2018年3月26日月曜日

退任記念号が出ました

 

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・東京経済大学コミュニケション学部の紀要『コミュニケーション科学』で、僕の退任記念号が出ました。従来の形式とは違い、経歴・業績の一覧表や写真はやめて、主な著作についての書評集にしました。この点については異論もあったのですが、学部長や編集委員の先生に尽力してもらい、僕のわがままが実現しました。記念号に寄せて書いて頂いた方、書評をしていただいた方々には、感謝いたします。内容は以下の通りで、大学のホームページで読むことができます。

渡辺潤教授退任記念号


・渡辺潤教授の退任記念号に寄せて......................................柴内康文
・この最後の非俗派書斎人!「森の生活」が似合う....................田村紀雄
・渡辺潤さんの「私社会学」...................................................井上俊
・渡辺潤ゼミ解体試論―感謝の言葉の代替としてのゼミ研究指導紹介―.................三浦倫正
・書評集について............................................................渡辺潤
・『ライフスタイルの社会学―対抗文化の行方―』....................佐藤生実
・『私のシンプルライフ』...................................................伊藤明己
・『メディアのミクロ社会学』............................................伊藤守
・『メディアの欲望―情報とモノの文化社会学―』.....................加藤裕康
・『アイデンティティの音楽―メディア・若者・ポピュラー文化―』...............南田勝也
・『〈実践〉ポピュラー文化を学ぶ人のために』.........................瀬沼文彰
『ライフスタイルとアイデンティティ―ユートピア的生活の現在,過去,未来― 』................宮入恭平
・『コミュニケーション・スタディーズ』..................................山中雅大
・『「文化系」学生のレポート・卒論術』.................................勝又雄
・『レジャー・スタディーズ』............................................吉成順


・この退任記念号の発行にあわせて、執筆していただいた方々を中心に集まりがありました。時節柄それぞれに予定があって、集まっていただいた人は半分ほどでしたが、和やかな時間を過ごすことができました。会場は最後の学生だったY君の父親が営む店で、たくさんの料理を用意していただきました。最後に花束と、車に乗るときに使う手袋をもらい、感謝、感謝の1日でした。すでに退職から1年経ちましたが、これで公的な行事はすべて終わりです。

・人生にはいくつもの場があって、それぞれ幕が開き、そして引かれます。退職というのが、これほど多くの儀式やイベント、そして文書を伴うものだということを、改めて実感しました。もちろんこれで、人生が終わったわけではありません。幕引きはまた、次の幕開けに繋がります。さて次の場では、どんな舞台が展開されるのか。超高齢化社会の到来のなか、新しい生活、新しい人間関係において、さまざまな問題に直面することになるだろうと思います。それはすでに、僕の周辺でも起こっていることでもあります。

車と音楽

 

carnavi1.jpg・新しい車になって、最近の車の進化について驚いている。アクセルとブレーキの踏み間違いといった誤作動防止、渋滞時や高速道路を巡航するときの自動運転、雪道などで四輪それぞれが動いてスリップを最小限にすることなどである。カメラが前後左右に着いていて、バックの時はもちろん、狭い道を通るときの左右の状態を確認することもできるようになった。運転がますます車任せになる。そういう心配もあるが、高齢者の運転を手助けすることは確かだから、僕にとってはありがたい進化だと思う。

・同様の驚きはカーナビとカーステレオにも感じた。ナビとオーディオの一体化は、主にパートナーが使ったスバルXVからだが、僕が主に乗る車に純正のカーナビをつけたのは今回が最初で、これまでは取り外しができる「ゴリラ」をずっと使ってきた。オーディオはAUXにiPodや使わなくなったスマホを繋いで利用してきた。CDが複数枚入れられたが、ほとんど使うことはなかったし、MDなどは無用の長物だった。

・スバル・アウトバックは純正として、これまでマッキントッシュやハーマンカードンといったアメリカの音響メーカーを採用してきた。それはそれで興味があったのだが、買った車にはそれはなく、他に選択肢がなかったから、ディーラー・オプションとしてあった三菱のダイヤトーンをつけた。CDはもちろんだが、DVDで映像を見ることもできるし、SDカードもつかうことができる。しかし何よりの売りは、iPhoneを繋げば、音楽だけでなく、GoogleMapをカーナビとしても仕えるというものだった。

・IPhone接続には専用の接続ケーブルがある。しかし、そのほかにもBluetoothでもWifiでもつなげることができる。いろいろ試してみたが、接続ケーブルにiPodを繋げることにした。で、肝心の聴き応えだが、今までとはかなり違うものだった。音そのものが違うこともあるが、エンジン音が静かで、風きり音やロードノイズも気にならないから、高速道路でも、ボリュームを上げなくても聴くことができた。

・もちろん音は、座席によってずいぶん違う。前席で聴き応えのある設定をすると、後ろに座るとうるさいほどになる。と言って全体のスピーカーを同じボリュームにすると、運転席からは音が前や横からだけからしか聞こえてこないようになってしまう。後席に人を乗せることは少ないから、前席優先の設定にしてるが、後ろに人を乗せたときには、ボリュームを絞らなければならない。

・と言うわけで、運転しながら音楽を聴くことが、今まで以上に楽しくなった。長距離通勤をすることはなくなったが、時折、長距離の運転をすることがあって、その時には、ランダムに選曲する設定にしておくと滅多に聴かないものが聞こえてきたりする。何しろ四国遍路の時には、2週間で3000kmを走って、毎日の大半を車の中で過ごしたのだ。今日は何を聴くか。そんなことが、毎朝走り出す前に考えることになった。

・iPodは120ギガで手持ちのCDのほとんどが入っている。ジャンルを作っているし、アーティストやアルバムで選択することができる。しかしどうしても同じものになりがちだから、時にはアット・ランダムで聞き始めることもある。何しろiPodには16000曲も入っているから、選んでいたのでは全く聴かない歌や曲が眠ったままになっている。懐かしいものはもちろんだが、なんだかわからないものが聞こえてきて、何か、誰かを確かめることも少なくない。新しいものを増やすよりは、忘れていたものを聴き直すのもいい。そんな気にもなっている。

2018年3月12日月曜日

政権が倒れない不思議

 

・将棋であればとっくに詰まれているのに、いつまでも見苦しくてずるいゲームを続けている。もう見たくもない、聞きたくもないと思うが、こんな政権は一刻も早く、倒さなければならないから、ニュースにはずっと関心を持ち続けている。「森友問題はもう飽きた」などと思っては、絶対にいけないのである。

・この政権、というよりは安倍首相自身が関わる問題は数多い。森友、加計、山口某の準強姦事件もみ消しとスパコン助成金詐欺事件、JR東海のリニア建設にまつわる談合等々、次から次へと明るみに出てきた。その国会での追及については、官僚に嘘を言わせ、公文書を偽造し、知らぬ存ぜぬを決め込んでいる。そもそも、追求を回避するために、国会を開かないこともしてきた。自分の周りに警察・検察官僚を置いて、司直の手が及ばないようにする。御用ジャーナリストを侍らせて、批判を抑える役割を担わせる。タレントやスポーツ選手を使って世間の目を逸らせ、世論を操作する。宣伝や情報の管理はしたたかである。

・そんな問題がありながら、これまでに「秘密保護法」「安保保証関連法」(戦争法案)「共謀罪」などを強行採決して成立させてきた。そして今「働き方改革」と称した「働かせ改革」を成立させようとしている。しかもここでも、根拠になるデータの改竄が明るみに出ている。働く人ではなく、企業にとって都合のいい法律を作って、好き勝手に働かせることができるようにしようとしているのである。

・そんな政権の支持率が50%前後あるというのだから、信じられないし、あきれてしまう。ここにはもちろん、メディアの批判が弱かったり、そもそも話題にしないといった姿勢がある。「働かせ改革」の怪しさがはっきりしても、森友問題に関わる公文書の偽造が指摘されても、テレビは平昌オリンピックに大騒ぎして、国会での追及などは、ほとんど話題にもしてこなかった。

・そのオリンピックをきっかけにして韓国と北朝鮮の関係が好転し始めている。強硬姿勢を示してきたトランプ大統領も、関係改善には好意的である。しかし、安倍政権は、そんな流れに批判的なままである。このままでは、日本はこの問題について、蚊帳の外に置かれてしまうだろう。外交政策における無策ぶりは、この政権の大きな特徴だが、これについてもメディアは強い批判をしてこなかった。アメリカ追随のアメポチ外交だが、そのアメリカに袖にされるのは目に見えている。

・安倍首相が「働かせ改革」を成立させた後に目論んでいるのは、「憲法改悪」である。9条に自衛隊を存在を明記させることが主たる狙いのようだが、そのほかにも緊急事態が起きた時に政府の権限を強化させ、私権を制限するといった事項が取りざたされている。憲法はそもそも、権力の暴走を防ぐために作られたもので、それを「立憲主義」というのだが、自民党の草案は、逆に国民を縛るという時代錯誤的な内容になっている。

・国会は衆参ともに自公が多数を占めていて、強行採決すれば国民投票にまで持っていくことは可能である。そしてその国民投票も、テレビなどを使った広告が歯止めなくできるようになっている。その重責を担うのは、過労死で問題になった電通だと言われている。

・このまま行ったら日本はどんな国になってしまうのか。安倍政権が誕生してから、そのことを危惧して、このコラムでもくり返し書いてきた。状況はますます悪くなっているのに、なぜ、この政権は倒れないのか。去年の政権支持率降下の際には衆議院解散と民主党分裂で危機を回避したが、今度の「働き方改革」におけるデータ改竄という問題と、「森友」の公文書偽造といった問題が、安倍政権の終末になるのかどうか。ここは、日本の将来を大きく左右する曲がり角になるのだと思う。

・と、ここまで書いたら、近畿財務局の職員に自殺者が出た。佐川国税庁長官も辞任をした。麻生財務相の会見はひどいものだったが、「有無」を「ゆうむ」と読んで「みぞうゆう」と同じ誤りをくり返した。安倍首相は3.11で福島に出かけたようだ。さて、今度こそ、政権が倒れることになるのではないか。そうでなければ、この国はますます腐ってしまう。

2018年3月5日月曜日

「そうですね」に違和感

 

・15日間の四国遍路の旅から帰ってきた。四国をぐるっと一周しておよそ3000kmを走ってきた。ずいぶんと時間がかかったが、八八カ所の寺以外の観光地はほとんど素通りだった。朝8時過ぎに出発して、午後の3時過ぎに宿泊先にチェックイン。ほぼ毎日、そんなスケジュールだった。宿の部屋に落ち着くと、一風呂浴び、明日のコースを確認して夕食。後は襲ってくる眠気のなかで、テレビを見るのが日課になった。

・折からテレビは平昌オリンピックばかりで日本人選手の活躍をくり返し伝えていた。「日の丸」「メダル」ばかりに注目し、大騒ぎするのは相変わらずで、見ていてうんざりすることが多かったが、メダルを取った選手も、取れなかった選手も、インタビューを受けたときの第一声が「そうですね」で始まるのが気になった。誰もがそうであることと、質問されるたびにまた「そうですね」とくり返されることに、奇妙な違和感を持った。

・もっとも、「そうですね」が気になったのは、今回が初めてではない。それは浅田真央の決まり文句で、何で「そうですね」から始めるんだ、と疑問に思ったことがあったからだ。それがこんどは、すべての選手に伝染している。選手のなかでの流行語だといってもいいかもしれない。銅メダルを取ったカーリング女子は「そだねージャパン」で話題になって、それがまたくり返し流された。

・「そうですね」は、相手の話に対する肯定の応答語である。だから、質問されて、「そうですね」と応えるのは、「肯定の応答語」ではなく、自分のなかで応えをさがすときに出ることばだと言える。質問に対してしばらく考えるときに出る「そうだなー」とか「うーん」とか「あー」に近いことばだろう。しかし選手の口から出る「そうですね」には、考えるために必要な時間を稼ぐといったニュアンスはない。きわめて機械的に出されるように感じられることばだった。

・なぜ、インタビューでの返答が、「そうですね」から始まるようになったんだろう。そんなことを疑問に感じて思ったのは、やっぱり、昨今のコミュニケーション力についての言説にありがちな、相手に対する丁寧な応対のつもりなんだろうというものだった。しかしそれは、日本人だけにありがちなもので、質問への返答が「そうですね」から始まったら、外国人のインタビューアは奇異な感じを持ってしまったことだろうと思う。

・さらに、みんながみんな「そうですね」から始めたことには、事前にインタビューについての答え方について、レクチャーを受けたのではと勘ぐりたくもなった。何しろ今は、大学の入試や就職試験の面接はもちろん、仕事やつきあい上の応対の仕方について、こまごまと、あーしろ、こうしろといったことが説かれることが多い。不祥事があってテレビで会見するときの様子が、どんな事例、どんな組織であっても、同じように陳謝し、同じように頭を深々と下げる。そのやり方は、テレビ局や広告会社が事前に指導するものである場合が多いという。

・しかし、丁寧に、謙虚にやればいいというものではないだろう。しかもみんながみんな同じものだと、それは慇懃無礼だというものである。つまり「言葉や態度などが丁寧すぎて、かえって無礼であるさま。あまりに丁寧すぎると、かえって嫌味で誠意が感じられなくなるさま。また、表面の態度はきわめて礼儀正しく丁寧だが、実は尊大で相手を見下げているさま。(新明解四字熟語辞典 三省堂)」に聞こえてしまうということだ。もっとも、「そうですね」と言っている選手たちには、そんな意識はないだろう。また、テレビを見ている多くの人たちにも、そんな意識を感じる人は少ないかもしれない。

・本来のことば使いとは違う、馬鹿丁寧な言い方が、コミュニケーション力として必要なものであるかのように思われ、当たり前のように使われるようになった。そんなことに違和感を持つことが少なくないが、「そうですね」はやっぱり、その典型のように思った。