2020年10月26日月曜日

秋の裏磐梯

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photo89-2.jpg・パートナーの誕生日の小旅行もすっかり定着した。続けて信州に行っていたので、今年は裏磐梯に行くことにした。去年の夏にも行ったのだが、あまりの暑さに予定を変えて帰ってしまったので、秋にまた行こうということになった。例によって義兄の山小屋をめざした。日光で高速を降りて、鬼怒川温泉から南会津、会津を走った。蕎麦を食べ、紅葉を眺めながらのドライブだった。夏の暑さのせいか、長雨のせいか、今年の紅葉は茶色くて美しくない。途中、テレビなどで紹介されている大内宿に立ち寄ったが、訪問客が多かったし、平日なのに通行量も多かった。「go to トラベル」のせいなのか。そう言えば、圧倒的に世代は高かった。

photo89-3.jpg・裏磐梯では五色沼を歩いた。すべてを歩いて往復するのではなく、毘沙門沼から赤沼まで歩き、また戻って、反対側の柳沼から青沼、ルリ沼まで。あわせると4.5キロほどだった。ここでも観光客は多く、老年世代と修学旅行か遠足の中学生だった。で、紅葉はやっぱり茶色がかっていて、美しくはなかった。とは言え、沼ごとに違う色あいは、なかなかの景色だった。雲一つない秋晴れで、前日までの雨続きの空が嘘のようだった。何度も書いているが僕たちは旅に出て雨に降られたことがない。典型的な晴男・晴女なのである。

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photo89-6.jpg・午後は小野川湖からスキー場に行き、ロープウエイで西吾妻山の登山口まで上がった。山頂はすぐ近くに見えたが、登る気力はなし。この周辺の紅葉は少しきれいだった。ここでも観光客は大勢で、駐車場は車で埋め尽くされていた。車を降りたらマスクというのが面倒で、ついつい忘れて車に戻ることを繰り返した。泊まったホテルも満室。「go to~」を批判しながら、旅していることにちょっと後ろめたさを感じてしまった。

photo89-7.jpg ・帰りは猪苗代の道の駅によって、栗や野菜を買って、一気に高速道路で帰宅。帰ったらすぐ栗の皮むきをして水に浸けた。山栗のようで、今年も不作だった秘密の栗の木と同じほどの大きさだった。袋に「虫止めしていません」と書いてあったのでネットで調べると、山栗にはこの処理が必要とあった。皮をむく前に80℃で2分ほど茹でて乾かして、冷蔵庫で冷やすと虫が死んで甘味も増すらしい。知らなかった。皮をむいてしまったので、このまま冷凍することにしたが、次からはそうすることにしよう。栗ご飯にした後は、正月の栗きんとんになる。

2020年10月19日月曜日

やっぱり雨の秋

 

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forest170-2.jpg・それにしても雨が多い年だ。10月になっても秋晴れの日は数えるほどしかない。その数少ない日に、久しぶりにパノラマ台に登った。富士山の眺めも素晴らしかったが、群生するトリカブトも見事だった。しかし山歩きと言えばこのぐらいで、後は裏山に登ったぐらいだ。自転車も思うように乗れていない。しかもたまに乗ればパンクときたから、ちょっとめげてしまった。そう言えば、ここのところ故障や不具合が重なっている。工房の床暖房が壊れ、母屋で雨漏りがし、丸太に木食い虫の掘った穴がいくつも見つかった。

forest170-3.jpg・屋根に上がってみると、すっかり苔むしている。しかし雨漏りの原因になっている場所は見つからなかった。横殴りの雨で屋根に付着した苔が水分を含んで、中にしみ込んで落ちてきたのかもしれない。いずれにしても専門家に頼まなくてはいけない。庭はもちろん、ベランダの木や積んだ薪にキノコが生えている。こんなことは今までなかったから、いかに雨が多いかよくわかる。薪と言えば、原木が調達出来ずに困っている。このままでは、今度の冬は節約して使わなければいけなくなってしまう。

forest170-4.jpg・河口湖の紅葉も始まった。ススキとコスモスも今が盛りだ。「Go to トラベル」のせいか、観光客も一気に増えた。今年は紅葉のイベントは中止だが、これからしばらくはごった返すことになるだろう。普段は静かな西湖も、キャンプ場には平日でもテントが張られている。このあたりではコロナ感染者はほとんどいないが、さてどうなるか。父の1周忌の法要で七ヶ月ぶりに東京に車で出かけた。と言っても、車を降りたのは寺だけで、後はどこにも寄らずに帰ってきた。当然、老人ホームの母とも、孫たちとも会っていない。

forest170-5.jpg・70歳を過ぎたら運転免許証の更新には高齢者講習が義務づけられている。それで近くの教習所に出かけた。運転していて歳を感じることはあまりないし、今年も北海道まで出かけたりしている。だから必要ないと思っているのだが、やらなければ更新出来ないのだから仕方がない。手数料を5100円もとられて、視力検査と講習、それに簡単な実習をしておしまいだった。これで何がわかるのかと疑問を感じたが、これからは三年ごとの更新だから、返納を勧める関門にはなるのかもしれない。何れにせよ、お役所仕事の典型だと思った。

2020年10月12日月曜日

コロナ後の世界について

 パオロ・ジョルダーノ『コロナの時代の僕ら』
朝日新聞社編『コロナ後の世界を語る』
大野和基編『コロナ後の世界』


コロナ禍はもちろん終息してはいない。それどころか、次の冬こそが感染爆発を抑えられるかどうかの正念場だと思う。しかしそれにしては、日本の政府は「Go to~」とオリンピックにばかり勢力を注いで、感染対策には本腰を入れていないように見える。高をくくっているとしか思えないが、コロナ慣れは多くの人びとにも蔓延しているかのようである。他方で「コロナ後」を予測する新聞記事や書籍も目につくようになった。で、いくつか読んでみた。

colona2.jpg 『コロナ後の世界を語る』は朝日新聞に連載された記事をまとめたものである。冒頭の養老孟司と次の福岡伸一はウィルスと人間の関係を生物学的な視点から語っている。コロナ後と言えばどうしても、明日や明後日のことを考えがちになる。しかし、生物学の視点から見れば、ウィルスと生物の関係は、はるか昔からずっと続いているものである。
ヒトゲノム(遺伝子)の4割がウィルス由来だと言う。しかもその多くは何の役に立っているのかわからない。養老は、わからないけれども、組み込まれていることには何らかの理由があるはずだと言う。一方福岡は、ウィルスは高等生物の遺伝子の一部が外に飛び出したものだと考える。それがまた宿主を求めて入り込む。悪さをすることもあるが、親から子へといった垂直だけでない水平方向への遺伝子の伝達に役だっている。「長い時間軸を持って、リスクを受容しつつウィルスとの動的平衡を目指すしかない」というのである。

とは言え、やはり明日明後日をどうするかといった問いかけも必要だろう。『サイエンス全史』の著者であるユヴァル・ノア・ハラリはウィルス禍を「国際的な連帯か孤立か」「民主主義か独裁か」、そして「経済についての政治判断」の三点を指摘して、重要な岐路に立っていると言う。そして、この本に登場する他の人たちの意見は、この三つの対立や選択をめぐって書かれたものが多い。

colona3.jpg 『コロナ後の世界』はもともと、世界的な知性と言われる6人にコロナ禍前にインタビューをしたもので、コロナについて追加して出版されている。一番興味深かったのはスコット・ギャロウェイの「新型コロナで強力になったGAFA」だった。ロック・ダウンなどで世界中の人びとが家に閉じこもって、仕事も買い物も遊びもネットで行うようになった。既に巨人化した四つの企業がますます強大になって、世界中の人びとの暮らしを支配するようになった。電力や水道や道路のような公共的な役割をするようになったのだが、一番問題なのは、GAFAにとって最大の目的は利益の追求にあって、国家や国際社会への関心がない点にあると言う。国家の長はどこもだれも頼りないし、危なっかしくて心もとない限りだし、国際社会を統括する組織も目立たない。
それでは個人レベルではどうか。リンダ・グラットンの「ロック・ダウンで生まれた新しい働き方」には、在宅勤務の増加や、人生における仕事以外、つまり家庭生活や趣味や遊びに重きを置く傾向が、好ましいものとして指摘されている。当然そうなるだろうと思うが、同時に、リモートでは仕事にならない職種や、コロナ禍で職をなくした人たちとの間に生まれる格差はますます大きくなる。企業にしても個人にしてもコロナはその格差をますます肥大化させてしまう。この二冊を読んで感じたのは、何よりその点だった。

colona1.jpg パオロ・ジョルダーノの『コロナの時代の僕ら』はイタリアで感染拡大が起きた二月の末に書き始められている。著者は数学者で、『素数たちの孤独』という青春小説の作者でもある。だからパンデミック中の記録ながら、文章には数学者ならでは、あるいは小説家ならではと言った話題や描写の仕方があった。例えば感染者数は常識的には線形的に増加すると考えがちだが、実際には指数関数的に激しく増加した。それは医学的には予測できることなのに、メディアは「劇的に」などと書いて、読者を煽ってしまう。ほとんどパニックに近い状況の中で書かれた本書には、混乱を隠さない気持ちと極めて落ち着いた心が同居している。
そんなところに魅力を感じて『素数たちの孤独』も読んでみた。幼い頃に事故でけがをした少女と、双子の妹を自分のせいで亡くしてしまった少年の恋愛物語だ。それぞれ深い傷をもって成長した二人が、それゆえに引かれ合うが、またそれゆえに傷つけ合って別れてしまう。ちょっとつらい話だったが、最後まで一気に読んだ。なお、この小説はイタリアでストレーガ賞を獲得している。


2020年10月5日月曜日

テレビは政権の広報機関になった

 

・菅内閣の支持率が異常に高い。3割しかなかった安倍政権の支持率も、辞めると倍増して6割を超えた。この現象をどう説明するか、多くの識者や評論家の頭を悩ましている。病気で辞めるという同情票だけでは説明がつかないことだからだ。しかし、安倍辞任から菅首相誕生までのメディア、とりわけテレビの放送姿勢を見ていれば、露骨なまでの情報操作があったことがよくわかる。

・菅首相は秋田の農家出身で、東京に出て苦学して政治家になった。2代目3代目が多い政治家の中で、たたき上げでのし上がってきた。それがテレビで繰り返し流されたようだ。そして一気に支持率が上がった。反面で、7年続いた安倍政権を検証することはなく、そこで官房長官を務めた菅の役割や功罪についても、ほとんど話題にしてこなかった。菅を首相にといったテレビ各局の意図はありありで、NHKはもちろん、全テレビ局が政権の広報機関と化してしまったのである。

・安倍政権がやってきた悪は数多い。その中でメディアに対する圧力は露骨ですらあった。民主党政権下で11位だった報道自由度ランキンが、今年は66位まで降下したことをみれば、そのことは明らかだろう。しかし、菅はこんな評価は無視して、さらにメディアに対する圧力を強めようとしている。それはテレビにかぎらず、新聞に対しても同様で、最近では、政権や政治家のスキャンダルについての暴露記事が出るのは、週刊誌のみになっているのである。

・民放局はCMを経済的な基盤にしている。その局とスポンサーの間に入って代理業務をしているのは電通である。当然、番組内容について意見をする立場にある。それはもちろん、スポンサーの声を伝えるためだが、電通は安倍政権と強くて深いつながりを持った会社でもある。国が主催するオリンピックや万博といった巨大イベントはもちろん、最近批判された給付金配布など、国の業務も代行しているし、政権の広報活動や情報操作にも強く関わっていると言われている。

・そんな状態だから、民放局が萎縮し、政権や電通に忖度するのは当たり前だが、民放の弱みはそれだけではない。今、テレビ番組で一番活躍し、重宝がられているのはお笑いタレントだろう。その人たちがバラエティ番組はもちろん、情報・ワイドショーにも登場し、もちろん、CMにも使われている。彼や彼女たちの多くは政権支持の意見を発しているのだが、その所属先は吉本興業が多く、吉本もまた、安倍政権以来、その関係の強さが目立っているのである。

・吉本興業のタレントの多くは、安倍や菅、あるいは大阪維新の応援団である。そして彼や彼女たちがどんな発言をしても、それを理由に番組を降ろされたりはしない。逆に政権に批判的な発言をすれば、番組を降ろされたり、政治に関わるななどと批判を受けてしまう。今は、政治的とは、政権に批判的な姿勢や発言だけに向けられるのである。

・テレビはまた、来年の東京オリンピックが当然開かれるという前提でニュースを流し、話題作りをしている。しかし開催の可能性について、コロナ禍の動向を世界に目を向けて判断したり、ワクチンの開発状況を検討して考えるといった話題は皆無である。何が何でもやるといった大会関係者の発言に忖度してるとしか思えない姿勢である。ここにはもちろん、放送局とつながりのある有力な新聞社がこぞって、オリンピックのスポンサーになっているという理由もある。これまではなかったことだが、これでは、批判などはできるはずもないのである。

・テレビがこれほど政権の意のままになってしまっているのに、その影響力は依然として強いままである。それを自省する姿勢はテレビにはもちろんないし、わずかにある批判の声にも、政権は目をとがらせている。中国や北朝鮮とどこが違うかと言いたくなるような状況である。テレビを使えば、世論などは簡単に、意のままに操れる。そんな驕った態度に腹が立つが、国民は、本当に騙されているのだろうか。あるいは、騙されたふりをしているのだろうか。どちらにしても、放ってはおけないことだと思う。