2004年12月30日木曜日

目次 2004年

12月

30日:目次

28日:内田樹『「死と身体』( 医学書院)

21日:Merry X'mas!!

14日:デブラ・ウィンガーを探して

7日:冬の収穫

1日:柏木博『「しきり」の文化論』

11月

24日:早川義夫『言う者は知らず 知る者は言わず』

16日:Love on line

8日:何でブッシュなの?

1日:井上俊『武道の誕生』吉川弘文館

10月

26日:台風の残したもの

19日:REM, Tom Waits and Mark Knopfler

12日:テレビ取材体験記

5日:中沢新一『カイエ・ソバージュ』( 講談社選書メチエ)

9月

28日:息子の結婚式

21日:故障で大慌て

14日:ガビ鳥と薫製

7日:鷲田清一『ことばの顔』(中公文庫)

8月

31日:"Rock against Bush"

24日:何とも奇妙なプロ野球

17日:秋田・岩手

10日:思案中

2日:三田村蕗子『ブランドビジネス』

7月

27日:河口湖も暑い!

20日:「ドニー・ダーコ」

13日:Erick Satie "Gymnopedies"

6日:Ah, Nomo!

6月

29日:佐藤直樹『世間の目』光文社

22日:庭作りを少しずつ

15日:ドミニク・モル監督「ハリー、見知らぬ友人」

8日:知人から届いた2冊の本

1日:八杉佳穂『チョコレートの文化誌』(世界思想社)

5月

25日:Lou Reed"Animal Serenade"Patti Smith"trampin'"

18日:風景が緑に変わった

11日:月尾嘉男がカヤックでホーン岬に行った

4日:布施克彦『24時間戦いました』(ちくま新書)

4月

27日:ウィルス、ジャンク、新研究室

20日:身内と世間、イラクの人質事件について

13日:"Gracias A La Vida"

5日:岩渕功一『グローバル・プリズム』(平凡社)

3月

29日:春の湖

22日:春の房総半島

15日:セディク・バルマク『アフガン・零年』

8日:斉藤環『心理学化する社会』(PHP)

1日:Youssou N'dour

2月

16日:野村一夫『インフォアーツ論』(洋泉社)

9日:マイケル・ムーア 「ボウリング・フォー・コロンバイン」

2日:氷の世界

1月

26日:年賀状の憂鬱

19日:CDの値段

12日:2003年度卒論集「教授!話が違います!!」

5日:富士を見る、富士から見る

1日:ダイヤモンド富士

2004年12月28日火曜日

内田樹『死と身体』(医学書院)

 

uchida.jpg・ぼくは、内田樹の本が出るのを楽しみにしている。彼はレヴィナスやラカンを読み解く哲学者だが、おもしろいのは、それを土台に使った皮肉で明解な世相の分析だ。
・たとえば、『寝ながら学べる構造主義』(文春新書)という本がある。レヴィ=ストロースの構造主義は難解で近づきにくいと言われるが、それを「みんな仲良くしようね」という仕組みの分析なのだと一言で説明する。そう言われれば確かにそのとおりで、構造主義の基本概念は「贈与」や「交換」で、ものやことばのやりとりをして人びとが争いを避け、仲良くつきあう、その社会の構造を解きあかそうとするものだ。
・彼は、難解な文章には、そうとしか書けないわけがあると言う。だから、わからないままに頭だけでなく身体で覚えるようにじっくり読み込んでいく。そうすると難しく書く理由がわかってくる。もっとも、一方で専門書には「衆知のように」とか「言うまでもなく」といったことばが多用されて、素人にはわからない話であることを気取る文章が少なくない。そしてそういうものに限って、内容は深遠でも、広大でもなかったりする。内田樹の文章はその対極にあって、難しい話をわかりやすく書く。これは本当にわかっていないと、あるいはわかろうとして苦労しないと書けない文体だと思う。
・『死と身体』は講演の記録である。私という存在、その心、あるいは脳と身体の関係、身近で一般的な他者、そして、そして死者との関係について、人びとのする常識や最近の傾向について疑問を投げかける。あらかじめ原稿を用意するのではなく、いくつかの話題だけをもって、後は聞き手の反応や自分のアドリブに任せて話を展開する。だから、話は突然飛躍するが、それがまた新鮮な印象を与えたりもする。
・若い世代の人たちにコミュニケーションが不得手な人が増えているのはどうしてか。反対に、思春期の口ごもりを特徴としていたはずの子どもたちが、すらすらと自分のことを喋ったりするのはなぜか。自分の身体に傷をつけたり、他人をとことん虐めたりする感情は何に原因があるのか。内田が力説するのは社会における「交換」の軽視、あるいは喪失である。
・人は他者と共に生きる。そしてその他者は、基本的にはわからない存在だ。わからないものは恐ろしい。だから「交換」をして敵意がないことを積極的に示そうとする。その最たるものが死者との関係で、人は死者を自覚した瞬間に、猿から人間になったはずなのである。
・わからない他者とうまく関係を持とうとするところに、コミュニケーションが生まれる。そこが軽視され、ごまかされている。何より、他者は私の中にいて、それとぶつかり、折り合いをつけるのが思春期のはずだった。関係は、わからなさとつきあうことで深まるが、表面上のパターン化されたやりとりがそれを疎外する。この本を読むと、そんな自分の、あるいは周囲の人づきあいの仕方がよく見えてくる。

(この書評は『賃金実務』12月号に掲載したものです)

2004年12月21日火曜日

Merry X'mas!!

 




2004年が終わろうとしています
今年を象徴する字は「災」
嫌なことばかりあった年として記憶にのこり
語り継がれるのかもしれません
イラク戦争の泥沼化、日本人の人質と自己責任論
猛暑、台風、そして中越地震
誘拐、殺人、放火、あるいは幼児虐待
先生の痴漢やセクハラ事件もずいぶん多かったようです
こう並べると、本当に暗くなる感じがします
そういえば、音楽もスポーツもおもしろくなかった
野茂と中田が不調で興味半減
プロ野球の身売りや合併は当然の結果ですが
旧態依然の体質や発想はなかなか改善されません

しかし
個人的にはいいこともありました
長男の結婚、次男の就職
親の責任は一応果たしたと思いました
あとは自己責任です
『<実践>ポピュラー文化を学ぶ人のために』(世界思想社)がもうすぐ出版されます
若い人たちとの仕事は大変でしたが、楽しくもありました

来年がもっといい年でありますように
Merry X'mas and Happy New Year!! 
 


2004年12月14日火曜日

デブラ・ウィンガーを探して

 

・ここのところ落ち着いて映画を見る暇がなかった。学生の書いた文章が山のようにあって、読みたい本も後回しの毎日で、当然たまるストレスの発散や運動不足の解消には、もっぱら外に出て薪割や倒木集めに精出した。しかし、卒論が一段落したところで、しばらく忘れていたWowowの雑誌を開けると、前から見たいと思っていた映画がいくつも目についた。「8マイル」「デブラ・ウィンガーを探して」「フル・フロンタル」「くたばれハリウッド!」、あるいは「エンジェルス・イン・アメリカ」などなど。
・「8マイル」はラップ・ミュージシャンのエミネムが自ら主演する自伝物語だ。ラップはアメリカのスラム街から若い世代の黒人の主張として始まった。エミネムは白人ではじめて成功したラッパーで、肌が白いから偽物と言われたりするのだが、映画を見ると、彼の生い立ちは黒人達よりも貧しく悲惨だったようだ。R&Bをロックンロールに変えたエルビス・プレスリーに重なる話でおもしろかった。聴いていてもことばがわからないラップにはいまひとつ馴染めないのだが、映画を見てバトルがどういうものなのかよくわかった。8マイルはデトロイトに住む白人と黒人の距離で、エミネムはそこを飛び越えて大ブレイクしたというわけだ。
・「デブラ・ウィンガーを探して」「くたばれ!ハリウッド」「フル・フロンタル」はハリウッドをテーマにしていて、前2作はドキュメントだ。どの作品にも共通しているのは、華やかな世界の裏話とスターやプロデューサーの浮沈と内面の苦悩である。
・「くたばれ!ハリウッド!」は斜陽のパラマウント映画を再生させたプロデューサーであるR.エヴァンスの物語だ。「ゴッド・ファーザー」「ある愛の歌」「チャイナタウン」「ローズマリーの赤ちゃん」などをヒットさせたエヴァンスは「ある愛の歌」のヒロインであったアリ・マッグローと結婚する。飛ぶ鳥を落とす勢いの70年代、そして凋落の80年代。「フル・フロンタル」はソダバーグが監督している。彼は「セックスと嘘とビデオテープ」でデビューしているが、「フル・フロンタル」はドキュメントタッチで現代のハリウッドを描きだしている。解雇、浮気、恋愛と肌の色の違い。
・しかし、一番おもしろいと思ったのは「デブラ・ウィンガーを探して」だった。なじみの女優達がたくさん出てきて、監督した女優のロザンナ・アークエットのインタビューを受ける。彼女たちが話すのは、結婚、子育て、あるいは離婚の経験と、それによって味わった女優という仕事に対する迷いや悩みである。
・ハリウッド女優に望まれるのは何よりセックス・アピールで、それは若さの代名詞でもある。だから30代になり、40代が近くなれば、依頼される仕事は少なくなる。といって、地味な母親役には気乗りがしない。またこの年齢になれば、結婚や出産、そして子育てといった役割を実生活で担うようになって、仕事と家庭生活の板挟みに苦慮することにもなる。
・たしかに映画の中では、30、40代は中途半端かもしれない。50代、60代になれば、それなりに年輪を重ねた重厚な演技や枯れた役割が要求される。主演でちやほやされた人たちには地味な脇役は気が進まないだろう。長く生き残るかどうかの節目にあたる年代なのだろうと思う。
・しかし、ここでも問題はジェンダーにあるようだ。中年世代でも男であれば、それなりの主演映画に出るチャンスはいくつもある。しかし女には少ない。だから、老年世代になれば、存在感のあるスターは圧倒的に男優ということになる。映画がまだまだ男中心に作られている証拠で、年齢に相応した役柄で女優が映画に出演するためには、女のプロデューサーや監督、そして脚本家の登場が望まれるのだという。
・とはいえ、現実には、ハリウッド映画はますます若い世代、あるいは子供向けの作品を作る傾向にある。中年の女が抱える問題をテーマにした映画がハリウッドで可能なのだろうか。この映画に登場した女優達は口を合わせて、テレビドラマへの出演に拒絶反応を示した。アメリカでは相変わらず、テレビ俳優は二流なのだろうか。その作品の質はともかくとして、日本とは異なる状況だと思った。

2004年12月7日火曜日

冬の収穫

 

・今年の冬は暖かい。とはいえ、12月になったら、最低気温が零下になった。広葉樹は大半が葉を落として、山の色は茶色に変わった。風が冷たくなり、空気が乾いてくると、空は抜けるように青くなる。夜には満天の星屑だ。通勤の朝は真っ青な空を見て車に乗り、夜、帰宅すると星空を見上げる。ちょっと前までは朝霧が立ちこめていたが、それも今はない。

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・富士山は10月には冠雪があり、今では上の4割ほどが白くなっている。その冠雪し始めたばかりの頃に、御殿場口から車で行ける太郎坊まで登ってみた。江戸時代に噴火した宝永山が左にあって、この角度からの富士山は美しくない。頂上の幅も広いから、ここまであがると台形のようになってしまう。残念ながら駿河湾も霞んでよく見えなかった。

・週末になると家から見えるすぐ近くの山でハングライダーが飛んでいる。前から気になっていたから、そこまで登って見ることにした。上まで林道があると思って出かけたのだが、途中で出会った猟師さんに道がちがうといわれてしまった。しかし、尾根伝いに真っ直ぐ登れば行けるというので、道があるようなないような尾根を真っ直ぐ登った。木がびっちりで鬱蒼としているから、頂上はいつまでたっても見えない。ほぼ直線の登り坂にくたびれて、途中で何度もあきらめかけた。けれども、引き返すのもシャクだから、何とかがんばって頂上まで。平日でハングライダーをする人はいなかったが、眺めは素晴らしかった。残念ながら雲が出ていて富士山は見えなかったが、雲の様子はなかなかのものだった。

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・毎年のことながら、紅葉の季節が終わると観光客の姿は少なくなる。もっとも、11月28日にあった河口湖マラソンには8000人の参加者があったそうだ。今年で29回目。湖畔道路一周が20キロだから二周する。毎年見に湖畔まで出かけているが、参加者が増えて、今年はランナーの切れ目なしに二周目のトップがやってきた。もう人数的に限界だという気がする。仮装ランナーが少なくておもしろさも今一つだった。

・今年の薪ストーブの焚きはじめは11月の中旬だった。まだそれほど寒くはなかったが待ちきれない気持で火を入れた。家全体がじわっと暖まるいい感じだが、木は貴重品でむだ使いはできない。そう思っていたら、湖畔で思わぬ大量の収穫があった。新しくできたトンネル近くに荒れ放題の空き家がある。その入り口にきれいに長さを揃えた木が一山。その他に長いままの木が10本ほど。本当にヨダレもので、さっそく車に積み込んですでに5往復ほどした。

・全部の木を手に入れれば、おそらく二冬分はたっぷりある。しかし、チェーンソーで切り刻まなければならないし、太い幹の部分は、車に入れるのも大変だ。持ち主に断ったわけではないから、何となく気が引ける。もっとも誰のものなのかはよくわからない。そんなわけで、時間を見つけてはすこしずつ運ぼうと思っている。

2004年12月1日水曜日

柏木博『「しきり」の文化論』

 

sikiri.jpg・「しきり」は、それほど頻繁に使われることばではない。「しきり」「しきりなおし」など、相撲用語といってもいいかもしれない。しかし「しきる」は人間にとって、あらゆる意味で本質的なものである。
・「わたし」と「あなた」、「私」と「公」、家の内と外、市境、県境、国境。現在、過去、未来。昨日、今日、明日。あるいは一日、一時間、一分一秒。私たちは空間や時間をしきり、そこに違いをつけ、流れや関係を自覚する。それではじめて、形も大きさも長さもはっきりする。その意味では「しきり」は人間学や文化論の基本的なテーマだと言ってもいい。
・住居にはかならず、壁があり、屋根があり、窓があり、また扉がある。家の外には庭があり、庭の周囲には塀が張りめぐらされる。その仕組みはもちろん自然環境に影響される。暑いところでは風通しよく、寒いところでは逆に、冷気を遮断するように作られる。けれども、住まいの形はそれだけで決まるわけではない。
・アメリカの郊外住宅には塀はめったに見られない。対照的に日本の住居にはかならず塀が巡らされる。それを開放的と閉鎖的という国民性の違いとして見るのはあまりに単純だろう。外に対してはっきりした「しきり」をつくらないのは、「私」と「公」の区別がはっきりしているからで、日本の住居に塀が欠かせないのは、それがはっきりしていないせいではないかと著者は指摘する。
・もちろん、違いはそれで説明しつくされるわけではない。アメリカの郊外住宅は、郵便番号によって人種や学歴、あるいは収入がわかるほどに区分けされているのだという。しかも、近隣の人を招いてのホーム・パーティも盛んなようだ。どこの誰かわからない怪しい人影を警戒する必要は、事前に取りのぞかれているというわけである。一方で日本はというと、地縁・血縁の関係が崩れて都市化した住宅環境には、新しい自発的な関係が生まれにくかった。
・住居は「私」と「公」を区別する。しかし、日本における住宅やそこに持ちこまれた家財道具の変容は、「私」空間をさらに細分化する「しきり」にもなった。リビングと寝室の区分け、子ども部屋、そしてそれぞれに置かれたテレビと電話、あるいはパーソナル・コンピュータとケータイ電話。日本人の生活の仕方とそこに生まれた「しきり」をあらためてみつめると、戦後の日本人が家族内個人主義をめざして突っ走ってきたことがよくわかる。
・個人主義は「私」と「公」を区別するだけの考え方ではない。むしろ、そこを前提にした上での人間関係の持ち方や、「公」に対する姿勢や行動にこそ力点がおかれるべきものである。著者は、現在の日本人の「しきり」の作り方に、他人を配慮しない個人主義を感じとり、新しい住居の発想や、ホーム・パーティの流行なども紹介している。たしかに「しきり」に対する無自覚さと、それがもたらした問題を考え直す必要があるのだと思う。

(この書評は『賃金実務』11月号に掲載したものです)