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2024年11月18日月曜日

StereophonicsとKelly Jonesの新譜

 

stereophonics8.jpgこの欄で新譜を紹介するのはほぼ1年ぶりである。それも偶然見つけたもので、2枚見つかった。ステレオフォニックスの"Oochya"は2022年に出されている。珍しくにぎやかな曲ばかりが収められていて、静かな曲の多かった前作の"Kind"とは対照的だ。その代わりなのか、今年、リーダーのケリー・ジョーンズはソロ・アルバムを出している。こちらは自分でピアノを弾きながら歌うというもので、今までとは全く違うものになっている。

'Oochya'はバンドの中で使っていたことばで、「よっしゃ、やろう」といった意味があるようだ。そのタイトル通り、このアルバムのテーマは初心にかえって、がつんとロックをやろうということだった。デビューからすでに30年近くになるから、バンドのメンバーの多くもすでに50歳を超えている。若い頃に帰ってにぎやかにといったサウンドだが、シングルカットされてイギリスで1位になった「フォーエバー」には、若い人たちに助けの手を差し出すといったおもむきの歌詞がある。

君の痛みを引き受けて、君を自由にできたらと思う
永遠に飛び去っていけたらいいんだけど

kellyjones1.jpg ケリー・ジョーンズのソロアルバム『Inevitable Incredible』は冒頭の曲の題名だが、「途方もなく避けがたく」は歌の中では「君は避けられないし、途方もない」となっていて、思い通りにはならないが、またいなくては困る存在だというラブソングになっている。ハスキーな声で悲しげに歌うトーンは他の歌にも共通していて、どの歌にもストーリーがある。それは、このアルバムに並んだ曲名からも分かる。

「May I come home from the war」(戦争から帰れるように)、「Turn Bad Into Good」(悪いことをよいことに変えよう)、「Time’s Running Away」(時間は過ぎ去る)、「Echowrecked」(こだまする破壊)、「Monsters In The House」(この家の怪物)、「Sometimes You Fly Like The Wind」(時には風のように飛んで)、「The Beast Will Be What The Beast Will Be」(この獣はどうなる、どうなるだろう)

それにしても、元気で活躍中のバンドやミュージシャンが少なくなった。もちろん、僕がよく聴いていた人たちに限っての話だ。若いと思っていたケリーも50代になっている。そういえば、彼より若いミュージシャンを僕は何人知っているだろうか。すぐには思いつかないほど少ないから、新譜を見つけるのはもっともっと難しくなるだろう。何しろ最近のはやりの音楽には全くついていけないのだから。

2024年11月11日月曜日

レベッカ・ソルニット『ウォークス』 左右社

 

solnit1.jpg レベッカ・ソルニットの『ウォークス』は副題にあるように、歩くことの歴史を扱っている。歩くことは人間にとってもっとも基本的な動作なのに、それについて本格的に考察した本は、これまで見かけたことがなかった。山歩きが好きで興味を持って買ったのだが、500頁を超える大著でしばらく積ん読状態だった。この欄で何か取り上げるものはないかと本棚を物色して見つけて、改めて読んでみようかという気になった。そこには、最近歩かなくなったな、という反省の気持ちもある。

人類は二足歩行をするようになって、猿から別れて独自の進化をするようになった。直立することで脳が発達し、手が自由に使えるようになったのである。アフリカに現れたホモサピエンスは、そこから北上してヨーロッパやアジア、そしてアメリカ大陸の南の果てまで歩いて、地球上のどこにでも住むようになったのである。それは言ってみれば二足歩行が実現させた大冒険だったということになる。

『ウォークス』はもちろん、そんな人類の進化の歴史と歩くことの関係にも触れている。しかし、この本によれば、人間が歩くこと自体に興味を持ったのは、意外にも近代以降のことなのである。どこへ行くにも何をするにも歩かなければならない。だから馬や牛、あるいはラクダにまたがり、車を引かせ、船を造って海洋を移動できるようにしてきた。要するに歩くことは苦痛で、移動には時間がかかりすぎるから、人間たちは歩かずに済む工夫を長い歴史の中でいろいろ考案してきたのである。

歩くことに意味を見いだしたのはルソー(哲学者)やワーズワース(文学者)だった。町中を歩き、人とことばを交わし、道行く人を観察する。あるいは山や川、あるいは海の美しさを再認識して、自然の中を歩き回る。そこにはもちろん、歩きながらの思考や発想の面白さがあった。ここにはほかにもH.D.ソローやキルケゴール、ニーチェ、あるいはW.ベンヤミンやG.オーウェルなどが登場するし、奥の細道を書いた松尾芭蕉にも触れられている。さらには風景画を描き始めた画家たちも入れなければならないだろう。

そんなことが影響して、普通の人たちも、街歩きの楽しさや自然に触れる素晴らしさを味わうようになる。しかし、道路には歩くスペースがほとんどないし、山や野原は地主によって入ることが制限されていたりする。歩道を作り、屋根付きのアーケード(パッサージュ)ができる。あるいは散歩を目的にした公園が街の設計に欠かせないものになる。また私有地に歩く道を作ることがひとつの社会運動として広まったりもした。近代化にとって歩くことが果たした意味は公共性をはじめとして、あらゆる意味で大きかったのである。

自然の中を歩くことへの欲求は、次に山を登ることに向かうことになる。アルプスの山を競って踏破し、やがてヒマラヤなどの世界に向かう。歩くことは文学や美術に欠かせないものになり、またスポーツにもなるのだが、それはまた旅行の大衆化を促進することにもなった。

歩くことはまた、近代以降の民主政治とも関連している。人々が何かを訴え主張しようとした時に生まれたのは、デモという街中を行進する行為だった。環境問題や性差別について発言する著者はサンフランシスコに住んで、そこで行われるデモに参加をしている。言われてみれば確かにそうだ。そんなことを感じながら、楽しく読んだ。

もっとも、あまり触れられていない日本についてみれば、芭蕉以前に旅をして歌を詠んだりした人は平安時代からいたし、お伊勢参りや富士講は江戸時代以前から盛んになっている。修業で山に登った人の歴史も長いから、近代化とは違う歴史があるだろうと思った。

2024年10月7日月曜日

クリス・クリストファーソンについて

 

Kris1.jpgクリス・クリストファーソンが亡くなった。88歳だった。この欄で死んだ人を取り上げるのは今年三人目だが、去年も四人だった。若い頃からずっと聴き続けてきた人たちが、次々いなくなっていく。そんなことを身にしみて感じている。

クリストファーソンの一番のヒット曲は「ミー・アンド・ボビー・マギー」だろう。ただしこの曲を有名にしたのはジャニス・ジョプリンのカバーだった。ジョニ・キャッシュやウィリー・ネルソンと並んで、カントリーの大御所だが、二人に比べたらずっと地味な存在だった。

雨が降りはじめて、ディーゼルに親指を立てた
そのクルマは私たちをニューオリンズに運んだ
赤いバンダナに指したハーモニカを吹くと
ボビーがブルースを歌いだした
ワイパーが時を刻み、私はボビーの手を握った
私たちは運転手が知っている歌のすべてを歌った
彼はまた、俳優として何本もの映画に出演している。彼がビリーを演じた『ビーリー・ザ・キッド』には音楽を担当したボブ・ディランも出演し、「ノッキング・オン・ヘブンズ・ドア」が主題歌になった。ディランを「ボーイ」と読んで子ども扱いするビリー役のクリスが格好良かったことが今でも記憶に残っている。共演したリタ・クーリッジと再婚したが、その彼女とも離婚している。ただし三度目の結婚も含めて、クリスには8人の子どもがいるようだ。

僕が彼の映画で一番印象に残っているのは、三島由紀雄原作の『午後の曳航』で、船乗りとして息子に尊敬されていた父親が、陸に上がって、その息子に幻滅されて殺されるという話だった。あるいは、バーバラ・ストライザンドと共演した『スター誕生』や大型トラックの運転手役だった『コンボイ』などもあった。その意味では、シンガーよりは役者として有名だったと言えるかも知れない。

大柄で低音といったマッチョの典型といった外見だったが、若いミュージシャンから慕われる人望の篤さがあった。印象的に覚えているのはボブ・ディランの30周年記念コンサートに出たシニード・オコーナーがヤジに怒って舞台から降りた時に、なだめて舞台に連れ戻したのがクリスだった。そこでシニードはディランではなく、ボブ・マーリーの'war'を歌った。

クリスが死んだというニュースを見て、久しぶりに彼の歌を聴いた。そういえばもうずいぶん、彼の歌を聴かなかった。半ば忘れていたのだが、ギターをつま弾きながら、語るように、つぶやくように歌う。そんな姿をYouTubeで見ながら、自分の人生と重ね合わせて振りかえる一時を過ごした。

2024年9月30日月曜日

J.マッケイド『おいしさの人類史』河出書房新社

 

おいしいものを食べるために生きている。というのは、大げさかも知れない。しかし現代人にとって、おいしさが大事なのは間違いない。旅行に行けば地元の名物料理や、新鮮な食材を食べることが目的になるし、パーティやさまざまな式でも、食べものがおいしくなければ楽しくない。もちろん日常の食事だって、おいしいにこしたことはない。しかも食のおいしさは、すでに半世紀以上も前から大衆化されている。

tasty1.jpg しかし、人類にとって多様なおいしさの獲得には長い歴史が必要だった。『おいしさの人類史』は人が感じる味覚のそれぞれについての考古学的な分析や、多くの生き物に不可欠な食材を調べる観察や実験などを紹介しながら解き明かしている。たとえば甘味について、苦味や辛さについて、あるいは風味や旨味について、そして味と嫌悪感についてなどである。決してやさしい本ではないが興味深く読んだ。

味覚は舌で感じるが、かつて言われたように、舌の部位によって甘さや辛さを感じるところがある、というのは否定されている。どんな味も舌のすべてで感じるのだが、現在の脳科学は、それがまた嗅覚や視覚と連動して脳に伝わって、食欲をそそったり、嫌悪したりするよう働くことを明らかにしている。あるいは味覚は腸とも関連しているそうなのである。

甘味は人間以外の生き物の多くも好む味だ。それは何より栄養価が高いことを教えてくれるからなのだが、逆に苦味や辛味を好む生き物は人間以外には存在しない。それは身体に有害な毒であることの信号であり、植物が食べられることを防ぐために進化させた要素だからだ。ところが人間は、その苦味や辛味が持つ毒を消す方法を見つけだして、おいしさの要素として取り込むようになった。ただ甘いよりは、そこに酸味や辛味や苦味が加われば、味はいっそう深く複雑になる。このような到達点に至るまでには、もちろん、毒があってもそれ以外には食べるものがないといった障害を乗り越える工夫を繰り返して来たという歴史がある。

人間が編み出した工夫はもちろん他にもたくさんある。固いものを叩いてつぶし、あるいは粉にして調理する。火であぶり、水で煮ることを見つけ、そこに塩を合わせることで味が増すことに気がついた。あるいは腐敗とは違う発酵によって酒やチーズができることなどなど、人間が長い歴史の中で作り上げてきた食文化には、それが生存のために必要だというだけではない、おいしさの追求も不可欠だったのである。

ところが現代人は逆に、食べすぎや糖分の取りすぎ、あるいは酒の飲み過ぎなどによって肥満や糖尿病やアルコール中毒といった健康を害する結果をもたらすようにもなった。また現在では甘味や辛味は工場で科学的に作られるようになったし、乾燥させたり凍らせたり、密閉容器に入れたりして売られる食べ物で溢れるようになった。そこに添加される物質が、人体にさまざまな悪影響をもたらすことも指摘されている。手軽に味わえる「おいしさ」に溢れた食事がもたらす不幸というのは、人間の長い歴史から見れば、何とも皮肉なことなのである。

温暖化によって食の環境に大きな変化が訪れている。そこに人間の人口爆発が加わって、地球では人間の食を供給できなくなることが危惧されるようにもなった。飽食の時代には大きな警告となるはずだが、そういった反省を発する声は小さいままである。もっとも、余っているはずのお米がスーパーから突然消えて、大騒ぎになるということも起こっている。食べるものがないといった状況が、それほど遠くない未来にやってくるのでは。そんなことも考えながら読んだ。

2024年8月12日月曜日

透き通った窓ガラスのような散文

 

世の中に嘘がまかり通っている。ジャーナリズムがそれを徹底して正すということをしないから、少しばかり指摘されても知らん顔で済んでしまう。政治家の言動には、そんな態度が溢れている。今の政治や経済、そして社会には組織的に隠されていることも多いのだろう。そして明らかにおかしなことが発覚しても、それに対する批判が、大きくはならずにすぐに消えてしまう。こんな風潮は日本に限らないから、世界はこれからどうなってしまうのか不安に思うことが少なくない。そう思ったら、ジョージ・オーウェルを読みかえしたくなった。

ジョージ・オーウェルは大学生の時に『1984年』や『動物農場』を読んでファンになった作家だが、その後も読み続けてオーウェル論を書いたことがある。作品論というよりは、作家やジャーナリストとしてのオーウェル論で、彼の理想が「透き通った窓ガラスのような散文」を書くことだったことに着目した。それを書いてから40年近くなるのに、またオーウェルを読もうかと思ったのは、透き通った窓ガラスのような散文と感じるものなんて、最近まったく読んだことがないと思ったからだ。

オーウェルの本はくり返し出版されている。彼の評論は最初、全4巻の著作集が平凡社から出版された。僕が読んだのはこの著作集だったが、訳者の多くが代わったので、同じ平凡社から出た全4巻の『オーウェル評論集』も購入した。この評論集にはそれぞれ、『象を撃つ』『水晶の精神』『鯨の腹のなかで』『ライオンと一角獣』という題名がついている。オーウェルを読むのは久しぶりだったから、初めて読むような感覚を味わった。

orwell2.jpg 「透明な窓ガラスのような散文」という一文は「なぜ私は書くか」というエッセイの中にある。ずっとそう思っていて、自分で文章を書く時の原則にしていたのだが、今読み返して見ると、「よい散文は窓ガラスのようなものだ」としか書いてない。原文では Good prose is like a window pane.となっている。なぜここに「透き通った」という形容句がついたのか。今では全く覚えがない。ちなみに僕が書いたオーウェル論でも「透き通った」がついている。おそらく誰か(鶴見俊輔?)が書いたオーウェル論にあったことばで、その論考に触発されたのだと思う。

オーウェルはそんな文章を書く人としてヘンリー・ミラーをあげている。その「鯨の腹の中で」において、ミラーの書くものを「かなりすぐれた小説にさえつきものの嘘や単純化、あるいは型にはまった操り人形のような小説の世界を脱して、紛れもない人間の経験につきあっている。」と書いている。そうなんだ!。最近読まされるものに、どれほど嘘や単純化、そして型にはまった操り人形のような世界ばかりが描かれていることか。もう阿呆らしくてうんざりしてしまうが、それがまことしやかなものである顔もしているのである。

オーウェルはミラーにパリで会っている。その時スペイン市民戦争に義勇軍として参加するオーウェルを愚か者だといって一笑に付した。そんな政治にも世界の動きに関わりを持とうとしなかったミラーについて、分厚い脂肪を持つ鯨の腹の中で生きていると形容し、ただその鯨は透明なのであると書いている。パリで好き勝手に生きてはいても、ミラーは自分が見たもの、感じたことをあるがままに記録することには熱心だった。そのような態度を「精神的誠実さ」と名づけ、自分との共通点を見いだしている。

今は、そんな態度を持つことが難しい時代なのかも知れない.しかし、オーウェルやミラーが生きたのはヒトラーが台頭し、第二次世界大戦を経験した時代だったことを考えると、作家やジャーナリストとして、今こそ必要な姿勢なのではないかとも思った。

2024年6月24日月曜日

ケネディ・センター・オナーをYouTubeで見る

 
kennedy1.jpg 今年になって1枚もCDを買っていない。この欄に書く材料に苦労しているのだが、YouTubeでたまたま「ケネディ・センター・オナーズ」のライブを見つけた。よく見ていたビリー・ジョエルが2013年に表彰された時のもので、2階席に設けられた彼の隣にはオバマ元大統領夫妻やシャーリー・マクレーンなどが座っていた。ビリーの生い立ちやミュージシャンとしての経歴を紹介し、ガース・ブルックスやドン・ヘンリーなどが代表曲を歌うというものだった。

この賞は、1978年から行われている。首都のワシントンにあるケネディ・センターで授賞式が開催されることからこの名がついたようだ。対象になるのは音楽、ダンス、演劇、オペラ、映画、そしてテレビの分野で優れた業績を残した人に与えられるものである。そして対象者はアメリカ人に限らない。音楽ではU2やポール・マッカートニー、そして小沢征爾が受賞している。

一つ見れば次々出てくるというのはYouTubeの特徴だ。スティング(2014)、キャロル・キング(2015)、ジェームズ・テイラー(2016)、ジョーン・バエズ(2020)、ジョニ・ミッチェル(2021)、U2(2022)、そしてブルース・スプリングスティーン(2009)、ポール・マッカートニー(2010)と見て、ボブ・ディランが1997年に受賞していることを知った。それぞれの授賞式に、その持ち歌を誰が歌うのか。ディランの時にはまだ若いスプリングスティーンだったし、スプリングスティーンの時にはスティングで、スティングの時にはスプリングスティーンだった。

大統領が同席し、タキシード姿という堅苦しい授賞式だが、それは客席だけで、ステージ上ではいつもながらのパフォーマンスが披露された。面白かったのは、民主党政権時の大統領が目立ったということ。ディランの時にはクリントンで、2010年代はオバマ、そしてここ数年のものはバイデンで、間にいたはずのブッシュやトランプはほとんどなかったのである。ここにはもちろん、トランプが出るなら受賞を辞退すると発言したり、言いそうな人が多くいて、出席しなかったという理由がある。ブッシュの時にも、受賞を辞退した人はいたのである。バイデンはともかく、クリントンやオバマはステージを本当に楽しんでいて、一緒に口ずさんでいたが、そんな光景はブッシュやトランプでは想像できないことだろう。

もっとも日本だったらどうか。こんな賞が半世紀も続いていたとして、授賞式には首相が同席する。おそらく演歌だったら一緒に口ずさむ人はいただろう。しかし、ロックはどうか。ブッシュやトランプ以上に想像しがたいことだ。そもそも芸術や文学に精通した政治家が、日本にはどれほどいるのだろうか。しかも、政治や社会について強い批判をする人たちを表彰する気になどならないだろう。アメリカで文化が尊重され、日本では軽視されていることを改めて感じた視聴だった。

2024年5月27日月曜日

田村紀雄監修『郡上村に電話がつながって50年』 クロスカルチャー出版

 

tamura5.jpg 監修者の田村紀雄さんはもう米寿になる。毎年のように本を出しているが、今年も送られてきた。いやいやすごいと感心するばかりだが、この本は50年前からほぼ10年おきに調査を重ねてきた、その集大成である。彼と同じ大学に勤務している時に、同僚や院生、それに学部のゼミ生を引き連れて、調査に出かけているのは知っていた.その成果は大学の紀要にも載っていたのだが、半世紀も経った今頃になってまとめられたのである。

調査をした場所は岐阜県で郡上村となっているが、このような村は今もかつても存在していない。場所や人を特定されないための仮称で、現在は郡上八幡市に所属する一山村である。田村さんはなぜ、この地を調査場所として選んだのか。それは一つの小さな集落が、電話というメディアが各戸に引かれることで、それ以後の生活や人間関係、そしてその地域そのものがどのように変化をしていくか。それを見届けたいと思ったからだった。始めたのは1973年で、まさにこの村にダイヤル通話式の電話が引かれるようになった年である。そのタイミングのよさは、もちろん偶然ではなく、情報が田村さんの元に届いていて、長期の調査をしたら面白いことがわかるのではという期待があったからだった。

「郡上村」は長良川の支流沿いにある谷間の山村で、この時点の世帯数は1200戸ほどだった。村には手広く林業を営む家があり、そこがいわば名主のような役割をしてきた歴史がある。この家にはすでに昭和4年に電話が引かれていたが、それは個人で費用を負担したものだった。戦後になって1959年に公衆電話が設置され、村内だけで通話ができる有線放送も63年からはじまったが、村外との個別の通話が可能になったのは1973年からだった。

被調査に選んだのは数十戸で、調査の対象は主として主婦だった。この村ではすでに村内だけで通話ができる電話があって、村内でのコミュニケーションには役立っていたが、村外とのやり取りが当たり前になるのは、10年後、そして20年後に行った調査でも明らかである。ここにはもちろん、仕事や学業で家族が外に出る。あるいは外から婚姻などでやって来たり、外に嫁いでいくといったことが一般的になったという理由もあった。日本は1960年代の高度経済成長期から大きな変貌を遂げ、人々が都市に集まる傾向が強まったが、この村でもそれは例外ではなかったのである。

ただし、人々の都市集中や人口の減少で、眼界集落が話題になり、最近では市町村の消滅が問題にされているが、「郡上村」の人口は現在でも、大きく減少しているわけではない。そこには電話や今世紀になって一般的になったスマホやネットだけでなく、クルマの保有や道路の整備などで、近隣の都市に気軽に出かけることが出来るようになったという理由がある。あるいは工場が誘致されて、働き口が確保されたということもあった。

しかし、この半世紀に及ぶ調査で強調されているのは、結婚によって外からやってきた女性たちの存在だった。その人たちが、村の閉鎖的な空気を開放的なものに変えていった。面接調査を主婦に焦点を当てて行ったことが見事に当たったのだった。

2024年4月15日月曜日

エドワード・E.サイード 『オスロからイラクへ』『遠い場所の記憶 自伝』みすず書房

 

ハマスのイスラエル襲撃以来、パレスチナのガザ地区攻撃が半年も続いている。すでに3万人以上の死者が出て、建物の半数以上が破壊され、人口の7割以上が難民となり、食糧危機の中にあるという。ハマスによってイスラエルにも多くの死者が出て、人質にもとられているとは言え、これほどの仕打ちをするのはなぜなのか。そんな疑問を感じてサイードの本を読み直すことにした。

said1.jpg エドワード・E.サイードは『オリエンタリズム』や『文化と帝国主義』などで知られている。そして、パレスチナ人であることから、イスラエルとパレスチナの関係については両者に対して鋭い批判を繰り返してきた。『オスロからイラクへ』は、彼の死の直前まで書かれたものである。それを読むと、現在のような事態が、これまでに何度となく繰り返されてきたことがよくわかる。このアラブ系の新聞に連載された記事は1990年代から始まっているが、この本に記載されているのは2000年9月から2003年7月までである。

題名にある「オスロ」は、1993年にノルウェイの仲介で締結された「オスロ合意」を指している。「イラク」は2001年9月に起きた「アメリカ同時テロ事件」と、その後に敵視されて攻撃され、フセイン政権が倒されたことである。「オスロ合意」はイスラエルの建国以来続いていた紛争の終結をめざして、イスラエルを国家、パレスチナを自治政府として相互が認めることに合意したものだった。この功績を讚えてパレスチナのアラファト議長、イスラエルのラビン首相、ペレス外相にノーベル平和賞が授与されたが、紛争はそれ以後も続いた。サイードはこの合意を強く批判した。イスラエルは建国以来、パレスチナの領土を占領し、住居を破壊し、それに抵抗する人たちを殺傷してきたが、アラファトがそれを不問に付したからだった。

そんなイスラエルの横暴に対して、パレスチナは2000年9月に2度目の「インティファーダ(民衆蜂起)」を行った。この本はまさに、そこから始まっていて、イスラエルの過剰な報復を非難し、また「インティファーダ」の愚かさを批判している。アメリカで同時多発テロが起こると、イスラエルはパレスチナを同類と見て、いっそうの攻撃をするようになる。白血病を患って闘病中であるにもかかわらず、それに対するサイードの論調は激しさを増していく。サイードの批判の矛先は、イスラエルの後ろ盾になっているアメリカ政府と、パレスチナの現状を無視したアメリカのメディアにも向けられている。しかし、彼の声は、アラブ系の雑誌であるために、アメリカにもヨーロッパにも届かない。

said2.jpg サイードはパレスチナ人でエルサレムに生まれているが、実業家として成功した父のもとで、エジプトやレバノンで少年期を過ごしている。父親がアメリカ国籍を取得したために、エドワードもアメリカ国籍となり、エジプトのアメリカン・スクールに通って、プリンストン大学に進学し、ハーバードで博士号を取得している。『遠い場所の記憶』はそんな少年時代から大学を卒業するまでのことを、主に父母との関係や親戚家族との暮らしを中心に語られている。豊かなパレスチナ人の家庭で成長し、イスラエルの建国を少年期に体験して、アメリカ人として大人になった。そんな複雑な成り立ちを辿りながら、絶えず見据えているのは「パレスチナ」の地と、そこに暮らし、悲惨な目に遭い続けている人びとのことである。

この2冊を通してサイードが思い描き、力説し続けているのは、ユダヤ人とパレスチナ人が共生しあって作る一つの国家である。それは夢物語だと批判され続けるが、それ以外には解決の道がないことも事実だろう。サイードが亡くなってからすでに四半世紀が過ぎて、また同じ殺戮が繰り返されている。もう絶望しかない状況だが、それでも、サイードが生きていたら、「共生」にしか未来の光がないことを繰り返すだろう。そんなふうに思いながら読んだ。

2024年2月19日月曜日

小澤征爾逝く

 

ozawa1.jpg"小澤征爾が亡くなった。ぼくはクラシック音楽をほとんど聴かないし、彼のレコードやCDも持っていない。けれども彼に対する関心はあって、ずい分やせ衰えた最近の姿は気になっていた。
小澤征爾は斎藤秀雄に師事し、24歳の時にヨーロッパに武者修行に出かけている。その指揮者としての才能がすぐに認められ、いくつもの賞を取り、カラヤンやミンシュ、そしてバーンスタインといった巨匠に師事することになる。その勢いでNHK交響楽団の指揮者に招かれるのだが、その指揮者としての立ち居振る舞いを楽団員から批判され、演奏をボイコットされることになる。以後彼は、日本を去って音楽活動を海外に求めることになるのである。

ぼくはこの出来事について、音楽に限らずスポーツなどで海外に出向き、成功した人がしばしば経験する、やっかみや拒絶反応を最初に味わった人だと思っていた。それは帰国子女に対する扱いにも共通する、未だに改まらない日本人の島国根性なのだろう。それでつぶされる人もいるが、中には世界的に認められた超一流の存在になる人もいる。そうなると、最近の大谷翔平選手のように、今度は一転して、まるで英雄か神様のように扱うのもまた、相変わらずの現象である。

小澤征爾は1973年から30年近くをボストン交響楽団の音楽監督として活動した。しかし国内においても、1984年から師を偲んで「斎藤秀雄メモリアルコンサート」を国内で開き、「斎藤記念オーケストラ」を結成して、松本市などでのコンサートを定期的に行ってきた。YouTubeを検索すると、さまざまな場での活躍を見ることができるが、おもしろいのは、コンサートそのものではなく、そのリハーサル場面を収録したものである。彼は事細かに楽団員に指示し、そのたびに理由を明確に伝え、時には楽団員の意見を聞きながら、一つの作品を仕上げていく。そのやり方は、一流の演奏家に対しても、小学生に対しても変わらないのである。

クラシック音楽に疎いぼくには、指揮者は単に飾り物にしか見えなかった。小澤征爾の指揮者としてのパフォーマンスは独特で見栄えがいい。そこにカリスマ性を見る人もいて、彼の評価は何よりそこにあるのだろうと思っていた。しかし彼のリハーサル風景を見て、指揮者は脚本をもとに舞台を作り上げる演出家であり、なおかつコンサートの場で聴衆の視線を一点に集中させる主役的な存在であることを改めて認識させられた。

小澤征爾が20世紀後半から21世紀にかけて、世界を股にかけて痛快に生きた人であることは間違いない。とは言え、申し訳ないが、彼の死をきっかけにして、彼が指揮した作品を改めて聴いてみようかという気にはなっていない。彼の指揮した音楽が、他とは違っていることが、やっぱりぼくにはよくわからないからである。クラシック音楽音痴としては、彼の魅力はやっぱり、その生き様と立ち居振る舞いにある。

2023年12月11日月曜日

加藤裕康編著『メディアと若者文化』(新泉社)

 

journal1-246.jpg 「メディアと若者文化」というタイトルは何とも懐かしい感じがする。そう言えばずっと昔に、こんなテーマで論文を書いたことがあったなと、改めて思った。1970年代から80年代にかけての頃だが、自分が若者とは言えない歳になった頃には「若者文化」には興味がなくなっていた。

この本の編著者である加藤裕康さんは、僕が勤めていた大学院で博士号を取得している。ゲームセンターに置かれたノートブックをもとに、そこに集まる人たちについて分析した『ゲームセンター文化論』は橋下峰雄賞(現代風俗研究会)をとって、高い評価を受けた。そんな彼から、この本が贈られてきたのである。

僕にとって「若者文化」は何より社会に対して批判的なもので、メディアとは関係なしに生まれるものだった。それがメディアに取り上げられ、社会的に注目をされると、徐々にその精気を失っていく。典型的にはロック音楽があげられる。そんな意識が根底にあるから、日本における70年代の「しらけ世代」とか80年代の「新人類」、そして90年代以降の「オタク」などには批判的で、次第に関心を薄れさせていった。当然、現在の若者文化などについてはまったく無関心で、そんなものがいまだに存在しているとも思わなかった。

「若者」は第二次大戦後に注目された世代で、政治的、社会的、そしてもちろん文化的に世界をリードする存在として見られてきた。それが徐々に力を失っていく。この本ではそんな「若者論」の系譜が、加藤さんによって、明治時代にさかのぼって、「青年」といったことばとの関係を含めて語られている。そう言えば大学院の授業で取り上げたことがあるな、といった文献やキーワードが並んでいて、何とも懐かしい気になった。

若者文化がメディアとの距離を縮め、やがてメディアから発信されるものになったのは80年代から90年代にかけての頃からだった。「新人類」とブランド・ファッション、「オタク」とアニメがその典型だろう。しかし、2000年代に入ると、メディアは携帯、そしてスマホに移っていき、若者文化もそこから生まれるようになる。あーなるほどそうだな、と思いながら、彼の分析を読んだ。

で、現在の若者文化だが、この本で取り上げられているのは、「自撮りと女性をめぐるメディア研究」や「『マンガを語る若者』の消長」そして「パブリック・ビューイング」に参加する若者の語りに<にわか>を見る、といったテーマである。知らないことばかりだったから面白く読んだが、現在の若者文化とは、そんなものでしかないのかという感じもした。そう言えば、この本には「語られる『若者』は存在するのか」という章もある。そこで指摘されているのは。「若者」に対して語られる、たとえば保守化といった特徴や、それに向けた批判が、この世代に特化したものではなく、全世代や社会全体に現れたものだということである。

そう言った意味で、この本を読んで感じたのは、それで「若者」はいなくなったし、「文化」も生まれなくなったということだった。あるいは、かつては「文化」を作り出す上で強力だったマス・メディアが、スマホやネットの前に白旗を掲げたということでもあった。

2023年10月16日月曜日

ジャニーズ騒動その後

 

ジャニーズ事務所についての問題が混迷を極めている。メディアもスポンサー企業も、今まで知らぬふりを決め込んできたのに、ジャニー喜多川による性犯罪が白日の下に晒されはじめた途端に、ジャニーズ事務所との決別を言い始めた。メディアもスポンサー企業もぐるじゃないかと疑われることを恐れての自己保身だと言わざるを得ない。

そんなふうに思っていたら,『日刊ゲンダイ』に興味深い記事があった。「ジャニーズ事務所のメディア支配…出発点はメリーによる弟ジャニーの『病』隠し」と題された記事で、そこにはジャニーの病を知っていた姉のメリーが、その病がまた、魅力的なアイドルを嗅ぎ出す特殊な才能であることに早くから気づいていたと書いてあった。そんなふうに見つけた少年たちを次々アイドルにして急成長した「ジャニーズ事務所」は、実質的な経営を姉のメリーが取り仕切ってきたというのである。

この記事を読んで、僕はトリフを見つけ出す犬のことを連想した。獲物がトリフだったらもちろん,罪はないが、相手が少年で,それが性的欲望をかなえる対象だったのだから、発覚すれば当然、大問題になる。姉のメリーにとって、弟のジャニーの性癖を野放しにすることと、それを徹底的に隠すことが、事務所の存亡にとって一番の課題になったのである。

「ジャニーズ事務所」から排出されたタレントが、やがてテレビの視聴率を左右するほどの力を持つようになると、ジャニーの性癖やその被害者のことを知っていても、テレビもスポンサー企業も、そのことを不問に付しつづけた。それは「週刊文春」がそのことを記事に書き,「ジャニーズ事務所」が訴えた裁判で、文春が勝ってジャニーの性犯罪が認められた時も、テレビはもちろん,大手の新聞も,そのことをほとんど取り上げなかった。

.ジャニーから性的被害を受けた少年は数百人に及ぶという。それ自体何ともおぞましいことで、僕は「ジャニーズ事務所」は別組織として出直すのではなく,即刻解散すべきだと思う。所属タレントたちはそれぞれ別の会社に所属すればいいのである。しかし,同じくらい重要なのは、テレビや新聞が罪深さを自覚して、反省することだと思う。そもそもこの事件はイギリスのBBCが明るみに出してやっと動き出したことなのである。

もう一つ,気になっていてうまく理解できないのは、ジャニーが性的欲望の対象にした少年たちが、アイドル・スターとして人気を博するようになっていったという事実である。そのスターたちに憧れ,ファンになった多くは少女たちだった。彼女たちにとっても、惹きつけられる要因は性的欲望だったのだろうか。そんな疑問は、そもそも日本に特殊に発展した「アイドル」という現象全般に繋がっていく。アニメが世界を席巻したことを含めて,極めて特殊日本的な特徴のように思う。それを読み解くのは、やっぱり「かわいい論」再考になるのだろうか。もう少し若かったらやって見たかったテーマだと思う。


2023年9月11日月曜日

万博って何なのか

井上さつき『音楽を展示する パリ万博1855-1900』(法政大学出版局)

2025年に開催される大阪関西万博が工事の遅れなどで話題になっている。そもそもなぜ今万博なのか。その意図がよくわからない。と言うより大阪市はカジノを中心にしたIR(統合型リゾート)を作ることを狙って、万博をその隠れ蓑にしたと批判されている。地盤がまだ安定していないゴミの埋め立て地だから、建物を造っても沈下してしまうし、交通手段もかぎられている等々、問題は山積みだ。

この万博のテーマは「いのち輝く未来社会のデザイン」で、サブテーマとして「いのちを救う」「いのちに力を与える」「いのちをつなぐ」と極めて抽象的でよくわからない。確かに温暖化は深刻だし、戦争や紛争はたえないが、そんな現実的な問題を具体的にテーマにしているわけではないようだ。

xpo1.jpg そもそも万博って何なんだ。そう思って、書架に読まずに積んであった万博関連の本を探してみた。井上さつきの『音楽を展示する』は19世紀中頃から20世紀初頭にかけて何度か行われた「パリ万博」について、主に音楽に焦点を合わせて論じたものである。万国博覧会は1851年にロンドンで初めて開催された。パリ万博は1855年に開催され、続いて1867年、78年、89年、そして1900年とほぼ10年ごとに開かれた。パリでの開催はこの後1937年で、その後は開かれていない。

パリ万博は産業革命を誇示したロンドン万博と違って、産業の他に芸術の展示を重視した。しかし絵画や彫刻と違って、音楽は、常設の展示ではなくコンサートという形で行われる必要がある。この本には、その音楽の展示方法の工夫や、演奏され歌われる音楽の種類、それらを聴きに来る聴衆の階層などが、開催年度によっていろいろと見直されてきたことがよくわかる。パリ万博といえばエッフェル塔ぐらいしか思い浮かばなかったが、パリが芸術の街と言われるようになる上で、万博が果たした役割が大きかったことを再認識した。

万博は産業の発展を目的に始まり、文化的な側面を追加して、人々に近代化による社会の変化を実感させることに役立ったが、その産業は20世紀になると二つの世界大戦を引き起こすことにもなった。1970年に開催された大阪万博は、大戦から立ち直った日本や世界の現状、あるいは宇宙への関心などを展示する上で大きな意味があったと言われている。しかし、その後の万博ははっきりいって、もうやる必要のないものになってきていると言えるだろう。今さら世界中から最新技術や文化的なイベントを一ヶ所に集めて開催される意味がどれほどあるのか、はなはだ疑問なのである。

だからこの本を読んでまず感じたのは、万博の意義はすでになくなっているということだった。クラシック音楽がコンサートホールで聴くものとして確立し、印象派やキュービズムなどの美術が美術館に展示され、高額の値段で売買されるようになったのは、まさに19世紀の後半の万博が華やかに開催された時期と重なるのである。あるいは20世紀になると映画やラジオやレコードといった技術が普及し、やがてテレビが登場するようになる。そして、20世紀終わりからのインターネットである。19世紀末から始まったオリンピックと併せて、こんなものを未だに当てにしている日本の政治家たちの古びた感覚に、もううんざりするしかないのである。

2023年7月24日月曜日

富士山はなぜ文化遺産なのか

 
上垣外憲一『富士山 聖と美の山』(中公新書)


今年は富士山が世界遺産に認められて10年になる。コロナ禍で、一時的に減ったとは言え、最近は海外からの旅行者が目立っている。日本に来たら富士山というのは定番で、次は京都といった旅程を組んでいる人も多いのだろうと思う。そう言えばコロナ前は中国人の団体客が目立っていたが、今は世界中からやってきているようだ。富士登山をする人、河口湖で自転車に乗って、あるいは歩いて楽しむ人など様々だ。

ところで富士山は世界文化遺産だが、最初は自然遺産として申請をした。ところが、世界の山に比べて特に秀でているわけではないことや、開発が進みすぎていること、あるいはゴミが目立ち、トイレの設備が少ないことなどを理由に却下されたのである。確かに火山の独立峰で富士山より高い山は世界にいくつもある。富士山が特別の山であるのは、日本人にとってだけなのである。

fujisanbook.jpg で、それならと文化遺産で再申請して、やっと認められたのである。そもそも世界遺産に申請することに批判的だった僕は、いったい富士山のどこが文化遺産なんだと思っていた。そんな疑問もあって、上垣外憲一の『富士山 聖と美の山』を買ったのだが、読まずに積んでおいて、10年経ったというニュースを聞いて改めて読む気になった。「はじめに」で出てくるのは以下のような文である。

 富士山は、日本列島という人口も比較的稠密(ちゅうみつ)な、文化的な伝統にも奥深いものを持っている国に位置している。当然、この偉大な山とその周辺に住む人々との間に様々な形での交流が生まれてくる。
読んでみると、確かにその交流が長い歴史を持っていることがよくわかる。富士山にかぎらず山に対する信仰は、奈良や平安の時代からあった。おそらくそれ以前の縄文の頃から、山の近くで暮らす人にとって、山は神様の住むところとしてあったのだろう。そのような基盤があって平安時代以降になると、歌に詠まれたり、絵に描かれたりし、また様々な伝説が生まれることになった。修験道も盛んになって白山などの山が開かれたが、富士山にも長い歴史があったようだ。

聖徳太子が甲斐の黒駒に乗って富士山を飛び越えている「聖徳太子絵伝」、雪舟が描いた「富士三保清見寺図」狩野探幽「富士山図」、そして江戸時代になると北斎や広重などが浮世絵に描くようになる。「更級日記」や「十六夜日記」「伊勢物語」でも語られ、「古今和歌集」や「新古今和歌集」にも詠まれた和歌が載っている。そこには盛んに噴火を繰り返した平安時代と、穏やかになった鎌倉時代の対照が描きだされている。参勤交代をした大名が見た富士山、朝鮮通信使にとっての富士山、そして富士講で盛んになった庶民たちが登った富士山。この本を読むと、時代によって語られ、詠まれ、描かれる富士山はさまざまだが、途切れることなく注目され、崇められてきたことがよくわかる。

明治になると富士山にはナショナリズムといった思想がかぶせられる。あるいは日本にやってきた欧米人が語るようになる。そして戦後にリゾート地となった富士山。確かに文化遺産と言えるかな、と認識を新たにした。とは言え、五重の塔や鳥居越しに見える富士山に人気が集まるのは、外国人が好むとは言え、陳腐すぎて、なんだかなーと思ってしまう。

2023年7月3日月曜日

ジャニーズ騒動に見るメディアの正体

 

メディア、とりわけテレビのひどさは改めて指摘するまでもないことだが、ジャニーズ騒動での対応には、ここまで来たかと思わせられた。ジャニーズ事務所のオーナーだったジャニー喜多川による、自らスカウトした少年たちに対する性的虐待が、長い間にわたって行われてきたのに、一部の週刊誌を除いて、大半のメディアが不問に付してきた。それが話題になったのはイギリスのBBCが取り上げたからである。

喜多川がプロダクションを作ったのは1960年代後半で、最初のタレントは4人組みの「ジャニーズ」だった。そこから「フォー・リーブス」や郷ひろみなどの人気者を出して台頭し、80年代以降には「たのきんトリオ」「シブがき隊」「少年隊」「光GENJI」「SMAP」「TOKIO」「嵐」といったアイドル・グループを排出して、日本の芸能界を支配し続けてきた。ここにはグループから独立して、現在でもテレビで見かける人気者たちが大勢いる。

ジャニー喜多川による性的虐待を明るみに出せば、テレビは途端に、番組作りに困ってしまう。音楽やドラマ、あるいはバラエティーといった番組に出演するジャニーズ事務所のタレントは、それだけ大きな存在になっていた。しかもテレビだけでなく、新聞も雑誌も、この問題を隠し、遠ざけてきた。理由はおそらく、損得勘定によるものだったと思う。その根深さはBBCが大きく取り上げても、多くのメディアが無視し続けてきたことからもわかることである。

ネットで大きく取り上げられるようになってやっと、テレビや新聞が扱いはじめたが、まるで他人事で、自社がなぜ不問に付してきたかといった釈明をするメディアはほとんどない。このような態度はもちろん、今回に始まったことではない。原発広告と福島原発事故について、東京オリンピックと電通支配について、そして政権に対する忖度の姿勢について等々、取り上げたら枚挙に暇がないほどである。

テレビも新聞も、自らが社会的に影響力のある存在であるのに、そのことに対する自負も矜持もない。もちろん一貫した態度は自己保身と金儲けだけだから、責任の自覚とは無縁である。テレビの視聴率は落ち、新聞の発行部数は減り続けている。そうなればなるほど、目先の利益や保身に走るから、もう救いようのない泥沼に落ちていると言わざるを得ない。

しかしこのような状況はメディアにかぎらない。日本全体が今、泥沼に落ち込んでいる。で、そのことを見て見ぬふりをしているから、救いの道は見つけようがない。暗澹たる気持ちをずっと持ち続けているが、暗闇は増すばかりである。


2023年3月27日月曜日

WBCが終わって思ったこと

 

wbc1.jpg" WBCで日本が優勝しました。大谷対トラウトで終わるというマンガのような展開でした。まさに大谷の、大谷による、大谷のためのWBCだったと思いました。自分が望むヒリヒリするゲームを経験したでしょうが、見ている者にとっても、ハラハラドキドキや感嘆の連続で、見ていてぐったり疲れてしまいました。このままシーズンに入って、今年こそはポスト・シーズンでも活躍できるよう望むばかりです。

WBCはMLB(メジャー・リーグ機構)が主催する大会ですが、メジャーの各球団はこれまで決して積極的ではありませんでした。チームの看板選手を出して、ケガでもされたらかなわない。そんな考えで、これまでは一流選手の出場はかぎられてきました。しかし、今回はトラウト選手がいち早く参加を宣言して呼びかけたこともあって、多くの選手が参加する大会になりました。その意味では、日本の優勝は今回こそが真の世界一だといえるかも知れません。

そんな大活躍の日本チームの表の主役は大谷選手でしたが、裏で支えたダルビッシュの献身的な努力があったからこそ、というのも間違いないと思います。彼はパドレスのキャンプに参加せずに、宮崎キャンプに最初から参加しました。そして若い選手たちに投球の仕方はもちろん、練習の仕方や食事のとり方など、質問されれば丁寧に答えることを繰り返しました。国の代表であることに緊張する選手たちに、そんなことなど気にせず楽しくやろうと呼びかけ、食事会を何度も催したようです。

しかし、ダルビッシュ選手は最初からWBCに積極的だったわけではありません。彼は再婚ですが、オフシーズンには子供の世話やら家事をパートナーと五分五分でやっているようです。しかもその生活に十分満足しているのだとも言いました。それを犠牲にして参加を決めたのは大谷選手の強い誘いだったようです。参加するなら最初からとことんつきあってやる。そんな決断は決して簡単ではなかったと思います。栗山監督は、でき上がったチームを「ダルビッシュ・ジャパンだ」と言いました。

予選から決勝戦まで十分すぎるくらい楽しみましたが、中継をアマゾンがやってくれたのは大助かりでした。テレビはテレ朝とTBSが中継しましたが、我が家ではどちらのチャンネルも見られなかったのです。なぜメジャー中継をやるABEMAではなくアマゾンだったのか。理由は分かりませんが金銭的なものだったことは推測できるでしょう。ただ、スマホやパソコンからテレビに繋ぐと音声だけしか聞こえなかったのは残念でした。番組によってそうなるのはよくありますが、どういう規制が働いているのでしょうか。

WBCの収益金はすべてMLBに入ります。どれだけのお金かは発表されていませんが、その大部分がMLBに行って、満員の東京ドームで予選を行った日本にはわずかしか返ってこないようです。収益金の多くを野球の世界振興のために使うといった大義名分があるとも聞いていませんから、このことははっきりするよう、日本のプロ野球機構は問いただすべきだと思います。日本チームの選手は強いメジャー選手にも気後れすることなく立ち向かって王者になりました。プロ野球機構の従順さはもちろんですが、日本の政治家や官僚たちにも、今回の日本チームの頑張りを見習って、アメポチといった屈辱的な姿勢を改めるきっかけにしてほしいと強く思いました。もちろん、そんなふうに思う政治家や官僚はほとんど皆無だろうと思っての願いです。

2023年2月6日月曜日

内山節『森にかよう道』『「里」という思想』(新潮選書)

 

山歩きをしていてよく思うのは、登り始めが杉や桧の人工林で暗いということだ。間伐もしないで鬱蒼としているところや、間伐しても置き去りになって腐りかけているところが多いのである。それがある程度の高さになると広葉樹になって、明るさも見通しも一変する。杉や桧はほとんど戦後に植えられたもので、木材にすることを当てにしたのだが、安価な輸入材のために放置されたままになっているのである。そんな森を歩くたびに、何とかならないものかと思ってきた。

mori2.jpg 内山節の『森にかよう道』は1992年から2年近く「信濃毎日新聞」に連載された記事をまとめたもので、出版されてから30年近く経っている。しかし、ここで指摘されていることにはほとんど何も対応策が採られていないから、現状はいっそうひどいことになっている。この本には取材をかねて出かけた北海道から屋久島までの多くの森が取り上げられている。面白いと思ったのは著者が考える「豊かな森」が必ずしも、人の手が入らない自然な森ではないということだった。

『森にかよう道』で語られる「豊かな森」とは、そこに住む村人が茸や山菜などを取り、薪や炭にするために枝打ちや伐採をした、手を入れた森である。あるいは家や農地を守るために作られた防風林や防砂林といったものもある。それを「暮らしの経済」と呼べば、広葉樹をすべて伐採して杉や桧の人工林を作るのは、あくまで木を商品価値を持った材木としか考えない「市場経済」ということになる。それは「山仕事」から「林業」への転換であるが、そうなると、森を管理するのは村人ではなく、森を所有する国や自治体になり、働く人たちは製材業者やパルプ会社に雇われる人になった。

もちろん、ここには戦後の経済成長による人々の働き方や暮らし方の大転換という要因もある。それによって村は過疎化し老齢化して、森に人の手が入るということも少なくなった。日本の森林率は7割近くで先進国の中では1位を維持しているようである。イギリスでは1割以下でヨーロッパの3割、ロシアの4割に比べれば、かなり多いといえる。しかし日本の木材利用の7割以上が輸入に頼っていて、それが熱帯の森を減少させる大きな原因にもなっている。

mori3.jpg 森林率が多いといっても、人工林によって起こされた影響は多岐にわたる。大雨によって山が崩れる。川から海に流れる養分が減って沿岸で魚が取れなくなる。あるいは花粉症の蔓延などなどである。著者が主張するのは「里」や「里山」への注目で、そのことは彼の続編とも言える『「里」という思想』で語られている。すでに「市場経済」が成り立たなくなった日本の森を「暮らしの経済」として再生させる必要性ということだ。

森とともに生きてきた村人には、森を維持し、生活する上で必要なものを森から手にするための「作法」がある。それは代々受け継がれてきたもので、村人たちはいちいち深く考えたり、ことばにしたりしないが、著者には一つの思想として受け止められるようになる。若い頃から群馬県の上野村に住み着き、職場がある東京との間を行き来してきた著者ならではの結論だと思う。近代化によって消しさられようとしている「里の思想」を再認識し、どう未来に生かしていくか。それが切実な問題であることは、山歩きをすればすぐに気づくことである。

2023年1月9日月曜日

『キネマの神様』

 

cinema1.jpg"『キネマの神様』は沢田研二が主演する活動屋の物語だ。ただし最初は志村けん主演の予定だったが、コロナに感染し、急死したために代役となった。撮影開始も延期になったが、映画そのものも、ラグビーのワールドカップとコロナ流行の話題から始まっている。

主人公はアル中でギャンブル好きのダメジジイだが、かつては将来を嘱望されて映画監督になるはずだった。借金取りに追われ妻や娘に愛想つかされる現在と、若い頃に撮影現場で働く姿が代わり番こに描かれる。映画が全盛だった半世紀前の昭和の時代と現在との対比である。

その時代には、小さな町にも映画館があって、多くの観客でにぎわっていた。しかし今は、映画館で見ようと思えば、大きな町のシネコンに出かけなければならない。その代わりに、家でいつでも見たい時に見たい映画が見られるようになった。この映画には今となっては懐かしい小さな映画館が登場する。若い頃に映写技師をしていた主役の友達が経営しているが、コロナ禍もあって閉館に追い込まれている。

監督の山田洋次は、この作品に映画はやっぱり映画館で見るべきだと言おうとしたのかも知れない。それがコロナ禍と重なって、映画館の危機という切実な訴えのように聞こえてきた。僕はこの映画をAmazonで家のパソコンで見た。今では映画館も普通に開館されているが、コロナ禍になってから一度も映画館にはいっていないし、当分は出かけることもないだろうと思う。その意味では何とも皮肉といえるかもしれない。

「キネマの神様」という題名は主人公が監督第一作として撮るはずだった映画の題名である。映画館に足しげく通って同じ映画を何度も見る主人公に気づいた映画の主人公が、スクリーンから客席に呼びかけて飛び出してくるといった話だった。そのシナリオに共感した孫が、映画のシナリオを公募する木戸賞(実際には城戸賞)に応募するために主人公の爺さんと書き直しをして、見事受賞することになる。

スクリーンから登場人物が客席に飛びだすというのはウッディ・アレンの『カイロの紫のバラ』のモチーフである。映画や演劇は、それを見せるために作られるが、演じられる世界と見る世界はまったく別の世界として考えられている。二つの世界の間にコミュニケーションは起こらないのが大前提だが、ウッディ・アレンは映画の中でしばしば、その掟を破って観客を当惑させた。

山田洋次もそのことを当然知っているだろうと思う。知っていてなぜ使ったのか。映画のラストは、主人公がかつて自分が助監督をした映画を、映画館で見ながら死ぬという場面になっている。スクリーンから主演の女優が飛び出してきて、一緒に行こうと言われてついていくのである。このシーンを撮るところから思いついたのかなどと、勝手に思ったりもした。ちなみにこの映画には原作があるが、その物語は映画とはまったく違うものである。

2022年12月19日月曜日

矢崎泰久・和田誠『夢の砦』

 

yume1.jpg 『話の特集』は一時期必ず買った月刊誌だった。和田誠や横尾忠則のイラストがあり、篠山紀信や立木義浩の写真が載って、野坂昭如や永六輔のエッセイがあった。その過激な政治批判に賛同し、鋭い社会風刺にわが意を得、公序良俗への挑戦に拍手した。おそらく1960年代の終わりから70年代の中頃のことだったと記憶している。『夢の砦』は編集者だった矢崎泰久がまとめたその『話の特集』の思い出話である。

『話の特集』が創刊されたのは1965年で、95年に廃刊になるまで30年続いた。僕が読んだのは10年ほどで、『話の特集』が一番元気な時期だったと思う。何しろ売り出し中の作家やタレント、イラストレーターや写真家が毎号登場して、その技や芸を競っていたのだから、発行日が待ち遠しいと感じるほどだった。大手の出版社が出す雑誌とは違っていたのになぜ、これほど多種多様な人々を登場させることができたのか。この本を読んで、そんな疑問の答えを見つけることができた。

「話の特集」をつくったのは矢崎泰久三二歳と和田誠二九歳。二人が追い求めたのは<自分たちが読みたい雑誌>だった。二人を中心に気づかれたその砦にはあちこちから個性的な才能が集まった。
創刊時にはほとんど無名だった若者たちが好き勝手なことをやり、それを面白がってまた新たな人たちが参加する。その斬新さはすぐに週刊誌や月刊誌のモデルになって、雑誌ブームの先導役にもなった。『夢の砦』にはそんな創刊時の逸話を語り合う記事がたくさん載っているが、また、この雑誌の中身を一貫して支えてきたのが和田誠だったことも強調されている。たとえばその一例は、川端康成の『雪国』を作家や評論家、あるいはタレントの似顔絵とともに、文体や口調をまねて書いたパロディが36編も再録されていることである。これは今読んでもおもしろい。

『話の特集』が創刊時から持ち続けた姿勢は「反権力・反体制・反権威をエンターテインメントで包み込む」だった。60年代の後半には大学紛争があり、ベトナム反戦活動やアメリカから世界に波及した対抗文化の波もあった。そんな時代を反映しながら、大まじめにではなく遊び心を持って雑誌を作ってきた。『夢の砦』を読むと、そのことがよくわかる。70年代の中頃になって、僕がこの雑誌を読まなくなったのは、似たような雑誌が乱立したせいなのか、雑誌そのものに興味をなくしたからなのか。今となってはよくわからない。

しかしそれにしても、今の時代には「反権力・反体制・反権威をエンターテインメントで包み込む」といった姿勢は、どこにも見当たらない。それどころか「権力・体制・権威にすりよってエンターテインメントで吹聴する」といった人がいかに多いことか。インターネットの初期には、面白く感じられる一時期があったが、今はそれも失われている。昔を懐かしむのは年寄りの悪癖だが、それにしても今はひどすぎる。

2022年11月21日月曜日

ツーブロック禁止って何?

 

haircut1.jpg"朝新聞を読んでいたら、「ツーブロック禁止 必要?」という見出しの記事を見つけました。「うん? ツーブロックって何?」と思って記事を読んでいくと、最近はやりの髪形で、もみ上げと耳のまわりを刈り上げるカットだと言うことがわかりました。そう言えば最近の若者の髪形は刈り上げが普通で、カットの仕方もいろいろであることは気づいていました。男の髪形が極めてバラエティに富んでいるのは、MLBの選手で見慣れていました。スキンヘッドに肩まで伸びた長髪、モヒカン刈りやデッドロック、三つ編み、そして長く伸ばしたヒゲなど、やりすぎだろうと言いたくなる選手が少なくないのです。

twoblock1.jpg"・それに比べたら「ツーブロック」などはおとなしいものですが、日本ではそれを禁止する高校が多数あって、問題化していると言うのです。そう言えば、これまでにも校則のおかしさについてはいろいろ指摘されていて、髪の毛は黒、靴下は白、女子生徒のスカート丈など事細かに決められているのです。そもそも中高生は制服が当たり前といった規則が健在なのが不思議ですが、それをさらに細かく規制しているのは、一体何のためなのか疑問に感じます。

僕は都立高校に通いましたが、制服ではなく私服でした。ロック音楽やヒッピーが流行った時代で、僕も長髪にしていましたが、教師に叱られることはありませんでした。都立高校の中には、今でも制服なしで髪形にも規制がないところがあるようです。この記事には都立高校の先生の意見もあって、制服が大人の価値観の強制であって、「(生徒に)自分たちで考えて行動してもらうということが原点です」という意見が紹介されていました。

制服は、それが軍隊から始まったことからわかるように、統率を取りやすくするために考案されたものでした。その有効性が認められると、次に工場労働で働く人や学校に採用されましたが、それはあくまで管理する側にとってのものでした。集団にとっては個々の個性を認めることは管理を難しくします。しかし、教育の場は、軍隊とは違って、生徒がそれぞれ自らの個性を見つけ、それを伸ばす機会でもあるのです。「ツーブロック」のようなほんの少しの工夫すら認めたくないという発想には、個性を育てると言った考えがまるでないことが明らかです。

そのことはおそらく、自分で考え、行動するといった生徒の内面的な成長に対する無関心にも繋がっているはずです。と言うよりは、生徒に勝手に考え、行動されたらかなわないとする発想が強いと言えるでしょう。たとえば、「CNN.co.jp」の記事に、今回の中間選挙で「若い有権者がいなければ、米民主党は大敗していた」という記事がありました。アメリカの多くの学校には制服などはなく、選挙についても授業で積極的に議論することをカリキュラムに入れています。銃規制の必要性やLGBTQの権利にも自覚的な若者層にとって、保守反動回帰を主張するトランプは反対すべき相手です。この記事では45歳を境目にして、それ以下は民主党で、高齢になれば共和党支持になっていることが指摘されています。

アメリカでは若者層をZ世代(1996年以降の生まれ)やミレニアム世代(2000年以降に成人)と呼んで、社会の不正や人権、そして地球の温暖化などについて意識が高いことが指摘されています。しかし日本では、若者層は保守的で、政治にも無関心だと言われています。その理由を若者たちの意識の低さに求めることは容易ですが、個性を育てることをしない教育の場にこそ、その原因を求めるべきではないか。「ツーブロック禁止 必要?」と言う記事を読んで、そんなことを強く思いました。

2022年8月22日月曜日

Eric Clapton "The Lady in Balcony"

 

clapton2.jpg"エリック・クラプトンは今年77歳になった。日本で言えば喜寿の歳だ。デビューは1960年代初めだから、音楽活動はすでに60年を超えている。で、新しいアルバムを出した。"The Lady in Balcony"は、ロンドンのロイヤル・アルバート・ホールで予定されていたコンサートがコロナで中止になり、その代わりにライブハウスで行った小さなコンサートを収録したものである。

だから新しい曲はなく、使われている楽器の多くはエレキではなくアコースティックギターである。ライブ盤といっても聴衆がいないから、曲の合間に拍手も掛け声もない。本来なら大きなホールでやるはずだったものが、コロナで出来なかったということをメッセージとして残しておきたかったのだろうか。

クラプトンはエレキ・ギターの名手として知られていて、その奏法にはスロー・ハンドという名前が付けられている。指の動きはゆっくりしているように見えるのに、生きた音が繰り出される様子を形容したものだと言われている。何しろその格好良さで日本にも多くのファンがいて、来日すればいつでも武道館が一杯になるほどだった。

エレキ・ギターの名手としては他に、ジミー・ペイジやジェフ・ベックなどが挙げられるが、いずれもヤードバーズのギタリストだった。面白いのは三人ともヤードバーズを抜けて新しいバンドを作ってから有名になっていることだ。クラプトンはクリーム、ペイジはレッド・ツェッペリン、そしてベックはジェフ・ベック・グループである。そんなことを書いていると、60年代から70年代にかけて聴いていたブリティッシュ音楽が思い起こされて懐かしくなる。

ただし、クラプトンについて思い出すシーンは、彼が主役ではなく脇役として登場するコンサートばかりである。たとえばジョージ・ハリスンが呼びかけ人になったバングラディシュの食糧危機支援のコンサートやザ・バンドの解散記念コンサートのザ・ラスト・ワルツなどである。彼はそこでギターとバック・コーラスばかりだったが、主役に負けない存在感があった。

僕がクラプトンをよく聴くようになったのは、生ギターを主にしたアンプラグドというシリーズの中で発表した「ティアーズ・イン・ヘブン」以降である。その後の「フロム・ザ・クレイドル」 (1994)、「ピルグリム」 (1998)などを聴いてから、それ以前の「アナザー・チケット」 (1981)や「ビハインド・ザ・サン 」(1985)、「オーガスト 」(1986)、そして「ジャーニーマン 」(1989)なども聴くようになった。

"The Lady in Balcony"は、そんな彼が歌い演奏してきた曲で構成されている。昔とあまり変わらない声で、それほどギターを目立たせずに静かに淡々と歌っている。参加ミュージシャンと車座になっているところとあわせて、すぐそばで聴いているような気持ちになった。