1997年6月23日月曜日

『ブルー・イン・ザ・フェイス』 ポール・オースター、ウェイン・ウォン


  • ニューヨークのブルックリンにあるタバコ屋。雇われマスターとタバコ屋にたむろする常連客。この映画は『スモーク』の続編、というか番外編である。舞台は二つの映画ともまったく同じで、主演もともにハーベイ・カイテルである。
  • 『スモーク』はP.オースターがシナリオを書き、ウェイン・ウォンが監督をした。テーマは「嘘」というか「フィクション」。それがかろうじて人びとの現実を支えさせている。カイテルが万引き少年の落とした財布を家に届ける。出てきた黒人の老女は「わかってたんだよ、おまえがクリスマスの日にエセル祖母ちゃんを忘れるわけないもの」といってカイテルを抱きしめる。彼女は目が見えない。彼はためらいながら、彼女を抱き抱える。で、ふたりでクリスマス・ディナー。
  • ぼくはこの映画を見る前にシナリオの方を先に読んでいた。で次のようなやりとりが気にいっていた。「物質世界なんて幻影だよ。ものがそこにあるかどうかなんて問題ないさ。世界はおれの頭の中にあるんだよ。」「だけど肉体は世界の中にあるだろうが。(間)誰かが泊めてやるって言ったら、君、かならずしも拒まんだろう?」「(間。考える)そんなことしてくれる他人なんかいないよ。ここはニューヨークだぜ。」
  • 残念ながら映画にはこのセリフがなかったが、映画を見た印象は、やっぱりこのセリフに象徴されるようなものだった。フィクションをかぶせなければ、とても現実を受け入れることなんかできないし、自分の存在を実感することもできない。そう、そんな風に感じるのは、ニューヨークに生きている人たちに限ることではないはずである。
  • 『ブルー・イン・ザ・フェイス』のアイデアはこの映画を撮っている最中に生まれた。参加した役者やミュージシャンたちと意気投合して、ほとんどアドリブで作ったようである。ルー・リードのニューヨークについての話。ジム・ジャーミシュがタバコ屋に最後のタバコを吸いに来るシーン。マドンナの歌って踊る電報配達人。マイケル・J.フォックスが店先で奇妙なアンケート調査をする。「トイレでしたあと、出たモノを見るか?」
  • こちらのテーマはたぶん、ニューヨーク、というよりはブルックリン礼賛だろう。嫌煙ムードが強まる一方のニューヨークでは、ブルックリンだけが、あるいはこのタバコ屋だけが気分良く吸える唯一の場所。しかし、そんなブルックリンを、ドジャースはとっくの昔に捨ててロサンジェルスに去った。今は黒人が半分でユダヤ人とプエルトリコ人がその残りを二等分している街。犯罪、街の老朽化、失業..............。ノスタルジアとしてのブルックリン、そしてタバコ。
  • ブルックリンに一番近いのは、大阪の下町かもしれない。そう、新世界のあたり。そういえば、ここでもホークスが難波を離れて、福岡のドームに本拠を移した。「ネイバーフッドの息づかい」。ぼくももうずいぶん長いこと忘れていた情感。それが映画の世界となって、説得力をもってよみがえってきた。もっとも、東京の郊外育ちのぼくには、そんな世界がノスタルジックに思えるはずはないのだが.........。
  • 1997年6月16日月曜日

    津野海太郎『本はどのように消えてゆくのか』(晶文社),中西秀彦『印刷はどこへ行くのか』(晶文社)

     

    ・ワープロからパソコンに乗り換えたのは、DTP(卓上印刷)が理由だった。ガリ切りから始まって新聞やチラシ、ミニコミを何種類も作ってきたぼくには、印刷を手作りするというのは、長年の念願だった。で、やっとスムーズに日本語が使えるようになったマックに飛びついたが、プリンタ、スキャナ、それにフォント(字体)などを買うと、お金が150万円を軽く超えた。もう9 年も前の話だ。現在のマックは5台目で、ポストスクリプトのレーザー・プリンターが自宅と研究室に一台づつ、学科の共同研究室にはカラーのレーザー・プリンターも入った。お金はもちろん、時間もエネルギーも、ずいぶんな浪費をしたが、おかげで今のぼくには、印刷屋さんに頼まなければならないことは何もない、とかなり自信をもって言えるようになった。

    ・津野海太郎は晶文社の編集長を長年やってきた。本作りのプロだが、一方でDTPを使ったミニコミ作りもしてきた。『小さなメディアの必要性』(晶文社)『歩く書物』(リブロポート)『本とコンピュータ』(晶文社)『コンピュータ文化の使い方』(思想の科学社)、そして『本はどのように消えてゆくのか』。彼が書いてきた本を読むと、文化としての本、つまり内容だけではなく、装丁や編集、印刷技術といったものに対する愛着心と、コンピュータを使った新しい印刷文化に対する好奇心が伝わってくる。まさに同感、というか、ほぼ同じ時期から、ほとんど同じことに関心を持ち、時間とエネルギーとお金を注いできたことに妙な親近感さえ感じてしまう。

    ・中西秀彦は京都の印刷屋さんの二代目である。そして、印刷業界のコンピュータ化に積極的に関わり、なおかつその印刷文化との関係を考え続けてきている。『印刷はどこへ行くのか』(晶文社)は前作『活字が消えた日』(晶文社)に続く、彼の2作目の本で、この二冊を読むと、印刷というか文字文化とコンピュータの間に折り合いをつけることの難しさにあらためて驚かされてしまう。

    ・先代、つまり彼の父親は、世界中の文字(活字)を集めることに熱中した人だった。だから1969年のカンボジア、タイ、香港からはじまって、死ぬ前年(1994年)のブルキナフォソ、ガンビアまで、文字(活字)を求めて訪れた国は軽く百ヶ国を越えている。京都には大学がたくさんあって、中西印刷にくる注文も大学や研究者からのものが多いようだ。当然、さまざまな言語の文字や豊富な書体の漢字が必要になる。だからこそ、どんな文字の注文にも応えられることが先代の誇りだった。中西秀彦はそのような父親の意志を受け継ぎながら、なおかつ、文字のデジタル化、つまり活字の放棄を決断する。

    ・ DTPを使って作れるものは新聞、雑誌、書籍、パンフ、チラシ、名刺と多様である。けれども、いろいろなホームページにアクセスし、また自前のものを作るようになってから、DTPが過渡的な方法だったのでは、という疑問をもちはじめた。DTPが活字を不要にし、レイアウトや切り貼りの作業をデジタル化したとは言え、最後はやっぱり、紙に印刷する。つまり、できあがったものは何世紀も前から作られていたものと変わらない。モニター上で作ったものを、紙に印刷して完成というのは、何かおかしくないか?そんな疑問を改めて、感じはじめたのである。ホームページに慣れるにつれ、モニタ上で読むことが、あまり苦痛でなくなってきたのである。この感覚の変化は、たぶん重要だ。

    ・津野も中西も、それぞれの本の中で同じような発言をしている。「印刷革命が最後までたどりついたと思ったのは、紙の上というごく狭い範囲の印刷でしかない。このあと印刷と出版は紙という呪縛から解き放たれる。」(中西)「この三年間は、私のうちでDTPへの関心がうすれ、それに反比例して、デジタル化されたテキストをDTPではないしかたで利用する方法への関心がつよまってゆく過程だったらしい。」(津野)

    ・辞書や事典などCD-ROMが充実してきた。膨大な情報量の中から一部分を検索するという作業はパソコンにとってもっとも得意なところである。紙に印刷された文章を1ページから順に読んでいくという作業がなくなるとは、もちろん思わない。けれども、そうやって読まなければならない印刷物は、実際には今でもすでに多数派ではない。ぼくは英語の本をかなり買うが、テキストの方がキイ・タームを検索しながら能率的に読めるのにと思うことがよくある。翻訳ソフトがもっと賢くなれば、一気に日本語に変換させて読むといったことだってできるはずだ。いずれにせよ、読書の質が変わっていくことは間違いないから、紙に印刷といった形態が主流でいられる時代がいつまでも続く保証はどこにもないはずである。せっかくDTPをわがものにしたぼくにはちょっと寂しいことだが、同時に、ホームページにもっともっと時間とエネルギーを割いてみたいという気もしている。

    1997年6月10日火曜日

    学生の論文が読みたい!!

     

  • このホームページには一日平均10名ほどの人がアクセスしているようだ。多くないような気がするが、しかし1年間にしたら4000名弱になる。これはけっして小さな数字ではない。その中から、メールを送ってくる人は、週に一人といったところだ。これも1年にしたら50名ほどになるから、かなりの数になる。けれどもこの程度なら、返事を出し、注文に応えることは苦にならない。
  • メールの中で一番多いのは、何といっても学生の卒論についてである。特定の論文を指定したメールが、これまでに9通来た。しかし、すぐには送らない。誰が、どんな目的でその論文を読みたいと思っているのか?そこを確認してから、送るようにしている。単なる冷やかしで請求されたらかなわないし、ちゃっかり借用して、自分の論文として提出してしまおう、などというヤカラがいないとも限らない。
  • で、最初に来たのは、九州の女子大学に勤務する新米の先生からだった。メールには「大学で教えはじめたところでゼミの運営の仕方も論文の指導法もわからず困っています。」と書いてあった。考えてみれば、小中高の先生になるためには教職課程の授業があるし、教育実習もあるのに、大学の先生にはない。冗談ではなく、教え方や学生とのつきあい方を習う機会がまったくないのである。大学の先生の授業がおもしろくないはずだと、あらためて考えてしまった。最近の学生には、指示待ち人間が多いから、ほっておけば何とかするというわけにもいかない。ぼくはさっそく、卒論集のバックナンバーを郵送した。同じようなメールが他に1通あった
  • 学生からの注文は、基本的に断ることにしている。かわりに、テーマについての文献をわかる範囲で紹介する。これが4通ほど。しかし、以前に書いたミネソタ大学の学生からの依頼の時には、例外的に論文を送った。
  • 残りの3通は、最近の若い人の考えていることを知りたいというものだった。これについては、簡単な自己紹介をしてもらった上で、注文に応えることにした。その際、是非感想をお寄せくださいと書いたのだが、今のところ、こちらの希望に応えていただいたのは一人だけである。彼女が希望したのは『鴻上尚史論』である。
  • 実はこの論文は、けっしていいできとは言えない。どうも、できのよくないものにばかり注文が来る傾向があって、困っている。けれども、おもしろがって読んでくれる人があることには、感謝しなければならない。メールはもちろん、今のゼミ学生にも伝えているが、「よし、はりきろう」というよりは、「やばいゼミに入ってしまったな」という反応の方が多くて、ちょっと拍子抜けしてしまう。

  • ところで私は、現在、J女子大学に在学しております。一度社会に出ておりますので、年齢は、いわゆる新人類後期世代にあたるかと思います。
  • 私もかつて演劇をやっていたことがあります。そして、鴻上尚史を敬愛しておりました。今年、2月に5年ぶりの「第三舞台」の代表作、「朝日のような夕日をつれて」の再演があり、楽しみにしておりました。(私は85'の「朝日………」から「第三舞台」の作品は欠かさず見ております)が、私としては、鴻上が変わっていてくれなければもう「第三舞台」からは、卒業かもしれない、とおもっていました。それだけ、時代は変わっていると言うか、自分も変わっているからです。
  • あんのじょう予想どうりでした。それでは、若い「第三舞台」支持者はどう思っているのだろう、と思いました。そこで、この論文を読んでみたいとおもったのです。
  • 論文を読むと、今の若い子も、自分が若かったときと同じような気持ちで、「第三舞台」を見ているのだということがわかりました。きっと、今のような不透明な時代がつづくかぎり、鴻上の作品は、若者たちにとって普遍的なテーマとして生きつづけるのでしょう。
  • 卒業と言いながら、やっぱり鴻上は気になります。今度、国からの要請で、イギリスに留学するそうです。帰ってきてからの新作に期待したいと思っています。(H.K.)
  • 1997年6月7日土曜日

    『恋人までの距離』Before Sunrise 、『Picture Bride』

  • 続けておもしろい恋愛映画を見た。まず『ピクチャー・ブライド』。明治のはじめに横浜で両親と暮らしていた娘は、両親が肺病で死んだことで、もう日本には住めないと聞かされる。叔母は代わりにハワイ行きを勧める。お互いが交換するのは一通の手紙と一枚の写真だけである。で、彼女が花婿に会うと、案の定、写真は20年も前に撮ったものだった。「私のお父さんと変わらない歳の人」。彼女は日本に戻りたいと思う。
  • この映画は日系三世のカヨ・マタノ・ハッタが監督をしているが、ベースは彼女の家族の歴史、つまりおじいちゃんとおばあちゃんの話である。愛を前提としない結婚、サトウキビ畑での重労働、一旗揚げようという野心、そして日本人コミュニティ。少しづつ夫に心を開いていく主人公の心の変化を工藤夕貴がうまく演じていた。
  • もうひとつは『恋人までの距離』。ブタペストからパリに向かう列車の中でアメリカ人の青年とフランス人の女子大生が出会う。彼はウィーンから飛行機で帰国するのだが、意気投合した彼女は、途中下車して一晩つきあうことにする。列車の中から始まって、ウィーンの街、そのカフェやディスコ、公園を夜通し歩き回る。背景は変わるが、この映画の中心にあるのは最初から最後まで、二人の会話である。
  • 二人は当然、最初からお互い気に入っている。一目惚れである。けれども、そんなことは一言も言わない。「飛行機が出るまでの間。一緒に話をしよう」「えー。いいわ」という感じでできた距離感がなかなか変わらない。家族のこと、お互いの恋愛経験、彼の仕事と彼女の勉強の話..........。手相占いや街角の吟遊詩人の登場。レストランで電話ゲームをやるシーンがある。二人がそれぞれ帰ったときに最初にする電話を今してみようというのである。親指を耳、小指を口にあてて、それぞれの友だちに電話をする。で、架空の電話の話し相手に、会った瞬間に好きになったと打ち明ける。