1998年5月27日水曜日

『萌の朱雀』(1997) 監督:河瀬直美

 不思議な映画だ。というか見はじめてすぐに違和感を感じてしまった。第一に「せりふ」が極端に少ないし、そのことばがひどく聞き取りにくい。アマチュアの作る映画によくありがちな特徴だが、それを手法として意図的につかっている。手法といえば、どことなく小津安二郎の映画に似た感じもした。
この映画の分かりにくさは、たとえば家族構成にある。両親と二人の子ども、それに祖母という家族だが、上の男の子と妹との歳が離れすぎているし、逆に母親と男の子の歳が近すぎる。けれども、そのことについての説明はせりふからはわからない。この映画にはナレーションもないのだ。15分ほどたったところで、やっと父親が「かあちゃんに会いたいか。遠慮するなよ」という場面がある。離婚して子どもを父親が引き取ったのか、と僕は思った。
映画はその後10年ほど後の世界になる。兄と妹は最初から仲がよく描かれているが、10年後の世界では、そこにひそかな恋愛感情が生まれていることが暗示される。そしてすでに働きに出はじめた男の子には母親に異性としてひかれる思いも存在する。奈良の山奥にある狭い閉塞した世界の中の近親的な恋愛感情か、と思ったが、男の子が父親の姉さんの子どもであることが、祖母のせりふのなかにちらっと伺えた。そして物語はあまりに唐突な父親の死、と母と娘の里帰りによる家族離散によって幕を閉じる。
正直なところ、何を描きたいのかわからない映画だと感じた。いったい何がテーマなのだろうか。確かに山奥の風景はきれいだし、素朴な人たちの様子はよく描かれている。けれども、それだけならば、とても映画として高い評価をすることはできない。「なんだ、これ」というのが見終わって感じた僕の印象だった。しかし、この映画は去年のカンヌ映画祭で賞をとっている。どうしてか、と考えはじめたら、すぐに小津のことが頭に浮かんだ。
誰だったか忘れたがフランス人による小津論を読んだことがある。そこには川岸に並んで座る恋人同士を描いたシーンについての分析があった。二人は何もしゃべらず、見つめあうこともなく、ただ川面を眺めている。けれども、同じものを見つめることによって二人の思いはしっかり共有されている。抱きあったりことばで確認しあったりしなくとも心が一つになる関係。確かそんな分析だったと思う。
ことばで言わなくてもわかる。というよりはことばに出さない方がよりわかる。それは日本人のコミュニケーションに典型的な伝統だが、この映画はそれを描きたかったのかもしれない。だとすれば、この映画のテーマはわかりすぎるぐらいよくわかる。けれども、それならば、むしろそんな伝統が現在の日本人の中からは消え去ってしまっていること、消え去っているのに、いまだにそれが通用しているかのような錯覚に陥りがちであること。そんな人間関係のちぐはぐさを語るべきなのではないだろうか。たとえ吉野の山奥でさえ例外ではないというふうに.......。
しかし欧米の人たちには、そんな日本人の変容はわからない。彼らにとって相変わらず日本は東洋の神秘な国のままなのだ。カンヌでのこの映画の評価は、結局、そのことを明らかにしただけなのかもしれない。そんな気がした。と考えたら、『HABNABI』はどうして受けたのかが気になりはじめた。来月ぜひ「祇園会館」で見ようと思う。

1998年5月20日水曜日

『子ども観の近代』河原和枝(中公新書)

 

・ 「子ども」が子どもでなくなりはじめている。そんなことが言われはじめて、もうずいぶんになる。残虐な殺人や陰湿ないじめ、泥棒、あるいは自殺.......。子供はどうなってしまったんだ、という疑問や不安を感じる親は少なくない。悪いのは親か、学校か、あるいはテレビ、繁華街なのだろうか。原因があるとすれば、すべてだが、しかし、その原因はまた、個々には責任もとれないし、解決策も見つけにくいものである。だから、有効な手立てを自信をもって提示する人は少ないし、たとえ出されたとしても、説得力のあるものにはなりにくい。
・ けれども、壊れはじめている「子どもらしさ」は、いったいどれほどの普遍性があるものなのだろうか?こんな疑問も感じる。たとえばフィリップ・アリエスの『子供の誕生』(みすす書房)によれば、いわゆる「子ども」らしい子どもの登場はヨーロッパの近代化とともに目立ち始めるようになったようである。よい子、すなおな子、夢を持った子、あるいは純真無垢や理想主義。一言でいえば、経済的にも時間的にもゆとりを持ち始めた社会が作り出したイメージ、つまり大人から見た「子ども」の姿にほかならない。当然、そのような「子どもらしさ」は豊かな階層から目立ち始めた。
・ 日本ではどうだろうか?こんな疑問を感じたのはずいぶん前だが、誰もあまり確かなことは言ってくれなかったし、僕も疑問をそのままにしてきた。『子供ども観の近代』は、まさにそのことに答えを出そうとする試みである。この本によれば、日本における「子どもらしさ」は、明治末期の文学者たちの夢として見いだされた。「いつか大人になることができるために子どもらしくなければならない存在」としての「子ども」、そのためにこそ必要な「子ども期」と「思春期」。そんな自覚は大正7年に創刊された『赤い鳥』によって、世間に広まっていったそうである。
・ もちろん、いち早く共鳴したのは、都市に住む新興の中間層の家庭だった。この本によれば、このような層が増加し始めたのも、やはり明治末期で、大正9年ごろには全国民の7〜8パーセントを占めるようになったということである。その年、『赤い鳥』の発行部数は3万部、その成功に刺激されて、数年後には児童雑誌が100種にものぼる状況が訪れる。
・『赤い鳥』が生んだ作品には、現在の小学生が国語で習う芥川龍之介の『杜子春』『蜘蛛の糸』、有島武郎『一房の葡萄』があり、音楽で知る北原白秋の「からたちの花」や西条八十の「カナリア」といった童謡があった。著者はそんな『赤い鳥』に描かれる子どもに「良い子」「弱い子」「純粋な子」という三つのイメージを見つけている。「子ども」は親の保護がなければ生きられない存在である。だから、このようなイメージは当の子どもだけでなく、それ以上に親や大人たちに理解して欲しいものとして向けられる。
・もっとも子どもは、そんな無力な存在として見られていただけではない。同時期の人気を得た雑誌『少年倶楽部』は、「少年を庇護されるのではなく、むしろ独立した人間として扱い、少年たちに確固たる観念を提示した」。子どもとはまた、自我形成をしなければならない存在でもあった。「弱い子ども」と「強くならなければならない子ども」。この一見相矛盾しあうイメージはを、著者は平和や平等を指向する立場と立身出世や富国強兵を目指す立場の違いとして対照させている。それはまた、大正から昭和にかけての思想の対立そのものでもあった。
・この本は「子ども」のイメージが日本の近代化の過程の中でどのように生まれ、浸透し、また変化していったかを教えてくれる。丁寧な検証とやさいしい語り口。僕はそこに引かれながら、面白く読んだ。けれども、読みながら繰り返し頭に浮かんだのは、それでは戦後から現代に至る「子ども観」の変質はどうなんだろうか、と言う疑問だった。無理難題かもしれないが、河原さんには次ぎにぜひ『子ども観の現代』といった続編をかいて欲しい。自分の怠慢は棚に上げて、そんな注文をつけたくなった。

1998年5月14日木曜日

Van Morrison "New York Session '67"


・ヴァン・モリソンは1963年に結成された『ゼム』のボーカルとしてデビューした。1945年生まれだから18歳の時で、『ビートルズ』や『ローリング・ストーンズ』とはほぼ同年代である。アイルランドのベルファストに生まれ、12歳の頃からバンド活動を始めている。アメリカの黒人ブルースに夢中になって、『ビートルズ』と同じようにドイツで腕を磨いた。ドイツには第二次大戦後、アメリカ軍が進駐していて、彼らはブルースを喜んで聴いてくれた。その意味では、60年代のイギリスのポピュラー音楽は、ドイツという場と黒人のアメリカ兵なしには考えられなかったということができるだろう。
・『ゼム』は『ビートルズ』や『ローリング・ストーンズ』に引けを取らないほどの人気と評価を受けかけたが、わずか3年ほどで解散してしまう。ジョニー・ローガンの『ヴァン・モリソン 魂の道のり』(大栄出版)によれば、その原因は、ヴァンがポップではなくブルースにこだわったこと、アイドルになるには顔立ちもスタイルもよくなかったこと、そして何よりヴァン自身が人気者になるよりはブルース・ミュージシャンであることにこだわったことなどにあったようだ。

・しかし、ヴァン・モリソンに人気や名声、あるいは富を得たいという欲がなかったわけではない。彼は自分の曲がヒットすることを願った。けれどもまた、彼は大勢の聴衆の集まるコンサートを嫌い、ライブハウスやクラブでのパフォーマンスを好んだ。ファンの期待に応えてヒット曲を歌うことを嫌がり、汗だくでブルースを演奏したがった。自分の音楽とは関係ないことをしゃべらされるインタビューを何度もすっぽかし、レコード会社の営業責任者やれコーディング・ディレクターとけんかをした。そして「マスコミ嫌い」「コンサート嫌い」あるいは変人・奇人といったレッテルがはられることになる。


・彼は、『ゼム』解散後の自分の方向を模索してニューヨーク行きの誘いを受け入れる。アメリカは大きなマーケットだし、何より、自分のやりたい音楽をいちばん理解してくれる人たちがいる国だった。「New York Session '67」には、そんな音楽的なアイデンティティについて迷っていたモリソンがよく感じられるし、また、その後の独自な世界のひな型が垣間見えもする。 CD2枚組だが、2枚目は彼がニューヨークのプロデューサーに送ったデモテープで、ギターの弦もろくに合わせていないラフなものだ。
・人気も名声も富も得たい。しかし自分の音楽にはこだわりたい。このような姿勢はボブ・ディランはもちろん後期の『ビートルズ』にも『ドアーズ』にも見られる。ほかのミュージシャン達にくらべると、ヴァンのジレンマは自分で自分の道をふさぐ形で作用したが、それが逆に新しい世界を見つけるきっかけにもなった。音楽を通じたアメリカへのあこがれと「アイリッシュ」であることの自覚。彼の作り出す歌はそれ以降一貫してそんなよじれた世界を歌い続けることになる。

・ヴァン・モリソンが同時代、あるいは後の世代のミュージシャンに与えた影響の大きさは、さまざまな人によって語られている。そのことは「New York Session '67」を聞いていても、ミック・ジャガーを、また時にはディランを連想させるサウンドに気づくことで容易に理解できる。あるいはアイルランドへのこだわりは70年代の後半に登場するU2にしっかり受け継がれている。ロックの歴史を考えたときには見逃してはいけない隠れた巨人。その出発点がこのアルバムには感じられる。

1998年5月13日水曜日

ゼミから生まれた二つの成果


「メディア文化研究報告書」 中京大学加藤ゼミ
『大学生の見たメディアのアントレプレナ』 東京経済大学田村ゼミ(NTT出版)


ぼくはゼミの学生の卒論を毎年、文集にしている。おもしろい年もあれば、面倒なときもある。学生たちも、楽しがる学生のいる年もあれば、渋々という感じの学生ばかりの時もある。つづけるのは簡単ではないが、学生たちのしたことが形になって残るのは、意味のあることだと思ってやめないでいる。


もちろん、形にして残すのは卒論集に限らない。ゼミで共同研究などをして、その結果を印刷物にしたりすることもできるだろう。けれども、興味関心がバラバラな学生たちに共通のテーマを与えることは難しい。で、ぼくは今まで、共通のテーマで何か持続して調べたり考えたりしたということはなかった。

 最近、つづけてゼミの研究成果をいただいた。一つは中京大学社会学部の加藤ゼミナールが発行した「メディア文化研究報告書」。もう一つは東京経済大学の田村ゼミが出した『大学生の見たメディアのアントレプレナ』。後者はNTT出版で発行され市販されている。どちらも、そのできの良さに感心してしまった。

 「メディア文化研究報告書」は電話をテーマにしている。「若者はなぜ電話をするのか」という副題のとおり、内容は電話好きの若者という最近の傾向について、あるいは、電話が作り出す独特の世界について、イタズラ電話や、テレクラについて、さらにはポケベルなど、さまざまな面を分担して調査し、また分析している。詳細についてはぜひ直接問い合わせてほしいが、一つのゼミがこれだけの成果を上げられるというのは、正直驚きである。電話研究は最近過剰なほどに出回っているが、ぼくは、そのような専門家たちの研究に少しも引けを取っていないと思った。


『大学生の見たメディアのアントレプレナ』は主に東京周辺で発行されている『タウン誌』の発行人を直接訪ねてインタビューをしたものである。これはゼミの先生である田村紀雄さんの得意の分野であり、また得意の取材方法だが、学生たちはそのノウハウを実際の体験をもとにしっかり習得してしまっている。


最近の学生は本を読まない、勉強しない、まとまりがないとよく批判される。実際ぼくもつくづくそう思うことが多い。けれども、このような成果を手にすると、やり方次第、動機づけの仕方によって学生たちは意外な力を発揮するものだとつくづく感じさせられてしまう。

1998年5月3日日曜日

常照皇寺

 

  • 京都北山の奥にある常照皇寺はしだれ桜と紅葉で有名です。交通の便がありませんから、ふだんはほとんど訪れる人もありませんが、桜と紅葉の季節だけは、観光バスが押し掛けます。もちろんどちらも見事なものですが、庭や付近の林を歩き回ると、苔や樹木の不思議な姿に魅了されてしまいます。



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