2023年8月28日月曜日

Xって何?

twitterx.jpg" 「Twitter」が突然「X」になった。何で?と思ったが、ツイート自体に変化はない。それにしても、長いこと馴染んできたロゴが消えて、謎の「X」になるとは。どうせイーロン・マスクの仕業だろうと思って、理由を調べることにした。

「X」はイーロン・マスクがこれまでも好んで使ってきた文字のようだ。彼がPayPalと合併して作った会社が「X.com」で衛星打ち上げ企業は「Space X」、さらにテスラにもモデルXがある。息子の名前にもXを使っているし、最近立ち上げた人工知能のベンチャー企業名も「xAI」だという。そして、単に「X」が好きというのではなく、彼には未来に向けた遠大な計画があるようだ。

 Xは、オーディオ、ビデオ、メッセージング、支払い/銀行業務を中心とした無制限のインタラクティビティの将来の状態であり、アイデア、商品、サービス、機会の世界的な市場を創造します。AIを活用したXは、私たちが想像し始めた方法で私たち全員を結びつけるでしょう
「Twitter」は鳥のさえずりを意味することばを使って名づけられた。日本語では「ピーチクパーチク」で、周囲にうるさくまき散らすイメージだが、どういうわけか「つぶやき」と訳された。「さえずり」は周囲に向けたコミュニケーションのやり方だが、「つぶやき」は独り言で、相手を意識しない。いかにも日本人的な発想で、始まった頃に批判した覚えがある。面と向かったやり取りではなく、独り言をつぶやきあう。もちろん、つぶやきに反応してつぶやくのだが、さえずりよりは発言の力が弱められて広がることになる。発言に対する責任回避のやり方だと思ったものだった。

しかし、「Twitter」が「X」になることで、やがてこのSNSは「さえずり」でも「つぶやき」でもない別のメディアになってしまうのだろう。イーロン・マスクの野心には、そんな危惧も持つ。「X」は、これから彼が経営する他の「X」と名のつく企業と連携させて、よりビジネスに傾斜したものにするつもりだからだ。もうそうなったら、僕には用がないなと思ってしまう。

そう言えば、最近は「Twitter」をチェックすることも減っていたし、「FaceBook」などは、ほとんど見なくなっていた。どっちにしても、自分で書き込むことは、もう何年も前からやめていたが、最近では書き込む人の数もずいぶん減っていた。それに、どちらにしてもCMが多くなって、開けてもうんざりして、ろくに見もしなくなっていたのだ。

ネット上で面白いなと思ったメディアが人気になると、やがて買収されてビジネスの道具になる。その途端にCMが溢れ、面白さが失せていく。YouTubeもCMばかりだし、Amazonプライムも値上げをした。テレビに続いてネットも面白くなくなったら、何を見て毎日を過ごそうか。そんな不満を感じることが少なくない。


2023年8月21日月曜日

iMacのモニター接続で一苦労

 

imac2.jpg" 以前にこの欄で書いたようにiMacが古くなり、システムの更新もできなくなったから、1月にMacBookを買った。その時に、モニターで使っているCinema Displayの方が少し新しいからとMacBookと繋げられるばか高いアダプタも買ったのだが、Cinema Displayの方が壊れてしまった。夜寝る前は何ともなかったのに、朝起きてつけたら反応がない。さあ困った。画面二つで使っているから何とも不便で、新しいモニターを買うことにした。Apple純正のStudio Displayは22万円もするから今回は問題外。ネットであれこれ見て、Iiyamaの27インチを買うことにした。少し高いがAmazonではなく、馴染みの電気屋さんに注文した。

imac3.jpg" 東北旅行をはさんで、モニターが来た。MacBookとはUSBのTypeCで繋がったのに、iMacと繋ぐためには接続のためのアダプタを買わなければならない。iMacの出力はThunderbolt2だからそれをHDMIに変換するコードを買えばいい。あるいはUSBからHDMIでもいけるだろう。と思ってAmazonに二つを注文した。翌日には来て繋いでみたのだが、どちらも反応がない。ネットで調べると、iMacの製造年によって繋がるものとそうでないのがあることがわかった。しかたがないから、iMacは2012年製だからそれにに適合しているものを探して再注文したのだが、やっぱり繋がらない。

Macは30年以上使っているが、こんなトラブルはこれまでにもよくあった。その度にいらいらして胃が痛くなった。またかと思ったがもう諦めよう。そんなふうに考えたのだが、念のためにともう少しネットで探すことにした。そうするとThunderbolt HDMI変換ケーブルで、確かに2012年製のiMacに繋がると画像つきで紹介しているサイトを見つけた。コードはこれまでの黒と違って白色で、丁寧にワンクリックでAmazonで買えるようになっていた。もう一回試してみようかと思ってまた注文。半分ダメだろうと思っていたのだが、接続するとついたではないか。新しいモニターは解像度が低いし、スピーカーはお粗末だが、値段が5分の1だから仕方がない。とにかく、使えるようになって大助かりだった。

imac4.jpg" それにしても、同じアダプターでも繋がるのと繋がらないのがあって、iMacの製造年で違うとは、どういうことだろうか。Appleらしいといえばそれまでだが、こんなトラブルもこれっきりにしてほしいとつくづく思った。いずれにしても、2画面で使うことができるようになったので一安心だ。もっとも、このiMacももう12年目だから、いつ壊れてもおかしくない。その時のためにMacBookをもっと使うようにしようと思うのだが、やっぱり使い慣れた、大きな画面の方を使ってしまう。

2023年8月14日月曜日

シニード・オコーナーとアイルランド

 

sinead.jpg" シニード・オコーナーが死んだ。自殺のようだ。去年の12月に息子の自殺などがあり、本人も自殺をほのめかすツイートをして入院をしたというニュースを見つけて、彼女のことを振りかえった。結婚と離婚を四度くり返し、その度に四人の子どもを産んでいること。自殺したのは三度目に結婚したアイルランドを代表するミュージシャンのドーナル・ラニーとの間に生まれた三人目の子どもだったことなどを書いた。その時から、近いうちに彼女の訃報があるのではと思っていたが、現実になってしまった。

彼女については、このコラムで何度も書いている。最初は1999年で、フィンランドの青年が僕のディスコグラフィーに載っている彼女のCDがほしいとメールが来たことを紹介した。日本版が珍しかったからだが、インターネットが始まった頃には、こんなメールが世界中からやってきて、面白いメディアができたものだと思った。

sinead2.jpg" 僕がシニードのことを知ったのはボブ・ディランの30周年記念コンサートのライブだった。1992年で、テレビで生中継されたのをわくわくしながら見た記憶がある。ミュージシャンが全員、ディランの歌を歌ったのだが、彼女だけがボブ・マーリーの「ウォー」を歌い、泣き崩れて、クリス・クリストファーソンに慰められた。その行動や坊主頭の姿にびっくりしたが、彼女を有名にしたのはプリンスのカヴァー曲「ナッシング・コンペアーズ・トゥー・ユー」だった。カナダ人の友達の家を訪問した時に、壁にこの言葉が書いてあって、女性二人で暮らすカップルの関係が、この歌でよくわかる気がした。

ireland12.jpg" 僕は2005年に初めてイギリスとアイルランドに行った。その目的は、パブでギネスを飲みながらアイリッシュ音楽を聴くことだった。アイルランド出身のミュージシャンには好きな人がたくさんいた。一番古いのはヴァン・モリソンでU2などとともに、シニードもその一人だった。こういった人たちのライブは無理だったが、パブでのライブや、アイルランドのフォーク歌手が勢ぞろいしたコンサートを、偶然ダブリンで聴くことができた。シニードはイギリスに苦しめられたり、飢饉で大勢の人が死んだことや、アメリカに移り住んだ人のことをテーマにした曲をたくさん歌っている。

isinead1.jpg" その2005年に彼女が発表した"Sean Nos Nua"はアイルランドの伝統音楽を素材にしたものだった。このコラムで、「ゲール語で古いスタイル(Sean Nos)と新しさ(Nua)を意味するタイトルに見られるように、彼女自身の雰囲気をのこしたアルバムに仕上がっている」と書いた。彼女はその後も何枚かのCDを出したが、ここ10年ほどは、ほとんどその名前を耳にすることはなかった。1966年生まれだからまだ50代で、死ぬには早すぎるのにな、と思った。

P.S. と、書いていたらザ・バンドのロビー・ロバートソンが亡くなったという新聞記事を目にした。闘病生活の果てだったようだ。ザ・バンドについては、昨年「The Bandという名のバンド」というタイトルで書いた。ロビーが製作した『ザ・バンド かつて僕らは兄弟だった』をAmazonで見て、ザ・バンドについてはあまり書いていないことに改めて気づかされた。ボブ・ディランのバックとして活躍した印象が強かったが、このバンドでもいくつものヒット曲を作った。メンバーの大半が死んでしまったが、改めて聴き直して、もう一度取り上げようと思う。

2023年8月7日月曜日

東北太平洋岸を北上した

 

河口湖から宮古まで片道800kmを6日間で往復した。それにしても暑かった。クーラーがなくても30度を超えないところに住んでいる者にとっては、35度超なんていう温度はとても耐えられない。だから、クルマから降りるのを躊躇する。そんな旅になった。

初日は平まで。日曜日だったから高速は空いていて、ほとんど渋滞なしに4時間ほどで小名浜に着いた。まずは水族館を見学したのだが、とにかく暑い。トドと潮目の海が売り物なのだが、それほど驚くほどではなかった。細々とした展示が多くて、暑いせいかほとんど素通りという感じだった。マンタやさめが泳ぐ沖縄の「美ら海水族館」とは比べるまでもないが、ちょっとがっかりだった。

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2日目は平から相馬まで。津波や原発事故後の様子を見たいと思い、なるべく海沿いの道を走った。福島第二原発に近づくと、帰還困難区域にぶつかり先には進めなくなった。そんな道をあちこち抜けたのだが原発そのものを見ることはできなかった。逃げてそのままになった店舗や住宅には雑草が伸びて、月日の経過を教えてくれた。浪江町の請戸小学校の遺構を見学。津波は校舎の2階まで押し寄せたようだが、生徒全員が近くの山に逃げて助かったとあった。

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tohoku6.jpg 3日目は相馬から石巻へ。朝から雷と豪雨だが涼しい。宮城県にはいって山元町を通るとヒマワリ畑が目に入った。そこで道案内をする人に聞くと、周囲には家もあったけど、水没してしまったと話していた。新しくできた道路は堤防の役割もできるように造られていた。おかしいのは多くの道がカーナビには載っていないことだった。昨年更新したばかりなのに、それ以後できたのだろうか。この後も、そんなカーナビにはない道を多く走ることになった。

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4日目は石巻から宮古へ。新しい高速道路は無料だったが気仙沼からは下道を走った。以前に来たことがある魚市場周辺は一変していて、泊まった旅館もどこにあったのかわからなかった。そこから、これも以前に行った大理石海岸に寄って、陸前高田、大船渡、釜石と走り、宮古の国民休暇村に着いた。道路には津波がここまで来たという表示があって、中には50メートルを越える高さにも達していたことがわかった。どこも堤防が張り巡らされていて、新しい街が作られていた。下の画像は大理石海岸と碁石浜。

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tohoku9.jpg 5日目は宮古から福島へ。もう帰り道になるが早池峰山を見ながら花巻に抜けた。狭くて曲がりくねった道で、土日は通行止めになるという。対向車が来たらと気になったが、何とか早池峰山の登山口に着いた。そこから大谷選手の花巻市や奥州市を走って福島へ。
6日目は福島から我が家まで。東北道はスムーズだったが圏央道に入って鶴ケ島から八王子まで大渋滞。途中のパーキングでトイレ休憩をすると気温は何と42度。まるでサウナブロで、車に逃げ帰った。それにしても圏央道はいつでも渋滞している、大型トラックが多くて嫌いな道だが、都心を抜けるともっと時間がかかってしまう。6時間ほどかかってやっと我が家に着いた。28度でホッとした。