2009年6月29日月曜日

マイケル・ジャクソンの功罪

・マイケル・ジャクソンが死んだ。享年50歳。一世を風靡したミュージシャンの悲しい末路。ニュースを聞いて、こんなことばが、これほどあてはまるケースはないと思った。僕は彼の音楽にはほとんど興味がなかった。だからレコードもCDも一枚も持っていない。しかし、彼が登場したことで変わった音楽状況には、以前から強い関心をもってきた。あるいは、富と名声を得たスターが辿る道筋としても、きわめて興味深いと思っていた。

・マイケル・ジャクソンは1966年に4人の兄たちと作った「ジャクソン5」でデビューしている。まだ8歳だったから、かわいらしさで人気者になったが、ミュージシャンとしての本格的なデビューは78年以降である。音楽そのものだけでなく、踊るミュージシャンとして、ミュージック・ビデオの隆盛を象徴する人物になった。最大のヒット作である『スリラー』は、80年代だけで5900万枚を売ったと言われている。

・マイケル・ジャクソンの登場以前と以後で大きく変容したことがいくつかある。その第一は、彼がかつてないほどに白人をファンにしたことだろう。肌の色と音楽の違いという垣根は、公民権運動や音楽的な交流によって、60年代の後半から崩れ始めていた。それが彼の出現によって吹き飛んだのだ。もちろん、ここには彼個人の力というよりは、そうなるべき時代の趨勢といった要素のほうが大きい。そのことはスポーツ界に起こった同様の現象見れば明らかだ。バスケットボールではマジック・ジョンソンやマイケル・ジョーダンといったスーパー・スターが出現したし、野球ではハンク・アーロンがベイブ・ルースのホームラン記録を破った。肌の色とは関係なしにいいものはいいし、強い者は強い。そんな当たり前のことが受けいれられはじめた時代で、マイケルはその象徴的存在になったのだ。

・アフリカで起こった深刻な饑餓という状況に対して立ちあがったボブ・ゲルドフの声にいち早く呼応したのもマイケルだった。彼はアメリカでの動きをリードして「USA for Africa」という名のプロジェクトを立ち上げ、アルバム『ウィー・アー・ザ・ワールド』を制作した。1985年にロンドンとフィラデルフィアで同時開催された「ライブ・エイド」は世界中に同時中継される一大イベントになり、音楽が政治や社会に対して働きかける即効性のある手段であることが見直されたのである。ただし、その後もこの種の活動に力を注いだゲルドフと違って、マイケルには目立った活動はない。

・3番目は、音楽の売り上げに果たす映像の役割の大きさを実証したことだ。音楽専門のケーブル・テレビのMTVが放送を開始したのは 1981年で、それはちょうどマイケルの最初のビッグ・ヒットとなったアルバム「オフ・ザ・ウォール」と重なっている。それによってミュージシャンは音づくりやライブでの演奏だけでなく、情宣用のビデオにも時間とエネルギーをさく必要に迫られるようになった。そのことを音楽軽視として批判する声は強く、たとえばそんな状況を揶揄したダイアー・ストレイツの「マネー・フォー・ナッシング」が大ヒットしてもいる。音楽性か金か。そんな論争の中で、音楽の産業化に対する批判の矛先がマイケルに向くことも少なくなかった。

・マイケル・ジャクソンに向けられた批判はもうひとつ、聴くものであった音楽を踊るものに変えたという点だ。それは、白人の中で生まれたロックには、歌われることばや演奏される音そのものへの集中的な聴取を求める傾向があって、からだで聴く黒人のR&Bなどと一線を画していたという歴史的違いに大きな原因があった。ただし、音楽を踊るためのものに変え、巨大なビジネスにする力になったミュージシャンは、他にもマドンナがいる。で、彼女の歌には踊らせる力と同時に、社会に対する痛烈な批判や反発が同居した。そんな性格は、黒人の中から新しく生まれたラップにも特徴的だが、マイケル・ジャクソンの音楽には稀薄だった。

・マイケル・ジャクソンは黒人だが、90年代以降になると、登場するたびに色が白くなり、だんご鼻が細く高くなっていった。少年に対する性的虐待の疑惑で訴えられたこと、ディズニーランド好きで、自らの住まいをお伽の国にして「ネバー・ランド」と命名したこと。そして稼いだ巨額のお金を湯水のように使う放蕩三昧の生活など、21世紀になってからは、その奇妙な変貌ぶりや奇行ばかりが話題になった。マドンナのしたたかな生き方に比べると、その脆さが一層際立ってくる。エルビス・プレスリー、ジョン・レノン、そしてマイケル・ジャクソン。現代のポピュラー音楽を作った巨人が、またもう一人他界した。

2009年6月22日月曜日

変わったライブ盤2枚


Lou Reed "Berlin Live At St. Ann's Warehouse"
Van Morrison "Astral Weeks Live at Hollywood Bowl"

・僕が長年聴き続けてきたミュージシャンには誰も、”伝説の”と名がついて語られてきた「ライブ」がいくつかある。それはディランでいえば、エレキ・ギターを持って登場して客を混乱させたニューポート・フォーク・フェスティバルや、ヨーロッパでの「ユダ!」と呼ばれて「お前なんか信じない」とやり返したコンサートなどがある。どちらも海賊盤では早くから出回っていたが、正式に発売されたのは最近になってからで、その一つ"No Direction Home"にはDVD版もある。
・同様にオフィシャル盤を積極的に出しているのはニール・ヤングで、その "Massey Hall 1971"と"Live at Fillmore East 1970"は購入してレビューも書いた。もう一枚、"Sugar Mountain: Live at Canterbury House 1968"が出て、アマゾンからお知らせも来たが、これはまだ買っていない。

・最近買ったライブ盤2枚には共通する変わった特徴があった。どちらも数十年も前に出されたアルバムで、傑作として評判は高いが、商業的には成功しなかったものだ。それをライブ盤としてリメイクしたもので、どちらもそれなりに良くできていると思った。

reed1.jpg ・ルー・リードの"Berlin"は1973年に出された彼の3枚目のソロアルバムで、ベルリンを舞台にした物語として全曲が構成されている。壁で分断されたベルリンにある小さなカフェでギターの演奏が聞こえる。主人公(リード)とショー・ガールのキャロライン、そしてジムとの奇妙な、それゆえ深刻な三角関係。キャロラインには幼い子どもがいる。ベルリンという東西の冷戦状態を象徴する街で、異性愛と同性愛が錯綜する関係が物語られ、キャロラインの自殺で話は終わる。作品としてのできは絶賛されたが売り上げはさんざんで、このアルバムをライブとしてパフォーマンスすることはなかったようだ。
・73年に発表された ”Berlin"を、僕はずっと、ベルリンでのライブを録音したものだと思っていた。途中で小さな子どもが泣いて、「マミー」と繰りかえし呼ぶ声がする。小さなクラブでのライブでおきた大きなハプニングのようだが、その時歌われている"The KIds"では、キャロラインに捨てられる子どもたちのことが語られている。
・その"Berlin"が35年ぶりに、同じタイトルでリメイクされた。ベルリンではなくニューヨークのブルックリンでライブとして行われたものの録音で、同時に映像化もされてDVDでも発売されている。ほとんど売れなかったアルバムを35年も経ってから作り直す意味は、どこにあるのあるのだろうか。ソ連と東側の共産圏が崩壊し、ベルリンの壁が壊された。この35年のあいだに政治や経済の状況は全く変わってしまった。同性愛やドラッグは、一方でエイズや中毒による死者を大量に生んで社会問題になったが、他方ではきわめてポピュラーになってもいる。ルー・リードが新しい"Berlin"で物語ろうとする世界の意味についてあれこれ考えを廻らすと、改めて、時代の流れに驚かされる気がする。とは言え、新しい"Berlin"のジャケットに写された彼の姿は、その浮き出た上腕筋に見られるように昔以上にマッチョになっている。

van1.jpg ・もう一人、ヴァン・モリソンが、彼の初期の代表作である"Astral Weeks"をライブで再演して、アルバムにしている。1968年に出されたものだが、これもまた、売り上げはさほどでもなかったようだ。ただし、ミュージシャンに与えた影響の強さなどから、名盤として取りざたされることが多い。英語版のウィキペディアには、マーチン・スコセッシが彼の代表作となった『タクシードライバー』の基盤にした話や、ジョニ・デップの「今までなかったほど心が動かされた」というコメントが紹介されている。
・ヴァン・モリソンはスタジオよりはライブでの録音が好きなようだ。ただし、レコード会社との契約で、新しいアルバムをライブで録音することは認められなかったし、そのアルバムの売り上げが芳しくなければ、アルバムそのものをライブとししてパフォーマンスすることも許可されなかったらしい。そういった制約から解放されて一番やりたかったのが、"Astral Weeks"のライブとその録音だが、それは単なる再演ではない。新しいアルバムは古いアルバムとほぼ同じ曲目、曲順だが、1曲目の"Astral Weeks"の題名には"/I believe I've transcended"が追加されている。何をどう超えたかは、聞けばわかるはずで、サウンド的には全く別ものになっているし、ルー・リードとは違って、風貌はすっかり老成している。一度はライブをみたいと思っているが、日本には絶対来ないから、こちらから出かけなければ、かなわないミュージシャンだ。

2009年6月15日月曜日

やさしいベイトソン

 

野村直樹『やさしいベイトソン』金剛出版
モリス・バーマン『デカルトからベイトソン』国文社

bateson1.jpg・ベイトソンの理論は魅力的だが難しい。だから、話題としては、決まった中身と形でしかできないできた。このパターンを脱けだして、もう少し自分のものにできないものかと、ずっと思ってきた。最近見つけた『やさしいベイトソン』は、そんな気持ちをくすぐる誘惑的な題名で、薄い本だからすぐに読み終わった。この本には、著者が直接目の当たりにして聞いたベイトソンの話が書かれている。ベイトソンが娘と交わす不思議な会話と並行させて、ドン・キホーテとサンチョ・パンサを登場させてベイトソンを読み解く工夫も施されていて、おもしろく読むことができる。ベイトソンへの興味も増すことは間違いない。けれども、読み終わっても相変わらずベイトソンは難しい。その意味では、この本はベイトソン理論を易しく解説したものではなく、ベイトソンという人物の優しい人柄を描きだしたものだと言える。で、ベイトソンの『精神の生態学』(思索社)を引っぱりだしてみた。

・ベイトソンの理論といえば「プレイ」と「ダブルバインド」が有名だ。「プレイ」は「遊び」と訳してもいいが、その他にも、演技をする、スポーツをする、あるいは音楽をやるなど多様な意味がある。ベイトソンはその全てに共通した特徴を、互いに相反するメッセージ、つまり、「本気でやるぞ」と「本気でやるな」が共存するコミュニケーションだと指摘した。普通には「これは遊び」というと、本気でない、真面目でないと解されるが、「遊び」はそこに本気が入るからこそおもしろく夢中になるはずで、だからこそ、「ウッソー」とか「マジ?」といったことばが出るのである。

・彼の代表的概念である「ダブルバインド」も構造的には「プレイ」同様相反する二重のメッセージで成り立っている。時に精神分裂病(統合失調症)を患う人に見られるのは、その原因が、身近な強者から自分に向かって放たれた互いに相反するメッセージに晒されることにあるという。つまり、「〜をしないと罰する」という命令が「〜をすると罰する」と同時に発せられるのだが、弱者には、それに異議を唱えることはできないし、しかもその場から逃げ出すこともできないのである。こんな状況に繰りかえし置かれた弱者が自己を守るすべは、狂気に陥ることだけだというわけだ。

bateson2.jpg・「ダブルバインド」的な状況は、人間だけにおこるものだが、「プレイ」はじゃれあいや威嚇、あるいは序列確認のディスプレイなど、哺乳類には頻繁に見られる行動である。相反する二重のメッセージをやりとりして遊ぶのはかなり高等なコミュニケーションで、そんなことが人間以外になぜできるのか。考えてみれば不思議な行動だが、ベイトソンによれば、それは人間を特別視したところから出てくる発想のようである。
・同様に最近読んだモリス・バーマンの『デカルトからベイトソン』にはベイトソンの理論が近代化の土台となったデカルトの思想に対する根本的な批判であることが力説されている。簡単に言えば「精神と身体」「主体と客体」を根本的に分離したデカルトに対して、それらがたがいに繋がりあう関係として存在するとした点である。デカルトに従えば「理性」と「感情」は別ものだが、ベイトソンによれば、それは同じひとつのプロセスのふたつの側面だということになる。あるいはそれはフロイトの「意識」と「無意識」と言いかえてもいいが、ベイトソンは「無意識」を「身体」全体に存在するとしている。そう考えれば、哺乳類の動物が「プレイ」をするのは何ら不思議なことではないのである。

・人間は、理性的な精神を意識する生き物で、それゆえにこそ万物の長としての資格がある。果たしてそうだろうか。哺乳類は「プレイ」を楽しむことはしても、「ダブルバインド」な状況をつくり出すことはしない。種の共存にとって前者は不可欠だが、後者は避けねばならないことだからだ。「プレイ」は争いや諍いを大きなものにしない工夫で、関係やコミュニケーションの基本に据えなければならない。そのことを自覚したのが哺乳類だとしたら、人間は、その重要性を軽視し、矮小化し、ないがしろにしているといわざるを得ない。2冊を読んで改めて実感したことである。

2009年6月7日日曜日

エコという名の浪費

 

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・エコということばはでたらめな使い方をされて、すでにその意味を失っている。しかし、そうであればこそ、また、勝手に使えるわけで、「エコポイント」には、もう反エコの策略以外にはなにもないと言わざるをえない。何しろ、停滞した消費意欲を喚起させるために、まだ使えるものを捨てて環境に配慮したものに買いかえろというのである。その象徴は自動車だろう。

・たとえば僕の乗っている車はもうすぐ10年になる。走行距離は21万5千キロを超えたところで、誰に話しても驚かれたり、感心されたりする。後ろの座席を倒して薪にする木を運んだりするから、内部も汚れや傷が目立っている。当然、ディーラーのセールスマンには買いかえを勧められる。「排出ガス性能・燃費性能に優れた環境に与える影響の少ないニューモデル」にされた方が、税金も安くなるし、ガソリンも安くてすむし、何よりエコに協力できるというわけだ。しかし、無視することにしている。まだまだ元気に走っているのだから、買いかえる必要など感じない。調子が悪くなったら検討する。環境や経済面から言えば、そう考えるのが真っ当だと思うからだ。

・もちろん、去年のようにガソリンの高騰が再燃して、それが常態化すれば、燃費のいい車に買いかえるのも選択のひとつにはなるだろう。けれども、1Lで200円近くにもなった値段も今は120円程度で落ちついている。それに、高騰以降、僕は燃費を考えた運転を心がけるようになって、リッターあたり1〜2キロも余計に走れるようになっている。一時は高速道路を走っていて、同じようにスピードを落とした車が増えたと感じた。ところが、最近はまた、元通りでかっ飛ばしていく車をよく見かける。
・まさに喉元過ぎれば熱さを忘れるだが、その象徴は土日の高速道路だろう。1000円でどこまでも乗り放題というのは、いったいどういうポリシーをもとにした発想なのだろうか。遠くまで行けて儲けたと思う心理は、エコとどう折りあいをつけるのだろうか。第一に、燃費が倍に向上したからと言って、その分、無駄づかいしたのでは、何の意味もないはずで、エコが浪費を正当化する隠れ蓑になっていることの好例と言わざるをえない。

forest75-3.jpg・戦後のマイホーム・ブームによって建てられた家の多くは20年から30年程度の寿命で、作っては壊されてきた。それを100年とか200 年持つようなものにするといた政策が、やっぱり家の建て替え需要を喚起させようとしている。もっともらしい発想だが、これも新たな浪費にしかならないだろう。家はしっかり造れば、確かに長持ちする。しかし、そのためには、日頃のメンテナンスが必要で、それは結構面倒で煩わしいことなのである。
・僕の家はログハウスで、建てられてから20年近く経過している。ログハウスは年輪の数だけもつと言われているから、おそらく100年は大丈夫だろう。しかし、そのためには、まめに点検して、補修を怠ってはいけないのである。たとえば、引っ越して10年になるが、数年前に、ログの外側を防腐、防カビ剤入りの塗料で塗り直したし、ログの間にできる隙間にも、見つけるたびにシーリングを施してきた。屋根にたまった木の葉落としや薪ストーブの煙突掃除で傾斜のきつい屋根にも登らなければならない。もちろん、どれも業者に頼めばやってくれることだ。しかし、その度にびっくりするほどの額を請求される。

forest75-4.jpg・庭に面したバルコニーや玄関のポーチに木の腐りやガタが目立つようになった。で、新しい木に変え、塗装し直すことにした。バルコニーの柵に使ったのは、BS放送の受信を邪魔しているために切り倒した栗の木だ。長さに合わせてチェーンソウで切り、皮を剥ぐと、真っ白い木肌があらわれた。それを柵に取りつけて、焦げ茶色に塗った。もちろん、塗装はバルコニーとポーチ全てに施した。何日もかかる面倒な作業だから、おもしろがってやらなければ憂鬱になってしまう。と言ってほおっておけば、もっと大がかりな補修をしなければならなくなる。
・ファーストではなくスローな生活。というと何かおしゃれな気分を感じたりもする。けれどもそれは、面倒とか煩わしいとかいう気持ちを楽しみに変える意識変革を必要とする。ちょっと故障したり古くさくなったらすぐに買いかえる。どうせ長持ちしないんだから、メインテナンスなんて考えなくていい。本気でエコを考えるなら、そう言う発想を生活のなか、消費という行動、そして何より生産の部分で根本的に見直す必要がある。その気がないなら、エコなんてことばを軽はずみに使うべきではない。と思うのだが、こんなことばも簡単につかい捨てられるから、もう繰りかえすのもうんざりする気になっている。

2009年6月1日月曜日

清志郎が教えてくれた

・清志郎が死んだ。高田渡に続いてもう一人、聴くに価するミュージシャンがいなくなった。二人とも僕とほぼ同年代で、その早すぎる死にショックを受けたが、日本に輸入されたフォークやロックという音楽も彼らと共に死んでしまったように感じて、そのことの方が寂しい気がした。二人以上にその音楽の本質を理解し、歌い続けてきたミュージシャンは他にいないと思っていたからだ。だから、清志郎の死をとりあげたテレビのニュースや新聞記事にはずいぶんと強い違和感をもった。

・清志郎の死は高田渡よりは大きく取りあげられ、葬式には何万にもの人が参列したようだ。大げさなパフォーマンスが、死を悼むよりは自らを誇示するように感じられたタレントもいたし、「夢をありがとう」などととんちんかんな叫び声を上げたファンもいた。清志郎の歌は、夢を疑似体験させるためのものではなく、みんなに自分の夢をもつことを訴えてきたはずで、そんなメッセージが伝わっていないことの証しのように聞こえてきた。あるいは、清志郎の音楽はCDやDVDの中に生きつづけて、そこでいつでも会うことができるといったニュース・キャスターのコメントにも首をかしげてしまった。

・清志郎は癌におかされる前に、『KING』(2003年)、『GOD』(2005年)、そして『夢助』(2006年)と立て続けにアルバムを出した。僕はそのどれも気に入って、以前にも増して彼の歌に注目するようになった。病気にならければ、その後にも数枚のアルバムが出ていたいたかもしれないし、これからも新しい歌がいくつも作られたはずだ。ステージでは相変わらずの衣装と化粧でパフォーマンスをしても、そこで歌われるメッセージには、歳を重ねてきた自分や若い人たちへの気持ち、そしてもちろん、今という時代に対する姿勢がこめられていた。彼の死は、そんな未来の清志郎が消えたことを意味していて、すでにあるCDやDVDでは、過去を思い起こすことしかできなくなってしまったのである。

・NHKのBSで清志郎がオーティス・レディングの軌跡を訪ねて、彼と一緒に活動したミュージシャンやマネージャーと出会った様子をまとめた番組、「時の旅人忌野清志郎が問うオーティスの魂より」が再放送された。オーティスは彼が一番影響受けたミュージシャンで、その絶頂期に飛行機事故で死んだ人だ。彼はその番組の中でオーティスゆかりのスタジオで、バックをつとめたギター・プレイヤーと一緒に、「オーティスが教えてくれた」をつくり収録した。その曲は『夢助』に収められている。

オーティスが教えてくれた
歌うこと、恋に落ちること
勇気を出せよ、君の人生だろう
オーティス・レディングが歌っている、あのラジオで

・オーティス・レディングは60年代の後半になって、白人たちの心にその音楽を素直に届けることができた初めてのミュージシャンだ。白人のロックは黒人のR&Bやソウルをルーツにするが、それぞれの間には肌の色という壁があった。そんな壁は本当はないことを証明したのは、1967年にカリフォルニアのモントレーで開催されたポップ・フェスティバルで、ジミ・ヘンドリクスのウッドストック登場とあわせて、ポピュラー音楽のエポック・メイキングになった。彼の最大のヒット曲は「ドック・オブ・ザ・ベイ」で、ビルボードで1位になったが、自家用の飛行機が墜落したのは録音の3日後だったようだ。
・NHKでは昨年2月の武道館の直前におこなったスタジオ・ライブの番組も再放送した。抗ガン剤治療後のリハビリが大変だったことなどを笑顔で話す様子が印象的だった。起き上がることも、歩くこともままならなかった状態から、2時間以上にも渡るステージをこなすまでの努力が大変だったことを改めて知らされた。さっそく『完全復活祭 武道館』を買って聴いてみた。依然と全く変わらないパフォーマンスをしながら、その1年後に他界。『夢助』に収録された「This Time」の歌詞が惜別のメッセージのように聞こえて、清志郎がオーティスとどこか遠くで出会っている様子を思い浮かべてしまった。

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今こそその時がやってきたんだ
もう誰にも僕をとめられないさ
今こそ行くべき場所がわかったんだ
音楽に導かれて行き着くのさ
ずっと僕を呼んでいる
ずっと夢に見ていた
こんな日がくることを