2022年1月31日月曜日

メディアの劣化が止まらない

 メディア、とりわけテレビの劣化が止まらない。大阪の毎日放送が正月番組に大阪維新の会の吉村知事、松井市長、そして橋下徹を出演させた番組を放映したようだ。これを視聴した人はもちろん、毎日放送内からも「中立性を欠くのではないか」といった声があがったようだ。もちろん、番組自体はバラエティのジャンルに入るものだから、政治的中立を守る必要はないといった意見もあった。しかし、吉本の芸人が司会する番組に維新の主要人物が顔をそろえて出演するといった番組は、やっぱり異常としか言いようがないように思えた。

ちょっと前に「維新とタイガース」というコラムを書いて、その類似性を指摘したが、ここにはもう一つ、「維新と吉本」の繋がりや共通性も指摘するべきだったと感じた。大阪のテレビ局は毎日放送にかぎらず、どこも維新の三人の出演を大歓迎していて、吉本の芸人たちとの放談を人気番組にしているようだ。おそらく視聴率も上がって、視聴者からの反応も悪くないのだろうと思う。しかし、これが維新の躍進の原動力になっているとしたら、テレビ局の姿勢は罪深いことである。

そうは言っても、民放は視聴率が命だから、人気のある人はたとえ政治家だって、タレントとして使うのは当たり前だとする意見もあるだろう。しかし視聴率やそれにともなう収益を最優先するのならば、メディアとしての公共性は放棄していると言わざるを得ない。実際そうとしか思えないような民放テレビ局が大阪にかぎらず、東京だって大半なのである。

そんなふうに思っていたら、NHKが東京オリンピックの記録映画を監督している河瀬直美を取材した番組で、問題が持ち上がった。僕は見ていないが、指摘されたのは、オリンピックに反対する運動に参加をして、その報酬として金をもらったという人をインタビューした場面だった。インタビューをしているのは助監督でNHKはその様子を後ろから映している。インタビューされている人の顔は隠され、声も聞こえないが、字幕には「お金をもらって動員されている」と出たのである。しかし、このシーンをめぐって視聴者から批判や疑問が起こると、そういうふうに話したかどうかをめぐって河瀬サイドとNHKとの間でズレが生じ、結局 NHKが全面的に謝罪をするという結果になった。

東京オリンピックは中止や延期の声が圧倒的に多かったにもかかわらず、強行開催され、そのためにコロナの感染を爆発的に増加させた。そんなオリンピックの記録映画をどうまとめるのか。それは極めて難しい課題だが、反対運動が金で集められたものだといった主張を、記録映画に入れようとしていたとしたら、この映画が政府の宣伝のためでしかないことは明らかだろう。実際デモの様子なども記録していたようだが、主催者にインタビューすることもなく、遠巻きに映しただけだったらしい。

NHKはすでにニュースの姿勢などから安倍チャンネルなどとレッテル貼りされて批判を受けてきた。しかしドキュメントなどではまだ良心的な番組作りをしていると思われてきた。ところがそれもなくなってしまっているとしたら、もうNHKは完全に権力の宣伝機関となってしまったといわざるを得ない。強制的に受信料を払わせる根拠は、NHKにはすでにないといっていいだろう。

2022年1月24日月曜日

マスクがパンツになった?

 マスクがパンツ化しているという記事を見かけた。つまりマスクはもはや「顔パンツ」となって、めったに外せないと思う人が増えているというのである。もちろん多くは若い女達で、化粧の手間が省けるといった事情や、自分の鼻や口に劣等感を持っていたからといった理由もあるようだ。そうすると、コロナがおさまっても、マスクをしたままの人が普通になるのだろうか。へぇ!と思ったが、風邪が蔓延する冬や、花粉が舞う春には、これまでも多くの人がマスクをしていたから、それほど珍しい風景ではないかもしれない。しかし、真夏でもマスクをした人が多くなるのは、やっぱり異様な光景に感じるだろう。

他方で欧米では、マスクに対する抵抗感が強くて、それが感染数を増やす大きな要因になっていると言われている。確かに、マスクをして顔を隠すのは、強盗や強姦をする奴だけだ、といった感覚もあるから、抵抗感が強いのも理解できる。そうすると日本人に抵抗感が薄いのは、犯罪率が少ないからということになるが、それだけではない気もする。風邪をひいているわけでも、花粉症に悩まされているわけでもないのにマスクをすることは「ダテマスク」などと言われて、ずいぶん前から指摘されていたからだ。

顔の一部を隠すのは、他にサングラスがあって、これは欧米では日本より一般的なものである。青い目は黒目に比べて太陽光に弱いといった理由もあるが、おしゃれの一つとして考えられていることもあげられるだろう。日本ではサングラスは不良がかけるものだといったイメージがあって、真夏ならともかく、それ以外の季節や夜につけるのは異様に思われてきたはずである。もっとも最近では、こんな考えはかなり薄れてきていると言えるかもしれない。

サングラスをかけると格好良くなった気がするのは、多くの人が感じることだろう。しかし、マスクはどうだろう。マスクも色やデザインなど工夫するようになったから、格好いいと思ってつけているのかもしれない。そう言えば若い人たちがつけるのは、ウレタン製の黒いマスクが多いが、それは感染を防ぐ効果がほとんどないと言われたりしている。そこにはやはり、効果よりはおしゃれを優先といった気持ちがあるのだろうか。

とは言え、パンツはおしゃれのために身に着けるのではなく、本来、陰部を隠したり保護するために履くものである。だから、マスクを顔パンツのように感じるのは、鼻や口を陰部のように思う人がいるということになる。外すことに羞恥心を感じるのは、鼻や口そのものに原因があるのではなくて、隠すのが常態化したことに理由を求めることができる。それは、パンツで隠された部分にも言えることのはずである。陰部はパンツで隠すようになったから、さらけ出すのが恥ずかしくなったのである。

そうすると、コロナがおさまっても、マスクをしないで人前に出るのは恥ずかしいことだといった感覚が常識化してしまったりするのだろうか。十分にありそうなことだが、それは日本人にかぎったことになるから、これもやっぱりガラパゴスと言われるようになるだろう。

2022年1月17日月曜日

楽曲の権利をなぜ売るのか?

 ボブ・ディランやブルース・スプリングスティーン、そしてデビッド・ボーイが楽曲の権利を売却したといったニュースを聞いた。ボーイは死んでいるから本人の意思ではないが、今なぜ?という疑問を感じた。金額はボーイが2億6千万ドル、ボブ・ディランが3億ドル以上、そしてスプリングスティーンが5億ドルだという。すでに巨万の富を得ながら、まだお金が欲しいのかと批判したくなるが、その理由を知りたいとも思った。

楽曲の権利とは著作権のことで、ミュージシャンがレコード会社からCDとして公開した楽曲について持つ権利である。楽曲の作者はCDの売り上げに応じた収入を得る他に、それがラジオやテレビなどのメディアで放送されたり、楽曲が使われたりした時にも報酬を得ることができる。また、CDの購入者が個人的に聴く以外の利用をした時にも、支払う義務が生まれる。ジャズ喫茶店や音楽教室などでの利用をめぐって支払い義務の有無が争われたりしてきたことは、これまでにも話題になってきた。

その、本来は作者の有する権利を買ったのは、レコード会社である。ボーイの楽曲権はワーナー・ミュージック、ディランはユニバーサル、そしてスプリングスティーンはソニー・ミュージックエンタテインメントだ。売却によってディランやスプリングスティーンは、ライブで自分の楽曲を歌う時にも使用料を払わなければならなくなるのだろう。もうライブはあまりやらないことにしたということだろうか。ディランは80歳を超えたからそうかもしれないが、スプリングスティーンは70代の前半だ。

このような動きには高齢化した大御所ミュージシャンの「終活」だという解釈がある。今金が欲しいというよりは、自分の死後にもしっかりした企業に楽曲の管理をして欲しいと思うからだというのである。楽曲の購入や利用は今ではネットを介したストリーミングにあって、その市場は爆発的に拡大している。一つのコンセプトをもって作られたアルバムも、ストリーミング市場では細切れになって売買される。長期にわたって得られるかもしれない収入を自ら管理するのが面倒な状況にもなっているのである。

調べてみると、納得できる理由がいくつか出てきたが、音楽の現状にとってよくないことだとする意見も見受けられた。一つはストリーミング市場が一部の大物に偏っていて、若手のミュージシャンが育ちにくい環境にあることだ。スーパー・スターといわれる人たちにも、最初は売れない時代があって、徐々に才能を伸ばし開花させる土壌があったのに、今はそれがなくなってしまっているというのである。ここには、コロナ禍にあってライブ活動が制限されているという現状も重なっている。

20世紀後半はポピュラー音楽が花開いた時代だった。ディランやスプリングスティーンはその代表的なミュージシャンだが、彼らの終活とともに、この音楽も終わりを迎えてしまうのだろうか。そしていくつかがクラシック音楽として残されていく。利益優先の大企業の手に渡された音楽だけが化石のようにして生き残る。そんな近未来を想像してしまった。

2022年1月10日月曜日

黒川創『旅する少年』(春陽堂書店)

 
kurokawa1.jpg 蒸気機関車に興味がある少年が、学校の休みを使って日本全国を旅をする。それは今から半世紀前のことで、ちょうど全国から蒸気機関車が消える時期だった。少年は周遊券を買い、有効日数いっぱいの計画を立てて、北海道から九州までの旅をする。それも夏休みはもちろん、春や正月の休みを待って、学校が始まる前日、あるいは当日の早朝に帰る計画を立てて実行する。それが小学生の時から中学生まで続くのである。「鉄オタ」などと言うことばが流行るはるか前のことで、読んでいて、その行動に呆れ、感心してしまった。

著者の黒川創は小説や評論を数多く執筆し、『鶴見俊輔伝』で小佛次郎賞を得ている有能な書き手で、僕も彼の書いたものには注目しているが、この本では、彼の少年時代について、改めて知らされることが多かった。実は僕は、この本に登場する少年期の作者を直接知っていた。彼の父親である北沢恒彦さんと一緒に、京都の新京極の調査をしたことがあるし、同志社大学の近くにあった「ほんやら洞」に親子で来ているところを見かけたり、中学生の頃の著者がバイトをしているのも覚えていたからだ。『鶴見俊輔伝』の批評でも書いたが、彼が大学生の時に『思想の科学』ではじめて編集をした「大学生にとって大学生とは何か」という特集で、僕は大学生について彼からインタビューを受けてもいた。しかし、彼がこれほど蒸気機関車にのめり込む少年時代を過ごしていたことは、全く知らなかった。

これほど長期の旅をくり返しするのには相当の費用がいる。それは主に母親からの提供だったようだが、なぜ許せたのか、という点に興味を持った。認めなければへそを曲げ、鬱屈した気持ちにさせてしまうと思ったのかもしれない。あるいは夫との関係がぎくしゃくしていて、そのことで、息子に負い目があったのだろうか。いずれにしても、今ではとても認められないことのように思える。また、少年は車中や旅先で出会った人と仲よくなり、食事や宿泊などを助けてもらったりしている。高度成長期で日本が大きく変わる時期であったとはいえ、「袖触れ合うも他生の縁」といった気持ちが、まだ通用していた時代だったことを改めて思い出した。

黒川創の執筆の仕方は、徹底的に資料を調べ上げることにある。その姿勢は、この少年時代の旅によって培われたものであることも再認識した。蒸気機関車の最後の運行にあわせて出かけるためには、何時の列車に乗って、どのルートで行ったらいいのか。写真を撮るためにはどこで待ちかまえたらいいのか。そして、ついでに見ておきたいところや、うまく新学期に間に合うように帰るには、どうするか。そんなことを事前に徹底的に調べているし、当時の旅を思い出すための写真や、切符なども、きっちり整理していたのである

旅の最後は蒸気機関車とは縁のない沖縄である。石垣島や西表島にも行っているが、嘉手納や普天間の基地にも行っている。「ほんやら洞」でバイトしていたことや、父親の影響もあったのだろう。すでに戦争と沖縄について、あるいは当時の政治状況についても、自ら考えることはしていたようだ。早熟といってしまえばそれまでだが、後に黒川創となる、その出発点に触れた気がした。

2022年1月3日月曜日

とてもおめでとうと言えない年明けです

 
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2022年が始まりました。とてもおめでとうと言えない年明けです。コロナ禍は3年目になりましたが、まだ終息の兆しは見えていません。それどころか、感染力の強いオミクロン株が大流行しそうな気配です。僕はまだワクチンを接種していませんから、人混みなどには絶対出かけないようにしようと思っています。もちろん、隠居暮らしだからこそできることです。

昨年は長期の旅行は一度もせず、1泊だけを3度しました。さて今年はどうなるでしょうか。出かけられないのは残念ですが、家でやることはまだまだたくさんあります。昨年は家のリフォームをして、屋根を張り替えました。2階のペンキ塗をしてもらったので、1階のログは自分でやりました。1昨年の原木不足で足りなくなった薪を補充するために、昨年は3度、合計で10立方メートルの薪を作りました。自転車や山歩きもやって、元気に過ごしています。

ところで、ホームページのコラムの名称を変更しました。(Bloggerについては関係ありません)「CDReview」を「Music & Sports Review」、「TV &Film Review」を「Media Review」、「And.......」を「Critical Essay」、そして「Some E-mails」を「And......」に変えました。音楽だけでは更新が難しくなりましたから、スポーツと一緒にしました。興味のあるテレビ番組や映画は今ではほとんどネットで見ていますから、新聞報道も含めて「Media Review」としました。「Some E-mails」はもともと、このサイトに来る手紙の紹介や返答をするために設けたものですが、そんなメールが来なくなってずいぶん経っています。この際、自由に書くエッセイを政治や社会、あるいは文化についての批判としての「Critical Essay」と、その他の日常的な話題を扱う「And.......」に分けてみようとも思いました。

おかげさまでこのホームページも100万ヒットを超えました。それを励みに、これからも週一回の更新は続けるつもりです。Blogを「Blogger」に代えて、過去記事をすべて再録しました。こちらはまだ訪ねる方は少ないです。過去記事の検索にはだんぜん、「Blogger」の方が便利です。今年は訪問者を増やすために、記事の英語版も載せようかと考えています。インターネットは本来、ワールドワイドなものですから、日本語だけではガラパゴス状態なのです。遅きに失した感はありますが、今年はそれをめざしたいと思います。