2018年1月29日月曜日

日本発のアフリカと南米の音楽

 

Nyama Kante "Yarabi"
Irama Osno "Taki Ayacucho"

・アフリカの音楽は、これまでにも、フェラ・クティやユッスー・ウンドゥール、そしてアブドゥーラ・イブラヒムをはじめ、他のミュージシャンも取りあげてきた。遠くて行けそうもないけれど、その音楽には、ずいぶん前から興味を持ってきた。もちろんアフリカは大きな大陸だから、音楽を一つのものとしてくくれるわけではない。

・アフリカには、現在、54の主権国家と10の非主権地域がある。人口も急増しているし、言語の種類も多い。もちろん、ヨーロッパ列強の植民地だったから、ヨーロッパの言語を使う国も少なくない。多様な宗教、政治形態、経済発展の違い、紛争、公害や貧富の格差、そしてエイズやエボラ熱などの流行が問題になってもきた。そしてアフリカの音楽には、そういった問題をストレートに歌い、訴えるミュージシャンもいる。

kante.jpg・アフリカの音楽に興味を持つきっかけになったのは鈴木裕之の『ストリートの歌』(世界思想社)だった。あるいはそれ以前に彼が訳した『フェラ・クティ』(晶文社)だった。どちらも、このコラムで取りあげている。ニャマ・カンテはギニア生まれでコートジボアールで育っている。多くのミュージシャンがそうであるように、彼女もグリオ(伝統伝達の語り部)の家系である。ぼくはこのCDを出版社の編集者からいただいた。彼は僕の本を何冊か担当した方だが、同時に、鈴木裕之の『ストリートの歌』や『恋する文化人類学者』を担当している。そしてニャマ・カンテが鈴木裕之のパートナーで、日本でも音楽活動をしていることを教えてもらった。

・"Yarabi"にはグリオによって歌い継がれてきたラブ・ソングや祭りの歌などの他に、アメリカの伝説的な黒人ブルース・シンガーであるロバート・ジョンソンの曲などが収録されている。バックで演奏するのは日本人のミュージシャンで、中には娘と一緒に歌い、日本語も飛び出す曲もある。紛れもなくアフリカの音楽だが、そこに、アメリカや日本が混ざっている。

irama.jpg ・イラマ・オスノはペルーのアヤクーチョに生まれ、伝統的な音楽に囲まれながら成長した。彼女もまた、縁があって、現在では日本で暮らし、音楽活動をしている。そしてこの"Taki Ayacucho" もまた、友人から贈られた。このCDには、彼女の息子がパーカッションで参加しているのである。

・僕は南米の音楽についても、興味があってこれまでにもこのコラムで取りあげたことがある。いわゆるフォルクローレと呼ばれるもので、メルセデス・ソーサやビクトール・ハラ、そしてビオレータ・パラといった人たちだ。(→"Gracias A La Vida")

・しかし、イラマ・オスノの音楽は、それらとはまったく違う。フォルクローレにはスペインやアメリカの影響が強くあるが、彼女はペルーの公用語とは違うケチュア語で、伝統に基づいた発声法で歌うものである。しかも歌われているのはアンデスの自然(風、雨、滝、川、山、土、石、鳥、動物、祖先、精霊)であり、伝統的な世界観のようだ。そんな音楽をバックで支えているのは、やはり日本人のミュージシャンたちである。ギターやケーナといったよく使われる楽器のほかにバイオリンやベース、あるいは打楽器が使われ、土着の音楽であることを強く意識しているが、そこにはやはり日本が混ざっている。そんな彼女は今、ギタリストであるパートナーの笹久保伸と秩父に住んでいるという。

2018年1月22日月曜日

先生卒業

 

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・4年生のゼミが終わった。これで正真正銘、「先生」と呼ばれる仕事から自由になった。もう誰にも「先生」などと呼ばせない。と言いたいところだが、卒業生にとっては、ずっと「先生」のままだから、これは仕方がない。しかし、それほど「先生」と呼ばれることが厭だったことを改めて実感した。もっとも「教授」と呼ばれるのはもっとキライで、学生がそう言うたびに、「先生」でいいと訂正し続けてきた。

・いずれにしても、これからは一人の「じいさん」でいい。だから、研究者であることもやめにした。論文なんて金輪際、一本も書かない。そう決めている。だからといって、大学の先生や研究者としての仕事自体が厭だったわけではない。先生や研究者であったけれども、極力その役割から距離を置いて振る舞い、また発言したり書いたりしてきた。先生だけど先生ではない。研究者だけど研究者ではない。そんな立ち位置を、面白がったり、冷や汗かいたりしながら過ごしてきた。

・大学で教え始めたのは20代の後半からで、専任教員になったのは40歳だった。長い非常勤暮らしで、しんどいことも多かったが、学生とのつきあいにしても、書いたものにしても、専任とは違って自由の範囲は大きかった。その都度の興味関心に応じて三冊の単著と一冊の共著を書いた。学会にも所属せず、つきあう人も少なかったが評価してくれる人もいた。大学の他に塾や家庭教師もやって忙しかったが、今思うと、一番勉強した時期で、頭も一番さえていたと思う。

・専任になると研究室と研究費が与えられて、もっと生産的に仕事ができるだろうと思った。そうはいかなかったのは、何より組織の一員になって、慣れないことをやらなければならなくなったせいだ。なかば強制的に勧められて、学会にもいくつか入って、すぐに紀要の編集委員だの、部会の司会やシンポジウムの発言者もさせられることになった。組合も初めての経験だった。ゼミの学生がいつでも研究室にいるといった状態にもなった。しかし、何より大きかったのは、ポストについてほっとしたことだった。

・もっとも最初に勤めた大学には、正当さや常識からはずれた個性的な人が多く、その人達に、学内政治に興味を持っていけないとか、学務に能力があると思われないようにといったアドバイスをされた。先生らしくない先生、研究者らしくない研究者といった立ち位置を見つけることができたのは、そんな人たちと過ごせたおかげだったろう。

・東経大に移ったのは50歳の時だった。大学院設置の呼びかけに応じたのは、「コミュニケーション」と名のついた学部に対する興味からだった。もともと東京出身だったこともあるが、住まいは都会ではなく、河口湖にした。都会ではなく田舎に住みたいと思ったのが一番だが、理由には、大学と距離を置くこともあった。そこで18年間勤めてきたが、やりがいがあったのは、大学院での決して秀才ではないけれど、個性豊かな人達とのつきあいだった。

・大学が就職予備校化し、大学院は留学生ばかりになった。学務を真面目にやる若い先生が目立つようになって、ここ数年、大学がどんどん変容していくことを目の当たりにしてきた。今となってみれば、僕のような先生を許容した大学という職場が懐かしくさえ思えてくる。自分がやめることにさみしさは少しも感じないが、大学の変わりようには、危惧の念をもつ。とはいえ、先生卒業。お役御免でほっとした。

2018年1月15日月曜日

『カズオ・イシグロをさがして』

 

journal3-170.jpg・カズオ・イシグロのノーベル文学賞受賞は意外だった。僕は彼の作品を何冊かもっているが、一つも読んでいなかった。なぜ買ったのかも覚えていないが、映画の『日の名残り』の原作者だったということかもしれない。日本ではまた、ノーベル文学賞を日本人が取ったとか、それが村上春樹でなかったとか話題になったが、僕にとっては日本の組織も多く提携している「ICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)」の平和賞受賞について、政府が何もコメントしなかったことに、いまさらながらあきれた。カズオ・イシグロは日本人かもしれないが、英国籍をもった現代のイギリスを代表する作家であって、日本とは直接関係ないはずなのにである。

・彼の受賞については、そんな程度の興味しかなかったが、NHKが放送した『カズオ・イシグロをさがして』をYoutubeで見かけて、見ることにした。大ファンだという生物学者の福岡伸一が故郷の長崎を訪ね、イギリスに出向いてイシグロ本人に会ってインタビューをした。そこで、イシグロ文学のテーマが「記憶」であることを知った。

・心に残る「記憶」はくり返されることで次第に美化されて、現実とは違ったものになる。福岡は、そのような記憶を「ノスタルジー」として小説のテーマにすることについて、イシグロに聞いた。その応えは、子どもが親の保護の元で暮らして残る「記憶」は、親によって「世界がまるで美しい場所であると装われた」ことでできたものだと言う。その意味で「ノスタルジアは決して存在しない理想的な記憶」なのだとも。だから大人になれば必ず、現実の世界について「失望感」を味わうことになる。

・そんなふうにして人々の中に蓄積された「記憶」は、親しく関係し合う人たちの間で、時に共鳴し、時に不協和音になる。そしてそれがまた、それぞれにさまざまな「感情」を抱かせる。イシグロ文学の核心がそこにあるのだということを、二人の話の中から感じた。

・イシグロが最初に書いた長編小説は長崎を舞台にしたものである。それは彼の幼い頃の記憶に対する強い関心から出発したものだが、自分のなかにある「記憶」はあくまで、自分の中で私的に創りあげられた「JAPAN」であって、現実の「日本」ではなかった。その『遠い山なみの光』は、長崎からイギリスに移り住んだ女性が、長崎の記憶を回顧することで物語られている。

・福岡は、彼の研究テーマである「動的平衡」をイシグロの作品からヒントを得たと言う。生物は外見的には変わらないように見えても、ミクロなレベルでは絶えず変化をしていて、数ヶ月もたてば完全に入れ替わってしまっている。そんな流転する存在を支えるものを彼は追求してきた。

・そんな福岡の語りについて、イシグロは「記憶」もまた流転すると言う。彼にとってその最大の「記憶」は、生まれ故郷の「日本」についてのものだった。だから、「日本」について抱き続けてきた「記憶」を、それが色あせないうちに小説として固定させたいと思ったと応えた。それ以来、人間と記憶の問題に魅了され続けているのだとも。

・カズオ・イシグロは作家ではなく、ボブ・ディランのようなシンガー・ソング・ライターになりたかったのだと言った。彼は僕より5歳年下だから、そんなふうに思った時点のディランは、表から退いて隠遁生活をしていた時期にあたるだろう。学生運動も終わっていたけれども、60年代の若者の運動から生まれた「ライフスタイル」は享受することができた。そんな話を聞いて、僕は彼に強い親近感を持つようになった。

・音楽との関わりについて、彼はまたノーベル文学賞の授賞式でのスピーチで、ほとんど完成していた『日の名残り』に最後の一筆を書き加えるインスピレーションをたまたま聴いたトム・ウェイツの「ルビーズ・アーム」から得たと話している。しかも、そんな経験は一度だけではないとも。「歌を聴きながら、『そう、これだ、あの場面はこういうものにしよう、こんな感じに近いものに』と、独り言を言っていました。それはしばしば、私がうまく文章にできないような感情でした。でも、そこに歌があり、歌う声を聞いて、自分が目指すべきものを教えられたのです。」

・昨年のノーベル文学賞がなぜボブ・ディランだったのか。そのことを自らの体験をもって証明した発言だった。積読だった彼の作品を読むことにしよう。そんな気にさせたドキュメントで、今は彼の小説を読み続けている。

2018年1月8日月曜日

今年の卒論

 

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・いよいよ、最後の卒論集になりました。東経大に18年勤め、1年間非常勤をして、18号まで出すことができました。これでやっと、仕事納め。ほっとしています。
・今年の4年生は16名です。もう一人いましたが、9月に退学しました。2年生から履修していた学生が11名で、3年生からが5名です。あまり勉強好きではない学生ばかりで、「糠に釘」という思いが残りました。何しろ、野球部が4名、陸上部が2名いて、返事はいいけど、向学心に乏しい人たちばかりでした。とは言え、就職状況が好転して、就活には苦しまなかったようです。
・そんなメンバーでしたから、卒論指導には苦労しました。論文の書き方をくり返し話しても、好き勝手に書いてきて、何度も雷を落としました。しかし体育会系の学生には「馬の耳に念仏」で、コピペもひどいものでした。それでも、書き直しや修正を何度も命じましたから、かなり応えたようです。卒論作成で少しは、大学生らしい勉強をしたことになったかもしれません。
・もちろん力作も何本かあります。玉石混淆。そんな卒論集になりました。

1.ロックンロールの歩みと芸術…………………………………………… 前川 颯也
2.ダンスミュージックの虜になる私たち………………………………… 古内 花菜
3.プロ野球の経済効果について…………………………………………… 一家 吉宗
4.スポーツとメディアの関係について…………………………………… 丹生谷 薫
5.サッカー専用スタジアムの今後~スタジアム、球場のあり方~……… 大和田 真
6.プロ野球とメジャーリーグの球団経営について…………………… 篠原 龍之輔
7.スポーツマーケティング~宣伝とスポーツブランドが私達にもたらす影響…… 菊地ハフィース
8.海外での日本の音楽の現状……………………………………………井野元 洋希
9.ライブ・コンサートは誰のためにあるのか…………………………… 高野 菜摘
10.スマートフォン及び携帯端末機の普及が現代社会に与える影響 … 山田 剛
11.漫才と人柄は関係あるのか~80年代以降の漫才~ ………………… 藤原 理希
12.ブルース音楽、流行までの変遷—奴隷からはじまるブルースの歴史—…… 日比野 裕
13.アイデンティティと対人関係………………………………………… 畠山 知佳
14.依存症と熱中の比較研究……………………………………………… 矢野 貴裕
15.ソーシャルゲームはなぜ普及したのか……………………………… 星川 拓也
16.ゲームがもたらす影響について……………………………………… 古川 愛梨

2018年1月2日火曜日

Happy New Year !!

 

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とてもハッピーとは言えない1年の始まりです
こんな調子で進んだら、世界は、日本はどうなるのか
昨年は、そんな不安や危惧が募るばかりの年でした
好転のために、安部とトランプが失脚すること
初詣でお願いする第一のことです

私事では退職をして、悠々自適の生活を始めました
大工やペンキ塗りなど、家のメインテナンスに精を出し
自転車にも励みました
今は毎日、薪割り仕事です
週一回だけの大学通いも、もうすぐ終わって
いよいよ毎日が日曜日状態になります

いろいろやりたいことはありますが
60代最後の年で’、体の衰えを自覚することが多いです
無理をせず、と言って自重しすぎにもならずに
やれることを少しずつ

今年がよりよい1年になりますように