2000年9月25日月曜日

H.D.ソロー『ウォルデン』(ちくま学芸文庫) その1

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 ・夏休みになったらヘンリー・D.ソローの本を読みながら、森の中であれこれ気ままに考えてみたい。そんなふうに思っていたが、できなかった。本を読むよりは動き回っていることが多かったし、客もあった。バルコニーに座って木漏れ日の下での読書、という格好いい空想も、工房の建築工事や雷雨続きで、一度も実現しなかった。

・要するに、ソローの世界に入り損ねたのだが、気にはなっていたから、枕元に置いて、寝る前の時間を『ウォルデン』の読書に当てた。しかし数ページと進まないうちにいつでも睡魔におそわれた。だからいまだに、500ページほどの文庫を読み終えられないでいる。

・とは言え、この本は一気に読むようなものではない気もする。数ページ読んでは立ち止まり、ソローの発想を心に留めて反芻する。そうしながら夢の中………。そんな読み方がかえって、ゆっくり考える機会を作りだす。何しろこの本は1世紀以上も前に書かれたものであり、その時間の経過を埋めながら読まなければ、とても今の世界にあてはめることはできないからだ。しかし、中にはまさに核心をついた現代批判と言えるようなことばもある。たとえば、次のような文章。


ぼくらはメインからテキサスまで電信を開通しようとおおわらわだが、しかしメインもテキサスも、おそらくは通信に価するほどの情報を持ち合わせてはいまい。どちらの地域も、たとえば耳の不自由な名流婦人に紹介してほしいと熱望しながら、いざ面会がかない、彼女のらっぱ型補聴器のいっぽうの先端を手渡されると、言うべきことを持ち合わせない人と同様の苦境にある。知恵あることを語るより、口早に語ることのほうが主な目的とでも言わんばかりだ。(74p.)

・1世紀前の世界では電信、そして電話が敷設されはじめていた。つまり最初のIT革命である。ソローはそれを使っていったいどんな情報がやりとりされるのかと言う。本当に必要な情報ではなく、また本当に大事なコミュニケーションでもない、ただただ急ぐこと、あるいはつながることだけに対する脅迫観念と、それを実現していることでもつ安心感。それは何よりインターネットと携帯電話に向けられるべき批判でもある。


望遠鏡や顕微鏡ごしに世界を眺めるが、おのれの肉眼で見ることはない。化学は勉強しても、おのれのパンの作られるすべを知らず、いくら機械学を学んでも、パンを手に入れる手だては分からない。海王星の新しい衛星を発見しても、おのれの目の塵は見えず、おのれ自身がどういう無軌道な無法者の衛星であるかも見破られない。………自分で掘り出し、溶解した鉱石から自分用のジャックナイフを、そのために必要な本を読破して作った青年と、そのひまに大学の冶金学の講義に通い、父親からロジャーズ製の小刀をもらった青年と、いったい一ヶ月たったらどちらが大きく成長しただろう。(73p. )


・こんな一文に出会うとまったく耳が痛い気がしてくる。僕らは自分では何一つできなくなってしまっているくせに、ほしいもの、やりたいことに対する欲望ばかりが膨れあがっている。もちろん、問題は複雑で、ソローの指摘を鵜呑みにして社会批判をしたり、自己反省をしても、何かが変わるというものでもない。けれども、時流に乗り遅れまいと流れに身を任せてばかりでは、自分のいる場所を落ち着いて見定めることは難しい。世を捨てるというのではなく、世間から離れて一人になることで生まれるあらゆるものに対する距離感。

・ソローはボストンのコンコードに住んでいたが、そこから数マイルほど離れたウォルデン湖のほとりに小さな小屋を建てて数ヶ月暮らした。『ウォルデン』はその時の経験の記録である。この本を読むと、ソローがけっして「孤高の人」とか「文明を拒絶した生き方をした人」でないことがよく分かる。彼は最新の技術に常に注目し、それに翻弄される人びとに警鐘を鳴らした。

・ぼくはとてもソローのような高潔な人間にはなれそうにない。けれども、彼のとった姿勢をちょっとだけ引き受けて、自分の経験の中で再現のまねごとぐらいはできるかもしれない。ソローが生きた時代から100年たった世界を、ソローの目と感性と思考を頼りに見つめ直してみたい。このコラムを思い立ったのはそんな意図からだった。どこまで続くか分からないが、しばらくはソローの本につきあってみようと思う。

2000年9月18日月曜日

嘉手苅林昌「ジルー」

 

jiru.jpeg・嘉手苅林昌は沖縄を代表する三絃の弾き語りだった。1920年生まれだが、三絃を手にしたのは7歳だったという。教えてくれたのは歌好きの母親だった。農業の手伝いのために10歳で学校へ行かなくなり、14歳の時に家の金を手に大阪に出た。徴兵、そして招集。クサイ島で負傷し、捕虜となって敗戦。戦後は大阪で闇物資の取引や沖縄一座の地謡をした後沖縄に帰る。1950年に初レコーディング。その後は主に、村の行事や祝いの座で歌い、沖縄中を回る。最初のLPを出したのは1965年。琉球放送のレギュラーや民謡クラブで歌い続ける。1999年、逝去。
・ジルーは嘉手苅林昌の童名で、本土で言えばジロー。年表によれば、死の直前まで歌い続けている。その童名をタイトルにした「ジルー」にはその足跡をたどるように1950年の初レコードから1975年までに録音された歌が20曲収められている。もちろん最初のものはSP盤で後はLP、すべて廃盤になっていたものをCDとして復刻している。
・聴きながらまず思ったのは、これが沖縄の民謡を集めたアルバムであるのに、喜納昌吉や林賢バンドとほとんど同じ感じで聴けたことだ。もちろん、ロックではないから8ビートはないし、英語も混じったりはしない。しかし、この二つの音楽には、確かに切れ目なく歌い継がれてきたものがある。そんな印象を持った。
・理由の一つは、沖縄の歌が歴史や時事的な物語の語り部として生き続けていること。それは、沖縄の自然や神話、あるいは昔話に触れ、戦争について歌う。古い言い伝えが生き生きとよみがえり、悲しい歴史が反芻される。あるいは何より多い恋歌は、どれもが春歌のようで開放的だ。沖縄の若いミュージシャンは、新しいリズムや楽器を取り入れ、時代に合わせたメッセージや物語を歌にするが、歌う姿勢に何ら違いはない。そんな印象が強い。


九年母木ぬ下をて 布巻きちゅる女(ミカンの木の下で布巻きしている女)
あっちぇーひゃー あんし美らさぬひゃー(あっぱれ、あんな美しい人ははじめてじゃ)
………
ちゃーならわん でぃ先じしかきてんだ(どうなろうとまずは行動あるのみ)
一番始みは我んから しかきら(はじめはおいらがナンパしてやる)
初みてどやしがよ 年幾ちなゆが(はじめてだけど彼女年幾つ)
十七、八やらや 我んね三十(十七八頃かな俺は三十)

やれー何やが やなうふじゃー小よ(だったら何なのさ いやなおっさん)
其処うてぃーふぇー じゃーふぇーしいね(此処でなんやかやしてたら)
仕事んならん(仕事できないじゃない)  「九年母木節」


・岡林信康がずいぶん前から、日本の歌は「エンヤトット」でなければだめといった発言をして、新しい歌を作りつづけている。彼なりにがんばっているとは思うが、ぼくは、そこにどうしても不自然さや違和感を持ってしまう。それは、僕らの生活感や日本の歴史や自然に対する意識が「エンヤトット」からはすでにとっくに切り離されてしまっていると思うからだ。その断絶が、日本の民謡を古くさい骨董品のように感じさせている。
・けれども、同時に思うのは、だからこそ、次々にとっかえひっかえ出てくる新しい音楽は、どれもこれもがアイデンティティ不明だということだ。そんなもの必要ないと心底感じているのなら、それはそれでいいが、今の日本人の多くは「アイデンティティ不確か症候群」を心の奥底に抱えてもいる。誰もが感じているのに、それを模索する道は容易には見つからないし、そんな気持ちを表に出す出口もない。
・「ジルー」の歌に感じる現在性は沖縄では当たり前のものだが、本土ではもちえないもの。そんなことをいっそう強く感じさせるアルバムである。

2000年9月11日月曜日

"Buffalo66'" "Little Voice"


・Wowowでは毎月二日、第一土、日曜日に、その月に放映する新しい映画をまとめて放送している。「最強宣言2days」。ずっと見逃してきたのだが、たまたまつけておもしろそうだったので何本も続けてみてしまった。今回紹介するのはそのうちの2本である。
・「バッファロー66'」は奇妙な映画だ。無精ひげのいかにもさえない感じの男が、ゴムまりのような女の子を誘拐する。彼は刑務所を出たばかりで、両親の元に行くのだが、結婚したと嘘の手紙を書いてしまっていた。で、それらしい女の子が必要だった。一見ストーカーふうに見える男は、実は異常にシャイで、途中立ち小便をするシーンでも、彼女に何度も、「絶対に見るな!!」と繰り返す。
・ 家に着くと両親が暖かく迎えてくれるが、会話の端々に、男が育った親子関係のありさまが垣間見えてくる。母親はチョコレート・ケーキを出すが男は食べない。「好きだったでしょ!」というが男は否定する。「チョコ・アレルギーだった」。母親はそれを知ってか知らずか、男に食べさせ続け、彼はそのたびに顔を腫らしたらしい。回想シーンになると突然スクリーンの中心から別のウィンドウが現れ、そこに少年時代のシーンが映し出される。すぐに激昂する父親。フットボール観戦になると我を忘れる母親。誘拐された娘はしだいに男に好意を寄せるようになり、両親に妊娠しているなどと適当なことを言い始める。父親は理由を付けては娘を抱き寄せる。4人が囲むテーブルを、カメラはいつでも、誰かの視線で3人を映し出す。これもおもしろいカメラ・ワークだと思った。
・男は刑務所に入る原因になった奴を殺しに行く。娘が同行するが、モーテルではもちろん一緒に寝ようとしない。風呂に入っているのを覗かれるのさえ嫌うが娘は一緒に入りたいという。そんなおどおどした男だが、ボーリングをするときだけはさまになっている。で、殺しの実行、というところなのだが、空想だけでやめて、モーテルに帰る。彼女の大きな胸に顔を埋めたところでおしまい。
・リトル・ヴォイスは自閉症気味の女の子の話。好きだった父親が死んでから、彼女は部屋に閉じこもって、父親が集めたレコードを聞いているばかり。外にも出ないし、母親の呼びかけにも応えない。ところが、父親の幻影が現れると、レコードそっくりに歌い出して、周囲を驚かせる。ジュディ・ガーランド、マリリン・モンロー、シャーリー・バッシーと誰の物まねでもやってしまう。場末のナイトクラブのオーナーと落ちぶれたプロモーターが売り出しにかかる。少女はたった一回だけの約束で歌うことにする。客席に父の幻影を見つけた彼女は、とりつかれたように次々と歌って客席を魅了する。
・味を占めた大人たちは、彼女をスターにすることを空想する。しかし、どう説得されても、脅されても彼女はその気にならない。予定したショーが台無しになり、漏電で家が焼けた後、母親は彼女をののしるが、逆に少女は父親の死の原因が母にあること、それが原因で自分が小さな世界に閉じこもってしまったことを母親に吐き捨てるようにいう。彼女が心を開いたのは、鳩が好きで無口な青年だけ。
・前者はアメリカ、後者はイギリスだが、共通点の多い映画だと思った。マザコンの男とファザコンの女。どちらもきわめて感受性の高いナイーブな若者が主人公で、それゆえに屈折した育ち方をしている。そしてその原因の多くはもちろん、親にある。夫婦、親子の関係の難しさと、それを正直に反映する形で成長する子どもたち。どちらも地味な映画だが、問いかける問題は日本にも共通する、今日的で普遍的なものだと思った。
・「バッファロー66'」は題名の通り60年代だろうが、「リトル・ボイス」の設定はたぶん現在である。しかし、少女の家にはやっと電話が取り付けられたところだ。田舎町で労働者階級の住む地域のせいかもしれない。歌われる歌とあわせて昔懐かしい感じのする世界。そこでそれぞれの主人公がそれぞれの仕方で救われる。映画にありがちなエンディングといってしまえばそれまでだが、殺伐とした少年犯罪が頻発する現在の日本では、そんな懐かしさや救いは求めようがない。求められないとわかっていても、それでも求めてみたい救いの手。見終わって浮かんだのはそんな感想だった。

2000年9月4日月曜日

夏の終わりに

 大学の夏休みはもう少しあるが、河口湖は9月に入って急に静かになった。8月は確かに東京に比べれば涼しいが、富士山はほとんど見えないし、道路はいつも渋滞している。どうせ土日に来るなら、9月にしたらいいと思うのだが、人びとは行列が好きらしい。去年の経験からいえば、富士山周辺はこれからが美しい。秋の高気圧が張り出せば、空は真っ青になるし、富士山はくっきり見えてくる。湖の色も深い青がきれいだ。10月になれば、山も色づき始める。 それはともかく、今年の夏はペンションのオーナーをやったような毎日だった。我が家に泊まった人は7、8月の2ヶ月間で30人弱、日帰りの人をあわせると50人ほどのお客さんがあった。一緒にする食事や焚き火を囲んでの談笑などでいままでとは違ったつきあいを経験したから、楽しかったが、8月中旬は毎日夕立があって、シーツの洗濯や布団干しもままならなかったから、本当に大変だった。最後が4年生のゼミ合宿。

19人のうち15人出席という参加率だったし、にぎやかに楽しいひとときを過ごしたから、みんなにもいい思い出になったことだろうと思う。卒論のすすみ具合を報告した3人も、きちんと勉強してきた。けがも病気もなくやれやれといったところだが、一つだけ不満が残った。森の中に来ているのに家の中にじっとしている人が多いことだ。「散歩にでも行っておいでよ」といわれてはじめて外に出る。しかし、植物や昆虫、鳥等に興味を示すわけではない。家のなかには同居人がつくった陶器がずらっと並んでいるし、ぼくがつくった木工品もあったのだが、つくってみたいという者もいなかった。
ただ一人だけ、今年小学校の教員免許を取るために他の大学に編入した阿部君だけは、授業でやっているせいか、関心の示し方が違った。ぼくのつくったフォークを使ってピラフとマカロニサラダを食べながら、「先生これ食べにくい。もっと形を考えなければ。まだまだ改善の余地がありますね」と生意気なことをいった。小学校の先生は何でもできなければならないし、何にでも関心をもたなければならない。そして何より子供好きであることが必要だが、彼にはすべてが備わっている。あとはもうちょっと学力をといったところだろうか。
と、いびるのはともかく、自然に対する関心や道具についての興味などが、最近の学生たちにはほとんど動機づけられていないと思った。夕食のバーベキューでも、にんじんはどう切ったらいいのかと迷ってしまう人がいる。家でも食事作りの手伝いなどはほとんどがしていないようだ。家庭や学校がそんなふうにして子どもたちをスポイルしてしまっている。やっぱり今年の夏に一晩泊まった友人の息子のユウジ君はアメリカのオレゴンで生まれ育った中学生だが、ナイフの使い方も焚き火の仕方も上手だった。アメリカでは親は当然のこととして子供に家の仕事を手伝わせる。学校でも体験的な学習が重視されているようだ。過保護や事なかれ主義の風潮を何とかしないと、何もできない、何にも興味を示さない人間ばかりになってしまう。そんなことを改めて感じた。

隣町の富士吉田はぼくの生まれ故郷だが、夏の終わりに日本三大奇祭のひとつ「火祭り」がある。ぼくはその日東京で用事があって夕方に帰って、急いで祭りに出かけた。「火祭り」はその名の通り町中に火が焚かれる。浅間神社から町のメインストリートを数キロ、道の真ん中に20メートルおきに5メートルほどの大松明。それに各家には井桁に組んだ薪。その間に縁日の屋台がずらり。子どもの頃を思い出して懐かしかった。 途中、富士講の宿坊(御師)がいくつか開放されていて、そのうちの一つにはいると、ユニークな富士の絵がずらり。86歳になるこの宿のマキタ栄さんの作だそうだ。無造作に並べられているところがとてもよかった。今では、白装束で浅間神社から頂上まで登る人はほとんどいないらしく、宿もやってはいないという。夏の富士登山はバスで上がった5合目からで、後は行列して山頂を目指す。富士山は秋でも登れるのに、9月になればやっぱりひっそりする。

こんな具合で、じっくり勉強、というわけにはいかなかったが、本のゲラも届いて、仕事モードになりはじめている。このHPに開いた二つのBBSにもお客さんが訪ねてくれている。出版に向けて、もっともっとにぎやかになるといいな、と思っている。 最後に工房について。7月からはじまった工事は外側がほとんどできあがった。窯も入って後は細かな内装と外側の塗装。もうすぐ火入れを試して、同居人の陶芸づくりがはじまる。そのうちぼくもろくろを回してみたくなるかもしれない。コンクリートの床には暖房が埋め込まれているから、冬はここが一番暖かいかもしれない。床にマットを敷いて読書と昼寝などというのも気持ちがいいだろう。楽しみがまた一つ増えた。