2005年9月27日火曜日

ディランの海賊版と自伝

 

dylan1.jpg・ディランの海賊版(Bootleg)は無数に出ていたが、そのオフィシャル版もすでに何種類も発売されている。"No Direction Home"はその新作でマーチン・スコセッシが編集したドキュメントのサウンドトラックということになっている。DVDで発売されているが、アメリカではテレビ放映されたというから、日本でも放送されることを期待して、僕は買わないことにした。

・海賊版はコンサートでの隠し録りやミュージシャンが売り込むためにつくるデモ・テープ、あるいは没になったスタジオ録音などさまざまだが、ディランの海賊版はその多様さや売り上げからいっておそらく1番だろうと思う。海賊版はレコード会社にとっては何ともやっかいな存在で、そのためにオフィシャルのアルバムが売れないということもおこるのだが、ディランについてはそれを逆手にとって海賊版シリーズを音のいいヴァージョンとして売り出している。1966年の伝説的なコンサートや75年の風変わりなライブ・ツア、あるいはデビューから現在までのライブをまんべんなく網羅したものなど、ファンにとっては見逃せないものがたくさんあって、僕もそのほとんどを買ってきた。"No Direction Home"はデビュー前のものから大きなヒット曲となった"Like A Rolling Stone"まで多様だが、ほとんどが未発表のものでなかなかいい。同じ曲をちょっと違うからという理由で、何曲も手にして喜んでいるというのはマニアックと言われてもしかたがないが、やはりディランだけは別格、という理由を口実に何度も聞いて喜んでいる。聞いているとスコセッシのドキュメントが見たくなる。DVDにしておけばよかったなどと考えていて、ついでに買ってしまおうかという気にもなっているから、しょうがないといえばしょうがない。

dylan2.jpg・ディランについてはCDやDVDだけでなく、つい最近本も発売された。『ボブ・ディラン自伝』(ソフトバンクパブリッシング)という題名の通り、ディラン本人による伝記である。ちなみに原文のタイトルは"Chronicles"で、Dylanとつけないところ、複数にしているところが何とも奇妙でおもしろい。著者がディランなのだから題名に名前はいらないということだろうか、複数になっているのは続編があるからということらしい。
・だいたい自伝というのはおもしろくない。過去は美化して、あるいは都合よく記憶しているものだし、文章にしようとすれば、気取りが出るし、脚色もしたくなる。ふれてほしくないところ、誤解してほしくないところなど、他人が書けば一番注目するところがふれずじまいといったこともある。だから、読みはじめるまでほとんど期待していなかった。

・ところが、読みはじめたら止まらない。彼の伝記は何種類も読んで、特に若い頃の話などは自分のことのようにわかっているはずなのに、新鮮な感じがしてとりこまれてしまった。本の章構成は時間通りではない。話題はあっちに行ったり、こっちに来たりする。知らない実名もたくさん登場する。だからわかりにくいはずなのにリアリティがある。理由はその克明な記述にあるのだと思う。彼は毎日日記をつけていたのかもしれない。でなければ、とんでもない記憶力の持ち主なのか。いずれにしても、その具体的な描写には驚いてしまった。

・ありありと想像できる描写のほかにもう一つ、とてもすがすがしい感じを覚えながら読んだ。その理由は、登場人物に対する敬意というか信頼が感じられたことだ。特に若い頃のディランは皮肉屋で辛辣な発言が多かったから、素直さと淡々とした文体は意外な感じがした。年の功なのかもしれない。

・ニュー・ジャージーの病院に入院するウッディ・ガスリーを見舞いに行った話、ジャック・エリオットを知って、その才能に驚愕し、自信喪失した話、ディブ・ヴァン・ロンクのかっこうよさや知識に憧れ、なおかつステージの仕事を世話してもらった話。彼はニューヨークに来て一年以上も、たまたま知り合った人たちの家に居候して暮らしている。そこでただ飯を食い、レコードを聴き、蔵書を読んで勉強もしている。本にしてもレコードにしても、それぞれにこだわりのあるコレクションばかりだったから、それを吸収することでディランが得たものは計り知れなかったようだ。

・この自伝は、そんなデビュー前のニューヨークでの生活から始まって、次にはウッドストックに隠遁していた時期の話に移る。反戦運動、あるいは対抗文化運動の旗手としての役割を押しつけられることの苦痛、苦悩が語られている。妻や子供との生活が乱され、次々と居場所を変えて落ち着くことのできない日々が思い出されている。ウッドストックのコンサートはディランの登場を当てにして行われたものだが、そんな主催者の思惑にディランが乗るはずもなかったことは、この本を読むとよくわかる。そして最後は、故郷と家族、それにミネソタ大学に通った話、あるいはニューヨークでした最初の恋愛の話になる。

・この第一話には、ディランが華々しく活動していた時期のことは何も書かれていない。一見バラバラに思える章立てだが、行き先のわからない迷いの時期という点では最初から最後まで一貫していて何の違和感もなかった。思いつきのように見える構成も、実際にはずいぶん考えた上でのことだということがわかる。続編が待ち遠しい。

2005年9月20日火曜日

ユートピアについて

 

yutopia1.jpg・ユートピアについての本を読んでいる。もっとも最近書かれたものはない。ユートピアということばもあまり使われない。それではなぜユートピアかというと、ライフスタイルについて考えるためである。現在の日本人の生活や生き方はいいものなのかどうか、理想に近いものなのか、あるいは遙かに遠いものなのか。それを考えるための尺度として、古今東西のユートピア論、ユートピア小説を読もうと思ったのである。


・いわゆる「ユートピア」と名がつく物語はそれほど多くはない。誰もが名前ぐらいは知っているトマス・モアの『ユートピア』とウィリアム・モリスの『ユートピアだより』ぐらいかもしれない。けれども、理想郷をテーマにしたものは、モア以前から存在するし、モリス以降にもたくさんある。あるいはSFなどに目を向ければ、これはもう無数と言ってもいい。とても全部というわけにはいかなかったが、そのいくつかと数冊の「ユートピア論」を読んでみた。


yutopia3.jpg・トマス・モアの『ユートピア』は、1515、6年頃に書かれている。当時のイギリスの政治や社会の状況を痛烈に批判した風刺小説という意味合いが強い。『ユートピア』はラテン語で、あくまで人に聞いた話として書かれたが、それは彼が時の国王ヘンリー8世の下で重要な地位についていたからである。ヘンリー8世は離婚を目的にカトリックを離れプロテスタントを国教としたことで有名な暴君だが、モアは彼によって断頭台にかけられている。理由は『ユートピア』ではなく、カトリックを支持し続けたことにある。
・「ユートピア国」には貨幣制度がない。また貴金属は価値がないものとして認識されている。つまり、財産の私有が認められていないし、国民のほとんどは、それを必要と考えていない。だから虚栄や搾取といったこともない。人が生きていくのに必要なものはまず食べ物だが、それはすべての国民の手でつくられる。もちろん都市に住んで様々な専門職に従事するものはいるが、その人たちも収穫の時期には田舎に出かけて手伝いをする。そうすれば、一日6時間働くだけで、国から飢饉はなくなるという。したがってユートピア人には、一日の3分の1を自由に過ごすゆとりがある。それを使って人びとは団らんし、また勉強をする。それはきわめて合理的で、清く正しい世界である。

・生活の必需品にしろ文化品にしろ、あらゆる必要な物資を潤沢豊富にそろえるのには、6時間という時間は決して足らないどころか、むしろ多すぎるくらいなのである。このことは、他の国々においてはどんなに多くの国民が遊んで生活しているか、ということをとっくり検討する時、自ずと判明することがらである。(84ページ)

・遊んで生活している人とは、司祭や聖職者、王侯貴族、地主、紳士といった支配層、あるいはそれに雇われている人たちをさしている。だれもが働き、財産を一人占めしなければ、飢える人が出る社会は克服できるし、病院をつくって伝染病による大量死を防ぐこともできる。ここには当時のイギリスやヨーロッパ諸国の現状に対する痛烈な批判が読みとれるが、そこにはまた、マルクス以前に発想された共産主義的な理想郷という性格もうかがえる。

yutopia2.jpg・ウィリアム・モリスの『ユートピアだより』は1890年に書かれている。モアの『ユートピア』から400年近くたっているが、イギリスの社会、とりわけ人びとの生活は改善されていない。もっとも、社会そのものは大きく変動して産業革命が起こり、イギリス人の多くは都市生活者になった。生活の劣悪さと貧困は、その都市で起こる現象になっている。19世紀にはイギリスは世界中に植民地をつくり、ヴィクトリア女王の下でもっとも繁栄する国となったが、モリスがユートピアを描いて批判したのは、モア同様に時の支配層である。ただし、そこには近代化の中で台頭したブルジョアという新しい階級が含まれている。モリスはマルクスに共鳴して社会主義的な社会を提唱するが、そこにはまた、機械によって支配されない人間の手仕事やデザインや美観を重視した建築物や道具、あるいは印刷物といった発想と実行がある。彼は思想家であり作家、あるいは詩人であると同時に、建築物や木工用品のデザインを手がけ、自著を自分の手で出版した。ロンドン郊外にあるケルムスコット・ハウスには当時の印刷機が残されている。


yutopia5.jpg・ケルムスコット・ハウスはロンドンのテムズ河畔にある。ケルムスコットはコッツウォルド地方にある村の名で、モリスはその間をボートで行き来した。ロンドンからコッツウォルドまでのボートでの行程は『ユートピアだより』にもある。残念ながら今回の旅ではケルムスコットには行けなかったが、その近くのバイブリーでは、マナハウスに一晩泊まって周囲の景色や雰囲気を楽しんだ。

・モリスが『ユートピアだより』で描いた世界は近代化によって劣悪になった社会環境とブルジョア階級の強欲さを批判したもので、やはり人びとは衣食住に関わるものを金銭でやりとりはしないし、また私物化しようともしない。そして大量生産で出回る粗悪品は排除されている。衣食住に必要なものは人びとが共同して生産し、そこに従事する仕方も積極的なものだ。つまり、人びとは自分の生き甲斐としてものを工夫してつくり、技を磨こうとする。20世紀になってモリスの理想は一つはロシア革命とソヴィエト連邦の誕生となって実現する。そしてもう一つは大量生産品にデザインや品質の工夫をするといったバウハウスの発想や、アメリカにおける商品文化の台頭へとつながっていく。 

・トマス・モアの『ユートピア』は外国に旅して理想郷にたどり着いた者の話として描かれている。それはコロンブスのアメリカ大陸発見以降の大航海がヨーロッパにもたらした驚きや富、そして世界認識の変化を反映したものだ。一方、ウィリアム・モリスの『ユートピアだより』は主人公が一時期未来に行ってしまうという想定で書かれている。異世界の創造が空間から時間に移行したというのは、19世紀がそれだけ未来や将来のことを現実的なものとしてとらえるようになったことを意味している。


・20世紀になると、この時間を未来に設定した物語がたくさん書かれることになる。その代表はH.G.ウェルズで『タイムマシーン』といった時間を旅する道具そのものが題名の小説も書かれた。科学技術と機械によってもたらされる世界は、一面では人びとに無限の可能性を夢見させる。しかしまた同時に、とんでもない悪夢の世界も想像させる。機械に抑圧される人間、機械を使って管理される人間。20世紀の前半だけでなく、後半、あるいは最近でも、このようなテーマで書かれる小説や映画は数多い。


yutopia6.jpg・「デストピア」つまり逆ユートピアをテーマにした作品としてはG.オーウェルの『1984年』と『動物農場』が有名である。それらは革命後に全体主義的な国家に変貌したソ連やヒットラーのドイツを批判した物語だと言われたが、また同時にメディアが発達して管理化の進んだ先進資本主義の社会にも当てはまるのだともされた。『1984年』は1948年に書かれ、普及し始めたばかりのテレビが国民を監視する道具として使われる独裁国家が舞台だった。小さな部屋の壁一面をおおう巨大なテレスクリーンは双方向で、政府の宣伝を流すと同時に人びとの行動を監視する。空恐ろしい世界として描かれたが、今多くの家にはテレスクリーンに負けない大画面のテレビがあり、双方向のインターネットに接続されたパソコンがある。そして町のいたるところに監視カメラ……。それを異様と思わないのは、それが危険なものではないとわかったからなのだろうか。それとも危険さに無自覚なだけなのだろうか。(上の写真はオーウェルがはじめて就職したロンドンの北にある本屋さん跡に掲げられた記念碑、今はピザ屋さんになっている)


・科学技術と機械を駆使した上にできる理想郷とそれとは反対に、それらを全く拒否した上で達成されるユートピア。この関係は60年代にでた「対抗文化」のなかでも大きな議論となる。クリスチャン・クマーの『ユートピアイズム』(昭和堂)にはユートピア理論に共通してみられる特徴として人間とその理性に対する信頼があるという指摘がされている。


・物質的に豊かで、社会的に調和が保たれ、個人の自己実現が可能であるような多少とも永続的な状態を生み出すことを不可能にしてしまうものは、人間や自然、社会の中には存在しない。(48ページ)

・60年代の対抗文化は「性と文化の革命」と言われた。欲望の解放を可能にし、なおかつ人びとが競争や対立ではなく、共同と融和によって暮らせる社会。その理性と人間の欲望、それを誘発させて自己増殖する資本主義のシステムの関係に取り組んだマルクーゼは、『エロス的文明』『一次元的人間』などを書いて「対抗文化運動」のイデオローグとなった。

・このような問いかけはしかし、70年代になると説得力を持たなくなってしまう。マルクーゼのことばで言えば「ニセ」の欲望、快楽、あるいは幸福が、「真の」もの以上に魅力的なものになって人びとを魅了するようになったのだ。「消費社会」の到来が「対抗文化」の後に訪れたというのは何とも皮肉だが、その原因や理由は、必ずしもきっちりと検証されたわけではない。

yutopia4.jpg・夏休みに読もうと思った本は、その半分以上が残ったままだ。読書の秋にがんばろうということにしているが、読まなければならない本が芋づる式に次々出て、ため息ばかりをついてしまうこのごろである。読めなかった理由はイギリス・アイルランド旅行だが、ロンドンでは、その「対抗文化」やその後の「若者文化」についてもふれてみようと思った。60年代に有名になったロック・ミュージシャンの多くは大富豪になって城の住人になり爵位を授かったりしている。その後を追いかける気はなかったが、パンク発祥の地の「キングスロード」は落ち着いたファッション通りになっていたし、今一番元気だという「カムデンロック」も、にぎやかなのはがらくた市で、新しい文化が生まれそうな感じは受けなかった。もっとも「コミケ」や「フリマ」が最近の若者文化の特徴だから、両方の通りとも、それなりに新しかったのかもしれない、などと納得したりもしている。


2005年9月15日木曜日

トイレ・喫煙・etc.

 

・出かけたときにトイレの場所がわからず困るといった経験はたまにある。子供が小さかった頃はいつでも気にして、早めにおしっこを確認したことを今でもよく覚えている。それでも、たとえば渋滞の高速道路などでは、もうどうしようもない。仕方がないからペットボトルに、といったことがあったかもしれない。そんなトイレについての困った体験を、今回の旅行で久しぶりにした。


・ロンドンの町には公衆トイレが少ない。特に地下鉄駅には見あたらないし、あっても有料のが一つといった具合だ。それはデパートやショッピング・センターでも同じで、30ペンスを払って用を足すといったことが何回かあった。一回は突然、大きいのをもよおしてきて、乗りもしないのに地下鉄の駅に行って有料トイレに入った。当然、すぐにはすまない。長居をして、すっきりしたところでドアを開けると数人の行列。誰に不平を言われたわけではないが、視線があったとたんに恥ずかしくなってその場を急いで離れた。パートナーが笑いながら「使用中はなんて表示されていたかわかる?」なんて聞いてきたが、そんなことに注意を向ける余裕があるわけはない。

・けれども気になって別の機会に確認すると、"Vacant"と"Engaged"となっていた。「空き」はわかる。しかし "Engaged"は「従事する」とか「没頭する」といった意味で「使用中」のことだとはすぐにはわからなかった。だから、従事したり没頭したりするのは利用者のことかと勝手に考え、ずいぶん直接的な言い回しだと思ったりした。後で辞書を調べるとたしかに「「使用中」とある。そして従事するのはトイレそのもので、そこで用を足す人の様子を形容したものではないことがわかった。しかしそれにしても素直な言い方で、アメリカでは"Occupied"(専有中)とちょっと遠回しである。


・そのトイレだが、日本では便所という直接的なことばは最近ではほとんど見かけない。かわりに手洗い、化粧室、あるいはカタカナでトイレ、さらには英語でrest roomと表示されていたりする。アメリカでもrest roomが多かったように思うが、イギリスやアイルランドではどこでも「トイレ」で一貫していた。では、性別はどうかというと"Lady"と "Gentleman"あるいは"Gents"で、アメリカの"Woman""Man"に比べて丁寧な感じがする。さすが紳士淑女の国と思ったりするが、それは何百年も当たり前に使われてきたことばだから、特に丁寧な言い方という感覚はないのかもしれない。


・イギリス人(といってもあまりに多様で驚いたが)は、アメリカ人ほど大きくはない。僕と変わらない人も大勢いる。けれども、トイレの小便用の便器はえらく高い位置にあって、いつでも背伸びをする感覚を強要された。しかし、違いは背の高さではなく足の長さかと気づいて安心したり、がっかりしたり。また観光地などではステンレス製の樋のような形状をしているところが多くて、これにもずいぶん違和感をもった。樋が膝上あたりにあるから、並んで用を足している人たちの小便が混ざり合って流れていくのがよく見えるからである。連れションするのも多生の縁ということか、などと妙な納得をしたが、感覚的にはいい気持ちではなかった。


・これほどトイレが気になったのは、その少なさを不安に思って、すぐに尿意を感じてしまったからだ。用を足しても30分もするとまたすぐにしたくなる。で、行っても少ししか出ないし、我慢すればできないわけではない。しかし、したくなる。これは明らかに軽い神経症で、バスに長時間乗るときなどは飲み物を控えるようにせざるをえなかった。イギリス人はいったい、この自然現象(Nature calls me)をどう処理しいているのだろうか。

・僕はヘビー・スモーカーではないが、我慢するのはつらい。だから飛行機で禁煙を強いられる海外旅行は、ここ数年敬遠してきた。行かなかった最大の理由がそれだったといってもいい。もっとも、全面禁煙になる前から飛行機は大嫌いで、特に離着陸の不安定なときにはいつでも生きた心地がしないから、なおさらという感じだった。それが今年の春にしたハワイ旅行で少しだけ払拭された。飛行機は相変わらず怖いが、タバコは吸わなくても我慢できることがわかったからだ。ただし、アメリカ行きの便ではライターが没収されるというニュースがあったこともあって、飛行機はもちろん、どこでも吸いにくいのだろうなと予測はしていた。そうは言っても、吸いなれているウィンストンの赤箱を1カートン、バッグに入れることは忘れなかったが……。


・ところがロンドンに着いてみると、建物内には禁煙マークが目立つが、一歩外に出れば禁止する表示は何もない。実際に多くの人が歩行喫煙をしているし、吸い殻入れがないから平気でポイ捨てしている。路上には吸い殻が一杯なのである。本当にほっと一息、ついでに久しぶりの一服。頭がくらくらするほどよく効いた。
・確かめたわけではないが、イギリスにおける建物内での禁煙は、条例で一方的に定められたもので、イギリス人の間に自発的な強い動きがなかったのではないかという気がした。実際、建物内ではあってもホテルのロビーには灰皿がおいてあるところがあったし、喫煙可の部屋もあった。レストランでも必ず席を喫煙にするかどうか尋ねてきて、一角では食後においしそうに吸う人が多く見かけられた。

・またまたところがである。アイルランドにはいると状況は一変。建物内ではほとんど全面禁煙になった。可哀想なのはパブで、酒とタバコはつきものだが、客たちは吸いたくなると表に出て外で吸わなければならない。だからどこのパブも入り口にはタバコを吸う酔客がたむろする。観光客にとってはきわめて入りいにくい光景だが、観光客を呼び込むためにマナーの徹底を急ぐという姿勢がありありだった。アイルランドのパブでは、観光用として新しく作られたゾーンはともかく、従来からある店では、ほとんど食べるものがない。客はただひたすら黒ビールを飲んで、しゃべり、歌い、踊る。そこにタバコは不可欠だと思うが、そのイヤな煙と臭いは消さなければならないというわけである。ところが店内は、タバコの臭いは消えても小便の臭いが充満しているから、決して居心地がいいわけではない。聞きたいライブ音楽がなければ、とても長居はできないし、そもそも入ったりしないだろう。第一僕は、最初の晩、その入りづらさに躊躇して、あきらめてホテルに帰ったのである。


・広告塔や立て看板の有無、建物の様子、町行く人の格好などを比較すると、イギリスとアイルランドの生活格差がよくわかる。イギリス人は背筋を伸ばして大股で歩くが、アイルランド人は少しうつむき加減で、たらたらという感じがする。アイルランドは近代化が遅れ、今やっと経済成長をし始めたところだが、そんな状態が人びとの挙動からもよくわかる。そんなところへの突然の禁煙化条例なのだと思う。聞いたわけではないが、パブの客はさぞぶつくさ文句を言いつつ、法を破ることはせずに、タバコを吸いに店の外に出るのだと思う。
・それに比べてイギリス人は、たとえ禁煙が国際的な風潮であっても素直には従わない。そんなプライド、あるいは個人主義的な考え方があるのだろうか。つんとすまして姿勢を正して歩くイギリス人と、田舎で出会う人たちの人なつこさや親切さを感じさせるアイルランド人。そう対照させてもいいかもしれないが、イギリス人が冷たいといわけでは決してない。僕らが行き場所を探しあぐねてウロウロしていると、どの人も、声をかけて助けを申し出たりしてくれた。あるいは、こちらから尋ねれば親切に応じてくれた。

・そう思うと、最近の日本人のことが気になった。東京にはすでに、田舎の人情はない。しかしまた、自分の行動には自分で責任をという個人主義的な態度も育っていない。禁煙条例が出れば渋々したがう従順さがあっても、人びとの間につながりを感じさせようとする態度はほとんどない。イギリスもアイルランドも人びとの顔は本当に多様だ。その人たちが互いに相手を意識し、気遣いあって生活している。対照的に日本はというと、ほとんど同じ顔をした人たちが互いに全くの無関心・無関係でいるから、一見平穏に見えても、自分勝手で殺伐とした感じがしてしまう。

 

・ロンドンの街角のあちこちにStarbucksがあった。それは、リバプールにもブリストルにもあったから、イングランドの大きな町ならどこにでもあるのだろうと思う。もちろん「スタバ」でなくても「カフェラテ」は注文できた。シアトルで生まれたコーヒー・ショップがあっという間に世界中の都市に出現したということなのだろうか。僕は値段の高いスタバは使わず、名も知れないスタンドやカフェを利用したが、イギリス人がこれほどコーヒーを飲む人たちだとは想像もしなかった。ここは紅茶の国ではなかったのか。


・それは世界(とは言っても一部の都市だが)同時発生的な流行の象徴だと言っていいかもしれない。しかし、そのように感じたのはほかにもいくつかある。女の子(時にはおばさん)の臍下(あるいは半ケツ)出しである。ぼくはあまり都心に出て行かないから、大学でおとなしいのをちらほら見かける程度だったが、ロンドンでは、その洪水に悩まされた。しゃがんだりすると本当におしりが半分露出してしまう。目のやり場に困るというよりは、そこに目がいってしまう自分の関心の強さにとまどい、見ていることをさとられることに恥ずかしさを覚えた。もっともそれは最初の数日で、しばらくたつとごく当たり前の光景に見えてきたから、不思議といえば不思議である。


・しかもそれはロンドンばかりでなく、イギリスの各地、あるいはアイルランドでも見かけ、女だけではなく男も、町行く人ばかりでなくウェイターやウェイトレス、店員などにも多かったから、すでに先端的な流行ではなく、ごく当たり前の普段着になっているのだろうと思った。これをもちろん非難する気はないが、腹の突き出た人まで平気で晒しているのはどうかと思った。特に男の半ケツなどはオエッとしてしまう。自分の後ろ姿に気づいているのだろうか。自信のある女の子は腰にタトゥをしていて、そこが見せる場所であることをはっきり自覚していたが、本物ばかりでなく一時的なものを書いてくれる場所は、確かにあちこちにあった。見せることはそこを美しくすることにつながる。とは言え白人の肌はけっしてきれいではない。イギリスの水はミネラルがたくさん入った硬水で、肌の油分をとってかさかさにしてしまう。だから老化が早く、大きなシミができてしまうようだ。そんなこともいっそう目立ってしまうから、流行とは言え誰でもというわけにはいかないと思った。

・こんなふうに外国に行って異文化にふれると、いろいろなことに気づき、とまどい、また興味を持たされる。今回の旅で感じたことはまだまだあるが、最後にもう一つだけ紹介しておこう。今回の旅では主に鉄道を使った。Brit Railパスを買って一等車の旅を楽しんだのだ。そこで気づいたのは駅に改札口がないことで、最初はこれでいいのかと思った。もちろん、車内では車掌が検札に回ってくる。しかしそれは日本でも同様で、なおかつ出入りには改札口を通らなければならない。人を信用することを前提にした制度だと言えるかもしれない。だからキセルをしたときには1000ポンドだったか1万ポンドだったか、高額の罰金が問答無用で科されるようだ。そう考えると、人を信用しない代わりに、不正をしても寛容な態度をとったりする日本の鉄道との違いがよくわかる。


・たとえば、同様のことは駅や車内での放送の量でもわかる。日本では、「白線の内側で待て」「降りる人が済んでから乗れ」「〜〜」とおせっかいがましいが、イギリスでは次の停車駅がどこかという放送もほとんどなかった。それはじぶんで判断しろということだろうが、旅行者にとっては大きな不安の種である。特にリバプールからブリストルまで行くときには、途中で3回も乗りかえたから、駅に着くまでに名前をチェックすることに気を使った。ところが駅名の表示にはまた次の駅が書かれていない。特急だったら意味はないといえばそれまでだが、違いというのはこうも徹底するものかと感心してしまった。


・こういう国ならたぶん、自己責任という意識は、誰に言われなくても当たり前のこととして認識されているだろう。それに比べると日本は自分の判断で勝手に動くなという社会で、自己責任は、それに背いたときの罰則的な言辞として使われる。そんなことが、事細かな経験の端々で感じられた。ついでに言っておくと購入した鉄道パスは4日間有効のもので、使用した日付を書き込むところがあった。1日目は車掌が「これが大事」といって書き込んだから、その後も車掌が書くものと思っていたら、誰も書き込まない。ずいぶんいい加減だなと思い、それをいいことに短距離の部分ではあったが2日もよけいに使ってしまった。後で旅行会社の人に話をすると、そこもやっぱり自分で書き込むべきところだったと言われてしまった。怪しまれて「何日使った?」などと問いつめられ。不正使用だと判断されたら1000ポンドの罰金だったかもしれない、と考えたらひやっとしてしまった。自己責任の意識が薄い証拠だと、つくづく実感させられた。

2005年9月6日火曜日

アイルランドのパブ

 

パブでギネスを飲みながらアイリッシュ音楽を聴く。それがこの旅の目的の一つだった。アイルランドで訪ねる都市はダブリンとコークで、ガイドブックにはどちらの街にも音楽が満ちあふれていると書いてあった。
けれども、コークの街を歩いても、あまり音楽は聞こえてこない。メインの通りはにぎやかで華やかだが、一歩はずれると閑散としていて汚かったりする。とにかく、工事中の現場が多い。アイルランドはEUに加盟してから観光都市づくりにがんばっていて、特にダブリンとコークは街の改造に忙しい。それでずいぶん便利になり、魅力も増えたのだろうが、古い建物が次々壊されコンクリートに変わっていくのは、ロンドンの煉瓦や石の家を見てきただけに、対照的に見えてしまう。街の整備を急ぎすぎているせいだろうか。あるいは修復困難なほど廃れた建物が多いということなのだろうか。


そんな街の所々に昔ながらのパブがある。昼間から開いていて、入り口にはほろ酔いばかりでなく泥酔気味の人が立ってタバコを吸っていたりするから、なかなか近づきにくい。もっとも目が合い、「ハロー」というと、素朴な顔に愛嬌のある笑顔が見えたりする。けれども、やっぱり警戒してしまう。昼間からこれだと夜はもっとやばいかも。などと最初のイメージは消えて、気持ちはどんどん退却を始めている。で一日目は、あちこちウロウロして結局入らずじまいだった。ライブはだいたい夜だけで、しかも9時過ぎがふつうのようだ。こちらに来てから、そんな遅くまで起きていたことがない。


目星をつけたパブに入る。三軒並びで左隣も同じ時間にライブをやる。開始は9時半からで「父と子」という名の二人組がやるという。パブの中は薄暗く、小便臭い。監視カメラのビデオモニターが二つもあって、客はまばらだ。カウンターの中にはセクシーな女性が一人。ギネスではなく、コークのマーフィーという黒ビールを注文する。1パイントで3ユーロ15セント。心地よい苦みですっと入っていく。

バンドは本当に父と子の組み合わせのようだ。父がギターを弾き歌を歌い、息子がベースをやる。アイリッシュ音楽ではないようでちょっとがっかりしたが、ギターのイントロを聴いてびっくり。ディランの曲から始まったからだ。父のコスチュームはヴァン・モリソン風で白髪に黒い帽子がよく似合っている。歌は2曲目も3曲目も、ずーっとボブ・ディランで、割と初期の知っている曲ばかりだったので、ついつい一緒に声を出して歌ってしまった。

ライブが始まると続々人が入ってきて、いつの間にか席は埋まって立ち見で一杯になる。踊り出す人もいてにぎやかだが、おもしろいのは文字通り老若男女が入り交じってディランの曲を口ずさんでいることだった。世代ギャップが当たり前の、日本ではこんなことはまずない。昼間危惧していた酔っぱらいのおっちゃんたちはどこに行ったのか、怖い雰囲気という最初の印象は完全に払拭された。「父」はディランを40分ほど歌って、休みもせずに次はジョニー・キャッシュを歌い始めた。こんな調子だと、ヴァン・モリソンもやるかもしれない。しかし、時間は10時半を過ぎていて、明日が早いから出ることにした。

"Legends of Irish Folk"

 

ireland6.jpg・ダブリンの宿は有名なトリニティ・カレッジの近くにあって、学生寮を夏休みの間だけホテルにしているところだった。だからホテルには当然あるべきものがない。ただ、繁華街のど真ん中にあるから便利さは一番だ。その学生寮から出て1分も歩かないところに大きなホール(Gaiety Theatre)がある。そこでアイリッシュ・フォークのコンサートをやっていることに気がついた。夜の8時からで、どうしようか考えていると、切符を買いませんか?と言ってくる人がいた。急に都合が悪くなったようだ。チケットはすでに売り切れているというから、売り場で本物かどうかチェックして買うことにした。
・このあたりはクラフトン通りという。観光用に再開発され、ブティックやレストラン、あるいはパブが並んでいるところだ。ストリート・パフォーマンスも多種多様で、観光客たちであふれかえっている。

ireland7.jpg・最初はもの珍しくあちこちぶらぶらしていたが、しばらくすると人混みに疲れうんざりしてきた。いかにも作られたという雰囲気で、きれいで華やかだが、その分、嘘くさい。昨日のコークの小便臭いパブが懐かしくなった。ダブリンはコークに比べたら人口も倍以上だが開発のスピードもまた恐ろしく早いようだ。都心には路面電車が開通したばかりだし、空港までの高速道路も建設中だ。しかし、最初から堅いことは言わずに、今日は観光客になって、夕食はジェームス・ジョイスが通ったというパブに入り、鮭のサラダとアイリッシュ・シチューを食べ、ビールはギネスを飲んだ。シチューは肉とニンジン、タマネギ、それと大きなジャガイモがごっそり入って、塩と胡椒だけの味つけのきわめて素朴なものだが、なかなかおいしかった。イギリス人もアイルランド人も、本当にたくさんジャガイモを食べる。おとといはコークで頭をとっただけで丸ごと蒸した鯛のような魚を食べたが、やっぱりその下にはマッシュしたジャガイモがごっそりのっていた。



ireland8.jpg

ireland9.jpg


ireland10.jpg

・で、メイン・イベントのコンサート。出演者のほとんどを僕は知らなかったが、アイルランドではよく知られた大御所たちばかりだったようだ。そして歌われた歌も、誰もが知っているものばかりのようで、最初から会場では手拍子や足拍子がおこり、ハミングやことばでの合唱がつづいた。客の大半はたぶん僕よりも年上の人たちで、いかにも懐かしそうに聴いていた。そのうちの何曲かは僕にもわかったが、それはヴァン・モリソンやシニード・オコーナー、あるいはチーフタンズやアルタンで知っているものばかりで、歌の感じは必ずしも一緒ではなかった。しかし、アイリッシュ・シチューのように素朴な感じがして、とても親しみを感じた。10年、20年、あるいは50年、100年前の歌が今でも歌われていて、若い世代もアレンジを変えて歌い継いでいる。アイルランドの音楽は一度消えかかったが、うまく復活したということが、よくわかった気がした。


・出演したミュージシャンは4人で、その年齢を足すと300歳を超えるという。とてもそうは見えない若々しいパフォーマンスだった。日本では考えられないことだが、僕はこのステージをごらんの通りフラッシュをたいて撮った。文句を言われるのではと冷や冷やだったが、何の注意もされなかった。偶然とはいえ、すばらしいコンサートに出会えて最高の経験だった。


ireland11.jpg

ireland12.jpg