が近くの山に逃げて助かったとあった。

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tohoku6.jpg 3日目は相馬から石巻へ。朝から雷と豪雨だが涼しい。宮城県にはいって山元町を通るとヒマワリ畑が目に入った。そこで道案内をする人に聞くと、周囲には家もあったけど、水没してしまったと話していた。新しくできた道路は堤防の役割もできるように造られていた。おかしいのは多くの道がカーナビには載っていないことだった。昨年更新したばかりなのに、それ以後できたのだろうか。この後も、そんなカーナビにはない道を多く走ることになった。

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4日目は石巻から宮古へ。新しい高速道路は無料だったが気仙沼からは下道を走った。以前に来たことがある魚市場周辺は一変していて、泊まった旅館もどこにあったのかわからなかった。そこから、これも以前に行った大理石海岸に寄って、陸前高田、大船渡、釜石と走り、宮古の国民休暇村に着いた。道路には津波がここまで来たという表示があって、中には50メートルを越える高さにも達していたことがわかった。どこも堤防が張り巡らされていて、新しい街が作られていた。下の画像は大理石海岸と碁石浜。

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tohoku9.jpg 5日目は宮古から福島へ。もう帰り道になるが早池峰山を見ながら花巻に抜けた。狭くて曲がりくねった道で、土日は通行止めになるという。対向車が来たらと気になったが、何とか早池峰山の登山口に着いた。そこから大谷選手の花巻市や奥州市を走って福島へ。
6日目は福島から我が家まで。東北道はスムーズだったが圏央道に入って鶴ケ島から八王子まで大渋滞。途中のパーキングでトイレ休憩をすると気温は何と42度。まるでサウナブロで、車に逃げ帰った。それにしても圏央道はいつでも渋滞している、大型トラックが多くて嫌いな道だが、都心を抜けるともっと時間がかかってしまう。6時間ほどかかってやっと我が家に着いた。28度でホッとした。