2010年6月28日月曜日

動物園という名の地獄

・梅雨の合間の晴れた日に那須に出かけた。温泉につかってのんびりが目的だが、どこか出かけるところでもあればとネットで探してみた。そうすると、サファリや動物王国、そしてモンキーパークなど、ごく近いところに三つも動物園があることに気がついた。何でこんなにと思って、サファリで検索すると、あるはあるは、北海道から九州(大分)まで、日本には10箇所もサファリと名のつく動物園があった。ちなみに那須の近辺では群馬と福島にサファリと名のつく動物園がある

・サファリと言うからには、象やキリンやライオンなど、アフリカ生まれの動物たちが半ば放し飼い状態でたくさんいるはずだから、日本中にはそれぞれかなりの数がいるだのだろう。そして、どんな動物にしたって、生息数は激減していて、アフリカでも保護区が設けられて厳しく管理されている。そんな危機的現状を伝えるドキュメントがよく放送されるから、次々輸入することなどできないはずなのに、なぜこんなにたくさん輸入できるのだろうか。日本の気候はアフリカとはずいぶん違う。群馬も栃木も福島も、冬には雪が降って零下になる。動物を凍え死にさせないためにはそれなりの暖房設備とかなりの光熱費を使って、狭いところに閉じ込めておくにちがいない。

journal4-129.jpg ・こんなことを考えたのは、以前に富士サファリパークに出かけたことがあるからだ。春先で、まだ暖かくはなく、富士山にはたっぷり雪が積もっていた。平日で客も少なかったから、経営状態が悪くなったら、この動物たちはどうするんだろうなんて心配した。世界中の動物を間近で見る機会があることはもちろん、悪いことではない。しかし、自然条件の違うところにこれほどたくさん動物園を作るのは、動物にとっては環境条件の悪い監獄に入れられたも同然で、まるで地獄のようだと思ってしまった。

・太地のイルカ漁をドキュメントした"the cove"の上映妨害が話題になっている。鯨やイルカの問題については、文化の違いを無視した欧米の横暴な主張だとする反論が繰りかえされてきた。僕もそういった思いに共感しないではないが、太地のイルカ漁は、食用ではなく水族館やマリーンランド用だと聞いて、ちょっと考えを新たにした。イルカは水族館には欠かせないエンターテインメントの主役で、日本にはイルカを売り物にしている水族館が北海道から沖縄まで30以上もある。確かに、イルカの賢いパフォーマンスは魅力的で、老若男女を楽しませてくれている。しかし、そのイルカの餌には、潰瘍を防いだり治療したりする薬が混ぜられているなどといった話を聞くと、捕獲され、閉じ込められ、調教されて、演技を強制されていることに心が痛む思いがする。

・動物園や水族館は、見方によっては動物を無理矢理閉じ込めた刑務所であり、地獄でもある。そう思うと、楽しい!、かわいい!、すごい!などと歓声を上げる気にはとてもならない。動物園の動物は、何かが死んでしまった動物で、野生のままのものとはまるで違う。それは放し飼い状態にしたり、見え方や見せ方を工夫したって、取り戻すことのできないものだ。こんなことを読んだのは、ブーアスティンの本だたっか、ボードリヤールの本だった。自然を人工的に再現したり、移設したりして、それがあたかも自然そのものであるかのように、人びとに体験させる。

・自然という名の不自然な場の乱立が自然そのものを不自然にする。不自然な場で不自然な行動を強いられる動物たちが胃潰瘍になるのは、きわめて自然なことだが、そこに出かけて行って、かわいいとかすごいといって歓声を上げる人間の行動は、果たして自然なことなのだろうか。

2010年6月21日月曜日

トンネルはできたけれど

・山梨県は山ばかりだから、かつては、どこへ行くにも峠道を越えねばならなかった。東京から甲府に行くには笹子峠、御殿場からは篭坂峠、身延方面からは本栖道、そして河口湖と甲府の間には御坂峠があって、交通の難所になっていた。現在では、どの峠にもトンネルができて、交通は便利になっている。特に中央道の笹子トンネルや東富士五湖道路の籠坂トンネルは、そこが交通の難所であったことを気づかせないほどに快適だ。

・河口湖と甲府の間には新御坂トンネル経由の137号線と精進湖トンネル経由の358号線がある。どちらも急坂でカーブも多いから、車の運転には注意が必要だが、通常の交通量には十分対処できるほどの道で、特に137号線の御坂トンネルから一宮までは数年前に片側二車線のほぼ直進の道路が開通したから、運転はずいぶん楽になった。

forest84-1.jpg ・その河口湖と甲府をつなぐ道路が若彦トンネルの開通で、もう一本増えた。トンネルは御坂山系の大石峠の下を貫いて河口湖と芦川村を結ぶもので、工事は2004年から始まった。トンネルにつながる道路も新しくなって便利さも感じたが、ダンプカーがひっきりなしに行き交い、我が家からも時折、発破音が聞こえて、危険やうるささもも感じた。そしてこの道路は、もちろん、トンネルのある地区の人たちの強い要望でできたものではなかった。県道として新しいルートを計画した県によれば、「災害時の避難ルートや物資の輸送」が一番の理由のようだ。

・トンネルの開通は3月の末だったが、それ以降、週末になると車やバイクの音がブンブンとうるさく響くようになった。多くは新しいトンネルを走ることを目的にしてくるようだ。週末の湖畔は以前から車で一杯だが、混雑は以前にも増してすごいから、滅多なことでは車で出かけないようになった。トンネルから湖畔までの道は新設されたが、湖畔道路は以前のままで、狭い箇所がいくつもある。今までなかった渋滞が起こったりもするのだが、慣れないドライバーはそんな道の真ん中を走る傾向にあって、対向車を見つけて慌ててハンドルを切って避けがちになる。しかも、同じ道を自転車を漕ぐ人も増えた。これから夏に向けて本格的なシーズンになると、渋滞や事故で大変なことになるのではと心配になってしまう。

・その若彦トンネルを何度か運転してみた。今までは精進湖まわりで一時間近くもかかっていた芦川までの道のりが、わずか五分ほどに短縮された。それはそれで便利だが、そこから先の石和や甲府までの時間は、それほど短縮できたとは思えなかった。芦川から先の道がカーブと急坂の連続で、けっして楽な運転ではないし、ルートも整備されていないから、どこへ行くにもわかりにくかった。おそらく、甲府や石和方面から若彦トンネルをめざすのは、ナビの地図が新しくなるまでは難しいだろうし、そもそも、わざわざこのルートを使う必要もないのではと感じた。

・山梨県は山国だから、その発展には道路の建設は欠かせない。そんな思いが、金丸信やその他の自民党議員を輩出してきたと言えるだろう。実際、山歩きをするために車で出かけると、ずいぶん立派な林道や農道を見つけて走ることが少なくない。若彦トンネルと県道719号線は、そんな政治道路の一つなのかもしれないが、そうだとしたら、開通したときには自民の国会議員が0になっているというのはずいぶん皮肉なことだと思った。

2010年6月14日月曜日

ジャズ喫茶と米軍基地

 

マイク・モラスキー『ジャズ喫茶論』筑摩書房
『占領の記憶 記憶の占領』青土社

journal1-135-1.jpg・モダン・ジャズは、歌ったり踊ったりするのではなく、演奏だけの集中して聴くべき音楽である。日本では、そんな音楽が大学生などに好まれて、50年代の後半頃から、哲学や文学と同様の知的で高級な文化になった。ジャズ喫茶は、そんなモダン・ジャズのレコードをかける店で、町の盛り場や大学の周辺にはおなじみだったが、モダン・ジャズのわからないぼくには、ほとんど縁のないところだった。入っても音が大きすぎて話もできないし、本も読めない。それに何より、ジャズのわかる奴だけ入れてやるといった空気が入ることを躊躇させたからだ。

・ジャズ喫茶はアメリカから輸入されたホンモノのジャズを、高性能のオーディオで聴かしてくれる場所だから、そこでの客の姿勢には「集中的な聴取」が求められ、私語は禁止された。この本によれば、そんな聴き方はアメリカにはなかったようだ。そもそも、ジャズにかぎらず、レコードを専門にかける場がなかったようで、その理由を著者は、モダン・ジャズに興味を持った日本人の若者たちにとって、レコードの蒐集やオーディオ装置の購入が難しかったこと、アメリカには、ライブ演奏を聴くことができる場や、音楽ジャンルを限定して放送するラジオ局がいくつもあったことなどをあげている。

・そんな日本独特のジャズ喫茶には、時代によって変遷した特徴があって、それをこの本では「学校」(50年代)→「寺」(60年代)や「スーパー」(70年代)→「博物館」(80年代)とまとめている。つまり新しい音楽を学ぶ場、それを集中して聴取する場、多様なジャンルへの枝別れへの対応、そしてレトロとしての音楽と場という性格の変容である。僕が知っているジャズ喫茶は、確かに「学校」や「寺」といった雰囲気だったが、その後の社会や若者の意識変化と合わせて、いろいろ考えてみたくなる時代分けだと思った。

・他方で、日本の戦後のポピュラー音楽は米軍基地で軍人のために演奏をしたり歌ったりしたミュージシャンを核にして発展した。ジャズから出発した多くのミュージシャンは、やがて歌謡曲歌手になり、歌謡曲を演奏する楽団のメンバーになり、またテレビタレントになった。同じジャズでありながら、ジャズ喫茶は、そんな日本人のジャズやポピュラー音楽とは無縁な世界として発展した。著者はそこに、亜流(ニセモノ)の生よりはホンモノのコピーを求める日本人独特の傾向を見つけている。もっとも、ロカビリーやグループ・サウンズといった、より大衆的な音楽も、ジャズ喫茶から始まったと言われているが、この本ではそんなジャズ喫茶はほとんど扱われていない。

journal1-135-2.jpg・沖縄には米軍基地が集中し、1972年の返還までアメリカに統治された歴史がある。当然、基地の周辺にはアメリカ兵相手の音楽空間がたくさん生まれたのだが、著者によれば、主流はロックであってジャズではなかったようだ。そしてもちろん、本土ではおなじみの「集中聴取」を基本にした「学校」や「寺」風のジャズ喫茶はほとんど皆無だった。アメリカ兵が集まるライブ・スポットでは、沖縄のミュージシャンががアメリカ兵の好む音楽をパフォーマンスして喜ばせた。そこにはアルコールやドラッグが不可欠で、また性欲の処理をする女たちがいた。沖縄について、主に文学を素材にして分析した同じ著者による『占領の記憶 記憶の占領』を合わせて読むと、音楽を含めた、戦後のアメリカ文化の入り方、受けとめ方、そして発展の仕方の違いがよくわかる。

・「占領の記憶」は本土の日本人にとっては敗戦後からのものである。しかし沖縄では、それは明治時代から始まるし、それ以前の薩摩藩や清による支配にまで遡るものである。そしてその意識は本土に復帰した後から現在にいたるまで継続されている。著者はアメリカの占領や米軍基地をテーマにした文学を「占領文学」と呼ぶ。それを代表するのは本土では、大江健三郎や野坂昭如などで、戦後から60年代頃までに特徴的な題材だったが、この本によれば、沖縄出身の作家には、現在でもなお中心的なテーマであり続けている。「占領の記憶」がほとんど忘れられかけている本土と、基地の記憶にいまだに占領され続けている沖縄の違いは、最近の普天間基地の問題に対する温度差でも明らかだろう。

・敗戦によるアメリカの占領は、一方で、日本人に民主主義や新しい生活を教えた。ジャズ喫茶とモダンジャズはその象徴の一つと言えるかもしれないが、現在では、その姿はすっかり風化してしまっている。というよりは、アメリカ文化はすでにすっかり溶けこんで、日本人の中に血肉化しているといった方がいいかもしれない。しかし他方で、アメリカは日本人にとっては異物としてあり続けた。これも本土ではほとんど自覚されなくなってしまっているが、沖縄ではなお、身近な存在としてあり続けている。

2010年6月7日月曜日

拝啓、国民の皆様

・鳩山首相が退陣しました。在職期間が300日もならない短命で、安部内閣から続いて4人がほぼ1年で交代してきたことになります。それぞれ発足当時は高支持率だったのに、あっという間に愛想尽かされ見限られる。政治家の実力のなさと言えばそれまでですが、支持者の気まぐれにも、いい加減あきれてしまいます。

・鳩山政権が支持を失った理由はまず第一に母親からの献金でした。これは生前贈与にあたるもので、税務署に申告して税金を納めるべきものだったのに、総理はそれをしなかったのです。金をもらっていたことを当の本人がお知らなかったこと、庶民感覚では考えられない多額なお金だったことなどで、強い批判が浴びせられました。

・この一件を擁護する気はありませんが、メディアとそれが後ろ盾にする世論というものに違和感を持ちました。現在、国会議員に占める2世や 3世の割合はかなりのものですが、その人たちは当然、地盤、鞄、看板という三種の神器を受け継いでいるはずで、その鞄(金)を当の議員たちは、どう処理しているのでしょうか。それが問題にならないのは、多くの議員には受け継ぐ際に、法に触れずにうまく処理する仕方があるのかもしれません。であれば、鳩山総理の問題は、ずる賢く立ち回らなかったことにすぎなくなります。

・支持をなくしたもうひとつの理由は普天間基地を「できれば国外、最低でも県外」と言っておきながら、辺野古に移設するという自民党案に戻ってしまったことでした。僕はこの件について、沖縄の人たちの怒りや、一部移設を強いられそうな徳之島の人たちに拒絶はもっともなことだと思います。とりわけ、沖縄の人たちに希望を抱かせておいて失望させた罪については、辞めることで責任を取れるものではないでしょう。

・けれども、米軍基地の問題がこれほど大きくならなければ、沖縄が過重に負担してきた歴史と現状について、国民の多くが改めて考えることもなかったでしょう。これだけ大きな問題として注目されたわけですから、米軍基地の負担を沖縄ばかりに負わせ続けることはできなくなったはずです。基地の分散はもちろんですが、そもそも在日米軍基地がなぜ必要なのか、必要であれば、どんなものをどの程度に置いたらいいのか、そしてそれは沖縄でなければならないのか、といったことについて、国民は人ごとではなく自分の問題として向き合わなければならなくなったと言えるのですが、いったいどのくらいの人が、このような認識をもったのでしょうか。

・沖縄返還にまつわる機密文書の問題について、4月に一つの裁判の判決がありました。基地の返還について、その経費を日本が負担するという密約があって、そのことを当時の毎日新聞記者、西山太吉がスクープした事件です。情報入手の仕方の問題(情を通じた)に矮小化して、当の密約はうやむやになってしまっていたのですが、その密約が確かに存在したこと、その機密文書はアメリカにはあるのに日本の外務省では捨てられてしまっていることなどが明らかになりました。しかし、この事件は、なぜか、大きな問題として取りあげられませんでした。

・沖縄の返還については他にも「核抜き本土並み」という、条件が重視されました。しかし、ここでも、沖縄に核があるのかないのかはずっと確かめられてきませんでした。自民党政府は一貫して、アメリカがないと言えばない、持ちこみたいと言ってこないのだから持ちこんでない、と言う主張を繰りかえしてきました。しかし日本に寄港した空母や潜水艦に核が搭載されていたことや、沖縄に核が常備されていたとする証言は、ライシャワー元駐米大使や米軍関係者によって多く発言されてきました。

・鳩山首相は、基地を国外に移すことが無理である理由を、勉強して、抑止力としての沖縄の米軍基地の重要さを改めて認識したからだと言いました。勉強不足と批判され揶揄されましたが、しかし、アメリカとの話の中で、沖縄にはずっと「核兵器」が常備されてきて、今もあると明かされたとしたらどうでしょうか。公にすれば沖縄の人たちの怒りはさらに大きくなりますし、日米関係にも大きな亀裂が生じてしまうでしょう。だから公言はできないのですが、ここには、アメリカには、在日米軍が仮想敵国としている中国や北朝鮮の軍指導者たちに、沖縄にはやっぱり核があるのだと思い込ませることができたと言える一面が指摘できるかもしれません。これは内田樹が彼のブログに書いた推理です。あくまで推理ですが、沖縄にまつわる問題のなかには、その重要な部分が隠されて曖昧にままに置かれたことがあまりに多いのです。

・鳩山前総理をはじめとして、最近の政治家は「国民の皆様」といった丁重な言葉づかいをします。上から目線を嫌う、最近の風潮を察しての言葉づかいなのかもしれません。しかしそれはまた、「お客様」という商売人の言い方に通じた、仕事上の言葉づかいにすぎないのです。人からの「呼びかけ」のことばには、互いの力関係を規定する意味あいが強く含まれます。ですから、そこにには、政治についてはプロに任せて、国民はお客様でいてくれればいいのだというメッセージが聞きとれます。メディアが政治を批判する根拠にする「世論」は、メディア自体が先導(扇動)して作りあげているものですが、メディアにとって重要なのは発行部数や視聴率であって、問われている問題そのものではないのです。