2011年12月30日金曜日

目次 2011年

12月

30日:目次

26日:2011年という年

19日:数字フェチの快と苦

12日:朝日ニュースターが消える

5日:健康であることの悩ましさ

11月

28日:車の次はストーブ

21日:レジャー・スタディーズとは?

14日:紅葉を探しに

7日:BSがおもしろくなくなった

10月

31日:最近買ったCD

24日:放射能と食べ物

17日:福島についての2冊の本

10日:マックとの出会い

3日:愛車に感謝、そして別れ

9月

26日:Brandi Carlile

19日:韓流ドラマ批判よりずっと大事なこと

12日:韓国旅行

5日:初めての韓国

8月

29日:沖縄についての2冊の本

22日:残暑お見舞い申し上げます

15日:夏の訪問者たち

08日:二人のファド歌手

1日:地デジ化顛末記

7月

25日:世論のおかしさ

18日:ビル・マッキベン『ディープ・エコノミー』

11日:TwitterとFacebook

4日:特に忙しいわかではないのですが

6月

27日:メディアと電力

20日:Keith Jarrett Concert

13日:レベッカ.ソルニット『災害ユートピア』

6日:不信任決議と政策

5月

30日:ipad2とgroveのケース

23日:同じだけど違う

16日:拝啓 菅直人様

09日:反原発の歌

2日:地震と原発

4月

25日:原発事故で見えてきたこと

18日:こんな時でも「かなかな」虫が聞こえる

11日:春の兆し

4日:災害と情報

3月

28日:地震、結婚、卒業、そして入学

21日:西表、石垣、宮古島

14日:ボッツマン&ロジャース『シェア』

7日:キース・ジャレットのピアノ

2月

28日:1968と2011

21日:降れば大雪

14日:光がやってきた

7日:地デジ対策への脅迫的お願い

1月

31日:井上摩耶子編『フェミニスト・カウンセリングの実践

24日:ライブに行けなかったからCDを買った

17日:今年の卒論

10日:正月の過ごし方

1日:Happy New Year !!

2011年12月26日月曜日

2011年という年

 

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今年は何という1年だったんだろうと思います
一番はもちろん、大震災と原発事故ですが
僕にとっての最初の驚きは
アラブ諸国で続発した「ジャスミン革命」でした
その思いは僕が浪人をしていた1968年に重なる気がして
そのことを2月28日に「1968と2011」 に書きました

この頃は私的にも
体調を崩した父の問題で家族会議を開き
介護付き老人ホームを探して
ショート・ステイを試みたのですが
父が退院した翌日に地震が起きました
息子の結婚式が1週間後に予定されていて
宮古島でということもあって心配しましたが
参加者が半減とは言え、無事行われ
その前後に予定していた沖縄・八重山旅行も決行しました

震災と原発事故の影響で
大学の卒業式と入学式は中止になり
新学期の開始も5月の連休からになりました
新1年生への、そして計画停電への対応などで
学部長の仕事に忙殺されました
落ち着かない中で読んだ本は
地震と原発についてのものばかりでした

我が家にも光ケーブルがやってきて
ツイッターやフェイスブック、Youtubeなど
インターネットの使い方が激変しました
ここにはもちろん、iPadの利用が入ります
テレビがつまらなくて信用できないと感じたことや
地デジ化政策のおかしさに腹が立ったことなどで
テレビを見る時間は少なくなりました
今年は新聞やテレビといったマスメディアの
信用失墜と凋落の年でもありました

夏休みには初めての韓国旅行に出かけました
人も町並みも日本とあまり変わらないのに
文字が全く読めないし、食べ物も辛くて味が濃い
そんな奇妙な違和感に戸惑いとおもしろさを経験しました
僕にとっては本当に、近くて遠い国でした

12年間で27万キロを走った
レガシー・ランカスターを手放して
色も外観もあまり変わらない
レガシー・アウトバックに乗り換えました
同様に、酷使を続けたストーブも煙突ごと付け替えました
その意味では、出費がかさんだ一年でもありました

原発事故への対応エネルギー政策を巡る政争には
政治家や官僚に対する不信感だけが募った気がします
反原発運動を無視するテレビや新聞の露骨な姿勢が
権力に弱いメディアの正体をあからさまにしました

就職超氷河期の今年も
ゼミの学生たちには苦難の一年でした
ギリシャに始まるEUの財政危機や
アメリカの経済政策を批判してウォール街を占拠した人たち
今年はデモで始まり、デモで終わった年でもありました
来年がいい年でありますように
などとはとても言えない、思えない
そんな時代の重苦しさを感じます

2011年12月19日月曜日

数字フェチの快と苦

・数学は苦手だが数字は嫌いではない。と言うよりは大好きだといった方がいいかもしれない。たとえば、記録を取ること。車の走行距離とガソリン量と燃費、ブログのカウント数は何年も続けている。寒くなるとストーブをつけるから外気温と室内の温度チェックは欠かせないし、ストーブ自体の温度にも注意が必要だ。その車とストーブを最近続けて買い換えた。で、その数字におもしろがったり、振り回されたりしている。

・12年ぶりに乗り換えた車は2007年製の中古だが、デジタル表示で瞬間的な燃費や給油後の平均燃費が表示される。これはいいと思って、運転中は絶えず気にするようになった。だから、急加速はしなくなったし、信号待ちの長い停車ではエンジンを切ったりもするようになった。車自体の燃費もよくなっているから、リッターあたり2kmも余計に走るようになったと喜んだのだが、給油をしたら1km程度でがっかりした。数値は必ずしも正確ではないから、おおよその目安と考えてください。マニュアルにはそう書いてあるから、クレームをつけて直してもらうほどのことでもないのだが、やっぱり正確な数値を知りたいとは思う。

・車と同時に速度監視をキャッチする機器も新しくした。燃費を気にするようになってからスピードを出すことは控えているのだが、たまたま運悪く捕まることもあると思ってつけることにした。しかし、これも以前とはまるで違って表示が多様になって、走行中の路面の海抜が表示できたりもする。我が家と勤め先の大学とは高低差が800mもあるから、これはこれで気になる数字になっている。

・そんなことに興味を持って運転しているうちに、下り坂だと思っていたところが実は上っていて、上り坂だと思っていたところが実際には下っている場所が結構あることに気がついた。そう言えば、以前から急な下り坂に見えるのにそれほど加速しないとか、それほど上っているようには見えないのにアクセルを踏まないと速度が落ちてしまうと感じることがあったから、標高を確認して、その理由がわかった場所がいくつもあった。不思議坂とか幽霊坂とか名がついて、名所にもなっているところがあるが、そんな坂は案外どこにでもあるのではないか、などと思ったりもするようになった。

・新しく買い換えたストーブは以前よりも大型で、空気を絞って燃やす還元状態では薪の消費量を少なくして温度を高く保つことができるというのがキャッチフレーズである。ところが、以前のストーブに比べて暖かくない。しかし、鋳物は急激な温度変化は禁物で、じっくり時間をかけて温度を上げるようにと言われたし、250度を保って、それ以上はあげないようにと念を押されたから、しょっちゅうストーブの温度計をチェックするようになった。確かに、前のストーブに比べて薪はきれいに燃えて真っ白い灰が残るようになった。それなのになぜ、室内の暖まり方が悪いのか。

・考えられるのはストーブではなく煙突で、前のものは途中までシングル管でかなり熱くなっていたが、新しいのは二重になっていて、間に特殊な砂がつまっている。だから触れるほどの温度にしかならないのだ。つまり、以前はストーブだけではなく、煙突の熱でかなり暖かくなっていたのだが、今度は熱はストーブだけからしか出ないのである。そうしたのにはもちろん理由がある。煙突で放熱した煙は冷やされて、出口に煤をためがちになる。暖かいまま外に出してやれば、煤はたまりにくくなるし、煙自体がほとんど出なくなる。実は、買い換えようと思った一番の理由は、煙突が詰まって空気の引きが弱くなったことにあったのである。

・そんなわけで、ここのところ数字フェチと言われるほどに数字と戯れ、惑わされている。楽しくもありまた、煩わしく感じることも少なくない。数字ではなく自分の感覚を研ぎ澄ましてなどと思うのだが、数字をみると、自分の感覚がいかにいい加減なものかということを改めて実感したりもする。もっとも、その数字が決して信用できるものではないこともまた、数字からわかったりもするのだが………。

2011年12月12日月曜日

朝日ニュースターが消える

 ・地デジは言うに及ばず、BSがおもしろくなくなったことは、前回のこの欄で書いた。今度はCSお前もか、と言いたくなるニュースを目にした。「朝日ニュースター」が来年の3月で朝日新聞からテレビ朝日に譲渡され、事実上消滅するというのである。僕がこの番組を見るようになったのは大震災と原発事故後で、きっかけはYoutubeだった。「愛川欽也パックインジャーナル」や「ニュースの深層」などがマスメディアと異なる報道や発言をしていることを知ってCSと契約した。衛星放送では唯一骨のある番組作りをしているチャンネルだと思っていたから、残念と言うよりは、腹立たしい思いがした。


・原発事故後の新聞やテレビの報道は信用できない。こんな気持ちを実感したのは、光が通じてYoutubeやUstreamにマスコミとはまったく違う報道や発言をする人や番組の存在を知ったからだった。そのことについては、4月25日にこのコラムにアップした文に次のように書いた。

YoutubeやUstreamでは、原発に対してずっと批判的な立場で研究をしてきた人や、原発の設計者たちが登場して、今回の事故の重大さや危険を訴える番組が次々と流された。聞いていてぞっとすることも少なくなかったが、「直ちに健康に被害を与えるレベルではない」といった曖昧なことばの方が、かえって不安を募らせること、最悪の事態はこうだと知らされことで、現実を見つめる姿勢や考え方をはっきり自覚する必要性を迫られた気がした。

・独自な番組を作っているUstreamやニコニコ動画とはちがって、Youtubeには既存のメディアが放送した内容がアップされることが多い。その原発事故関連の番組を見ていて気づいたのは「朝日ニュースター」からのものが多いということだった。で、CS放送を契約して見ることにしたのである。毎週土曜日に生放送される「愛川欽也パックインジャーナル」が欠かさず見る番組になった。

・「パックインジャーナル」の名、は愛川欽也が昔TBSラジオの深夜放送でやっていた「パックインミュージック」に由来する。1967年放送開始で僕もよく聞いていた番組で、当時の若者の反乱に与して、昼とは異なるメディアの世界を作りだしていた。ウィキペディアで調べると、当時のパーソナリティには愛川欽也のほかにフォークシンガーが名を連ねている。「パックイン」の名の通り、この番組を見て、僕は当時のラジオ番組に共通する雰囲気を感じた。もちろん40年も前のことだから、愛川欣也は若手の俳優で、今ではおしゃべりなおじいちゃんになっている。

・「パックインジャーナル」は愛川欣也を中心にし、ほぼレギュラーの評論家やフリーのジャーナリストとの間で、毎週時事的な問題を批判的に論じあっている。鋭く確かな原発批判をする小出裕章さんをいち早く電話で登場させたりして、原発事故について、ほぼ毎週のように話題にしてきた。マスコミがそろって菅批判をしているときも、ここだけは、その根拠の希薄さを指摘して、むしろ菅擁護をしてきた。僕の考え方と近い発言が多くて、番組を見ながら共感することも多かった。

・そんな番組を放送するCSチャンネルが来年の3月でなくなるかもしれないという。なぜ朝日新聞が手放すのか。TV朝日は現在すでに持っているCSチャンネルとどう使い分けるつもりなのか。そして何より、現在の番組をどの程度存続させるつもりなのか。今のところ何も発表されていない。ただし、スタッフは全員が退職するようだから、仮にいくつかの番組が続いたとしても、その番組方針に変更があることは間違いない。

・「朝日ニュースター」は現在570万世帯と視聴契約を結んでいる。けっして少なくないと思うが、朝日が手放すのは経営上の問題なのだろうか、政治的な圧力がかかったせいだとすれば、それは番組制作者自身が明らかにすべきだろう。いずれにしても、つまらないチャンネルばかりがどんどん増えるテレビには愛想が尽きているが、ネットで見るものも、制作はテレビ局である場合が多いから、テレビは見なくてもいいとばかりは言えない問題だと思う。

2011年12月5日月曜日

健康であることの悩ましさ

・毎年やることが義務づけられている健康診断を今年も受けました。で、今年も医者から同じことを言われました。「悪玉コレステロール値が高いです。腹囲も多い。食事に気をつけて、規則正しい生活と適度な運動を心がけましょう。」だから、こちらも、相変わらずの返答をしてしまいました。「食事は十分に気をつかっていますし、山歩きや自転車、あるいは薪割りなどで体も動かしています。早寝早起きで睡眠も十分です。」 それに対して医者が言うことも毎年同じで「だとしたら薬などで数値を改善させる必要がありますね」ときましたから、僕もまったく同じで「薬は信用できません。元気ですから、何もしないでもいいでしょう」と応えました。

・こういう対応は医者にとっては大変不愉快なもののようです。だから「たばこを長いこと吸っていらっしゃるが、もうやめたらどうですか」などと忠告してきます。今年はさらに「僕の周囲で喫煙していたお医者さんはほとんどが肺癌で亡くなりました。」とつけ加えてきました。さすがに「医者の不養生ですね」とは言いませんでしたが、「僕は数年前からパイプに変えましたから、煙を肺には入れません。なるとしたら喉頭か食道の癌でしょう。それに親戚を見回わしてみても、癌で死んだ人は一人もいませんから。死ぬとしても癌ではないと思います」と言いかえしました。

・大学でやる健康診断では、医者は一日に数十人を相手にします。しかも毎年医者は別の人ですから、カルテの数値だけを見て診断をするほかはないのです。きわめて形式的で、ほとんど無意味だと思っていますから、はいはいと聞き流せばいいのですが、ついつい口答えをしたくなってしまいます。へそ曲がりは歳を取ったからといって改まるものではない。我ながらつくづくそう思いました。

・けれどもまた、最近特に、健康であることの悩ましさについて、考えさせられることがよくあります。僕の父は昨年の夏に体調を崩して、今ではほとんど寝たきりの生活をしています。とは言え、現在では悪いところはほとんどなく、ただ筋肉が衰え痩せたために、立ち上がって歩くことが難しくなっただけなのです。生きる気力があればリハビリに精出して、自由に歩き回れるようになりたいと思うはずですが、そんな気持ちはあまりないようです。ところが、毎日体温と血圧は欠かさず計り、テレビの健康番組などは熱心に見ていますから、生きたいのか生きたくないのかよくわからなくなってしまいます。

・周囲にも80歳代から90代の老人たちはたくさんいて、面倒を見る家族の大変さを目の当たりにすることが多くなりました。義理の父は特別養護老人ホームに入っていて面会に出かけたこともありますが、車椅子に座った老人たちだけの世界に強い違和感を持ちました。一緒に何かをしたり、話をしたりというのではなく、一つ部屋で何人もの人がそれぞれ、自分だけの世界でボーとしているように見えたからです。

・そんなわけで、どのように生きるかではなく、どのように死ぬかを考えることが多くなりました。健康に気をつかって長生きするのがいいことなのかどうなのか。健康であることを金科玉条のごとくに掲げて診断する医者には、そんな生きる哲学がどの程度に認識されているのでしょうか。今年の健康診断では、そんな思いを一層強く感じました。

2011年11月28日月曜日

車の次はストーブ

 

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forest96-2.jpg・モノにガタが来はじめると次々連鎖反応が起こる。車を乗り換えて調子よく乗っているのだが、寒くなってつけはじめたストーブが煙りくさい。特に、空気を絞って還元状態で燃やすと途端にくさくなる。そんな状態は去年からだったから、思い切って新しいのに変えることにした。と言っても、付け替え工事は12月になってからだから、もうしばらくは臭いを我慢しなければならない。煙突に煤がつくのはシングル菅のせいだと言われたから、それもすべて新調することにした。ストーブよりも煙突の方が値段が高いから、総額ではかなりの出費になる。やれやれ。


forest96-3.jpg・ストーブを燃やし始めたら、来年の冬の薪を用意しなければならない。で、原木を3立方メートル買った。ただし、チェーンソーで切って、斧で割る前に、まず、この冬燃やす薪を移動させる必要がある。我が家で一番日が当たるのは南面で、割ったばかりの薪はまず、そこに積む。だから、そこをあける必要があるのだが、一番乾いた薪は、日当たりの悪い東面に積んであるから、その薪をどかして、南面の薪を移動させなければならない。

forest96-4.jpg・どかした乾いた薪をとりあえず積んでみたが、2時間ほどでくたびれたので、また明日。しばらくは天気も良さそうだから、このまま置くことにした。こんなペースでやると、薪を並べかえるのに数日かかるから、チェーンソーで玉切りするのはまた来週の作業になる。それを斧で割って、積んでいく作業は、雪が積もる前まで続くことになる。仕事に出かけない日の午後の日課である。

 

forest96-5.jpg・ガタが来て気になっていたのはもうひとつ。玄関前のバルコニーに上がる階段の木が腐ってずいぶん前からぐらついていて、作りかえなければと思っていた。ホームセンターで木を買って、のこぎりで切って金具で固定する。ただそれだけなのだが、寸法を間違えないように慎重にしなければならない。うまくできたら次はペンキ塗りで、色違いのペンキしかなかったのでそれを使ったが、これはこれでなかなかいい色に仕上がった。プロ並みとはいかないが、やってみれば大概のことは自分でできる。まさに DIY(Do it yourself)だが、最近このことばを聞かなくなった気がする。

2011年11月21日月曜日

レジャー・スタディーズとは?

 

Chris Rojek "leisure Theory" 2005, palgrave
"The Labour of Leisure" 2010, Sage

・来年度の後期に研究室に集まる人たちを中心にして「レジャー・スタディーズとツーリズム」というタイトルの特別企画講義をやることにしている。その準備のために、レジャーについて、改めて勉強し直すことにした。今年は校務に追われて、仕事らしい仕事は何もしていない。そろそろはじめなければ、錆が出てきてしまう。で、以前に翻訳をしたクリス・ロジェクの本を何冊か読んだ。


leisure1.jpg ・レジャーは余暇と訳されてきた。この領域を研究する学会も日本では「余暇」と名がついている。なぜ余った暇なのかというと、それは寝ることや食べること、そして何より働くといった、必ずやらなければならないことのほかに生まれる余剰の時間だからである。したがって「レジャー=余暇」というとらえ方には、「仕事に特権を与え、レジャーをそれに付随する変数とする」前提がある。

・とは言え、レジャーそのものに注目すれば、そこには個人を豊かにすることや、快楽のために意識的に使われる時間として探究できる材料はいくらでもある。レジャーは、その語源からして何より自由なもの、自発的なものであり、お金を気にせずに時間を自由に使える人は有閑階級(leisure class)と呼ばれて、大衆からは羨望のまなざしを受ける存在だった。彼や彼女たちが暇な時間にするさまざまな遊びやスポーツ、その時身につける衣服や道具が、大衆消費社会になるとファッションや娯楽の産業として発展していった。

・ロジェクはさらに「レジャー」の中には、人びとの協同や相互理解、あるいは心身の健康や幸福観といった社会的に定義された目標を達成する機能的な活動が含まれると言う。レジャーはこれらを統合して分析する必要のある、きわめて今日的な研究テーマだというのがこの本の基本的な視点で、そのために彼が提示するのは「行為分析」という概念である。

行為へのアプローチはレジャーを単に自発的な行為の蓄積としてみなさない。反対に、レジャーは、行為者をレジャー実践の決定論的な軌道に位置づける文化的、経済的、そして社会的強制力として分析される。この軌道はまた、行為者を差別化する。ここから、レジャーの軌道は個人の本質的な満足の追求という私的な投資を示唆するだけに留まらず、個人を階級、文化、ジェンダー、人種、宗教、そして地位基準に分類するのである。

leisure2.jpg ・「レジャー」という行為は快楽や感動を経験し、教養を身につけ、心身を健康にし、豊かな人間関係を作り、維持することを目的にする。ロジェクはもう一冊の本では、それによって得られるものを「感情知性」(emotional inteligence)と名づけ、それが「感情労働」(emotional labour)と呼ばれる仕事と大きく関連していることを指摘する。彼によれば、「感情知性」とは、私たちが出会う多様な社会的、文化的、そして経済的状況のなかで、私たちが有能で信頼がおけて適切にふるまう人として認められるために必要な「衆人知」(people knowledge)と技術にほかならない。

・レジャーの多くは商業化し、産業化している。だからレジャーの形式と実践は「コード化」され、多様なやり方で表象されている。ロジェクはレジャーを表象のシステムとして考察し、それを富や権力、つまり経済資本、文化資本、そして社会関係資本との関係で読み解く必要があると言う。なるほどと思ったが、急ぎ足で読んでポイントだけつかむような読み方だったから、講義が始まる前にもう一回、きっちり読まなければ、とも思った。講義のためにはもうひとつの課題である「ツーリズム」についても勉強しなければならないが、ロジェクはこの分野でも編著を出している。

2011年11月14日月曜日

紅葉を探しに

 

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・今年は秋の深まりが遅い。いつまでも暖かい日が続くから、山の色づきも鈍かった。忙しかった前期と違って、後期は土日に出校することも少なかったので、月曜日は山歩きにしようと決めた。 で、10月の後半から近くの山に出かけることにした。陣馬山は高尾山の西にある。八王子から藤野や上野原に抜ける旧甲州街道の和田峠まで車で行き、そこから歩いた。標高は857mで登ったのもたいしたことはなかったのだが、久しぶりの山歩きで、途中から腿やふくらはぎが痛くなった。当然だが周囲の紅葉はまだまだだった。jinbayama.jpg
mizugaki1.jpg ・翌週は山梨と長野の県境にある瑞牆山(みずがき)へ行った。花崗岩の山が浸食されて、奇岩や巨岩がたくさんある。以前から行こうと思っていた山だ。2230mと高いから、こちらは麓が紅葉真っ盛りだった。先週からの筋肉痛が直っていなかったので、頂上まで登らずに、不動滝で引き返した。乗り換えたばかりの車で川上村から秩父にぬける林道を走ったが、予想以上の悪路だった。
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・11月になって出かけたのは陣馬山から相模湖をはさんで南にある石老山(せきろうさん)。ここも奇岩や巨岩がある山で、岩の一つ一つに名前があり、謂われがあった。ここは杉や檜の森で、紅葉は一部しかなかったが、二カ所ある見晴台からは眼下に相模湖がよく見えたし、山頂からは丹沢の山並みが一望できた。さて、次はどこに登ろうか。sekirosan1.jpg

2011年11月7日月曜日

BSがおもしろくなくなった

・地デジ化されて3ヶ月が経った。アナログ波がとまって、ザラザラ画面とは言え見えていたチャンネルの多くが見えなくなった。自治体にかけ合ってBS経由で地デジが見られるようになったが、それは山梨県で視聴可能なNHK2局と民放2局に制限されている。すでに書いたように、これは、見えるのにわざわざスクランブルをかけて見えないようにする総務省の方針のためである。地元放送局の保護と、全部見たければ地元のケーブルテレビと契約をせよ、というケーブル普及を意図した露骨な戦略で、新聞もテレビも自分の保持する既得権の問題だから、どこも何も言わないのである。

・BSだから、どのチャンネルも今までとは比べものにならないほど鮮明になったが、以前より見る気になったのはNHKの教育テレビぐらいだ。BSで見られる民放の地上波はNTVとTBSだが、きれいな画面になってもCMの多さばかりが気になってしまう。CMと言えば、BSでも民放チャンネルはCMが多くなった。地デジ化で視聴者が増えたためだろうが、CM が少ないからこそ、BSを見ていたのに、うんざりしてしまう。

・それに、昼と言わず夜と言わず、どのチャンネルでも韓流ドラマばかりやるようになった。たまたま見たライブドアのサイトに「地上波では4つの放送局が6作品を、衛星放送では7つの放送局が29作品を放映中」という記事を見かけたが、この数は半端ではない。デモをして反対することでもないが、自前で制作のできない局がいくつもチャンネルをもつのは、電波の無駄遣い以外の何ものでもないだろう。デジタル化によってあいた電波域はテレビではなく、通信に使うべきなのに、テレビ局は既得権を主張して、電波枠を手放さないようだ。

・10月の末からBSに新しいチャンネルができた、有料放送で最初は無料で見ることができたが、スカパーやスポーツ、そして競馬などのチャンネルで、CSとも光とも重なり合うものばかりだから、当然、新たに契約したいものはなかった。そもそも、光テレビと契約したときに、基本契約のチャンネルのなかに映画専門の局がいくつもあったから、BSのWowowも解除したのだった。

・NHKのBSは3局から2局に減った。その分番組を強力にするような前宣伝だったが、見たいと思わせる番組が減ったことは確かだ。世界中の山にアタックする「グレイト・サミッツ」など、確かにお金と時間をかけて作ったものもあるが、バラエティ形式の番組やタレントを使う番組が増えて、テーマに興味があっても途中で見るのをやめてしまうことも少なくなかった。

・と、文句ばかり書いてきたが、テレビをますますつまらないと思うようになった最大の理由はiPadがおもしろくて、今までテレビを見ていた食後の時間に、ほとんどiPadばかりをやるようになったからだ。ただで手に入るゲームがたくさんあるし、テレビ番組だって、少し立てばYouTubeなどで見ることができる。スマートフォンやタブレットの普及はものすごいスピードだから、テレビが斜陽になって取り返しがつかないほどに落ち込むのも、そう遠いことではないのかもしれないと思っている。

2011年10月31日月曜日

最近買ったCD

Tom Waits "Bad As Me"
Neil Young "A Treasure"
Ry Cooder "Pull Up Some Dust and Sit Down"
Patti Smith "Outside Society"
Gustavo Santaolalla "21 Grams" "Brokeback Mountain""The Motorcycle Diaries"

・最近買ったCDはあまりないのではと思っていたが、トム・ウェイツの新しいアルバムを買ったのを機会にiTunesを調べてみたら、意外に何枚も並んでいた。車に乗っているときにはiPodをつけているから、買ったままで聴いていないというわけではないのだが、CDを聴くことがなくなったから、一枚のアルバムについての印象がすごく薄くなった。

tom1.jpg・トム・ウェイツの"Bad As Me"はハードカバーの冊子で、各曲の歌詞が見開き2ページごとに書かれ、写真が載ったものだ。簡易のアルバムもあるが、興味があったから買ってみた。ボーナストラックが一枚余計について、3曲がおさめられている。iTunesで好きな音楽だけダウンロードといった時代だからこそなのだろうか。歌詞を見ながら歌を聴く。歌詞はパソコンではなくタイプライターで打たれたものだ。


仕事を見つけろ 金を貯めろ ジェーンに聞いてみな
雨の日には傘の値段があがるってことは誰もが知っているから
で、どんなニュースもひどいもんだ "Talking at the sametme"

young10.jpg ・ニール・ヤングは次から次へとアルバムを出している。しかし買ったのは久しぶりだ。"A Treasure"は昔のライブ録音で、Tシャツつきのものもあるようだが、こちらは一番安い輸入版にした。反戦歌ばかりのアルバムを出したかと思うと、妙に商売っ気を感じさせたりと、最近はあまり手を出す気がしなかったが、評判がいいので買うことにした。80年代のもので知らない曲が多い。なかなかいいが、題名の「お宝」といえるほどの価値があるとは思えない。

ry7.jpg ・精力的にアルバムを出すと言えばライ・クーダーも一緒だ。しかし、彼が出すアルバムはどれもテーマがはっきりしていて、しかも相互に繋がりや一貫性がある。アメリカの音楽のルーツを訪ね、発掘する作業には、必ずマイノリティの視点が強くある。最初は彼のギターに惚れてファンになったのだが、最近のアルバムで発表される歌は、どれも歌詞がいい。"Pull Up Some Dust and Sit Down"に出てくるのはいじめられる移民、貧富の差の拡大、中東での終わりなき戦い、そして銀行ばかりを救済する政府に対する怒りや辛辣な怒りだが、どれもストーリーとして語られるから、訴えがシーンとして浮かびあがってくる。


かわいい子どもが徴兵されたと言った
列車が次の朝やってきて
俺は立ってバイバイと言うほかなかった "Baby join the army"

patti5.jpg ・パティ・スミスのアルバム"Outside Society"はソウルの町で見かけた。てっきり新曲ばかりと思ったのだが、シングル盤で出たヒット曲を集めたベスト盤だった。全曲リマスターだということだが、すでに持っているものとの微妙な違いに耳を傾ける趣味はないから、あまり聴いていない。ただ、すべての曲について、パティ自身がコメントをつけていて、それはそれでおもしろい。そう言えば、ここで紹介するほとんどアルバムはLPレコードでも売り出されている。デジタル化で形のあるものが不要になる時代に異を唱える人が増えているということなのだろうか。

21g..jpg ・グスタヴォ・サンタオラーラの"21 Grams"は映画のサントラ盤である。21グラムは心臓の重さで、心臓移植を巡る人間模様がテーマの映画だが、僕は画面を見ずに音だけ聴いていたから、かえって音楽が気になり、気に入って買ってしまった。サンタオーラが誰なのかもわからなかったのだが、彼はアカデミー賞を取った"Brokeback Mountain"の音楽も担当している。1951年生まれのアルゼンチン人で、チャランゴの名手だと言われている。チェ・ゲバラの南米旅行記を映画化した"The Motorcycle Diaries"のなかに、「ウスアイアからラ・キアカへ」という題名のチャランゴのソロ演奏曲がある。気に入ってYouTubeで検索すると、彼のライブ演奏を聴くことができた。もちろん、映画のシーンをかぶせたビデオもある。知らない人がまだまだいる。改めてそう思った。

2011年10月24日月曜日

放射能と食べ物

・食料などの買い物は毎週一回、行きつけのスーパーと地元の野菜を売る店に出かけている。食べ物については我が家(主にパートナー)は自覚的で、ずいぶん前から、生産地や成分表等を確かめて買うことをやってきた。野菜は地産地消が一番だし、季節外れのものはなるべく買わない。こんな原則だから、海外で生産された野菜や果物は滅多に買うことはないし、温室育ちの季節外れの野菜もあまり食べなかった。幸い、山梨県にはおいしい米や牛乳、そして卵などが何種類もある。山国だが、隣の静岡県からは魚も来る。だからスーパーに並んでいる品物のなかから、なるべく地元や周辺のものを選ぶことはそれほど難しいことではなかった。

・とは言え、すべてを地産地消でというわけにはいかないから、生鮮食料品にしても、穀物にしても、全国各地のものを買って食べることはやってきた。大手メーカーのものであっても必ず成分表には目を通して、添加物の少ないもの、原料が国内産であるものを選んだりもしてきた。だから、買い物にはいつでもかなりの時間がかかった。時においしそうなものならそんなこと気にせずに買おうという僕と、添加物が気になるからダメというパートナーとの間で口論になることもあったが、大筋では大体の基準ができていた。

・そんな日常のルーティン(おきまり)が原発事故以降混乱するようになった。放射能はほうれん草等の葉物とキノコ類に吸収されやすい。海産物では海苔や海草類、貝、そして小魚類が危ない。そんなニュースが次々出て、新茶の時期には神奈川、そして静岡からも検出された。当然、福島県はもちろん、栃木や群馬、茨城、そして千葉で生産される農産物や太平洋岸でとれる海産物が買い控えされるようになった。政府はそれを風評被害として安全性をくり返したが、放射能の検出作業は万全と言うにはほど遠い状況だし、安全基準を引き上げたり戻したりと場当たり的だから、実際のところ信用できないというのが大方の人の感覚だろう。

・放射能の被害は内部被爆が深刻で、その多くは食べ物や飲み物から吸収される。ただし、気をつけなければならない程度は年齢に反比例して、幼い子どもや妊娠中の女性に対する影響が強いという。50歳を過ぎたらそれほど怖がる必要はないと言われているから、60を過ぎた僕は、あまり気にする必要はないのかもしれない。と言うより、福島を中心にした農業や漁業を衰退させないために、60歳を過ぎた人は積極的に、その地のものを食べる義務があると言う人もいる。京大の小出裕章さんだ。確かにそうかもしれないと思う。

・食物に含まれている放射能をきちんとはかって、個々の品物に18禁とか30禁、そして50禁、60禁と細かく表示をする。それができるだけ危険を少なくして、福島周辺の農業や漁業をダメにしないようする唯一のやり方だとすれば、そのことは、政府が大原則として政策にして、国民に理解されるよう説明をする必要がある。そこには当然、原発政策や、東電の扱いについて、国民の立場に立った政策が伴わなければならない。

・ところが、野田首相の政策が目指しているのは、原発の再稼働と東電の生き残りで、この点については自民党も変わらない。除染をして避難地域に住民が戻れるようにするといった実現できそうもない話をする一方で、食べ物については、ご都合主義の基準値を設定して、安全であるかのように思わせて消費させてしまおうとしている。安全ですと言っておいて、5年、10年経って被害が現実化したときには、やっぱり「想定外でした」などと言うつもりなのだろう。

・東京のスーパーで買い物をすると、野菜はやっぱり、福島や関東一円を産地にしたものが多い。たぶん安全だろうと思っているのかもしれないが、不安に感じながら、仕方なく買って食べている人も多いのだと思う。そこに感じる空気は、はっきりさせずに曖昧にして、その曖昧さに異議を唱えることをしない風潮だ。放射能は目に見えないし、その被害もはっきりとしているわけではない。だからこそ、はっきりした方針と基準を出して、国民を納得させて信頼関係を築く必要があるのに、政府の姿勢はずっと、ないふりをするか曖昧にお茶を濁すばかりである。

2011年10月17日月曜日

福島についての2冊の本

 

福島についての2冊の本

開沼博『「福島」論』(青土社)
佐藤栄佐久『福島原発の真実』 (平凡社新書)

・僕にとって福島は、縁のある土地だった。義母のいるいわき市には毎年のように夏休みに出かけたし、子どもと一緒に海水浴をしたり、ハイキングをした。その義母が亡くなって今年で七回忌になる。ほかに知りあいはいないので縁遠くなっていたが、大地震が原因の原発事故が起きた。だから、津波の被害はもちろん、放射能の汚染が引き起こした問題には、人ごとではない気がして、ずっと関心を持ちつづけている。

fukusima1.jpg・僕がよく訪れていた頃の福島県知事は佐藤栄佐久で、1988年から知事を務めて2006年に収賄容疑で逮捕されて辞職している。僕は誰が知事なのかも関心がなかったのだが、原発事故の後に、彼がトラブルを隠す東電を批判して、プルサーマル計画にずっと反対してきたことを知った。収賄容疑は二審でも有罪の判決が出たが、一体何が罪なのかわからない内容で、原発政策を勧める上で邪魔な知事を辞めさせるための策略だったことは明白のようだ。その点を含め、『福島原発の真実』 には、知事就任以来、原発に対してとってきた方針と政府や東電とのやりとりが詳細に語られている。

・佐藤知事は自民党の参議院議員からの転職で、最初は中央とのパイプを持った知事として仕事をした。原発についても、福島の経済を活性化させるために必要なものという姿勢をとってきた。それを反転させたのは2000年のことだ。それ以後知事は福島県のことだけではなく、原発をかかえる他県の知事をリードして、その危険性を訴え、トラブル隠しをする電力会社を批判し続けてきた。

fukusima2.jpg・福島県に原発ができたのには、ここがかつて常磐炭鉱という石炭の生産地をかかえていて、閉山後の経済の落ち込みからの脱却を願っていたことがある。あるいは、福島県には多くの水力発電所があるが、それらは20世紀の初頭から、主に東京への電力供給のために作られてきたこともある。そして、事故を起こした福島原発の地は、終戦直後に堤康次郎が広大な土地の払い下げを受けて塩田事業をした跡地に作られたものである。

・開沼博の『「フクシマ」論』は現役の大学院生が修士論文として書いたものである。そのメインテーマは副題にある「原子力村はなぜ生まれたのか」で、大地震と原発事故が起こる直前に書き上げられている。まるで事故の予言書であるかのようにして一時期話題になったが、内容はあくまで「原子力村」にある。それは一般的には政治家、官僚、電力会社、原発関連企業、マスメディア、そして大学研究者たちによって構成された閉じた組織のことを指すことばだが、この本ではむしろ、現実に原発のある地で暮らす人びとと県や市や町、そして村の政治家や役人、そして建設や土木工事などの地元企業が住人となる「村」に焦点が当てられている。

 

・中央にあって「世界有数の原子力技術の確立」を望み、その卓越性を誇示し、安全神話を作りあげてきた「ムラ」と、経済成長から取り残され、過疎化する地域の維持や発展のために原発の設置を容認した「ムラ」は、共に原子力に大きな「夢を見ていた」ことでは共通している。そして両者が抱いた「どちらの夢も幻想であったことが、時間の経過とともにますます明らかになってきた」。にもかかわらず、どちらも、その夢を捨てることができなかった。


・それは、一方では、地方の「反中央」であるゆえの自発的な服従の形成のなかから、他方では、貧しいムラの「都会」への欲望のなかから可能になった。その生産により、原子力ムラはaddictionalな自己の再生産をはじめることになった。そして、ちょうど同じ時期に、中央の原子力に関わる各アクターも閉鎖性・硬直性をもった<原子力ムラ>と呼べる集団を確立する。結果としてこの二つの原子力ムラが、原子力推進に抵抗する勢力もうまくからめとる形で、現在の「原子力推進体制」を確立する共鳴をはじめたのだった。(p.298)

・鋭い指摘だと思う。しかし、一見新しいもの、先端的なことに関わることが、前近代的なムラ組織によって支えられるという構造は、たとえば新聞とテレビが一体となった電波村にもあてはまるし、企業や学校、そして地域といったさまざまな集団の中にも容易に見ることができる、きわめて日本的な特徴である。ここまで危険性が露呈された原発をストップさせることがなぜできないのか、という当たり前の疑問に対する答えは、たぶん「ムラ」のなかにある。このような仕組みをあらためるのは、放射能に汚染された土地を除染するのと同じぐらい難しいことなのかもしれないと思う。
 

2011年10月10日月曜日

マックとの出会い

 

・アップル創業者のスティーブ・ジョブズが死んだ。iMac、iPod、iPhone、そしてiPadと立て続けに大ヒット作を出して、まさに絶頂期でのおさらばだ。新商品はほぼ出尽くした感があるから、アップルはこれから厳しい時代を迎えることになるのでは、と思う。そのことは、ジョブズが元気でいたとしても変わらないことかもしれない。

・ぼくはアップルの製品をiPhone以外すべて持っている。iPadはテレビを見る気をなくしたほどにおもしろいし、iPodは車の運転に欠かせない。そしてもちろん、マッキントッシュは仕事の必需品で、家と研究室に一台ずつと、持ち運び用に一台使っている。講義も2年前からKeynoteでやるようになった。

macse30.jpg・あらためて、今まで何台買ったか思い出してみたがよくわからない。おそらく10台は越えているだろうと思う。最初の一台はマッキントッシュSE30で、購入したのは1989年だった。まだ日本では販売されていなくて、大阪の日本橋にあるマッキントッシュを並行輸入する店で手に入れた。本体だけで90万円もして、その他に日本語のフォント、EGワードやページメーカーといったソフト、それにスキャナーとプリンターを合わせると150万円近くの出費になった。新車を買うのと同じほどのお金を投じて、一体何をやろうとするのか。そう思われても仕方のない投資だったが、その後の僕の時間の過ごし方は一変した。

・文章を書くのではなくワープロでタイプしはじめたのはその4,5年前からで、日本ではパソコンよりはワープロ専用機が家電メーカーからそれぞれ販売されていた。手書きからタイプ入力への変化は文章を書く際にはもちろん、読書ノートをつけることや、それをカードで整理することなど、さまざまに渡っていて、知的作業の一大変革がやってきたことを実感させたが、AppleのMacintoshについて書かれた記事を読んだときには、その製品以上に、それが生まれる歴史に驚かされた。

・スティーブ・ジョブズは社名のアップルをビートルズにちなんでつけている。パソコンを誕生させたアメリカのコンピュータ文化は、対抗文化が沈静化した後にサンフランシスコの郊外で生まれている。国や大企業が独占する大型コンピュータに対抗して、個人が自由な表現活動や情報のやりとりに使う道具を作る。パーソナルなコンピュータとは、まさにそんな意味でつけられた名前だった。

・現在のパソコンの原型となったのは1977年に登場したApple IIである。しかし、その後のコンピュータ社会の発展をリードしたのは、1981年にIBMが出し、マイクロソフトのMS-DOSをOSにしたPCだった。Apple社が1984年に発売したマッキントッシュには、オフィスワークの道具として位置づけられたPCを批判した60年代の対抗文化の気風が取りこまれた。僕が魅了されたのは何よりそこにあったが、その魅力はまた、パソコンとしては多くても一割程度のシェアしか持てない限界にもなった。

・スティーブ・ジョブズはマッキントッシュが発売された翌年にApple社をやめている。Apple社としての独自性を維持することとIBMPCに対抗する機能を備えること。マッキントッシュには、そんな二面性が課せられたが、ワープロと表計算が使えれば十分という風潮に風穴を開けたのは、ジョブズがApple社に復帰した後に発売したiMac(1988)だった。ジョブズは続けて、iPod、iPhoneと大ヒット作を連発したが、それを可能にしたのは、1995年から本格化したインターネットの急速な発展と映像や音のデジタル化が、多くの人に表現や通信の手段としての道具に関心を向けさせたことにある。

・そんな意味で、ジョブズが実現させた世界は、60年代の対抗文化の日常化だったと言えなくもない。しかしそれはまた、モノについても時間についても新たな浪費を生みだし、それに囚われてしまう生活の現実化でもある。マッキントッシュと出会って、できることがたくさん生まれた。しかし反面で、何もしないで過ごすことに充実感を持たせることがきわめて難しくなったことも間違いない。もうこれ以上の道具は必要ないという気になっているから、僕にはジョブズの死を惜しむ気持ちは起こらない。

2011年10月3日月曜日

愛車に感謝、そして別れ

 

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forest95-2.jpg・12年間乗ってきたレガシー・ランカスターが27万キロを超えた。この間、ほぼ無事故で違反も少々、免許を取って40年を過ぎて、はじめてゴールドにもなった。元気に走ってくれていて、まだまだ大丈夫と思うが、ここ数年は点検のたびにいろいろ部品を交換して、かなりの費用がかかるようになっていた。で、一大決心をして、乗り換えることにした。長いつきあいで、僕にとっては人格をもっているかのように感じることもあるのだが、いつ壊れてもおかしくない距離になってからは、信頼と同時に不安感ももってきた。

・この車については、これまでも何度か話題にしてきた。20万キロを超えたときに書いた「20万キロ越えに感謝」には、東北に3度でかけ、佐渡島にも行ったことが記されている。そう言えば、大震災の時に思い出したのは、津波に襲われた三陸のリアス式海岸の道が上り下りが連続する曲がりくねった道だったことだった。あるいは下北半島の恐山に行く途中に見かけた原発や六ヶ所村、そして立ち並ぶ風車の景色も頭をよぎった。義母が住んでいた福島県のいわきにも何度も行ったし、義兄が別荘を持っている磐梯山や那須にも頻繁に出かけた。

・富士山周辺の地域の自動車ナンバーが「富士山」になったのは、車がちょうど20万キロを超えた直後だった。まだしばらく乗り続けようと決めた時で、新しいナンバーに興味があったから、陸運局に出かけたが、この時のことも「富士山ナンバーに変えた」に書いた。この後、他府県に出かけた際に「こんなナンバーあるんですか?」と聞かれたことが何度もあった。中には「いいな」とか「かっこいい」と言った人もいて、何となく鼻が高い気になったこともあった。

forest95-3.jpg・ランカスターは車高が高いから未舗装の山道でも平気で走ってくれる。だから、富士山周辺の林道をずいぶん走ったし、富士山の道も行けなくなるところまで何本も登って見た。たくさんの荷物が積めるから、数日間の旅行やキャンプにも出かけたし、パートナーが京都で開く個展にも、作品を一杯乗せてお供した。あるいは、ストーブに使うために見つけた伐採した木を運ぶのにも大きな力を発揮してくれた。そして何より、冬の雪道や凍結路を安心して走るのにはタイヤ以上に4駆やABSが役立つことを実感させてくれた。

・もちろん、はじめからこんなに長いこと乗り続けるつもりでいたわけではなかった。特にガソリンが値上がりしはじめた頃からハイブリッドに乗り換えることも考えたが、スバルがヨーロッパでディーゼルを販売したニュースを聞いてからは、それが日本で発売されるまではがんばってもらおうと思ってきた。しかし、発売時期は当初2010年と言っていたのに次々延期されて、現在では一体いつになるのか、そもそも日本で発売する予定があるのかどうかさえわからない状況になってきた。

・レガシーはランカスターの後継車は「アウトバック」という名に変わっている。車のデザインも現行モデルは大きく変わってしまった。そして僕は現在売られている車が好きではない。ずっと乗り続けてきた理由は何よりそこにあるのだが、元気に走っているとは言え、いつ故障してもおかしくない状態になっている。で、ずいぶん前から中古車のチェックもして、旧モデルで色も同じ車を探してきた。自分で見に出かけられるところは東京と山梨に限られるから、なかなか気に入ったものがなかったのだが、ちょっと前にいいのを見つけて、買うことにした。色も同じでデザインも似ているから、乗り換えたことに気づく人は少ないかもしれない。

・だから12年乗ってきた愛車とはあと半月でお別れで、乗るたびに「ご苦労さんでした」とつぶやいている。廃車にしてもスクラップではなく、オークションにかけて、外国に輸出される可能性が高いようだ。ロシアかインドか、あるいはアフリカでまだまだ走り続けることになるのかもしれない。そう思うと、かわいそうな気もするし、車冥利に尽きる幸せな奴だとも言いたくもなる。

2011年9月26日月曜日

Brandi Carlile

 

"Brandi Carlile""The Story"
"Give up the ghost "

brandi1.jpg・Youtubeで原発関連のビデオばかり見ていたが、ふとカントリーが聴きたいと思って、エミルー・ハリスを検索して何本か見ていると、若いミュージシャンと一緒に歌っているものを見つけて、今度はそのミュージシャンを聴いた。Brandi Carlile。もちろん、はじめて聞いた名前で、シェリル・クロウやジョン・プラインと一緒のライブもあった。なかなかいい。そう思って、すぐにAmazonに3枚注文をした。何しろ、ipadをwifiで使っていると、このプロセスは瞬時のうちにすんでしまうから、うっかりすると次々買ってしまいそうだ。それにしても、円高のせいかCDが安い。どれも1000円前後の定価がついている。

brandi2.jpg・彼女はもちろん、最近デビューした新人というわけではない。最初のアルバムは2005年に出されている。シアトルの田舎の出身で、レズビアンであることを公言し、"The Looking Out Foundation"という名の環境問題に関わるNPOを立ちあげている。テレビドラマ「グレイズ・アナトミー」で使われた"the story" がヒットしてブレイクしたようだ。確かに手にい入れた3枚のうちでは"The story" が一番聴きやすい。ドラマは見たことがないが、聴いたことのある曲がいくつかあった。しかし、僕が一番気に入ったのは音が一番シンプルなデビュー・アルバムの"Brandi Carlile"の方だった。

brandi3.jpg・彼女も意識をしているようだが、シェリル・クロウのデビューの頃を彷彿とさせる。元気がいい、ちょっと突っ張った感じの女の子で、声も太くてハスキーなところがよく似ている。Youtubeで見たステージでの格好も、垢抜けないところはそっくりだ。
・彼女を見出したのはデイヴ・マシューズらしい。ジョン・プライン同様、Youtubeにも競演しているライブが載っているが、二人とも、アメリカではポピュラーな実力派で、娘と楽しく歌っているような感じがなかなかいいと思った。


橋が燃え落ちていないところを見つけるために
いくつの法律を破り
いくつの嘘をつき
いくつの道を変えるのだろうか
"What can I say"

2011年9月19日月曜日

韓流ドラマ批判よりずっと大事なこと

 ・フジテレビが韓流ドラマばかり放映しているという理由で批判され、お台場でデモまで行われたそうである。地上波を見ないのでわからないが、BSではどのチャンネルでも韓国のドラマをたくさん放映している。僕はほとんど見ないが、番組が多いということは見る人がたくさんいるわけで、それ自体を理由にテレビ局に対してデモをする理由が僕にはよくわからない。批判するのなら、韓流ドラマにかなわない日本のテレビドラマの貧困や、バラエティで埋めるしか脳のない番組編成の方にあって、それはしかも、文化批判として行われるべきもののように思った。

・夏に韓国を旅行して、明らかに韓流ドラマの影響と思われる日本人旅行者を見かけることがあったし、観光地での案内で、「日本でも見られている〜のドラマで登場した」などと、風景や建物などを説明することも多かった。僕はそう言われてもほとんどわからなかったが、それを見たり、体験したりすることを目的に来る日本人旅行者がかなりたくさんいることはよくわかった。

・韓流ドラマの人気やテレビ局の依存体制は、言ってみればそんな程度のことに過ぎない。ただし、お台場でのデモが千人規模の大きなものだったのに、フジテレビはもちろん、他のテレビ局もまったく報道しなかったのは、おかしなことと思った。原発事故以来、テレビや新聞の報道がいかに作為的なものであるかがあからさまになった。しかし、マス・メディアはそのことをあらためるどころか、一層露骨に続けるようになった。その好例は反原発のデモだろう。9.11には新宿で15000人集まって、警察の規制が厳しくて逮捕者も出たようだが、テレビのニュースはほとんど無視で、新聞でも大半がごく小さく扱われたに過ぎなかった。

一方で、政治家の発言に過剰なほどに反応して辞職に追い込むケースが続いている。所属を名乗らずに大臣を罵声する記者の存在にはあきれるが、問題になった大臣の発言の文脈もわからないし、どの記者に対してなのかもわからない。「放射能をつける」は明らかにオフレコで大臣と記者との間のプライベートなやりとりのはずで、そんなことが記事になること自体がおかしな話なのだから、問われるべきは一斉に報道して問題視したメディアの方なのである。

・「死の街」発言も、何が問題なのかよくわからない。どのような文脈の中で出てきたものかがはっきりしなければならないのに、ただ「死」と言ったことが悪いとされている。本当の理由は辞任した大臣が脱原発を推し進めたり、経産省の人事の刷新を考えていたところにある。こんな裏情報に接すると、メディアに対する批判を強め、そのことを理由にテレビ局や新聞社にデモを仕掛けなければいけないという思いを強くしてしまう。

・それにしても、新聞もテレビも、もうどうしようもないほどダメなところに来てしまっている。それは、政治家(政党)、官僚、そして電力業界のひどさと同レベルで、個々の出来事や人間を非難してすむようなものではなく、制度の根幹に原因があることが自明になっている。誰もがどこもが、保身にしか意識が向かなくて、既得権の確保にばかり精を出している。目を向けるべきものは、けっして韓流ドラマなどではなく、この国が陥っている現実そのものなのである。

2011年9月12日月曜日

韓国旅行

 

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光州博物館で見た仏像。お地蔵さんのよな柔和な顔。


11日間の韓国旅行が終わって、撮った写真の整理をした。時差もなく、仕事もしているから、国外に旅行したという感覚は薄いのだが、辛くて甘くてしょっぱい食べ物の影響がいまだに体に残っている。焼き肉もキムチも好きだが、毎食、辛くて味が濃いものしか選択肢がないのには閉口した。
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ソウルは東京みたいで、釜山は神戸や横浜より大きな港町だった。地下鉄、高速道路、KTX。一昔前の日本のように成長経済が目に見えるようだった。対照的なのが慶州。京都や奈良と比較される古都だが、観光に力を入れているようにも見えなかった。若者たちのファッションは、日本と変わらない。チマチョゴリを見る機会はほとんどなかった。
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のんびりできたのは済州島。石像のトルハルバンは蒙古に支配されていた頃の名残とか。元寇の頃だから鎌倉時代だ。東にある対馬は日本にとって最果ての過疎の島だが、済州島は韓国唯一の南国リゾート地で、漢拏(ハルラ)山と城山日出峰は絶景だ。
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2011年9月5日月曜日

初めての韓国

・ぼくにとって韓国は沖縄同様、近くて遠い国だった。歴史や政治問題に関心を持てば、観光気分で行くことは躊躇してしまう。だから、韓国や沖縄が手軽な旅行地になってからは、余計に行く気になれなかった。その沖縄に3月に観光旅行に出かけ、そしてこの夏、韓国に出かけることにした。きっかけは、息子が宮古島で結婚式をしたことにあった。それに、アメリカの友人が日本に来て韓国に行くという予定を伝えてきた。都合で行けなくなったのだが、それでは代わりに行ってやろうか、という気になったのである。

koria1-2.jpg・ソウルは羽田から2時間ちょっとしかかからない。空港についてもほとんど日本人と変わらない顔つきや体つきをしているから、国内旅行をしているような気にもなる。けれども、耳に聞こえてくることばの違いやハングル表記の看板や表示板などを見ると、やっぱり外国に来たことを実感してしまう。韓国は中国や日本と並んで漢字文化圏にあったはずなのに、漢字をきれいさっぱり払拭してしまったようである。このハングルを出かける前に少しでも理解しておこうと思ったのだが、勉強し始めてすぐに諦めてしまった。単純な表音文字を合成させて、漢字一字文の音を一つの文字として表記する仕方の複雑さは、にわか勉強ではとてもマスターできるものではないのである。

koria1-1.jpg・飛行機がソウルの金浦空港に降り立つときに目についたのは、林立する高層住宅だった。その細くて高い形が日本で見慣れた高層住宅とどこか違う気がしたのだが、その後歩いているときに、どの建物にもベランダがないことに気がついた、ベランダがなかったら閉塞感を持ってしまうだろうにどうしてなのだろうか。そう言えば、ソウルや光州の地下鉄駅のホームはどこにもシールドがあって、電車が止まったときだけドアが開くものだった。思い過ごしかもしれないが、自殺予防?という理由がすぐに浮かんできた。

koria1-3.jpg・韓国と言えば焼き肉とキムチ。毎日ではかなわないが、数日なら食べ続けてもいい。そんなふうに思っていたのだが、最初の晩に食べたキムチの辛さにまいってしまった。焼き肉にかぎらず、どんな店に入って何を注文しても、キムチはもちろん、漬け物や煮物の入った小鉢がテーブルをいっぱいにするほど並べられる。辛さもしょっぱさも甘さも強いのだが、それとは別に味噌がつき、生のニンニクや生の唐辛子がついてくる。だから早くも二日目にホテルの日本食レストランで松花堂弁当を食べたのだが、三日目に思い直して焼き肉を食べた。骨付きカルビをハサミで切って金属の箸で食べるのだが、ここでもやっぱりいくつも小鉢が並べられ、食べたことのない葉野菜に肉と一緒に包んで食べた。

koria1-4.jpg ・若い人たちのファッションはどこに行っても同じようなものだ。そのことはソウルや光州でも再確認したのだが、光州の地下鉄や中心地の文化殿堂で見かけて気づいたのは、40 歳ぐらいを境目にして、今昔の違いがはっきりわかるということだった。韓国が軍事政権から民主化したのは90年代で、経済成長もそれ以降のことである。だから豊かな社会を生まれながらに享受しているのは20代で、民主化を勝ち取った40代以下と50代以上の人たちの間には世代間の大きな断絶がある。日本からは20年遅れてやってきた現象だ。そんなことを勝手に考えたが、それが当たっているかどうかはわからない。

・もうひとつ、アメリカやヨーロッパではよく見かけたのに、韓国では日本の自動車はほとんど走っていない。もともとは日本と提携して成長したメーカーがいくつもあるが、よく見るのは現代自動車だ。反対に日本で韓国の自動車を見かけることもほとんどない。アメリカでは仲良く並んで走っていたり、駐車してあったりするのにどうしてなのか。これも近くて遠い国の一例だろう。ちなみに運転の仕方も怖くなるくらいに荒っぽかった。

2011年8月29日月曜日

沖縄についての2冊の本

 

奥野修司『沖縄幻想』(洋泉社)
松村洋『唄に聴く沖縄』 (白水社)

・3月に沖縄に出かけたが、その前後に何冊かの本を買って、ほとんど読めないままにきた。夏休みになって、気になっていた本を何冊か読んでみた。沖縄は40年近く前に出かけて以来だったから、その変容に驚いたが、ここで紹介する2冊を読みながら、その理由をあらためて考えてみた。
・始めて沖縄に行ったのは1974年で、復帰後の大イベントとして催された海洋博に反対するグループに帯同してのものだった。工事による海洋汚染、オニヒトデの大発生と珊瑚礁の被害などが話題になり、復帰後の沖縄の開発の仕方に強い批判が向けられていた。反海洋博のグループには日系米人も数名いたから米軍基地周辺や伊江島の射爆場に行き、これも建設中だった平安座の石油コンビナートにも出かけた。僕にとっては観光とはまるで違う、義務としての旅だったが、ことばも食べ物も人びとの気質もまるで違う世界には、大きなカルチャー・ショックを受けた。

okuno1.jpg ・37年ぶりの沖縄はまったく違う世界だった。高い建物の林立する那覇の街並みや国際通りの変容はもちろん、高速道路や北部のヤンバルと呼ばれる地域にできた道路網、小島との間にできた橋、それとは対称的な、嘉手納基地やキャンプ・ハンセン周辺の寂れ方など、驚きの連続だった。
・奥野修司の『沖縄幻想』には、復帰後の沖縄の変容が国からの莫大な補助金と三度のバブルによると書かれている。復帰後に当時の田中角栄内閣は「沖縄振興計画」をたて、「本土との格差是正」と「自立的経済発展」を目指して「沖縄振興開発特別措置法」を策定したが、海洋博は目玉のイベントだった。その2年前に大阪で開かれて大成功した万博の再現を狙ったのだが、入場者は予測を下回り、かえってその後に不況をもたらした。
・その後沖縄が注目されたのは80年代後半のバブルの時期で、大型リゾート開発ラッシュになった。沖縄の音楽や歌が注目されたのもこの時期で、本土のグループであるThe Boomの「島唄」が大ヒットして、すっかりポピュラーになったが、経済は本土と同様にバブルがはじけると沈滞した。

・2007年にやってきた三度目のバブルは、近くて安く海外より安全な観光地として、あるいは別荘地として本土から注目された結果だった。ここにはリーマンショック以前のアメリカのバブルによる外資の進出といった要因もあったようだ。いずれにしても、この三度のバブルによって沖縄が大きく変わったことは間違いない。ただし、その変容はけっして好ましいものではない。「自立的経済発展」は達成されないままで、ただ土建業だけが突出して多い現状は、道路や箱物ばかりを増やす公共工事や外からの観光開発の繰りかえしに費やされてきたことを証明するものだし、「本土との格差是正」は基地負担の見返りとしての補償費に頼りきっている。『沖縄幻想』を読むと、復帰後の沖縄の疲弊ぶりがよくわかる。

matumura1.jpg ・松村洋の『唄に聴く沖縄』 は沖縄の歌や音楽を通して、この島の歴史や風土、そして人びとの暮らしぶりの中にある魅力を解き明かそうとする内容である。沖縄は琉球王国としての歴史を持っている。中国の明や清の時代に属国として貢物を差し出していたが、その見返りに絹織物や陶磁器が下賜され、貿易も盛んに行われた。三線も中国伝来のもので、主に琉球王朝の上流社会で使われてきたようである。
・沖縄の音楽には、この中国の影響を受け洗練された宮廷芸能と、人びとが仕事の際に歌うところから生まれた民謡があった。現在では欠かせない三線が民謡の中で使われるようになったのは、それが働く場を離れ、プロの歌い手が登場するようになってからのようだ。宮廷芸能と民謡の間には、その価値に基づく格差があって、民謡は軽蔑される音楽だった。
・薩摩藩に占領され、さらには明治時代になって琉球王国が沖縄になる「琉球処分」を経て、沖縄の人びとが本土や海外に移住をしはじめると、歌や音楽もまた、外に出るようになった。松村は沖縄の唄の中にある外国はもちろん本土との違いを訴える「アイデンティティ」の希求に注目するが、それは何より、外に出ること、そして中に侵入されたことから生まれた意識だと言う。多数の島によって成り立つ沖縄には、もともと個々の島やその中にある小さな集落ごとに、それぞれ特徴的な世界があり、唄に代表される文化があって、そこには沖縄全体を自らの地として考える発想はなかったのである。

・沖縄の文化や人びとの気質が島ごとに違うことは、今回の短い旅でも強く感じたことの一つだった。けれどもまた、いかにも観光客向けに強調された「沖縄らしさ」や、本土と同じように近代化された風景や暮らしぶりも目につき、それがあまりに雑然と混在していることが気になった。『唄に聴く沖縄』は、変容しながら魅力を失わずに歌い継がれてきた沖縄の音楽に注目する。しかし、沖縄という地とそこに生きる人たちは、大きな変化の中で、沖縄という地とそこに生きる人たちの現在や未来にとって不可欠な独自な「アイデンティティ」をどう見定めているのだろうか。この2冊を読むと、その音楽と現実との間にある断層の大きさが一層強調されて伝わってくる。

2011年8月22日月曜日

残暑お見舞い申し上げます

・昨年に続いて厳しい暑さになりました。いかがお過ごしでしょうか。

・ぼろくそに言われ続けた菅首相が、とうとう退陣することになりました。辞任要求にははっきりした理由がわからないのに、大半の人が当然視するというおかしな事態でした。特に脱原発を支持する世論が7割を超えていて、その声を自らの政策に積極的に取りこもうとしたのに、支持率が下がり続けたことは、理解に苦しむ現象だったと今でも思います。次の首相が誰になっても、脱原発の政策はトーンダウンが明らかですから、その真意はさっぱりわからない気がします。とは言え、ふり返れば、鳩山前首相も同じようにして政権の座を追われ、彼が主張した普天間基地の国外、あるいは県外移転は雲散霧消してしまったのですから、まったく同じことがくり返されたことになります。

・僕は人間として、政治家の力量としての鳩山や菅を支持するわけではありませんが、彼らが掲げ、実行しようとした政策の多くは、今でも支持し続けたいと思っています。それは「沖縄の基地負担軽減」「脱原発」「子ども手当と高校授業料の無償化」など、多くのものがあって、そこにはあるべき社会の姿を考えたビジョンと理念があると思うからです。そして、この2年間、国会はもちろん、メディアにも、民主党が掲げた政策について、その理念をもとにした議論はほとんどなかったように思います。

・沖縄にある基地を本土並みに減らすことは、アメリカとの関係をどうするのかという問題につながります。そのことは、鳩山前首相の腰砕けを批判したところで、けっしてなくなるわけではありません。彼は強硬なアメリカの姿勢に屈服したという以上に、既存の状態を保とうとする政治家や官僚の「抵抗勢力」に負けたのです。

・菅首相の「脱原発」政策は3.11以降の深刻な福島原発事故の影響から生まれたものでした。それ以前には、原発をクリーン・エネルギーとし、CO2削減のために将来的には電力の50%を原発でまかなう計画を掲げていました。しかし、自民党政権時代には民主党は原発を過渡的なエネルギーとして規定していましたから、政権を取ったことで、やっぱり、政官財の保守勢力に妥協した結果だったのです。

・原発事故がもたらした被害、これから起こるであろうさまざまな影響の前に、大半の人びとは原発に依存しない社会を未来に期待しています。それに向けて、「再生エネルギー法案」などのいくつかの法律が国会を通りました。しかし、その多くは骨抜きというほどではないにしても、エネルギー政策の大転換というにはほど遠いものでしかありません。政治に妥協が避けられないのは確かなことでしょう。しかし、これで多少とも流れが変わるという見通しが立たないのでは、何ともやりきれない思いが残ってしまいます。

・「子ども手当」や「高校授業料無償化」は自公両党からばらまきとして批判され、民主党も大きく譲歩せざるを得なくなりました。しかし、この政策が、「子どもを育てる責任が親や家庭だけでなく社会にもある」という理念に基づくものであることが、ほとんど議論になりませんでした。長期政権をばらまきによって維持してきた自民党に言われる筋合いのない批判だと思いますが、政策ではなく政局と数の論理に明け暮れた国会の象徴と言えるものだった思います。

・次の総理を選ぶ民主党代表選の立候補者は「馬鹿野郎」だそうです。馬淵、鹿野、野田に陰で動く小沢一郎で、これに経産省の操り人形でしかなかった海江田も手を上げました。「馬鹿野郎」が冗談や皮肉ではなく事実ですから、とても笑う気にはなれません。

2011年8月15日月曜日

夏の訪問者たち

 

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・震災後の対応で忙しかった前期の授業が終わった7月の末から、つい数日前まで、何人もの人たちが入れかわりたちかわり訪れた。その度に、にぎやかに話し、食べ、飲んだ。我が家に泊まったら、西湖でカヤックを漕ぎ、自転車を走らせる。これはもてなしだが、人によってはノルマのように感じたかもしれない。普段使わない筋肉を使うから、確実に筋肉痛になる。涼しさのせいもあるが、我が家に泊まった人の大半は、朝食を告げるまでぐっすり眠っていた。

・自転車には速度計をつけているから、必死で漕ぐ人もいる。西湖の周回道路はおよそ10キロだから、平均20キロで走ると30分ほどで一周できる。最速は院生のY君で23分だったから、平均27キロぐらいで走ったことになる。留学生のL君は、そのY君のタイムを聞いて、負けじと張り切って出かけたが、いつまでたっても戻ってこなかった。帰ってから聞いたら、周回道路ではなく、精進湖や本栖湖に行く139号に出て大回りをしてしまったようだ。長い坂道の上り下りがあるから、これだと倍の時間がかかるのも無理はなかった。

forest94-2.jpg ・カヤックはアルミの棒を組み立てるのだが、長年使って、棒を繋ぐゴムが何本も切れてしまっている。だから、どの棒とどの棒を繋ぐかで手間取って、最近ではずいぶん時間がかかるようになった。水に浮かぶ心地よさのせいか、留学生のRさんは見えなくなるほど遠くまで行ってちっとも戻ってこなかった。一方で、別の日に来た同僚のKさんは、後ろ向きで漕ぎだして、そのまま進んでいるから、自転車で追いかけて、前向きに漕ぐよう大声で叫んだ。

forest94-3.jpg・カヤックやカヌーはボートとは違って、前を向いて進む。懸命に漕ぐ人、のんびり佇む人。一人で、そして二人で。小学生の男の子二人を連れてきたKさんは、Y君とS君をそれぞれ前に乗せて、右、左と呼吸を合わせて漕ぎだした。ライトブルーのレガシーB4で関西からやってきたOさんは、カヤックや自転車では、ドライブとは違ってのんびりモード。自転車もカヤックも今まで多くの人を乗せてきたが、人それぞれなのは、その度に、見ていてもおもしろいと思う。

forest94-5.jpg ・もうひとつのもてなしは食事だが、大人数になると、数日前からの仕込みが必要になる。冬ならストーブでじっくり煮込んだカレーやシチュー、あるいはパスタのソースになるのだが、夏は七輪に炭火をおこしてコトコトやることにしている。夜のバーベキューも、たき火でできた熾火を七輪に移して肉や野菜を焼く。これがなかなか好評だった。カボチャのコロッケ、芦川産のこんにゃくと鳥肉とゴボウの煮物、イカと茄子のパスタ、そしてかき揚げ天ぷらとソバ。大人数の食事作りは大変だが、わいわいやるのはやっぱり楽しい。

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