2019年10月28日月曜日

立山・称名滝

 

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photo86-2.jpg・毎年10月はパートナーの誕生日に合わせて一泊の旅行をしている。去年は戸隠、一昨年は黒部、その前は白馬だった。この季節だとどうしても紅葉のきれいなところとなって、信州方面にということになる。今年はどこに行こうかと相談して、立山の称名滝に決めた。

・天気予報は雨だったが、近づくと曇に変わり、当日はご覧の通りの秋晴れ。晴れ男・晴れ女は今年も健在だった。大体、旅行中に雨に降られたことがほとんどないのである。まずは甲府に出て、中央道を走り、八ヶ岳のPAで休憩。ここでクロワッサンのあんパンを買うのが恒例になっている。初冠雪だという甲斐駒ヶ岳と北岳がきれいに見えた。

photo86-3.jpg ・ルートは松本から上高地を抜けて奥飛騨を通って富山へ抜ける道を選んだ。上高地まではトンネルが多く道幅も狭いからあまり好きな道ではないが、平日だったからそれほど交通量は多くなかった。平湯からの奥飛騨湯ノ花街道はほとんど単独走といえるほど空いていた。富山平野に出ると立山方面に右折して称名滝へ。五時間半で着いた。駐車場から滝までは1.3キロで30分。きつくはないが、年配の人たちが多かった。霧がかかって遠くは見えなかったが、川がえぐりとった断崖は、紅葉もあって見事だった。そして日本一の滝へ。間近に行くとしぶきがかかるほどで、確かに雄大な光景だった。もちろん、ここでも崩落の危険はあって、途中何カ所も、補修や補強の工事をしていた。

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・富山の駅前のホテルに泊まり、夜は居酒屋へ。名物の白エビの天ぷらとつくね揚げがおいしかった。翌日は日本海沿いに旧道を走って、親不知から糸魚川、姫川沿いに南下して安曇野から高速に乗った。曇っていて富山湾から北アルプスの全景は見えなかったが、剱岳はよく見えた。親不知では海岸に出て翡翠探し(見つかるわけはないが)、小谷の道の駅で野菜などを買い、昼食(蕎麦)をとって、鮮やかな紅葉を横目に見ながら、雨が降る前にと家路を急いだ。河口湖に戻ると本降りの雨。

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2019年10月21日月曜日

竹内成明『コミュニケーションの思想』(れんが書房新社)

 

seimei1.jpg・竹内成明さんは2013年に亡くなっている。その6年後に出た本書は、かつての教え子たちによって編まれたものである。実は彼が書き残した原稿は他にもあって、本にまとめようという話は、ぼくにも持ちかけられた。現在の出版事情や竹内成明という書き手のネーム・バリュー、あるいは世界の情勢やネットなどによる人間関係やコミュニケーションの仕方の変化等々から、ぼくは強く反対した。本にするためにはそれなりの費用が必要だし、在庫の山を抱えて難儀することがわかっていたからだ。しかしそれでも出版した。

・編者の三宅広明と庭田茂吉の両氏は、竹内さんが同志社大学に赴任した時の最初のゼミ生で、それ以降ずっと、彼が死ぬまで関係を続けてきた。彼らより少し年長のぼくは竹内さんの授業を受講したことはなかったが、彼らに誘われて研究会に出席をした。会えば必ず酒盛りになる。酒に弱いぼくには、その関係の濃密さに辟易することもあったが、少し距離を置いて関わるかぎりは、おもしろい集まりであることは間違いなかった。

・ぼくが1989年に出した『メディアのミクロ社会学』(筑摩書房)のあとがきには、その本が竹内さんの『コミュニケーション物語』(人文書院、1986年)に触発されたものであることが書かれている。「この本は人間以前の猿の歴史から始まって活字の誕生までの人びとのコミュニケーションの歴史を、物語ふうに解き明かしたものである。その壮大な時間の流れを、語り部が村人を集めて語って聞かせるような文体で展開していることに強い印象を持った。」だから『メディアのミクロ社会学』は活字以降に登場して人びとにとって欠かせないメディアとコミュニケーションに注目した『続コミュニケーション物語』でもあるとも。

・この本は題名通り、さまざまな哲学者や思想家の業績を「コミュニケーション」を軸に分析した論考を中心にまとめている。たとえば第一章で登場するのはアダム・スミス、プルードン、マルクス、ガンジー、そして中井正一であり、第二章はルソーとデリダである。一章は主に70年代に本の一部として、二章は80年代に同志社大学文学部の紀要に連載されている。ルソーは竹内さんがした思索の出発点にいた人で、紀要という狭い世界で発表されたものであるから、この章が、この本の中心に位置づけられていると言えるかもしれない。

・第三章のメディアの政治学序説は三宅氏の解題によれば1994年に出版された『顔のない権力』(れんが書房新社)の理論的枠組みになっているということだ。しかしぼくは同時に、読み物であることを意識した『コミュニケーション物語』の後に書かれた理論的枠組みでもあるように感じた。第四章は新聞等に書いた書評や短いエッセイを集めている。

・ところで、なぜ、今このような内容で本を出そうと思ったのか。最後に二人の編者が書いた文章を紹介しておこう。先ず三宅氏から。「無知で先の見えない私たちの愚かな話を面白がりながら酒を楽しむ姿に、私たちはいつも励まされ、大人になるのもいいものだと思ったものだ。ちょうどその頃に書かれた文章がここに収められているわけで、当時は楽しい酒宴と発表される論文の広がりと深さのギャップに驚かされながら、同時にそこに通底する竹内の強い意志と価値観に圧倒される思いで読んでいたのを思いだす。」

・なぜ出したかったがわかる一文だが、もう一人の庭田氏はもう少しさめている。「竹内成明の仕事の過去と現在、そして書きつつあったことを考えた。残された、多くの論文や文章がある。何冊かの著書がある。いつか、それら全部を読まなければならない。まだ生々しさが残っているうちに。しかし、時間は残酷である。竹内成明は忘れられつつある。彼の本は消えつつある。本屋からはすでに消えている。大学からも消えている。では、それはどこにあるのか。はたして、読者はいるのだろうか。」

・冷たい言い方だが、ぼくは読者はほとんどいないと思う。ただ若者であったときから現在まで、竹内さんが二人にとってかけがえのない人であったことは、この本には十分すぎるくらいににじみ出ている。ただし、読みながら思ったのは、どの文章も決して時の流れによって陳腐化などはしない、普遍的な問題を深くついていて、筆者の立ち位置に共感できるものであることは間違いないということだ。ものすごく大事なことを問うているのに、ほとんど見向きもされないかもしれない。今はそんな空疎な時代なのである。

2019年10月14日月曜日

コラボの2枚

 

Sheryl Crow "Threads"
Ed Sheeran "No.6 Collaborations Project"

・このコラムの更新は3ヶ月ぶりである。それにしても聴きたいと思う新譜がまったく出ない。今回紹介する2枚のCDも、特に欲しいわけではなかったから、買おうかどうしようか迷った。しかし、3ヶ月も更新しないのは長すぎるからと買うことにした。

sheryl.jpg・シェリル・クロウの"Threads"は"Be My Self"から2年ぶりである。買おうかどうしようか迷ったのは、前作にそれほど感心しなかったからだ。今回はゲストを多く招いている。エリック・クラプトン、スティング、ブランディー・カーライル、キース・リチャーズ、ウィリー・ネルソン、クリス・クリストファーソン、エミルー・ハリス、ジェームズ・テイラー、ニール・ヤング、そしてジョニー・キャッシュ(故人)等々である。そしてそこで歌われているのも、ゲストや他の人のものだったりする。これが最後のアルバムになるかもなどと言っているようだ。引退するつもりなのだろうか。

・なぜ、このようなアルバムを作ったのか。ネットで探すと次のようなことばがあった。「少女だった自分と、床に転がって姉のレコードを聴いていたあの頃の昼下がりから今に至る私の人生の長い旅路を思い返すうちに、優れたソングライターに、ミュージシャンに、プロデューサーになりたいと思わせてくれたレガシー・アーティストたちと一緒に音楽を体感するようなアルバムを作ろうと思い立ちました。彼らと共に祝福し、彼らに捧げるものを作ろう、と」。

・アルバム・タイトルの"Threads"は糸や筋道といった意味だ。複数になっているから、彼女にとって大事な何本もの糸が織り合わされて、一枚の布になっているという意味が込められているのだろう。もちろん糸はそれぞれ、色も太さも材質も違うから、トーンは一つではない。彼女もそんなふうに自分の人生を振りかえる歳になったのかと思う。もっとも、次は若い人たちと仕事をしたいとも言っているから、これでやめるということではないだろう。迷ったが聴き応えのあるアルバムで、買ってよかったと思う。

sheeran.jpg ・エド・シーランの "No.6 Collaborations Project" も多数のゲストを招いている点で共通している。ただしこちらのゲストはぼくにはほとんどなじみがない。ぼくはラップは苦手だからやめておいた方がよかったかも、と思ったが、彼流にまとめられていて、聴きづらくはなかった。日本でやったライブをYouTubeで見て、たった一人でやっているのに感心した、コラボをやってもなかなかだと思った。共演したのは彼が大ファンだった人たちばかりだったようだ。「僕がキャリアの初期の頃から追いかけていたり、アルバムを繰り返し聴き続けているような人たちばかりで、そんな僕を刺激してくれるアーティストたちが、それぞれの曲を特別なものにしてくれているんだ。」ほとんど同時期に似たコンセプトをもったアルバムが出たことになる。

2019年10月7日月曜日

父の死

 

・父が死んだ。享年95歳。老人ホームに入って7年、最後は寝たきりになって、苦しそうに過ごす日が続いたが、最後は静かで、安らかだった。肺に水がたまって入院したと知らせを受けて病院に直行すると、酸素吸入と点滴をして、身体は拘束されていた。それでも「しんどいね」と声をかけると、小さくうなずいた。数日後には退院して、後は点滴も酸素吸入もせず、最後を迎えるようにするということだった。退院した翌日に老人ホームに出かけると、顔色もよく、目を開け、話すような仕草もしていたから、もうしばらく大丈夫だろうと思ったが、翌日亡くなったという連絡が入った。

・脳溢血をやって認知症が進んだ母も、父が死んだことはわかったようで、斎場への見送りもしたのだが、火葬をする日に出かけると、「おとうさんどこに行ったの?」と聞いてきた。「死んだんだよ、今日これから火葬にするんだ」と言うと、「えっ」と驚いたようにしていたが、斎場で火葬にする際には、最後のお別れをしっかり済ますことができた。これから一人で生きていかなければならないが、大丈夫だろうか。さみしいだろうが、すぐに忘れてしまう方が、悲しみにつぶされてしまうよりはいいかもしれないと思ったりした。

・本葬儀をしたのはそれから1週間後だったが、この間、2週間あまり、東京との間を何回も往復し、やるべきことを慌ただしく片づけた。遠いところにある墓ではなく、兄弟や子どもたちが出かけやすいところに新たに求めた。斎場やお寺との打ち合わせについても、知らないことばかりだった。戒名については疑問に思うところもあったが、生前父が直接相談していたから、その意思を尊重することにした。いずれにしても相当のお金がかかったが、すべて父が残したお金でまかなった。

・渡辺の「邉」にはいくつも変種がある。死亡通知書には戸籍通りの文字を正確に書く必要があるし、墓石にも正しく書かなければならない。父とぼくの健康保険カードを見ると少し違っていたから、それを確認するのも大変だった。以前にもそんなことがあったのか、書類を探すと本籍地から平成6年に戸籍上は一つに統一されたというものが見つかった。墓石に刻む年号は元号ではなく西暦にした。大正、昭和、平成と来て、今は令和である。後々のことを考えたら、西暦の方が断然わかりやすいし、そもそもぼくは、ずっと前から西暦を使ってきた。

・ところで父についてだが、高度経済成長期に猛烈サラリーマンとして過ごしてきて、退職後は好きな絵画を楽しんできた。いい人生を過ごしたと思う。ぼくは自分の進路から、政治についての考え方、あるいは生き方に至るまで、父とはずい分違っていて、反発したり、衝突したりすることが多かった。その意味では必ずしもいい関係だったとは言えないが、妥協しなかったことで、自分でも納得できる道筋を歩けたのではと思っている。

・他方で、母親については心配が尽きない。一人暮らしをしたことは一度もないし、何があってもすぐ忘れてしまう。やりたいことが何もないから、食事以外の時はベッドで寝ていることが多いようだ。その食事も、父の具合が悪くなってからはあまり食べなくなって、ずい分痩せたようだ。しばらくはできるだけ老人ホームに出かけるつもりだが、落ちついてくれるといいのだがとつくづく思う。