2005年2月22日火曜日

香内三郎『「読者」の誕生』(晶文社)

 

kouchi1.jpg・映像や音のメディアの発展が、読書の比重を軽くしたのは確かだろう。もちろん、インターネットも文字情報が基本だから、中心にあるのが読む行為であることは変わらない。しかし、絵文字やことばづかいに特徴的なように、その文体はずいぶん変わってきている。また、文章には写真やビデオ、あるいはイラストなどが当たり前に付属されるから、文字を読むという行為だけで何事かを知ったり、理解したりすることも減っているはずだ。
・このような変化は、たぶん、人びとの意識にも影響するだろう。というよりは、写真や映画、電話やラジオ、そしてテレビと続いたメディアの展開が、すでに人びとの意識に大きな変容をもたらしていることは、すでにさまざまに指摘されてきてもいる。たとえばマクルーハン、オング、あるいはリースマンといった人たちで、「声の文化」と「文字の文化」、「伝統指向」「内部指向」「他人指向」等々といった概念が提供されている。
・最近のネットや携帯の普及についての議論も、当然、このあたりが出発点になる。しかし、それだけにどうしても、注目は現在の現象に向き、過去の話は既知のこととして問われなくなってしまう。たとえばオングやリースマンがきれいに分類したような、活字の普及がもたらした意識の変容は、具体的には、どのような過程を経て顕在化してきたものなのだろうか。そこのところは、実際、詳細に解き明かされてきたわけではない。また活字と「内部指向」の関連性については、日本人にはしっくりこない面が多く、その理由などもきっちり指摘されてきたわけでもなかった。
・香内三郎の『「読者」の誕生』を読むと、そんな疑問がいくつも解消される。この本はヨーロッパにおける文字と活字の普及過程を精緻に論証したものであり、また同時に、キリスト教と活字メディアとの関連史といえる内容にもなっている。だからキリスト教に対する知識がないと理解がむずかしいのだが、それだけに、人びとの意識の変容過程は単にメディアだけでなく、キリスト教との関連で見ていかなければ理解できないことを教えられる。
・たとえば、キリスト教に限らず宗教には「偶像」がつきものである。崇拝の対象としての神の像。しかしまた同時に、宗教はこの「偶像」を厳しく禁止もしてきた。実際キリスト教は、「偶像」の是非を巡る争いの歴史だと言ってもいいのである。神は視覚化(イメージ化)されなければ、実態として理解することはむずかしい。こういう主張の一方で、神は「霊」であって「身体」として受け取るべきものではないという反論が出る。何かを心にとどめるためにはどうしても形のあるイメージが必要である。しかし、神はイメージ化できないし、してはいけないものだという。「神を思い浮かべる正しい方法は、何らかの形態を思い浮かべることではない。そうではなくて、心に彼の属性、しかるべき作用を思い浮かべる、ことなのだ。」
・グーテンベルグの活版印刷術とプロテスタントの関係はすでに、多く指摘されてきたことだが、「偶像」を巡るこのような論争には新鮮な驚きがある。読書が具体的なイメージをかき立てる行為から抽象的な思考の行為に変わっていく大きな原因には、単にメディアの特性という以上に神とそのイメージを巡る論争があったということなのだから。
・カトリックでは、信者は牧師の前で自らの罪を告白し、懺悔をする。西欧の強い自我意識の形成過程に、この行為が強い役割を果たしたことはフーコーの指摘したところだが、それはまたプロテスタントの中でも「日記」とそれをもとにした議論といった形態で受け継がれたようだ。あるいは個人的な「ニューズレター」といった印刷物も登場し、興味を持った多くの読者を生んだようである。「近代小説」と「近代ジャーナリズム」の起源………。
・活字の普及は近代ジャーナリズムを発生させ、発展させたが、この本では、その過程で重要な役割を果たしたのが「宗教」と同時に、「噂」「ゴシップ」だと指摘されている。それはコミュニティにおける濃密な口頭コミュニケーションで培われたものだが、それ自体の発展もまた、行商人や旅芸人、荷物や手紙の運び屋などが頻繁に行き交うようになってからのものだという。「声」から「文字」ではなく、「文字」が「声」を誘発したという方向も強かったのであるのである。
・この本のもう一つの柱はイギリスの王政の変遷と言論の関係にある。当然宗教が絡んでいて、ホッブスやミルトン、あるいはデフォーといった、多くの論客が登場するから、やっぱり簡単に読み進められるというわけではない。しかし、良心や真理、虚言、曖昧なことば(エクィヴォケーション)、あるいは異端や「カズイストリー」(擬態)をめぐる議論から、「客観性」や「真実」それを判断する「良心」をもった自己を基盤にした近代ジャーナリズムの発展へという流れには、納得させられるところが少なくない。メディアと宗教。日本人には一番リアリティをつかみにくいテーマでもある。

2005年2月15日火曜日

農鳥(のうとり)

 

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notori1.jpeg・13日の朝日新聞の地方面に「農鳥」という聞き慣れないことばと富士山の写真が載っていた。そう言われてみると、確かに富士山に鳥が描かれているように見える。河口湖まで行ってさっそく確認し、写真に撮った。毎日のように実物を見ていて、これまでまるで気づかなかった。
・「農鳥」は山にできる雪がつくる鳥の形で、農業を営む人たちが昔から作物の吉凶を占ってきたといわれている。富士山の「農鳥」は田植えなどの始まる4月から5月にかけて現れる。それが2月に現れたわけだが、吉凶占い通りだと今年は凶作ということになるらしい。ちなみに2003年1月にも現れていて、この年は冷夏で凶作だった。
・今年は雪がよく降る。しかし、富士山の雪は、すぐになくなってしまう。風が強くて吹き飛ばされてしまうせいだという。今年は例年になく、富士山の風は強いということなのだろう。だから雪解けには早い季節に「農鳥」が現れたわけだ。

notori3.jpeg ・山梨県には「農鳥」という名の山がある。山梨100名山の一つで、南アルプスの北岳から中白根山、間の岳( あいのだけ)、西農鳥岳を通って農鳥岳に至る縦走コースが有名である。この農鳥岳に出る鳥はハクチョウのようだ。 ・富士山の鳥は何に見えるだろうか。やっぱりハクチョウのようにも見える。ネットで検索すると富士の鳥だから不死鳥、つまりフェニックスで、手塚治虫が『火の鳥』で描いた鳥だ、といった解釈もあった。なるほど………。でもそれでは、農鳥とは関係なくなってしまう。


・もっとも、雪解け時に出る形はさまざまで、きれいな鳥になることは、稀らしい。別の所に「豆まき小僧」が出たりもするようだ。八ヶ岳の南にある薬師岳には農牛も出るというし、白馬岳の名の由来も有名だ。
・おもしろい。また一つ、富士山を眺める楽しみが増えた。鳥はいつまで、留まっているだろうか。そう言えば、今日は「雪」の予報だ。明日にはもう見えなくなっているかも……。

2005年2月8日火曜日

アダプテーション

 

・「アダプテーション」は「適応」という意味だが。「改作」とか「脚色」といった意味もある。しかし、それが映画の題名となると、いったいどういうことになるのか。監督、脚本が「マルコビッチの穴」と一緒だというので、興味があった。
・映画は、その「マルコビッチの穴」の撮影風景から始まる。ニコラス・ケイジが演じる脚本家のチャーリー・カウフマンの憂鬱な顔。彼はハゲでデブで内気な性格にコンプレクスをもっていて、次の映画の脚本を抱えているのだが、いいアイデアがさっぱり浮かばない。原作はスーザン・オーリアンの『蘭に魅せられた男 驚くべき蘭コレクターの世界』(早川書房)。それをどう料理するか。カメラは思案するカウフマンのハゲ頭を執拗に追う。
・場面にはフロリダの沼地で幻の「幽霊蘭」を探す蘭に魅せられた男ジョン・ラロシュ(クリス・クーパー)が映る。そして、その男に興味をもったスーザン・オーリアン(メリル・ストリープ)が『ニューヨーカー』のオフィスにいる。蘭を探す男とそれをルポルタージュしようとする女、そしてさらにそれを映画にしようとする脚本家(ニコラス・ケイジ)。映画はその3人の描写が同時進行で展開される。だから最初はわかりにくい。
・脚本家はもちろん、最初は原作を忠実に再現しようと思う。それもハリウッド映画にお決まりの愛やアクションなどいれずにできるだけシンプルに作ろうと考えている。ところが、アイデアが浮かばない。彼には双子の弟ドナルド(ニコラス・ケイジの二役)がいて、居候をしている。やはり映画の脚本家なのだがアクションが好きで、めっぽう陽気で女の子とも軽いつきあいをする。外見は同じなのに性格はまったく対照的である。
・蘭に魅せられた男に作家が近づく。取材の申し込み。二人は意気投合して話は弾む。しかし、脚本家は依然としてスランプ状態。実は、この二つの場面の間には数年のブランクがある。つまり、脚本家は現在、作家の取材は数年前のことである。弟は作家に会いにニューヨークに行くことを薦める。しかし、会えば書きにくくなると後込みをしてしまう。そこで兄弟が一緒に出かけることになる。この間にも、数年前の取材の過程がシーンとして挟みこまれる。
・結局作家に取材をしたのは弟で、彼は作家が何かを隠しているという。それで、二人は彼女の後をつけフロリダまで出かける。作家と蘭男とは恋仲になっていて、しかも彼女は男が蘭から抽出したドラッグの中毒になっている。脚本家はそのベッドシーンを覗き見して捕まってしまう。「殺して!」と彼女。隙を見て逃げる脚本家。追いかける蘭男。で、結局、蘭男は沼でワニに噛み殺され、弟も逃げる車が激突して死亡する。
・『蘭に魅せられた男』の映画化が、それを書いた作家を登場させ、その映画の脚本家までを登場させることになる。とんでもない「改作(アダプテーション)」だが、映画の構造としてはとてもおもしろい。一歩間違えれば、楽屋落ちの難解な駄作になってしまうところだが、さすがにうまくできていると思った。それにしても『蘭に魅せられた男』の作者のスーザン・オーリアンは、こんな映画をよく承諾したと思う。何しろ彼女には、ドラッグ中毒、不倫、そして殺人未遂といったとんでもないフィクションがかぶせられたのだから。それをおもしろがって承諾したとすれば、なかなかの人だと思う。
・ところで、ニコラス・ケイジ演じる脚本家のチャーリー・カウフマンももちろん、実在の人だが、彼には双子の弟などいない。にもかかわらず、この映画では脚本が連名になっている。弟のドナルドはチャーリーの分身ということか。姿形はまるで一緒だが、性格は正反対。彼の隠された一面ということなのかもしれない。
・おもしろい映画を久しぶりに見た。けれども、最後に疑問が一つ残った。この脚本は最初から計算して作られたものだろうか。それともカウフマンの苦闘をそのまま暴露したものなのだろうか。どっちにもとれる。あるいは、双子の兄弟のように、両方なのだろうか。そういえば、もう一組気になる人たちがいた。コーエン兄弟。カウフマンはコーエン兄弟をパロディにしたのだろうか?いろいろ、想像をふくらませてくれる映画である。

2005年2月1日火曜日

夏が暑いと冬の雪は多い?

 

夏が暑いと冬の雪は多い?

forest40-2.jpeg・夏が暑かった後の冬は大雪という話を聞いたことがある。それでも、12月になってもそれほど寒くはなかったし、気象庁の長期予報も今年の冬は暖冬ということだったからたかをくくっていた。そうしたら年末に続けてまとまった雪が降った。大晦日から正月にかけて大阪に行って帰ってきたら、家の前の道はすでにアイスバーンで、そのまま1カ月がたった。最低気温が-10度ほどになるこのあたりでは、積もった雪はすぐにかいてしまわなければ、日陰だと春まで残ってしまう。しかも、ここのところ、毎週日曜日に雪が降っている。だから、わが家にはスタッドレス・タイヤをつけた車しか近づけない。

forest40-3.jpeg・静かで、美しい。雪で白くなった御坂山系に夕日が照った。ストーブにあたって本を読んでいて、思わず、その美しさに見とれてしまった。この景色を知らずに夏だけやってくる別荘族は本当に宝の持ち腐れだと思う。けれども、こんな時期にやってきたら、車をこわごわ運転し、寒い部屋で震えなければならない。冷え切った家はがんがん暖房しても、暖まるのに半日以上かかってしまう。だから、雪かきをして、家が暖まった頃に帰るということになる。夏は雑草と家のメンテナンスで忙しいから、別荘を持つのは管理人をおかなければ、苦しいことのみおおかりきというのが実状なのである。

forest40-4.jpeg・雪が降ると困るのは野鳥で、行き場がなくて家のまわりをうろうろしている。知らずに近づくと、あわてて足元からばたばたと飛び立って、こちらもビックリしてしまう。雨樋に解けた水は飲めるが、餌は少ないはずで、鳥にとっては雪はつらいのかもしれない。あるいは窓にぶつかって死んでしまう鳥もいて、この冬はもう2羽が犠牲になった。雪が降ってきれいに晴れ上がると、窓ガラスには雪や空が映って、それがガラスであることに気づかなくなる。それで思いっきりぶつかってしまうのである。なかには脳しんとうの後で元気になるのもいるが、そのまま動かないものもいる。

forest40-5.jpeg・右の野鳥は「相思鳥」という。篭抜け鳥が野生化したもので、中国南部が原産だそうだ。つがいで行動する相思相愛の鳥というのが名前の所以らしい。だとすると、この死んだ鳥の相手はどうしたのだろうか。最愛のパートナーを失って寒い冬を越さなければならない。篭の中で飼われていた頃からのつがいで、一緒に逃避行をしたのか、あるいは逃げた後で出逢ったのか。死んだ鳥を写真に撮りながら、そんなことをあれこれ考えてしまった。それにしても派手な色で、腹は黄色のグラデーションで羽根にかけて鮮やかな赤になる。しかしやっぱり、このあたりには似合わない。「野鳥激突死事件」………。

forest40-1.jpeg・屋根の雪は昼間の日光で解けてぽたぽたと落ちてくる。それが氷柱になってぶら下がる。大きいほど見事で美しいが、あまり大きくならないうちにはたいて落とすことにしている。薪を取りにいったり雪かきをしたりして真下を歩くから、頭に落ちてきたらかなわない。氷柱は鋭い武器になって、しかも証拠が残らない。「氷柱殺人事件」なんてのはなかったかな、などと、またまたここでも想像たくましくしてしまった。そういえば、雪が降る前には朽ちた倒木にスギヒラタケを見つけた。食用だが、今年は猛暑のせいか毒性が強くて、当たって死んだ人が続出した。「スギヒラタケ殺人事件」………。

forest40-7.jpeg・冬を暖かく過ごすためには薪が欠かせない。だから来冬のために暮れに倒木を探して運んできた。しかし、雪に埋もれてしまったから、薪割りは春まで待たなければならない。倒木を探し、車に積んで運んできて、切って、割って、干す。その労力のご褒美が真っ赤な炎と暖かさ。がんがん焚くのではなく、酸欠状態にしてとろとろと燃やす。1本の薪が真っ赤な炭になって、ゆっくりと時間をかけて真っ白な灰になる。まるで積もったばかりの雪のようで、やっぱりじっと見とれてしまう。


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僕が死んだら/葬式はせず
骨も灰にして/捨ててほしい
………
僕の骨は/白くて硬い
一番熱い火で/焼いて欲しい
………
(「僕の骨」早川義夫)