2024年4月29日月曜日

地震対応に見るこの国のお粗末さ

 



taiwan14.jpg台湾の花蓮で4月3日にマグニチュード7.7の大きな地震があった。ビルが傾いたりして被害の大きさが報道された。僕は2012年に台湾一周旅行をして、花蓮にも数日滞在し、太魯閣峡谷に出かけている。海でできた分厚い石灰岩が大理石に変成し、隆起した後に、長い年月をかけて雨によって削られた場所で、何千万年という時間が作り出した絶景だった。ところがこの地震で一番人的被害が多かったのがこの地域で、がけ崩れで埋まった人やトンネルに取り残された人、あるいは交通遮断で孤立した人たちなどが多数いたのである。一度行ってその景観に圧倒されただけに、その峡谷が崩壊したらと考えただけで恐ろしくなった。

しかし、もっと驚いたのは花蓮で避難所を設置する様子で、それほど時間が経っていないのに、体育館にずらっと個室が並んでいたのである。まだ被災者がほとんどいないのに食べ物や衣料など、必要なものも整えられているという報道だった。日本では正月に能登の地震があって、相変わらずの体育館に雑魚寝の様子が伝えられていたから、その違いに驚かされた。

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花蓮は最近でも2018年と22年に大きな地震に見舞われていて、その度に大きな被害を受けている。だから地震に対する備えが出来ていたのだろう。報道では、台湾の災害対応は1999年の地震以後に日本から学んだということだった。花蓮では2018年の地震でうまく対応できなかったことを反省して、必要なものの備蓄を整え、人々の訓練も行われてきたと報じられた。傾いたビルの撤去がすぐに始まったことにも感心させられた。花蓮では23日にも大きな余震があってビルが傾くなどの被害があった。おそらくまた迅速な対応をしているのだと思う。

ところが日本では能登地震から4ヶ月が過ぎようとしているのに、未だに避難所生活をしている人がいる。家が住める状態だとしても、上下水道が普及していないところが多いようだ。仮設住宅の建設もほとんど進んでいないのである。倒壊した建物や、破損したクルマがそのままに取り残された光景を見ると、4ヶ月も経っているのに、いったい何をしているんだろうと怒りたくなる。

もっともテレビは、そんな普及の遅さを批判的に伝えたりはしない。水道が使えないのにレストランやカフェを営業しているなどといった事例を美談のようにして紹介するものが多いのである。政府や県の対応のまずさ、というよりはやる気のなさが目立つのに、強く批判するメディアがほとんどないという現状には呆れるばかりである。ネットでフリーのジャーナリストの現地報告を何度か聞いたが、能登の人たちがまさに棄民状態に置かれたままであることを一様に話していた。被災した人たちの政府や自治体、そしてメディアに対する不信感はかなりのものようだ。政治もダメだがジャーナリズムもダメ。この国のお粗末さは、いったいどこまでひどくなるのだろうかと空恐ろしくなる。


目次 2024

4月

29日 地震対応に見るこの国のお粗末さ  

22日 散々な一日  

15日 エドワード・E.サイード 『オスロからイラクへ』『遠い場所の記憶 自伝』  

8日 大谷騒動とメディア  

1日 ライブの記録はいつからOKになったのか 

3月

25日 春よ来い! 

18日 株だけが高いのはなぜ?  

11日 「山を歩く」は意外なこと 

4日 深澤遊『枯木ワンダーランド』築地書館  

2月

26日 TVにもの申す市民ネットワークを  

19日 小澤征爾逝く  

12日 原木入手と倒木騒ぎ  

5日 国政を改革する法律は国会議員には作れない  

1月

29日 災害対応のお粗末さに想うこと  

22日 中村文則『列』(講談社) 

15日 お正月に見た映画  

8日 ビリー・ジョエルが東京ドームでやるそうだ  

1日 また一つ歳をとった


2024年4月22日月曜日

散々な一日

 

河口湖の桜が満開になりました。自転車で湖畔一周と行きたかったのですが、ちょっと前から軽いぎっくり腰になってしまいました。その前も、雨が多くて、なかなか行ける日がなかったのです。腰の痛みもだいぶ取れ、天気も良かったので、一ヶ月ぶりに自転車に乗りました。ところが湖畔は人やクルマで大賑わいで、渋滞箇所もあちこちにあって、すいすいとはいけない状態でした。

止まっているクルマの脇を通り抜けようとした時に、溝にはまってこけてしまいました。足の擦り傷ぐらいでたいしたことはなかったのですが、タイツは破けてしまいました。クルマに乗っていた人が驚いて、「大丈夫ですか?」と声をかけてきて、かなり驚かしてしまっただろうと思いました。少し血が出ていましたが家に帰って、傷の手当てをしていると、肩が痛くなってきました。自転車は何ともなかったですし、この程度ですんでよかったと思ったのですが、自転車はしばらくやめることにしました。

virus1.jpg 夜になると肩の痛みがだんだんひどくなったのですが、パソコン(iMac)を開けるといきなり、画面がフリーズして、「あなたのパソコンに『トロイの木馬』というウィルスが侵入しました。すぐにAppleセンターに電話をしてください」という表示が出てきました。35年近くパソコンを使ってきましたが、ウィルスにやられたことはありませんでした。そこで疑えばよかったのですが、画面にある電話番号に電話をしてしまいました。

するとインド訛りの日本語を話す人が出て、「すぐに対応しないとパソコンが壊れます」と脅してきました。どうしたらいいと聞くと、修理に3万円かかります。至急コンビニで払ってくれれば直しますという返事でした。それでこれは怪しいと思い、いろいろやり取りをしましたが、相手はコンビニで3万円を繰り返すばかりでした。Appleはそんなことでお金の請求をするはずがありません。そう言って、コンビニに行く気はないとこちらも繰り返すと、結局相手が諦め、「30分後に再起動したら戻ります」と言って電話を切りました。再起動すると、確かに何事もなかったように立ち上がりました。

ほっと一安心ですが、パソコンのデータを抜き取られたのではと心配になりました。そこでAppleのサポートに電話をして、相談することにしました。待ち時間が長かったですが、親切に対応してくれ、まあ大丈夫だろうということになりました。ところが一緒に立ち上げていたMacbookがフリーズして動かなくなっていました。Apple サポートと画面を共有する作業をしている時にiMacではなく、Macbookが反応していましたから、これが原因だろうと思いました、もういちどAppleに電話をしたのですが、すでに9時を過ぎていて終了していました。この間、肩の痛みは忘れていたのですが、寝る時に寝返りできず、痛くて何度も目を覚ましました。散々な目に遭った一日でした。

翌朝もう一度、Apple に電話をしました。Macbookのフリーズは相談する直前に直ったのですが、他にもう一つ、古いIDで買ったソフトが更新できなくなったという問題がありました。詳細は省きますが、共有画面にして長時間あれこれ試みて、うまくいきました。こういう時のAppleの相談員は丁寧で感心します。それにしてもiMacは2012年製で、システムの更新もありません。主な使用はMacbookにしなければと思うのですが、大きな画面に馴れているのでなかなか決断できないのです。


2024年4月15日月曜日

エドワード・E.サイード 『オスロからイラクへ』『遠い場所の記憶 自伝』みすず書房

 

ハマスのイスラエル襲撃以来、パレスチナのガザ地区攻撃が半年も続いている。すでに3万人以上の死者が出て、建物の半数以上が破壊され、人口の7割以上が難民となり、食糧危機の中にあるという。ハマスによってイスラエルにも多くの死者が出て、人質にもとられているとは言え、これほどの仕打ちをするのはなぜなのか。そんな疑問を感じてサイードの本を読み直すことにした。

said1.jpg エドワード・E.サイードは『オリエンタリズム』や『文化と帝国主義』などで知られている。そして、パレスチナ人であることから、イスラエルとパレスチナの関係については両者に対して鋭い批判を繰り返してきた。『オスロからイラクへ』は、彼の死の直前まで書かれたものである。それを読むと、現在のような事態が、これまでに何度となく繰り返されてきたことがよくわかる。このアラブ系の新聞に連載された記事は1990年代から始まっているが、この本に記載されているのは2000年9月から2003年7月までである。

題名にある「オスロ」は、1993年にノルウェイの仲介で締結された「オスロ合意」を指している。「イラク」は2001年9月に起きた「アメリカ同時テロ事件」と、その後に敵視されて攻撃され、フセイン政権が倒されたことである。「オスロ合意」はイスラエルの建国以来続いていた紛争の終結をめざして、イスラエルを国家、パレスチナを自治政府として相互が認めることに合意したものだった。この功績を讚えてパレスチナのアラファト議長、イスラエルのラビン首相、ペレス外相にノーベル平和賞が授与されたが、紛争はそれ以後も続いた。サイードはこの合意を強く批判した。イスラエルは建国以来、パレスチナの領土を占領し、住居を破壊し、それに抵抗する人たちを殺傷してきたが、アラファトがそれを不問に付したからだった。

そんなイスラエルの横暴に対して、パレスチナは2000年9月に2度目の「インティファーダ(民衆蜂起)」を行った。この本はまさに、そこから始まっていて、イスラエルの過剰な報復を非難し、また「インティファーダ」の愚かさを批判している。アメリカで同時多発テロが起こると、イスラエルはパレスチナを同類と見て、いっそうの攻撃をするようになる。白血病を患って闘病中であるにもかかわらず、それに対するサイードの論調は激しさを増していく。サイードの批判の矛先は、イスラエルの後ろ盾になっているアメリカ政府と、パレスチナの現状を無視したアメリカのメディアにも向けられている。しかし、彼の声は、アラブ系の雑誌であるために、アメリカにもヨーロッパにも届かない。

said2.jpg サイードはパレスチナ人でエルサレムに生まれているが、実業家として成功した父のもとで、エジプトやレバノンで少年期を過ごしている。父親がアメリカ国籍を取得したために、エドワードもアメリカ国籍となり、エジプトのアメリカン・スクールに通って、プリンストン大学に進学し、ハーバードで博士号を取得している。『遠い場所の記憶』はそんな少年時代から大学を卒業するまでのことを、主に父母との関係や親戚家族との暮らしを中心に語られている。豊かなパレスチナ人の家庭で成長し、イスラエルの建国を少年期に体験して、アメリカ人として大人になった。そんな複雑な成り立ちを辿りながら、絶えず見据えているのは「パレスチナ」の地と、そこに暮らし、悲惨な目に遭い続けている人びとのことである。

この2冊を通してサイードが思い描き、力説し続けているのは、ユダヤ人とパレスチナ人が共生しあって作る一つの国家である。それは夢物語だと批判され続けるが、それ以外には解決の道がないことも事実だろう。サイードが亡くなってからすでに四半世紀が過ぎて、また同じ殺戮が繰り返されている。もう絶望しかない状況だが、それでも、サイードが生きていたら、「共生」にしか未来の光がないことを繰り返すだろう。そんなふうに思いながら読んだ。

2024年4月8日月曜日

大谷騒動とメディア

 

メジャーリーグが始まったが、今年は今一つ、楽しめていない。理由は言うまでもなく、水原一平通訳が起こした出来事だ。振りかえれば、大谷選手の移籍の動向以来、ネットもテレビも大騒ぎだった。確実な情報がほとんど出ないから、憶測記事が氾濫して、それがドジャースに決まるまで続いた。ロスからトロントに向かう飛行機に大谷が乗っているのではといった記事が出て、それが間違いだったと訂正されて、大谷獲得を狙う球団やファンを大慌てさせたりした。

このあたりのニュースはネットの方がはるかににぎやかだったが、入団会見から山本投手のドジャース移籍、そしてキャンプ開始になると、テレビのワイドショーはもちろん、ニュース番組までが、大きく取り上げたから、もういい加減にしろよと言いたくなった。で、結婚していることの突然の発表である。その日は国会で政倫審の中継があったが、NHKは放送中に大谷選手結婚のニュースをテロップで流したのである。実際、国会もすっ飛ぶ話題で、その日の報道番組は、その話で持ちきりだった。

ohtani5.jpg 結婚相手は「普通の日本人の女性」という以外明かされなかったが、ネットではすぐに、バスケットの選手ではないかといった記事が載るようになった。それがほぼ確実だとわかっても、テレビはそのことを明示しなかった。大谷選手の機嫌を損ねてはいけないという配慮だったのだろう。開幕戦は韓国のソウルでパドレスとおこなう。それに向けて飛行機に乗る画像を大谷選手がインスタグラムに載せ、そこに結婚相手も写されていた。で、田中真美子さんという名前であることが明らかになった。

ここまでは、大谷選手のメディア操作は見事だったが、初戦のダルビッシュや松井との対決で盛り上がった後、一夜明けて、大変なニュースが飛び込んできた。水原通訳がドジャースを解雇されたという目を疑うような見出しだった。ギャンブルにのめり込んでいて、大谷の口座から450万ドルあまりを盗んで返済に充てていたというのである。そこから後の騒ぎは、もう大谷の手に負えるものではなく、野球の試合そっちのけで、さまざまな憶測記事が氾濫することになった。

アメリカに戻って、大谷選手が事の経緯を自ら発表すると、日本ではそれを信じて納得するという論調が多かった。しかしアメリカでは邪推も含めて、批判的な記事が多く出た。水原元通訳についても、経歴にあった大学に在籍した記録がないといった記事が出て、実は通訳としても有能ではなかったなどとも言われるようになった。ギャンブルにのめり込んだのは大谷で、水原はスケープゴーツにさせられたのではといった憶測も出て、アメリカではもう手に負えない感じだが、日本ではメディアもネットも、大谷を批判する発言は目立っていない。

アメリカに戻ってからも、彼はすべての試合に出て、ベンチでも明るく振る舞っている。しかし、信頼していた相棒が裏切りという形でいなくなって、その一端は彼にも責任があるのだから、心中は穏やかではないだろう。ホームランが出なくたって無理もない。そう思って見ていたら、9試合目でやっと出た。するとシカゴに遠征した試合でもう一本。日本人選手4人が出るシリーズで、しかも4人とも大活躍だった。もっともっとやってほしいが、あまりに派手になると、ジャパン・バッシングが起こるかも知れないといった心配もしてしまう。大谷選手にまつわる報道には、嫉みや人種差別を感じるものが少なくないからである。


2024年4月1日月曜日

ライブの記録はいつからOKになったのか

 
ビリー・ジョエルの東京ドームでのライブについては、以前にこのコラムで書いた。忘れていたのだが、その当日にYouTubeですぐにアップされていて、あー、そうだったと思い出した。もちろん、客席からの録画で、音もこもっていて良くはなかったが、今終わったばかりのライブなのにと驚いて、その様子を最後まで見た。しかも、アップされているのは複数で、中には公認といったことばが入っているものもあった。

自分で録画したライブをYouTubeに許可なく載せることは、今でも違法だと思うが、いったいいつから、ライブでの録画が許されるようになったのだろうか。そんな疑問を感じて調べて見ると、日本では今でも、アーティストや主催者が認めた場合を除き、原則禁止になっているようだ。ただし、スマホを会場内に持ち込めないようにすることはできないから、電源を切って録画しないようアナウンスするしかないようだ。

densuke1.jpg僕が良くコンサートに出かけたのは京都に住んでいた1990年代までだった。会場の入り口で、テープレコーダーやビデオカメラを持っていないか、手荷物をチェックされたことが何度かあったと記憶している。今覚えているのは、京都の円山音楽堂で、一緒に行った友人が「ビデオでんすけ」で録画していて、係員に注意されてやめたことだった。多分70年代で、その大きくて重たいビデオカメラはあまりに目立ちすぎたのだが、それを会場に持ち込んで録画しても大丈夫だと思っていたのだ。そんな機材を持っている人はごく少数で、当時は普及しているのは、カメラを除けば、録音できるラジカセぐらいだった。もちろん、その時代には公にする手段もなかったから、あくまで個人的に楽しむために限られていた。

walkman1.jpg録音や録画が厳しく禁止されるようになったのは、レコードがCDに代わった80年代初めからだったのかもしれない。その頃にはウォークマンやハンディタイプのビデオカメラも普及して、誰もがどこでも気軽に録音や録画ができるようになった。もっとも、有名なミュージシャンのライブを無断で録音した海賊版と呼ばれたレコードは古くからあって、僕もボブ・ディランの伝説的なライブを何枚も買った。極めて悪い音が大半だったが、中にはレコード会社が録音したものが流出したと思えるようなものもあった。ディランの海賊版は、のちに正規の形でほとんど発表されていて、僕もそのほとんどを購入した。

ところで、ライブとYouTubeの関係だが、オフィシャルなものはもちろん、そうではない違法なものも多く蓄積されていて、ミュージシャンの名前で検索すると、大昔のものから最近のものまで、山のように出てくるのが珍しくない。これではライブ盤など出しても売れないだろうと思うが、ミュージシャンにとっては、それが宣伝効果として有効だと判断される場合があるのかも知れない。実際、ビリー・ジョエルについては、正規に記録されたと思えるライブがいくつもあって、東京ドームについても、すぐにアップされていたのだった。

2024年3月25日月曜日

春よ来い!

 

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forest199-2.jpg 2月が暖かかったから、去年と同じで、ストーブがいらなくなるし、桜も早く咲くだろう。と、思っていたら、2月の末から一転して、寒い日が続き、何度も雪が降った。薪割りで腕を痛めているのに、何度も雪かきをしたから、未だに痛みは消えていない。薪の備蓄は十分とは言え、買った薪を燃やすのはもったいないからと、秋に裏山で集めた倒木を燃やすことにした。そうすると乾いていて良く燃えるではないか。ただし、カビやら粘菌やらでスカスカになっているから、あっという間に燃え尽きてしまう。ストーブの脇に山のように積んでも、1日持たずにまた追加ということになった。おかげで、アルプス積みをした薪を崩して、スペースのできた家のまわりに移動させることができた。雨ざらしにすれば、カビが生えてしまうからだ。

izunagaoka01.jpg クルマが戻ってきたので、久しぶりに遠出をした。暖かい伊豆に行ったのだが高速道路の上をまたぐようにして山の上まで続くロープウエイを見つけて乗ることにした。葛城山で、頂上からは駿河湾が眺望できた。あいにく富士山は雲に隠れていたが、途中で濃い霧に出会っていたから、海が見えただけでも幸運だった。高いところが苦手な僕には乗っている時間が長くてちょっと怖かったが、久しぶりの遠出を楽しむことができた。

forest199-3.jpg クルマは戻ったが、レンタカーを3月初めまで借りていたので、しばらくは返さずに置くことにした。しかし雪がよく降るし、木の枝が落ちて危ないので、もったいないが返すことにした。軽自動車に2ヶ月乗った体験はいずれ書くつもりだが、近場で乗るにはこれで十分だと思った。甲府まで2台で行って、帰りは少し遠回りをしたが、クルマの大きさと重さを改めて実感した。これでは燃費が違うのもうなづける。次はもうちょっと小さくて軽いクルマにしよう、そんなことを感じた経験になった。

forest199-4.jpg ところで、隣地の赤松が折れたことで、家の周囲の木々がいっそう気になるようになった。で、松が折れたのとは違う隣地を買って伐採しようかと思い立って、地元の不動産屋さんに話をした。持ち主は代替わりがして子どもが三人で相続していると言う。面倒だが交渉してもらって、何とか買うことができた。買った時の4分の一の価格で驚いていたようだが、おそらく僕が買わなければ売れないだろう。契約はまだしていないが、済んだら危ない木を伐採しようと思っている。僕にしても、特にほしいわけではなく、危ないからというのが一番の理由だったのである。もっとも、原木を置いたり薪を積んだりして使っていた土地だから、黙って使うことに多少の後ろめたさもあった。

2024年3月18日月曜日

株だけが高いのはなぜ?

 



kabuka.gif 日本の株価がバブル期を超えたと大騒ぎになった。これまでの最高値は1989年の12月29日につけた3万8957円44銭で、これはバブルがはじける直前に出た値である。株価はその後急落して2003年の4月には7607円88銭まで落ち込んでいる。その後少し持ち直したものの、リーマンショックや民主党政権の成立で1万円以下で推移し、安倍政権誕生とともに急上昇を始めて、2万円を超える額になった。それが21年には2万5000円、23年5月に3万円を超え、この3月には一時4万円を超えたのである。

en.gif 株価については円と関係があって、株が上がれば円安になり、円高になれば株が下がるといった特徴がある。これは日本の経済が輸出に依存しているからで、円安になれば輸出産業の売り上げが増すと予測されるからである。その円のレートは80年代の前半は1ドル200円台で推移していたが、後半には急激な円高になって、株が最高値をつけた89年には130円前後になっている。バブルがはじけて株が急落しても、円は100円台の前半を推移して、民主党政権が成立した2010年以降には円高が進んで2013年には79円になった。それが円安に転じるのは安倍政権以降のことである。

このような経過をグラフで見ると株価と円の関係が対照的になるのは安倍政権以降であることが分かる。株価が上がったのは「アベノミクス」によるもので、そこには日銀や年金機構が株価を買い支えるといった操作が顕著であった。実際国内の最大の株主は日銀で、保有する時価は70兆円で、年金機構の額も30兆円以上だと言われている。これは日本の株式全体の6分の1にもなる額で、極めて不自然なものである。もう一つ、円安を誘導したのが日銀のゼロ金利、さらにはマイナス金利政策であったことも加えておく必要がある。

日本の経済の実態はバブル期を境に下がり続けていて、失われた30年と言われている。日本のGDPが戦後の経済復興によってアメリカに次いで世界2位になったのは1968年のことである。それが2010年には中国に抜かれ、去年の23年にはドイツに抜かれて4位に下がった。新興のインドが急速な経済成長を遂げているから、そこにも抜かれて5位になるのは時間の問題だと言われている。あるいは、一人当たりのGDPで言えば、日本はすでに先進7カ国の最低で、世界全体では37位に下がっていて、韓国と台湾にはさまれた位置にある。

このように見れば、現在の株高が経済の実態とはかけ離れたものであることがわかるだろう。最近の円安がインバウンド増の要因と言われているが、円そのものの値よりは、この30年間、物価が上がらなかったことで、日本にやって来る人には、何でも安いと感じられるからである。もちろん、その間、個人収入もほとんど増えていないし、パートやアルバイト、あるいは契約といった形で働く人が増えて、貧富の格差が大きくなっているのである。株高が外国人投資家によるとも言われているが、そこにもやはり、割安感があるのだろう。

現在の株高は、日本の経済とは関係ないものだから、いずれは暴落すると言う人もいる。ゼロ金利政策を是正したい日銀は、株価が急落しないようにして、それを改めなければいけないが、それはおそらく至難の業である。もっとも日銀は国債の5割以上を保有しているから、金利をマイナスから0、そしてプラスに上げれば、今度はその利子の支払いに苦慮することになる。それもこれも「アベノミクス」が招いたことだから、安倍元首相の罪はとんでもなく大きいのである。


2024年3月11日月曜日

「山を歩く」は意外なこと

 

miyake1.jpg 大学院の頃からの友達が、突然冊子を送ってきました。題名は『山を歩く』で、思わず、「え!どういうこと?」と口走ってしまいました。何しろ、彼が山を歩くことなどは、まったく想像がつかないことだったのです。昨年の春先のことです。で、今年も2023年の山歩きの記録が届きました。僕より三つほど若いですが、70歳の山歩き初体験ということでしょうか。しかし、月一回の割で歩いているようですから、もうすっかり板についたことだろうと思います。

友達は三宅広明さんといいます。大学院を出た後、学校の先生として淡路島や神戸で働いて、退職後に山歩きに目覚めたのですが、きっかけは山歩きの好きな友人に誘われたことだったようです。明石に住んでいますから、歩くのはもっぱら近隣の山で、僕にはほとんど馴染みがありませんでした。けれども、初めて山を歩いて、木々や花々にふれ、生き物の気配を感じ、高いところからの景色を眺めて感激している様子は、十分に想像することができました。

山歩きはいつも三人で行っているようです。気心が知れた仲間なんでしょうね。連れ立って何かをすることが苦手な僕にはできないことだと思いました。僕はいつもパートナーと一緒に山歩きをしてきましたが、彼女の体力が衰えて、前には登ったところにも行けなくなりました。誰か連れがいたら、まだまだ行きたいところはあるのにと、うらやましく思いながら読みました。

ちなみに、去年歩いたのも羽束山(三田市)、編妙の滝(神崎郡)、天下台山(相生市)。摩耶山(神戸市)など家から日帰りできるところがほとんどですが、木曽駒ケ岳に挑戦したようです。もっとも彼以外の二人はアルプスにも良く上る登山家のようで、彼だけが3000mも、山小屋泊まりも初めてだったようです。「よく歩く六甲山が931m、これまでで一番高い山が氷ノ山の1510mという具合。日本アルプスにどんな山があるのやら、どんな景色が見えるのか、全く知らず、関心も持たずにずっと生きてきたわけで」と書いていますが、千畳敷カールの高山植物や、雷鳥のひな、そして山頂に登って見える山々に、大パノラマだといって感激しています。

僕は木曽駒ケ岳はロープウエイで行ける千畳敷カールまででしたが、御嶽山には登りました。だから彼が見た周囲の山の様子は僕にもわかりました。もちろん大噴火で多くの人が命を落とす前のことでした。この冊子を読みながら、息子と登った富士山や、友達だけが登って、僕とパートナーは途中の駒津峰であきらめた甲斐駒ケ岳のこと、そして昨年亡くなった義兄と登った磐梯山などを次々と思い出しました。そのうち彼とも一緒に歩きたいものだと思いました。




2024年3月4日月曜日

深澤遊『枯木ワンダーランド』築地書館

 

kareki1.jpg 原木を買って薪にしたり、倒木を探すことが多いから、『枯木ワンダーランド』という題名は気になった。確かに、木にはいろいろな生き物が寄生している。苔や地衣類がついているし、キノコや粘菌などもある。それに雨ざらしにしておくと、さまざまな色のカビも生えてくる。それぞれの名前などほとんどわからないから、それを教えてくれるかもしれない。そんな程度のつもりで読み始めたのだが、とんでもない世界に誘い込まれることになった。

『枯木ワンダーランド』は専門家しか読まない論文ではない。あくまで一般書として書かれたものだが、全体の3割ぐらいしかわからない難物だった。けれども、途中でやめる気はなく、何とか最後まで読んだ。それはわからないなりに、一本の枯木とその周辺の世界の複雑さや多様さ、あるいはダイナミズムを教えてくれたからだ。

『枯木ワンダーランド』に登場するのはコケ、粘菌(変形菌)、キノコ、腐生ランであり、リスなどの動物と昆虫、そしてバクテリアなどである。一本の枯れ木は腐って、やがて土に帰るのだが、そこにはシロアリやナメクジがいて、キノコやコケや地衣類が生えている。ここまでは目でも見える。しかしコケには窒素固定バクテリアが共生していて、その腐朽菌には枯木を白色にするものと褐色にする2種類があるといった話になると、かなりわかりにくくなる。しかも、変形菌の種類がこの白と褐色の腐朽菌によって色分けされるというのである。ここまでくると、もう想像の世界になって、目の前にある枯れ木や倒木を見てもわからなくなる。

植物も生き物であるから、自然環境から受ける試練を乗り越えて生き延びる必要がある。そのためには経験を蓄積しておく記憶装置がいるし、仲間とコミュニケーションをする必要もある。しかし、動物のような脳や神経組織があるわけではない。たとえばキノコは外に見える姿はかりそめで、実際には地中にある菌糸が本体だと書いてあった。さらにその菌糸体はネットワークのように広がって、数ヘクタールにもなるというのである。まるで巨大な神経組織や脳そのもののようなのである。キノコには食べられるものと毒のあるものがあって、その見分けが難しい。そんな程度の知識しかなかったぼくにとっては、まさにワンダーランドを覗くような思いになった。

この本にはこんな話が次々出てくるが、後半は地球環境へと視点が向いていく。雑木の生えた森と違って人工林は杉や檜などで覆われている。それは切り出されてしまうから、倒木はあまり残らない。だからコケも粘菌も生きにくい世界になっている。そして病気や虫の害によって枯れれば、森全体がなくなってしまうことになる。あるいは山火事や台風などもあって、世界から森がなくなる危険がますます増してきているのである。

ではどうしたらいいか。この点でも、目から鱗の話が多かった。人工林を間伐した木が放置されていると、森の手入れができていないと思うが、著者は枯木や倒木を残した方がいいという。それが炭素の貯蔵庫になるからだというのである。もちろん、それに寄生する生き物の住みかを奪わないことにもなる。そうすると、倒木を集めて薪にしているぼくの行動は、森にとってはいけないことだということになる。それはバイオマスにも、よく手入れされた里山にも言えることのようだ。見栄えのいい森にしたり、木を有効活用することと、森に炭素を蓄積させることは、実際には両立しにくいことだからである。温暖化を食い止めるためには、枯れ木が作るワンダーランドこそ大事にしなければならない。それがよくわかった一冊だった。

2024年2月26日月曜日

TVにもの申す市民ネットワークを

 

テレビがひどいことについては、このコラムでも何年も前からくり返してきた。しかしますますひどくなるばかりで、もう取りあげる気にもならないのが現状だ。しかも、ジャニーズや吉本関連など、TV自体がスキャンダルに深く関わっているのに、そのことについて、まともに発言すらしないのである。ぼくはそんなテレビに絶望しているが、何とか生き返らせようとして立ち上がった人たちがいる。

「テレビ輝け!市民ネットワーク」は田中優子、前川喜平などが中心になって始めた運動である。その趣旨は、1)報道機関としてのテレビに本来の役割を果たさせることで、具体的には、2)株主提案権の行使という取り組みにあって、テレビ朝日の株を3万株(約6000万円)購入して、株主総会で株主提案を行うのである。テレビ朝日をターゲットにしたのは「報道ステーション」におけるコメンテーターやスタッフの降板を、テレビ報道の危機の典型としているからである。

テレビに対する権力の圧力は安倍政権から強くなった。批判的なキャスターやコメンテーターが降ろされ、提灯持ち的な人が大きな顔をするようになって久しい。それはもちろん、テレビ朝日に限らないし、民放よりは NHKの方がもっとひどいと言えるだろう。だから今度の動きは、テレビ朝日をとっかかりにして、他の民放、そしてNHKに広げていくという流れを狙う、その第一歩なのである。

その共同記者会見で前川氏は「経営側は番組の制作や報道の自由に余計なことをするな、外部の権力に忖度や迎合をするなと。権力には政治権力もあるが、民間もある。ジャニーズ事務所や吉本興業は民間の権力。そういうのに忖度するのもいかん。放送事業者の独立性を担保する」と発言した。この会は前川喜平を社外取締役として推薦することも予定しているが、テレビ朝日がこの動きにどう対応するかは見ものだろう。その株主総会は6月に開催される。

もちろん、これだけでは動きは単発に終わってしまう。おそらくテレビ各局は、これをニュースとして報道することをいやがるだろう。テレビ局と新聞社は「クロスオーナーシップ」(相互依存)で繋がっているから、当たり障りのない取り上げ方しかしないに違いない。だから、つづけて他の民放でも同じような動きをしていく必要がある。果たして賛同者が増えて、大きな運動になるのだろうか。

1年ほど前に会長の任期満了を控えたNHKに前川喜平を会長にという動きがあった。 NHKの会長は公選ではなく経営委員会が任命するから、現実的には不可能なことだったが、ある程度の話題にはなった。今回の市民ネットワークの動きはこれにつづくものだったのだろう。その意味では一時的なものではなく、これからも持続する動きを狙っているはずである。テレビが輝きを取り戻すことなど期待しないが、せめて膿を出すぐらいの力にはなって欲しいと思う。

2024年2月19日月曜日

小澤征爾逝く

 

ozawa1.jpg"小澤征爾が亡くなった。ぼくはクラシック音楽をほとんど聴かないし、彼のレコードやCDも持っていない。けれども彼に対する関心はあって、ずい分やせ衰えた最近の姿は気になっていた。
小澤征爾は斎藤秀雄に師事し、24歳の時にヨーロッパに武者修行に出かけている。その指揮者としての才能がすぐに認められ、いくつもの賞を取り、カラヤンやミンシュ、そしてバーンスタインといった巨匠に師事することになる。その勢いでNHK交響楽団の指揮者に招かれるのだが、その指揮者としての立ち居振る舞いを楽団員から批判され、演奏をボイコットされることになる。以後彼は、日本を去って音楽活動を海外に求めることになるのである。

ぼくはこの出来事について、音楽に限らずスポーツなどで海外に出向き、成功した人がしばしば経験する、やっかみや拒絶反応を最初に味わった人だと思っていた。それは帰国子女に対する扱いにも共通する、未だに改まらない日本人の島国根性なのだろう。それでつぶされる人もいるが、中には世界的に認められた超一流の存在になる人もいる。そうなると、最近の大谷翔平選手のように、今度は一転して、まるで英雄か神様のように扱うのもまた、相変わらずの現象である。

小澤征爾は1973年から30年近くをボストン交響楽団の音楽監督として活動した。しかし国内においても、1984年から師を偲んで「斎藤秀雄メモリアルコンサート」を国内で開き、「斎藤記念オーケストラ」を結成して、松本市などでのコンサートを定期的に行ってきた。YouTubeを検索すると、さまざまな場での活躍を見ることができるが、おもしろいのは、コンサートそのものではなく、そのリハーサル場面を収録したものである。彼は事細かに楽団員に指示し、そのたびに理由を明確に伝え、時には楽団員の意見を聞きながら、一つの作品を仕上げていく。そのやり方は、一流の演奏家に対しても、小学生に対しても変わらないのである。

クラシック音楽に疎いぼくには、指揮者は単に飾り物にしか見えなかった。小澤征爾の指揮者としてのパフォーマンスは独特で見栄えがいい。そこにカリスマ性を見る人もいて、彼の評価は何よりそこにあるのだろうと思っていた。しかし彼のリハーサル風景を見て、指揮者は脚本をもとに舞台を作り上げる演出家であり、なおかつコンサートの場で聴衆の視線を一点に集中させる主役的な存在であることを改めて認識させられた。

小澤征爾が20世紀後半から21世紀にかけて、世界を股にかけて痛快に生きた人であることは間違いない。とは言え、申し訳ないが、彼の死をきっかけにして、彼が指揮した作品を改めて聴いてみようかという気にはなっていない。彼の指揮した音楽が、他とは違っていることが、やっぱりぼくにはよくわからないからである。クラシック音楽音痴としては、彼の魅力はやっぱり、その生き様と立ち居振る舞いにある。

2024年2月12日月曜日

原木入手と倒木騒ぎ

 

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朝ストーブの掃除をしようと思ったら、ガラスにひびが入っている。ストーブ屋さんはあいにく正月休みでしばらく直せない。で一週間ほど、おそるおそる使って、交換してもらった。ねじが固着してガラスを外すことができなかったので、扉ごと持って出かけた。取れないヤニでくすんでいたから、きれいになったガラス越しに見る炎の美しさに見とれてしまった。やっぱりストーブはいいと思ったが、何より心配なのは薪集めだった。


forest198-3.jpg ところが知人が突然やってきて、薪にする木があるがいらないかと言う。久しぶりに会う人だったし、耳を疑うような話だったが、本当なら願ったり叶ったりで、即座に要りますと返事をした。そうするとトラックで何度も運んでくれて、ご覧のような量になった。
さっそくチェーンソーで玉切りにして積んだが、なまっていた腕が筋肉痛になった。すべて玉切りするのに数日かかり、それを斧で割って、上のように積み上げるのにさらに一週間以上。まだ終わっていないが、半月ほどで何とか片づけることができた。背後に見えるのは、倒木を割った薪だ。これで再来年ぐらいまで何とかなるだろう。ちょうど誕生日のプレゼントのようで感謝、感謝!!。ぼくのホームページを見てくれていて、薪不足を気にかけてくれたようだった。

forest198-4.jpg しかし、いいことばかりではない。強風が吹いた夜に隣地の赤松が折れて、我が家の桜の木に引っかかって宙ぶらりんになった。さっそく持ち主に連絡しようと地元の不動産屋さんに電話をして調べてもらった。そうすると所有者は東京の不動産屋だと言う。電話をして状況を説明すると、すぐにこの地区の管理をする会社から電話があった。しかし、この管理会社は下水道だけの扱いで対応できないというので、また不動産屋に電話をした。受け答えに何かいい加減な感じがしたが、どう対応するか、しばらく待つことにした。

forest198-5.jpg けれども一週間経っても何の動きもない。そこで怒鳴るように電話をして、やっと伐採業者に頼むということになった。悪徳とは言わないが、要領を得ないし不誠実きわまりなくて、不快な思いをした。
こんな調子で仕事をしている会社はまったく信用できないと、つくづく感じた。
伐採には3人がやってきて、およそ2時間ほどかけて片づけてくれた。枝が絡まっていたから、専門業者でも手こずっていた。やれやれ、ご苦労さんでした。


forest198-6.jpg そんな1月が過ぎて2月になると、この冬初めて、本格的な雪が降った。倒木騒ぎも片付き、薪割りもほぼ終わったところだったから、助かった。さらに、3月までかかると言われていた車の修理が、数日中に終わるという連絡も入った。何か宿題が終わった後のような、ほっとした気分で久しぶりの雪かきをやり、雪だるまを作った。
車も戻ったことだし、どこか遠出をしようかな。

2024年2月5日月曜日

国政を改革する法律は国会議員には作れない

 

自民党の安倍派を中心にしたパーティ収入のキックバックの問題は、大山鳴動ネズミ一匹で、収束してしまった。数名の議員と会計責任者の逮捕でしかなかったのだが、自民党は刷新改革と称して、派閥の解消でやり過ごそうとしている。しかし問題は自民党の改革ではなく、議員の不正行為については議員自身に罪を負わせる連座制を法律に定めることにある。もっともパーティで得た収入を裏金にしたのは脱税だから、やる気になれば検察は有力議員の逮捕に踏み込めたはずだが、それをしなかったのは、政権に忖度をしたといわれても仕方がないだろう。

日本の国政は衆議院と参議院の二院政で、定数はそれぞれ480人と242人である。この数は決して多くはない。と言うよりはOECDの中ではアメリカに次いで少なく、100万人あたり3.7人である。ちなみに韓国は6.2人、イギリス、イタリアは10.4人で、北欧諸国は30人台で、一番多いのはアイスランドの210人である。しかし、私利私欲に走る国会議員ばかりが目立つから、議員が多すぎると感じてしまう。

国会は立法機関で、さまざまな法律を決めることを主な仕事にしている。しかし、安倍政権以降、行政機関である内閣が「閣議決定」を連発して国会軽視の姿勢を取りつづけている。実際安倍首相は「私は立法府の長」と言い放ったのである。衆議院も参議院も自公の安定多数だから、国会の採決に任せたって政権の意向通りになるのだが、国会での議論もすっ飛ばしてしまえという傲慢な姿勢が、10年以上もつづいているのである。これでは国会議員は無用の長物になってしまっている。

ろくに仕事をしていないのに、歳費は高く、活動費などももらい、議員一人あたりの収入は4000万円を超えるようだ。もちろん、新幹線のグリーンや飛行機もただである。この額はシンガポール、ナイジェリアに次いで世界第3位で、アメリカの2倍、イギリスの3倍である。このお金にはもちろん、税金が使われているが、政党にはそのほかに「政党助成金」が交付されていて、総額は300億円を越えている。他方で、国民の平均収入はバブル崩壊以降停滞しつづけていて、OECD34カ国の中で20位以下に落ちているから、議員の収入の多さが一層際立つのである。

にもかかわらず、自民党の議員はパーティと称して企業献金を集め、それを明記せずに隠し金を蓄えてきた。さまざまな面で、日本が今難しい状況におかれていて、それを解決するために働かなければいけないのに、やっているのは「今だけ金だけ自分だけ」なのである。今肝心なのは、議員の収入を国民の年収に合わせて下げることと、政治資金規正法を厳格にすることだろう。それを国会で決めるのは、泥棒が泥棒を取り締まる法律を作ることになるわけだから、第三者機関を作って決めて、ざる法にならないよう監視する以外にないだろう。それを認めさせるのは世論の高まりだが、メディアの論調は頼りない。

2024年1月29日月曜日

災害対応のお粗末さに想うこと

 

能登の地震から一ヶ月近くが過ぎました。真冬の季節の中、未だに一万人以上の人たちが体育館などの避難所で過ごしているようです。生活していた土地を離れて金沢などに二次避難する人が増えているようですが、土地や近隣の人たちから離れることを拒否する人も多いようです。高齢者ばかりの小さな集落が多いという特徴が、今後の復興にも大きな影響を持つかもしれません。誰もいなくなった集落が廃墟になっていく。それが現実にならないよう願うばかりです。

能登半島には一昨年の10月に出かけました。主に海岸沿いの道を先端の狼煙灯台まで行きましたが、黒い屋根瓦の家が点在する風景が印象的でした、ところが地震によって倒壊した家のほとんどがまた黒瓦の家だったようです。いかにも重そうな感じがしましたし、地震に備えた補強もしていなかった家がほとんどだったようです。能登の地震はすでに何年も前から群発していて、大きな地震も数回ありました。その時に倒壊した家もあったわけですから、なぜ、その後に対応しなかったのかと、行政の怠慢を非難したくなりました。実際大きな地震が起きる危険性があることは、以前から指摘されていたことなのです。

新幹線が金沢まで延伸されて、金沢をはじめ能登も観光客で賑わっていました。風光明媚で温泉もあり、食材も豊かな土地ですから、観光客の増加を目指す気持ちはわかります。しかし今回の被害の大きさやその特徴を見ると、しっかり対応しておけば、もっと小さなものにできたのではと思いました。経済重視の政治の無策がまた露呈したわけですが、復興に全力投入するために万博は中止という声は、少なくとも政治家からは聞こえてきません。停止中だったために大きな被害をかろうじて免れた原発についても、相変わらず見直す動きは起こらないようです。自分の懐を肥やす以外に能のない政治家をのさばらしておいた結果というほかはないでしょう。

東日本大震災以来、熊本や能登と大きな地震に見舞われてきました。これからも大きな地震の危険があると言われている地域はいくつもあります。それに対して対策をという声は聞こえてきますが、今回の対応を見ていると、何度被災しても何も変わらないことが多すぎるという印象を持ちました。一番は被災者が体育館で雑魚寝をしているという相変わらずの風景でした。体育館などに敷き詰めるように作られた段ボール製の仮設小屋やベッドなどがあるようですが、なぜ備えておかないのでしょうか。各自治体が全国的に備えておけば、被災地にすぐに提供できるはずですから、避難所の風景はずい分違ったものになるはずです。

大きな地震には停電と断水がつきものです。暖房ができない、トイレが使えない、そしてもちろん風呂にも入れない。そうならないために何を用意しておいたらいいのか。地震大国の日本ですから、このような備えについてのノウハウがもうとっくに出来上がっていていいはずです。必要なものを全国的な規模で分散的に備蓄しておいて、災害が起きたらそれをどういう手段で被災地に運ぶかを考えておく。そんな備えがなぜできないのでしょうか。用もない兵器を爆買いしたり、隣国を敵視して有事を煽る前に、やらなければいけないことが山積みのはずなのです。


2024年1月22日月曜日

中村文則『列』(講談社)

 
中村文則については、毎日新聞に月一で連載している「書斎のつぶやき」という名のコラムで知っていた。時事的な問題について分かりやすい文章で、彼の発言には共感できることが多かった。小説家で、芥川賞を取っているし、新潮新人賞や野間文芸新人賞、大江健三郎賞の他に、英語に翻訳されて、アメリカでも賞を取っている。読んで見たいと思って、さて何を選ぼうか迷っていたら『列』という新作が発表されて、話題にもなっているという記事を目にした。「列」とはタイトルだけでも面白そうだ。そう思ってアマゾンで手に入れた。

retu1.jpg 列に並んでいる主人公には、それが何のための列なのかわからない。それでもそこから外れるわけにはいかないと思っている。その列はほとんど前に進まないから、いらいらしたり、不満を漏らしたりする人もいる。身体を左右に揺らす動きを、気になると後ろから注意されてムッとするが、そこからやり取りが始まったり、前にいる女性と親しくなったりもする。まったく進まないと諦めて列を離れる人がいて一歩進むと、それが無上の喜びのように感じられたりもするのである。

主人公はニホンザルの生態を研究していて、大学では非常勤講師の肩書きである。いつかはあっと驚くような論文を書きたいと思っているのだが、観察している猿からそんなヒントを得ることはほとんどない。だからいつまで経っても、大学のポストを得られないでいる。で彼の助手のようにして一緒に調査をしていた大学院生の若者が、自分も応募していたポストを得たり、以前につきあっていた彼女といい仲になっていたりということになる。

読んでいくうちに「列」とは「序列」のことなのだと気づくようになる。実際私たちは、物心ついた時から「序列」を意識させられるようになる。勉強や運動の能力はもちろん、親の収入や社会的地位などが’、自分を評価する尺度になっている。そしてその意識を外れて生きることはなかなか難しい。何しろ人間が「序列」の中で生きる生き物であることは、社会学でも基本的な特徴だとされているのである。

僕が若い頃に流行ったことばに「ドロップ・アウト」がある。「列」を意識して立身出世のために努力することなどばからしい。僕が社会学に興味を持った理由には、そんな「列」に囚われる人間の特徴に対する疑問もあった。けれども、僕もやっぱり、この分野で生きていくには評価される論文を書いて、どこかの大学のポストにつかなければ、という競走の「列」に巻き込まれることになった。しかも、長い間非常勤がつづいたから、主人公の気持ちは痛いほどわかった。


主人公は結局最後まで列に並んでいた。先が見えず、最後尾も見えない列に、地面に「楽しくあれ」と書いて並んでいる。何とも切ない気になるが、これが確かに現実なのだとも思った。そんなにがんばらなくたって楽しく生きる仕方はないものか。豊かな社会になったはずなのに、ますます、「列」に囚われるようになった社会はやっぱりおかしい。退職して少しだけ「列」から自由になって、つくづく感じることである。

2024年1月15日月曜日

お正月に見た映画

 

いつものことだけれど、暮から正月にかけては見たいテレビがほとんどない。というより、 NHKのBSが一つになってから、それまではつけていた食事中も、テレビを消したままにすることが多くなった。テレビはこのまま無用のデカ物になりかねない。そんなふうに思うことが多くなった。それでも2日と3日は箱根駅伝を長時間見た。青山学院の独走で、今一つ面白くなかったが、正月が来たと思うことはできた。

もっとも1日に起きた能登の地震の後は正月番組を潰して地震情報ばかりになった。「津波が襲う危険があるので早く逃げてください」とくり返し放送していたが、全国放送で長々やる必要があるのか疑問に思った。それに被災地だって、テレビが映るのかどうかわからない。そうしたら、突然の羽田空港の航空機衝突事故である。正月から大変なことが起こって、明けましておめでとうどころではなくなってしまった。

potter1.jpg"・薪割り仕事は終わったし、代車では遠出をする気もないからと、久しぶりにアマゾンのプライム・ビデオを見ると、『ハリー・ポッター』がすべてフリーで公開されている。で、毎日2本ほど見ることになった。1作目の『ハリー・ポッターと賢者の石』は1997年に出版されている。作者のジョアン・ローリングが極貧生活の中で書き上げた作品は、児童文学の枠を超えて世界中で読まれ、その後2007年までに7冊が出版された。総発行部数は6億部を超えたそうで、日本でも3000万部近く売れているようだ。

で、映画だが、一言で言えば、これは「ハリー・ポッター」の成長物語である。孤児のハリーが12歳の時に、魔法使いの家系に生まれていることを告げられ、寄宿制の魔法学校に入ることになる。さまざまな魔法を覚え、いくつもの事件に出くわして、何とか解決して大人になっていく。最初は12歳だったハリーも、だんだん成長して。最後は子どもを持つ父親になっていた。映画は2001年が初作で最後は2011年だから、12歳だった少年も映画と一緒に成長していったのである。こういう物語はいつまで経っても歳をとらないことが多いから、原作を読んだら、だいぶ違うのかもと思った。

beast1.jpg"・アマゾン・プライムにはローリングが脚本を書いた『ビースト』の三部作もあった。このうち2本は以前に見たが、今回また見直した。大人である僕には、こちらの方がはるかに面白かった。暗いお城のような魔法学校が主な舞台だった『ハリー・ポッター』と違って、『ビースト』はロンドンやニューヨーク、あるいはパリが舞台になっているし、魔法を使う動物がいろいろ出てくる。時代も半世紀前の20世紀前半で、今とはだいぶ違う。映像技術にも驚くやら感心するやら。いずれにしても、連日複数の映画を見て、さすがにかなりくたびれてしまった。

『ホビット』や『ロード・オブ・ザ・リング』を見た時にも思ったが、ファンタジー映画の映像技術には本当に驚かされる。残るは『スター・ウォーズ』だが、これもアマゾンでやってくれないかなと期待している。

2024年1月8日月曜日

ビリー・ジョエルが東京ドームでやるそうだ

 



joel1.jpg"もうライブには出かけないが,ウドーからライブの知らせがやって来る。ほとんど興味がないミュージシャンばかりだから、配信停止にしてもいいのだが、面倒だからそのままにしている。先月ウドーからビリー・ジョエルのライブの知らせが入った。1月24日に東京ドームで一回だけのコンサートだというのである。ちょっと信じられない気がしたし、どのくらい客がはいるのか疑問を感じた。

僕にとってビリー・ジョエルは過去のミュージシャンだったから、今でもコンサート活動をしているとは思わなかった。確か21世紀になって活動を休止していたはずで、NHK BS の「街歩き」でニューヨークをやった時に,犬を散歩している彼が映って驚いたことがあった。そんなふうに気ままに暮らしているんだと,その時思ったことを今でも覚えている。

彼は僕と同じ1949年生まれである。1973年に発表した、なぜかハーモニカの印象が強い「ピアノマン」が代表曲だ。この後いくつものヒット曲を出したが、活躍したのは80年代の前半までである。僕はこの「ピアノマン」の他に「オネスティ」や「ストレンジャー」、そして「心のニューヨーク州」など、好きな曲がいくつもある。ただしあくまで,80年代までの人であって、後はほとんど忘れていたミュージシャンだった。

だから、東京ドームでライブをやるということに驚いたのだが、「ウィキペディア」を見ると、日本には1978年以降、何度もやってきていて、東京や大阪、あるいは福岡でコンサートをしている。会場は日本武道館や大坂城ホールの他、東京、大阪、名古屋、札幌などのドーム球場だから、相当の人数が集まっていたのだろう。その日本での人気に改めて驚かされたが、最後は2008年だから15年ぶりということになる。

で、YouTubeでジョエルのライブを検索すると、古い日本公演から割と最近のものまで、いくつも聴くことができた。もう頭は禿げ上がって、恰幅も良くなっているけれども、ステージでは精力的に動き、ピアノのうまさも健在で、声も昔のままだったから、聴き応えのあるものが多かった。昔の曲ばかりだけど、エンターテインメントとして十分に楽しませることはできる。そんな感想を持った。多分、東京ドームでのライブも、満員になって観衆を満足させるだろうと思った。それにしても、最近のライブでも若い観客がけっこういるのは、どうしてなのだろうか。

2024年1月1日月曜日

また一つ歳をとった

 

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明けましておめでとうございます。2024年最初の更新です。数え年で75歳になりました。喜寿がもうすぐそこまで来ています。歳をとったものだとつくづく思います。運転免許証の更新に高齢者教習の他に認知症検査が加わりました。高をくくってのんびり手続きを開始したら、予約がいっぱいで12月の中旬からになりました。師走も押し迫ってから、認知症テスト、高齢者教習、そして免許証の更新と慌ただしく済ませて、何とか新しい免許証を手に入れました。次は3年後ですから、もう78歳ということになります。

コロナが少し収まったこともあって、去年は夏に東北に旅行しました。クルマを運転して往復1600 kmのスケジュールでした。まだまだやれると自信を持ちましたが、酷暑の旅行はもうやめようと反省しました。自転車に乗ることも、山歩きをすることも、少しづつ億劫になっています。これではいけないと思うのですが、年令にあわせてほどほどにと思う気持ちもあります。目も耳も衰え、身体の節々に痛みを覚えますが、もう何年も、コロナに感染することも、風邪をひくこともせずに過ごしています。健康でいることが一番と思う今日この頃です。

それにしても公私にわたって、訃報が多い1年でした。それも多くが同年齢に近い人ばかりでしたから、次は自分かな、と思わされました。何より驚いたのは義兄の死です。3月に胃ガンでステージ4だと聞きましたが、それから半年あまりで逝ってしまいました。山歩きをする元気な人でしたから、お見舞いに行った時に見た痩せた身体には心が痛みました。音楽のレビューが亡くなった人ばかりだったのも去年の特徴でしたが、ずっと聴いてきた人たちが、もうそういう歳になったのも事実です。

暮にクルマで事故を起こして、軽自動車をレンタルしました。修理して戻ってくるのはまだだいぶ先のようですから、当分は軽自動車を運転しなければなりません。当然、長距離運転などはする気になりませんから、買い物など、近所の移動に限られると思います。何しろ借りているのは問題になっているダイハツなのです。とは言え、もっとも、けっこう快適に走るものだと改めて感じました。半ば自動運転化したクルマに馴れていましたから、初心に帰っての運転を楽しんでいます。

このホームページを始めたのは1996年でしたから、もうすぐ30年になります。もう書くことも、この更新以外にはほとんどなくなったのですが、週一回の更新が、かなりしんどくなりました。何より話題を探すのに一苦労なのです。行動自体が少なくなりましたし、人とのつきあいも限られています。日本の政治や経済,そして社会の状況について危惧することが多いのですが、もう批判してもしょうがないと思わされることが続いています。唯一の救いは大谷選手の活躍ですが、ケガをしたり桁違いの大金を手に入れたりと、大丈夫かなと心配するようになりました。春になればまたシーズンが始まります。今はそれと、クルマが戻ってくることを心待ちしています。