2002年10月28日月曜日

アメイジング・グレイス」はどこから来たのか?

 

・「アメイジング・グレイス」はアメリカ人、とりわけ黒人たちの心の歌として歌いつがれてきた。おそらく、一番多くレコードやCDになった歌でもある。NHKのBSで、その歌の由来をたどる番組を見た。今までいろいろな人の歌う「アメイジング・グレイス」を聴いてきたが、はじめて知ることが多くておもしろかった。

Amazing grace, how sweet the sound
That saved a wretch like me
I once was lost but now I'm found
We blind but now I see

・ この歌の作者はジョン・ニュートン。1725年生まれ。英国国教会の牧師で自作の賛美歌を集めた歌集を出版している。曲はアイルランド民謡から採られたようだ。イギリスの白人がつくった歌がなぜアメリカの黒人たちに歌いつがれるようになったか。それはニュートンの経歴に関連している。
・ニュートンは若い頃、奴隷船の船長としてアフリカでつかまえた多くの黒人を、船に積んで運ぶ仕事をしていた。奴隷は人間ではなく家畜だったから、排泄物は垂れ流しのままの船底に押しこまれた。病気や飢えで死ぬものが多かった。
・そんな仕事のなか、彼の船は嵐に遭い難破しかかる。沈没しかかる船のなかで神にすがってお祈りをする。九死に一生を得た彼は、その経験をきっかけに信仰心に芽生え、今までの自分を懺悔する気持をおぼえる。「神は私のような卑劣な者(wretch)を救ってくれた」という「アメイジング・グレイス」の歌詞のゆえんである。
・番組はそこから別の話に移るのだが、実際にはニュートンはそのあとも16年間、奴隷船の仕事をつづけている。彼が牧師になったのは39 歳で、「アメイジング・グレイス」がつくられたのは、さらにその数年後のことのようだ。改心というのは物語のように劇的におこるわけではないということなのか、あるいはことばに表すのにはそれだけの時間がかかるということなのか。そのあたりにかえって新たな興味をもった。

・こうしてできた「アメイジング・グレイス」はアメリカに移住したアイルランド人たちのなかで歌いつがれる。アパラチア山脈のあたりで、カントリー音楽の発祥の地でもある。その歌がミシシッピー川に届き、南下してニューオリンズに行き着く。運んだのは綿摘みや農作業をするために南部の農場に買われた奴隷たち。キリスト教を信仰する彼らの心をとらえたのは、何よりこの「神は私のような卑劣な者(wretch)を救ってくれた」だったという。 wretchには卑劣の他に哀れな者という意味もある。
・不意に拉致され、船に乗せられ知らない土地に連行された。そこで牛や馬と一緒に生き物の商品として売られ、牛や馬と同じように働かされ、生活させられた。「アメイジング・グレイス」は、そんな絶望的な境遇に希望を感じさせてくれる歌として歌いつがれてきたのだという。

・米国南部に住む黒人たちは20世紀になると北部に移動をしはじめる。メンフィス、セントルイス、シカゴ、そしてニューヨーク。ブルースとジャズがたどった軌跡だが、それはまた、「アメイジング・グレイス」が広まっていった道筋でもある。
・アメリカはさまざまな理由で生まれた土地から離れてきた人たちによってできた国である。夢を求めてきた人、追われてきた人、そしてむりやり連れてこられた人。そのさまざまに異なる境遇や思いをもった人たちの間で、またさまざまな種類の歌や音楽が人びとの心の支えや、楽しみのもとになってきた。
・「アメイジング・グレイス」はその多様な人びとや音楽の間を、垣根を越えて口ずさまれた。ジャンルを越え、立場や境遇を越える歌。素晴らしい歌だが、これが必要とされたのは社会が悪夢のようだったからだ。いい歌が引きずる暗い歴史。もちろん、「アメイジング・グレイス」は今でも歌いつがれているから、これはけっして、昔を懐かしむ歌ではない。

2002年10月21日月曜日

「トリビュート」という名のアルバム

 

"Hank Williams;Timeless"
"Good Rockin' Tonight; The Legacy of Sun Records"
"Kindred Spirits; A Tribute to the Songs oF Johnny Cash"
"Return of the Grivous Angel; A Tribute to Gram Parsons"

tribute1.jpeg・別に集めようという意図があったわけではないが、ここのところ「トリビュート」と名のついたアルバムを何枚も買った。要するに、いまはもう死んでいない偉大なミュージシャンを偲んで、強い影響を受けた人たちが集まって好きな歌を歌ったものである。ぼくはこの種のアルバムは好きだ。捧げられた人に対して関心があれば、参加しているミュージシャンもまた、好きな人たちが多いことが普通だからだ。

・ハンク・ウィリアムズはカントリーのジャンルでは伝説的なミュージシャンだ。ロカビリーといったジャンルが一時もてはやされたが、ロックンロールの誕生に橋渡し役をした人だといってもいい。参加しているのは、ボブ・ディラン、シェリル・クロウ、ベック、マーク・ノップラー、エミルー・ハリス、トム・ペティ、キース・リチャーズ、ジョニー・キャッシュ他。各自がハンク・ウィリアムズの持ち歌を歌っているが、ハンク・ウィリアムズそのままの人もいれば、独自の歌にしてしまっている人もいる。だから、誰かわからないままに聞き流す曲もあれば、誰かがすぐわかるものもある。

tribute2.jpeg・そういう存在感の強さと言うことでいえば、やっぱりディランにかなう人はいない。どんな歌を歌ってもディランはディランでしかない。そんな気持をあらためて強くした。実はディランはその他のアルバムにも顔を出していて、それぞれに、自分のではない歌を歌っているのだが、どれもやっぱりディランの歌としてしか聴けないものに変わってしまっている。

・2枚目はサン・レコードに対するトリビュートだが、要するにエルビス・プレスリーに捧げられている。ここへの参加者は、ポール・マッカートニー、ジェフ・ベック、クリッシー・ハインズ、ジミー・ペイジ、ジョニー・アリディ、エルトン・ジョン、トム・ペティ、ヴァン・モリソン、ブライアン・フェリー、エリック・クラプトン、シェリル・クロウ他。ポール・マッカートニーはエルビス本人と聞き間違えるほどだが、ディランはやっぱりディラン。そんな違いがとてもおもしろい。

tribute3.jpeg・3枚目のジョニー・キャッシュは最近亡くなった。多くのロック・ミュージシャンとは違って低くて太い声で歌う無骨な感じの人だった。参加者はボブ・ディラン、リトル・リチャード、ブルース・スプリングスティーン、スティーブ・アール、ジャネット・カーター他。スプリングスティーンもやっぱり、しっかりスプリングスティーンだが、黒人のロックンローラーのリトル・リチャードがジョニー・キャッシュの持ち歌をロックンロールにしてしまっているのにはかなわない。ディランはここでもディランだ。こんなだから、他の二枚に比べて、いろんなサウンドが錯綜した感じになっている。もちろん、それはそれで面白い。

・最後はグラム・パーソンズ。彼は若くして死んだカントリーのミュージシャンで、前記した3人ほどには知られていないが、早すぎる死ということもあって、彼を偲ぶ人もまた多様だ。死因はドラッグ。ジミ・ヘンドリクス、ジム・モリソン、ジャニス・ジョプリンが相次いで死んだ時期と同じだった。バーズのメンバーだったこともあって、カントリー・ロックの草分けといった役割をした人として語られることが多い。参加しているのはエミルー・ハリス、クリッシー・ハインズとプリテンダーズ、ベック、スティーブ・アール、シェリル・クロウ、デビッド・クロスビー他。

tribute4.jpeg・どのアルバムもそれぞれに味わいがあっていい。けれども、このような企画が相次ぐということは、それだけ、あたらしい音楽やミュージシャンが少ないということでもある。このコラムでも、もう何度も書いているけれども、本当にあたらしい音楽やミュージシャンがでてこない。21世紀になっても音楽は、完全に行き止まりの袋小路に突きあたったままだ。だから当然後戻りする。
・4枚のCDをくりかえし聴いて楽しみながら、同時に思うのは、音楽のこれからの動きだ。音楽をつくり、発信、受信する技術がこれほどに高度になった時代はこれまでなかったのに、あたらしい音楽が生まれない。これは大いなる皮肉のようにも思えるが、また当然の帰結のようにも感じられる。

2002年10月14日月曜日

煙草の吸える場所

・東京の千代田区で歩行中の喫煙が禁止されるようになった。違反をしたら2千円の罰金だという。世論の支持は強いから、近いうちに、あちこちに同様の条例ができるだろう。スモーカーにはますます居心地の悪い世界になる。外に出かけたら、うっかり煙草は吸えない。今さらながらに、そんなことを自分に言い聞かせなければならない。 ぼくは煙草を吸うから、えらそうなことは言えないが、スモーカーのマナーがいつまでたっても改善されないのは事実だ。たとえば、歩きながら煙草を吸って、そのまま道路に吸い殻を捨てる。あるいは車を運転しながら喫煙して、やっぱり道路にポイ。こんな光景をしょっちゅう見かける。歩きながら吸いたければ携帯の吸い殻入れをもてばいいし、車には灰皿がついているはず。もっともドライバーが運転中に窓から捨てるのはタバコにかぎらない。空き缶、ペットボトルなどをグリーンベルトに置き去りにする。道路は同時にゴミ捨て場なのが現状である。 

 ・ぼくの勤める大学は住宅街に隣接している。国分寺駅からの通学路は民家の並ぶ路地でもある。そこを学生たち(ひょっとすると教職員も)が煙草を吸いながら歩く。で、吸い殻を道ばたにポイ。当然周辺からは苦情が来る。だから、清掃の仕事は学内ばかりでなく、通学路をずっとたどることになる。 ・ゴミを所定の場所以外に捨てることが、無神経なマナー違反であることは、誰でも知っているはずだ。ところがまた、ほとんど自覚なく、平気でポイしてしまう。これはもちろんタバコにかぎらないし、場所を選ばない。

 ・河口湖には多くの釣り客や観光客が来る。美しい環境を求めてやってくるはずだが、やっぱり平気でゴミを散らかして帰る。だから湖畔にはさまざまなゴミが散乱してしまう。それをやっぱりボランティアの人たちや町の職員が拾って回るのだ。吸い殻はもちろん、釣り針、釣り糸、ルアー、バーベキューの残骸………。実際、連休の後などはひどい状況で、うんざりしてしまう。 

・タバコを巡る問題は、ひとつはこのような公共の場でのマナーやルールにある。なにげなくする喫煙やポイ捨てによって迷惑を被る人がいる。あるいは、汚したり散らかしたりした後始末する人がいる。このような行為を条例で罰するのは、それを自覚できない人が多いのだから仕方がないことだと思う。ぼくは数年前から携帯の灰皿をポケットに入れている。それでちょっと得意になって歩きながらの喫煙をしていたのだが、これからはそれもやめなければならない。タバコを気兼ねなく吸える場所はどんどん狭まっている。

 ・ぼくの研究室は夏休みに改装工事をして、今までの1.5倍の広さになった。テーブルを大きくして、学生たちがゆったり座れるようになったから、大学院の授業はやりやすくなった。これで長時間になっても、休憩して部屋の外で吸う必要がなくなるかなとも思ったが、換気の悪い部屋だから、煙はやっぱり部屋にこもってしまう。窓を開けたりドアを開けて風通しをよくしてみたりしているが、分煙のできる空間にはなりそうもない。もちろん、ひとりの時には気兼ねなく吸っているが、いったん外に出て帰ってくると、タバコの臭いがかなり強く残っていることに気づく。プライベートな空間でも他人が入ってくれば公的な場として考えなければならないから、この臭いはやっぱり気になっている。

 ・学部のゼミの学生を研究室に集めると、飲み残しのペットボトルやゴミをそのままテーブルに置いて帰ることが少なくない。気がつけば「ここはぼくの部屋だよ。そのゴミ誰が捨てるの?」と言ったりするのだが、置き去りはいっこうに減らない。しゃくにさわるが、ただ叱るのではなく、人間関係についての話の材料することにしている。 

・人との不要な関わりを避ける作法をE.ゴフマンは「儀礼的無関心」と呼んだ。しかし、それは文字どおりの無関心ではなく、関わらないようにたがいに配慮しあう気持、あるいは行為を指し示している。ゴフマンは都市で暮らす人々にとって何より重要な意識が、この儀礼的無関心であるといった。単なる無関心と儀礼的無関心。この違いは微妙なもののように思えるが、タバコやゴミを例にして考えれば、一目瞭然のことでもある。

 ・ここにぼくがいるということを必要以上に意識させないこと、そこにいたという痕跡をやたらに残さないこと。「儀礼的無関心」は都市に住む人間が自然に身につけるものではなく、自覚して学ばなければならないことだが、日本人にはこの意識はほとんど根づいていない。そこにはもちろん、世代の違いもない。

2002年10月7日月曜日

村上春樹『海辺のカフカ』(新潮社)

 

・今度の物語の登場人物は15歳の少年「田村カフカ」、字の読めないナカタ老人、私設図書館の館長の佐伯さんと館員の大島さん、トラック運転手の星野さん。舞台になるのは東京中野区野方、戦時中の山梨県のどこか、それから四国の高松とそこまでの旅程。さらには高知に行く途中にある深い森。

・例によって話は二つの世界を順繰りに追うことで進む。家出をする15歳の少年。戦時中に何かの原因で記憶を失うナカタさん。少年は父と二人暮らし。母は姉を連れて4歳の時に家を出た。彼には捨てられた記憶が鮮明に残っている、母親に愛されて育つという思い出の喪失。父親には何の愛情も感じない。ナカタさんは字が読めない。生活保護を受けていて、中野区から一歩も出ないで生きてきた。しかし彼は猫と話ができる。

・この、まるで関係のない二人が、何かに導かれるように高松に向かう。少年は小さな私設図書館にたどりつき。そこで佐伯さんという女性と出会う。彼女は15歳で大恋愛をしたが、相手は東京に行き大学紛争に巻きこまれて、不当な殺され方をしている。愛の対象の喪失。少年は彼女に惹かれ、彼女に母親を見つける。そして霊のように、あるいは無意識の世界から飛び出してきた虚像のようにして彼の前に出現する15歳の彼女に夢中になる。

・ナカタさんは猫探しをしてジョニーウォーカーに会う。猫を殺して心臓を食べる男。彼は自殺願望をもっていて、ナカタさんの手を借りて自殺を図る。ナカタさんが彼を刺し殺したとき、少年は突然意識を失う。気づいたときにはシャツにべっとりと血がついている。そしてナカタさんには人を刺した痕跡は何も残らない。ナカタさんは突然、西に向かって旅をはじめなければと感じる。ヒッチハイクをして、富士川SAで名古屋に住む星野さんという長距離トラックの運転手と出会う。そこから、二人の珍道中が始まる。

・まったく繋がりの感じられない二つの世界、二人の人物の話のトーンは、少年の部分はいつも通りのものだ。しかし、ナカタさんについてはだいぶ違っている。少年の時に記憶を喪失し、文字を失い、家族からも距離をおかれ、ほとんど生活実感のない時を過ごしてきた人物だが、また奇妙にユーモラスな一面を持つ。猫と話をする。敬語を使い、人間とのあいだにほとんど区別をしない。彼に出会う人たちはそこに興味をもち、また惹かれていって、いろいろ手助けをする。トラック運転手の星野さんは結局、物語の最後までナカタさんとつきあい、彼の死を看取り、彼に代わって物語を完結させる。漫画のような世界だが、また奇妙にリアリティがある。

・ジョニー・ウォーカーはウィスキーのラベルの人物だ。彼は猫をさらい、殺して、まだ動いている心臓を食べる。頭を切り落として冷蔵庫で保管。もう一つの世界では彼は少年の父親で著名な彫刻家。ジョニー・ウォーカーはいわばメタファーなのだが、父親そのものよりもはるかに生き生きしている。

・話にエネルギーを持ち込む人物がもう一人。高松で星野さんを呼び止めてポンビキをするカーネル・サンダース。星野さんはとびきりの女の子を紹介されてすっかり満足するが、カーネル・サンダースはまた異世界への扉となる石のありかも教えてくれる。彼もまた誰か、あるいは何かのメタファーなのだが、実体の方ははっきりしない。

・物語を紹介していると、それだけで終わってしまいそうだが、ものすごくよくできている。ストーリー・テラーとしての村上春樹の本領発揮。『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』『ねじまき鳥クロニクル』以来の長編だが、読んでいて先の世界が楽しみという気持を久しぶりに味わった。彼の作品はほとんど読んでいるが、『ねじまき鳥』は1994年だから、面白いと思ったのは8年ぶりということになる。

・この物語のテーマは「喪失」と「メタファー」。登場人物のすべてが、心のなかに、あるいは記憶のなかに「喪失感」もっている。その空白部分を埋めるために、それぞれの人物が関わりあう。そして登場人物はまたたがいに、誰かのメタファーとして描きだされている。関係がないのはおそらく、星野さんひとりだけだろう。ナカタさんは少年のメタファーなのかもしれないし、佐伯さんのメタファーなのかもしれない。そして佐伯さんは少年の母親のメタファー。あるいは少年の方が佐伯さんが恋した青年のメタファーなのだろうか。もう一つ、この物語には、ギリシャ神話の「オイディップス」のメタファーという意味あいもある。

・おそらく、もう少したつと、『海辺のカフカ』の謎解きがにぎやかになるだろう。そうしたい衝動を誘発する作品。きっとこれは傑作ナノダと思う。