2003年7月28日月曜日

フィールド・オブ・ドリームズ


たまたま合わせたチャンネルで『フィールド・オブ・ドリームズ』をやっていた。もう何度も見ていて、原作も読んでいるのに、やっぱり、最後まで見てしまった。しかもまた、おなじみの場面、おなじみのセリフに、にっこりしたり、ジーンときたりして………。これはひょっとしたら、僕が一番好きな映画かも知れない。見ながらそんなことを考えた。
・なぜ、そんなにおもしろいのか。メジャー・リーグの話だから?伝説の選手、たとえば、シューレス・ジョーが出てくるから?あるいは『キャッチャー・イン・ザ・ライ』のサリンジャー(映画では別の設定)が登場するから?アイオワのトーモロコシ畑に野球場を造るから?ケビン・コスナー? W.P.キンセラの書いた原作(『シューレス・ジョー』文春文庫)がいいからか?
・答えはたぶん、全部だろう。すべてが合わさって、アメリカの良さ、魅力がつくりだされている。野球に文学、それに政治、あるいはカウンター・カルチャー。現在はもちろん、60年代の臭いもするし、20年代の面影も描きだされている。
・話は、主人公が聞くお告げに従って、野球が大好きな往年の名選手、夢やぶれてメジャー・リーガーになれなかった者たちに球場を造り、そこに来るべき人を捜して、連れて来るというものだ。主人公のケビン・コスナーは借金をしてトウモロコシ畑を球場に変える。するとトウモロコシ畑から往年の名選手が現れて練習をし、試合を始める。それを家族で眺める。
・この映画を見ると、つくづく、アメリカの魅力は野球の魅力だと思う。力が勝負の世界。だから今、世界中から自分の実力を信じて大勢の選手がメジャー・リーグを目指す。もちろん、夢が実現するのはごくわずかだが、夢が叶わなかった者にも、一つの「物語」が生まれる。「フィールド・オブ・ドリーム」は、往年の名選手とはいえ球界を追放された者、途中で挫折した者、力不足からあきらめた者たちが登場するドラマで、だからこそ、野球に対する思いが強い人たちばかりなのだ。
・サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』は最近、村上春樹によって訳し直された。僕はまだ読んでいないが、ついでに題名をなおさなかったのはどうしてなのかと不思議に思った。『キャッチャー・イン・ザ・ライ』は『ライ麦畑でつかまえて』ではなく、『ライ麦畑のキャッチャー』が正しいのだ。『フィールド・オブ・ドリーム』はトウモロコシ畑のキャッチャーだが、映画のなかでのキャッチャーは、主人公の父親だった。メジャー・リーガーの夢やぶれて、今度はその夢を息子に託す。主人公のコスナーは、それが嫌で嫌でたまらなかったという。早々と家を出て、帰ったのは父の葬式の時。そんな親子のすれ違いがトウモロコシ畑のグラウンドで和解する。父と息子と野球。これこそアメリカの神話なのである。
・ところで、この映画を見た日の昼に、久しぶりに野茂の試合を見た。今年はものすごく調子が良くて、投球回数はリーグ1位。勝利、三振、防御率、被打率などのすべてが5位以内というものだ。これでどうしてオールスターに選ばれないのか、と腹も立ったし、何よりドジャースのリーグ最低の打撃陣にはシーズンの最初から愛想が尽きていた。しかし、野茂は何もいわずに飄々と投げて、この日も勝利。11勝8敗。3点とってくれれば勝った試合が5試合ほどもあったから、本当ならもう15〜6勝はいっているはず、と文句ばかりだが、彼のおかげでメジャー・リーグの楽しさを、もう9年も堪能させてもらっている。野茂の夢はワールド・シリーズで投げること。それを何とか早く実現してもらいたい。まさに「フィールド・オブ・ドリーム」である。
・オールスター前に新庄がマイナー落ちした。田口は今年もほとんどマイナー暮らし。一方でオールスター・ゲームにはイチロー、松井、長谷川が出場した。それぞれの「フィールド・オブ・ドリーム」。野球は単なる玉遊びではないのである。

2003年7月21日月曜日

Madonna "American Life"

 

madonna1.jpeg・マドンナのニュー・アルバム『アメリカン・ライフ』がアメリカでアルバムの1位になったそうだ。彼女のデビューは1982年だから、もう20年以上、トップ・ミュージシャンの位置に居つづけていることになる。今さらながらに、すごい人だと思う。
・デビューの頃はマリリン・モンローの音楽版と言われたり、その歌詞の内容や言動から、道徳的、倫理的、あるいは宗教的な意味で反発を買ったりしてきた。僕はそんな彼女に興味を持ちつづけてきたが、そのアルバムを買ったのはずっと後になってからだった。
・理由は、聴くよりも踊るための音楽だったこと。マイケル・ジャクソンとほとんど同時期にブレイクして、音楽状況は完全に一変されてしまった。MTVがミュージック・ビデオ専門のケーブル・テレビ局として人気を集めて、ビデオがおもしろくなければCDが売れないという状況になった。多くのミュージシャンがそのような状況を批判したが、僕もあほらしい感じがして、一時期、ポピュラー音楽自体に関心をなくした。再び聴き始めたのはU2やスティングなどに興味を持ちはじめた80年代の終わり頃からである。
・そんなことがあったから、マドンナの歌自体にはほとんど興味をもたなかったのだが、マドンナのファンが若い女性で、「ウォナビー」(マドンナのようになりたい)というのだという話を耳にしたあたりから、どんなことを歌っているのか、興味をもつようになった。
・魅力的な女になるのは、男のためではなく、自分のため。自分を表現し、自己実現するため。マドンナはセクシーさを舞台でパフォーマンスしながら、同時にジョギングをやり、フィットネスをして体を鍛えた。男を誘惑しながら、男に頼らない。男中心で保守的なものへのあからさまな反発。若い女の子たちが憧れるのはごく自然なことだが、それは男にはもちろん、頭でっかちのフェミニストにも予測のつかない現象で、フェミニズム以上に、女の子たちの意識を変える役割を果たした。
・マドンナはその後映画にも出演し、女優としても才能のあるところを見せたし、出すアルバムはほとんど大ヒットした。しかし、グラミー賞はいまだにとれていない。これはスピルバーグがなかなかアカデミー賞を取れなかったのと似ているが、エスタブリッシュメント(体制)にとって受け入れがたい存在であったことは、スピルバーグ以上だといえるかもしれない。
・彼女は常に戦う人だったし、今でもそうだという評価をする人がいる。音楽業界の慣行に対して、男たちの好色的な目に対して、女たちの嫌悪や嫉妬の目に対して、社会の保守的な意識に対して、あるいはポップ音楽の世界のトップに君臨するために、自分をセクシーで美しく、なおかつ強い存在にするために………。
・前置きが長くなった。『アメリカン・ライフ』だが、なかなかいい。ビデオクリップでは、マドンナは女兵士になってブッシュ大統領にそっくりな男に手榴弾を投げるというシーンがあったそうだ。これはイラン侵攻の時期と重なって修正されたようだが、それでも、ビデオは放送自粛となっているらしい。マドンナの反戦!の意思表示。ただし彼女は、アメリカやアメリカ軍の批判ではなく、もっと本質的な意味での反戦と反物質主義がテーマだという。そのあたりは微妙で、マドンナも誤解をされないように苦労しているようだが、僕からすれば、それは同じことにすぎない。アメリカ軍に所属する若者たちが、無益な戦争にかりだされたことはまちがいないのだから。
・もっとも、アルバムにおさめられた歌のなかには、もっと素直に現代人の心を表現したものもある。アコースティック・ギターの弾き語りで、マドンナの新しい側面を聴いた気がした。マドンナはその持ち歌のほとんどを自作しているが、そのことを知っている人は意外と少ない。ただ歌い行動する人ではなく、彼女は思索する人でもある。


あなたのそばにいると、私は私でなくなる
あなたが話してくれないと、私は私でなくなる
夜一人でいても、人混みのなかにいても
私は私でないから、どうしたらいいかもわからない "X-Static Process"

・マドンナは『アメリカン・ライフ』で当然、グラミー賞を取るはずだと思う。こんなに不作の状態が続く音楽業界のなかで取れないとしたら、もうグラミー賞など存在価値はないに等しいのだから。ところが音楽批評家の評判はきわめて悪いという。サイトで探したら次のようなコメントが見つかった。やっぱり………。音楽批評家というのは米国でも日本でもしょうもない存在で、まったく救いがたいが、マドンナはそんな悪評をバネにさらに飛躍する。

グラミー賞関連の著作があるトーマス・オニール氏は、マドンナはこれまで真面目なシンガーやアーティストとしての評価を受けておらず、今後も受けることはない、としたうえで「マドンナはポップミュージック界で、吸血鬼に等しい不死身の存在。(アーティストとして)既に終わっているとする悪評や予測を超越しているようだ」と述べている。(ロイター)

2003年7月14日月曜日

雑草のたくましさ


forest26-1.jpeg・梅雨はまだ明けない。前回も書いたが今年は雨が多い。連休明けから梅雨入りの感じだから、もう2ヶ月以上になる。朝起きて、重たく雲がたれ込めていると、がっかりする。雨で濡れていては倒木集めにも出かけられないが、集めた木を切って割ることもできない。


・日が出ないから、家の回りの植物にも異変があった。ライラックが花を咲かせなかったし、三つ葉ツツジも申し訳程度にしか咲かなかった。買ってきて植えた植物のなかには、根腐れをおこしたものもある。垣根にしている樅の木に若葉が生えてこない。しかし、こんな天気でも元気な植物はあるし、こんな天気だから一層元気になるものもある。

 

forest26-2.jpeg・積んだ倒木にはかびが生え、キノコが出始めた。周囲の雑草が積んだ倒木の山を覆いはじめた。木にからまりつく蔦やアケビの蔓は気味が悪いほど勢いがいい。川沿いの道はもう歩けないほどびっしり草が生い茂っている。歩いて踏み固めたはずのところも、ちょっと歩かないでいると、道は消えてしまう。森の植物の生命力は本当にものすごい。空き家にして何も手入れをしなければ、家そのものが植物に呑み込まれてしまうにちがいない。そんなことが実感としてわかる。そう考えると、雑草はたくましいというよりは、恐ろしい。

 

forest26-3.jpeg・とても放っておけないから、草を刈った。電気の草刈り機はあるが、コードに限りがある。エンジンのを新しく買うほど広範囲に刈る気はない。で、ホームセンターに行って柄の長い草刈り鎌を買ってきた。とりあえずは川沿いの道。ここは重たい荷物を運び込むときにしか使わないが、放っておけば、雑草の幹が太くなって、秋にはタイヤに刺さるほどになってしまう。それから、倒木を運び込むための進入路。ここは隣の空き地だが、もうすっかりわが家の土地の一部になっている。手で刈ったのでは、きれいに刈り揃えることができないが、それでも、歩いたりするのに邪魔ではなくなった。

 

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・庭や森の花は、次々と入れかわっている。現在咲いているのは上のような感じ。山紫陽花に蛍袋や撫子。湖畔ではラベンダーが満開で向日葵なども大きく育っている。コスモスも咲き始めた。雨が多くても、いつものように咲くから不思議だ。ストーブ用に積んである薪のところに朝顔を植えた。もう少ししたら咲き始める。育って欲しいものと、じゃまくさいほど育ちすぎるもの。もちろんその判断は人間がする。保護してやるものと、ばったばったとなぎ倒すもの。僕は森の世界に君臨する暴君だな、とふと思ってしまう。


・しかし、畑や田んぼではちょっとした雑草も生きられない。最近流行のガーデン作りでも一緒だろう。文化(culuture)の語源は「耕す」だから、雑草との闘いのなかではぐくまれたもののことである。ぼくはその「文化」を研究するものの一人だが、雑草を刈るのは必要最小限にすることにした。だから今年は森の草むらには手をつけないでおくつもりだ。下の写真の草は、今1メートルほどに育っているが、夏の終わりにはどのくらいになるのだろうか。楽しみのような恐ろしいような………。


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2003年7月2日水曜日

R.シルバーストーン『なぜメディア研究か』(せりか書房)

 

・「なぜ、メディア研究か」というのは、うまいネーミングだと思う。原題は"Why study the Media?" 。ぼくはこのタイトルに、最初、相反する二つの思いを持った。一つは「今さら何を言っているのか、メディア研究は腐るほどあるじゃないか」という冷ややかなもの。 もう一つは、そこに「何か新しい発想や提案があるのでは」という期待と好奇心。

・「なぜ、メディア研究か」。シルバーストーンは「メディアがわれわれの日常生活にとって中心的であるが故に、われわれはそれを研究しなければならない」と言う。メディアは私たちの「経験の総体的なテクスチャー」を成していて、「日常的で、同時代の経験の本質的な次元」となっている。たとえばテレビの仕事は表象の翻訳にあるという。それは「意味を生産するプロセス」であり、すでに制度化されたものである。


・メディアはその単一でも多様でもある表象を通じ、日々のリアリティを濾過し、枠づけている。つまりそれらは日常生活を方向づけ、常識の生産や維持に役立つような判断の基準を提供し、参照すべき情報を示している。私たちがメディア研究の出発点にしなければならないのは、この常識が通用していくレベルなのである。(31頁)


・「リアリティの濾過と枠づけ」。確かにそのとおりだ。しかし、そのような指摘はけっして新しくない。その理論的な方向として、たとえば、K.バークやR.バルトがあげられているが、それらがもてはやされたのは30年近く前のことだ。

・もっとも、日常生活のなかへのメディアの浸透は、むしろ、ここ30年ほどで加速度的に進行している。テレビが現在のように強力なメディアとして君臨し始めたのは80年代からで、メディアによる「リアリティの濾過と枠づけ」は一層巧妙になり、過激になり、そして私たちの意識に入り込んで自然なものにさえなった。

・シルバーストーンはその一つとして、パブリックな文化のプライベート化とプライベートな文化の公共化をあげている。ここにはもちろん、公的な出来事が私的な話題として、あるいは私的なコンテクストのなかで消費されること、逆に私的な出来事が公的な話題として登場することがある。しかし、この問題はそこにとどまらない。シルバーストーンはラジオが、そしてテレビがしたことは、誰にとっても私的な住みかである家庭を壊し、再発見し、再構成したことだったという。そして、破壊して再構成したものは、もちろん、ほかにもたくさんある。たとえば「消費」という形態。


・私たちはメディアを消費している。私たちはメディアを通じて消費している。私たちは、メディアを媒介にしてどう消費するか、何を消費するか、を学ぶ。また私たちはメディアを通じて消費するように説得される。メディアが私たちを消費する。(178頁)


・メディアなしには成り立たない公と私の出現とその関係の定着。まったくその通りだが、意地悪な読み方をすれば、これらもまた、J.ボードリヤールやS.ユーエンなどによって確認済のことだ。とは言え、そんな指摘や批判とは関係なしに、メディアはますます私たちのなかに浸透して、そこに結構楽しげで居心地のよい場所を次々と提供してきている。メディアに身を任すことではじめて自覚される「私」。それはすでに「自然」な感覚のようにも思えるが、そのような意識の有り様やメディアがさまざまな部分に深く複雑に入り込んだ状況を鮮やかに分析した研究は確かに少ない。

・大学生と接していて気になることばに、「みんな」「普通」「昔」といったものがある。すでに何度も指摘したことだが、僕がそのことばに奇妙さを感じるのは、そこには時間的にも空間的にも「多様性」が欠如していて、しかもそのことに無自覚だと思えるからだ。シルバーストーンが「記憶」について触れた箇所には、そこをうまく説明してくれる部分がある。


・私たちは次第に歴史と無関係に生活するようになっている。過去は、現在と同時に、分断と無関心によって無視されている。(269頁)
・歴史はアイデンティティが創出される場所であり、記憶は国民として、個人として、多くの要求が出され、それに対立する要求も出される場である。ポピュラーな歴史やポピュラーな記憶がある。それらは危険さを増している。非公式な記憶に対してメディアが横柄な態度を取り続けているからだ。(283-284頁)


・メディアにたよって生活する私たちの記憶は、また、メディアによってもたらされた経験を主に蓄積されたものだ。メディアが作り上げるのは時間も空間も好き勝手に切り刻み、分断し、「リアリティの濾過と枠づけ」をした「世界」。だからそこから「みんな」や「普通」や「昔」という感覚が生まれてくるのは当然のことで、そこに慣れ親しんでしまうと、そのような記憶の奇妙さに気がつくこともなくなってしまう。

・シルバーストーンは「メディア研究」の必要性のなかに家庭や消費のほかに、遊びやコミュニティについての考察をいれ、また「記憶」のほかに「信頼」や他者との関係をふくめている。そこには、メディア研究は個々のメディアだけの問題ではなく、生活や人間関係、あるいは自己意識にも及ぶトータルなものだという認識がある。目新しさに惑わされずに、歴史を辿りなおしてみることの重要さもふくめてメディア研究の必要を説得させられた。相反する思いがここで一つになって、納得。誰より、メディア社会の中で生まれ育った学生たちに読ませたい一冊である。