2014年9月29日月曜日

拝啓、ガラパゴス島の皆様

・異国に旅に出ると、自分が当たり前だと思っている常識や習慣が役に立たないことに気づきます。けれども、その違和感が薄れてくると、今度は当たり前だと思っていた常識や習慣がおかしなものに感じられたりするのです。この夏の旅行でも、そんなことをいくつも経験しました。

・旅先では外食になります。で、その値段の高さにいつもびっくりしてしまいます。もちろん、最近の円安の影響大ですが、高いのはそれだけではありません。スーパーに入って、ハムやパン、サラダ、そしてビールやワインを買ってホテルで食べれば、それほどの費用はかからないからです。外食が高い理由は、おそらく人件費なのだと思います。スイスは明確にそうなのですが、春に行ったニュージーランドもそう言われていました。今回のイギリスやフランス、そしてスペインも同じなのでしょう。

・しかし、逆に言えば、日本の人件費が異常に安いということになります。「激安」ということばが「マスコミ」を賑わしたのは90年代後半からだったでしょうか。その時からつい最近まで、外食産業は値段の安さばかりを売りにして競ってきたのです。安いものばかりに飛びつく傾向が、人件費のカットとなって跳ね返った。まさに、安物買いの銭失いの10数年だったのだ、とつくづく思いました。

・旅先で不便に感じる第一は、トイレです。とにかく公衆便所が少ない。コンビニもないから、探すのに一苦労します。そして駅もデパートも公園も、有料の場合が多いです。と言って、けっしてきれいではない。だから、出かけるときには必ずホテルで用足しをする。歳を取ってトイレが近くなりましたから、いつでも気になることになりました。

・そのトイレは、日本ではウォシュレットが当たり前になりました。しかし、旅先でウォシュレットを見かけたことはありません。男子用トイレに視線を遮る壁がないのも最初は戸惑いました。日本の良さをつくづく感じましたが、しばらくすれば慣れてきて、かえって、あれこれ些細なことに気を遣い、それを便利さや丁寧さと思っていることに、おかしさを感じるようにもなりました。

・初めての街に着いたら、地図を頼りにとにかく歩く。最近はそんな旅を楽しんでいます。当然、公園を見つけて、ベンチや芝生で一休みということになります。そんなときに今回気づいたのは、平日の昼間に、父親と子どもが遊んでいる光景の多さでした。ハウスハズバンドなのか、離婚してシングル・ファーザーになったのか、あるいは夏休みでしたから、バカンスだったのかもしれません。日本でも「育メン」といったことばが流行りましたが、まだまだ当たり前にはなっていないようです。政治家が「女性の活用」などと偉そうに言う国ですから、仕方がないのかもしれません。

・そのバカンスですが、EU諸国では一ケ月ほど取るのが当たり前のようです。日本では有給休暇が少ない上に、取得率が半分にも達していません。回りを気にして休まない傾向は、いつまでたっても解消されません。有給休暇は当然の権利です。そして権利の行使をためらう理由も、けなす理由も、本当はないはずですなのに、日本人には高い壁のように立ちはだかって感じられるようです。

・9月は連休が続きました。当然中央高速道路は連日大渋滞でした。わかっているのにくり返して、休みの貴重な時間を渋滞のなかで過ごす。レジャーの過ごし方がいつまでたってもわからない。そんな国民性を改めて実感しました。

2014年9月22日月曜日

朝日叩きに与するなかれ

・朝日新聞叩きがすさまじい。まさによってたかって袋だたきといった様相だ。原因は「両吉田問題」についての誤報と、それについての訂正や謝罪を巡るところにある。その詳細について、ここで書くつもりはない。ただ、マスコミ、あるいはジャーナリズムのどうしようもなさについては、きちんと発言しておこうと思う。

・まず誤報問題について。マスコミの誤報については「GoHoo」(日本報道検証機構)というサイトが、詳細な情報を載せている。それを見れば一目瞭然で、新聞やテレビにとって誤報は日常茶飯事であることがわかる。しかも誤った報道が与えた影響とは比較にならないほどの、小さなお詫び記事を載せるのが慣例なのは、どのメディアも同じである。

・それなのになぜ、今回は各新聞社やテレビが朝日批判をするのか。そこに安倍政権の力が働いていることは明らかだろう。何しろ新聞もテレビも、そのトップがこぞって安倍首相と食事をしたりゴルフをしたりしているのだから、政権との癒着は露骨と言ってもいいのである。その代表は読売新聞と、フジサンケイグループである。

・その意味では、今回の騒動は、従軍慰安婦問題はなかった、福島第一原発事故は収束に向かっているとしたい政府に同調するグループと、それに批判的なグループの戦いだと言える。実際安倍首相は、朝日の誤報が日本の国益を損なったといった発言をして、あからさまな批判をしている。朝日を叩いて政権に批判的な勢力を一気にやっつけてしまおうという狙いがあるのは言うまでもないことだろう。そしてこの構図は、民主党が政権を取った時から露骨に現れているものである。

・このような風潮に悪のりして、大出版社発行の週刊誌が朝日叩きの特集を毎号書いている。週刊誌はただ売り上げを伸ばすために、誤報など気にせず人の気を引く記事を書くから、今さら正義面はできないはずだが、そんなこと知ったことかという態度である。新潮社も文藝春秋も小学館も、出版社としてどんなにいい本を出そうと、こんな週刊誌を作っていては、とても信用はできないのである。

・もっとも日本のメディア状況の問題が、より制度的、構造的なものに起因していることも知っておく必要がある。1新聞社の発行部数としては日本の読売と朝日が世界1位と2位を占めていて、毎日が4位、日本経済新聞が6位、そして中日新聞が9位と、10 位までの半分を占めている。これはけっして誇れることではなく、異常さを示す数字だと言える。全国規模で新聞を発行する国は、先進国ではあまりないからである。これは要するにメディアの中央集権化に他ならない。

・さらに、テレビやラジオはそれぞれ大手新聞社と一体化していて(クロスオーナーシップ)、しかも、総務省によって電波が管理されている。会長や経営委員が政権によって任命されるNHKは言うまでもないが、民放においても、権力批判がしにくいのは制度上仕方がないとも言える。ただし、電波が国の管理下にあるために、既存の放送局とそれと提携する新聞社には、新興勢力に脅かされるという不安を免れるという既得権がある。

・政府や地方自治体、あるいは警察などを情報源とするニュースはそれぞれの場所に設けられた「記者クラブ」で入手される。当然、その場で取材できる人も、既存の大手新聞社や放送局などに限られていて、フリーのジャーナリスト入りにくくなっている。そんな特権が、情報操作に利用されることもまた、ニュースにはありふれている。誤報とは言えないが歪められた情報が無数にあることもまた、事実である。

・「世界価値観調査」が出す『世界主要国データブック』の「世界各国における新聞・雑誌への信頼度(2005年)」によれば、日本は47.5%で世界で一番信頼度が高い国である。また、テレビについても37.9%で4番目になっている。これは先進国では異例なほど高い数字で、それだけ、マスメディアから発信されるニュースを鵜呑みにする割合が高いことを示すものだろう。

・だから誤報騒ぎには敏感に反応すると言えるのかもしれないが、そもそもそれほど信用できるものではないことを前提に受け止めていないことを自覚する方が、もっと大事だろうと思う。

2014年9月15日月曜日

今度はテニスで大はしゃぎ

・全米オープンテニス大会で錦織選手が決勝戦まで勝ち残った。ベスト8ぐらいまではほとんどニュースにもならなかったのに、ランキング上位の選手を2戦続けてフルセットの末に破ると、突然メデイアが大きく報じはじめた。で決勝戦はということになったのだが、衛星放送のWowowが独占中継していて既存の地上波はどこも中継しないことがわかった。Wowowには対応できないほどの申し込みが殺到したようだ。

・当然のごとく、日本人選手が海外で活躍するたびに現れる「ニッポン」「日本人」が連呼された。一番目立ったのは錦織選手が小学生の時にコーチしたという松岡修造である。まるで自分の愛弟子であるかのような入れ込みぶりは、彼の日頃のハイテンションを考慮してもうんざりするばかりだった。実際、錦織選手は中学生からアメリカに留学して、日本とは関係ないところで強くなったのである。おそらく彼には、日本人だとかアジア人だと言った意識はそれほど多くはないのだろうと思う。

・そんなメディアのはしゃぎぶりに負けなかったのは、彼が契約しているスポンサー企業と、そこに注目する株式市場の動向だった。準決勝に勝った後、ユニクロや日清食品、アディダスなどの株価が高騰したが、決勝で負けると逆に急落したようだ。彼が試合に着ているユニクロのテニスウエアーも完売したようで、ユニクロは1億円のボーナスを出すようだし、彼が所属するカップヌードルの日清食品も5000万円のボーナスをだすと発表した。今回の活躍が経済に与える効果は300億円だと試算するところもあった。

・テニスそのもののおもしろさはそっちのけにして「プチナショナリズム」と「お金」の話で大はしゃぎする。それは7月のサッカー・ワールドカップでうんざりしたばかりだったし、メジャーリーグのヤンキースと高額年俸で契約し、期待にたがわぬ活躍をした田中将大投手に対する声援にも「いい加減にしろ」と言ったばかりだったから、今回の大騒ぎには、またかという呆れと、もう救いようのない「空気」を感じてしまった。

・僕は野球はもちろん、サッカーにもテニスにも興味がある。そして、海外に出て活躍した選手がほとんど例外なく、日本のメディアや日本人が「プチナショナリズム」や経済効果を理由に「がんばれ」と声援する風潮に批判的だったことに、関心と共感と同情を寄せてきた。それは野茂や中田の時代からくり返されてきていることだが、にもかかわらず、反省して改めるといった「空気」はまるでない。この内向き志向は、一度日本という社会(世間)から出て、外から見つめないとわからないのかもしれない。

・ニューヨーク・タイムズが錦織の決勝戦を前にして、「日本人離れした特質」が快挙に繋がったという記事を掲載した。日本人には過度に協調性を重んじる傾向があって、それはスポーツにも及んでいるが、中学生からアメリカで生活している錦織には、そんな傾向を気にする思考方法がなく、個性を大事にするところがある。そんな内容だった。ガラパゴス島に生きる人にはわからないが、外からこの島を見る人からはその特徴がよく見えている。この記事には、そんな印象を強く持った。

・もう一つ、全米オープンについてネットで検索していて、同時に車椅子テニス部門があることと、そこで男女とも日本人選手が優勝したことを知った。国枝慎吾選手は今回で5回目、上地結衣選手ははじめての優勝で、二人ともダブルスでも優勝している。あるいは伊達公子も女子ダブルスで準決勝まで勝ち進んだのだが、錦織選手の陰に隠れて、ほとんど話題にされなかった。どちらも快挙なのに、こちらには目もくれない現金さ。嫌な「空気」だな、と今さらながらに思う。

2014年9月8日月曜日

ヤング、クラプトン、そしてブラウン

Neil Young "A Letter Home"
Eric Clapton "The Breeze (An Appreciation Of JJ Cale)"
"Looking Into You, A Tribute to Jackson Browne"

・ニール・ヤングのCDは復刻版や古いコンサートの掘り起こしだけでなく、新作も出され続けている。mpg3の音質の悪さに文句をつけたりと、音楽活動には積極的だが、最近、長年連れ添ったペギー・ヤングと離婚したというニュースも耳にした。彼女はヤングのバック・コーラスをつとめてきたし、障害児の学校「ブリッジ・スクール」を設立して、その運営資金集めに夫婦そろって活動してきていた。だから、これからどうなるのか、ちょっと心配になってしまった。

aletterhome.jpg・その彼が今年出した"A Letter Home"は全曲がカバー曲で、ボブ・ディラン「北国の少女」、ブルース・スプリングスティーン「マイ・ホームタウン」、フィル・オークス「チェンジズ」、ウィリー・ネルソン「クレイジー」「オン・ザ・ロード・アゲイン」、ゴードン・ライトフット「朝の雨」、バート・ヤンシュ「死の針」など、フォークやカントリーの古典とも呼べる歌が収録されている。
・音質にこだわるヤングがこのアルバムで試みているのは、ギターとハモニカだけで、スタジオというよりは普通の部屋でマイク一本で録音したものをデジタル化せずにレコードにするということらしい。もちろん僕はそれをCDで聴いているのだが、確かに何も足さないし引きもしない音で、目の前でマイクも使わずに唄っているような気になった。彼にはクレイジーホースを率いて大音響を響かせる一面もあるが、僕はやっぱり、一人だけでギターをつま弾きながら唄うヤングが好きだ。

thebreeze.jpg ・エリック・クラプトンの"The Breeze"は昨年なくなったJ.J.ケイルの追悼アルバムで、彼の他にマーク・ノップラー、ウィリー・ネルソン、トム・ペティ、ジョン・メイヤーなどが参加している。全曲ケイルの作品だが、ネットで調べると、カバーというよりはオリジナルを忠実に再現するようにというクラプトンの注文があったようだ。ちなみにアルバムに描かれたケイルの肖像画はクラプトンのアルバムジャケット(「ピルグリム」)を手がけた漫画家の貞本義行の作である。
・J.J.ケイルは地味なミュージシャンだが、彼の曲は多くの人にカバーされていて、クラプトンも「アフター・ミッドナイト」や「コケイン」をヒットさせている。で、二人で作ったアルバム"The Road to Escondido"もある。タイトルにあるエスコンディドはサンディエゴ近くのケイルの家の地名で、クラプトン自身もここにマンションを所有していたことがあったようだ。2008年に出されたこのアルバムは、その年のグラミーでブルースアルバム賞をもらっている。

lookingintoyou.jpg ・もう一枚はジャクソン・ブラウンの曲を集めたトリビュートで、J.D.サウザーやドン・ヘンリーといった近しい人の他にスプリングスティーンなども参加している。CD2枚組で23曲が収録され、どれもがおなじみの曲だが、ブラウン自身が歌うものより印象が薄いと感じてしまった。ディランほどにはあくが強くないのに、やっぱり彼の作品は彼の声や歌い方でなければだめなのかもしれない。もっとも、ニール・ヤングは前記したアルバムはもちろん、他の人の歌でも自分の世界にしてしまう。その好例は9.11直後にテレビで唄ったジョン・レノンの「イマジン」だった。
・最近では、まだ現役で活動している人のトリビュートも珍しくなくなった。影響を受けた人、親交のある人の作品をカバーする、カバーしあうことが流行っているのかもしれない。それだけ、歳とったミュージシャンが増えたということだろうか。

2014年9月1日月曜日

アーサー・ミラー


『るつぼ』「セールスマンの死」 (ハヤカワ演劇文庫)

theoldvic.jpg・旅の終わりはロンドンでの芝居見物だった。同僚の本橋哲也さんに誘われたのが理由だが、英語の芝居など聞いてもわからないだろうからと、あらかじめ原作(脚本)を読んでおいた。出し物は、アメリカの初期移民時代に実際に起きた魔女狩りをテーマにしたアーサー・ミラーの『るつぼ』(the crucible)である。長い旅の終わりで疲れていて、途中で居眠りしてしまうのではないかと心配したが、一段高い舞台ではなく、客席を囲むようにできた空間で繰り広げられる物語は、迫力があって引き込まれた。劇場はテムズ川の南岸、ウォータールー駅近くの「The Old Vic」である。

miller1.jpg・話は村の娘達が森で踊っているのを牧師に見られたことから始まる。その教区では踊ることが禁じられていたし、しかも娘のなかには半裸で踊る者もいた。その一人の牧師の娘が失神して倒れたから、ことは大げさなものになった。娘達の掟破りの遊びではなく魔女の仕業ということになって、魔女狩りに進展してしまったのである。

・妻のある男と不倫の関係にあった娘達のリーダーが、その妻を魔女だと言いふらした。他にも疑われる女が続出するのだが、その名指しの裏には、村の人間関係のなかで生じた金銭や土地、あるいは家畜を巡るトラブルや、妬みや嫉妬があって、村は大混乱に陥った。牧師や判事、そして副知事などが介入して、大がかりな裁判が行われ、大勢の人が死刑になった。魔女ではなく魔女に操られたと告白すれば許されたのだが、処刑された人たちは、嘘をつくことをためらい、拒絶した。熱心で善良なキリスト教信者であればこその行動だった。

・『るつぼ』は1950年代に発表されている。当時のアメリカはマッカーシー上院議員に扇動された「赤狩り」で、多くの著名人が疑われ、投獄されていて、著者のミラーもまた疑われた。この作品は、そのような出来事を批判するものとして読まれたが、このような事態はいつでもどこでもくり返して起きたことだから、昔どこかで起きた特異な出来事などではない。これは、集団内に不満や鬱憤が充満している時に、そのはけ口として発生し、権力者に利用される「スケープ・ゴート」という現象に他ならない。

・僕はこの脚本を読んだ時に、ユダヤ人狩りをしたヒトラーや、9.11直後のブッシュを連想したし、現在の安倍政権にも当てはまると思った。で、その芝居を、怖さに引き込まれるように感じながら間近で見て、その気持ちが薄れる前に、もう一度読み直した。なぜ今、反中や反韓の気運が蔓延し、朝日新聞がことあるごとに批判されるのか。一番の原因は批判される側よりは、批判する側が抱える不満や鬱憤のなかにこそある。そしてその不満や鬱憤の原因事態を探すのではなく、その捌け口を見つけて、そこに感情的にぶつける行為にこそある。

miller2.jpg・アーサー・ミラーにはもう一冊、有名な脚本がある。『セールスマンの死』は、やはり50年代に書かれていて、退職間近に首になったセールスマンの悲哀を描いている。自分の夢や希望が叶わず、また息子達にも期待を裏切られた主人公は、何とかその現実を受け入れようとするがどうしてもできない。妻や息子達があれこれと慰めようとしたにもかかわらず、主人公は自殺をしてしまう。これもまた、現在の日本の状況に当てはまる内容だと思う。

・50年代のアメリカは未曾有の好景気に沸いたアメリカの黄金期と言われる時代だった。しかし、反面、自営の商店主や農場がつぶれて、大きな企業が出現して、多くの人たちがそこに勤めることが当たり前になった時代でもあった。家電やクルマ、郊外の住宅などが爆発的に売れる時代で、セールスマンはそんな状況を象徴する仕事だったが、それゆえにまた、能力主義が幅をきかす世界でもあった。

・二つの芝居はもちろん、日本でも民芸などで上演されたことがある。その時にどのように受け取られたかはわからないが、今この時期にロンドンで上演され、毎日満員になっていることに、日本の文化状況との違いを感じた。日本が置かれた現状や、そこで生きる自分と直接向き合うのではなく、それとは無関係な虚構の世界に紛れ込んで、現実をなかったことにする。それはもちろん、音楽などの傾向にずっと昔から感じ取っていたことだが、そんな思いを一層強くした経験だった。