2010年11月29日月曜日

秋の山歩き

 

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・いつから始まったのか不確かだが、町の企画した「紅葉祭り」が終わった。年々人が増えて、休みの日は大渋滞になったりもして、迷惑だと感じる思いがその分、増している。車道に人が溢れて、車にお構いなしに横断したり、カメラを構えて車道にはみだしたりするから、運転していてひやっとしたり、いらついたりすることが何度もあった。当然、自転車もこの間は一度も乗らずじまいで、その分、誰もいない付近の山歩きや、薪作りに汗を流した。

forest88-2.jpg・11 月に入って登った山は、まず、山中湖の大平山。湖の北岸からほぼ直線的に一時間ほど登ると、目の前に富士山があらわれた。眼下に山中湖、遠くには南アルプスや丹沢のやまなみ。ちょうど昼時だったから、頂上には十数人の人たちがいた。おむすびとリンゴを食べた。来た富士演習場から砲弾の響きがうるさかった。飯盛山、長池山を歩いて湖畔に戻る。帰りに「ファイヤーライフ山梨」によって薪にする木を四立米注文した。

forest88-3.jpg・翌週は芦川村のスズラン群生地の駐車場に車を止め、林道を歩いてどんべい峠から黒岳に登った。黒岳は御坂山塊の最高峰で河口湖から北を見ると、一番目立つ峰だ。途中、ブナとみずならの林があり、積もった落ち葉を踏んで登った。群生していたトリカブトが種をつけていたので、袋に一杯摘んで持ち帰った。家のまわりに蒔いたら、紫の花畑ができるかもしれない。黒岳の展望台は富士山を見るポイントだが、黄砂の影響でかすんでしまっていた。

forest88-4.jpg・若彦トンネルができて、芦川村には毎週のように野菜を買いに行くようになった。で、ついでにしばらくは、芦川周辺の山を歩こうということになって、芦川村から甲府に抜ける新鳥坂トンネル野手前に車を停めて、鶯宿峠までに尾根歩きをした。上り下りがきつくてコースを誤ったと後悔したが後の祭り。鶯宿峠から林道を下り、県道を芦川村まで戻って、さらに新鳥坂トンネルまで歩いたのだが、ほとんど休まずにたっぷりと五時間以上かかった。しんどかったが、紅葉が素晴らしかったし、葉っぱが両面表という変わった檜も見ることができた、それに、眼下に見下ろす甲府の町もなかなかの景色だった。

forest88-5.jpg・芦川村の三回目は、どんべい峠まで車であがり、釈迦ヶ岳を目指した。前回が強行軍だったから、今回は楽をして往復二時間だけ。釈迦ヶ岳の山頂近くはロープの着いた急坂でちょっときつかったが、岩場の頂上は360度のパノラマで、雪化粧した富士山や南アルプスの山並み、そして八ヶ岳が美しかった。日差しがきつくTシャツでのんびりした。帰りがけに同年齢のカップルと行き違ったが、出会ったのはその人たちだけ。そういえば、先週は山の中では誰とも出会わなかった。こんな景色を独り占めできるとは何と贅沢なことか。下界で味わう憂鬱さがつかの間解消される瞬間である。

2010年11月22日月曜日

晩秋の憂鬱

・毎年のことですが、ゼミの4年生の卒論が最後の仕上げの段階になっています。就職先未定者もかなりいて、卒論に集中できないということもありますが、今年のできは例年になく悪いです。特にひどいのは、読んだ本やネットで見つけた文章を、ほぼそのまま盗用して、それが悪いことだと思っていない点です。「パクリ」は駄目ということは、3年生の時点から、ゼミで繰りかえし言ってきたのに、いったい何を聞いていたのかと、学生たちににコメントを出すたびに雷を落とさざるを得ない状況です。

・ネットのおかげで、自分の調べようとしていること、考えようと思っていることが、ちょっとグーグルすれば、簡単に見つかるようになりました。学生たちにしてみれば、それを利用して要領よくまとめることがなぜ、してはいけないことなのかわかりにくいのかもしれません。あるいは、安直さは自覚しても、就職で頭がいっぱいで、卒論をがんばろうという気持ちがわいてこないということもあるでしょう。しかし、そんな付け焼き刃的な卒論を何本も読んでいると、憂鬱になって、読む気も起こらなくなってしまいます。

・そんなわけで、ここのところ気分は優れないのですが、プライベートなことでも面倒なことに煩わされています。高齢の父親が急に衰えて、いろいろしておかなければならないことに直面しているのです。葬式はどうしたらいいのか、遺言状をどうするのか、元気なうちに確かめておかなければなりません。介護や入院が必要になったらどうするか、相続の手続きはなど、わからないことばかりですから、ネットを検索しては、一から勉強しています。

・長寿といえども、死が近づいてくることを自覚すれば、不安や恐怖に囚われるようです。会えばすぐにあそこがいたい、ここが悪いと言った話をしてきます。夏前まではしていた街歩きもしなくなりましたし、近所への買い物もしなくなりました。そんな両親を見ていると、もう少しつきあう時間を増やさなければとも思うのですが、自分の仕事や生活を考えると、なかなかそういうわけにもいきません。

・憂鬱になる材料はまだまだあります。ぼくは大学に就職して以降、「長」と名のつく役職には、これまで一度も就かずにここまで来ました。何度か打診をされたことはあるのですが、その都度断って、何とか免れることに成功してきました。しかし、今度はそうもいかない状況に追い込まれそうな気配です。もちろん、今回も断固拒否の態度は貫くつもりです。日本人的な関係の中では、もちろん、そんな態度は疎まれます。だから自問自答をし悩んだりもするのですが、引き受けたらもっとしんどいことになりますから、憂鬱だといってばかりはいられません。

・晩秋になって、家から見える景色は赤や黄色に変わりました。天気のいい日を見つけては、周辺を歩いて、気分転換を図っています。ストーブを焚き始めて薪を積むスペースが空いてきたので、みずならの木を4立米ほど買って、チェーンソーでの玉切りと薪割りをはじめました。いつもと変わらない季節の仕事です。冷たい風が吹く中でじんわり汗をかくことは、しんどいけれども爽快なことでもあります。今年ほど、こんなことをしているときが一番いいと感じた年はありません。

2010年11月15日月曜日

ウィリアム・ソウルゼンバーグ『捕食者なき世界』文藝春秋

 

・生物の多様性を守るための会議「COP10」が名古屋で開かれた。さほど大きなニュースとして扱われなかったし、また画期的な提案がなされたわけでもなかったようだ。しかし、1年間に約4万種もの生物が絶滅していっている現在の状況は、本当はもっともっと、深刻な問題として真剣に考え、対処しなければならないことなのだと思う。何しろ、その原因のすべては人間にあって、現在の絶滅速度を放置すれば、やがて人間そのものが絶滅することになるからである。

journal1-139.jpg ・ウィリアム・ソウルゼンバーグの『捕食者なき世界』は生き物の生態を研究し、その変調を突きとめ、原因を究明した生物学者たちの物語である。現在地球に生きる生物は、自然環境に適応して進化してきた種である。そしてそれぞれの種が安定して生きつづけるためには、それぞれの間にあるバランスが保たれなければならない。肉食獣が草食獣を食べ、草食獣が植物を食べる。植物が肥やしにするのは動物の死骸や排泄物、そしてもちろん、朽ちて土に帰った植物だ。だからそのバランスが一つ崩れれば、その影響は生物全体に及ぶ。

・生物の頂点にいるのは他の生物を補食しながら、みずからは被食されない動物だ。アメリカ大陸では、移民が始まり、開拓が進むにつれてオオカミやコヨーテ、そしてピューマといった猛獣が人間の手によって駆逐された。人や家畜を襲う危険で恐ろしい生き物として敵視されたからだ。人はこのほかにも、肉や毛皮を取るためにアメリカ・バイソンやラッコ、狐といった動物も殺して、その数を激減させている。一方で鹿などは狩猟の獲物として保護されたりもしたようだ。

・捕食動物がいなくなれば、被食動物の数は当然増える。北アメリカでは鹿の種類が急増して、森の木や草が食い荒らされてしまった。その典型はイエローストーン公園で、そのことに気づいてカナダで捕まえたオオカミを放つと、鹿の数は減り、森が再生しはじめたのだという。被食動物はたえず捕食される危険を意識しながら生きているが、簡単に捕まって食べられてしまうわけではなく、場合によっては捕食動物に傷を負わせたり、反対に殺してしまうほど反撃もするようだ。イエローストーン公園に放たれたオオカミとワピチ(シカ)の関係もそのようなもので、オオカミが捕食できるのは怪我をしたり体の弱いものや子どもだった。けれども興味深いのは、ワピチにはしばらく忘れていた被食という恐怖心がよみがえって、その分、オオカミに捕食される以上に数が減ったということである。

・この本には、そんな生き物間の捕食と被食の関係が人間の手によって崩された結果の例がいくつも登場する。アリューシャン列島に住むラッコは18世紀に、その毛皮を求めた者たちに次々殺されて絶滅の危機に瀕した。

1911年にラッコ・オットセイ保護条約が結ばれ、言うなれば休戦が宣言されたが、そのころには捕獲できるほどのラッコは見つけられなくなっていた。殺戮がはじまってから一世紀半で、50万から90万匹のラッコが太平洋から消えたのだ。

・生き延びたわずかのラッコが再生して、大群となる地域が確認できるようになったのは1960年代になってからである。その大群が繁殖する地域と、ほとんどいない地域を観察した生物学者が見た違いはジャイアント・ケルプという昆布の有無だった。ラッコの住む海にはジャイアントケルプが森のように繁茂して、それを食べるウニやさまざまな生き物が豊富に生きている。ところがラッコのいない海では昆布を食い尽くしたウニだけになり。やがてウニもいなくなった。

・日本では今年もあちこちで熊や猿が住宅地にやってきて人を襲ったというニュースが頻発している。また、鹿によって森が荒らされて危機的な状況にあると言われるようになって久しいし、イノシシによる農作物の被害も甚大だという。鹿を捕食するニホンオオカミは絶滅しているし、植林が進んだ日本の森では、広葉樹がもたらす栗やドングリ、あるいはブナの実などが減っている。もちろん、手入れをしない森は草も生えないほどに荒れている。捕食動物がいないのなら、生物の多様性を保つのは人間の仕事なのだが、儲かることにしか関心がないから、付け焼き刃的な対策しかとれていないのが現状だ。

・生物の多様性は、その頂点に位置する捕食動物によって守られる。しかし、その捕食動物の多くが絶滅の危機に瀕している。その原因が人間だということは、人間こそが地球上に生きる最強の捕食動物だということだろう。始末の悪いことに、人間にはその自覚がなく、しかも何であれ、なくなるまで食べ尽くし、取り尽くすという性悪の性質を持っている。世界中の生物学者が訴える現状は、絶望的なほどに危機的だが、そこを自覚し、生物の多様性の保存に本悪的に取り組む姿勢は、人間には持ちようがない気がしてしまう。

2010年11月8日月曜日

ミラクル! SFジャイアンツ!!

 

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・SFジャイアンツが今年のワールド・シリーズの勝者になった。まさにミラクルで、地区シリーズから見ることのできる試合はすべて見て応援した。以前からファンだったわけではないが、8月にAT&Tパークで見た試合があまりにおもしろくて、それ以来気になって、追いかけるようになったからだ。残念ながらシーズン中の試合はNHKではまったく中継されなかったから、ポストシーズンの試合は特に待ち遠しかった。

journal4-132-2.jpg・8月に見た試合では、中盤で満塁ホームランが出て逆転し、再逆転された後の9回にサヨナラ勝ちをして、球場は歓喜の渦に包まれた。ほとんどの選手は名前さえ知らないチームだったが、ポストシーズンが始まる頃には、めぼしい選手の名前はわかるようになっていた。しかし、試合が始まり、目立たなかった選手が活躍して勝ち進むと、チームのほとんどを熟知するようになった。

・優勝の原動力になった選手の多くは、ここ数年ジャイアンツにやってきた。フィリーズのハラディから初戦で二本のホームランを打ったロス外野手は、今シーズン中にマーリンズを解雇されて拾われているし、ここ一番で強みをみせたウリーベはホワイトソックスを解雇されて昨年からチームの一員になっている。四番を打ったバレルは一昨年までフィリーズにいて、昨年レイズにトレードされ、今年は調子が悪くて、やはり解雇されて移籍してきた選手だ。僕が見た試合で満塁ホームランを打ったから期待をしたのだが、シリーズでは三振ばかりで一人蚊帳の外という状態だった。

journal4-132-3.jpg ・ジャイアンツ生え抜きという選手は野手ではキャッチャーのポージーと代打で出たイシカワぐらいだが、ピッチャーは先発の4人のほかに中継ぎ、そして抑えとそろっている。最近のドラフトで一巡目に指名した選手が大成したようで、どのピッチャーも20代の前半から半ばと若い。そんな若手が、フィリーズやレンジャーズといった強打線を押さえ込んだのだから、相当の自信をつけたことだろうと思う。ネットで読んだ記事には、ジャイアンツの黄金時代の始まりと書いたものや、チーム作りのうまさを賞賛するものがあった。

・確かにそうかもしれないが、一方で高額のお金を出して獲得したのにポストシーズンには出場しなかった選手もいる。バリー・ジトは2006 年に7年1億2600万ドルでアスレチックスから移籍したが、毎年期待を裏切る成績しか残せていない。また、野手にもシリーズではほとんど出場機会がなかった外野手のロウワンド(12億円)がいる。あるいはロイヤルズから今シーズン途中にトレードで加入したホセ・ギーエンは禁止薬物の購入という嫌疑をかけられている。選手の当たり外れをこれほど顕著に見せたチームもめずらしいのである。

・ちなみにジャイアンツの今年の総年俸は約9800万ドルで第10位で、相手のレンジャーズは約5500万ドルで27位だった。無名や若手、そして再生した選手が多い割にジャイアンツの年俸が高いのは、高額で活躍できなかった選手がほかにもいるということだろうか。強打者をそろえたレンジャーズは全球団の下から4番目だし、ジャイアンツとペナントを最後まで争ったパドレスは下から2番目である。ヤンキースの1位はいうまでもなく、リーグ 3連覇を狙ったフィリーズが4位と高いのは当然だが、その他にポストシーズンに進んだチームは、ブレーブスの15位、ツインズの11位、レイズの21位とけっして高くはない。戦力になる選手は買うものではなく育てるものだ。ジャイアンツの投手や捕手の活躍を見ていて感じたことである。

2010年11月1日月曜日

ユーラシア大陸をバイクで横断

 

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toy2.jpg・戸井十月がユーラシア大陸をバイクで横断した記録をNHKのBSで見た。4回に渡る放送だったが、おもしろかった。30年間バイクに乗ってきた者としては、夢のようなツーリングだが、彼はすでに南北アメリカ、アフリカ、そしてオーストラリアを走っていて、今回が五大陸を走破する、締めくくりの走りだった。はじめたのが1997年で、彼はその時49歳、走破した去年の秋には61歳になっていたようだ。

・僕は彼と同年齢で、白髪頭や走行中に見せた疲れた顔には親近感を持ったが、僕はバイクを、すでに50歳を過ぎた頃にやめている。寒さや暑さが応えるし、肩もこる。バランス感覚や一瞬の判断力にも自信がなくなったのが、やめた理由だった。だから、50歳近くになって5大陸の走破を目指したことに、驚き、憧れ、そしてあきれもしたのだが、還暦を過ぎて走破したことには、もう、ただただ敬服するしかない思いがした。

・ユーラシア大陸をポルトガルから出発して、ロシアのウラジオストックまで、その距離は3万キロで旅程はおよそ4ヶ月だ。飛行機で飛べば 12時間ほどで、それでも長いと感じる時間だが、3万キロというのは実際走ってみなければ、その距離の長さはわからない。しかも、いくつもの国を走るのだから、国境を越える手続きや、ことばや食べ物の違いなど、苦労することはいくつもある。

・ 横断した国はポルトガル、スペイン、フランス、イタリア、スロベニア、クロアチア、モンテネグロ、アルバニア、ギリシャ、マケドニア、トルコ、イラン、トルクメニスタン、ウズベキスタン、カザフスタン、キルギス、中国、モンゴル、そしてロシアの19カ国で、緊張状態の地域ははずすとはいえ危険なところは少なくないから、ルート選びは大変だったろうと思う。バイクと伴走車はホンダ、ウエアはヘンリー・ビギンズの提供で、全行程をサポートするスタッフが3人で、その他に各地で同行者が何人もいた。当然だが、相当の費用がかかったはずだ。

・放送は4回で計6時間にもなったが、通過した土地それぞれにさく時間は多くはない。大きな都市でも一瞬だったりするし、通ったのにまったくふれないところもあった。その代わりに、国境の通過、宿探しと値段の交渉、通りすがりの人に道をたずねることやガソリンスタンドで出会ったツーリング・グループとのおしゃべりなどに時間を割き、これまでに走った他の大陸でのさまざまな経験や出会いを挟み込んだりした。だから、番組は、戸井十月がユーラシア大陸をバイクで駆け抜けるロード・ムービーで、これはこれで焦点をはっきりさせたものに仕上がっていたと感じた。

・番組を見た後ネットで検索して、戸井十月のサイト越境者通信を見つけた。ここには出発前から走破後までの毎日の日記や計画概要やルート、装備などに渡る細かな記事が載っている。もちろん、過去にした4つの大陸走破についても、同様の記録が残されている。テレビ番組には登場しなかった出来事や人物についての記述も多くて、これはこれでいくつもの頁を次から次へと読んでしまった。彼のような大胆で大がかりな旅はとてもできそうにないし、する気もないが、ほんのちょっとでも、似たような経験をしてみたい。そんな気持ちをかき立てる番組とサイトである。