2014年5月26日月曜日

音楽の変遷

吉成順『<クラシック>と<ポピュラー>』ARTES
南田勝也『オルタナティブロックの社会学』花伝社

yosinari.jpg・音楽は大きく「クラシック」と「ポピュラー」の二つにジャンル分けされる。単純には、前者は古くて後者は新しいと思われているが、実際には、音楽の種類の違いであって、時間や時代に制約されるものではない。一般的には、コンサートホールの座席に座って音だけに神経を集中させて聴く「集中的聴取」が「クラシック」なら、「ポピュラー」は、立ち上がって踊ったり、手拍子したり、あるいは飲食をしながら聴く「散漫な聴取」が許される音楽だと思われている。

・『<クラシック>と<ポピュラー>』は音楽にこの違いが生まれたのがいつ、どこにおいてなのかを探求した研究書である。「クラシック」はもともとはヨーロッパの宮廷などで、上流階級の人びとが集まる社交の場で演奏される音楽として発展した。当然、そこには流行があり、古くなれば忘れられていたのだが、古いもののなかで良いものを厳選して再演しようとする動きが現れた。そのための演奏の場やジャーナリズムを支えたのは、近代化のなかで台頭した「ブルジョア」階級だった。本書の前半は、その過程をドイツを中心にして解き明かしている。

・他方で、近代化によって大発展した都市には地方から移住した人びとの中から生まれた音楽もあった。それらは主にパブやミュージックホールで歌われたり演奏されたりして「ポピュラー」と称せられることになるが、「クラシック」とはっきり区分けされるのは19世紀の後半のことである。その前の一時期には、たとえばパリのシャンゼリゼ通りの一角に特設された会場で行われる「プロムナード・コンサート」が流行して、そこでは二つのジャンルに分離される音楽が混在したかたちで演奏されたそうである。

・音楽の混在は、当然、そこに集まる人たちにも当てはまる。つまりこのコンサートには「ブルジョア」も「労働者」もいて、一つの音楽を一緒に楽しんでいたはずなのである。上流階級から生まれた音楽が「ブルジョア階級」によって「クラシック」になり、労働者階級が楽しんだ音楽が「ポピュラー」になる。しかし、そう区分けされる前の一時期に、両者が混ざり合ってストリートで演奏され、楽しまれたことは、ヨーロッパにおける近代化や都市の発展、そして階級の成立過程を見る上でも、きわめて興味深い分析だと言える。

minamida.jpg ・音楽におけるこのジャンル分けは、種類の違いというだけでなく、芸術的、知的レベルの違いとして序列付けされるようになった。その序列を揺さぶる動きは、20世紀の前半に登場したジャズにはじまり、後半に登場したロック音楽によって大きくなった。ロック音楽はアメリカの黒人音楽と、それに影響されて生まれたイギリスの労働者階級育ちの若者によって作り出されたものである。この新しい音楽の興隆がアメリカにおける黒人の位置やイギリスにおける階級の問題と深く関連していることは言うまでもない。

・南田は以前に『ロック・ミュージックの社会学』(青弓社)で、ロックとアートの関係を分析しているが、『オルタナティブロックの社会学』は、ロック以後やロックの現在形を対象にしている。既成の政治や社会、そして文化に対して痛烈な批判をして共感を呼んだロックは、商業的にも成功したことで、新しい流れによってくり返し批判され、乗り越えられてきた。パンクやレゲエ、ゴシック、あるいはヒップホップといったものである。著者はその現在形をグランジに見て、ロックの核心にあるロックたるものと、「ポピュラー」であるゆえに逃れられない商業性との確執に揺れ動く様子に焦点を当てている。

・ロック音楽はアートであり、文学であり、また政治的、社会的、そして文化的批判のための武器でもある。そこに本物性(オウセンティシティ)という価値をおけば、商業性やポピュラリティは両立しにくい要素になる。ポピュラー音楽が産業として大がかりなものになり、巨大な市場となった現在では、本物であることとポピュラーであることを具現化できるミュージシャンは希有の存在だと言えるかもしれない。本書では、その狭間で悩み、自殺をした「ニルヴァーナ」のカート・コバーンに注目している。

・そのコバーンが死んでからすでに20年になる。その間のオルタナティブ・ロックは小粒で、目立ったものはポピュラーに振れている。くり返しロックは死んだという言説で批判された音楽が、今ではクラシックとして一ジャンルを形作っている。1世紀半ほどの時を隔てて、クラシックとポピュラーが再構築されたと言えるのだろうか。僕はもちろん、その両方に興味がある。

2014年5月19日月曜日

K's工房個展案内


「棚田:生きものたちのいるところ」
2014年5月29日〜6月3日
JR国立駅南口「ギャラリーゆりの木」

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・一年おきに東京と京都で開かれているK's工房の個展が、今年はJR中央線国立駅南口の「ギャラリーゆりの木」で開かれます。今回のテーマは「棚田:生きるものたちのいるところ」。棚田には、蛙をはじめ、蛇やカタツムリ、そして魚などが住み、犬や猫が飛び回ります。そんな楽しい展示を楽しんでください。





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2014年5月12日月曜日

薪割り完了

 

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・連休が終わって、やっと薪ストーブの役目も終わった。煙突を外し、ストーブを分解して掃除もした。次の冬に向けて、すでに8㎥の原木を切って、割って干してある。例年なら、これでおしまいなのだが、この冬は寒くて、用意した薪のほとんどを燃やしてしまった。だから予備として、もう3㎥注文して、連休中に薪割りに精出した。

・原木がトラックでやってくる。それを積んでもらって、チェーンソーで5等分に玉切りする。それを積み上げて、一つ一つ、斧で割っていく。割りにくいものはくさびを打ち込み、それでもだめなものはチェーンソーで立て切りする。



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・割った薪は家の周りに積むのだが、すでに満杯だから野積みにすることにした。円形に積むのだが、これはネットで見つけたやり方で、チベット積みという名がついていた。2mを超える高さになると崩れる心配があるから気をつけて、一つでは足りないから二つ作った。家の周りの分と合わせると、ご覧の通りで、一冬に燃やす薪の量の多さに、改めて驚かされてしまった。


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2014年5月5日月曜日

テレビよりラジオ

・テレビはおもしろくないし、見ていて不愉快になったり、けしからんと思ったりすることが少なくない。ずいぶん前から言っていることだが、最近は特にひどい。NHKは唯一見ていた7時のニュースでさえも見なくなった。民放は2局しか見えないが、よくもまあ、毎日毎日、タレントを集めたバラエティばかりやっているものだと呆れてしまう。

・だからあまり見ないのだが、その代わりにラジオを聞く時間が多くなった。と言っても、我が家で聞けるラジオは限られていて、InterFMのバラカン・モーニングぐらいだ。東京でもカーラジオでは聞きにくいのに、我が家では鮮明に聞こえるから不思議だが、かかる音楽はもちろん、話題についても、彼とは興味や関心について、共有できる部分が多いと思っている。

・FMはほかにいくつか入るのだが、どれもおもしろい番組はほとんどない。中波はまったく入らないから、InterFMに固定したままだが、朝以外につけることはほとんどない。代わりに聞いているのは、YouTubeで探して登録したラジオ番組である。TBSラジオの「荒川強啓デイキャッチ」「荻上チキsession22」、文化放送「大竹まことのゴールデンラジオ」、それにMBS「報道するラジオ」といったものだ。

・どの番組にも共通しているのは、時事的なテーマについて、フリーのジャーナリスト(青木理、神保哲生など)や研究者(金子勝、宮台慎司など)をレギュラーにしていて、テレビや新聞では見えてこない側面や視点に目を向けていることだ。このような役割については、もちろん、ネット自体のなかにもいくつもの発信局があって、「デモクラテレビ」や「ビデオニュース」は頻繁にチェックしている。

・こういったルートで伝わってくることは、新聞やテレビとはずいぶん違っている。たとえば、来日したオバマ米大統領の発言や、共同声明について、新聞やテレビは日米の同盟関係の強さや尖閣諸島が安保保証の領域であるという発言を強調したが、実際には、中韓との関係の改善を強調し、安倍首相には言動に対して慎むよう釘を刺してもいる。それはホワイトハウスが発表した公式文書にも載っているのに、日本の新聞やテレビは、まったく無視したり、表現を和らげたりしている。

・小保方とSTAP細胞の問題や韓国のフェリー沈没は呆れるほど取り上げるのに、福島原発の現状や沖縄の基地問題については小さくしか扱わない。原発の再稼働には、事故が起きたときの避難などが、どこでも何の対策もできていないのに、そのことを問題視するメディアがほとんどない。そんな傾向は、消費税の増税やリニア新幹線の着工にまつわる問題など、枚挙にいとまがないほどである。

・マスメディアのこれほどにひどい状況について、そのことを批判する声はネットを通してしか聞こえてこないのだが、ラジオのなかにまだ、聞くに値する番組がわずかに残っている。それらをネットに乗せることは大事だし、ありがたいと思う。