2001年5月28日月曜日

Bob Dylan "Live 1961-2000"


・ボブ・ディランがデビューしてからもう40年がすぎた。年齢も5月24日で還暦を迎えた。僕がはじめて彼の歌を聴いたのは16歳の時だから、そのつきあいも35年を越えたことになる。本当に長いつきあいになったな、と思うが、その40年間を1枚に収めたCDがでた。ディランは今年、4年ぶりに日本でコンサートをしたが、その来日記念版として日本だけで発売されたもので、全曲ライブである。

・一番古いのは1961年。ミネアポリスの友人の部屋での録音で曲目はトラディショナルの「ウェイド・イン・ザ・ウォーター」。その時期、彼はほんの少しだけ、ミネソタ大学にいた。そこから、彼のキャリアのなかで節目になるライブが並べられている。たとえば、3曲目の「ハンサム・モリー」はニューヨークのライブハウス、ガスライトでの録音で、レコード・デビューする直前のもの。5曲目の「アイ・ドント・ビリーブ・ユー」はロックを取り入れて物議を醸した1966年のイギリス公演。交通事故で沈黙しているときに出た、1968年のウッディ・ガスリー・メモリアル・コンサートが6曲目。7曲目は 1974年の復活コンサート。8曲目は1975年から76年にかけておこなわれた「ローリング。サンダー・レビュー」ツアー・コンサート。その後も、80 年代から90年代、そして2000年まで、ライブばかり16曲が収められている。

・もちろんぼくは、ここに収録されているほとんどをすでに持っているが、こうして並べて聴くと、また違ったおもしろさが感じられて、無駄な気はしなかった。特に目立つのが声の変化。僕は最近の太いだみ声にはどうしてもなじめないでいる。だから家にいてもディランのCDをかけることは多くはない。かえってヴァン・モリソンの声に、昔のディランとつながるものを感じたりする。だから、このアルバムで、改めて、声の変化のプロセスを確認した気がした。

・ディランのライブを僕は5回聴いている。最初はもちろん、日本初公演の1978年。大阪の松下電器体育館に2日連続ででかけた。2日目の席は前から10列目ほどで、ディランの顔を生で確認できたことだけで感激してしまった。その後、大阪城ホールで2回。最初はトム・ペティがバックで、聴衆が完全に2分されているのがおもしろかった。しかし、その後に来たときの印象はほとんどない。たぶんつまらなかったのだろうと思う。そして最後に行ったのが1997年の大阪フェスティバル・ホールで、レビューにも書いたように、これはなかなかよかった。

・で、今年が4年ぶりの来日コンサートだったのだが、僕は行かなかった。関心がないわけではなかったが、河口湖に住んでいると、本当にライブ・コンサートや映画を見に行くのが億劫になる。しかし、音楽は家や車で聴けばいいし、映画はテレビで見ればいい。そのためのCDやビデオや衛星放送じゃないか。もともと河口湖に住むときにそう判断したのだからしかたがない。とはいえ、今回は行きたかった。

・ ディランはここ数年、いろいろと話題になっている。グラミー賞を取ったし、今年はアカデミー賞ももらった。ノーベル賞の平和賞にも、何度も名前が挙がっているから、たぶん近いうちに受賞するだろう。20世紀後半のポピュラー音楽の方向をつくった人、アメリカ文化の代表者、あるいはアメリカの良心などということばで褒め称えられている。ディランもそのような風潮に応えたのか最近、「世界自然保護基金(WWF)」のために自分の曲を無料で提供する、といったニュースも報じられている。しかし、「歌を歌い始めたころ、動物だけが僕の音楽を気に入ってくれた。今度は恩返しをする番」(朝日新聞より)は、わかったようなわからないような中途半端なコメントだ。

・僕はこのような傾向にあえて反対する気はないが、名声や伝説というフィルターでディランを扱うのはあまり好きではない。ディランがくり返し言っているように、彼は1人の歌うたい。古いブルースやフォークを好んでうたう姿勢を、もっと色眼鏡なしで受けとめたらいいのにと思うし、ディランもちょっと調子に乗り過ぎかなという気もする。

・たまに日本盤のCDを買うと、付録の訳詞にうんざりすることが多い。勝手な思いこみで、いい加減な訳をしているものが多すぎる。同様のことは解説にも言える。いっぱしの評論家気取りが思いつきでだらだらと書く。しかし、このアルバムの訳詞はしっかりしているし、解説も丁寧だ。訳者はおなじみの片桐ユズル、三浦久、中川五郎。解説は菅野ヘッケル。ロックは、英語ができることはもちろんだが、詩がわかって、音楽がわかって、解説や訳詞から、久しぶりに何かを得ることができた。

2001年5月21日月曜日

突然の死 桐田克利『苦悩の社会学』(世界思想社)


  • 17日の朝、大学の研究室に着くと、メッセージのない留守電がいくつも入っていた。しばらくして僕のパートナーから電話が来た。「桐田さんが今朝亡くなったって。」「えー、何だって、どういうこと?」折り返し世界思想社の中川さんに確認して、やっと事態はのみこめたが、それでもまだ、まるで実感がない。しかし、葬儀には行かなければならない。勤め先の愛媛大学に電話をして会場を聞き、彼と親しかった人たちに連絡をする。そんなことで午前中の時間が慌ただしく過ぎた。会議も授業もキャンセル。飛行機と宿の予約。夕方の便で松山に出かけることにした。
  • 僕と彼は院生の頃からの勉強仲間で、E.ゴフマンやK.バーク等の難解な英語の文章を何年も一緒に読んだ。ゴフマンの "Frame Analysis" は600頁以上もあって読むのに2年もかかったが、彼がいなかったら途中でやめていたと思う。とにかく勉強一途の人で、読書と思索以外にはまったく関心がないという感じだった。日の当たらない彼のアパートに行くと、部屋には畳も見えないほど本が散乱していて、とても上がりこむ気にはならなかった。だからいつでも近くの喫茶店に誘った。
  • 彼の関心はコミュニケーションや人間関係における優劣の問題、それも劣位にある者の心情。例えば、自殺した少女の日記、いじめ、病いに苦しむ者………。そこに強くアイデンティファイしながら的確な分析を丁寧にしていく。そのまなざしはいつも優しさに溢れていた。書き上げたらもうおしまい。関心はまったく別のことに。といった僕の気まぐれさとは違って、彼は一度書いた文章を何度も書き直し、しかもそれぞれのバージョンを全て、フロッピーに保存していた。「書き直したら、前のなんていらないじゃない。」と言ったら、彼はまるで大切な宝物をけなされたかのように反論した。寡黙で頑なだけどおちょくるとムキになる、おもしろい人だった。
  • そんな彼の仕事は1993年に『苦悩の社会学』(世界思想社)となって出版された。売れそうにないけど、いかにも彼にぴったりの題名だと思った。その本を、僕は松山に持っていくことにした。何度も読んだ(読まされた)文章だが、もう一度読みたいと思った。飛行機嫌いの僕には、とても集中して読める状況ではなかったが、突然の死と重ねあわせると、また違った印象を受けた。
  • <健康>な人びとは、日常を自分の死の隠蔽のうえで生きている。「死ぬのは他者であり、私は死なない」。<生命あるものには終わりがある>ということは一般認識であるが、私たちの日常的意識はその認識に裏打ちされてはおらず。無限の生を生きるものとして感じている。
  • 死に対する現代の一般的態度が死の否定による生の肯定であるとすれば、重い病に直面した時、人はその態度のゆえに苦悩せざるをえない。自分の死の自覚は、もはや自分のいままでの形での生がありえないということを前提にしている。その不安を誰もが程度差こそあれ、経験するにちがいない。死は寂しさを伴う恐怖の対象として実感される。特に、働き盛りの時に病に陥る人びとはそうである。
  • 告別式の始まる前に奥さんの弘江さんとちょっと話した。絶えず流れ落ちる涙にはれあがった顔をしながらも、時折笑顔を浮かべて、彼女は状況を説明してくれた。桐田さんは夜間部の授業の最中に倒れた。脳溢血で、朝までさまざまな処置が施されたようだが、意識は一度も戻らなかった。授業が始まる前に「これから授業だ」と電話をしてきたこと。だから倒れたと言われても、大したことはないのでは、と思ってしまったたこと。もう少し健康状態について気にかけてあげたらよかったと反省していること。4歳になる流生(りゅうき)君が、最近、かっちゃんと言って、母親よりは父親に近づきはじめたことなどなど………
  • 僕が流生君にあったのは3年前、四国を車で回った時に高松の自宅を訪ねた。(→)
    まだ1歳の赤ちゃんで、桐田さんは遅すぎてやってきた「父親」という役割に戸惑い気味だった。学生や同僚たちの涙や虚脱したような表情でつらい雰囲気の会場にいる4歳になった彼に、この事態はどの程度認識されているのだろうか。僕は朝、ホテルを出て愛媛大学まで歩き、彼の研究室の前まで行った。主が突然にいなくなった部屋。授業に出かけたまま彼は2度と戻らない………
  • 桐田さんが本に書いたのは、病いや劣位の状況に追い込まれて苦悩する人たち。その愛憎の感情や夢と悪夢、希望と絶望の間を揺れ動く心の軌跡、失墜の闇が彼のテーマだった。なのに、彼は、そんな境遇に陥ることなくあっさりとこの世とおさらばしてしまった。彼が置いていったのは後に残された人たちの心の中の空白。「桐田さん、こんな死に方は君らしくないね。不器用なあなたには似つかわしくない格好いい結末」。もっとしぶとく生きて、もっともっと仕事をして欲しかった。読書と思索ばかりでなく、弘江さんや流生君との生活を楽しんだり、煩わしい思いをしたり、悩まされたり、苦しんだりしてほしかった。
  • でも、それは誰より桐田さんの希望だったのだと思う。まだまだ仕事ができたのに残念です。
  • ご冥福をお祈りします。
  • 2001年5月14日月曜日

    オリエンテーション・キャンプ

     

    saiko1.jpeg・僕の所属する学部では、毎年、新入生を1泊2日のオリエンテーション・キャンプに連れて行く。主な目的は、学生同士の親睦で、これをやらないと、いつまでたってもうち解けた関係になれない学生が多いからだ。ここ数年は富士五湖の西湖が会場になっていて、僕は家が近いという理由で、今年の実行委員長にさせられてしまった。
    ・とにかくいろいろと委員をやらされているから、できるだけ手抜きでと考えた。しかし、去年も一昨年も参加して感じたのは、西湖まで出かけていってするスケジュールになっていないということ。ボランティアで手伝いをしてくれる学生たち(オリターと呼ぶ)とそんな話をしているうちに、キャンプ・ファイヤーやバーベキューをやろうということになった。4月に入ってから毎週、学生たちとキャンプの中味を検討。熱心な学生たちが出すアイデアにつきあって、委員会は毎回長時間になった。

    saiko2.jpeg・こんな予定ではなかったのに、と思ったが、学生が何かを積極的にやるという姿勢は最近めったに見かけないから、面倒くさがってもいられなかった。
    ・前回書いたように、僕はゴールデン・ウィーク中に体調を崩した。仕事を再開してしんどい一週間だったが、前日にした最後の実行委員会も無事済ませて一応準備はOK。キャンプ・ファイヤーや翌日の西湖散策につきあう体力があるかどうか不安だが、一応何とかなりそうなめどはついた。やれやれ………。
    ・当日は、本当に久しぶりの快晴。朝起きたときに窓から真っ青な空が見えるのはずいぶん久しぶりで、寝起きの感覚も久しぶりに気持ちがいい。これなら何とか勤まりそうだと思った。

    saiko3.jpeg・西湖に着いたのは4時過ぎ。全体会をして、夕食。そして7時からキャンプ・ファイヤー。1年生にはゼミ単位で仮装してジェンカを踊るという課題をだしておいた。しらけて何もやってこないのではという心配があって、新聞紙、段ボール、パンストなどを用意したが、予想に反して、仮装はなかなかのものだった。で、大きく燃え上がる火の勢いもあって、キャンプ・ファイヤーは最初から盛り上がった。アー、これなら大丈夫。ほっとした気がした。 ・ジエンカを踊った後にはソロで歌う学生がいたり、エレキギターを持ち込んでビートルズを歌う教員がいたりで楽しかった。学生たちはその後も、ホールに集まってビンゴやクイズのゲームなどで盛り上がった。教員たちは部屋に引き上げて慰労会。夜中に騒いだり、外出したりする学生もほとんどいなくて、その点でも大助かり。

    saiko4.jpeg・翌日は8時に朝食をとって9時からはいくつか用意したミニ講義や授業。僕は「西湖散策」を担当したが、希望者が多すぎて、半分はバスで「野鳥の森公園」に送り出す。で、残った学生を連れて、ちょっとだけ山登り。宿舎の北側には高い山が迫っていて、時折山崩れが起こる。それを防ぐ大きなダムまでが一応の予定で、時間にしたら30分ほどだった。すぐに弱音を吐く学生もいたが着いたらまだ物足りなそうな雰囲気で、それならちょっと冒険をと川原にくだって巨岩がごろごろするところをダムの中まで歩く。水は全然流れていないが足場を気をつけなければ滑ってしまう。「ワー、こわ」とか「キャー」とかいう学生もいるが楽しそうで、次には堤防の上まで登る。空は真っ青、山は新緑、眼下には西湖、遠くに富士山。一人前の山歩きをした気がして満足そうな顔。じゃー、これで下に降りましょう。

    saiko5.jpeg・最後はバーベキュー。飯盒炊さんのまねごともして終了。1時半にバスが出発して、僕の役目もすんだ。オリターをしてくれた学生さんたちは本当に頼もしくて、1年生も積極的だった。実行委員は慣例で行くと3年間やる事になっているらしい。今回だけでかなりくたびれたから、もう来年は交代して欲しいところだが、たぶんそれは無理だろうから、来年は今回と同じスケジュールで、事前のミーティングなどは極力簡略にしたいと思う。それにしても、大学の先生も体力がなければつとまらない仕事になった、とつくづく感じた。いったいいつまでもつことやら。

    2001年5月7日月曜日

    最悪のゴールデンウイーク

     

  • 今年のゴールデンウィークは9連休。どんなふうに過ごそうかと思っていたら、初日から熱が出てダウン。咳が出て体がだるい。で2日ほど寝たり起きたりの生活をしていたら、腰痛も再発した。こうなると、寝ててもしんどいし、もちろん起きていてもしんどい。クスリはなるべく飲みたくないから、コーヒーにオレンジ・ジュース、お茶と絶えず水分補給をする。しかし、3日経っても4日経ってもすっきりしない。口の中がまずくて、何を食べてもおいしくないし、空腹感がない。アー、シンド、アー、退屈………
  • 熱など出したのは何年ぶりか、思い出せないほど久しぶりで、近年は風邪もひいたことがなかったから、何もしないでボーとしていることに慣れなかった。しかし、ナイフやノミを持つ気はしないし、パソコンをつけても目眩がしてしまう。もちろん外に出るなどもってのほかで、ベッドでうとうとするほかはなかった。眠くなくてもベッドに寝ている時には本でも読むしかない。で、枕元に並べたのはP.オースター。実は、この夏休みにものにしたいと思っている好きな作家で、すでに書評にも何度か取り上げたことがある。
    →『リヴァイアサン』
    →『偶然の音楽』『ルル・オン・ザ・ブリッジ』
    →『スモーク』『ブルー・イン・ザ・フェイス』
  • 熱があるときは、やっぱり読書もしんどい。しかし、オースターの小説は、こんな時でも妙に引き込まれる。『シティ・オブ・グラス』『幽霊たち』『鍵のかかった部屋』。これはニューヨーク三部作と呼ばれるが、前の2冊は探偵の主人公が人を見張る話。そして見張るうちに怪しくなるのが何より自分自身の存在ということになる。探偵とは自分を透明にして目的の相手に近づこうとする職業である。その透明な存在は、目の前で出来事が次々起こってはじめて、生きてくるのに、何も起こらなかったら、本当に自分自身の存在自体が危うくなってきてしまう。それで依頼者が何も言わないとしたら、いったい自分は何をやってるんだと自問自答せざるを得なくなる。依頼の趣旨がはっきりしない。これといった仕事が何もない。そこではっきりしているのは、自分が姿を隠しているという事実だけである。
  • 『鍵のかかった部屋』は失踪した友人の残した原稿を出版する作家が主人公で、彼は友人の奥さんに恋をし、彼の伝記を書こうと懸命になる。これは自分を友人の立場に限りなく近づける行為で、いわば「分身」のドラマだが、自分の存在があやふやになることでは「透明」と共通している。友達に成り代わろうとする自分と、自分であろうとする自分の葛藤。あるいは逆に友達に乗り移られてしまいそうになる不安。
  • 「分身」と「透明」と言えば、それは清水学さんの 『思想としての孤独』のキーワードだった。自分はいったい誰であるのか、と問いかけはじめた瞬間から、誰もが、自分の存在の不確かさやあやふやさに悩むようになる。自分がこの世界でかけがえのない、たった一つのユニークな存在であること、そうなるように努力すべきであること。それは欧米の近代社会が作りだしたフィクションだが、そこにとらわれた人間は必ず、また自己の「透明」さや「分身」と戯れ、悩まされることになった。まさに根源的な「ジレンマ」あるいは「パラドクス」
  • オースターの小説の主人公は、自分を分身にしてしまう、あるいは分身に乗っ取られたままにさせておくといった状態を受け入れながら、何の意味もない、何の役にも立たない行為に自身をを没入させ続ける。それこそ寝食を忘れ、他人や社会の存在を無視してのめり込む世界。主人公はやがてそこに奇妙な達成感さえ持つようになる。読みながら不思議な共感を覚えるが、それはまた、最近話題の「引きこもり」とはどこかが違う気もする。
  • 僕は結局、休みのほとんどを家に閉じこもって過ごす羽目になった。その間、同居人はクラフト・フェアやグループ展で出かけることが多かったから、僕はほとんど一人だった。誰にも会わず、何もしない10日間。体調はどうやら戻りつつあるが、外の社会へ出かけていくのがまた億劫になった。このまま「引きこもり」を続けたら、どうなるかな?なんて、オースターの小説を実践してみたい気が芽生えてしまった。それにしても、千客万来で忙しかった去年とはまるで違う、今年のゴールデン・ウィークだった。