2007年2月26日月曜日

レイチェル・カーソンの鳴らした警鐘

 

rachel2.jpg・レイチェル・カーソンはもう半世紀も前に、農薬などの化学薬品の害を告発した人として知られている。その『沈黙の春』で彼女が鳴らした警鐘は、いま読んでも思い当たることが多くて、空恐ろしい気がしてくる。しかし、同時に、慣れてしまってたぶん、大丈夫だろうと高をくくってしまう自分がいることにも気づかされる。
・たとえば、ホームセンターに行って、ペンキを買おうとすると、かならず、害に対する注意が書いてあって、使い方に気をつけるよう指示が載っている。しかし、どうせなら防かびや防虫の役割をしてほしいからと、多少の害は目をつむってと買ってしまった。案の定、家の外壁を何日もかけて塗った後は、家の中にいても涙が出たり、頭が痛くなったりした。こんな商品はホームセンターにはいっぱいあるから、家をつくったり、補修したりする際に使われるものには、人体の害になる物質がたくさんふくまれているはずである。実際、シックハウス症候群で苦しんでいる人の数は100万人を越え、潜在的には1000万人になるという。10人に一人で、その中にはたぶん、ぼくもしっかり入っているだろうと思う。
・ぼくの家の近くにはブルーベリーやサクランボやブドウが一面に植えられている。シーズンになれば、その新鮮な実を摘んで食べる人たちが大挙してバスでやってくる。毎年冬になると大量の堆肥が運ばれてきてあたリに強烈なにおいが漂う。牛糞と木のチップを混ぜたもので、しばらくするとキノコがにょきにょき生えてきたりする。有機肥料で安全な果実であることを売り物にすれば、それなりの努力や苦労がいることがよくわかる。しかし、春になって葉がつくようになれば、防虫の農薬はやっぱり撒かなければならないようだ。
・家の周囲には野菜畑もたくさんある。でやっぱり、有機肥料で低農薬だから、なるべく近くのJAで買うようにしている。しかし、スーパーで売っているものは、半数が中国などからの輸入物だし、国内とはいえ遠いところからのものが多い。季節を問わずどんな野菜もあって、形や色が統一されているから見栄えはいい。しかし、そういうふうにつくるためには、やっぱり、農薬や化学肥料が必要になるはずなのである。
・もちろん、こういうことに自覚的な人の数は、この半世紀で飛躍的に増えている。第一に、アレルギー、アトピー、花粉症といった、昔はあまり聞かなかった病状をかかえる人の数もものすごく多い。健康やエコロジーへの関心も強くなっているから、なにか問題が起これば、あるいは発覚すれば、たちまち大騒ぎにもなる。しかし、騒ぐのは一時的で、しばらくすれば忘れてしまうといったことがくりかえされている。


rachel1.jpg・『失われた森』はカーソンの遺稿集である。アメリカでは1998年に出版され、日本では2000年に翻訳されている。本には載らなかった文章や、本を書き上げる際の裏話などがあって、もう一度『沈黙の春』や『われらをめぐる海』を読みたい気にさせる記述が少なくない。


100年前、ナチュラリストで画家のオーデュポンは、ケンタッキーの故郷の村で、空がリョコウバトの群れで文字どおり埋めつくされるのを目にした。4昼夜の間に頭上を飛んだ鳥の数は、10億羽を超えるだろうと彼は記録している。ブナの実が熟すころ、鳩たちはそれをめあてに、一日200マイル以上もの距離を飛び、森林地帯では100平方マイル以上にわたって、樹上に休息する鳥がぎっしりと群がり、重みで木の枝が折れるほどだった。

・これは彼女が1937年に書いたものである。100年前と比較して野生の動物が激減したことにふれているのだが、それから70年たった今はどうなのだろうか。もし、上にあるような鳥の大群が出現したら、どんな田舎であっても、異常なこととしてニュースで取り上げられて大騒ぎになるにちがいない。絶滅危惧種のことがよく話題になるが、それほどでなくても、どんな動物も、その数はここ100年、あるいは200年のあいだに激減している。今年はブナの実が不作で、熊があちこちに出没して、銃殺されている。あまりに殺しすぎて絶滅のおそれがあるくらいだという。数が減っているのになお食べ物に不足して、人間の世界にあらわれて殺されたわけで、野生の生き物にとっては、その環境はもうとても生きられたものではないのかもしれない。
・『われらをめぐる海』は三部作で、海の生き物について書かれているが、それを単なる生物学の専門書としてではなく、多くの人に興味をもって読んでもらうために、生き物の視点に立って書いたようだ。遺稿集には、文学少女で作家になりたかったという思い出話もあって、彼女の文の魅力に納得がいく気もした。あるいは遺稿集の最後の文は、彼女が乳ガンで死ぬ半年前の1963年におこなわれた「環境の汚染」というタイトルの講演の記録である。話の中心は放射性廃棄物の海洋投棄について、その危険性を説明したものだ。これも半世紀たってもホットな問題で、今は地中深くに穴を掘って埋めようとしている。便利なものが増えればそれだけ、処理できない、しきれないゴミも増える。彼女の鳴らした警鐘がどこまで生きているのか、怪しい気になってくる。このまま行けば100年後にはどうなるのか。空恐ろしい世界は、SFではなく現実として間近に迫っているのではないだろうか。

2007年2月19日月曜日

ターシャの庭

 

tasha.jpg・ターシャ・チューダーはアメリカ人の絵本作家で、日本では彼女がつくった庭が有名である。北東部のヴァーモント州に20万坪もある広大な敷地を持ち、90歳を過ぎた今もひとりで暮らしている。その孤高の暮らしをNHKが1年以上をかけて取材をした。BSで二回に分けて放送されたターシャの生活の徹底ぶりは見事で、驚くほかはなかった。
・彼女の絵本のテーマと内容は、彼女の暮らしや身近な人間関係から生みだされている。アメリカ人にとっては開拓の頃の暮らしを思いださせるような内容で、根強い人気があるようだ。もちろん、現在のアメリカ人の大半には、ほとんど無縁な生活で、したくてもできないし、本当のところはしたいとも思わないものだろう。しかし、憧れる。だからこそ、ターシャがそれを一貫して守り続けていることに、また大きな称賛の声が上がるのである。
・ターシャはひとり暮らしだが、近くに息子夫婦や孫夫婦が住んでいる。庭の手入れや家の維持管理をしてくれているが、身の回りのことはほとんどじぶんでやっている。毎日の日課は決まっていて、一日の最大の楽しみは、夕方のお茶の時間だという。愛犬のコーギーと一緒に庭を歩き、雑草を抜いたり、枯れた花を摘み取ったりする。気が向けば、花や犬や風景をスケッチして、次の絵本の材料にする。57歳で移り住んでから、もう30年以上も変わらぬ生活を続けている。
・電気が通っていないわけではないが、家の照明はロウソクですませている。そのロウソクは飼っているミツバチの巣箱からとった蜜蝋でつくったものだ。毎年一回、家族総出で、一年分のロウソクをつくる。溶かしたろうの中に芯を入れ、乾かしては入れる作業をくりかえして、直径が2cm弱のロウソクにする。その作業ののんびりさに思わず見とれてしまったが、開拓期はもちろん、つい100年ほど前までは、見慣れた光景だったはずである。
・12月になると、そのロウソクをクリスマス・ツリーに何本もつけて、それぞれに火をともした。もちろん家の中だから、老人のひとり住まいで火事の心配はないのかと余計なことを考えてしまったが、人工のライトとはちがって、いい感じに灯っていた。リンゴを収穫したときもまた、家族総出で、ジュースにしたりジャムにしたりする。で、もちろんそれが、ターシャの1年分の食料になる。絵に書いたような田舎暮らしで、それを絵本にすれば、売れるのはまちがいないことをつくづく感じたが、彼女は別に、本を売るためにそんな暮らしをしているわけではない。
・そもそも彼女が絵を描いたり、物語をつくったりしたきっかけは、子どもたちに見せたり、読んで聞かせたりするためだったという。ついでに操り人形も作って、子どもたちと一緒に人形劇をしたりもしたようだ。何でも自分でつくる。その徹底ぶりと器用さは、並外れた才能ではないように思う。けれども、程度の違いはあれ、ほんの数十年前までは、家で手作りしたり、自分で工夫したりするのは珍しいことではなかったはずである。その意味でいえば、ターシャを有名にしたのは、この半世紀ばかりの生活スタイルの大変容だったということができるかもしれない。
・彼女の息子は寡黙でほとんど目立たない。大工さんのようで、ターシャが住んでいる家も、彼がひとりでつくったようだ。もちろん母親の注文をかなえ、新築でも何十年もたった感じに仕上げられた。20万坪の土地と家は、もちろん、絵本の印税によって実現したものである。すでに50代も半ばを過ぎて、やっと自分の住みかをみつけ、やりたかった生活を百パーセント実現させている。
・気ままな暮らしだが、それを実現させるために彼女が歩いてきた道は、またかなりきびしいものだった。それをやり通せたのは、彼女に人一倍強い意志と信念があったからで、年老いて柔和になったとはいえ、その性格は表情からも十分に読み取れる。実は、気ままな暮らしをすることほど、しんどいことはない。ぼくもすこしだけ、そのことには共感できそうだ。
・ターシャはもちろん、自分の人生の終着点が近いことを自覚している。だから、思い通りにつくってきた庭をすこしずつ、自然にもどしはじめてもいるのだという。自分が死んだら、また、自分が手を加える前のまま。放っておけば、自然は自ら自然にもどろうとする。自分の生きた証は、そこからはいつの間にか消えてなくなってしまう。それを望む気持ちはまた、ぼくにもすこしわかる気がする。
・だから、生きていたときのままにのこして、「ターシャの庭」などという名所にはしないでほしいと思った。

2007年2月12日月曜日

確定申告の書類がこない

 

・例年なら、税務署から確定申告用の書類が送られてくるはずなのに、今年はこない。もう2月になって確定申告の時期も近づいているからおかしいな、と思っていた。用事で出かけたパートナーが役場によって確認すると、すでに発送済みのはずだといって、そのリストを見せてくれたそうだ。そうすると、リストに名前がない。理由は、去年還付請求をしているからだという。パートナーは、一瞬耳を疑ったといって帰ってきた。もちろん、それをしたのは役場ではない。税務署の判断で、役場には、そういったリストが届いていただけである。
・還付請求をしたら翌年は申告書を送らないという判断は、何を意図しているのだろうか。素直に考えれば、とれる人にはすこしはサービスするけれども、とれない、あるいは返す人には、そんなことやる必要がない。必要なら、じぶんで勝手にやれということだろう。まさしく役所的発想で、それは年金などでもよくとりざたされることだ。未払いがあって、いざもらう時になって額が少ないことに気づくといったケースで、なぜ、事前に知らせることができないのか、不思議に思っていた。
・役人は公僕で、国民や住民に公的なサービスをすることを職業にしている人のことだ。しかし、こういった発想は相変わらず皆無なのが現状だろう。だいたい税金は納めるものだとされている。神社に奉納などと一緒で、これは礼を尽くして差し上げるという意味で、税金の趣旨とは相容れないことばのはずである。税金は納めるものではなく、預けるもので、行政はそれを国民の生活のために代行してつかうことを仕事にしているのである。その自覚がないから、無駄づかいをしたり、利権や汚職がまかり通る。

・去年、還付請求をしたのは、思わぬ副収入があったからだ。ぼくの書いた文章は、時々大学の入試問題につかわれることがある。それは連絡があってだいたい承知していたのだが、その問題が、受験参考書や問題集、あるいは予備校の教科書などにもつかわれていて、出版社によっては版を重ねて何年も発行しつづけたものもあったようだ。文化庁の指導で、それに使用料を払わなければならないことになって、あちこちの出版社や予備校から、無断で使用してきたことのお詫びと、使用料を支払うという連絡がやってきた。
・馬鹿にならない額の思わぬ副収入で、ちょっとうれしくなったが、しかし、著作権などお構いなしで無断借用が慣例化していたことには、釈然としないものを感じた。で、必要経費をできるだけ申告して、源泉徴収された分を取りかえそうと思ったのである。必要経費は普通2割程度とされているが、実際に収入以上につかったのなら、全額計上したってかまわない。そう認められていることを、以前に同僚からアドバイスされたのだが、そんなことも、申告書には書いてない。
・一昨年はたまたま、海外旅行にもっていこうとPowerBookを買った。本やCDも研究費では落としきれない額を毎年つかっている。しかも国内研修の年で、例年以上に領収書がたまっていた。それを副収入に見あう金額分に必要経費として計上して添付して、ほぼ全額還付するよう申告した。そのことが税務署にはお気に召さなかったのだろう。お返しに申告書の送付はしてやらないとなったわけである。しかし、やることが何ともせこい。

・今年から定率減税がなくなって、税負担はかなり増える。景気が上向いても、税負担を軽減されるのは企業ばかりだ。銀行などはないに等しい利子で金を集め、融資して結構な収益をあげているのに、税を免除されていたりもする。国や自治体の財政は、税以上の支出をつづけて、どこも膨大な借金を抱えている。国民から納めさせるのではなく、お預かりして、大事につかう。そういう気持ちがないからこういうことになる。一事が万事。確定申告の書類を送ってやらないという発想からみえてくるものは、けっして些細なことではないのである。

2007年2月10日土曜日

2006年度 卒論集『十人十色』

 

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今年の4年生は10名、男女比は4:6でした。去年の女子ばかり14名とはかなりちがいましたが、相変わらず元気のいいのは女子学生の方でした。というよりは、去年のやかましいほどの活発さとはちがって、おとなしい学生ばかりのゼミになりました。
題名をどうするか、最後まで決まりませんでしたが、半ば強制的に意見を出してもらって、「十人十色」にすることにしました。題名のとおり、内容はバラエティがあります。まじめな学生が多かったですから、内容も充実しているといえるでしょう。副題は「まじめからバンギャルまで」です。
大学院では、今年度は修論と博論が一本ずつ。現在審査中です。ほかにもう一本、博論の副査があって、たっぷりと学生の論文につきあわされた一年でした。修論は、不十分なところを反省して、博士課程に進んでがんばるようです。博論はどちらもがんばって、なかなかの力作だと思います。しかし、正直言って、早く片づけて、解放されたいです!

1.「バンギャルの生態学」 …………………………………………………………水木 希
2.「日本人はなぜ英語が下手なのか」 …………………………………………小林 由和
3.「現代人のストレスと癒し」 …………………………………………………桝 有香利
4.「わたしに“まじめ”と言わないで」 …………………………………………武藤 佑
5.「競馬はスポーツかギャンブルか」 …………………………………………矢寺 佑至
6.「ストリートファッションが映し出すもの」 ………………………………白戸 圭衣
7.「スポーツビジネス〜スポーツブランドが果たす役割」 …………………下條 信之
8.「女性たちの身体表現」 ………………………………………………………小俣 法子
9.「ポータブル・ミュージック・スタディーズ」…………………………… 永山 優香
  ウォークマンとiPodのメーカー戦略から考える未来構想
10.「煙草の行方」 ……………………………………………………………… 斉藤 まり