2005年12月30日金曜日

目次 2005年

12月

30日:目次

27日:家のメンテ、総仕上げ?

20日:Merry X'mas!!(12/20)

13日:ポートランド便り

6日:『アースダイバー』『東京奇譚集』

11月

29日:Bob Dylan "No direction home"

22日:ペンキ塗り、薪割り、そして紅葉

15日:Elliott Smith

8日:義母の死

1日:秋を探しに

10月

25日:info@ というスパム・メール

18日:R. ドーア『働くということ』ほか

11日:『ヴェロニカ・ゲリン』

4日:大工仕事、内と外

9月

27日:ディランの海賊版と自伝

20日:ユートピアについて

13日:トイレ・喫煙・etc.

8日:アイルランドのパブ

6日:"Legends of Irish Folk"

8月

30日:英国だより

22日:やれやれ今度は

15日:Sinead O'connor "Sean Nos Nua"

8日:ジャンクでステレオ探し

1日:「スマイル〜ビーチ・ボーイズ幻のアルバム完成』

7月

26日:伊藤守『記憶・暴力・システム』(法政大学出版局)

19日:ネット予約の便利さと不安

14日:夏休み!

5日:Warren Zevon と Pete Yorn

6月

26日:町田康『告白』(中央公論新社)

21日:宮入恭平ライブ

14日:アン・バンクロフトと『大いなる遺産』

7日:ちょっとのんびり

5月

31日:北田暁大『「嗤う」日本のナショナリズム』(NHK ブックス)

24日:ipod を買った

17日:「考えられないこと」という姿勢

10日:野茂の夢、野球の夢

3日:メール・ソフトがいっぱい

4月

26日:富士と桜

19日:追悼 高田渡

12日:S. ソンタグ『他者の苦痛へのまなざし』( みすず書房)

6日:「男」と「女」

3月

30日:ホリエモンの魅力と怖さ

23日:農鳥その後

16日:懐かしい歌

9日:ハワイからのメール

2月

22日:香内三郎『「読者」の誕生』( 晶文社)

15日:農鳥?

8日:アダプテーション

1日:夏が暑いと冬の雪は多い?

1月

25日:『音楽文化論』で伝わったもの

18日:今年の卒論・修論・博論

11日:詐欺メールにご用心!

1日:龍ヶ岳とダイヤモンド富士

2005年12月27日火曜日

家のメンテ、総仕上げ?

 


・今年は暖冬だという予測はまったくはずれて、11月から寒い日が続いた。それが、12月の後半になって、真冬並みの寒さになった。実際、12月から最低気温が-10度というのは、初めての経験である。灯油が去年の5割り増しの値段だから、豊富な薪を優先して、今年は11月のはじめから薪ストーブをほとんどつけっぱなしにしてきた。しかし、-10度ともなると、大きな温風ヒーターも稼働しっぱなしになる。家の中を20度に保つのは、なかなか大変なのである。-10度というのは、例年なら1月中旬から2月にかけて1ヶ月程度なのだが、今年はどうなのだろうか。豊富とはいえ乾いた薪には限りがあるから、こんな調子で使ったら、春になる前に尽きてしまう。そんな心配をして、慌てて薪割りをしたりしている。
・寒さ対策は薪割りだけではない。北風が突風のように吹くと、家のあちこちからすきま風が侵入してくる。いくら暖めても温度が上がらないから、思い切って隙間をふさぐことにした。場所は窓枠の周辺である。ログハウスはまず丸太で周囲を組んで、窓や入り口や室内の通路をチェーンソウで切って開けていく。ざっくりと切るから、当然、窓枠や扉との間には隙間ができる。隙間はたいがい断熱材やシリコンでふさがれているが、丸太は、毎年少しずつ収縮するし、重みで沈下もする。だから時折隙間の補修が必要になる。

forest48-1.jpgforest48-2.jpgforest48-3.jpg
・作業はまず、窓枠の木を外し、できている隙間に断熱材を埋め(左)、シリコンで完全に密閉する(中)、それが済んだらまた木を固定する(右)。我が家には大きな窓が2つ、中ぐらいのが5つ、そして小が4つある。そのすべての隙間をふさぐのは、実際大変な作業だった。もちろん、ふさぐのは家の中からだけではない。外側からもやらなければならないのだが、何にしろ外は日中でも零下の世界である。比較的穏やかな日を選んで作業をしたが、まだ終わっていない。
・各地では雪で大変なようだが、河口湖ではほとんど降っていない。空っ風が吹いて、ひどい乾燥状態だ。周囲の木が今にも折れそうなほどにしなっている。連日の肉体労働でくたびれているから今日は休みと思っていたら、突風に物置が倒れて分解してしまった。当然中身はあちこちに散乱する。その片づけにまた半日。くたびれて、ここのところ夕食をとるとそのまま2時間ほど眠ってしまう毎日である。

forest48-4.jpg・夏にアンプを「ハード・オフ」で買ったが、スピーカーに物足りなさを感じて、またあちこちで探すことにした。狙いはBOSEの宙づりタイプで、「Yahoo」のオークションで探すと、新しいのから年代物までたくさんある。「ハード・オフ」にもあったが2種類だけで気に入らなかったからオークションで初めて落としてみようかと思った。そこで、はじめて「Yahoo」登録をして、これと決めたやつに値を付けようと思ったら、毎月某かの登録料を払えと指示が出た。頻繁に使うわけではないから、他のところを探し、「楽天」に店を出しているリサイクル・ショップに出ていた中古品を2台2万円で買った。
・届いた品物を見ると予想より大きくて重い。吹き抜けの屋根の端っこにつけようと思ったのだが大変なので、ロフトとの境目の木枠に取り付けることにした。これだと、既存のスピーカーと距離が近いのだが、仕方がない。で、取り付けたところで、さっそく大音量にして聴いてみた。BOSEのスピーカーはクリアーだと聞いていたが、予想していたより音がこもっていて、ちょっとがっかりした。ボリュームを絞れば古いスピーカーの方がいい音がする。そこで、両方を同時にならしてみた。ソウすると、なかなかいい。とりあえずは満足して、薪ストーブに当たりながら聴いている。CDをいちいち入れ替えるのは面倒だから、もっぱらipodだが、CDの方が音は当然ずっといい。あまり聴かなかったレコードもかけるが傷がなければ、これもなかなかのものだ。

2005年12月24日土曜日

Merry X'mas!!





2004年が終わろうとしています
今年を象徴する字は「災」
嫌なことばかりあった年として記憶にのこり
語り継がれるのかもしれません
イラク戦争の泥沼化、日本人の人質と自己責任論
猛暑、台風、そして中越地震
誘拐、殺人、放火、あるいは幼児虐待
先生の痴漢やセクハラ事件もずいぶん多かったようです
こう並べると、本当に暗くなる感じがします
そういえば、音楽もスポーツもおもしろくなかった
野茂と中田が不調で興味半減
プロ野球の身売りや合併は当然の結果ですが
旧態依然の体質や発想はなかなか改善されません

しかし
個人的にはいいこともありました
長男の結婚、次男の就職
親の責任は一応果たしたと思いました
あとは自己責任です
『<実践>ポピュラー文化を学ぶ人のために』(世界思想社)がもうすぐ出版されます
若い人たちとの仕事は大変でしたが、楽しくもありました

来年がもっといい年でありますように
Merry X'mas and Happy New Year!!

2005年12月13日火曜日

ポートランド便り

 

・まだ冬休みではないが、卒論の提出が済んだところでアメリカに行くことにした。と言っても一週間足らずの日程で、滞在したのはポートランドだけである。特に見たいもの、行きたいところがあったわけではない。友人家族が住んでいて、何度も河口湖に訪ねてもらったから、僕らも行こうと思ったのだ。何せ、この時期の飛行機は信じられないくらい安い。成田からの直行便で五万円足らずなのである。北海道に行くのより安い。それなら、短期間であちこち回らなくてももったいないことはない。

portland2.JPG・それでも、せっかく行くのだからとネットで予習を少しやった。ポートランドはオレゴン州で最大の都市で人口は53万人、近郊の町をあわせると200万人近くになる。太平洋に面してはいないが大河のコロンビア川を使って、港や造船業で栄えた町である。市の人口の七割はヨーロッパ系の人たちでアフリカ系とアジア系が6%ずつ。これはオレゴン・トレイルで有名なように東から開拓民が移り住んでできたという歴史のせいなのかもしれない。
・ぼくは前に勤めていた大学の同僚の天野元さんたちの書いた『オレゴン・トレイル物語』を読んで、その開拓民が西を目指した苦難の道に驚いたことがある。財産のすべてを馬車に積んで家族みんなで旅をする。財産や食糧が尽きて餓死した人。水がなくて死んだ人、開拓民同士の争い、そしてもちろんインディアンたちとの戦いに死んだ人の数も多かった。もっとも、オレゴン州には80ほどの部族が住んでいたというが、ネイティブ・アメリカンの人口は、現在1%にすぎない。殺されたのは圧倒的に先住民たちの方が多かったということになる。

portland1.JPG・開拓民は最初は毛皮取引、そしてゴールド・ラッシュで次々と増え、ポートランドは農業や林業によって港湾都市として栄えるが、今世紀にはいると造船業で大きく発展をした。コロンビア川には今でも、大型船がひっきりなしに行き来している。水を満々とたたえた川はゆっくりと流れ、その遙か向こうにセントヘレナとレーニヤの山が見える(→)。今はもちろん、雪をかぶって真っ白だ。この季節は雨が多いのだが、滞在している間はたまたま好天に恵まれた。ただし、気温は寒く、零下になって、日陰では日中も氷が溶けなかった。ちょうど河口湖と同じくらい、という感じだったが、町の案内には零下にはあまりならないと書いてあるから、特別寒かったのかもしれない。

portland3.JPG・ポートランドは北から東にかけて高い山に囲まれている。セントヘレナの東にはMt.アダムス、その南に富士山よりも尖ったMt.フッド(→)、町はコロンビア川とウィラメット川が合流する地点にある。町の西には小高い丘のような山並みがあり、住宅が森に囲まれるように立ち並んでいる。アメリカで一番暮らしやすい町というだけあって、美しくて環境もいい。それほどあちこち歩いたわけではないが、怖いという感じがまったくしないのは、アメリカでは珍しいと言えるかもしれない。ダウンタウンには、Amazonよりも多様な本を並べている大きな本屋さん(Powell)があった。大学もいくつかあって、郊外にあるReed Collegeには真ん中に大きな池があった。生徒数は1300人で生徒10人に教員一人だそうだ。当然授業料は高いのだが、休みに入ったのに図書館には学生がたくさんいた。四年生には自分の机が与えられていて、本やらノートやらが積み重ねてあった。カレッジとはいえキャンパスは広大で巨木がたくさんあって、まん丸に太ったリスが何匹もいた。人慣れして近づいてくるものもある。

portland4.JPG・訪ねた友人宅には息子さんが二人いる。その彼らにNBAの試合に招待された。ポートランド・トレイル・ブレイザーズはかつては強いチームだったが、最近はそうでもない。今シーズンはノースウエスト・ディビジョンで最下位で、観戦した試合もヒューストン・ロケッツに負けてしまった。しかし、 NBAを見たのは初めてで、家族連れが多いことと客を飽きさせないさまざまな工夫に感心してしまった。客は七分ほどの入りで、強かったらチケットは取りにくかったはずだから、ぼくにとっては幸運だったと言えるかもしれない。ブレイザーズには韓国、ロケッツには中国人の選手がいた。日本人初のNBA選手を目指す田伏は、今年ももう一歩のところで及ばず下部リーグのアルバカーキーにいる。2mをこえる選手ばかりの中では子どものように小さいから、コマネズミのように動くプレイは人気が出ると思うのだが、勝つチームの一員としてはなかなか評価されにくいのかもしれない。

atom.jpg・友人宅でもう一人(匹)、仲良くなったアー君(Atom)がいる。黒ラブの雑種だが、びっくりするほど賢い。おとなしく留守番をするし、飼い主のいうことをよく聞く。ぼくは彼と毎朝散歩をした。おとなしくしているのに「散歩」と言うとうれしくてはね回り出す。家の周囲は森林の公園だから、そこを思う存分に走り回る。夜は部屋に入ってきて隣で朝まで寝ていたりする。しかし、しっかり訓練されていて、していいことと悪いことはよくわかっている。こんな犬がいたら、毎朝一緒に散歩に行ったり、山歩きに連れて行ったり、カヤックに乗せたりできていいな、と思ってしまった。ホテルと移動の旅行とはずいぶん違う、アット・ホームな楽しい経験でした。友人たちに感謝!

2005年12月6日火曜日

中沢新一『アースダイバー』講談社,村上春樹『東京奇譚集』新潮社


・想像力に乏しい文章は読む気がしない。小説や詩はもちろんだが、エッセイや研究論文だって例外ではない。読者はその書き手の想像力にこそ驚かされ、新鮮さを覚える。
・こんなことを書くのは学生の卒業論文につきあったせいもある。今年もやっと、何とか片づいたところだ。学生にしつこくいうのはオリジナリティで、手っ取り早いのは、自分でアンケートを採ったり、インタビューをしたり、参与観察、あるいは体験などをすることだ。けれども、集めた材料をどう料理するかで工夫がないと、せっかくの労力がまるで生かされないことになる。同じことはもちろん、理論や分析の枠組み、あるいはテーマに関連する歴史などを文献から読みとることにも言える。結局、必要になるのは理解力以上に想像力で、それが感じられない論文は、読む気がしない。間違いは指摘できるが、想像力のなさは如何ともしがたいからである。
・そんな話をすると、学生たちは「よし」という気になる。ところが、疑問に感じたことが本を一冊読んで解消されてしまったりすると、もう考えたり、調べてもしようがないのでは、と思ってしまう。あるいは、もう一冊読んでまったく違う解釈などに出会うと、すっかり混乱してしまって「ギブ・アップ」ということにもなる。一つの問題についてまったく違う見方、評価の仕方がある。それは実際には大きな発見で、そこにまた「なぜ、どうして」という疑問を向ける余地が生まれてくる。「だったら、どっちが正しいか、自分で調べてみようか」と思ってくれると、学生はひとりで歩き始めるようになる。そんな学生が一人でもいれば、毎年のお勤めは何とかやりこなせる。
・と、えらそうに言っているが、当の自分の書くものはというと、まったく自信がない。想像力がうまく働かない。そんな自覚がしばらく前からある。想像力は歳とともに衰える。よく言われることだ。物忘れの激しさも強く自覚するから、脳の衰えだと観念した方がいいのかもしれない。焦ってもしょうがないから、そんなふうに半ばあきらめている。ところが、同世代の人が書いた想像力にあふれた作品を読むと、とたんに、落ち着かなくなってしまう。

nakazawa1.jpg・中沢新一の『アースダイバー』は、東京の現在の地形に縄文地図を重ね合わせて、あちこちを探索したフィールドノートである。東京は起伏の多い土地で、谷(渋谷、四谷、谷中、阿佐ヶ谷)や山(愛宕山、代官山)がつく地名が多い。当然、「坂」もたくさんある。その理由は、縄文時代(5〜 6000年前)の地図を見ればすぐわかるという。当時の東京は南の多摩川と隅田川のあたりにある大きな湾に挟まれた半島のような地形で、そこはまた、リアス式海岸のように海が奥深くまで入り組んで浸入している。その名残が神田川や善福寺川、あるいは野川として残っているようだ。本に付録している地図を見ると、確かにその通りで、今の東京からは想像もつかないような地形をしていたことがわかる。
・縄文時代の人びとは、その複雑な地形のなかの小さな半島を選んで神を祭ったが、それが今でも、神社や道祖神として残されているところがある。乾いた岬としめった入り江、男根と女陰。神聖さと祭儀の場。そんな場所は今はほとんど道路や建物に隠れるようにひっそりしている。しかし、たとえば、新宿や渋谷のように、縄文時代の特別な場所が東京を代表する盛り場になったところもある。著者が紹介する新宿や渋谷に関わる伝説は、現在のにぎやかさとつなげて考えると確かにおもしろい。秋葉原と「精霊」、東京タワーと「死霊」、あるいは麻布と蝦蟇、さらにはファッションと墓地と青山などなど、6000年の時間に架橋する想像力は驚くほどたくましい。
haruki1.jpg・村上春樹の『東京奇譚集』は短編集だが、小品の一つひとつに、奇妙な想像力をかき立てる魅力がある。どれもおもしろいが、語り手が著者自身になっている最初の「偶然の旅人」は、読みはじめたらそのまま、休むことなく読んでしまうほど引き込まれた。仕掛けの道具は「偶然」である。
・物語に偶然を利用するのは、あまりいいことではないと言われる。理詰めで進むような構成ならば確かにそうだろうと思う。しかし、現実の世界でも、偶然は起こる。程度の違いはあれ誰でも経験していることだ。「偶然の旅人」は、話が現実であることを説明するために作者みずからが顔を出している。ゲイの男と乳ガンの手術を控えた女がアウトレットのカフェで出会う。話をするきっかけは、二人がたまたま同じ本を読んでいることだった。あり得ない気もするし、またありそうな気もする。
・話が「偶然」からはじまり、転換も結末もまた「偶然」によって作られる。つまり「偶然」ばかりで組み立てられたストーリーだが、そこに奇妙なリアリティが作り出されてくる。うまいな、と思ったが、同時にポール・オースターの初期の小説を思い出した。オースターはあるインタビューで、「小説に偶然を使うことがタブー視されているけれども、現実世界には偶然がいっぱいあって、ぼくは何度も経験した。」といったように応えたことがある。だから自分の小説にも「偶然」を取り入れて、効果的というよりは主題にするのだ、といった発言だったように思う。村上春樹の「偶然の旅人」は、そのことを自分でも試してみた結果のような気がした。もちろんそれは、ぼくの勝手な想像で、彼がオースターを意識したのかどうかはわからない。
・こんな本を読むと、ぼくも人を引っ張り込むような想像力にあふれた文章が書きたいとつくづく思う。社会学の勉強をし始めたばかりの頃に、 C.W.ミルズの『社会学的想像力』を読んで、自分が目指す方向が見つかった気がしたことがあった。今はほとんど誰も引用することもないけれども、もう一回読み直して、「想像力」について考え直してみたくなった。初心に返る、あるいはふりだしにもどる。

2005年11月29日火曜日

Bob Dylan "No direction home"


  NHKのBSで"No direction home"を見た。3時間半の長さでくたびれてしまうかと思ったが、ずっと見入ってしまった。で、見終わった後は、しばらく放心状態。とにかく貴重な映像の連続だった。デビュー前から1966年までのディランの軌跡である。


たとえば、数年後には伝説のようにあつかわれ、くりかえし語られてきた出来事のほとんどが映された。ニューポート・フォークフェスティバルで絶賛され、プロテストの旗手といわれるきっかけになったステージと、翌年のバック(のちのThe Band)をつけて登場して、大ブーイングを浴びたシーン。そこに、パニックを起こしてケーブルを斧で切ろうとして止められたピート・シーガーの行動が本人のことばで裏づけられる。ディランの変身はたちまち世界中に伝わり、それ以降のコンサートでは、ステージはディランと客との喧嘩状態になる。特に、有名なのはイギリスでのコンサートで、会場からの「ユダ」というののしりに、「そんなこと信じない」といった後に「おまえは嘘つきだ」と叫んで歌い始めるシーンがある。これが映像として映し出されたが、バックに「でっかくやろう」と語りかけていたり、ステージに下がった後の言動まで記録されていた。


このような逸話は、当時は雑誌の記事でしか知り得ないことだったし、その海賊版を見つけて、ひどい雑音のなかから、それらしいやりとりを感じ取る他はなかった。その海賊版が正式に公表され、音を手に入れることができたのはここ10年ほどのことだ。それでも結構喜んでいたし、映像で残っているとは思わなかったから、びっくりしてしまった。寝ころんでテレビを見ていたのだが、そのたびに起きあがって、「えー」とか「うわー」とかいってしまった。
そのような一つ一つに、現在のディランやそのほかの当事者たちのコメントがつく。時間がたっているから冷静に振り返った発言が目立ったが、中には立場の違いがはっきりするおもしろいものもあった。たとえばディランのデビューアルバムに「朝日の当たる家」(これはとんでもない誤訳で、本当は「朝日家」で、ニューオリンズの売春宿の名前)を入れた。トラディッショナルだが、歌い方やコード進行はデーブ・ヴァン・ロンクが工夫したものだったようだ。ディランはそれをレコーディング後にデーブに言ったようだ。当然デーブは怒ったが、それでも了承した。しかし、それが納得のいかないことであったのは、現在の彼の口ぶりからもよくわかった。「朝日の当たる家」はその後「アニマルズ」が歌って大ヒット曲になる。デーブはその後で、ディランが「おかげでぼくがアニマルズのまねだと思われてしまう」と言った話を紹介して、愉快そうに笑った。


ディランはニューヨークに来てからオリジナルを作り始めたようだ。それ以前は、いろいろな人のコピーだったから、ミネソタの知人たちは、その変貌ぶりにびっくりした。中でもおもしろかったのは一般には手に入らないウッディ・ガスリーのレコードを何枚も盗まれたフォークソング収集家の話だ。ところが、若い頃のディランが人一倍功名心が強く、ずる賢くて要領もよかったことを強調する人たちもふくめて、登場する誰もが、自分がボブ・ディランという時代の寵児の誕生に関わったこと、その才能の開花に手を貸したことなどを得意げに話していた。あるいは、地味なフォーク・シンガーのままで現在に至っている人たちの、賞賛や批判、あるいは嫉妬などが混じり合った発言など。それにまた、ディランのコメントがかぶさって、ディランを中心にした感情の蜘蛛の巣ができあがる。なかなかおもしろい構成だと思った。
ディランの2枚目のアルバムのジャケットには、当時の恋人スーズ・ロトロと冬のニューヨークを歩く写真が使われている。そのスーズも出て当時のディランとの関係を話したし、スターになるきっかけを作り、その後コンサートに帯同して恋仲になったジョーン・バエズも登場した。ディランとロトロの別れにはバエズが原因したが、そのバエズは、ディランの才能に惚れ、そのすごさに怖れ、自分の世界からあっという間に遠ざかってしまったことを寂しそうに振り返った。そこにまた、ディランのことばが重なってくる。


ディランにたいする矛盾した愛憎の感情ということで言えば、アコースティックをエレキに持ちかえた直後の客の反応もおもしろかった。今までのディランは好き。しかし今日のステージのディランは嫌い。だから会場はいつもブーイングの嵐になった。そんな反応をしたファンのコメントの後に、楽屋裏でディランが「だったら、なぜチケットがすぐ売り切れてしまうんだ」とつぶやく。本当にそうだなと思ったが、ディランのステージの半分は生ギターをもったソロだから、客の気持ちは<見たい←→見たくない>で引き裂かれる。さらに客の中には、ロック・アイドルとしてのディランに惚れ込んだばかりの少女たちもいて、客層も二分されている。


3時間半の長いドキュメントは66年で終わっている。デビュー前の50年代後半から、わずか7年ほどの記録でしかない。ディランはその後、現在まで40年近くも歌い続けている。おそらく残された映像は膨大なものだろうと思う。彼のインパクトは確かに66年でいったんとぎれるが、その後に辿った道筋は、またそれなりに興味がある。「自伝」と同様、続編を期待してしまうのだが、スコセッシは、作るつもりなのだろうか。

2005年11月22日火曜日

ペンキ塗り、薪割り、そして紅葉

 

forest47-1.jpg・バルコニーの補修がうまくいったので、次はログのペンキ塗りと考えたら、すぐに始めたくなった。我が家は直径が50〜70 cmもあるカナディアン・パインで組み立てられている。一本の長さは15〜20mで10本重ねだから、周囲だけで40本、これになかの部屋割り分が30本で、そのほかに天井の支えや支柱に20本ほど使われている。全部で90本を超えるが、塗料が塗られているのは外壁部分だけだ。その40本に薄い茶色の油性ペンキを塗ることにした。防かび、防虫、防腐で臭いの少ないものを選んで、余裕を持って一斗缶を買ったが、ほとんど使ってしまった。
・ふつう専門家に頼めば、まず足場組からはじまる。しかし、そんな大げさはできないので、折りたたみ式のハシゴを使って、少しずつ移動しながら塗ることにした。まずは、汚れ落としから。大きなバケツにぞうきんを数枚用意して少しずつ拭いていったのだが、これがすぐに真っ黒になる。土埃や蜘蛛の巣、あるいは鳥の糞などがこびりついていて、なかなかはかどらない。普段は気がつかなかったが、改めて念入りに点検すると、汚れだけでなく、ずいぶん虫にも食われている。さいわい、腐っているところはなくて安心したが、のんびりやったせいか、一面を拭くのにたっぷり半日かかってしまった。で、一日目はそれでおしまいにして、ペンキ塗りは二日目からにした。

forest47-2.jpg・とても一日中作業することはできないので、仕上げるまでには10日ほどかかった。外壁の三面には暖房用の薪が積み上げてあるから、まずはそれを移動しなければならない。もちろん、毎日というわけにはいかなかったし、天気とも相談しながらだったから、始めてから終わるまでに一ヶ月ほどかかったことになる。低臭のペンキとはいえ、やはりシンナー臭い。最上部の軒先のところを塗るときには、どうしてもシンナーの臭いがこもったところでの作業になる。だからなるべく吸い込まないように気をつけながらしたのだが、家の中にも臭いが入りこんでいて、塗った壁面近くが夜も臭くて、頭が痛くなってしまった。
・ログハウスにはどうしても木と木の間に隙間ができてしまう。そこをふさぐコーキングがしてあるのだが、木は乾燥や、重みで変形していくから、これも時々補修しなければならない。寒冷地だから、すきま風が入りこまないよういつも気にしているところだが、ペンキの臭いが進入しているということは、隙間があるということで、また、新たな仕事ができてしまった。
・ペンキを塗り終わって、改めて周囲を一回りし、遠くから眺めてみると、少し茶色が濃くなって落ち着いた感じになった。日の当たらない北や西側の色が赤みがかって見えるのは、日焼けしていないせいなのだろうか。なかなかいい、としばし眺め、その後も、何度も見返している。ベランダの補修、塗装とあわせると100万円以上はかかる作業のようで、ずいぶん大きな仕事をしたという満足感を味わった。

forest47-3.jpg・今年の冬用の薪はたっぷりある。冬から春にかけて、たまたま湖畔で大量に伐採された木を見つけたからだ。まだ割ってないのが相当あって、来年の冬の分もかなりあるほどだが、東京の知人で庭師の仕事をしている人が、もっていくようにと大量の薪を提供してくれた。すでに割って、縄でくくってあるのだが、それを大学の帰りに少しずつ、車に乗せて運んでいる。もう積み上げるところがないし、今年は灯油が高騰しているから、例年よりも早く10月の中旬から薪ストーブを使い始めた。昼間もつけっぱなしにしているから、今のところ灯油ストーブはほとんど使っていない。そんなわけで、ペンキ塗りが終わった後は、薪割りが毎日の日課になっている。

・いつまでも暖かくて紅葉は遅れていたが、11月に入って最低気温が零度近くまでなったら、辺りの景色が急に黄色や赤に変わってきた。湖畔の紅葉の名所には観光バスが行列して混雑している。ライトアップもしているから、夜になっても人出は衰えない。近隣の別荘族も久しぶりににぎやかだ。ただし、紅葉もそろそろ終わりだから、今月末には、誰もいない静かな湖畔になるのだと思う。長い、しーんとした静寂の季節の始まりだ。

2005年11月15日火曜日

Elliot Smith

 

elliott2.jpg・エリオット・スミスはすでにこの世にはいない。2003年の10月に死んでしまっている。まだ34歳で、死因は自殺のようだ。そんなことを最初に知ってから聴いたせいか、どれを聴いても死の影が感じられてしまう。歌声はか細く、音程も不安定で、何とも頼りない。
・1994年にソロ・アルバム"roman candle"を出している。翌95年にでた無題のアルバムとあわせて、納められた曲の大半にドラッグが登場してくる。ジャケットにはビルの谷間に落ちてくる二人の人影が描かれている。その最初の曲名は「干し草のなかの針」。探しても探しても見つからないものを必死で求めているのか、あるいはドラッグに関係があるのか。いずれにしても、ちくりと痛い。歌詞カードも判読不能の手書きのもので、内容もわかりやすくはないが、次のような、情景をありありと描きやすい描写もある。

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彼の腕に手をかける
首まで埋もれた干し草の山と戯れる
からだは薬で衰弱しているが
金を借りようと友達に電話をする
予想はしていたが、やつは黙ったままだった

・エリオット・スミスが注目されるきっかけになったのは、映画『グッド・ウィル・ハンティング』のサントラに使われたからだった。小さい頃の親からの虐待が原因で自分をだめな人間だと思いこんでしまった少年が、同じような境遇を経験した精神科の医師によって、自分に向き合い、その才能を自覚していく話だ。出演はマット・デイモンとロビン・ウィリアムスで監督はガス・ヴァン・サント。アカデミーの9部門にノミネートされ、この映画のために書き下ろされたエリオット・スミスの歌"Miss Misery"も主題歌賞にノミネートされた。ぼくは見たはずだが、ほとんど記憶がない。ネットで探したら、彼の友達が書いた次のような文章に出会った。
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アカデミー賞を見るために、僕は友だちと集まった。エリオットが賞を争うことになった他の曲は、どこか別の世界のものだった。大袈裟な、ストリングスにひっぱられたアレンジと、こけおどしのアクロバチックなヴォーカルがステージを支配していた。エリオットが真っ白いスーツを着て、古びたヤマハのギターを抱え、恥ずかしげに歩み出てきた時、彼の声はまるで一迅の新鮮な空気だった。それはリアルで、心の底からでてきたものだった。エリオットはそれを心から歌っていた。勿論、彼はオスカーを取らなかった。 (ファン・サイト"between the b@r"から引用)

elliott5.jpg・エリオットは自分のために歌を作っている。湧き起こるイメージや心にたまるわだかまりを吐き出さずにはいられない。精神安定剤としての音楽、そしてドラッグ。メジャーに移籍する前のアルバムは、ほとんどひとりで作り上げている。多重録音してはいるが、歌うのも演奏するのもただひとりであるのがほとんどのようだ。きわめて自閉的で自罰的な歌ばかりで、オスカーの舞台とはかけ離れている。有名になること、金儲けをすることなどまったく考えてもいなかったかのように聞こえてくる。だとすれば、メジャーのミュージシャンになってしまったことは、彼にとっては良かったのか、悪かったのか。

・死後に出された遺作の"from a basement on the hill"に載っている写真の顔はひどくむくんでいて髪の毛も伸びている。サウンドにも凝って聴きやすくなっているが、歌詞はやっぱり、必死で救いを求めているかのようだ。英語がすっと入ってきたらとても聴けない歌ばかりかもしれないが、耳には心地よくて、繰り返し聞きたくなる曲が多い。
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ぼくを照らしてよ、ベイビー 
心には雨が降っているから
太陽がゆらゆら、ぎらぎらとあがってきて
雨が落とした酸が空中を漂っている
自由になるためには今、ゆがんだ現実が必要なんだ
"a distorted reality is now a necessity to be free"

2005年11月8日火曜日

義母の死

 

・義母が死んだ。享年82歳。今年の春にあったときには元気そうだったのだが、その数ヶ月後に肺ガンで入院したという連絡が届いた。以前から自覚はあったようだが、そんなそぶりは見せなかった。気丈な人で、20年以上、ひとり暮らしをつづけてきた。子どもが小さかったときは、京都から福島まで、毎年夏休みに訪ねて数泊していたが、最近では訪ねることも少なくなって、行ったとしても旅行のついでに数時間の滞在ということが多かった。


・入院してから亡くなるまで、娘であるパートナーは何度も病院を訪ねたが、ぼくも二度お見舞いに行った。最初は抗癌治療をしているときで、髪の毛が抜けるからと言って頭を短く刈ってしまったところだった。身体はまだ痩せてはいなかったが、元気なときとはまるで違う様子で、病気がだいぶ進んでいることは一目瞭然だった。


・けれども、彼女の気丈さは健在で、病院の医者が何も説明してくれないこと、病院や病室が無機質で古ぼけていること、看護士のしつけが悪いこと、あるいは食事のことなど、いろいろと文句をつけていた。たとえば、抗癌治療などをしているときには、食欲などはまるでなくなるのがふつうだという。ところが病院は、それを知っていながら、食べもしない食事を三度三度もってくる。そういった機械的なことがあまりに多く、そして、本当にして欲しいことにほとんど配慮がなされない。義母の感じる不満は至極当然だと思った。


・ぼくが訪ねてからほんの少したって、義母は意を決して病院を変えた。入院した病院は、体調が急変して入ったのだが、それ以前に診察に通っていたのは別の病院で、そちらに移ることを希望したのである。で、二回目は、その新しい病室を訪ねた。病院全体もきれいで、病室も明るかった。主治医も対照的なほど親切で、話をよく聞いてくれると言うことだった。義母は転院を機会に抗癌治療をやめて対処療法に変えていた。だから、落ち着いた様子だったが、一ヶ月ちょっとの間にずいぶん痩せて小さくなってしまっていた。


・新しい病院には音楽療法などが取り入れられ、病室で聴きたい曲を笛で聴かせたりする人がいたようだ。パートナーはその音楽療法士の人と仲良くなり、病院や病人、あるいは医療のシステムなどについていろいろ話したようだ。病院には医者と患者がいて、医者は患者自身ではなくその病気に対処する。だから病人は何より病の人、あるいはその症例でしかないかのように扱われる。こういった状況が問題化されて久しいが、そのことを改める動きがはじまっている。義母の入院はそんなことを目の当たりにする機会になった。


・病を患う人は何より、そのことで精神的な痛手を負った人、病を受け入れることにとまどったり、拒絶したりして動揺する人でもある。だから、そういう人を引き受ける病院には、病気を直接治療する医者やその補助をする看護士だけではなく、カウンセラーや心を和ませる役割を担う人が必要なはずである。ところが多くの病院には相変わらず、そんな役割を担う人は全然いない。それは肉親のつとめだということになるのかもしれないが、誰にでもつきそいができる肉親がいるわけではない。遠く離れて暮らしている。仕事を持っている。子どもの世話に忙しい。家族関係の多様化に病院が対応できていない。そんな病院が今でも多数派だが、新しい試みをするところも、確かに生まれ始めているようだ。


・病院を何度か訪れて改めて気づいたのは、ベッドに寝ている人たちの大半が、コインやカードを入れて見るテレビを友としている光景だった。テレビの役割といえば聞こえはいいが、端から見ていて望ましいものとは思えない。家事が忙しくて子どもに目が届かない母親が、テレビの前に子どもを座らせておくといったことをよく耳にする。幼児ならいたずらをせずに黙ってじっと見ているからということらしいが、病人とテレビの関係は、それとほとんど同じように思えてしまう。子ども扱いというより、人間扱いされていない状況を象徴するものと言えるかもしれない。


・義母は転院をしてから二ヶ月ちょっとでなくなった。短い期間だったが、二つ目の病院での生活は、自分なりに納得がいくものになったようだ。身体が衰弱して思うようにならなくても、内面には昔のままの気丈な心がある。そういった気持ちを維持しながら死を迎えることは、誰もが望むことだろうと思う。けれども、それは現実的にはなかなか難しい。そんなことをあらためて実感させられた。

2005年11月1日火曜日

秋を探しに

 

photo33-2.jpg 今年は冷夏ではなかったのに、栗が全然だめ。わずかに採れたものにも虫がついていた。雨が多かったせいか、それとも別の理由があるのか。とにかく、今年は栗ご飯もマロングラッセもだめで、正月の栗きんとんも作れない。小さな山栗は皮をむくのが大変だが、その作業がないと何となく寂しい。かわりに、去年収穫して冷凍にしていた栗を出して、栗ご飯にした。季節感がないのは他にもあった、
いつまでも暖かくて紅葉もはじまらない。しびれを切らして、10月の中頃に八ヶ岳へ出かけてみた。紅葉は少しだけはじまっていた。快晴で暖かかったが、平日だから、ほとんど人はない。道もがらがらで初秋の景色を楽しんだ。週末は、こうはいかないが、ここのところ週末になると天気が崩れている。それでも中央高速は数十キロの渋滞になる。


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その後最低気温が5度ほどになる日があって、周囲の景色も急に色づいてきた。ススキの穂が風に揺れ、富士山も雪化粧を始めた。河口湖周辺の紅葉の名所も、朝から晩まで人で賑わうようになっている。他府県ナンバーの自動車や、紅葉狩りツアのバスが例年以上に目立つようだ。景気の回復のせいか、「愛・地球博」が終わったせいなのだろうか。

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何度もつづく快晴の金曜日。前から行きたかった西沢渓谷に出かけた。山梨市から秩父市に抜ける140号線を雁坂トンネル手前まで行く。渓谷は笛吹川の源流にあたるが、今は、その手前に広瀬ダムが造られ大きな湖になっている。西沢渓谷は、さらにその上流にある。
入り口前の駐車場について驚いた。平日なのに車が一杯。観光バスも数台ある。紅葉で有名なところとはいえ、ものすごい人出だ。歩き始めると、そのほとんどが中高年でリュックをしょったハイキング姿であることに気がついた。渓谷は一回り10キロほどの行程で4時間ぐらいかかる。渓谷の奥には甲武信岳。


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歩くつもりはなかったから、途中、滝をひとつ見たところで引き返したが、そうする人はほとんどいなかった。駐車場に戻って観光バスを見ると、三食付きで渓谷のハイキングと書いてある。いったい朝何時に起きたのだろうか。元気な人が多いが、旅行会社もプラン作りには工夫しているのだ、とあらためて認識させられた。もっとも、缶ビール片手に花見気分の紅葉狩りといった人や、ペット連れなどという人もいた。揺れる吊り橋や急坂などもあって、そんなに楽なコースではないはずなのだが、大丈夫だったのだろうか……。

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 日時:2005年11月01日

2005年10月25日火曜日

info@〜というスパム・メール

 ジャンク(スパム)メールは相変わらず多い。さまざまな規制が行われてもいっこうに減らないから、ほとんどあきらめているが、しかし何とかならないものかと腹が立つ機会は何度もある。特に旅行中はそうだった。たまにしか開けないから数百通のメールが一気に届いた。


メール・ソフト(Thunderbird)が自動的に「迷惑メール」を識別してゴミ箱に移動してくれるから、受信トレイには必要なものしか残らない。驚くほど賢くて感心してしまうが、一応ゴミ箱もチェックすることにしている。捨ててはいけないものがまぎれこんでいるからだ。しかし、旅行中はネット・カフェで勝手がわかりにくかったせいもあって、しっかり確認をしなかったら、いくつか必要なメールが消えてしまうことになった。


ここ数ヶ月、異常に増えているのは"info@〜"という送信者名のついたものだ。メイリングリストと間違いやすい書式で、ジャンク扱いされないようにする巧妙な工夫だと思う。これに「ご連絡」だとか「ニュース」などという題名がついていると、メール・ソフトも最初はジャンク扱いにしなかった。しかし、くるものを次々ゴミ箱送りにしていたら、最近ではほとんどを自動的に処理してくれるようになった。もっとも、ときどき必要なものがゴミ箱に直行してしまうから、気になって、ゴミ箱を開けてリストだけは眺めなければならない。


中身を開けることは最近ではほとんどないのだが、相変わらず「出会い系」や「アダルト」が多い。商品情報が中心の英文メールに比べると、その違いはあまりに大きい。毎日数十通もくるから、それなりに効果があるのだろうが、本当にあきれる内容ばかりである。たとえば、比較的おとなしいものを紹介してみよう。

成年男性の皆様へ。
 唐突なメール大変申し訳有りません。今回は30代以上の女性を主にご紹介したく 思いましてメールいたしました。30歳過ぎると女性は今までの性欲以上に過激なSEXを求めるようなのです。一切の躊躇もせず、大胆且つ刺激的なSEXができるなんて、とても素晴らしいことだと思いませんか?(info@bkdjeu.com)

只今男性会員不足なので、女性会員から逆指名されたケースが非常に急増しており、当サイトは貴方を指名した女性会員のメッセージだけではなく、直アドと写メ(公開中)も無料で貴方に配信致します。面倒な検索は一切不要です。(info@effk.com)
ぼくのところにこの種のメールが多いのは、メールのアドレスを公開しているからだと思う。そして同じように、HPで公開しているぼくのパートナーのところにも、同様のメールが同程度に舞い込んでくる。HPで発信し続けるかぎりは仕方がないとあきらめているが、最近父親から「変なメールが大量にやってきて困る」という相談をされた。すでに80歳を過ぎていて、HPなども公開してはいない。インターネットを時折利用する程度だからアドレスがわかるはずはないのだが、どうしてなのだろうと思ってしまう。考えられるのはプロバイダーの情報が流出したということだろう。そういう可能性も含めて苦情をいうことと、アドレスの変更を勧めたが、大手のケーブル会社だから、かなりの数のデータが漏れたのかもしれない。(こんなふうに書いていたら、たまたまNTTが形態のメルアドを何万件もネットに晒していたという記事を見つけた。)


この手の迷惑メールの発信先は圧倒的にアメリカだったのだが、最近では韓国や中国からのものが多いようだ。インターネットは国境を無視するから、なかなか対応が難しいし、規制をしても必ず新しい抜け道が見つけられてしまう。だから、ソフトの改善も含めて、後手後手にまわるのは仕方がないのだが、大きな被害が出ないことを望むばかりである。


迷惑メールといえば、ネットで買い物をすると拒否してもやってくるものがおおいことも付けくわえなければならない。一番悪質は楽天で、何度拒否してもしつこくやってくる。だから楽天では買い物はしないことにしているが、最近はAppleやAmazonからもやたらに送られてくる。必要なときにはこちらからアクセスするし、ほとんど用のないものばかりだから、これらも拒否しようかと考えている。


ネットがマスコミに対抗できるものになりつつあることはソフトバンクやライブドア、それに楽天などの鼻息の荒さでもよくわかるが、儲けのためには相手お構いなしという姿勢が、あらゆる面で露骨なのではないかとも思う。インターネットは個々のネットの互助努力によって成立している。このことが全く忘れられてしまっているのではないだろうか。 

日時:2005年10月25日

2005年10月18日火曜日

ロナルド・ドーア『働くということ』(中公新書), リチャード・セネット『それでも新資本主義についていくか』(ダイヤモンド社)


・阪神やTBSの株買収でにぎやかだ。ホリエモンの日本放送買収以来だが、今度はあまり支持する気にならない。村上ファンドは短期的な利益という手法が露骨だし、楽天は二番手で実利を得るというやり方が気に入らない。いずれにしても、金儲けしか考えない貪欲さばかりが目立つ気がする。
・株を買い占めて企業の経営に参加する。それは株式制度の原則だが、日本ではこれまであまり一般的ではなかった。株主総会は儀礼的なもので、せいぜい総会屋がいちゃもんをつけるという程度のものだった。それが最近、様変わりしている。どんな大企業でも、一度目をつけられたら、あっという間に買収されかねない。そんな危険はアメリカではずいぶん前から日常茶飯のことだったが、日本でも頻繁になるのだろうか。
・日本の企業はこれまで、信頼関係にあるもの同士で株を持ち合って、買い占めを予防してきた。そのような体質が馴れ合いとして批判され、市場に晒して体質を強くしなければ、海外からの資本の流入に対応できないといった論調が自明のことになってきた。
・ところが一方で、「生き残り」を理由に働く人たちにかかる圧力や時間の拘束は大きくなるばかりだし、雇用形態をパートやアルバイトに変えて人件費を削減するといったやりかたも露骨だ。「サービス残業」などという奇妙なことばが使われても、力の弱くなった労働組合には、強く批判して抵抗することもできない。

dore1.jpg・ロナルド・ドーアの『働くということ』は、このような変化を「従業員主権企業」から「株主主権企業」への移行だという。村上ファンドの言い分はまさにこの通りで、「株主の声を聞け」が脅し文句の一つになっている。企業は株主のためにある、ということになると、従業員は何のために働くのだろうか。自分のために働いて、正当な報酬を得る、ということだとすると「サービス残業」をなぜしなければならないのかわからなくなる。そんな理不尽さに嫌気がさして転職をしても、どこも似たようなものだから居心地は変わらない。


1993年からの10年間、正規労働者が9%減っている代わりに、パートタイム労働者が31%、フリーターが83%増え、さらに派遣労働者(まだ全体の1.3%ですが)が342%増えました。非正規労働者は全体の20%から37%に達しています。(p.101)

・「市場原理」を第一にすれば、当然、勝ち負けがはっきりする。しかも勝つのはごく少数で、大半は敗者になる。これはアメリカが昔から是としてきた原理で、だからこそ、「アメリカン・ドリーム」が現実味を帯びた目標になり続けてきたし、「不平等社会」を黙認する理由にもなってきた。ドーアはしかし、そのような傾向がアメリカでも、一層顕著になっているという。

アメリカ企業トップ100社のCEOの所得は……1970年には平均的従業員のサラリーマンの39倍だったのが、今日では1000倍以上になりました。(pp.136-137)

・ドーアはこのような変化の原因として、1)低賃金の発展途上国による競争の激化、2)技術変化によって引き起こされる技能割増金の拡大、3)スーパースター現象の三つをあげている。先進国では単純労働はますます低価値になり、新しい技術や技能を習得した者が有利になる。とりわけ、突出した者に桁違いの価値がつくというわけだ。このような現象はもちろん、アメリカでも「不平等化」をもたらす問題として深刻だが、いったい日本人にどれだけのストレスになるのか、空恐ろしい気がしてしまう。

sennett1.jpg・リチャード・セネットの『それでも新資本主義についていくか』(ダイヤモンド社)には、このような経済システムの大きな変化が「フレキシブル」「リエンジニアリング」「ネットワーク」「キャリア」といった新しい魅力的に見えることばとともに押し寄せてきたことが力説されている。「ニュー・エコノミー」は「キャリア」を持続的で一貫したものから短期的でフレキシブルなものに変えた。また、組織をピラミッド的なものからネットワーク型に変えた。あるいは過去にとらわれない大きな変化をよしとする「リエンジニアリング」という手法を一般的にした。そして実際、このような手法をいち早く導入し、意識の高い人を集めた会社が成功し生き残ったというのである。セネットはその典型例をIBMの凋落とマイクロソフトの台頭に見ている。
・しかし、このような変化は、働く人びとにはいったいどうなのだろうか。『それでも新資本主義についていくか』の視線は当然、そちらのほうに向けられている。たとえば、勤務時間のフレキシブルな管理には、労働の世界に多くの女性が参加したことが理由にあげられるが、一部の恵まれた従業員の特典にはなっても、多くの人には低賃金のパートタイムでの仕事の増加にしかなっていない。時間を自由に決められるパートタイム労働は、安価な労働力となって、働く者よりは雇用する者を利しているのが現実だという。その意味では、フリーターの増加は、若い世代の自発的な選択ではなくて、労働市場に大きな原因がある。
・状況がけっして良くないのは、勝ち上がったと思われる人たちにも散見される。勝つためには「リスク」を恐れてははじまらないが、それは時にはリスクを回避するといった冷静な判断を躊躇させてしまう。「人びとが賭に打って出るのは、自負心からではなく、打って出ないと、最初から負けと認めることになるからだ。一人勝ち市場に参入する人は、失敗の可能性を知っていながら、それには目をつぶる」(p.120)ことになりがちだからだ。仕事が、あるいは人生が、ゲームやギャンブルになってしまうのである。そんなリスクの経験は遊園地の乗り物やスポーツ観戦で十分と思うのだが、どうだろうか……。
・フレキシブルでネットワーク型の職場には年齢を重ねることで積み上げられていく「キャリア」は必要ない。だから、歳をとればその職場には居づらくなる。私はほんのつかの間必要とされる人間に過ぎないから、そこには信頼関係も生まれにくくなる。長い人生を生きていく上で仕事とはいったい何なのか。そんな疑問が当然おこることになる。感覚的に鋭い若い人たちが、そんな世界に踏み出したくないと考えてしまうのももっともだと言えるのかもしれない。自己破滅を招くのはあきらかに、無欲ではなく貪欲のほうだろう。生きにくい社会になってきたな、とつくづく思う。 


2005年10月11日火曜日

ヴェロニカ・ゲリン

 

・イギリス・アイルランド旅行の余韻をいまだに楽しんでいる。BSで放送している欧州鉄道の旅は出かけるまえにもよく見ていたが、帰ってきても欠かさずに見ている。すでに再放送で、何度もやっているものだが、乗った列車や見た車窓の風景などがあると、また印象がちがう。
・おなじことは映画にも言える。ロンドンが舞台の映画などに出くわすと、ストーリーなどは関係なく、移る風景に関心が向いてしまう。一度現地に行くと、感覚的にどのあたりなのか察しがつくから不思議だ。もっとも逆はあまり役に立たなかった。『ノッティイングヒルの恋人』を直前に見ていて、実際に行ったのだが、映画のイメージとはずいぶん違っていて、どこがどこだかわからなかった。映画は実際の地理には関係なしにつくられたりする。だから、見る側に地理的な感覚がインプットされていなければ、どうしようもない。逆に見覚えのある風景なら、ほんの一瞬でも気づくといったことだろうか。
・同じような興味で、たまたまwowowで放映していた『ヴェロニカ・ゲリン』を途中から見た。アイルランドのダブリンが舞台で、麻薬密売ルートを取材して、ボスを突き止めるジャーナリストの物語だ。1996年に実際に起きた事件をもとにしているという。記者は殺されるが、それを機会に麻薬ルートが明らかにされ一掃されたらしい。勇敢な女記者を中心にしたストーリーだったが、関心はもっぱら、風景とサウンドトラックにむいてしまった。
・アイルランドの治安はよくない。特にダブリンは気をつけろ、といった話はよく見かける。以前に紹介したことがある栩木伸明『アイルランドのパブから』は、アイルランドに行きたい気にさせた一冊だが、それほど物騒ではないことを教えてくれたと同時に、アパートに泥棒が入ったり、近づいては行けない地区があったりということも認識させた。
・ダブリンには二泊したが、歩き回ったのはほとんどにぎやかなところか観光客がたくさんいるところだった。鉄道の駅やホテル、あるいは飛行場の間はバスや路面電車を利用した。歩いてい行けない距離ではないところでもそうしたが、突然物騒な一角に入り込む危険性があるといったことが旅行案内に書かれていたからだ。映画の舞台になったのは、当然、旅行者は危ないから近寄るな、といわれているところで、どこがどこだかさっぱりわからなかった。
・ヴェロニカ・ゲリンが麻薬に注目したきっかけは、麻薬中毒で死ぬ少年少女の存在だった。学校にも行かず、仕事もせず、路上でたむろする子供たちと、彼や彼女たちを食い物にする麻薬シンジケート。どこの国にもある闇の部分だが、アイルランドでは、それはごく日常的な風景の一つに過ぎなかった。イギリスに属する北アイルランドの独立を求めた運動は、IRA(カトリック系武装派アイルランド共和軍)によるテロなどの過激な行動が続いていたし、国の経済は立ち後れたままだった。
・アイルランドが変貌するきっかけは1990年の女性の大統領、メアリ・ロビンソンの登場以降だといわれている。1993年にイギリスとの間ではじまった北アイルランドを巡る和平交渉は紆余曲折があってなかなか進展しなかったが、政治や経済の改革は進んだ。ゲリンの事件は、そんな大きく変貌するアイルランド社会を象徴する出来事だったといえるかもしれない。
・映画はもちろん、そんなアイルランドの歴史や現状を強調したりしない。暴力や脅しにもひるまない勇敢な女性記者のヒロイックな物語に仕立てあげられている。その意味で言えば、不満が残るが、主人公のヴェロニカ・ゲリンを演じるのはケイト・ブランシェットで、監督は『バットマン』や『オペラ座の怪人』をつくったジョエル・シュマッカー。これは正真正銘のハリウッド制作の娯楽映画なのである。もっとも、当然ながらサウンドトラックにはアイリッシュ音楽が流れていて、その最初と最後にはシニード・オコーナーが使われていたから、早速購入してしまった。
・アイルランドの変貌は現在進行形である。その様子はたった数日滞在した旅行者の目にもよくわかった。変わったところ、変わらないところ、そして変わりつつあるところ。音楽だけでなく、国そのものの歴史や現状にますます興味を持ち始ていて、次はいつ、どこへ行こうかなどと考えたりしている。「アイルランドにはまるとくりかえし行きたくなる。」旅先で出会った日本人の青年のことばが、ここにきて実感として理解され始めている。

2005年10月4日火曜日

大工仕事、内と外

 

forest46-1.jpg・イギリスから帰ってしばらくは時差ぼけに悩まされた。河口湖とはいえ、湿気の多い暑さにも参ったし、旅の疲れもあった。だからぼやっとして何もしない日が数日続いたのだが、しばらく前から気になることがひとつあった。休みが終わる前に、玄関と庭先のバルコニーのペンキを塗らなければならないことである。

・で、改めてバルコニーを点検すると、玄関先の板のほとんどに腐りがある。「うわー、まいったなー」と思ったが、ペンキでごまかしても、何年ももつわけではないから、木を張り替えることにした。まずは材料の調達。近くのホームセンターで木を買い、車で運んだが、2m40cmの長さだと助手席を倒してフロントガラス近くまできてしまう。急ブレーキをかけたらガラスを割ってしまうかも。だから片手で運転して、左手は木を押さえるという形になった。翌日からすぐに修理を始めようと思ったのだが、天気が悪い。それで一週間ほど待たねばならなかった。

forest46-2.jpg・作業は単純だが力がいる。柵を分解し、板の釘を全部抜いて取り除く。はがすと外からは見えなかった腐りがまた数本見つかった。柵も変えた方がいい。しかし、さいわい、土台にも湿りはあるが腐ってはいない。そこで中断して、ホームセンターに追加の材料を買いに行く。
・作業再開。新しい板をかぶせていく。次は釘打ち。10cmほどもある長い釘だから、一本打ち込むのにもかなり叩かなければならない。しばらくやっているうちに手がくたびれていたくなってきた。で、一日目は途中で終わり
・二日目は残りの釘打ちをし、板にペンキを塗り、柵を作った。同じ長さの棒を買ってきたのに隙間ができるのが何本もある。きちっと切っていないのか板にゆがみがあるのか。柵ができあがると二回目のペンキ塗り。予定よりペンキの消費量が多い。庭先のバルコニーを塗るほどは残っていないのでまたホームセンターに出かける。ついでに階段用の板も買っておくことにした。

forest46-3.jpg・三日目は庭先のバルコニーのペンキを塗った。こちらの方が三倍ほどの広さがあって、塗るだけで一日かかってしまった。余裕を持って買ってきたはずのペンキもなくなってしまって、重ね塗りするためにはまた買いに行かなければならない。買ったものにほとんど無駄はなかったが、3万円ほどかかった。大工さんとペンキ屋さんを頼んだら10万円はかかるかもしれない。できあがりもまずますで、気分良く仕事を終えた。
・バルコニーにおいているゴシップチェアにはオーク・レッドのペンキを塗った。半透明だからカビでまだらになった木面は変わらないが、少し赤くなって落ち着いた感じになった。今度はこの色でログを塗ろうか、と考えたが、面積の広さはバルコニーの何倍もあるし、高いところにはハシゴを使わなければならない。木が腐っていることはないが、汚れを落とすのにもかなりの時間と手間がいる。やるのなら積んである薪がなくなる春先なのだが、さあどうするか。

forest46-4.jpg・そんなわけで、数日、トントン、カンカンとにぎやかだったのだが、じつは家の中でも数日前からガリガリという激しい音がする。屋根裏に済んでいるムササビが木をかじっているのである。どうも繁殖期になるとはじまるようだが、今回はいつになく激しい。壁を叩いてやめさせようとしても一切関知しない。「おいこら、いい加減にしろ!」などとどなっても、何の効果もない。普段は昼は寝ているのだが、いつまでたってもガリガリやっている。2階の屋根に上がって下をみると、軒先の屋根に木くずが落ちていたりするから、見逃すわけにはいかないという気になってきた。

・ムササビは夜行性で夜8時頃出かけて朝4時頃に帰ってくる。どうも2匹いそうだと思ったのだが、早起きのパートナーが、帰ってきたムササビにカメラを向けた。姿はわからないが目の輝きが2個所にある。彼女を見つけて、住まいをリフォームしようというのだろうか。あるいは、出産の準備なのか。いずれにしても困ったことで、どうしようか悩んでしまっている。野生の生き物との共生というのは何とも美しいイメージだが、巣の様子を確認できないから、心配の種は尽きない。

2005年9月27日火曜日

ディランの海賊版と自伝

 

dylan1.jpg・ディランの海賊版(Bootleg)は無数に出ていたが、そのオフィシャル版もすでに何種類も発売されている。"No Direction Home"はその新作でマーチン・スコセッシが編集したドキュメントのサウンドトラックということになっている。DVDで発売されているが、アメリカではテレビ放映されたというから、日本でも放送されることを期待して、僕は買わないことにした。

・海賊版はコンサートでの隠し録りやミュージシャンが売り込むためにつくるデモ・テープ、あるいは没になったスタジオ録音などさまざまだが、ディランの海賊版はその多様さや売り上げからいっておそらく1番だろうと思う。海賊版はレコード会社にとっては何ともやっかいな存在で、そのためにオフィシャルのアルバムが売れないということもおこるのだが、ディランについてはそれを逆手にとって海賊版シリーズを音のいいヴァージョンとして売り出している。1966年の伝説的なコンサートや75年の風変わりなライブ・ツア、あるいはデビューから現在までのライブをまんべんなく網羅したものなど、ファンにとっては見逃せないものがたくさんあって、僕もそのほとんどを買ってきた。"No Direction Home"はデビュー前のものから大きなヒット曲となった"Like A Rolling Stone"まで多様だが、ほとんどが未発表のものでなかなかいい。同じ曲をちょっと違うからという理由で、何曲も手にして喜んでいるというのはマニアックと言われてもしかたがないが、やはりディランだけは別格、という理由を口実に何度も聞いて喜んでいる。聞いているとスコセッシのドキュメントが見たくなる。DVDにしておけばよかったなどと考えていて、ついでに買ってしまおうかという気にもなっているから、しょうがないといえばしょうがない。

dylan2.jpg・ディランについてはCDやDVDだけでなく、つい最近本も発売された。『ボブ・ディラン自伝』(ソフトバンクパブリッシング)という題名の通り、ディラン本人による伝記である。ちなみに原文のタイトルは"Chronicles"で、Dylanとつけないところ、複数にしているところが何とも奇妙でおもしろい。著者がディランなのだから題名に名前はいらないということだろうか、複数になっているのは続編があるからということらしい。
・だいたい自伝というのはおもしろくない。過去は美化して、あるいは都合よく記憶しているものだし、文章にしようとすれば、気取りが出るし、脚色もしたくなる。ふれてほしくないところ、誤解してほしくないところなど、他人が書けば一番注目するところがふれずじまいといったこともある。だから、読みはじめるまでほとんど期待していなかった。

・ところが、読みはじめたら止まらない。彼の伝記は何種類も読んで、特に若い頃の話などは自分のことのようにわかっているはずなのに、新鮮な感じがしてとりこまれてしまった。本の章構成は時間通りではない。話題はあっちに行ったり、こっちに来たりする。知らない実名もたくさん登場する。だからわかりにくいはずなのにリアリティがある。理由はその克明な記述にあるのだと思う。彼は毎日日記をつけていたのかもしれない。でなければ、とんでもない記憶力の持ち主なのか。いずれにしても、その具体的な描写には驚いてしまった。

・ありありと想像できる描写のほかにもう一つ、とてもすがすがしい感じを覚えながら読んだ。その理由は、登場人物に対する敬意というか信頼が感じられたことだ。特に若い頃のディランは皮肉屋で辛辣な発言が多かったから、素直さと淡々とした文体は意外な感じがした。年の功なのかもしれない。

・ニュー・ジャージーの病院に入院するウッディ・ガスリーを見舞いに行った話、ジャック・エリオットを知って、その才能に驚愕し、自信喪失した話、ディブ・ヴァン・ロンクのかっこうよさや知識に憧れ、なおかつステージの仕事を世話してもらった話。彼はニューヨークに来て一年以上も、たまたま知り合った人たちの家に居候して暮らしている。そこでただ飯を食い、レコードを聴き、蔵書を読んで勉強もしている。本にしてもレコードにしても、それぞれにこだわりのあるコレクションばかりだったから、それを吸収することでディランが得たものは計り知れなかったようだ。

・この自伝は、そんなデビュー前のニューヨークでの生活から始まって、次にはウッドストックに隠遁していた時期の話に移る。反戦運動、あるいは対抗文化運動の旗手としての役割を押しつけられることの苦痛、苦悩が語られている。妻や子供との生活が乱され、次々と居場所を変えて落ち着くことのできない日々が思い出されている。ウッドストックのコンサートはディランの登場を当てにして行われたものだが、そんな主催者の思惑にディランが乗るはずもなかったことは、この本を読むとよくわかる。そして最後は、故郷と家族、それにミネソタ大学に通った話、あるいはニューヨークでした最初の恋愛の話になる。

・この第一話には、ディランが華々しく活動していた時期のことは何も書かれていない。一見バラバラに思える章立てだが、行き先のわからない迷いの時期という点では最初から最後まで一貫していて何の違和感もなかった。思いつきのように見える構成も、実際にはずいぶん考えた上でのことだということがわかる。続編が待ち遠しい。

2005年9月20日火曜日

ユートピアについて

 

yutopia1.jpg・ユートピアについての本を読んでいる。もっとも最近書かれたものはない。ユートピアということばもあまり使われない。それではなぜユートピアかというと、ライフスタイルについて考えるためである。現在の日本人の生活や生き方はいいものなのかどうか、理想に近いものなのか、あるいは遙かに遠いものなのか。それを考えるための尺度として、古今東西のユートピア論、ユートピア小説を読もうと思ったのである。


・いわゆる「ユートピア」と名がつく物語はそれほど多くはない。誰もが名前ぐらいは知っているトマス・モアの『ユートピア』とウィリアム・モリスの『ユートピアだより』ぐらいかもしれない。けれども、理想郷をテーマにしたものは、モア以前から存在するし、モリス以降にもたくさんある。あるいはSFなどに目を向ければ、これはもう無数と言ってもいい。とても全部というわけにはいかなかったが、そのいくつかと数冊の「ユートピア論」を読んでみた。


yutopia3.jpg・トマス・モアの『ユートピア』は、1515、6年頃に書かれている。当時のイギリスの政治や社会の状況を痛烈に批判した風刺小説という意味合いが強い。『ユートピア』はラテン語で、あくまで人に聞いた話として書かれたが、それは彼が時の国王ヘンリー8世の下で重要な地位についていたからである。ヘンリー8世は離婚を目的にカトリックを離れプロテスタントを国教としたことで有名な暴君だが、モアは彼によって断頭台にかけられている。理由は『ユートピア』ではなく、カトリックを支持し続けたことにある。
・「ユートピア国」には貨幣制度がない。また貴金属は価値がないものとして認識されている。つまり、財産の私有が認められていないし、国民のほとんどは、それを必要と考えていない。だから虚栄や搾取といったこともない。人が生きていくのに必要なものはまず食べ物だが、それはすべての国民の手でつくられる。もちろん都市に住んで様々な専門職に従事するものはいるが、その人たちも収穫の時期には田舎に出かけて手伝いをする。そうすれば、一日6時間働くだけで、国から飢饉はなくなるという。したがってユートピア人には、一日の3分の1を自由に過ごすゆとりがある。それを使って人びとは団らんし、また勉強をする。それはきわめて合理的で、清く正しい世界である。

・生活の必需品にしろ文化品にしろ、あらゆる必要な物資を潤沢豊富にそろえるのには、6時間という時間は決して足らないどころか、むしろ多すぎるくらいなのである。このことは、他の国々においてはどんなに多くの国民が遊んで生活しているか、ということをとっくり検討する時、自ずと判明することがらである。(84ページ)

・遊んで生活している人とは、司祭や聖職者、王侯貴族、地主、紳士といった支配層、あるいはそれに雇われている人たちをさしている。だれもが働き、財産を一人占めしなければ、飢える人が出る社会は克服できるし、病院をつくって伝染病による大量死を防ぐこともできる。ここには当時のイギリスやヨーロッパ諸国の現状に対する痛烈な批判が読みとれるが、そこにはまた、マルクス以前に発想された共産主義的な理想郷という性格もうかがえる。

yutopia2.jpg・ウィリアム・モリスの『ユートピアだより』は1890年に書かれている。モアの『ユートピア』から400年近くたっているが、イギリスの社会、とりわけ人びとの生活は改善されていない。もっとも、社会そのものは大きく変動して産業革命が起こり、イギリス人の多くは都市生活者になった。生活の劣悪さと貧困は、その都市で起こる現象になっている。19世紀にはイギリスは世界中に植民地をつくり、ヴィクトリア女王の下でもっとも繁栄する国となったが、モリスがユートピアを描いて批判したのは、モア同様に時の支配層である。ただし、そこには近代化の中で台頭したブルジョアという新しい階級が含まれている。モリスはマルクスに共鳴して社会主義的な社会を提唱するが、そこにはまた、機械によって支配されない人間の手仕事やデザインや美観を重視した建築物や道具、あるいは印刷物といった発想と実行がある。彼は思想家であり作家、あるいは詩人であると同時に、建築物や木工用品のデザインを手がけ、自著を自分の手で出版した。ロンドン郊外にあるケルムスコット・ハウスには当時の印刷機が残されている。


yutopia5.jpg・ケルムスコット・ハウスはロンドンのテムズ河畔にある。ケルムスコットはコッツウォルド地方にある村の名で、モリスはその間をボートで行き来した。ロンドンからコッツウォルドまでのボートでの行程は『ユートピアだより』にもある。残念ながら今回の旅ではケルムスコットには行けなかったが、その近くのバイブリーでは、マナハウスに一晩泊まって周囲の景色や雰囲気を楽しんだ。

・モリスが『ユートピアだより』で描いた世界は近代化によって劣悪になった社会環境とブルジョア階級の強欲さを批判したもので、やはり人びとは衣食住に関わるものを金銭でやりとりはしないし、また私物化しようともしない。そして大量生産で出回る粗悪品は排除されている。衣食住に必要なものは人びとが共同して生産し、そこに従事する仕方も積極的なものだ。つまり、人びとは自分の生き甲斐としてものを工夫してつくり、技を磨こうとする。20世紀になってモリスの理想は一つはロシア革命とソヴィエト連邦の誕生となって実現する。そしてもう一つは大量生産品にデザインや品質の工夫をするといったバウハウスの発想や、アメリカにおける商品文化の台頭へとつながっていく。 

・トマス・モアの『ユートピア』は外国に旅して理想郷にたどり着いた者の話として描かれている。それはコロンブスのアメリカ大陸発見以降の大航海がヨーロッパにもたらした驚きや富、そして世界認識の変化を反映したものだ。一方、ウィリアム・モリスの『ユートピアだより』は主人公が一時期未来に行ってしまうという想定で書かれている。異世界の創造が空間から時間に移行したというのは、19世紀がそれだけ未来や将来のことを現実的なものとしてとらえるようになったことを意味している。


・20世紀になると、この時間を未来に設定した物語がたくさん書かれることになる。その代表はH.G.ウェルズで『タイムマシーン』といった時間を旅する道具そのものが題名の小説も書かれた。科学技術と機械によってもたらされる世界は、一面では人びとに無限の可能性を夢見させる。しかしまた同時に、とんでもない悪夢の世界も想像させる。機械に抑圧される人間、機械を使って管理される人間。20世紀の前半だけでなく、後半、あるいは最近でも、このようなテーマで書かれる小説や映画は数多い。


yutopia6.jpg・「デストピア」つまり逆ユートピアをテーマにした作品としてはG.オーウェルの『1984年』と『動物農場』が有名である。それらは革命後に全体主義的な国家に変貌したソ連やヒットラーのドイツを批判した物語だと言われたが、また同時にメディアが発達して管理化の進んだ先進資本主義の社会にも当てはまるのだともされた。『1984年』は1948年に書かれ、普及し始めたばかりのテレビが国民を監視する道具として使われる独裁国家が舞台だった。小さな部屋の壁一面をおおう巨大なテレスクリーンは双方向で、政府の宣伝を流すと同時に人びとの行動を監視する。空恐ろしい世界として描かれたが、今多くの家にはテレスクリーンに負けない大画面のテレビがあり、双方向のインターネットに接続されたパソコンがある。そして町のいたるところに監視カメラ……。それを異様と思わないのは、それが危険なものではないとわかったからなのだろうか。それとも危険さに無自覚なだけなのだろうか。(上の写真はオーウェルがはじめて就職したロンドンの北にある本屋さん跡に掲げられた記念碑、今はピザ屋さんになっている)


・科学技術と機械を駆使した上にできる理想郷とそれとは反対に、それらを全く拒否した上で達成されるユートピア。この関係は60年代にでた「対抗文化」のなかでも大きな議論となる。クリスチャン・クマーの『ユートピアイズム』(昭和堂)にはユートピア理論に共通してみられる特徴として人間とその理性に対する信頼があるという指摘がされている。


・物質的に豊かで、社会的に調和が保たれ、個人の自己実現が可能であるような多少とも永続的な状態を生み出すことを不可能にしてしまうものは、人間や自然、社会の中には存在しない。(48ページ)

・60年代の対抗文化は「性と文化の革命」と言われた。欲望の解放を可能にし、なおかつ人びとが競争や対立ではなく、共同と融和によって暮らせる社会。その理性と人間の欲望、それを誘発させて自己増殖する資本主義のシステムの関係に取り組んだマルクーゼは、『エロス的文明』『一次元的人間』などを書いて「対抗文化運動」のイデオローグとなった。

・このような問いかけはしかし、70年代になると説得力を持たなくなってしまう。マルクーゼのことばで言えば「ニセ」の欲望、快楽、あるいは幸福が、「真の」もの以上に魅力的なものになって人びとを魅了するようになったのだ。「消費社会」の到来が「対抗文化」の後に訪れたというのは何とも皮肉だが、その原因や理由は、必ずしもきっちりと検証されたわけではない。

yutopia4.jpg・夏休みに読もうと思った本は、その半分以上が残ったままだ。読書の秋にがんばろうということにしているが、読まなければならない本が芋づる式に次々出て、ため息ばかりをついてしまうこのごろである。読めなかった理由はイギリス・アイルランド旅行だが、ロンドンでは、その「対抗文化」やその後の「若者文化」についてもふれてみようと思った。60年代に有名になったロック・ミュージシャンの多くは大富豪になって城の住人になり爵位を授かったりしている。その後を追いかける気はなかったが、パンク発祥の地の「キングスロード」は落ち着いたファッション通りになっていたし、今一番元気だという「カムデンロック」も、にぎやかなのはがらくた市で、新しい文化が生まれそうな感じは受けなかった。もっとも「コミケ」や「フリマ」が最近の若者文化の特徴だから、両方の通りとも、それなりに新しかったのかもしれない、などと納得したりもしている。


2005年9月15日木曜日

トイレ・喫煙・etc.

 

・出かけたときにトイレの場所がわからず困るといった経験はたまにある。子供が小さかった頃はいつでも気にして、早めにおしっこを確認したことを今でもよく覚えている。それでも、たとえば渋滞の高速道路などでは、もうどうしようもない。仕方がないからペットボトルに、といったことがあったかもしれない。そんなトイレについての困った体験を、今回の旅行で久しぶりにした。


・ロンドンの町には公衆トイレが少ない。特に地下鉄駅には見あたらないし、あっても有料のが一つといった具合だ。それはデパートやショッピング・センターでも同じで、30ペンスを払って用を足すといったことが何回かあった。一回は突然、大きいのをもよおしてきて、乗りもしないのに地下鉄の駅に行って有料トイレに入った。当然、すぐにはすまない。長居をして、すっきりしたところでドアを開けると数人の行列。誰に不平を言われたわけではないが、視線があったとたんに恥ずかしくなってその場を急いで離れた。パートナーが笑いながら「使用中はなんて表示されていたかわかる?」なんて聞いてきたが、そんなことに注意を向ける余裕があるわけはない。

・けれども気になって別の機会に確認すると、"Vacant"と"Engaged"となっていた。「空き」はわかる。しかし "Engaged"は「従事する」とか「没頭する」といった意味で「使用中」のことだとはすぐにはわからなかった。だから、従事したり没頭したりするのは利用者のことかと勝手に考え、ずいぶん直接的な言い回しだと思ったりした。後で辞書を調べるとたしかに「「使用中」とある。そして従事するのはトイレそのもので、そこで用を足す人の様子を形容したものではないことがわかった。しかしそれにしても素直な言い方で、アメリカでは"Occupied"(専有中)とちょっと遠回しである。


・そのトイレだが、日本では便所という直接的なことばは最近ではほとんど見かけない。かわりに手洗い、化粧室、あるいはカタカナでトイレ、さらには英語でrest roomと表示されていたりする。アメリカでもrest roomが多かったように思うが、イギリスやアイルランドではどこでも「トイレ」で一貫していた。では、性別はどうかというと"Lady"と "Gentleman"あるいは"Gents"で、アメリカの"Woman""Man"に比べて丁寧な感じがする。さすが紳士淑女の国と思ったりするが、それは何百年も当たり前に使われてきたことばだから、特に丁寧な言い方という感覚はないのかもしれない。


・イギリス人(といってもあまりに多様で驚いたが)は、アメリカ人ほど大きくはない。僕と変わらない人も大勢いる。けれども、トイレの小便用の便器はえらく高い位置にあって、いつでも背伸びをする感覚を強要された。しかし、違いは背の高さではなく足の長さかと気づいて安心したり、がっかりしたり。また観光地などではステンレス製の樋のような形状をしているところが多くて、これにもずいぶん違和感をもった。樋が膝上あたりにあるから、並んで用を足している人たちの小便が混ざり合って流れていくのがよく見えるからである。連れションするのも多生の縁ということか、などと妙な納得をしたが、感覚的にはいい気持ちではなかった。


・これほどトイレが気になったのは、その少なさを不安に思って、すぐに尿意を感じてしまったからだ。用を足しても30分もするとまたすぐにしたくなる。で、行っても少ししか出ないし、我慢すればできないわけではない。しかし、したくなる。これは明らかに軽い神経症で、バスに長時間乗るときなどは飲み物を控えるようにせざるをえなかった。イギリス人はいったい、この自然現象(Nature calls me)をどう処理しいているのだろうか。

・僕はヘビー・スモーカーではないが、我慢するのはつらい。だから飛行機で禁煙を強いられる海外旅行は、ここ数年敬遠してきた。行かなかった最大の理由がそれだったといってもいい。もっとも、全面禁煙になる前から飛行機は大嫌いで、特に離着陸の不安定なときにはいつでも生きた心地がしないから、なおさらという感じだった。それが今年の春にしたハワイ旅行で少しだけ払拭された。飛行機は相変わらず怖いが、タバコは吸わなくても我慢できることがわかったからだ。ただし、アメリカ行きの便ではライターが没収されるというニュースがあったこともあって、飛行機はもちろん、どこでも吸いにくいのだろうなと予測はしていた。そうは言っても、吸いなれているウィンストンの赤箱を1カートン、バッグに入れることは忘れなかったが……。


・ところがロンドンに着いてみると、建物内には禁煙マークが目立つが、一歩外に出れば禁止する表示は何もない。実際に多くの人が歩行喫煙をしているし、吸い殻入れがないから平気でポイ捨てしている。路上には吸い殻が一杯なのである。本当にほっと一息、ついでに久しぶりの一服。頭がくらくらするほどよく効いた。
・確かめたわけではないが、イギリスにおける建物内での禁煙は、条例で一方的に定められたもので、イギリス人の間に自発的な強い動きがなかったのではないかという気がした。実際、建物内ではあってもホテルのロビーには灰皿がおいてあるところがあったし、喫煙可の部屋もあった。レストランでも必ず席を喫煙にするかどうか尋ねてきて、一角では食後においしそうに吸う人が多く見かけられた。

・またまたところがである。アイルランドにはいると状況は一変。建物内ではほとんど全面禁煙になった。可哀想なのはパブで、酒とタバコはつきものだが、客たちは吸いたくなると表に出て外で吸わなければならない。だからどこのパブも入り口にはタバコを吸う酔客がたむろする。観光客にとってはきわめて入りいにくい光景だが、観光客を呼び込むためにマナーの徹底を急ぐという姿勢がありありだった。アイルランドのパブでは、観光用として新しく作られたゾーンはともかく、従来からある店では、ほとんど食べるものがない。客はただひたすら黒ビールを飲んで、しゃべり、歌い、踊る。そこにタバコは不可欠だと思うが、そのイヤな煙と臭いは消さなければならないというわけである。ところが店内は、タバコの臭いは消えても小便の臭いが充満しているから、決して居心地がいいわけではない。聞きたいライブ音楽がなければ、とても長居はできないし、そもそも入ったりしないだろう。第一僕は、最初の晩、その入りづらさに躊躇して、あきらめてホテルに帰ったのである。


・広告塔や立て看板の有無、建物の様子、町行く人の格好などを比較すると、イギリスとアイルランドの生活格差がよくわかる。イギリス人は背筋を伸ばして大股で歩くが、アイルランド人は少しうつむき加減で、たらたらという感じがする。アイルランドは近代化が遅れ、今やっと経済成長をし始めたところだが、そんな状態が人びとの挙動からもよくわかる。そんなところへの突然の禁煙化条例なのだと思う。聞いたわけではないが、パブの客はさぞぶつくさ文句を言いつつ、法を破ることはせずに、タバコを吸いに店の外に出るのだと思う。
・それに比べてイギリス人は、たとえ禁煙が国際的な風潮であっても素直には従わない。そんなプライド、あるいは個人主義的な考え方があるのだろうか。つんとすまして姿勢を正して歩くイギリス人と、田舎で出会う人たちの人なつこさや親切さを感じさせるアイルランド人。そう対照させてもいいかもしれないが、イギリス人が冷たいといわけでは決してない。僕らが行き場所を探しあぐねてウロウロしていると、どの人も、声をかけて助けを申し出たりしてくれた。あるいは、こちらから尋ねれば親切に応じてくれた。

・そう思うと、最近の日本人のことが気になった。東京にはすでに、田舎の人情はない。しかしまた、自分の行動には自分で責任をという個人主義的な態度も育っていない。禁煙条例が出れば渋々したがう従順さがあっても、人びとの間につながりを感じさせようとする態度はほとんどない。イギリスもアイルランドも人びとの顔は本当に多様だ。その人たちが互いに相手を意識し、気遣いあって生活している。対照的に日本はというと、ほとんど同じ顔をした人たちが互いに全くの無関心・無関係でいるから、一見平穏に見えても、自分勝手で殺伐とした感じがしてしまう。

 

・ロンドンの街角のあちこちにStarbucksがあった。それは、リバプールにもブリストルにもあったから、イングランドの大きな町ならどこにでもあるのだろうと思う。もちろん「スタバ」でなくても「カフェラテ」は注文できた。シアトルで生まれたコーヒー・ショップがあっという間に世界中の都市に出現したということなのだろうか。僕は値段の高いスタバは使わず、名も知れないスタンドやカフェを利用したが、イギリス人がこれほどコーヒーを飲む人たちだとは想像もしなかった。ここは紅茶の国ではなかったのか。


・それは世界(とは言っても一部の都市だが)同時発生的な流行の象徴だと言っていいかもしれない。しかし、そのように感じたのはほかにもいくつかある。女の子(時にはおばさん)の臍下(あるいは半ケツ)出しである。ぼくはあまり都心に出て行かないから、大学でおとなしいのをちらほら見かける程度だったが、ロンドンでは、その洪水に悩まされた。しゃがんだりすると本当におしりが半分露出してしまう。目のやり場に困るというよりは、そこに目がいってしまう自分の関心の強さにとまどい、見ていることをさとられることに恥ずかしさを覚えた。もっともそれは最初の数日で、しばらくたつとごく当たり前の光景に見えてきたから、不思議といえば不思議である。


・しかもそれはロンドンばかりでなく、イギリスの各地、あるいはアイルランドでも見かけ、女だけではなく男も、町行く人ばかりでなくウェイターやウェイトレス、店員などにも多かったから、すでに先端的な流行ではなく、ごく当たり前の普段着になっているのだろうと思った。これをもちろん非難する気はないが、腹の突き出た人まで平気で晒しているのはどうかと思った。特に男の半ケツなどはオエッとしてしまう。自分の後ろ姿に気づいているのだろうか。自信のある女の子は腰にタトゥをしていて、そこが見せる場所であることをはっきり自覚していたが、本物ばかりでなく一時的なものを書いてくれる場所は、確かにあちこちにあった。見せることはそこを美しくすることにつながる。とは言え白人の肌はけっしてきれいではない。イギリスの水はミネラルがたくさん入った硬水で、肌の油分をとってかさかさにしてしまう。だから老化が早く、大きなシミができてしまうようだ。そんなこともいっそう目立ってしまうから、流行とは言え誰でもというわけにはいかないと思った。

・こんなふうに外国に行って異文化にふれると、いろいろなことに気づき、とまどい、また興味を持たされる。今回の旅で感じたことはまだまだあるが、最後にもう一つだけ紹介しておこう。今回の旅では主に鉄道を使った。Brit Railパスを買って一等車の旅を楽しんだのだ。そこで気づいたのは駅に改札口がないことで、最初はこれでいいのかと思った。もちろん、車内では車掌が検札に回ってくる。しかしそれは日本でも同様で、なおかつ出入りには改札口を通らなければならない。人を信用することを前提にした制度だと言えるかもしれない。だからキセルをしたときには1000ポンドだったか1万ポンドだったか、高額の罰金が問答無用で科されるようだ。そう考えると、人を信用しない代わりに、不正をしても寛容な態度をとったりする日本の鉄道との違いがよくわかる。


・たとえば、同様のことは駅や車内での放送の量でもわかる。日本では、「白線の内側で待て」「降りる人が済んでから乗れ」「〜〜」とおせっかいがましいが、イギリスでは次の停車駅がどこかという放送もほとんどなかった。それはじぶんで判断しろということだろうが、旅行者にとっては大きな不安の種である。特にリバプールからブリストルまで行くときには、途中で3回も乗りかえたから、駅に着くまでに名前をチェックすることに気を使った。ところが駅名の表示にはまた次の駅が書かれていない。特急だったら意味はないといえばそれまでだが、違いというのはこうも徹底するものかと感心してしまった。


・こういう国ならたぶん、自己責任という意識は、誰に言われなくても当たり前のこととして認識されているだろう。それに比べると日本は自分の判断で勝手に動くなという社会で、自己責任は、それに背いたときの罰則的な言辞として使われる。そんなことが、事細かな経験の端々で感じられた。ついでに言っておくと購入した鉄道パスは4日間有効のもので、使用した日付を書き込むところがあった。1日目は車掌が「これが大事」といって書き込んだから、その後も車掌が書くものと思っていたら、誰も書き込まない。ずいぶんいい加減だなと思い、それをいいことに短距離の部分ではあったが2日もよけいに使ってしまった。後で旅行会社の人に話をすると、そこもやっぱり自分で書き込むべきところだったと言われてしまった。怪しまれて「何日使った?」などと問いつめられ。不正使用だと判断されたら1000ポンドの罰金だったかもしれない、と考えたらひやっとしてしまった。自己責任の意識が薄い証拠だと、つくづく実感させられた。