2020年12月31日木曜日

目次 2020年

12月

28日:来年こそオリンピックって本当ですか?

21日:運転免許証とマイナンバー

14日:億や兆にマヒしてる

 07日:加藤典洋『オレの東大物語』(集英社)ほか

11月

30日:紅葉見物で大混雑

23日:不倫やドラッグのどこが大ニュースなのか?

16日:Bruce Springsteen, "Letter to You"

09日:「知」に敬意を払わない人に

02日:嘘と隠蔽がまかり通る

10月

26日:秋の裏磐梯

19日:やっぱり雨の秋

12日:コロナ後の世界について

05日:テレビは政権の広報機関になった

9月

28日:Bob Dylan, "Rough and Rowdy Ways"

21日:「Go to~」のおかしさ、あやしさ

14日:最後まで嘘の安倍政権

07日:雨、猛暑、そして台風

8月

31日:作る者と作られた者

24日:Bonny Light Horseman

17日:テレビとコロナ対応

10日:久しぶりの北海道、その2

03日:久しぶりの北海道

7月

27日:電通という会社

20日:コロナと雨

13日:レジ袋とストロー

07日:田村紀雄『自前のメディアを求めて』

6月

29日:Pearl JamとStereophonics

22日:テレビ中継とスポーツ

15日:安全と安心

08日:快適だけど、ちょっと寂しい気もする

01日:コミュニケーションの教科書

5月

25日:音楽の聴き方、楽しみ方

18日:ポール・オースターを読んでる

11日:再放送ばかりになったテレビ

04日:コロナ後のライフスタイル

4月

27日:いつもながらの生活ですが

20日:コロナ禍に思うこと

13日:ジョン・プラインの死

06日:こんな時にこそ、読みたい本

3月

30日:外出自粛でネットで映画

23日:世界の終わりの始まりのよう

16日:どこにも行かずに過ごす

09日:パニックのもとは誰ですか?

02日:桜井哲夫『世界戦争の世紀』

2月

24日:『パラサイト 半地下の家族』

17日:屋久島、縄文杉と白谷雲水峡

10日:奄美大島に来た

03日:駅伝とピンクの靴

1月

27日:暖冬と雪

20日:パソコン・ソフトと新聞

13日:奄美大島について

06日:ジェスカ・フープという女性ミュージシャン

01日:今年もよろしく

2020年12月28日月曜日

来年こそオリンピックって本当ですか?

 

・山梨ローカルのTVニュースを見ていて、呆れることがいくつかある。その一つが、来年に延期されたオリンピックに関連するものである。例えば、オリンピックに出場が決まった、あるいは有望な選手にまつわるものや、ホームタウンとして外国選手を迎えることについてなどである。まるでコロナ禍など関係ないかのように、あるいはすっかりおさまっているかのようにして、夢や希望をまき散らす話は、見ていて正気とは思えない感じすら受けてしまう。

・オリンピックに参加するために日本に来る選手や役員は、数ヶ月から数週間前に日本にやってきて、ホームタウンとして契約しているところで調整をする。当然、選手と住民との間で交歓会などが持たれることになるが、コロナ禍ではこれができない。選手も役員も完全に隔離して、感染しないように気をつけるからだ。もちろん、住民にうつされてもいけないのである。しかしこれでは、ホームタウンの意味がなくなってしまう。テレビでは、迎える準備に取り組んでいるとは言っても、コロナについては何も言わないから、その報道の姿勢を疑ってしまう。

・同じことは聖火のリレーについても言える。今年延期の決定がされたのは、聖火リレーが始まる直前の3月末だった。その直前まで、やる予定で準備を進めていたのだが、今のところ、何の疑問もなく、やるつもりでいるようだ。もちろん、各競技での代表選びは進行中で、選ばれた選手たちにも開催は疑いのない事実のようだ。

・コロナ禍は日本でもひどいことになっているが、欧米では極めて深刻な事態に陥っている。キリスト教国にとってクリスマスは一年で最大の行事だが、それさえロックダウンで中止せざるを得なくなっている。ワクチンが使われはじめたといっても、多くの人に接種するためには、これから数ヶ月もかかるのである。オリンピックなど話題にもならないが、今年の春同様、年が変われば、各国の選手や役員たちから中止の要望が出てくるのは明らかだろう、十分な練習もできていないし、代表を選んでもいなかったりすれば、それは無理もない話なのである。

・日本の世論も無理だと考える人が多数を占めている。中止は30%ぐらいで、もう一回延期が40%ぐらいだが、これは質問自体がナンセンスで、再延期はないので開催か中止かで質問すべきことなのである。こんな世論にもかかわらず、政府やオリンピック担当者は、あくまで開催と言い続けている。首相は繰り返し「コロナを克服した証として開催」などと言っているが、克服などは当分出来っこないのである。

・政府は、無視し続けてきた「Go to~」批判を、支持率が急落した途端に中止した。しかし、オリンピックの開催を再検討する気配は全くない。開催した時にかかる費用についても全く具体性に欠けているし、ホームタウンについての言及もほとんどない。観客をどうするのか。大会を支えるボランティアをどうやって感染から守るのか。大会不参加を決める国が続出したらどうするのか。そう考えると、実際には、いつ中止を決断するかということになるしかないと思っている。TVには望むべくもないが、新聞がやんわりとでも中止を訴えることができない現状は、お粗末としか言いようがないのである。

・大会組織委員会は延期によって2940億円が追加されて、総額1兆6440億円になると発表した。しかし、ここにはコロナに対する対策費は含まれていない。また、公表されていないものもあって、3兆円を超えるのではとも言われている。コンパクト五輪と銘打った当初の予算は7000億円だった。こんなずさんなお金の使い方についても、オリンピックに協賛するメディアは弱腰だ。

2020年12月21日月曜日

運転免許証とマイナンバー

 

・70歳を超えると、運転免許証の更新には事前に、高齢者教習が義務づけられています。更新時の講習と教習所内での運転が課されていて、10月に受けました。アクセルとブレーキの踏み間違いや、前進と後退の確認など、高齢者が起こす事故にありがちなケースの点検でした。運転操作の間違いは不意に起こります。パニックになって何をしているのかわからなくなって、ブレーキではなくアクセルを踏んでしまう。バックに入れずに前に突っ込んでしまう。それをする危険があるかどうかは、短時間の教習で確認するのは不可能です。一応確認しましたという意味しかないように思いました。

・僕はこの6年ほど無事故無違反だったので「優良運転者」になりましたが、70歳を超えるとゴールドにはなりませんでした。しかも次回の更新は3年後で、今度は認知症のテストもあるようです。年齢で区切るのは仕方がないとは言え、もう少し個々の運転能力や健康状態をチェックして認定してほしいなと思いました。

・以前に「高齢者の自動車運転について」で書きましたが、高齢者の交通事故は加害者より被害者になることの方が圧倒的に多いです。また加害者としても、70歳代後半から80歳代は多いですが、その数は10歳代から20歳代とあまり変わりません。それが目立つように思えるのは、メディアが大きく取り上げて、免許証の返上を勧めるからにほかなりません。これは明らかに「キャンペーン」を意図した情報操作です。僕を含めて団塊世代が高齢者になりましたから、免許保有者の数も急増しています。しかし、事故件数そのものは、むしろ減少傾向にあるのです。メディアはこういう実体を無視して報道しているのです。

・ところで、マイナンバーカードを免許証と一体化させようという動きが出始めています。そうすれば、更新はネットでできるようです。何とかマイナンバーカードを普及させようとする政府の狙いですが、果たしてどんなメリットがあるのでしょうか。そもそもマイナンバーは導入時こそ、いろいろ使われましたが、ここ最近で必要になった記憶がありません。コロナ禍による特別給付金でも、マイナンバーによる申請の方が給付が遅かったといった不手際もありました。

・国民を管理したいためだけで、どんなことに便利に使えるかが欠けた制度のまずさは、すでに住基ネットが証明しています。運転免許証だけでなく、健康保険まで含め、将来的にはカードをなくしてスマホに収めるといった構想もあるようです。ここに小中学生の成績まで管理しようとする計画まであると報じられました。言語道断ですが、デジタル化の遅れた政府機関や自治体が、また多額のお金を使って、業者に下請けさせ、結局中途半端になる。無駄遣いもいい加減にしろといいたくなります。

・車についてもう一つ。脱炭素化をめざして、2030年とか35年以降は、ガソリン車の販売を禁止するといったことも言われはじめました。ガソリンをまき散らして走ることについては、僕もやましさを感じています。ですから次は電気自動車にしようかと考えています。しかし、日本の自動車業界は、まだ本腰を入れて開発をしているようには見えません。ハイブリッドで何とか生き延びようという思惑が、世界で通用するかどうかわかりません。また水素燃料についての開発もあるようですが、日本だけのガラパゴス自動車になる危険性もあるようです。安価で燃費のいい軽自動車は日本だけで普及していますが、一体これをどうするつもりなのでしょうか。

・田舎に住む高齢者にとって、移動手段としての自動車は必須アイテムです。運転出来ないような身体になったら老人ホームに移るでしょうが、それまでは、今の暮らしを続けたいと考えています。おそらく、今乗っている車は5年後には買い替え時期になるでしょう。その時に快適に運転出来る自動車が普及していてほしいものだと思います。もちろん、安全機能も、今以上に充実させたものを期待します。

2020年12月14日月曜日

億や兆にマヒしてる

 

・コロナ禍で国は莫大な財政支出を強いられている。もちろんそれは借金だ。何しろ通常でも、国家予算100兆円のうち税収は60兆円で、足りない分は国債の発行で調達されていたのに、さらに数十兆円が追加されているのである。リーマンショックや東日本大震災があって、その時にも多額の赤字国債が発行されて、その借金の返済に税金が増額されている。当然、コロナ禍で使われるお金もまた、税金として返済されることになる。

・もちろん、予算の中には必要なものも多い。特別給付金として国民一人当たり10万円が配られたが、その総額は12兆円だった。また企業を助ける持続化給付金には5兆円が使われていて、この制度はまだ継続中である。あるいは、対応が遅いと非難されてきた医療関係への支援についても1兆円規模で行われているようだ。もっとも、医療従事者からは、ボーナスカットされたとか、仕事に見合う報酬ではないといった声も多く聞こえてくる。どれにしても、総額としては多額だが、受け取る側から見ればとても満足が行く額ではないのである。

・他方で、感染拡大の要因だとして非難されている「Go toキャンペーン」では、すでに2兆円を超える支出があって、さらに来年の6月まで延長することが決められている。観光業者や飲食店、あるいはイベント業などを支援する目的だと言われているが、中間搾取が大きくて、末端の小規模事業者には届いていないという声もある。さらに、もっとも批判すべきはオリンピック関連だろう。コンパクト五輪を謳った東京五輪は、すでに2兆円を超える支出があったとされている。それに延期に伴う追加費用に2000億円が必要というのだが、ここには、コロナ対策にかかる費用が含まれているわけではない。

・億や兆といったお金の話が飛び交っていて、その金額にマヒしてしまっている。だから数百万円程度では、誰も驚かない。安倍前首相が「桜を見る会」の前日に、後援会の人たちを集めたパーティで、その費用を穴埋めした。そのお金は数年分で800万円ほどで、安倍自身は知らぬ間に秘書が勝手に行ったということになって、略式起訴で決着になりそうだ。そして、国会で嘘を平然とつきまくったことには、何のおとがめもないという。

・こんな政権が8年も続いたせいか、自民党の議員による選挙でのお金のばらまきや、業者からのヤミ献金、そして政府に委託された業務の中間搾取や政治家へのキックバックやリベートといった問題も数多い。しかし、どういうわけか、大きな問題になる気配はない。菅総理や二階幹事長に関連しているのに、メディアは本気になって追求しないようだ。検察を動かすのは世論の力しかないのにである。

・できもしないオリンピックをやると言い続けていること、感染爆発に近い状態になっても「Go to ~」をやめようとしないことなど、政権がコロナ禍の実体や国民の窮状に目を向けていないことは明らかだ。休業や失業に追い込まれた人が続出して、借りている家を追い出されたり、今日明日の食事もできない人が多数いるというのに、そのような人たちへの救いの手は民間のボランティアに任されている。さすがに政権支持率が下がっているが、それでもまだ半数が支持している。勝ち組と負け組の分断、「今だけ金だけ自分だけ」の浸透。これは「災害ユートピア」ではなく「デストピア」である。

2020年12月7日月曜日

加藤典洋『オレの東大物語』(集英社) 『大きな字で書くこと』(岩波書店)

 tenyo.jpg加藤典洋が亡くなった時に、僕はショックを受けて、このホームページで追悼文「加藤典洋の死」を書いた。『オレの東大物語』は、彼の死後一年以上たって出された遺作だが、死の直前に闘病生活をしている最中に、わずか二週間で書いたとされている。直接の死因は肺炎ということだったが、本書には急性骨髄性白血病だったとあった。ここ数年、周囲でも白血病に罹った人が二人いたから、その闘病生活の苦しさは想像することができた。まさに命を削っての、最後の著作だったのである。
だから、生死の境目で苦しみながら、なぜ、大学生時代のことを思い出して書こうと思ったのか。そんな疑問を感じながら読みはじめた。しかし、東大闘争に深く関わっていて、事細かに振り返っているから、読んでいて、夢中になれなかった。彼は安田講堂での攻防が鎮圧された後も、運動に関わるような、関わらないような、曖昧な生活を続けた。振り返ってみて改めてそのことを思い出すのだが、そんな態度が、彼がずっと批判し続けてきた、戦後の日本の姿勢に瓜二つであったことに気づくのである。

彼は山形から東大に現役で合格し、教養課程の駒場では、早くも文学評論の活動を始めている。そして、学内で起きたさまざまな問題に関わり、新宿や羽田で行われた大規模なデモにも参加している。父親が警察に勤務していたことから、機動隊に捕まることは極力避けなければならないことだった。他方で、新宿駅周辺にたむろしたフーテンたちにも興味を持って、頻繁に出かけることもあったようだ。ところが専門課程の本郷に移ると、その居心地の悪さを感じ、また激化する大学紛争に翻弄されるようになる。本当なら、ここで大学をやめてもよかったのだが、彼はズルズルと続け、大学を批判しながら大学院の入試を受け、二年続けて落とされることになる。

で、諦めて国立国会図書館に就職するのだが、仕事には全然興味が持てないままに、ここでも辞めずに続けることになる。そこで六年努めた後、カナダのモントリオール大学東アジア研究所での日本関係図書室拡充の仕事に派遣された。そこで鶴見俊輔と出会い、多田道太郎を紹介され、多田が開設に関与していた明治学院大学国際学部に勤務することになる。彼の処女作である『『アメリカ』の影』が出たのは1985年で、国会図書館を辞めて明治学院大学に勤めるのは翌年の1986年である。以後、文芸批評家として、戦後の日本の政治状況を批判的に語る人として、数多くの著作を残すことになった。

tenyo3.jpg『オレの東大物語』の「オレ」に、僕は違和感を持って読んだ。なぜ、「僕」や「私」ではなく、「オレ」だったのか。死後に出された『大きな字で書くこと』(2019)では主語は「私」になっている。こちらは、『図書』に死の直前まで2年半にわたって連載したものと、信濃毎日新聞に1年連載されたものをまとめたものである。幼い頃のこと、父のこと、そして大学時代のことなど、極めて個人的な話題が多いが、「私」である分だけ、冷静で、また距離も置いて書かれている。『オレの東大時代』と同じ内容で、ほとんど同じ文章のものもあるが、読んでいてずいぶん違う印象を持った。

「私」「僕」そして「オレ」。もちろん、ここには複数形の「私たち」「僕たち」「オレたち」と言い方もある。これらの使い分けには、もちろん、さまざまな理由がある。僕は一貫して「僕」を使い続けていて、論文に「僕」はおかしいなどとよく批判された。論文はエッセーではないから、「私事」や「個人的な視点や関心」を論文に入れてはいけないなどとも言われたが、いったいどこにそんな規則があって、それは誰が決めたものなのか。そんな反撥心を持って書き続けてきた。しかしさすがに「オレ」は使わなかった。日常的にも使わなかったからだが、加藤典洋はなぜ、大学時代を振り返って「オレ」にしたのだろうか。あるいは彼は、普段は「オレ」と言っていたのだろうか。2冊を読んで改めて、そんな疑問を持った。

『言語表現法講義』(岩波書店)
『可能性としての戦後以後』(岩波書店)、『日本の無思想』(平凡社新書)
『3.11 死に神に突き飛ばされる』岩波書店
『戦後入門』ちくま新書
『村上春樹はむずかしい』岩波新書