2001年12月31日月曜日

目次 2001年

12月

30日:目次

24日:White X'mas !!

17日:手紙とメールの恐怖

10日:卒論、修論ただいま追いこみ中!!

3日:河口湖マラソン

11月

26日:マルコヴィッチの穴

19日:秋深し、隣は………

12日:T.ギトリン『アメリカの文化戦争』(彩流社)

5日:シンポジウム「ビートルズ現象」

10月

29日:坂本龍一"Zero Landmine"

22日:喜寿からのインターネット

15日:BSディジタル放送について

10日:庭田茂吉『現象学と見えないもの』(晃洋書房)

3日:ムササビ、その後

9月

24日:テロと音楽の力

17日:Bob Dylan "Love and Theft" Radiohead "Amnesiac"

10日:ブルース・ウィリスの映画

3日:NTT はなくなるべきだと思う

8月

29日:観光地の光と影

23日:夏休みに読んだ本

14日:夏休み大工

7日:R.E.M. "Reveal"

7月

30日:『アイデンティティの音楽』について

23日:ムササビが住みついた

16日:MLBとNHK

9日:夏休みの仕事

2日:中野収『メディア空間』(勁草書房)

6月

25日:湖に浮かぶ

18日:デンゼル・ワシントン "The Hurricane"

11日:アンケートで考えたこと

4日:カヤックから見える風景

5月

28日:Bob Dylan "Live 1961-2000"

21日:突然の死 桐田克利『苦悩の社会学』(世界思想社)

14日:オリエンテーション・キャンプ

7日:最悪のゴールデンウイーク

4月

30日:「アー、アホクサ」

23日:感情とコミュニケーション

16日:高校生と携帯メール

9日:Nomo No-No!!

2日:四季の経験

3月

26日:ダスティン・ホフマンの映画

19日:スポーツの本を数冊

12日:U2 "All that you can't leave behind"

5日:スネイル・メールで「ほんやら洞通信」

2月

26日:今年の卒論

19日:H.D.ソロー『ウォルデン』その5;青い雪と氷の花火

12日:"The Best of Broadside 1962-1988"

6日:D.A.ノーマン『パソコンを隠せ、アナログ発想でいこう』( 新曜社 )

1月

30日:美しくて、楽しくて、そして何より怖い雪

29日:冷や汗、大汗の大雪物語

22日:"海の上のピアニスト"

15日:メールと掲示板

8日:H.D.ソロー『ウォルデン』その4;「退屈」について

1日:新世紀に思うこと

2001年12月24日月曜日

White X'mas !!

 

冬休みになって
久しぶりにのんびりしています
寒中カヤックもやりました
薪割りも日課仕事です
しばらくぶりの雪景色
とうぶん東京に行くこともありません
歯を治して
胃と腰を休めて
2002年に備えましょう
Lancasterは1年に22000kmも走りました
小さな故障一つしないすぐれものです
本当に今年は忙しい年でした
来年はもうちょっと
ゆとりをもってすごしたいものです
forest13-1.jpeg
一年はあっという間にすぎます
しかしまた、9月の惨事がもうはるか昔のよう
アフガニスタンでの報復攻撃が長く感じられました
愛と悲しみ、正義と邪悪、
そしてなにより底知れない憎しみと恐怖
アメリカ人の心と行動が
ハリウッド映画そのものであることを
あらためて実感しました
とびきりの自己中人間の集まり
他者に目を向けない者は
結局自分を見つめることもできない
それはアメリカ人にかぎらないのかもしれません
そういう関係が
世界の常識になりはじめているようです
だからたまには一人になって
他人のことを思い描いてみる
自分のことを考えてみる
そういう時間がなにより大事な気がします
静かな夜、聖なる夜
メリー・クリスマス!!
forest13-2.jpeg

2001年12月17日月曜日

手紙とメールの恐怖

  • アメリカでは、手紙に混入された炭疽菌で何人もの人が死んだ。テロの一つとして考えられているが、本当のところはよくわからないようだ。封書を開けるのが恐い。あるいは手紙が届くのさえ恐ろしい。こんな経験を何億もの人が同時にするのは、たぶんはじめてのことだろう。
  • この手紙にはもちろん、送り先があって、メディアだったり政府機関だったりする。それは特定の人や組織に対する攻撃だが、届く過程で被害にあった人も少なくない。郵便局員は当然危険だが、たまたま菌の入った封書と重なった手紙、封書を開けたときに居合わせた人などと考えていくと、これはやっぱり、姿を隠した人間が無差別に無数の人びとに危害を加えることを意図した行動だといわざるをえない。まさに匿名社会がもたらす恐怖である。
  • 手紙は、おなじ場所に生きて関係を続ける人たちが離ればなれになるところから普及しはじめた。たとえば、田舎から都会に出ていく、あるいは別の国に行く。理由があって離れてはいるけれども、私とあなたの関係は親密なものです。手紙はなによりそんな気持ちを確認する手段だった。今はそれが年賀状や暑中見舞いとして形骸化しているけれども、やっぱり久しぶりに来た知人からの便りには懐かしさを感じたりする。
  • もっとも、最近では、配達する手紙にふくまれる私信の数はめっきり少なくなった。やってくるものの大半は、ダイレクト・メールか仕事に関係している。味も素っ気もない茶封筒は、差出人を見て、用がなければ開けもしないでストーブや焚き火にほうり込んでいる。それでも、森の中に住んでいると、昼頃にやってくる郵便屋さんに心が躍るということはある。そういう意味では、手紙に期待する気持ちが、ぼくの中にはまだ残っている。
  • とはいえ、自分で出すということになると、とたんに面倒に思ってしまう。メールを使うようになってからは特にそうだ。メールは汚い手書き文字ではないし、しかも遠くのポストまで歩いていく必要もない。これなら、来たものにすぐ返事が出せるし、出したものにもすぐ返事が来る。必要なら返事の返事、返事の返事の返事といくらでもできる。しかも、電話のように無駄なおしゃべりをする必要もない。だからぼくはここ数年はもっぱらメールで楽をしてきた気がする。
  • ところが、そのメールにも煩わしいことや、恐いことがある。まず以前にも書いたように、ジャンク・メールの山。これは国内にかぎらない。AOLのアドレスにはヴァイアグラや投資、それにアダルトサイトからのメールがうんざりするほど舞い込んでくる。最近ではもう、開けもしないですぐ削除。ストーブにほうり込む手紙と一緒である。
  • それでも手紙よりはまだましと思っていたのだが、しばらく前から、添付ファイルのついた<RE:>という題名のメールがやたらと飛び込んでくるようになった。侵入してはいろいろと悪さをする、新手のコンピュータ・ウィルスらしい。もっとも、ぼくはまだ実害を受けていない。たぶんマックを使っているせいだと思う。ウィンドウズでエクスプローラーやアウトルックを使用している人に被害が多いようだ。
  • 手紙と違ってメールは世界中どこにでも即座に届く。一つの内容が拡散するのも手紙とは比較にならないほど早い。それにくっついてくるウィルスは、気づかぬうちにパソコンのデータを改竄したり破壊したりするから、実際上は全くの無防備と言っていい。個人でいくら注意しても、炭疽菌と一緒で防ぎようがない。これはサーバーでシャットアウトできるのではと思うのだが、大学ではぼくはもちろん、学生の所にも次々やってくる。AOLのアドレスには来ていないから、こちらは対策済みなのかもしれない。そうだとすれば、電算室にはもうちょっとしっかりして欲しいと思う。
  • 院生の一人がウィルスでパソコンが動かなくなったと言った。彼は今修論を書いている。誰が送りつけたかとんでもないと思うが、送る方はそんな相手の状況など知りもしない。もちろん、被害を被った方にしても、なぜ送られたのか見当もつかない。世界大に広がったネットワークのなかを顔の見えないメールが無数に飛び交っている。いたずら心にせよ、特定の意図があるにせよ、数多くの人が迷惑を被り、被害にあう。それは、テレビもなく、なぜ攻撃されるのかもわからずに爆弾を落とされるアフガニスタンの人たちが感じる気持ちと、どこか通じている気がする。「不条理でアノミーな世界」になったな、とつくづく思う。
  • 2001年12月10日月曜日

    卒論、修論ただいま追いこみ中!!

     

  • 例年の年中行事である卒論、修論の季節がやってきた。おもしろくなるか、しんどくなるかは学生次第。当然おもしろくしようと、学生たちにはだいぶ前からハッパをかけてきたのだが、今年の動きは、遅くて鈍い。当然、こちらにとってはイライラの原因になる。で、ぎっくり腰である。
  • ぼくは疲れやストレスがたまると、それが胃や腰に出る癖がある。もう10年以上もつづいている悪癖だが、今年もやっぱり出た。去年は1年の仕事が済んで、引っ越しの準備をしていた2月だったし、一昨年は遠距離通勤でくたびれた夏休み直前のことだった。からだは本当に正直だ。
  • もっとも、学生のせいばかりではない。大学を移って3年目だというのに、本当に任される(押しつけられる)仕事が多い。新参者に押しつけようとするのか、ほかに適任者がいないのか。その仕事が11月になってどっと重なった。入試委員、メディア委員、オリエンテーション・キャンプ実行委員、定員活用委員(新学科を作るのか作らないのかを決める)、大学院運営委員、それに人事の選考委員である。こんな大事な仕事を、内情をよく知らない者に任せていいのだろうかと思う。逆に言えば、あまり首を突っ込みたくない仕事ばかりでもあるのだが………
  • そんな会議の連続の合間に、ゼミや院の学生の論文のことを気にかける。せっつかなくてはもってこない学生ばかりだと、イライラするのは無理もないことだと我ながら思う。もっと余裕を持って楽しくやりたい。やらせて欲しい。そういう思いを学生たちはわかってくれない。そんな気持ちがついつい学生にぶつけられる。だから逆効果になって、やる気を起こさせるのではなく、萎縮させることになる。悪循環は避けたいのだが、なかなかうまくはいかない。
  • 去年の学部ゼミの卒論集は『意外とイイ』だった。熱心な学生が数人にて、夢中になっている学生と話をするのが楽しかった。もちろんそうではない学生もたくさんいたが、これはと思う論文は数本出れば十分である。今年の学生たちと卒論集の題名の話をしたときに、『意外とイイ』がプレッシャーになっていることに気がついた。例によってぼくは意地悪に、題名は『今年はダメ』『なぁーんだ期待はずれ』かな、などと言った。学生たちからは、「誰にも見て欲しくないから『有害図書』にしよう」といった意見も出た。「有害なものが書けたらたいしたもんだ。だけど、君らの書くものは残念ながら『人畜無害』。毒にも薬にもならない」とぼくがつっこむと、「ワー、ひどい」といったが、「ヨーし、いいもの書くぞ」という声は聞こえてこなかった。それどころか、論文のことなどそっちのけで、卒論集を出さないようにするにはどうしたらいいか、とか、学部の先生たちに見せないようにする工夫ばかりを考えはじめたから、これはあかん、今年はダメかとあきらめかけた。
  • もっとも、豊作と不作は隔年でやってくる。だから今年はだめでも来年に期待すればいい。そう思えばいいのだが、実は来年の学生、つまり3年生は、今年よりももっと消極的で、ゼミも活発ではない。このままではじり貧の沈滞化がやってくる。だから、今年の学生にも、やっぱり本気になってもらわなければならない。「『ノツボ』にはまったと思って、懸命にもがけ」。提出は今日(12月10日)から14日まで。悪あがきかもしれないが、ぼくはまだ、最後の大化けに期待している。
  • 17日のコンパは楽しくやりたいものですね。みなさん!!!
  • 実は悩みの種は大学院の方が大きい。去年は一人で、しかも優等生だったから、ほとんど何の苦労もなかったのだが、今年は留年生を含めて4人。だいたいでき上がりつつあるのが2人。遅々として進まないのが一人。出すと言い張ってはいるが、まったく顔を見せないのが一人。冬休みには、疲れをとってのんびりしたいのだが、それをさせてもらえるかどうかは、まさにこの2人にかかっている。もっとも、休みに入ったら、泣き言を言われても、学校に出ていくことなどするつもりはない。
  • 学部の卒論集は1月から編集作業に入る予定。大学生協に印刷を頼むから、順調にいけば2月の後半にはできるはず。そのころに論文の紹介とぼくのコメントをこのHPでも紹介するつもりだ。
  • 乞うご期待!
  • 2001年12月3日月曜日

    河口湖マラソン

    ・11月23日に河口湖マラソンがあった。日刊スポーツと河口湖町主催で、山梨県と朝日新聞が後援。今年で26回目になる。参加者は8352人。コースは湖畔を2周するフルマラソンと1周のハーフ、それに一部を走るファンラン(8.1km)の三つ。快晴でマラソンには暑いほどの一日、富士山も一日中顔を出した、絶好のコンディションだった。ぼくも暖かさにつられて、沿道まで見物に出かけた。




    ・河口湖町の人口は2万人ほどだから、マラソン参加者の数はその半分。湖畔道路に数珠繋ぎになる光景は壮観だ。性別も年齢もさまざまだが、コスチュームを競うのも流行のようである。ウルトラマン、サンタクロース、看護婦さん、白鳥、ペンギン、ビール瓶………。暑くて重くて動きにくくて本当にご苦労さんでした。




    ・マラソンのおかげで当日は完全な交通麻痺。前日から湖畔道路は渋滞で、急ぐ人にはえらい迷惑。けれども、イベントにこんなに人が集まるなら、車は完全に遮断して、もっと楽しさやユニークさを強調してもいいと思った。河口湖はこの日を最後に来年の春までは、ぱったり客も途絶えてしまうのである。

    11月23日に河口湖マラソンがあった。日刊スポーツと河口湖町主催で、山梨県と朝日新聞が後援。今年で26回目になる。参加者は8352人。コースは湖畔を2周するフルマラソンと1周のハーフ、それに一部を走るファンラン(8.1km)の三つ。快晴でマラソンには暑いほどの一日、富士山も一日中顔を出した、絶好のコンディションだった。ぼくも暖かさにつられて、沿道まで見物に出かけた。

    2001年11月26日月曜日

    マルコヴィッチの穴

     

    ・“穴” というのは不思議な場所だ。閉じた空間にできた裂け目、あるいは未知の世界への通路。どんな穴でも、ふとそんなことを連想させる。家の近くに「風穴」とか「氷穴」と呼ばれる洞窟がある。富士山が噴火したときにできた大きな穴で、一年中冷たかったり、逆に暖かかったりする。地中深くの穴で風を感じるということは、どこかにつながっているということ。一説では、相模湾に通じるなどといわれるから100km近い長さがあるということになる。そんな話を聞いただけで、穴の奥の闇、あるいはその向こうにつながる世界に、想像をかき立てられてしまう。


    ・村上春樹の小説には、そんな不思議が、装置としてしばしば登場する。壁の穴、エレベーター、井戸、あるいはダンキン・ドーナツ。それらが必ず異世界への通路になって、二つの世界を行き来する物語を可能にさせている。世界には、そして人の心には、明るい自明の世界のほかに、暗い闇の部分がある。あるいはだれでも、今ここではない、もう一つの「生きられる世界」の可能性を信じたり、夢想したりするが、そこへ通じるはずの道はまた、ブラックホールのようにも感じられる。

    ・テレビの番組欄で『マルコヴィッチの穴』という奇妙な題名を見た。“穴”と聞いただけで、もう見ずにはいられない。Wowowでの放映時間が待ち遠しかった。
    ・主人公は操り人形使い師。大道芸をやっているがなかなか思うようにはいかない。自分のやりたいものと客の望むもののズレに悩んでいる。同居している女性はペット・ショップをやっていて、家にも何種類もの動物がいる。二人の関係は今ひとつしっくりいっていない。


    ・彼は新聞で見つけた求人広告をたよりに出かけてみる。そこはビルの7階半にあって、天井の高さも半分しかない。エレベーターもちょうど 7階と8階のあいだで緊急停止させてバールでこじ開けなければならない。何とも奇妙な場所で、よく分からない仕事をはじめる。ちょっと気になる女性。そしてたいへん気になる穴の発見。それは書類棚の後ろにあって、先が見えないほど暗くて深い。彼が思いきって先に進むと、扉が閉まって、急に真っ逆さまに落ちていく。底についたら、目の前に視野が広がっていた。

    ・新聞を読む、珈琲を飲む、シャワーを浴びる、鏡の前で身繕いをする。どうやら誰かの中に侵入したようだ。俳優でマルコヴィッチというらしい。他人の中に入って、その世界を感覚するという奇妙な経験。しかし15分たったらニュージャージーのターンパイク近くの土手に落とされた。


    ・彼はそのことを気になる女性に話す。彼女はそれを商売にしようと考える。「一瞬だけ他人になれる経験をしてみませんか」というわけだ。入り口には長蛇の列。彼はそのことを同居人にも喋る。彼女は男の中に入ることで、すっかり意識変革してしまう。入っているときにちょうど、マルコヴィッチは気になる女性とセックスをはじめたのだ。彼女は、自分は実は男で、女性が好きだったのだと思ってしまう。


    ・彼は彼で何度かくりかえすうちにマルコヴィッチを制御する術を見つけだす。入っている時間もだんだん長くなる。そしてマルコヴィッチに俳優を辞めて操り人形使い師になると宣言させる。それはたちまち話題になって、引っ張りだこになる。人形を操るのはマルコヴィッチだが、その技術は主人公のもので、彼はマルコヴィッチ自身をも人形のように操ってしまう。

    ・わたしたちは他人の経験を直接経験することはできないし、私の経験を他人に直接経験させることもできない。だからそれをコミュニケーションで理解させたり、想像力で補ったりする。しかし、なかなか他人のことは分からないし、自分のことを他人に分かってももらいにくい。だから、たがいがその経験を直接共有できるというのは人間関係の究極の形だといえる。理想にも、夢のようにも思えるが、しかしそれはまた、たがいが直接コントロールしあえたり、自他の境界をなくさせたりすることにもなるから、必ずしも幸せなこととはかぎらない。


    ・そう考えると、わたしたちの経験はたがいに閉ざされている方が気楽だということになる。ただ、たがいのあいだに時に通じあう穴、つまり通路がなければ、人は本当にバラバラな存在になってしまう。まるで一緒になっても生きられないし、バラバラでも生きられない。そんなことを考えると、穴の魅力と恐ろしさの意味が納得できるような気になってくる。

    2001年11月19日月曜日

    秋深し、隣は………

     

    forest12-2.jpeg・最低気温が零下になった。欅は一本が完全に落葉し、もう一本も黄色になった。庭が茶色の絨毯のようで、それをかき集めると山になった。近くで咲いていた向日葵やコスモスの種を大量に収穫したから、来年はそれを庭に植えて、花畑をつくろうと思っている。落ち葉はその堆肥にするつもりだが、うまくいくかどうか………。



    forest12-4.jpeg・秋深し、隣は………。ムササビは繁殖期になったのか、しばらく帰ってこない。恋の季節にはやっぱり外泊なのかもしれない。もちろん、帰ってきたとしても、落ち着くのは屋根裏であって、ぼくが作った巣箱ではない。空き家の巣箱は葉が散ってしまうと、余計に寂しそうに見える。ストーブ用に薪は家をぐるりとするほどで、備えは万全だ。

    ・しばらくぶりにカヤックにのった。雨上がりの快晴。富士山はもうすっかり雪化粧。ここのところ忙しくて、家に持ち帰る仕事も多い。翻訳も気になっているから、外に出ることもままならなかったのだが、出ればやっぱり、ほっとした気持ちになる。

    forest12-5.jpeg・渡り鳥が何種類も、北からやってきている。年中居着いているものと区別がつきにくいが、頭が緑色の鴨は新しい。ほかに白や灰色の大きな鳥。カヤックで近づいて写そうと思うのだが、決まった距離まで近づくと逃げてしまう。で、後を追ってやっとものにした。鷺かな?



    forest12-10.jpeg・今年も紅葉はきれいだ。赤と黄色と緑、それに空の青と湖の藍色。それが縞模様になって、絶妙の色合いを描きだしている。観光船もそんな景色の前では一休み。日差しが強いからまだ寒くはないが、カヤックのゴム底一枚で接する水は冷たい。これからは足に寝袋でも巻いてのることになりそうだ。(2001.11.19)

    2001年11月12日月曜日

    T.ギトリン『アメリカの文化戦争』(彩流社)

  • トッド・ギトリンはぼくと同世代で、60年代にはアメリカの学生運動組織であるSDSのリーダーだった。その後、ニュー・レフトを代表する社会学者として精力的に仕事をしてきている。『アメリカの文化戦争』(原題は"The Twilight of Common Dreams")はヴェトナム戦争以後のアメリカの文化や政治の状況をふりかえって見つめ直すといった内容で、前作の"Years of Hope, Years of Rage"(邦訳は『60年代アメリカ』<彩流社>)の続編といった内容である。
  • 『60年代アメリカ』は、自らの学生運動の経験や少年から青年に至る成長のプロセスをドキュメントのように、あるいは物語のようにつづっていて、ぼくは日米のちがいを越えて、共有する経験の多さに喜んだり、そのラディカルな言動に驚いたり、あるいは、時代や社会状況をふりかえって見つめる目の確かさに感心しながら読んだ。アメリカでは10年刻みで時代をひとくくりにしてまとめるのが一般的で、それぞれいくつもの本が出ているが、『60年代アメリカ』はD.ハルバースタムの『ザ・フィフティーズ』(新潮社)と並んで、その種の本の最良のものだと思う。
  • 『アメリカの文化戦争』は『60年代アメリカ』のように、読みながら興奮を覚えるといったものではない。それはしかし、ギトリンのせいではなく、アメリカの変容が原因である。アメリカが世界でもっとも豊かな世界になったのは50年代だが、60年代には、はやくもその栄光が揺らぎはじめる。ギトリンによれば70年代以降のアメリカは、特に白人にとっては、かつての栄光とそれにつづく衰退のプロセス、あるいは理想や正義の形骸化と、それでもそこにしがみつこうとする意識のズレに悩まされた時代だった。なぜアメリカは、それが独りよがりであることが明白であるにもかかわらず、なお理想や夢、あるいは善なるもの、正義や正直さに執着するのか。これはなにより、貿易センタービル破壊に対する国を挙げての報復行為とその意味づけについて、アメリカ人以外の人たちが持つ違和感だと思う。
    国家を「夢」といった実体のないものと同一視することは全く例外的なことである。夢は何ものかを喚起し、照らし出し、美しく、恐ろしくもある。しかし夢は既成事実では決してありえない。証明すべき実体をもたない。ただ修正だけがきく。もともと曖昧なものであるがゆえに、いろいろに解釈されるようにできている。夢とはあらゆる経験の中で、もっとも個人的で不可視なものである。
  • ギトリンは、それをアメリカが「自由な人間が平等に生きるという理念」をもって生まれ、世界中にそのような期待をいだかせ、またそれを実現しして見せることを運命づけられた国だからだという。それは「国家というよりは一つの世界」「一つの生き方」といったものである。アメリカは誰もが夢を持てる国、もたなければならない国。アメリカの魅力は何よりそこにあるが、しかしまた、アメリカ人が抱える不幸やアメリカの怖さもおなじところから生まれる。夢は基本的には個人的なものだから、他人とは違う夢、異なる価値として持たなければならないが、それは他者を尊重しないという方向にも働く。
  • アメリカはその栄光が揺らぎはじめた70年代から、人種的なマイノリティや女たちが自らの声を出し始めた。夢を持つのが白人の男の特権ではないことが主張されるようになった。そのような傾向は80年代、90年代、そして21世紀へとますます強くなっている。ギトリンは音楽やスポーツに顕著なほどには、マイノリティの持つ夢は実現していないという。しかし、アメリカ人であれば誰でも、何らかの夢を持って生きること、その権利が当然視される時代になったことはまちがいない。
  • けれども、それは同時に、たがいがそれぞれ勝手に生きるバラバラな社会が到来したことを意味する。アメリカ人とは一体何者なのか?アメリカのアイデンティティはどこにあるのか?それがこれほど不確かになった時代は未だかつてなかったとギトリンはいう。
  • この本を読みながら、ぼくは今現在のアメリカの精神状態に気がついた。アメリカを襲う大きな危機、それがもたらす不安と憎悪。それによってバラバラな人たちが、アメリカという国、アメリカ人としてのアイデンティティを自覚する。テロの被害者、それに立ち向かう正義の戦士。それは一方でアメリカ人の心を一つにする働きをする。けれども、その心は同時に、アメリカ以外の国や人びとの思いに対する想像力を遮断し、彼らの生きる権利やその主張を無視する結果ももたらす。
  • その心の偏狭さに気づくのが、アフガニスタンで数万、数十万、あるいは数百万の犠牲者が出た後になるのだとしたら、それは恐ろしい悪夢だとしかいいようがない。
  • 2001年11月5日月曜日

    シンポジウム「ビートルズ現象」

    11月2日に大津の龍谷大学社会学部で「ビートルズ現象」というタイトルのシンポジウムがあった。ぼくはパネリストの一人として出席するために、前日に車で河口湖を出た。快晴、紅葉、雪をかぶった富士山、と気持ちよく出発したのだが東名に乗ったとたんにしまったと思った。10月22日から11月2日まで集中工事。さっそく清水から静岡までの20kmたらずで1時間以上も渋滞したから、もうお先真っ暗である。確か中央高速は11月5日から集中工事だとあちこちに掲示がされていた。確認しておけばよかったと悔やんでも、もう遅いし、今さら中央高速に乗り換えるわけにもいかない。


    シンポジウムは翌日だからその心配はないのだが、追手門学院大学で同僚だった田中滋さんと琵琶湖でカヤックをやる約束をしていたのだ。出発したのは9時半。予定では4時間、余裕を見ても5時間あれば十分と思っていた。ところが、1時近くになってもまだ浜松。しかも掲示板には、岡崎まで2時間で名古屋は空白になっている。おもいきって浜松で降りて浜名バイパスと1号線を使う。再度岡崎から東名に乗って名古屋をすぎたのが3時。カヤックをする約束の時間である。しかし、着いたのは4時半で、せっかく積んでいったカヤックはやらずじまいだった。


    がっかりしたし、ついていないとも思ったが、今回の目的はシンポジウムである。目的を公私混同してはいけない。それに、久しぶりに田中さんと会って、ワインを飲みながら楽しく話した。琵琶湖畔のいいホテルに泊まって疲れもとれた。午前中に一人でカヤック、と思ったが、話すことをメモを取りながら確認して時間を過ごした。
    シンポジウムの仕掛け人は亀山佳明さん。今年は何かと彼と一緒に仕事をすることが多い。3月には「スポーツ社会学会」のシンポジウムに一緒に出たし、夏休みは井上俊さんの退官記念論集の原稿を書いた。そして「ビートルズ現象」。彼は最近、いろいろな企画の仕掛け人になっている。それからもう一つ、桐田さんの葬式でも一緒になった。

    シンポジウムは、ぼくが、ビートルズの登場した時代のイギリスについて、その社会背景を話した。それから、東芝EMIの水越文明さん。彼は昨年出して300万枚の大ヒットになった「ビートルズ1」の宣伝担当の責任者で、その戦略を披露した。そして最後は和久井光司さん。彼もまた昨年暮れに『ビートルズ』(講談社メチエ)を出している。ミュージシャンでもあることは知っていたが、ギターをもってきて歌うということを聞いて驚いた。ビートルズの話を歌いながらしたし、ロックミュージシャンらしく、おとなしい学生をあおったりもしたから、ただ話すだけのぼくは全然かなわないなと思った。しかし、シンポジウム自体は、なかなかおもしろいものになった。

    ビートルズに代表されるポピュラー音楽が20世紀後半の文化を代表することは明らかだ。ぼくはそのことを『アイデンティティの音楽』に書いた。その意味で、ロックはすでに歴史の対象になったといってもいいのだが、今でも若い人たちが一番好む文化であることはまちがいない。ところが今の音楽状況は、一方でミリオンセラーを連発するミュージシャンが多数出て活発なようにも見えるが、レコード会社やメディアによってつくりだされる傾向が強い。他方で、40年も前の音楽がもてはやされたりする。「既成の枠組みや固定観念を破るのがロックで、それをなくした音楽はだめ(和久井)」「メジャーが状況を支配する時期は音楽にとっては沈滞期(渡辺)」「いい音楽が生まれてくるためにも、インディーズにがんばってほしい(水越)」と、それぞれ立場は違いながら、音楽の現状にたいしては批判的な見方で一致した。


    それにしても、どこの大学に行っても、学生たちの目に輝きを感じない。希望に溢れるわけでもなく、不満に怒りを爆発させるわけでもない。管理が行き届きすぎたのか、幸せになりすぎたのか。教師としては面倒がなくて楽だが、かなり物足りない。

    2001年10月29日月曜日

    坂本龍一"Zero Landmine"


    sakamoto1.jpeg・アメリカによるアフガニスタン空爆がまだつづいている。今朝読んだ新聞には「破壊を破壊する」ということばがあって、まさにその通りと思うと同時に、たまらなく憂鬱になった。一方で、アメリカ国内では「炭疽菌」騒ぎが恐慌をおこしている。憎しみや妬みが怨念となって世界中に漂っていく。それとは対照的に日本では、恥をかくまいという一心で自衛隊を派遣しようとする法改正に賢明だし、片栗粉を封筒に入れた愉快犯が続出しているという。多くの人は対岸の火事とほとんど無関心のようにも思えるが、狂牛病と合わせて、不安感が充満していることは確かなようだ。
    ・ただただ爆撃だけがくりかえされる現状を見ていると、一体どこに、アメリカがアフガニスタンを空爆する正当な理由があるのだろうか、とあらためて考えてしまう。それで結局どうしようというのだろうか。どうなるのだろうか。どう考えても、暴力が暴力をひきおこし、憎しみが憎しみをつのらせるだけ、そして結局、破壊が破壊を生み、破壊を破壊と際限なくつづくだけなのに………。

    ・BSi(TBS)で坂本龍一がつくった、地雷廃絶のためのキャンペーンCD"Zero Landmine"の製作過程のドキュメントを見た。このCDは4月に発売されていて、一時ちょっとだけ話題になったが、後はほとんど注目されていないものだ。

    ・ぼくが地雷の問題に関心をもったのは、そんなに前のことじゃない。生前、ダイアナ妃がアンゴラまで出かけて、対人地雷廃絶を訴えていたのは何となく知っていた。ICBLという組織がインターネットで活動を拡大し、ノーベル平和賞を授与されたことも知っていた。しかし、この地雷の問題に深く動かされることになったきっかけは、某TV番組だった。それは、地雷撤去中に片手と片足を失った白人の男が、地雷の問題について自分の母校で、子供たちに教授するというものだった。その中で、白人の男は義手義足でフルマラソンを走っていた。ぼくはそれを見ながら、この白人男性の不屈の精神に感嘆した。(坂本龍一)

    sakamoto2.jpeg・坂本龍一はこのCDをつくるためにモザンビークに行き、地雷の被害にあっている国の人たち、とりわけ音楽家とコンタクトをとった。あるいは彼の友人に参加を呼びかけた。そうやってできたのが"Zero Landmine"で、45分ほどの作品になっている。「イヌイットの少女の素朴な歌から始まり、………朝鮮半島を通り、カンボジア、インド、チベットを抜け、ボスニアでヨーロッパをかすめ、アフリカのアンゴラに行き、人類発生の地、東アフリカに位置する「大地溝帯」の南端、モザンビークに達する『音楽の旅』」。登場して歌い演奏し、話す人たちは数多い。その中でくりかえされる歌は次のように訴える。


    ここがわたしの家 / おかあさんに育てられ
    懐かしい兄や妹と / 遊んだところ
    あなたにも見える? / 地面には木が根を下ろしている
    暴力はもうたくさんだ / この地にもう一度平和を
    ここはわたしたちみんなの世界で
    わたしたちみんなの救いがある
    だから、国も、国境も、関係がない
    (「地雷のない世界」デビッド・シルヴィアン、村上龍訳)

    ・ジャケットには何種類もの地雷が並んでいる。形やデザインなどを見ていると、まるでブローチのようで、これが足や手を吹き飛ばす爆弾だとはとても思えない。人は、こんな残酷な兵器にさえも、デザインの工夫をしようとするのか、と思うと、何ともむなしい気がしてくる。もっとも、戦闘機や戦艦、あるいは鉄砲や刀も、形だけ見れば格好良かったり、美しかったりする。「殺しの美学」などという言い方もある。その道具としての野蛮さとの対照は、ひょっとしたら人間の本性を映しだしているのかもしれない。
    # 美と醜、善と悪、真と偽、あるいは正と邪。人は価値を対照によって意識する。なによりこわいのは、価値の意識にはそれぞれ強い感情が伴うことだ。醜いものは消えてしまえ。悪いものは退治せよ。きわめて人間的な発想がおそろしく非人間的な心根をもたらす。だからこそ、地雷を踏んで手足をもがれる人、アフガニスタンで空爆される人から目を離さないことが大事だ。彼や彼女らは、そんな価値意識とは関係なく生きていて、不当に傷つけられたり殺されたりする普通の人間なのである。

    2001年10月22日月曜日

    喜寿からのインターネット

  • 僕の父は今年喜寿を迎えた。母ともにそろって、いたって元気だ。それぞれに、趣味をもっていて、書道、水泳、太極拳、鎌倉彫、人形作りなどをやっている。都営の交通機関が無料ということもあって、よく都心にも出かける。元気で何よりだが、年寄り夫婦の二人暮らしはやっぱり、ちょっと心配でもある。
  • 実は去年の暮れに、父は近所で、自転車同士でぶつかって大腿骨を骨折した。3週間ほど入院して、一時は大騒ぎだったが、リハビリも順調にこなして、今は依然と変わらないほど元気になった。
  • 退院直後に誕生日を迎えたこともあって、僕はそのお祝いにパソコンをプレゼントしようと思った。以前ほどには気楽に外出できなくなるかもしれないから、家で過ごす時間が増えるだろう。何かやれるものが必要になる。そんなふうに考えたからだ。
  • 最初は、気乗り薄の返事だったが、3カ月ほどたって、やってみる気になりはじめた。外出もしはじめるようになったから、それに慣れることもかねて、新宿までパソコン教室に通うか、と言った。僕は、気が変わらないうちにと、すぐにiMacとプリンターをプレゼントした。
  • 父は以前にワープロを使っていたこともあったから、全くの初心者というわけではない。しかし、インターネットやメールをやるならと、ローマ字変換を勧めた。だからマウスはもちろん、キイボードの扱いも最初はひどく面倒のようで、見るからにぎこちないものだった。戦中に学校に行った世代は、アルファベットは苦手のようだ。「か」は何? 「ka」だよ。「きゃ」は? 「kya」。ちいさい「っ」は?………。70歳というか80前の手習いである。一緒に母もはじめることにしたから、たまに行くと質問責めでたいへんだった。しかも、説明してもなかなかわかってもらえない。
  • そんなふうにして最初は文字の打ち込みの練習がつづいた。パソコン教室で習ってきたことの復習でも、かなりの時間が必要だったようだ。で、教室が終わって、いよいよネット・デビューということになった。
  • プロバイダーはケーブル・テレビを勧めた。月6000円とちょっと値段は高かったが、つなぎっぱなしのブロードバンドで、遅いだの繋がらないだのといったトラブルが少ないと思ったからだ。うまくつかえれば、ぼくのところよりもずっといい環境になるはずだ。実際やってみると、早い早い。大学でやるよりもサクサクといく。
  • で、とりあえず興味関心がありそうなサイトを見つけてブックマークをつけてやる。近所のバスの時刻表から天気予報、新聞社やテレビ局、さらには小泉首相のページまで、いろいろとアクセスして、便利なこと、おもしろいことを説明した。そのあとは、メール。
  • ソフトの概観の説明から始まって、メールの打ち方、出し方、来たメールの読み方、そして、整理の仕方。もちろんいっぺんに話したって、すぐにはわからない。とりあえずは自分のメール・アドレスを登録して、自分宛に出してみる。次は父と母がそれぞれ相手宛に、そしてぼく宛のメール。
  • そんなところまでで、僕は夏休み。東京に出かけることもなくなったから、お互い連絡することがあれば、メールで伝えることにした。「出したけど着いてない?」「着いてないよ」といったやりとりを電話で数回。慣れてくると、「〜のアドレスを教えてくれ」と言い始めた。僕の息子(孫)や親戚でメールをやっている人たちを教えたが、出したって、すぐに返事があるわけではない。つなぎっぱなしのブロードバンドだから、しょっちゅうメールチェックをするのだが、どこからも届いていない。使いこなせるようになると、今度はそれを試す相手が必要になる。
  • ここまではもっぱら父がリードをしていたが、ここからは母の舞台。日頃から電話をつかうのはもっぱら彼女で、相手はほとんどが友達だ。父は用事がなければほとんど使わない。これはぼくのところでも同じで、おしゃべり相手と日常的に接触するのは、どこでも女性の方が活発のようだ。だから、母は友達とのメールのやりとりをはじめたが、父にはそれをする相手がいない。何とかと思うが、こればっかりは自分で探してもらうしかない。
  • と、こんなわけで、父と母は新しいコミュニケーション手段を使い始めた。若い学生たちとはちがって歩みはのろいが、そのうちにホームページの作り方でも教えようと思っている。「インターネット」「メール」「ホームページ」「IT」などといったことばを耳にしながら、自分では何のことやらよくわからない。そう感じると、自分が世の中からひどく遅れてしまっているのでは、と不安になってしまう。そうならないための、あるいはボケ防止のための手習い。動機づけがうまくいって、やれやれといったところだ。
  • 2001年10月15日月曜日

    BSディジタル放送について

  • 何度も書いているが、山間部のわが家ではテレビの地上波の映りがきわめて悪い。アホくさいバラエティや遊戯会のようなドラマは見る気もないから、ケーブルも契約しないままだ。それで十分と思っていたのだが、新聞に載るBS放送欄が気になってもいた。時折興味のある番組が載っていて、見たいな、と思うことがあったからだ。
  • 実はBSディジタル放送がはじまったときにチューナーを買おうかなと思った。しかし、値段が高いし、たいした番組もなさそうなのでもう少し待つことにしたのだ。それから一年、電気屋でたまたま見かけたら、チューナーが6万円台になっていた。パラボラ・アンテナは今のままでいいというし、Wowowが3チャンネルに増えて、視聴料はあまり変わらないという。夏休みの後半にはいったところで、家でテレビをつける時間が多いのに、見たいものがないと感じていた時期だった。
  • ところが、買ってすぐに見たのがニューヨークの貿易センタービルへの旅客機突撃だった。夜中のニュースはBSでも、民放の地上波と同じものを流していた。新しいリモコンを片手に、ぼくは明け方まで見続けてしまった。そのあとも、ニュースを中心によく見たから4、5日すると目が痛くなった。
  • BSデジタルは電話回線を使った双方向のやりとりをうたい文句にしている。クイズ番組への参加や通販程度のもので、各チャンネルに登録しなければならないから、今のところやる気はない。ラジオやデータ放送などのチャンネルもかなりあって、充実していけば、インターネットと同じような使い方ができる可能性をもっているようだが、これも可能性であって、今のところはほとんど役に立ちそうにない。民放はそれぞれ3チャンネルずつ確保しているのだが、聴取料を取るNHKとWowow以外にはそれぞれ別番組をやっているところもほとんどない。
  • 思ったように普及しないから、あまり力を入れない。中味が貧弱だから、いつまでたっても注目されない。そんな停滞状態のように思えるが、番組の中にはおもしろいもの、意欲的な試みもある。たとえば長時間のインタビュー番組や地味だけどじっくり時間をかけて作ったドキュメンタリー番組、あるいは、昔の番組の再放送などがある。しかし、全体としていえば、何をしたらいいのかわからない感じだし、それほど本気で取り組んでいるふうでもない。
  • 一方、衛星放送にはCS放送もあって、こちらはたくさんあるチャンネルに一つひとつ視聴料が必要だ。各チャンネルは専門特化していて、ニュース、映画、音楽、スポーツ、アダルトと盛りだくさんのようだ。もっとも、経営的にはスカイ・パーフェクトがほとんど独占状態で、ぼくはマードックが好きではないからこれからも見るつもりはない。
  • BSは現在アナログとディジタルの二本立ての放送をしている。数年後にアナログが廃止されれば、さらにディジタル・チャンネルは増えるだろうと思う。そうなると、BSとCSあわせて、見ることができるチャンネルは数百にもなるし、地上波がディジタル化されれば、さらに多くなる。一体誰がどんな理由で、一つひとつのチャンネルを選択するのだろうか。
  • 多くの人にとってテレビは、見たいから見るよりは、生活習慣の一部としてとか、日常会話の材料として見るという意識の方が強いようだ。だからチャンネルが増えても、相変わらず、20%とか30%といった数の人たちが同じ時間に同じ番組を見る。この習慣や指向は頑なで、なかなか変わりそうにない気がする。
  • 衛星放送は今のところ、技術的な進化だけが目立っている。中味、つまりソフトの開発はまだまだ手探り状態といったところだ。だから、衛星放送がテレビの主体になれるかどうかは、視聴者の視聴行動を変えるかどうかにかかっている。けれどもそれはまた、魅力のある内容を先行させなければどうしようもないことでもある。
  • 課題はいろいろあると思う。お金もそうだが、知恵を絞ったり、若い素材や新鮮なアイデアを工夫する必要がある。何より、実験の場として考える発想が大事だろう。そんな意識をもって見ると、残念ながら、あまり期待できそうにない気もする。とはいえ、わが家では、きれいな画面で見られるチャンネルが増えたから、しばらくはそれだけでも十分である。
  • 2001年10月8日月曜日

    庭田茂吉『現象学と見えないもの』(晃洋書房)

  • この本は、ぼくにとっては思い出ふかいものだ。庭田さんは同志社大学の哲学の先生で、ぼくとは30年のつきあいになる。今年亡くなった桐田克利さんたちと一緒によく酒を飲んだり、議論をしたり、それにちょっと勉強会もした。それぞれに、恋愛のこと、結婚のこと、子どものこと、そして仕事のことなどで悩ましたり、悩まされたりもした。庭田さんはその私生活では、仲間内では一番のトラブル・メーカーで、もういい加減にしろとみんなからあきれられることも多かった。しかしそれだけに、会えばいつでも彼の話題でもりあがった。
  • 庭田さんは青森出身で、寺山修司に似たしゃべり方をする。深刻な問題を抱えこんだときでも、その独特の口調で、おもしろい話にしてしまう。ぼくの周辺では希有のストーリー・テラーで、ぼくは小説家になったらいいのにとずっと思ってきた。実際彼の人生は、波瀾万丈で、ぼくに才能があったら、彼をモデルに小説を書きたいほどである。もちろんそれができたとしたらスタイルはコミカルなものになる。
  • 『現象学と見えないもの』は彼の博士論文で、その完成には就職の成否がかかっていた。数年前のことだ。あきらめずによく頑張るな、と半ば感心、半ば呆れながら、うまくいくとイイねという月並みな激励をした覚えがある。書きあげたら、プリントしてくれないかと言われて、おやすいご用と引き受けた。そうしたら、完成したという連絡のかわりに、パソコンのハードディスクが壊れて、書いたものが消えてしまったと電話をしてきた。「バック・アップは?途中で印刷したものは?」と聞いたが何もない。途方に暮れた様子で、人ごとながら、ぼくもぞっとしてしまった。しかし、彼は気を取り直して、記憶をたよりに書き直すと言った。ドジの多い人だが、へこたれない人なのである。
  • できあがったという連絡がはいったのはそれから半年後で、ぼくの家で数日かかって提出用の博士論文を作成した。で、博士号をめでたく取得して、就職も決まった。めでたしめでたし。といいたいところだが、ぼくはその中味をまるで読んでいない。印刷の際には読む余裕などなかったのだが、何とも難しそうで、読んでみたいという気にもならなかった。しかし、それが本になって、ぼくのところに送られてきた。あとがきには、作成過程のいきさつとぼくに対するお礼の文がある。これは、気をいれて読まねばと思った。
  • この本の内容は、簡単に言えばメルロ・ポンティの仕事をミシェル・アンリに依拠してとらえ直したものだ。コギトの問題、他者の問題、身体の問題………。メルロ・ポンティは庭田さんが大学院生になり始めのころから読んでいたものだから、一冊にまとまるのに25年以上を費やしたということになる。会うたびに、こんな話は聞いていたような気がする。しかもいつでもわかったような、わからないような理解しかできなくて、しかもいつでもそのままで、関心があるようなないような気持ちのままに放置してきた。それだけに、四半世紀にわたってひとつのテーマを追いかけるその持続力としつこさにはまったく脱帽という感じだ。
  • デカルトの「我思う、ゆえに我在り」はきわめて有名なことばだ。で通説としては、「私」という存在は「私が私のことを思う」ところから自覚されるものということになっている。存在する「私」と、その「私」を思う「私」。ぼくはもう、それをアプリオリにして十分自我論も他者論も関係論もできるのでと考えてしまうのだが、哲学では、そう簡単には済ませられないようだ。
  • 「在る私」と「思う私」という二つの「私」を考えると、次々に「思う私を思う私」と続けざるを得なくなる。「無限背進に陥りかねない意識の生の逆説的な根本的特性との出会い」というわけだ。その難問をどう打開するか。もう一人の自分を自覚することなしに思う。「自分が思っていることを脱自の隔たりを置くことなしに、直接的に無媒介的にそれ自身において知る。」わかったようなわからないような。まるで禅問答のように感じてしまうが、出てくることばには興味深いものも多い。「無言のコギトと語られたコギト」「自己への配慮と自己の認識」………。読み終わるまでにはまだまだかかりそうだが、本来、読むことは書くことに負けないほどの努力を必要とするものなのだから、数ヶ月かかるのは当たり前なのかもしれない。気をいれて持続させなければ………。
  • 2001年10月1日月曜日

    ムササビ、その後


    forest11-1.jpeg・ムササビは今も屋根裏にいる。しかも数週間前から、僕が寝ている部屋に移動してきた。朝4時半に帰宅するから、どうしてもその足音で目が覚める。しかも、爪とぎなのかガリガリ始めるから、寝ていられない。そのうるささに我慢がならず、杖で天井をついたりしても、いっこうにやめようとしない。頭に来て、この「ムサ公!」などと怒鳴りながら、壁や天井を叩く。そんなことが数回あった後、住んでいる気配がしなくなった。
    ・そうなると、家出でもしたのかと心配になったりするから、いやになってしまう。で、数日後にまたごそごそしてほっとする。3カ月も一緒にいると、知らず知らずのうちに同居が当たり前になってしまっているのだ。よくしたもので、ガリガリやってもたいして気にならなくなった。ムササビは雨の日でも出勤する。台風の時は行かないだろうと思ったが、やっぱり明け方に帰ってきた。いったいどこで何をしてくるのだろうと、これも気になる。

    forest11-2.jpeg・せっかくつくった巣箱が見向きもされないので、作り直すことにした。さっそくパートナーが河口湖町にある「山梨県環境科学研究所」にメールを出すと、そこの小口さんが直接訪ねてきてくれた。彼は小学校の先生で一時的に研究所に派遣されているのだという。で、家や周囲の木を見て回ったのだが、後で巣箱やムササビについての資料をメールで送ってくれた。
    ・そのあと台風やテロ事件でずるずるとほったらかしにしていたのだが、久しぶりに晴れた日に朝から巣箱づくりにとりかかった。前のよりも縦長にして入り口の穴をなるべくうえにつける。穴から入って、すとんと落ちるような構造をムササビは好むようだ。そして中には、杉の木の皮を敷いておく。ついでに余った皮で周囲を覆うことにした。これで木の隙間から雨漏りすることもない。一日仕事だったがずいぶん豪華な巣になった。これなら気に入ってくれるだろうと思うが、さてどうだろうか。後はどの木にくくりつけるかだ。

    forest11-3.jpeg・今年の夏は雨が少なくて河口湖の水も減って岸辺が増えたから、そこにテントを張る人も多かった。しかし台風がものすごい雨を降らせて、ふだんは水のなかった近くの川もものすごい勢いで流れた。だから台風がすぎた直後に湖まで行ってみると、いつもカヤックを組み立てていたところも水没して、泥流で色が変わってしまっていた。当然、湖には釣り客も水上スキーも遊覧船もない。本当に久しぶりの富士山だが、その姿を見る人は湖畔には誰もいない。雨上がりの日差しは強く。風はなま暖かいというよりは蒸し暑かった。


    forest11-4.jpeg
    ・今年の気候のせいなのかわからないが、猿の群が山を下りていて、周辺の畑がずいぶん荒らされているようだ。別荘地区の管理人さんは、丹精込めてはじめて作ったカボチャをイノシシに全部食べられてしまったという。栗やクルミが実をつけているが、山の食べ物は減っているのかもしれない。
    ・台風一過で久しぶりに北の御坂山系が夕焼けになった。今までに見たことがないほどきれいな色に染まった。空気が澄んで、しかも湿気があったせいだろうか。しばらくすると季節は確実に秋になった。真っ青な空。気温も下がって、明け方には10度を切るようになった。ストーブで薪を燃やすのもそろそろ必要になりそうだ。
    forest11-5.jpeg・カヤックに乗る回数は少なくなった。雨の日はだめだし、風が強い日も避ける。温度が下がったから、夕方ではなく日中の陽の出ている日を選ぶ。そうすると、なかなかいける時が見つからない。とはいえ、気温はこれからどんどん下がるから、へたをしたらまた来年の夏ということになってしまう。T シャツ一枚が、長袖になった。そろそろウィンドウブレーカーも必要になる。セーターやダウンを着てもやるつもりだったが、はや億劫になりはじめている。(2001.10.01)

    2001年9月24日月曜日

    テロと音楽の力


  • 9月22日の朝に新聞を見たら、テロ事件の追悼番組があることに気がついた。午前10時から2時間。大物スターが出演としか書いていないから、大した期待もしないでテレビをつけた。そうしたら、ブルース・スプリングスティーンからはじまって、U2、スティービー・ワンダー、スティング、ビリー・ジョエル、ポール・サイモン、シェリル・クロウ、パール・ジャム、トム・ペティとつぎつぎ出てきてびっくりした。何より驚いたのはニールヤングが「イマジン」を歌ったこと。不意にだったこともあるが、ジーンとしてしまった。
  • 僕はジョン・レノンは好きだが、それは彼の声やメロディにであって、歌詞に感心したことはなかった。彼の発想は少年の心のままで、それがいいとされるのだが、もうちょっと世の中も人間も複雑だよ、といいたくなってしまうものが多い。しかし、追悼番組ではそのことばが群を抜いて説得力があるように感じられた。
    国がないと想像してみる
    難しいことじゃない
    そのために殺すことも死ぬこともなくなるじゃないか
    それから宗教もないとしたら
    みんなが平和に生活できると思わないか "Imagine"
  • 僕はこの歌詞を聞いて、ブッシュ大統領のことばを連想した。「悪」を許さない正義の戦いをする。自由と民主主義を守るために。まるで「スター・トレック」のカーク船長のようで、その単純さにあきれるが、アメリカ人の90%が支持しているとなると、底知れない恐ろしさを感じてしまう。だからこそ、一見もっともらしい単純な発想には、それとは対照的な子どものナイーブな発想が力をもつ。ニール・ヤングの歌う「イマジン」には強いメッセージがこもっていたように思う。
  • 番組には、映画俳優たちがたくさん出ていて、その人たちが短いメッセージをしたり、カンパの電話に応対したりしていた。それはそれで華やかだが、やっぱりこういうときには歌の力にはかなわないと思った。
  • しかし、いずれにせよ、こういう番組がすぐにつくられ、四大ネットで同時放送されるのを目の当たりにすると、アメリカの強大さを、政治や経済や軍事ばかりでなく文化の面においても痛感させられてしまう。テロ事件の後でくりかえし聞かされるのは、アメリカ人の不屈の精神、力の確認、自尊心の自覚等々で、そのたびに彼らの傲慢さにうんざりするけれども、実は、共感できるところも同じ気質に起因しているから、僕の態度はいつでも両義的になってしまう。
  • 同じ日の朝日新聞で坂本龍一がテロ事件について書いている。彼はニューヨークに住んでいて、当日の様子を実際に見たそうだが、そこから訴える、報復の無意味さ、あるいはさらに起こる悲惨さへの警告には説得力があると思った。彼はまた最後に、次のように書いている。
    生存の可能性が少なくなった72時間を過ぎたころ、街に歌が聞こえ出した。ダウンタウンのユニオンスクエアで若者たちが「イエスタデイ」を歌っているのを聞いて、なぜかほんの少し心が緩んだ。しかし、ぼくの中で大きな葛藤が渦巻いていた。歌は諦めとともにやってきたからだ。
  • 坂本はこの経験から、傷ついた者を前にして、音楽が何もできないのではという疑問をもったようだ。そうなのかもしれないと思う。けれどもまた、そうでもないだろうとも思う。追悼番組の「イマジン」にジーンとしたぼくは、この番組が呼びかけた、被害者へのカンパに協力しようかと思った。今度の事件でぼくはもちろん、全然傷ついてはいない。そうすると歌にできるのは、無関係な者に苦しみや悲しみを想像させることぐらいだということになる。歌や音楽の力にははるかにおよばない文章などを書いている者にとっては、それでも相当なものだと思う。坂本龍一が音楽の無力さに苦しむというなら、いったい書くことの意味はどこにあるのだろうか。
  • 2001年9月17日月曜日

    Bob Dylan "Love and Theft", Radiohead "Amnesiac"

    ・ディランのアルバムがまた出た。ついこの間"Bob Dylan Live 1961-2000"のレビューを書いたばかりなのにと思ったら、今度は全くのニュー・アルバム。グラミー賞を取った"Time out of MInd"から4年ぶりだそうである。とてもそんなにたっているとは思えない。たぶん、それだけディランの最近の活動は活発なんだろうと、勝手に解釈した。そういえば、その4年のあいだに1966年の幻のライブ"The Royal Albert Hall Concert"も発売されているのだ。ちなみに、編集版もあわせると、これが50枚目のアルバムらしい。

    ・で、さっそく聞いてみたら、なかなかいい。楽しいサウンド。リラックスした歌い方。プレスリーのようなロックンロール、ジャズのスタンダード・ナンバーのような、あるいはカントリー、ブルース、そしてハードロックと、やりたいことを自由気ままにやったという感じだ。それで、決してバラバラではなく、ひとつのトーンになっている。『セルフポートレート』を思い出させるが、曲はほとんどオリジナルで、歌詞も相変わらずいい。

    一歩一歩、わたしは足を踏み外すことなく歩き続ける
    きみがこの先、生きられる日は限られているし、このわたしだってそうだ
    時間だけが積み重ねられていき、私たちはもがき苦しみながらも
    何とかやっていく
    誰も彼もが閉じこめられ、逃げ場所はどこにもない

    わたしは田舎で育ち、都会で仕事をしてきた
    スーツケースをおろして腰を落ち着けて以来
    面倒ごとにずっと巻きこまれっぱなし("Mississippi" 訳:中川五郎)

    ・ディランの声は年々太く、低くなっている。歌も重たく沈んでいるようなものが多かったから、あまり好きではなかったのだが、このアルバムの声には認識を新たにさせられた気がした。歴史的な出来事や人物、あるいは物語をとりあげる歌詞からいっても、歌うストーリー・テラーといったところで、その役割を自在にこなしている。ただし、ほそく刈り込んだ髭だけはいただけない。ダリを意識しているのかもしれないが、全然似合わない。

    夏のそよ風の中 急に突風が舞う
    風が風にたてつくなんて
    まったくばかげているとしか思えないこともある

    近所のお年寄りたちは 自分よりも年下の人間たちと
    ときどき仲が悪くなることがある
    でも若いか、年をとっているかなんて大したことはない
    結局どうでもよくなってしまうんだ("Floater"訳:中川五郎)

    ・ディランの自在さと対照的なのがラジオヘッド。"Kid A"のごちゃ混ぜのサウンドに、方向を見失っている印象をもったが、それから1年もたたないうちにまたもう一枚、 "Amnesiac"がでた。こちらの方が少しはまとまりが感じられてましかなと思うが、立て続けに出したところとあわせて、聴いていて受けとるのは混乱と分裂、迷いといったものだ。Amnesiacは記憶喪失者のことで、歌詞にも迷いの表現が多い。

    僕は間違っていたんだ
    僕は間違っていた
    光がやってくるのを見たって誓ったことだ

    よく考えてた
    ずっと考えてた
    未来なんて全然のこされていないんだって
    そう考えてたんだ("I might be wrong") 


    ・新しいサウンドやメッセージをもったミュージシャンは誰もが光り輝いている。それが閃光のように突き抜けていって、やがて壁に突き当たる。そして乱反射。もう40年もポピュラー音楽につきあって来て、何度も見た軌跡だ。そこで消えてしまう者もいれば、新しい方向を見つけてまた光を放つ人もいる。ディランはそんな過程を何度もくりかえしてきて、また何回目かの新しい光を放ちはじめている。ラジオヘッドはたぶん、今が最初の壁で、懸命になって乗り越えたり、隙間を探そうとしているのだ。僕は"Kid A"も"Amnesiac"好きになれそうにないが、ラジオヘッドの道筋には関心がある。ぼくがロック音楽から聴き取るのは、何よりミュージシャンが表現する人生のプロセスなのだから。 (2001.09.17)

    2001年9月10日月曜日

    ブルース・ウィリスの映画

  • まだ、ポール・オースターについて考えている。そろそろ締め切りが気になりはじめたし、大学ももうすぐはじまってしまう。例によって、胃の調子が悪い。このパターンを何とか乗り越えたいのだが、今回もやっぱり駄目。書きたいテーマや材料はたくさんある。しかし、一本の線上にならべると、その大半ははずれていってしまう。逆に、新たに調べたり考えたりしなければならないことが浮上してくる。で、また小説の読み直し。原稿は遅々として進まない………。ため息つきながらWowowで映画を見る。
  • オースターは『スモーク』から映画にかかわりはじめた。『ルル・オン・ザ・ブリッジ』では監督と脚本を手がけたが、小説と映画のちがいを適格に言いあてている。
    私が書くとき、つねに頭のなかで最上位を占めているのは物語だ。すべてのことは物語に奉仕させなければと思っている。エレガントな描写、気を惹くディテール、等々のいわゆる「名文」も、私が書こうとしていることに本当に関連していなければ、消えてもらうしかない。声がすべてだ。『空腹の技法』
  • 小説はなにより物語。登場人物や場面の細かな描写は、読者の想像力にゆだねればいい。オースターがとるこのような原則は、小説の源流である、神話や昔話から引き継がれているものだ。そして、映画はまったく異なる原則の上に成り立っているという。つまり、映画にあってはディテールこそが大事ということになる。配役、セット、ロケ、天候等々、すべての条件を整えて、それではじめて「スタート」となるのである。
  • たしかに、そうだ。僕にとって見たい映画の基準は、監督か役者。誰が作ったかと同じくらい「誰が出ているか」が決め手になる。ロバート・デ・ニーロ、ダスティン・ホフマン、ジャック・ニコルソン、ショーン・コネリー、デンゼル・ワシントン、ニコラス・ケイジ、ダイアン・キートン、スーザン・サランドーン、シャロン・ストーン、ジュリア・ロバーツ………。
  • 最近つづけて、ブルース・ウィリスの映画を見た。『シックス・センス』『ストリート・オブ・ラブ』『ブレックファースト・オブ・チャンピオンズ』。彼は『ダイ・ハード』で売り出したハードボイルドもののスターだが、シリアスなものもコミカルなものもこなす役者である。ハンサムではないし、頑健な肉体の持ち主でもない。禿頭でジャガイモのような顔。どこにスターの要素があるかという外見だが、不思議と魅力がある。
  • 決して強くはないのに生き残る。顔つきからして喜劇的な雰囲気があるから、コミカルな演技ははまり役だが、その個性はシリアス・ドラマでも生かされている。たとえば『シックス・センス』。『AI』でも大活躍の子役H・J・オスメントととの競演で、精神的に病んだ子どものカウンセリングをするという役どころだ。
  • オスメントはデリケートな心をもった少年をうまく演じている。というよりは彼の個性そのもので登場している。ブルースはその少年に不器用に接触するカウンセラーだが、決して意気込んでいない、力の抜けた演技が、少年とは対照的でいい。弛緩したブルースとこわばったオスメント。その少年のこわばりが次第に溶けてきて、彼の心のなかが明らかになっていく。物語はそういうことなのだが、注目させられるのは話の展開以上に二人の表情やからだのうごきである。
  • 役者のなかには、いつでも同じ顔で登場というタイプがある。それはそれで気に入れば好きだが、やっぱり飽きてくる。たとえばニコラス・ケイジ。あるいはいかにも演じているなと感じさせる人もいる。たとえばデ・ニーロやジャック・ニコルソン。そのうまさに感心することもあるが、時にやりすぎが鼻につくこともある。そこへいくとブルースは、自然体だ。役にはまっているようでいて、どこかでずれてもいる。演技をしているようで、また素のままのようにも見える。
  • 映画にスターが不可欠であるのはハリウッドが考案した戦略だが、しかし、やっぱり映画は脚本や監督以上に。配役がその作品の善し悪しを判断するものだ。ブルース・ウィリスの映画を見ているとつくづくそんな思いを強くする。そういえば、オースターの映画にはハーベイ・カイテルが欠かせない。だから僕はオースターの小説を読むときでも知らず知らずハーベイを思い浮かべてしまう。これは僕の想像力を妨げる要因で、邪魔だから消えてくれ、と言いたくなることがある。
  • 2001年9月3日月曜日

    NTT はなくなるべきだと思う

  • 僕のパートナーが今年から携帯を使いはじめた。電源はほとんどオフ状態で、たまに出かけるときだけもち歩く。メールの転送などもセットしているのだが、最近やたらに出会い系サイトなどのジャンク・メールが届くという。NTTは着信にお金を取るから、もうそのたびに腹を立てていて、携帯のアドレスを変えた。
  • ジャンク・メールに対する苦情は、まずは差出人に向けられるべきものだろう。男女の殺傷事件などで話題になっているこんな時期に、メールを無数に出しまくる出会い系サイトには、強い非難が向けられて当然だ。いったい何を考えているのか、と思う。けれども、それで収入を得ているNTTはなぜ知らん顔なんだろう。僕はこっちの方がよっぽどおかしいと思っている。もっともこのような姿勢は、ダイヤル伝言板やダイヤルQ2が社会問題になったときから一向に変わっていない。簡単にいえば、無責任な金儲け主義。
  • だいたいNTTにはパソコン通信をはじめたときから、腹に据えかねるような思いをくり返し持たされてきた。たとえば、パソコンを電話回線につなぐのに、電話と同じ料金を払わなければならないこと。このために、パソコン通信、あるいはその後のインターネットをするのに、毎月数千円から数万円の電話料を払わなければならなくなったこと。そのような理不尽さに批判が集中して、NTTがやっと重い腰を上げて「テレホーダイ」という中途半端なサービスをはじめたこと。だから、インターネットを落ち着いて楽しむためには、夜更かしをするか、早起きをするかしなければならなかったこと。もっとも、これもいまだに変わっていない。サービス精神の欠如。
  • もちろん不満はそれですむものではない。大学でインターネットにつなぎっぱなしという環境ができて、NTTにお金を払っているのは、インターネットへのゲートの通行料だということにあらためて気がついた。インターネットは個別のネットワーク同士がそれぞれ手をつなぎあって、それが世界大のクモの巣(WWW)に成長したもので、基本的にはアクセスにお金がかからないはずなのだが、その入り口まで行くのに高額の電話料を取られる。この意味ではNTTは関所を勝手につくって通行料を徴収した幕府と同じなのである。国営企業の体質まるだし。
  • 電話回線では通信速度にかぎりがある。そこでNTTが宣伝して利用を進めたのがISDNなのだが、韓国などでは既存の回線を使ったDSLというシステムで高速の環境を普及させていて、それが日本以上にインターネットへの関心を高めている。このようなことがほんの数年前に話題になって、DSLが日本で普及しない原因がISDNを放棄したくないNTTの都合によることが明らかにされた。ISDNにすれば、工事費や使用料などにそうとうのお金を取られる。それで多少のスピード・アップをしたことに喜んでいた人も多いと思うが、何のことはない。既存の回線ではるかにスピードの速いシステムがあったのである。自らの失敗のつけを利用者に負担させて知らん顔。
  • 携帯電話でメールのやりとりやインターネット接続ができるようになって、NTTはあたかも、その開拓者のような顔をしている。しかし、パソコン通信から現在までのプロセスを見ていると、NTTはくり返し、その利己主義的な体質で、その発展や普及の障壁になってきたことがわかる。まったくいい気なものなのである。ところが、契約合戦で熱かった「マイライン」はNTTの一人勝ち。藤原紀香や松坂慶子の説得もまるで通じなかったようである。しかしこれも、NTTが努力したせいではない。手続きをしなければ自動的にNTTと契約したことになるという、ハンディキャップつきレースだったせいにすぎない。
  • あまり話題にはされないが、IT社会への対応を急ぐという国の政策にとってNTTが大きな障壁になってきたことはまちがいない。実際接続料の高さを指摘されて国が動いたのはアメリカからの外圧だったりしたのだ。電話にもインターネット接続業にも民間業者が参入して一見、競争システムになっているかのようだが、NTTの既得権益の大きさに、どこも苦戦を強いられている。もうNTTなど使いたくない。僕は何年も前からそう思っているが、他に選択しようがなかったりするから本当にしゃくにさわる。
  • 2001年8月29日水曜日

    観光地の光と影

  • 8月が終わると、河口湖周辺は急に静かになる。まだまだ下界は暑いし、避暑地も9月の方が天候もよいのだが、なぜか人びとは8月に集中する。あれほどいた、湖畔の釣り人やキャンパーも、湖の水上バイクも嘘のようにいなくなる。ぼくはおかげで、広い湖をカヤックを浮かべて独り占めだ。
  • ものすごい不況で、観光客は減っていると地元の人たちは言う。「ユニバーサル・スタジオ」に客を取られたと言う人もいる。9月からは「ディズニー」に新しい呼び物ができる。そうなると、人はますますこなくなるのかもしれない。けれども、新聞にはこの夏の山梨県の観光客は微増だと書いてあった。ぼくもたしかに交通量が大したことないと感じていたが、この感覚のズレはどこから来るのだろうか。
  • 河口湖町は観光地として環境を整備することに積極的で、美術館やホール、それにハーブ園のたぐいをいくつも湖畔につくった。オルゴールの森美術館や猿劇場など、民営の施設も多い。だから、駐車場には観光バスが並んでいて、周辺はいつでも人の波が絶えないほどだ。道路の脇には花が植えられて、ていねいに管理されているから、冬をのぞけば、いろいろな花が楽しめる。あるいは、このような施設をつかった催し物の企画もある。たとえば、ラベンダーの花の咲く時期には、「ハーブ・フェスティバル」が数週間開催された。ぼくのパートナーも陶芸家のコーナーに作品をならべたが、訪れる客は多かった。
  • こういった客にあわせてうまい商売をする店もある。ぼくがよく行くスーパーには、キャンプでバーベキューをするための材料が、いつでも豊富にならべられている。だから地元の客に混じって、グループで買い物をする若い人たちや家族連れもよく見かける。コンビニでは釣り竿等も売っているから、手ぶらで来て、釣りとバーベキューを楽しんで日帰りすることもできる。河口湖漁協も釣り人から新しい税金を徴収しはじめたから、だいぶ収入が増えたようだ。
  • ところが、客の流れはこういうところに集中していて、古くからある商店街の人通りはほとんどない。昔ながらの洋品店や雑貨店には、いつでもシャッターを下ろしているところもある。収入はどうしているんだろうと心配になるほどだ。あるいは、湖畔にも倒産して廃墟化したホテルや旅館、レストラン等も多い。繁盛しているところとさっぱりなところが極端なのだ。
  • 隣の富士吉田では、今年も26日に火祭りがあって、大松明の並んだメインストリートは人でごった返した。しかし、街の寂れた様子はひどくて、ふだんはシャッター通りなどと呼ばれるところもある。観光客がこないうえに、地元の客を外から来た大型店に取られてしまっていて、ほとんど対応策もとれない状況のようだ。
  • 難しい問題だと思う。こうすれば解決できるなどという提案はとても出来ないが、よそから移り住んできた者として、気になるところがいくつかある。その一つは、この周辺地域に住む人たちの意識や人間関係に見られる閉鎖性だ。
  • 地元の商店で買い物をしたり、歯医者にいったり、あるいは仕事を頼んだりしてお金を払っても、領収書はめったによこさない。万単位であってもそうだから、スーパーやコンビニとの対照はずいぶん目立ってしまう。バイクの修理をしてお金を払ったあと、なおっていないことがわかってもう一回預けたことがあった。修理個所がわかったらおおよその見積もりを出して、いつ頃までに仕上がるかなどの連絡が来るのが普通だと思っていたから、再修理のときにいろいろ文句を言った。そうしたら、留守になおったバイクを持ってきて、それっきり。こちらから連絡する気はなかったので、結局、修理の明細も領収書もなしのままだった。たぶんよそ者で、やりにくい相手だと思ったのだろう。
  • こんな仕事のやり方をするのは、顔見知り相手の商売をしているからだろう。それはそれで他人行儀でなくていいかもしれないが、狭い世界でしか通用しないやり方だ。モノを売るにしても、修理やサービスにしても、地元の慣習が通じない人間を相手にできなければ、先細りになるのは明らかだ。
  • ぼくは、買い物をして、おつりをごまかされたことが何度かある。あるいは、噂では、他府県ナンバーの車にはガソリンを高く売りつけるスタンドがあるそうだ。そういう経験をすると、客はどんどん離れていってしまうと思うが、観光地で一見さん相手の商売と高をくくっているのかもしれない。こういったことは観光地ならどこにでもある話だろう。けれども、ここは東京から100kmで、くりかえし来る人も多いのだ。
  • 今年観光客の数が増えたのには、格安料金での日帰りバス・ツアーが人気を呼んだことが一役買っている。そのお客さんたちはコースで決められたたところにしか立ち寄らないし、日帰りだから、宿泊もしない。若い人たちには、コンビニさえあればあとは何もいらない。そうすると、どんな商売をするにしても、特徴をはっきり出して、ホームページなども出して、誰にでも通用するスタイルで客に接することをしないと、ますます観光客は寄りつかなくなってしまう。あるいは地元の客にしても、若い人たちは全国チェーンや個性的な店に足を向けるばかりだろう。
  • 社会の仕組みを変えることの難しさは、政治や経済の構造改革に限らないのだが、それは文化(人間関係や生活習慣)の変革を伴うから、本当に難しいのだな、と思う。これは小泉さんには期待できない自分自身の問題なのである。
  • 2001年8月23日木曜日

    夏休みに読んだ本

    当然だが、夏休みの時間は自由に使える。ただし、何かまとまったことをしようと思うから、気ままに見つけた本を読むということは少ない。めったに出かけないから、本屋をのぞいて新刊本をさがすこともほとんどない。だから、そろそろブック・レビューの番だなと思ったのに、取り上げてもいいような本がない。といって、本を読んでいないわけではない。大学に行っているときよりもはるかに長い時間、本を手にしている。
    一つは『ポピュラー文化を学ぶ人のため』の翻訳。そのために、引用された文章で、翻訳のあるものには逐一あたらなければならない。R.ホガート、G.オーウェル、R. ウィリアムズ。フランクフルト学派のアドルノ、マルクーゼ、そしてベンヤミン。構造主義のレヴィ・ストロース、ソシュール、それに記号論のR.バルト。それぞれの代表作を次々に読み飛ばしている。もっともこれらは読んだとは言えないかもしれない。引用個所をさがして、そこを抜き出す作業で、ごく一部にしかふれていないからだ。それにほとんど、以前に読んだものばかりだ。
    『ポピュラー文化を学ぶ人のため』はカルチュラル・スタディーズの理論的基礎を概説するもので、一章が大衆文化論、二章がフランクフルト学派、そして三章が構造主義と記号論となっている。ぼくの担当部分はここまでだが、これ以降は四章がマルクス主義とアルチュセール、五章がフェミニズム、そして六章がポストモダニズム、という構成になっている。二人の共訳だが、ぼくが全体の責任を持たなければならないから、これから、後半についても、文献にあたっていかなければならない。だから、コマ切れの読書はこれからもしばらくは続けなければならない。
    で、翻訳だが、粗訳はすべてできていて、今はそれぞれ手直しをしている。これがすんだら、あとは全体を通して、もう一回読み直しをして、編集者に渡すということになる。9月末にはできあがるようにする予定だったが、ちょっと手間取っているし、じっくりやりましょうという編集者のアドバイスもあるから、時期はもうちょっと後になるだろうと思う。実は、今回の本の作成過程についても、このHPで紹介しようかと考えている。
    翻訳は自分で書くのではないから楽だが、しかし、その分、間違いは許されないし、訳者の創作もできない。そのあたりを訳者と編集者で点検しなければならない。その作業が面倒だが、それを、掲示板でやるつもりだ。乞う、ご期待。

  • ぼくが英語の専門書をはじめて読んだのは、学部の「英書講読」の授業で、たしかE.フロムの『自由からの逃走』だった。ベストセラーの翻訳があったから、ほとんど日本語だけで理解したように記憶しているが、英語の勉強だからというのではない読み方をはじめて経験した。そのあと大学院に行って、英語の文献を読むことが否応なしに必要になったが、日本語の本を読むのと変わらない、当たり前の習慣のように感じはじめたのは、もう20代も最後の頃だった。
    今、大学の学部では、英語をテキストにして専門科目やゼミをやるのはほとんど不可能になっている。英語で読む必要もなくなったわけではなく、学生の拒絶感が強いからだ。インターネットがこれほど普及して、英語はますます必需品になっているのに、学生にとっては、大学入試でサヨナラ、という感じなのだ。まったく困ったものだが、アレルギー状態でやる気がないのはどうしようもない。
    だから、英語をテキストにするのは大学院からということになる。院の入試にはそのための英語の試験もある。しかし、やっぱり抵抗力はかなりある。必要性を説明して読み始めても、内容を理解する以前の英語力しかないという学生もいて、なかなか思うようにいかない。力をつけようと思ったら、ほとんど英語づけ状態で何ヶ月もがんばるといった時期が必要だから、ぼくはかなりのボリュームのページを全訳することを勧めている。しかし、報告の直前に徹夜で訳してくるといった例がほとんどで、これでは、実際、ほとんど力はつかない。一冊の本を翻訳するのに、どれだけの時間とエネルギーと根気が必要か。そのあたりを、掲示板でのやりとりでわかってもらえたら、と思う。
    話が横道のそれたが、もう一つの課題「ポール・オースター論」も苦戦している。「孤独」をH.D.ソロー、「アイデンティティ」を「ユダヤ」、そして「アメリカ的」な特徴をベース・ボールとブルックリンに関連づけて考えてみようかと思っているのだが、まだまだ読む本が多くて、書きはじめるところまで進んでいない。というより、読む本が次々と出てきてしまってきりがなくなってしまっている。
  • 例えば、野球について書こうと思って、映画の『フィールド・オブ・ドリームス』を見て、その原作の『シューレス・ジョー』(W.P.キンセラ)を読んだ。そうしたら、サリンジャーの『ライ麦畑で捕まえて』も、となった。野球といえばMLBの中継を毎日のようにやっているから、それを横目でちらちら、なんてこともしてしまう。また、ブルックリンやユダヤ人なら、W.アレンの映画も見なければ、あるいはエリア・カザンの『ブルックリン横町』、小説ならP.ハミルの『ブルックリン物語』というふうに………。
  • もちろん、オースターを読み直すこともしているから、時間はどんどん経ってしまう。もう8月も終わり。そろそろ章立てぐらいは作りはじめないと、締め切りに間に合わなくなってしまう。オースターの小説はおもしろい。けれども、切り取るとなるととりとめはなくて、何をどう書いたらいいのか、さっぱり良いアイデアは出てこない。困ったものだ。
  • 2001年8月11日土曜日

    夏休み大工


    forest10-1.jpeg・ムササビはまだ屋根裏にいる。いつもきまって夜9時頃に出勤して、明け方4時半頃に帰ってくる。ぼくはまだ一度も見ていないが、早起きのパートナーがビデオに収めてくれた。かなり大きく見えるが、毛がふさふさしているから、実際のところは大きさはよくわからない。


    ・実は、なんとか屋根裏から引っ越してもらおうと思って、小屋をつくった。大昔に本箱をつくった木で、できそこないだったから、すぐにばらしてしまったが、30年近く捨てずにおいていたものだ。とにかく、ぼくのパートナーは物持ちがよくて、いつまでも捨てずにとっておく癖がある。しまっておいてよく忘れるから、まるでカケスだ。しかし、今回はその木が役に立った。

    forest10-3.jpeg・ぼくにとっては久しぶりの大工仕事だったが、鋸で切って釘を打つだけの簡単なものだったから、2時間ほどでできあがった。しかし、我ながらいい出来で、思わずにんまり………。さあ、どこに据えつけるか。ムササビの通り道を考えて、バルコニーの脇に生えている欅の木にすることにした。


    ・しかし、2階の屋根の高さにかけるためには梯子だけではたりない。とりあえず、幹に針金でくくりつけたが、ひくすぎてムササビに無視されるのは明らかだった。そこで、庭においてあるテーブルをバルコニーに運びあげて、その上に梯子をおくことにした。これでなんとか、最初の枝の上に乗せることができる。しかし、梯子の上まで登ると、相当高い。しかも不安定だ。ぼくは高所恐怖症だから、最初からどきどきだが、片手に小屋をもって登るから、もう一歩一歩がこわくて、枝に手が届くまでが大変だった。


    ・やっと枝に小屋を乗せて、今度は針金での固定。これが、片手でしっかり幹にしがみついての作業だから、なかなか思うようにいかない。手を伸ばすと、梯子がぐらっとする。心臓がかゆくなるのを我慢しての作業だった。そんなにしてがんばった甲斐があって、下に降りて見上げるとなかなかいい感じ。あとはムササビに気づいてもらうこと。住み心地の良さそうな小屋だと思わせることだが、さて、どうしたものか………。

    forest10-4.jpeg・ひとつ考えたのが餌でおびきよせる作戦。最初は、「健康菓仁」という名の木の実を置いた。しかし、何日経っても、食べた形跡はない。そこで、今度はひまわりの種を置くことにした。ところが、さっぱり寄りつかない。どうもムササビは屋根への通路に、もう一本上の枝をつかっていて、小屋のところまでは降りてこないようだ。もう10日ほどになるが、いまだに、ムササビは屋根裏で寝泊まりしている。何とかしたいが、次の作戦はまだ考えていない。

     

    ・昼間バルコニーで読書をすることがあるが、本や筆記用具、煙草、灰皿、珈琲カップ等々を椅子のまわりの床に置くと、取るのが面倒だった。ムササビの小屋で自信をもったから、今度はテーブルをつくってみようかという気になった。材木は、工房をつくったときの端切れがたくさん残っている。庭においてあるテーブルを参考にしながら、簡単な設計図を書いて、製作にかかる。ほぞをかませるのは面倒だと思ってはじめはやらなかったのだが、やっぱり釘だけではぐらぐらして心許ない。そこでノミで穴を開けることにした。本当はきちっと寸法を測らなければいけないのだろうが、目検討で適当にやった。しかし、組み立てて見るとなかなかいい出来。ここでまた、にんまりしてしまった。

    ・さっそく、つかってみる。いい感じ。午後は家の中では蒸し暑いから、ほとんど本を読む気にならなかったが、これなら、午後の時間も有効につかえそうだ。ところが、そのあと数日、午後になると必ず夕立が降った。なかなかうまくはいかないし、今度は濡れっぱなしにするのが気になった。で、次は塗装。DIYの店に買いに行くことにした。色は何にしようか、あれこれ考えた。やっぱり、焦げ茶、あるいはモスグリーン、思いきって黄色なんてのもおもしろいかも………。いろいろ迷った末に、透明のラッカーにきめた。材木はフィンランド・パインだから、やっぱり木の色と木目を生かした方がいい。カンナで角を取って、ヤスリをかけて、塗装。

    forest10-7.jpeg・こんなにうまくいくと、次々に創作意欲がわいてくる。これでは読書のためのテーブルつくりのはずが、本はそっちのけで、大工仕事ばかりをやってしまいそうだ。もう8月も後半で、夏休みも半分以上が過ぎた。しかし、予定した仕事は計画通りには進んでいない。ほとんど閉じこもり状態でいるのだが、カヤック以外にもうひとつやりたいことができてしまった。活字を追いかけることがますますほったらかしになりそうだ。しかし、アマゾンに注文した本やCDが届いたから、読書を新鮮な気持ちでやろう。せっかくバルコニーのテーブルができたのだから。