2015年12月31日木曜日

目次 2015年

12月

28日:2015という年

21日:盛田茂『シンガポールの光と影』インターブックス

14日:アマゾンで映画のただ見

07日:世論操作の露骨さ

11月

30日:冬の仕事

23日:戦争とテロ

16日:紅葉と蕎麦

09日:ディランとザ・バーズ

02日:新聞の記事比較

10月

26日:南京と広島,加害と被害

19日:ラグビーと難民

12日:自転車、自転車

05日:マイナンバーはいりません!

9月

28日:終わりの始まり

21日:反モンサントのアルバム

14日:見たはずなのに、ほとんど忘れている

07日:再び、幸福について

8月

24日:どこにも行かない夏

17日:無責任体制の極み

10日:ベテラン健在!

03日:BSを見るのは地方の年寄りかマニア?

7月

27日:友だちと仲間

20日:新刊案内!『レジャー・スタディーズ

13日:梅雨がうらめしい

06日:がんばれ!"SEALDs"

6月

29日:文系学部の存在価値

22日:今「Timers」を聴く!

15日:機能性表示食品にご注意!

08日:130余年前の日本

01日:新しい自転車

5月

25日:空恐ろしい「アベ」の時代

18日:「ダブル・スピーク」乱発と無関心

11日:野茂から20年のMLB

04日:最近買ったCD

4月

27日:奥村隆『反コミュニケーション』

20日:「粛々」という傲慢な態度

13日:手摺りをつけた

06日:メディアの自由度

3月

30日:京都個展界隈

23日:K's工房個展案内

16日:ジャクソン・ブラウンのコンサート

09日:『発表会文化論』

02日:一人暮らし

2月

23日:自己責任は恫喝のことば

16日:メディアの翼賛体制構築を批判する

09日:心と身体

02日:脳梗塞とリハビリ

1月

26日:最後のピンク・フロイド?

19日:京都「ほんやら洞」が燃えてしまった!

12日:今年の卒論

05日:基地と原発

01日:人生下り坂最高!

2015年12月28日月曜日

2015という年

 

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・2015年は公私ともに,大きな曲がり角になった。それを、この1年にブログに書いたことでふり返ってみようと思う。

・パートナーが脳梗塞で倒れたのは正月の4日だった。救急で行った病院の医者の誤診もあって入院が遅れたが、左半身不随の兆候が出て,リハビリを含めて70日間入院をした。イタリア旅行を予定していたのだがもちろんキャンセルして、一時は退職も考えた。不幸中の幸いで順調に回復をして、家で日常生活を過ごすことができるまでになった。しかし、山歩きをしたり,海外に出かけたりすることができるまでには、まだまだ時間がかかると思う。その意味で、これからのライフスタイルにも大きな変更が必要になった。→「脳梗塞とリハビリ」 「心と身体」 「一人暮らし」 「手摺りをつけた」 「どこにも行かない夏」

・1月には京都のほんやら洞が燃えたという出来事もあった。僕にとっては20代の自分を象徴するような場所だったから、つくづく、一つの時代が消えたことを強く感じてしまった。また7月に鶴見俊輔が亡くなった。僕は個人的に近かったわけではないが、大学生の時から大きな影響を受けて、研究者になったのも彼なしには考えられなかった。93歳と長命だたから驚きはなかったが、やっぱり一つの時代の終わりを感じさせられた。→ 「京都『ほんやら洞』が燃えてしまった!」 「鶴見俊輔『思い出袋』」

・公の出来事としてはすべて、安倍首相に関連していると言っていい。1月に起きたイスラム国に捕らえられた後藤健二と湯川遥菜の両氏が殺された事件は、政府の無策やアラブ諸国での安倍の言動が原因だった。→ 「自己責任は恫喝のことば」 同様の態度は沖縄や原発再稼働にも向けられていて、その傲慢さを批判されても,強硬姿勢を改めることが全くない、ひどいものだった。→ 「空恐ろしい「アベ」の時代 」 もっともそのような態度とは裏腹に,アメリカに対する従順さは露骨なほどに目立っていた。→ 「『ダブル・スピーク』乱発と無関心」

・安倍政権にとってもっとも大きな問題は、「戦争法案」の強行採決だったろう。その暴挙に沈黙していた若者が立ち上がって「SEALDs]という大きな動きが生まれたのは、暗闇に一筋の光明を見た気がした。→「「がんばれ! “SEALDs”」 「無責任体制の極み」 「終わりの始まり」 アメリカに要請されれば自衛隊を海外に派遣できるようになった。それで日本がテロの標的になる危険性は桁違いに増したのだが、フランスのパリでは11月に多重のテロ事件が起きて、即座の報復と右翼の台頭という事態になった。EUに逃れようとするシリア難民に対する姿勢の国家間の違いや混乱ぶりは、EUそのものの崩壊を予見させるものでもあった。→ 「戦争とテロ」

・このような状況の中で、政権が見せたメディアに対する弾圧といってもいい強硬な姿勢もひどいものだった。その最右翼は安倍チャンネルと化したNHKで、その傾向はますます強化されている。民放に対する締めつけも露骨で、キャスターを名指しで非難するまでになっていて,その理由が「中立公正」だから,驚くほかはない。新聞も読売や産経、日経は言わずもがなだが、朝日のだらしなさにはあきれるばかりである。→「メディアの翼賛体制を批判する声」 「メディアの自由度」 「新聞の記事比較」 「世論操作の露骨さ」 政府による締めつけは大学にも向けられていて、文系学部はいらないといった文科大臣の発言もあったりした。助成金をちらつかせて言うことを聞かせようとする姿勢は、ここ数年、実際にくり返し経験してきてもいる。→「文系学部の存在価値」

・週一回の更新を20年続けてきて、政治やメディアのことについてこれほど書いたのははじめてだった。安倍批判をするのもうんざりしているだのが、支持率が5割近いという世論には、もう絶望すら感じてしまう。2016年には参議院選挙がある。衆議院との同日選挙とも言われていて、現状がさらに悪くなるのか,阻止できるのか,大きな分かれ目になると思う。

2015年12月21日月曜日

盛田茂『シンガポールの光と影』インターブックス

 

盛田茂『シンガポールの光と影』インターブックス

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・シンガポールは東南アジア有数の経済成長国である。マレーシア半島の南端にあり、面積は東京都23区とほぼ同じで、人口は540万人。アジア太平洋地域で一番の超過密都市国家である。きれいに整備され,衛生的な街は「ガーデン・シティ」と呼ばれて,海外から多くの観光客を集めている。運ぶのはサービスに定評のあるシンガポール航空だ。

・そのシンガポールは今年、独立50周年を迎え、建国の父と呼ばれたリー・クワン・ユーが逝去した。未曾有の経済成長を達成したリーダーだが、また「人民行動党(PAP)」が議席をほぼ独占し、政権を担ってきた独裁国家でもあった。海外からの企業の誘致には積極的で、国際金融センターとしての成長に力を入れ、理系や医学の分野での頭脳流入にも熱心だ。しかし、民主主義という点では大きな疑問符が付けられ、「世界報道自由度ランキングでは,今年151位にランクされている。

・こんな国は,僕にとっては行く気にもならないところだったが、もう何年も前から,僕の大学院のゼミに自発的に出席して、時折,シンガポールの映画について報告をする人がいた。シンガポールで映画が作られていること自体を知らなかったし、その作品で描かれるシンガポールが、それまで持っていたイメージとはまったくちがう世界であったことに驚かされもした。

・ここで紹介する『シンガポールの光と影』は、その報告を一冊にまとめたものである。著者の盛田茂さんは不動産会社を早期退職して、大学院に入学をした。テーマはシンガポールの映画で、本書は、ほぼ10年をかけて書き上げた博士論文をもとに書き直されている。その過程を脇で見て、また時には相談に乗ってきただけに、その努力が形になったのは,僕にとっても大きな喜びだった。

・本書によれば、シンガポールの映画は香港を本拠地にする「ショウ・ブラザース」と「キャセイ・クリス」の2大スタジオが配給する作品の独占状態にあって、シンガポール出身の監督による作品が盛んに作られるようになったのは1990年代以降のようだ。そこには「文化的で活気のある社会を目指す」という国の政策が影響しているが、映画制作を心がける若い監督やスタッフには、表向きのイメージとは違う、シンガポールの実態を描き出したいという欲求があった。

・映画制作には多額の費用が必要で、国家や企業の援助を仰ぎたいが、厳しい検閲やレイティング・システムによる制限を受けてしまう。本書で紹介されているいくつもの作品には、課される制約と,それを乗り越えて何とか完成させて上映にこぎつけようとする過程があって、それがインタビューとして、作品の紹介以上に詳細に語られている。実態を描きながら、それをどうやって国に認めさせるか。たとえば、コメディタッチにするとか、国の要求の影に忍ばせるとか,その工夫を語る部分はなかなかおもしろい。

・で、シンガポールの影、つまり実情だが、まず大きな格差があって、そこには民族や言語の問題がある。シンガポールの人口構成は華人系が74%、マレー系13%、インド系9%、その他が3%となっている。さらに華人系には華語(標準中国語)のほかに,広東、福建、潮州語といった方言があり、公用語として使われている英語には「シングリッシュ」という独特の方言もある。当然だが,富裕層は標準の英語や華語を話し、貧困層は多様な方言を使っている。ここにはもちろん、教育における格差と激烈な学歴競争という現実もある。

・その他にも、映画が描き、問題にするのは、宗教の違い、徴兵制と愛国心、変貌によって消滅するものとノスタルジー、あるいはLGBTとたくさんある。「ガーデン・シティ」にするために壊されていく従来の街への愛着や、国が政策としてなくそうとする「シングリッシュ」に、国民としてのアイデンティティを見いだそうとすること、あるいは「同性愛」がイギリスによる植民地支配の結果であることなど、きわめて多様である。

・国家の規制にもかかわらず、このような問題を訴える映画はまた、多くの観客を動員し、人びとの共感を集めてもいる。また、海外の映画祭で受賞する作品も多いようだ。残念ながら日本の映画館で上映されることはまれだし、DVDで発売される作品も多くはないようだ。僕は研究室のゼミで,盛田さんの所有するDVDをいくつか見せてもらっている。そのシンガポールの影の部分には、表の人工的な光とは違う、人びとの発する生の光を感じることが多かった。

2015年12月14日月曜日

アマゾンで映画のただ見

・アマゾンからビデオをただで見放題というメールがあったのは数ヶ月前だった。もちろん誰でもというわけではなく,プライム会員限定のサービスである。田舎に住んでいるから、僕の家では本だけでなく、家電製品から食料品、衣料品などあらゆるものを購入している。かなりの上得意だから、このぐらいのサービスはしてもらっても過剰ではないかもしれない。何しろ、僕の家の近くには映画館がひとつもない。これはなかなかいいと思ったのだが、残念ながら見たい映画はそれほど多くなかった。

・テレビがますますつまらなくなった。食事やその後の食休み時しか見なかったのだが,その時間にも見たいものが何もないことが多い。その意味では、ますますテレビ離れがすすむばかりだが、と言ってパソコンでじっくり映画を見るのは,何となく馴染めない。ただでさえパソコンに向かっている時間が多いから、これ以上増えるのは、もう不可能に近いのが現状だ。そんなわけで、まだ数本しか見ていない。

・ジム・ジャームッシュの映画はほとんど見ているが、大学の卒業制作だという『パーマネント・バケーション』があって、これを見た。ニューヨークに暮らす青年の退屈な生活が描かれているが、集中しないで見たから、今ひとつという気がした。彼の映画はほかに『ダウン・バイ・ロウ』と『ストレンジャー・ザン・パラダイス』がリストされている。そのうち見直そうかと思ったのだが、両方ともビデオカセットでもっている。もっとも、すでにビデオ再生機はない。

・僕の研究室には、映画やドキュメントなどのビデオカセットが数百本ある。かつては,それを講義やゼミで一部を見せたりしていたのだが、ネットを利用することで,ほとんど使わなくなった。もう一度見るといったこともほとんどしなくなって、もう見ることができなくなった。DVDにコピーも考えたのだが,面倒で数枚で辞めた。だから、退職する時にはすべて廃棄処分ということになる。

・もっともDVDで買ったり、録画したものも,くり返し見るといったことはほとんどない。だから、アマゾンでいつでも好きな時に見られるのなら,所有する必要はないのだということに気がついた。大学を辞めれば,資料や教材として持っておくこともない。本やCDも含めて,これからはどう処分するかが最大の課題になるのである。

・で、アマゾンのただ見だが、パソコンの画面で見るのはどうも落ち着かない。ついついほかのこともしたくなるし,メールが入ってきたりするからだ。もうあまり使わなくなった古いMacbookをテレビの台に置いて、アマゾン映画専用機にしようか。そうだとすると、あらかじめ見たいものをリストアップしておく必要がある。パートナーはすでに結構見ているようなので、調整も必要だ。もっとも、実際にそうするのは,退職してからということになるだろう。

・1年も経てば、見られる映画もずっと増えているはずだ。しかし、アマゾンのことだから、そのうち課金を取るように変更するだろうとも思う。ただより高いものはない。美味しそうな話には,無警戒に乗らないのが賢明だろう。

2015年12月7日月曜日

世論操作の露骨さ

 

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・今年の「流行語大賞」が「トリプルスリー」と「爆買い」だって。説明を読むまで,前者は知りませんでした。トップ10にはほかに「アベ政治を許さない」「SEALDs」「ドローン」「エンブレム」「五郎丸」、そして「一億総活躍社会」までが紛れ込んでいます。なんかおかしな組み合わせと首をかしげたくなりますが,「公正中立」などという言論弾圧のことばが飛び交っていますから,選考委員の苦肉の策だと思えば,妙に納得のいく選考だったような気もします。

・今年の流行語は「爆買い」はいいとして、もう一つは「アベ政治を許さない」か「SEALDs」でしょう。しかし、それを選べば強烈な批判が出る。選ばなくても、政治関連がこの二つだけだと、やっぱり批判が出る。だから「一億総活躍社会」も選んでおきましょう,ということだったのだと思います。「公正中立・不偏不党」に従った結果とは言え、「一億総活躍社会」はいけません。歓迎する声が聞こえないのはもちろんですが,批判する声も小さなもので、これほど言論を抑圧することばは、近年では珍しいからです。

・もう一つ、「五郎丸」はポーズで選ばれたようですが、それなら流行アクションであって、流行語ではないはずです。もっとも彼の人気はマスコミの盛り上げもあって驚くほどですが、さっそく自民党が利用して、「60年大会」に呼んでアベと一緒に万歳をさせました。ワールド・カップでの日本の活躍には、大勢の人が賛意を表しましたが、反アベの人たちには興ざめの出来事だったと思います。スポーツの政治利用は日本では日常茶飯のことですが、日本批判をして辞めたジョーンズHCが言いたかったことの一つもまた、これだったはずで、彼が苦労して貫徹した意識改革が、一瞬にして元の木阿弥になった出来事でした。

・国連が12月に予定していた日本の「表現の自由」に関する調査が、日本の要望でキャンセルされました。理由はスケジュール調整ができていないと言うことで、政府は来年の秋以降を希望したそうです。今調査されれば、「表現の自由」が危機的状況にあることがあからさまになって、参院選に影響が出る。これは抑圧しているという自覚があればこその見え透いた判断ですが、これについても,メディアはほとんど批判をしていません。

・「国境なき記者団」が毎年発表している「世界報道自由度ランキング」では、今年の日本は61位で、民主主義の育っていない国の中に紛れています。ただしこれはアベ政権に変わって急落した結果であって、菅政権の時には11位でした。ちなみに第一次アベ政権時にもやはり51位と落ち込みましたから、アベがいかにメディアを弾圧しているかがよくわかる数字です。もっとも多くの日本人には,こんな仕打ちが実感として理解されていないようです。

・「世界価値調査」がおこなった「世界各国における新聞・雑誌への信頼度」調査によれば、日本はダントツで45.6%です。つまり国民の半数に近い人が,新聞や雑誌の記事を信頼して読んでいるというわけです。ちなみに信頼度が高い国はほかに、フィリピン、中国、韓国,シンガポールで、「信頼しない」が多い国にはオーストラリア、アメリカなどがあって、大半の国は「信頼する」よりは「信頼しない」が勝っています。もっとも信頼度が上がったのは2000年以降ですから、おかしな数字だと言うほかはありません。

・メディアが伝えるニュースにはまず、疑いの目を向けて接する。そんな態度はきわめて当たり前のことで、それがあるからこそメディアも、いい加減な報道や安易な世論操作はできないことを自覚できるのです。自粛や萎縮をして,政府の反応を伺いながら記事を書く。その記事を疑いもせず読む。今の日本のメディア状況にはこんな光景がイメージされますが、そもそも読みもしないで,空気にあわせる人が多いのではと考えると、空恐ろしい気がしてきます。

2015年11月30日月曜日

冬の仕事

 

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woodcut1.jpg・もう年中行事だが、今年も薪割りをはじめた。2mの原木を5等分にする。今年はチェーンソーの調子が悪くてこれに手間取った。掃除をし、点火プラグを交換し、混合ガソリンも新しいものにした。これまで一度も触ったことがなかった,回転数を調整するLとHのネジも動かしてみた。おかげでアイドリング状態でエンジンが止まることがなくなった。何とか回復したのだが、それでも、力は弱くなっている。しかしこれ以上は手に負えないので、業者にみてもらわなければと思っている。

・今年は暖かい。だから例年なら10月の後半からストーブを焚き始めて,今頃は火を絶やすことなく一日中燃やしているはずなのだが、今年は暖かくて昼間は消すことが多いし、夜でもファンヒーターで済ますことがあった。それでも、床下にウレタンの断熱材を吹き付けたせいか、部屋の温度が24度にもなって、Tシャツで過ごしたりもした。さて、最低気温が零下になったらどうなるか。

・暖かければ薪の消費量は減る。それはいいことなのだが、雨が降ってばかりで、外に積んである薪や玉切りした原木にカビが生えてしまった。何より薪の乾きが今ひとつだから、燃えにくい心配もある。寒ければ寒いなりに,暖かければ暖かいなりに,不安は尽きない。薪の乾き具合を判断するのは簡単ではない。そこで、薪の水分を測る含水計を購入した。針を刺して測るものだが,当然太い薪の芯の含水量はわからない。割って中を測って,表面の数値を足して2で割るのだと教わった。すべての薪を割るのは面倒なので、積んだ場所のサンプルだけ、やってみることにした。

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・まず割ったばかりの薪から。測ると36%あった。当然だが,水分を大量に含んでいる。次に1年以上乾かした木。これは13〜20%あたりまで幅があった。その13%を割ると中は23%で、足して2で割ると18%。20%内に収まっているから合格だ。試しに木工用に保存してある白樺の木を測ってみた。もう10年近く経っているから3%でカラカラに乾いている。いずれにしても表面が20%i以上なら、まだ早いという目安はできた。

・ところで我が家のログハウスは直径が60cm以上もある大木だから、梅雨時から夏には水分を吸い込み、秋から冬にかけては吐き出している。だから梅雨の初めや冬には,「バキーン」とすさまじい音を立てて割れる。知らなければ「ポルターガイスト」かとびっくりしてしまうだろう。だからといって真っ二つに割れるということはない。最初から割れを予測して、切れ目を入れてあって,それは中心のところで収まるからだ。

・先週は扁桃腺の痛みから始まって、鼻づまり、咳、そして熱が出て,腰痛に頻尿と散々だった。薪割りもできなかったし、自転車にも乗れなかった。少し良くなったから仕事には行けるだろうと思う。何しろ卒論の締め切り間際で,卒論集を作り始めなければならないのだ。

2015年11月23日月曜日

戦争とテロ

・パリでの多重テロ事件以降、テロを強く非難する声が世界中で発せられている。コンサート会場やレストランでの無差別殺戮だから、残忍とか非情といったどんなことばを使っても言い表せないほどひどい行動だとは思う。僕も去年の夏にはパリに行って、現場近くを歩いたり、レストランで食事もした。巻きこまれたらと考えるとぞっとして、しばらくはヨーロッパには行けないな、と強く感じた。

・このテロに対しては,さっそく報復の空爆が行われているし、EUに押し寄せている難民を追い返したり,国境を封鎖したりといった行為が始まっている。「やられたらやり返す」というのは9.11でも強い世論の支持を得た「常套手段」だが、それが解決ではなく,さらなる混迷をもたらす道であることもまた、すでにわかりきったことである。テロが世界中に広がって,日本とて狙われる危険がある。そんな危機感を理由に安倍首相は勇ましい発言をしているし,自民党は第二次大戦前を思い起こさせる「共謀罪」を法案として提出させようとし始めている。こんな空気の時に言っても無駄だという気もするが,こんな時だからこそ,思うところを書いておかねばとも考えた。

・戦争とテロとの違いはもちろん、残酷さとか非道さで区別できるものではない。それは単に国同士で戦うのが戦争で、そうでない組織や一派であるのがテロだというにすぎない。国同士なら,互いの立場にたってその正当性や正義を表明できるが、相手が国でなければ,極悪集団と見なす。だから戦争は勝った方が正義になるが、テロに対しては,それに屈せず撲滅することが正義になる。そもそも戦争自体を悪とする考えは,比較的新しいものでもある。つまり、それは勝敗に関係なく,とんでもない被害をもたらすことになった、20世紀の二つの大戦の教訓だったのである。

・核をはじめ大量殺戮兵器を互いにもつようになった現在では、国家間の戦争はできないようになっている。そもそも政治的に対立しても,経済的には互いに依存してもいるのである。だから外交交渉で,戦争にはならないように調整するのだが、国家内の紛争では,すぐに武力衝突となる。民族、宗教、あるいは経済的格差を理由にした衝突で、その原因を探ると、そこにはまた大国の存在が見え隠れする。地域紛争に名を借りた国家間の対立といったケースも少なくないのである。

・そもそもパリのテロを首謀したイスラム国ができたのは、9.11の報復としてブッシュ元大統領がやったアフガニスタンとイラク侵攻が原因である。もちろんそこには、9.11を起こす理由として,それ以前にアメリカが中東で行ってきた、さまざまな行動があった。アメリカが倒したフセイン政権はアメリカ自身が後ろ盾になって成立させた政権だったし、イランの宗教革命だって、アメリカの傀儡政権を倒すために行われたものだったのである。

・ブッシュはイラク侵攻を正当化するために,生物化学兵器の存在やアルカイダとのつながりを強調したが、それがでっち上げだったことはすでに明らかになっている。そして、現在の状況をもたらした原因を作った張本人には、ほとんど非難の目が向けられないし、もちろん反省の弁もない。テロを起こす奴は害虫だから殲滅しなければならないし,そのためには何をやってもいい。そんな発想では、解決の道は見えてはこないのだが、世界の空気は,それ一色に染まりつつあるようだ。

・ヨーロッパを旅していて,それぞれの国境がないも同然になっていること、貨幣がユーロに統一されていることなどで、あたかも一つの国であるかのように感じてきた。国同士が長い間繰り返してきた戦争と、20世紀の二つの大戦がもたらした悲劇を反省してできた枠組みだが、それが今、テロと押し寄せる難民によって消滅の危機にさらされている。同様の危機はもちろん日本も直面している。交戦権を放棄した平和憲法が壊されて、戦争に荷担する国になりつつあるからだ。

・世界が壊れはじめているという不安と、その壊れ方は20世紀の二つの大戦の比ではないだろう、という恐怖を漠然と感じてしまう。そんなのは危惧だと言われるかもしれない。危惧ならもちろん結構だが、そうならないようにしようという冷静な対応がもっと大きな声にならなければと思う。

2015年11月16日月曜日

紅葉と蕎麦

 

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・今年はいつまでも暖かかったが、紅葉はいつも通りに始まった。家の中から紅葉の進み具合が見えるのは贅沢だ。車についた落ち葉の始末に難儀するとは言え、屋根やバルコニー、そしてもちろん庭が一面落ち葉に覆われるのは、悪くない。河口湖にも大勢の人が紅葉見物に押しかけている。車に乗っても、自転車に乗っても邪魔くさいだけだが、町の活性化だと思って文句は言わないことにしている。もっとも歓迎できる客もあった。渡り鳥のジョービタキである。こんな鳥が部屋から観察できるのも、森の中に暮らす者の特権だろう。

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・我が家や付近の紅葉を眺めていたら、よそのはどうかが気になって、毎週あちこちに出かけた。ついでに新そばを食べようといことになって、出かける前にネットで調べることもした。北杜市の伊奈湖、八ヶ岳の蕎麦屋、秩父の三峯神社、そして上日川峠と渓谷の蕎麦屋などである。平日だからどこも人は少なく、パートナーは歩行の練習2kmをノルマにした。蕎麦はどこも量が少なくて、どこに入ったかという感じだった。本格的な蕎麦屋には天ぷらのメニューがない。それは残念だったが、そば湯を飲むとそれなりに腹がふくれることを改めて実感した。

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2015年11月9日月曜日

ディランとザ・バーズ

 

Bob Dylanl "Bob Dylan 1965-1966"
The Byrds "Untitled"

dylan65-66.jpg・ディランのブートレグ・シリーズも12作目になる。今回は1965年から66年にかけて発表されたアルバム『ブリンギング・イット・オール・バック・ホーム』、『追憶のハイウェイ61』、『ブロンド・オン・ブロンド』のデモテープから抜粋されている。アコースティック・ギターからエレキに持ち替え、(ザ)バンドを従えて大変身したというだけでなく、フォークとロックの融合という、ポピュラー音楽に大きな変化をもたらした時期である。この直後にバイクで事故を起こし、ディランは沈潜した。前作の'The Basement Tapes" は、その休養期に自宅の地下室で録音したテープだった。

・僕が初めて聞いたディランは「ミスター・タンブリンマン」や「ライク・ア・ローリング・ストーン」で、まさに1965年のことだった。高校生で、夜中に聞いていたFEN(米駐留軍放送)から流れてきた時の妙な高鳴りを、今でも思い出すことができる。歌や音楽に対して初めてもった感動だったからだ。すぐにレコードを買って何度も聴き返した。しばらくしてフォーク・ギターを買い、ディランの歌を訳して歌うようにもなった。

・"Bob Dylan 1965-1966"はデモテープだから、正規版とは違ってギターだけで歌っているものもある。バックつきでも、歌い方も演奏も、少し違っているものもある。それに合わせて口ずさむと、ほとんど歌詞を覚えている。いかによく聴き、自分で歌っていたか、今更ながらに懐かしくなった。もう半世紀も経っているのにである。

thebyrds1.jpg ・アマゾンでこの予約をしたときに、The Byrdsの見慣れないアルバムに気がついた。タイトルも"Untitled"で、何かいわくがありそうだった。The Byrdsはディランの「ミスター・タンブリンマン」で脚光を浴びた。というより、ディランをポピュラーにする役割を果たしたバンドだったと言えるだろう。実際この2枚組のアルバムにもディランの曲がたくさん入っていて、そのほとんどは"Bob Dylan 1965-1966"に収められたものである。

・"Untitled"は1970年に行われたライブとスタジオ録音で構成されている。メンバーも替わり、カントリー・ウエスタンに変わった時期だが、ヒットした曲のほとんどが収められている。70年に2枚組で発売されたものだが、CD版は2000年に発売されていて、LP版を1枚に入れ、2枚目には未発表音源ばかりの曲を入れている。新しいものではないが、ディランのブートレグと併せて聴くと、当時の音楽状況と、僕が夢中で聴いていた音楽が彷彿されて、聴き入ってしまった。

・結成期のメンバーだったデヴィッド・クロスビーはその後Crosby, Stills, Nash & Youngなどとして活動し、現在でも「ウォール街を占拠せよ」といった運動に参加して、元気のいいところを示している。息子との共作アルバム"Croz"が去年出ているようだ。ディランと同様、70歳を超えても現役でがんばっている。

2015年11月2日月曜日

新聞の記事比較<uttiiの電子版ウォッチ>


・僕が新聞を読む時間は、毎朝15分程度にすぎません。我が家に来る新聞は朝夕刊セットですから、記事の多くはすでにネットで知っているものが多いのです。興味のある特集や連載記事、あるいはおもしろそうなコラム以外には、ほとんど見出しだけの飛ばし読みが普通です。こんな読み方だから、ずいぶん前から新聞はやめてもいいと思ったり、ネット購読にしようかと考えたりもしたのですが、今ひとつ決めかねていました。

・もっとも3.11以降、原発再稼働や辺野古基地、そしてTPPや戦争法案といった問題について、新聞やテレビ各社の姿勢や論調がずいぶん違うという現象が起こるようにもなりました。ニュースの取り上げ方や時間の長さ、新聞の記事の大きさ、あるいは一面掲載の仕方の違いが、現政権に対する距離の違いであることが、あからさまになってきたようです。そんなことが気になっていた時に、各新聞社の主な記事を比較するメルマガの存在を知りました。

・「Uttiの電子版ウォッチ」という名で発行者は内田誠さん。彼は長いことテレビやラジオのニュース番組などでレポーターをやってきた人で、僕が会員登録をしている「デモクラTV」の中心スタッフでもあります。「デモクラTV」は中味がずいぶん豊富になっていて、愛川欽也の「パックインジャーナル」を引き継いだ「本会議」のほか、多様な番組がつくられています。内田さんも「ウッチーのデモくらジオ」(金8:00p.m.)という2時間のDJ番組をやっていて、僕は毎週聞いています。そこでの発言に共感することが多かったので、新聞の記事比較をメルマガでやるという話に、すぐに乗って購読を始めました。購読料は月額324円で、日曜と祝祭日以外の毎日発行です。

・「Uttiの電子版ウォッチ」が比較するのは「朝日」「毎日」「読売」「東京」の4紙です。「産経」や「日経」を取り上げないのは、比較するまでもないという、彼の判断によっています。現政権を支持する御用新聞であることは明白で、それなら「読売」もいらないとも言えるのですが、比較するのに1紙は必要なんだと思います。何より「読売」は発行部数世界一位の新聞なのですから、無視できない力を持っているのです。

・4月から始まって現在まで、7ヶ月で165号になりました。現政権を支え続けている「読売」と、安倍批判を明確にしている「東京」の違いは言うまでもありませんが、あいだの「朝日」と「毎日」のぶれ方がなかなかおもしろいと思いました。批判はするけど、少し控え目にといった態度は、「東京」の記事や見出しと比較すると、よりはっきりしてきます。1紙だけではわからない、新聞社の立ち位置がよくわかるようになりました。たとえば、強行採決直前の9月17日の一面見出しは、各社次のようでした。


《朝日》…「安保 採決巡り緊迫」「参院委 総括質疑に野党抵抗」
《読売》…「安保法案 審議大詰め」「参院委開催巡り混乱」
《毎日》…「安保法案 最終攻防」「与党 採決譲らず」「野党は徹底抗戦」
《東京》…「安保法案成立へ 自公強行」「声に背を向け」

・並べてみるとなるほどという見出しの違いだと思います。半年以上このメルマガにつきあってきて、その間に戦争法案の可決や原発の再稼働、そして沖縄の辺野古基地をめぐる政府と県の対立などについて、新聞各社の違いがよくわかるようになりました。もっとも、このようなメルマガを毎日出すというのは、ずいぶん大変なことだろうと思います。多い日には7000字を超えるということもありますから、読み比べて考え、書く時間が一日がかりといったときもあるはずです。遅いときには夜の8時過ぎに届くといったこともありました。

・こんな努力を支えるためにも、一人でも多くの人に購読者になってほしいと思います。

2015年10月26日月曜日

南京と広島,加害と被害

 

ジョン・W.ダワー『容赦なき戦争』平凡社ライブラリー

加藤典洋『戦後入門』ちくま新書

・中国がユネスコの「世界記憶遺産」に南京大虐殺の資料を申請して,登録が認められた。安倍政権はさっそく抗議をし、ユネスコに払っている分担金(37億円)を停止すると発言して、国の内外から批判を浴びている。当の事件については30万人説から捏造説まで多様にある。しかし、数はともかく実際にあったことは間違いなかったとされているのにである。

dower.jpg・ジョン・ダワーの『容赦なき戦争』は第二次世界大戦における連合国と枢軸国、とりわけアメリカと日本の間で,実際に行われた戦闘と情報戦争について、「人種差別」を基本にして考察したものである。つまり、第二次世界大戦は「人種戦争」だったというのが,本書の結論である。

・日本のアジア侵略には、欧米によって植民地化されたアジアを解放するという大義名分があった。しかし現実には、日本は植民地の独立ではなく,領土拡張をして新たな宗主国になった。この戦争の過程の中で日本軍が行った捕虜や民間人に対する虐待や虐殺は、南京だけでなく香港やマニラ、シンガポール、そしてタイやビルマでくり返しおこなわれている。

・日本にとって連合国は「鬼畜」として敵視されたが、アメリカにとって日本は、真珠湾を奇襲した卑劣な国、天皇のために死ぬことを厭わない狂信者の国、そして民間人を無差別に殺す国としてイメージされた。そこにはもちろん、白人の黄色人種に対する差別意識があって、日本人は猿同然の劣等人だから、戦争に勝つだけではなく,日本人全体を絶滅させなければならない、といった論調で強化されていくことになった。

・ダワーは、アメリカ軍による日本の多くの都市の空爆や、広島・長崎への原爆の投下を実行した裏には,こんな考え方があったと言う。ドイツに対しては「良いドイツ人」と「悪いナチス」といった区別があったのに、日本に対しては「悪いジャップ」しかなかった。それは日系米人だけを収容所に隔離した政策にも明らかだというのである。

tenyo1.jpg・それではなぜ日本は国として、敗戦後にこのような人種差別を訴え,広島・長崎への原爆投下について、アメリカに抗議をしてこなかったのだろうか。加藤典洋の『戦後入門』には、その理由が詳細に検討されている。
・本書が問題にするのは連合国が日本に降伏を迫った「ポツダム宣言」(1945)と「サンフランシスコ講和条約」(1951)の違い、つまり連合国ではなく、アメリカ単独で結ばれた「日米安保条約」の存在である。「ポツダム宣言」のままであれば、日本は1952年には独立して、占領状態が終わっていたはずなのに、「日米安保条約」によってアメリカ軍の駐留が続き、独立が曖昧なままになった。そして、この状態は60年、70年に改訂されて今日に至っている。

・この曖昧さは、交戦権はもちろん武力の保持も禁じた「日本国憲法」と自衛隊の存在、戦争に対する加害者としての責任と被占領国への謝罪、そしてアメリカ軍による原爆投下と大規模な空襲に対して被害者として行うべき抗議、さらには戦争で命を落とした人への態度の有り様など、あらゆる点に及んでいて、ほどけない糸のように絡まり合い,いくつものねじれを生じさせている。

・加藤は現在の安倍政権を「対米従属の徹底と戦前復帰型の国家主義の矛盾」と捉えていて、その破綻が目に見えている今こそ、それに代わるオプションが必要だと言う。つまり、「戦後の価値に立った自己をはっきりと国際社会に宣明することからはじめて『対米自立』して、『誇りある国づくり』をめざし、平和主義を基調に新たに国際社会に参入する」と言うのである。

・僕はこの提案に諸手を挙げて賛成する。もちろん、これを実現させるのは容易ではない。しかし、沖縄の辺野古基地に反対すること、可決してしまった戦争法案の破棄に向けた動きに賛同すること、南京事件や慰安婦問題に真摯に対応すること、そして「日米地位協定」の見直しをアメリカに提案することなど、やるべきことはいくつでもある。

2015年10月19日月曜日

ラグビーと難民

・ラグビーのワールドカップで,日本が強豪の南アフリカに勝った。番狂わせと大騒ぎになって,日本でもにわかラグビー・ファンが急増したようだ。僕もほとんど注目しなかったのに,試合の再放送を見て久しぶりに興奮した。その後のスコットランド戦、サモア戦、そしてアメリカ戦はライブで見たが、日本の強さに驚くやら,感心するやら,改めてラグビーのおもしろさを堪能した

・僕がラグビーを見なくなってずいぶんになる。見はじめたのは高校生の頃で、大学選手権は暮れから正月にかけてテレビで見る人気番組だったし、その後の社会人との日本選手権まで、冬のスポーツはラグビー一色だったように記憶している。明治大学、新日鉄釜石の黄金時代を築いた松尾雄治や、同志社大学と神戸製鋼を強豪にした平尾や大八木が活躍したのは、70年代から80年代にかけての頃だった。

・そのラグビーの人気が衰えたのはサッカーのJリーグの発足が原因だと言われている。平尾や大八木に続くスター・プレイヤーが生まれなかったし、早稲田や明治、あるいは同志社といった大学の力が落ちて,大東文化大学や関東学院大学、そして帝京大学などが台頭したこともあげられるだろう。サッカーのJリーグが軌道に乗り,ワールドカップにも出場したのに比べ、ラグビーは徐々にマイナー・スポーツになり,ワールドカップ自体ももほとんど注目されなかった。

・ラグビーのワールドカップは1987年から始まっている。日本は第1回から連続して出場しているが、前回大会まではわずかに一勝で、ほとんどニュースにもならなかった。そんな成績だったから,次回の東京大会もあまり話題にならなかったのだが、今回の活躍で、急に期待感が出てきたようだ。それはそれで結構だが,ひとつ気になることがある。それは日本チームに外国人が多く含まれていることに対して,違和感をもつ意見が多く聞かれた点である。

・ラグビーの代表チームは国籍で制限されていない。条件としては出生地が日本であること、両親、祖父母のうち一人が日本人、日本で3年以上継続して居住していることの三つである。国籍に囚われないことには,ラグビーの発展の歴史が関係している。ここでは省略するが、たとえばアイルランドは北アイルランドとの混成チームだから,ふたつの国が一緒になっている。紛争が続いた国がひとつになっているのである。

・日本チームに所属している外国人選手のほとんどは社会人リーグのチームに所属している。大学から,あるいは高校から日本に居続けている人もいるし,日本人の女性と結婚している人もいて,日本国籍を取得した人もいる。野球やサッカーにいる助っ人とは違う人たちであるのは、詳しく見ればすぐにわかることである。

・もっとも、国を代表する選手が、必ずしもその国固有の民族や人種に限らないことは,アメリカはもちろん、EUの国でも当たり前のことである。それはロンドンやパリの町を歩いた時に出会う人たちの肌の色や衣服が多様であることからすれば,当然のことのように思われる。旧植民地からの移住、移民、そして難民など、多様な人たちがひとつの国を構成する。その当たり前の傾向が,日本ではまだ不自然なこととして思われている。

・安倍首相が国連での記者会見で,シリアの難民問題に答えて、「難民」と「移民」を混同するような発言をした。信じられない、的外れで陳腐な発言として受け止められたようだ。しかしその発想はまた,多くの日本人に共通するもののようにも思われる。外人、異人はどこまで行っても,どんなになっても日本人ではない。だから弱い者には排除や差別の意識が向けられるし、強い者はお別火(同じ釜の飯を食わせない)扱いする。

・シリアを初めとして世界の各所で生じている難民問題に知らぬふりを決めこむかぎり、そんなガラパゴス的風土はいつまでたっても改まらない。その意味で,ラグビーのチーム編成が、難民を受け入れるきっかけになれば,と思ったのだが、そんな意見はほとんど聞こえてこない。

2015年10月12日月曜日

自転車、自転車

 

saiko1.jpg

・秋になっても,もっぱら自転車に乗っている。夏より涼しいから,かく汗も少なくなって、走りやすくなった。もう少ししたら,今度は寒くなるから、今が一番いい季節だと思う。コースはほぼ決まっていて、20kmから30kmを走っている。もう少し遠乗りもと思っているのだが、今年は無理をしないことにした。膝に痛みを感じるようになったし、大学も始まって,無理をすると仕事に差し支える心配があるからだ。それにしても秋晴れの日の西湖は気持ちがいい。平日でも釣り船は多いが、道路を走る車は少ない。十二ヶ岳や王岳がそびえる。

bike3.jpg・クロスバイクに乗っている頃はほとんど関心がなかったが,ロードバイクを買ってから、着るものや履く靴など、気になるようになってきた。暑い夏に走れば,いっぱい汗をかく。綿のTシャツではべっとりしてしまう。距離を伸ばせば尻も痛くなる。で、サイクリング用のウエアを一式買い求めた。派手なものは恥ずかしいから,黒にして、走る前には着がえるようになった。終わったら必ず水洗いして乾す。面倒だが、これで次の日も気持ちよく使えることになる。

bike4.jpg・もう一つ買おうかどうか思案したのはペダルだ。自転車は今までずっと,上から下に漕ぐものだと思っていた。しかしそうではなく、引き足が大事で円を描くように漕ぐのだということを知った。実際にそのように意識すると、楽になって,しかもスピードも出るようになった。ただし、引く時に靴が滑ることもある。で、ペダルに靴を固定するビンディングというものがあることを見つけた。そのためには当然、ペダルも靴も購入する必要がある。ペダルと靴を固定するとしても,止まる時には外さなければならない。外れなければ,そのままこけてしまうことになる。ちょっと心配で,買おうかどうか迷ったが、思い切って買うことにした。

・そんなふうにして、ロードバイク乗りらしくなってきたのだが、残念ながら早く走れるようにはなったわけではないし,漕ぐのが楽になったとも思えない。調子に乗ってもすぐに息切れしてペースが落ちてしまうからだ。ただし、家を出てから戻るまで、コースにほとんど信号はないから,水の補給をする以外は、固定した足を外すことはない。だから、外しにくくて困ったことも,今のところない。むしろ、最初に固定するのに足を動かして探るのが面倒だ。
・さて、だんだん寒くなってきて、いつまで漕ぐかと考え始めている。ストーブを焚く時期ももうすぐやってくる。そうすると薪割りのシーズンになるわけで、後一ヶ月ぐらいで一休み、ということになるのだろうか。もっとも冬でも湖畔を走っている人はいるから、つられて走りたくなるのかもしれない。

2015年10月5日月曜日

マイナンバーはいりません!

・マイナンバーがもうすぐやってきます。国民総背番号制度以来半世紀にわたって、強い反対があって法制化されなかったのに、今回はさしたる議論もなく,「戦争法案」に隠れて成立してしまいました。住基ネットのようにほとんど役に立たないものになってしまえばいいのですが、そうはいかないようにも思います。

・私たちにはすでにいくつもの番号が付与されています。年金、健康保険、パスポート、運転免許証、住民票、雇用保険等々で、その他にもETCや預金通帳、クレジットカード、あるいはポイント・カードなど、管理するのが大変なほど、番号に溢れています。マイナンバーは,これらの多くを一括できる番号のようで,便利という側面もありますが、逆に個人情報の多くが国に管理されてしまうという危険性もあります。

・とりあえずは勤務先にマイナンバーを届け出る必要があるようです。これで収入がチェックされるわけですし、預貯金の口座や健康診断にも適用されれば、国民すべてのお金と身体の状態が国に筒抜けになってしまいます。それによって公平な税負担や社会保障の適格な提供が可能になるといったメリットが流布されていますが、データがどのように利用されるかと考えると、不安は募るばかりです。

・そもそも年金情報の流出など、データの管理についての不信感が払拭できません。国を始め自治体や企業など、情報管理の体制はお粗末なのが現状だからです。システム導入には2700億円かかり、毎年300億円のメンテナンスコストが必要だと言われています。これによって既存の年金や健康保険、パスポート、運転免許証といったシステムは廃止となるのでしょうか。相変わらず並列するとしたら、税金の無駄遣いをして煩雑さを作り出すだけとも言えるでしょう。日本は巨額の借金を抱えていますが、無駄遣いを改める気はまるでないようです。

・マイナンバーの付与にともなって,国はカードの取得を呼びかけています。これは任意ですが、普及させるために、消費税の増額にともなう軽減措置として、買い物をする時にカードを提示すれば,年4000円を限度にして払い戻すといった案を出しました。批判が強くて撤回されるようですが、NHKが受信料の徴収に活用するといった話も聞こえてきました。偏向報道を理由に不払い運動が起きてもいいように思うのですが、国営放送であるかのような態度を取っています。

・反対しても法制化されてしまったのだから,拒否することは難しいでしょう。しかし、できるだけ使わないし利用されないようにするにはどうしたらいいのでしょうか。とりあえずは甘言に釣られてカードを作ったりしないことかもしれません。クレジットカードとしても使える機能なども検討しているようですが、とんでもないことだと思います。便利さよりは監視されることを意識する。何より今は,国を信用してはいけない時代なのですから。

2015年9月28日月曜日

終わりの始まり

・「戦争法案」が参議院で可決された。委員会での審議、公聴会、そして本会議をテレビやネットで視聴して、やりとりのおもしろさを楽しんだが、強行採決に及んだ議事進行には腹も立ち、また呆れもした。この法案がアメリカの要請によるものであること、それを言いなりで法律化したこと、その中味が矛盾だらけなのに、安倍も中谷も,批判をはぐらかすことしか考えなかったこと、そして国民の大多数が反対したという世論を無視したことなど、おかしな点がいくつも露呈された。

・こんな法案が可決されてしまったことはもちろんだが、通すために取った方策の汚さも前例がないものだった。安倍首相は、法案の合憲性を判断する内閣法制長官の首をすげ替え、NHKの会長に自分の息のかかった柄の悪い人間を送り込んだ。新聞社や放送局を脅し、私的な諮問の集まりをまるで公的な機関であるかのように扱った。国会で審議をする前に,アメリカで法律の成立を約束した。これだけ無茶なことをやれば、法案の賛否にかかわらず、そのやり方自体に対する批判がもっと強く起こるべきだと思った。

・可決された「戦争法案」は憲法違反である。そのことを衆議院の公聴会で憲法学者が発言したが、政府は聞く耳を持とうとしなかった。それどころか、憲法をないがしろにする発言も相次いだ。学者が何を言うかといった態度だったが、最高裁判事や長官を経験した人たちの多くもまた,違憲であることを明言した。参議院の公聴会でもそのことが明確に述べられたが、それらを委員会で審議することもなく,強行採決された。公聴会が形式だけの意味のないものになっていることも明らかになったのである。

・この国の政治とそれを行う政治家のお粗末さは目を覆うばかりだが、国会議事堂の外では連日数万人の人たちが,法案の撤回を求めてデモをした。その主体は大学生が作った「SEALDs」で5月に登場して以来、日を追って目立つようになった。政治に無関心でデモはもちろん、発言することもない。そんな学生達にあきらめさえ感じてきたのだが、その大学生が長い眠りから目覚めたかのように発言し,行動を始めたことに,驚きと共に大きな希望も感じるようになった。

・来年の参議院選挙から選挙権が18歳に引き下げられる。政治に無関心な若者は選挙権を与えても棄権をするだろう。この改正にはそんな思惑もあったのだが、大学生だけでなく、高校生までデモに参加するようになった現状を見ると、若者の投票率は確実に上がるはずである。しかも与党批判の票になるだろう。まさに藪蛇で、「SEALDs」は「戦争法案」に賛成票を投じた議員を落選させる運動を継続させようとしている。

・「戦争法案」を成立させた安倍首相は,目先を変えて「一億総活躍社会」などという気味悪い政策を掲げた。「一億総白痴化」「一億総懺悔」などを思い出す嫌なキャッチフレーズだし、「国民総動員」なども連想をする恐ろしい考えだと思う。息をするように平気で嘘をつく人間に、まさかまた欺されることはないと思うが、ひょっとすると支持率が上がったりするのかもしれない。それはもうほんとうに「終わりの始まり」だが,若者達の政治に対する目覚めが、こんな流れ自体を「終わりの始まり」にするかもしれない。

・国政選挙があると必ずすべての選挙区に候補者を立ててきた共産党が、「戦争法案」を廃棄するために野党が選挙協力することを提案している。民主も維新も烏合の衆の集まりだから、選挙協力を実現させるのは簡単ではないが、世論が後押しをすれば、協力する方向に流れるだろうと思う。その意味で,今は、まさにどっちの「終わりの始まり」になるかの分かれ目にある。

2015年9月21日月曜日

反モンサントのアルバム

 

Neil Young & Promise Of The Real "The Monsanto Years"

・モンサントは遺伝子組み換え作物のタネを開発し、生産するアメリカの会社で、そのタネの世界シェアは90%にもなる多国籍企業である。遺伝子組み換え植物は除草剤への耐性があり、害虫に強いといった特性もある。だから食料生産量が飛躍的に増え、農作業も軽減できると宣伝されている。ただし、その人体や環境への影響が強く危惧されているし、除草剤を含めたタネの世界的な独占という問題もある。しかもこのタネは再生産できないものだから、生産者は、毎年タネを買わねばならないのである。放っておけば、世界の農業を一社が独占的に支配してしまいかねないのである。

・このモンサント社とそのタネの恐ろしさについては、映画やドキュメントなどによる批判がたくさんある。たとえば『モンサントの不自然な食べもの』の公式サイトによれば、モンサント社は枯葉剤、農薬、PCB、牛成長ホルモンなどを生産してきた企業で、このドキュメントは「自然界の遺伝的多様性や食の安全、環境への影響、農業に携わる人々の暮らしを意に介さない」姿勢を糾弾する目的で作られている。

monsant.jpg・ニール・ヤングは以前から「ファーム・エイド」などでモンサントと遺伝子組み換え作物には異議を申し立ててきたが、このアルバムにはスターバックスを批判する歌が収められている。

コーヒーを一杯飲みたいけれど
GMO(遺伝子組み換え作物)はいらない
俺はモンサントの助けなんてなしで
一日を始めたい

モンサントとスターバックス
母親達は子どもたちに何を食べさせたらいいか
知りたがっている(A Rock Star Backs A Coffee Shop)

・ニール・ヤングがスターバックスを非難するのは、ヴァーモント州が条例化した遺伝子組み換え食材の使用を明記する制度に対してモンサント社が訴訟を起こし、スターバックスが支援をしたからだ。彼は毎日並んでラテを買うほどのスタバ好きだったから、怒りが余計に強くなったのだと言う。
・ちなみにネットで調べると、日本でも、スターバックスのコーヒーに入っているミルクは加工乳で,豆乳にも遺伝子組み換えかどうかは明記されていないようだ。もっとも、その材料がGMOなのかどうか明示されていない植物性の生クリームやマーガリンが、どこのカフェやレストランでも当たり前に使われていて、ほとんど問題にもされていない。

・モンサントを糾弾するアルバムとは言え,収められた歌には聴き応えのあるものが少なくない。歌が表現活動であるからには、メッセージを主にしたものでも、音楽のレベルは低くてもいいということはない。逆に言えば、それが表現活動であるからには,音楽には何らかのメッセージが不可欠だろう。日本以外で生まれるロック音楽には、それが当たり前だとする伝統が変わらずに息づいている。
・そんなもの必要でないというのは日本だけの考えで、戦争法案についても、ミュージシャンからの歌や音楽によるメッセージはほとんどない。あらゆる世代や立場の人たちが立ち上がって声をあげている状況で、ミュージシャン達は明らかに取り残されている。Sealdsに先行されて,今さらのこのこ出られなくなってしまったのかもしれない。

2015年9月14日月曜日

見たはずなのに、ほとんど忘れている

・BSや光テレビで時々映画を見る。初めて見るものもあるが、すでに見たものもある。特にもう一度見たいというわけでもなく、たまたま見はじめたから続けてという場合が多い。最近特に多いのだが、見たはずなのにほとんど忘れている。たとえば『フォレスト・ガンプ』、あるいは『戦場のピアニスト』や『ダイハード』のシリーズなど、見事に忘れていることに呆れてしまった。

・もちろん、歳のせいだと思う。しかし、一度見たからもういいと思ってきたが、果たしてどれだけ記憶に留めることができているのだろうかという疑問も感じた。そうすると、今まで見て、よかったと思う映画をもう一度見てみようかという気にもなった。僕の研究室には数百本のビデオカセットがある。ビデオのデッキが健在のうちに見直すことにしようか。

・映画やテレビ番組をビデオで保存したのは、講義の教材にするためだった。講義の内容に合わせて何本かのビデオを教室で見せてきたのだが、アップルの「キイノート」を使ってプレゼンテーションの講義を始めるようになってやめてしまった。それでビデオも用なしになって、廃棄してしまおうかと思うようになっていたのである。

・廃棄する前にDVDにコピーすれば、大学をやめて家に持ち帰ることもできるし、まだしばらくはパソコンはもちろん、テレビでも見ることができるだろう。しかしコピーをするには、相当の手間暇がかかる。CDで音楽を聴くように、くり返し見ることはないにしても、何度かは再生する。そんなことはないと思っていたが、ストーリーをほとんど忘れてしまっているなら、コピーしておく価値はあるのかもしれない。

・NHKが20年前に作った『映像の世紀』のシリーズは11本ある。講義ではずいぶん役に立ってきたドキュメントだが、これもBSで久しぶりに見かけて、その第1集を最後まで見た。見直すというより初めて見る感じがして、これはDVDにコピーしようかとも思った。しかし、たまたま放送されていたから見たのであって、わざわざ自分で見てみようと思うだろうかとも感じた。たぶんDVDにしてもほとんど見ないだろうとも思う。

・というわけで、見たはずなのに記憶が怪しいことを再認識したのだが、だからといって、プライベートに記録することもないかと思い始めている。youTubeを探せば見られるものもあるし、Amazonが動画の提供をするといったニュースもある。僕はプライム会員だから、追加料金なしで見ることができるようだ。どんな作品があるのかチェックしていないが、利用するのなら、テレビとパソコンをつなげるようにしなければならない。

2015年9月7日月曜日

再び、幸福について

 


渡辺京二『逝きし世の面影』平凡社ライブラリー

edo1.jpg・イザベラ・バードの『日本奥地紀行』を読んで、明治維新直後の日本人の暮らしに、今さらながらに驚かされた。衣食住の貧しさ、衛生状態の悪さ、プライバシーとは無縁な人間関係、あるいは追いはぎはもちろん、欺されることもなく旅ができたこと等々である。で、時代劇ではわからない明治以前の日本人の暮らしをもっと知りたいと思った。

・渡辺京二の『逝きし世の面影』は、江戸から明治にかけて来日した欧米人によって書かれた多くの書をもとにして、外国人に受け取られた当時の日本人の印象を分析したものである。600頁にもなる大著だが、おもしろくて一気に読んだ。

・東洋の果ての国に来た人々に日本人がどう映ったか。それは各章の題名を並べただけでもよくわかる。章題は1章の「ある文明の幻影」ではじまって、以降は次のように続いている。陽気な人々(2章)、簡素と豊かさ(3章)、親和と礼節(4章)、雑多と充溢(5章)、労働と身体(6章)、自由と身分(7章)、裸体と性(8章)、女の位相(9章)、子どもの楽園(10章)、風景とコスモス(11章)生類とコスモス(12章)、信仰と祭り(13章)、心の垣根(14章)。

・要するに、当時の日本人は貧しくても貧窮しているわけではなく、むしろ生活を楽しみ、人々の関係は和やかで、子どもをかわいがり、弱者に優しく、士農工商の封建社会ではあっても自由にできる領域は多く、体格が貧弱に見えても腕力や持久力があり、性にはおおらかで、建前の男尊女卑には実質的な女の力がともなうといった印象である。木でできた粗末な家に住んではいても、ゴミなどはなく季節の花で飾られているし、きれいに整地された田んぼは周辺の森や林と見事な景観を作り出している。それは地方に限ったことではなく、100万人都市の江戸ですら同様であった。

・もちろん、このような描写には、産業革命が進行した近代社会から来た人たちが見た中世の社会という意味合いがあって、近代化以前にはヨーロッパでも見られた特徴だったはずだったはずである。だからこそ、楽園のように感じた人たちはまた、明治時代の急速な近代化が、このような特徴を急速に喪失していくことにも触れている。本書の題名である「逝きし世の面影」はまさに、ここであげられている特徴が、今はとうに消え去ってしまったかつての日本の面影であることを指摘しているのである。

・あるいは著者は触れていないが、当時の日本に訪れた人びとが高い階級の人であり、自国では近寄らない低階層の人びとに、日本では否応なしに出会ったということもあるかもしれない。貧しい人間は品性も卑しく、怠惰で向上心がない。そのような認識が差別意識に基づく偏見であったことは、イギリスの労働者階級の文化や生活に注目したレイモンド・ウィリアムズやリチャード・ホガートの研究、そして、そこに端を発するカルチュラル・スタディーズによって、明らかにされていることでもある。

・もちろん、日本を訪れた人の多くは、その途中でインドや東南アジア、そして中国などに立ち寄っていて、そことの比較の上で、日本や日本人の特異性に驚き、感心もしている。その意味ではやはり、彼や彼女たちが感じた印象には、確かなものだったと言えるだろう。であればこそだが、近代化を急ぎ、欧米の列強に対抗して戦争に突入して負けた日本。そこから再起して経済大国になり、世界有数の豊かな国となった日本について、その現在までの歴史や現状を見た時に、日本人はこの1世紀半の間、江戸時代よりも幸せを強く感じたことがあったのだろうか、という疑問を持った。

2015年8月24日月曜日

どこにも行かない夏

 

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・ここ数年、夏休みには長期の旅行と決まっていた。昨年はイギリス・フランス・スペイン・ポルトガルに3週間行ったし、一昨年は北海道の礼文島と利尻島を中心に10日間の旅行をした。その前はスイスのアルプスに10日間、その前は韓国に11日間、そしてその前はアメリカとカナダに3週間の長期旅行だった。

・今年の夏にどこにも行かなかったのはパートナーの病気のためである。正月に脳梗塞になったために3週間のイタリア旅行を中止した、彼女は治療とリハビリで70日ほど入院し、その後もずっとリハビリを続けてきた。日常生活に支障がないほどに回復をしたが、長期の旅行、特に長時間の飛行機はリスクが高いし、トレッキングはもちろん街歩きも難しい。だからしばらくはどこにも行かずに、機能回復に努めることにしたのである。

forest127-2.jpg・今年の夏は河口湖も暑かった。ただし午前中ならまだ涼しい。そこで精出したのが自転車とカヤックだった。カヤックは特にパートナーにはいい運動になる。オールを漕ぐのは腕だけではなく、腹筋や背筋、そして足の筋肉も使うからだ。アルミのパイプをつなぐゴムも修理をして、組み立てやすくなった。 漕ぎ出すのはいつも西湖なのだが、どうせならと僕は自転車で出かけた。汗びっしょりになった後、湖に漕ぎ出して感じる風は何とも心地いい。


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・自転車には、用事のない日はほぼ毎日乗った。河口湖を一周すると20km、西湖まで行くと23km、両方を回ると33km、精進湖まで出かけると39kmになる。いろいろ道を変えて、あちこち走って来た。たとえば上図のルートだと32kmになって、時間は1時間20分ほどになる。250mほど登るからかなりきついが、足の筋肉も心肺機能も強くなって、走りながら回復するようにもなった。ただし、お腹の贅肉はなかなか落ちてくれない。もう少し涼しくなって、観光客も減ったら富士山一周をやってみたいと考えている。

forest127-4.jpg・長期間は無理でも一泊ぐらいはと木曽駒ヶ岳に出かけた。あいにくの雨で千畳敷カールは霧に包まれていたから、宝剣岳まで登るのはやめにした。残念だったが、行きに寄り道をした秋葉街道は面白かった。中央構造線に沿った道路で、ゼロ磁場で有名な分杭峠があり、色の違いがはっきりわかる断層もあった。中央構造線は天竜川から西に紀伊半島、四国山地、そして九州の阿蘇へと続いている。フォッサマグナと相まって日本アルプスを生んだ大きな地殻変動の痕跡だ。フィリピン海プレート上の伊豆半島がぶつかって富士山や箱根、そして丹沢山地ができたことなどとあわせて、本州の地質学的な歴史の凄まじさの一端を見た気がした。

2015年8月17日月曜日

無責任体制の極み

・猛暑の中、今年も8月15日が来た。戦後70年、この国はずっと敗戦ではなく終戦と言い続けてきた。負けたのなら誰かがその責任を取らなければならないが、終わったのなら、それは誰の責任でもない。そして今年の夏は、この無責任体制が戦後70年で一番突出したと言える。安倍政権は世論の大反対にもかかわらず、暴走、迷走を続けているが、その姿勢自体もまた無責任そのままである。何を言うのかずっと話題になってきた「談話」にも、主語のない、曖昧な表現ばかりが目立った。

・11日に川内原発が再稼働された。反対の世論が多数を占める中での強行である。6日の広島、8日の長崎の式典の直後であり、11日は福島の月命日だった。無責任の上に無神経な行為と言わざるを得ない。福島の状況は未だにアンダーコントロールどころではないし、避難した人たちの多くの生活も、もと通りになることはない。そもそも地震や火山の噴火がこれほどに多い国に、原発など作ってはいけなかったのに、政権や電力会社にはそんな反省は微塵もない。桜島が噴火しそうなのが、自然が下す鉄槌のように思われてしまう。

・検察審査会が勝俣元会長ほかをやっと強制起訴した。事故責任をはっきりさせるような裁判がおこなわれることを願うばかりである。裁判では福井地裁で高浜原発再稼働の差し止め命令も出た。再稼働の可否を判断する新しい規制基準自体が「緩やかすぎて合理性を欠く」ものだとして原発政策を根本から見直すよう求めた内容だった。安倍首相はその判決など無視して、川内原発について、世界で最も厳しい新規制基準をクリアしたなどとうそぶいている。

・安保法制の衆議院における強行採決もまた、世論の大反対、政権支持率の急降下、そして大学生や高校生などが自発的に始めたデモを無視してのものである。さらに理解してもらうよう努力すると言っているが、理解したからこそ反対の声が強くなってきているのである。この戦争法案は、一説では安倍が祖父岸信介の意志を継いで実現しようとするものだと言われている。しかしまた、2012年にアメリカの「安全保障研究グループ」が公表した「第三次アーミテージ・ナイ・レポート」の内容そのものだと指摘する人もいる。

・アメリカに言われるままだからこそ、国会での論議と承認前にアメリカに行って、法案を約束したのだろうか。その安倍は、「ウィキリークス」が公表した「米国安全保障局」(NSA)が日本の内閣、日銀ほか大企業の電話を盗聴していた事実について、真意を尋ねることをしただけで抗議をまったくしなかった。そんなアメポチの隷属姿勢を、中国や韓国、そして北朝鮮に対する喧嘩腰と対照させると、日本や国民を守るためなどという説明が嘘っぱちであることがよくわかるだろう。

・無責任な言動はほかにもたくさんある。新国立競技場を巡る顛末はうんざりするほどだが、ここでも責任の所在がはっきりしない。オリンピックのエンブレムの盗作騒ぎも相まって、「もうやめたら」と言いたくなってしまうが、実際、オリンピックの後に大不況に陥って、そのまま日本没落なんてことを言う人もいる。実態のないアベノミクスと、それを支えるために年金を株価の操作に注入している日銀の行動は不安感を募らせるだけだし、ソニー、パナソニック、そして東芝といった日本を代表する企業の不振や不祥事なども続いている。で、そこでも、責任の所在はうやむやだ。

・戦争法案は参議院で論戦が続いている。武器は運べないが弾薬は運べる。だから核兵器や劣化ウラン弾なども運ぶことができる。こんなとんでもない議論があり、また法案の成立前なのに、防衛省では法律を前提にした計画を作成しているといった資料が暴露されている。もうめちゃくちゃだが、それでもこの法案を成立させるつもりなのだろうか。成立を阻止して安倍政権を倒す。無責任体制には一人一人の責任ある批判の声が力を持つ。「私」という一人称で、はっきり発言をすることが大事だ。

2015年8月10日月曜日

ベテラン健在!

  • Mark Knopfler "Tracker"
  • James Taylor "Before This World"
  • J.D.Souther "Tenderness"
  • Blur "The Magic Whip" 

knopfler.jpg・マーク・ノップラーの"Tracker"は3年ぶりで、彼は数年おきに着実に新譜を出している。評判が良くてUKはじめ、世界中で売れているようだ。trackerは追跡者や狩猟者の意味だが、同名の曲はない。アルバム制作者の意味だろうか。前作の"Privateering"同様、ケルト音楽が心地いい。その頭の曲は「笑う、からかう、飲む、そして吸う」というタイトルで、若い頃にロンドンで暮らしていた様子を思い返している。2曲目の「バジル」も新聞社で使い走りの仕事をする少年の話だ。これも、自分のことなのだろうか。彼の作るアルバムには今回に限らず、いくつもの物語がある。8曲目の"Light of Taormina"の歌詞にはディランと一緒に歌っている写真がある。数年前に一緒にツアーをしたようだから、その時に作った曲なのかもしれない。

jt1.jpg・ジェームス・テイラーの"Before This World"はスタジオ録音としては13年ぶりのようだ。ずいぶん久しぶりだが、その間、ライブ盤やカバーを出している。このアルバムも評判が良くてビルボードでNo.1になったようだ。3曲目の"Angels of Fenway"は、ボストン・レッドソックスが2004年に86年ぶりにワールド・チャンピオンになった時の歌だ。おじいちゃんもおばあちゃんもファンで、子どもの時に一緒にフェーンウェイ・パークに応援に行った。おじいちゃんは死んだが、おばあちゃんは病院のベッドで応援した。
・他方で9.11やアフガニスタンを歌った歌もある。自分のこと、身近なこと、そして世界のことを無理なく、穏やかに物語にする。ノップラー同様に、ストーリー・テラーとしての才能は健在だ。

souther.jpg・J.D.サウザーの"Tenderness"は4年ぶりのアルバムだ。前作の"Natural History"は彼のヒット曲を歌い直したもので、その多くは彼自身ではなくイーグルスやリンダ・ロンシュタット、そしてジャクソン・ブラウンなどに提供した歌だった。ノップラーやテイラーもそうだが、サウザーも外見は正真正銘老人だ。しかし、歌う声にはそれほどの違いはない。もちろん歌作りのエネルギーや力も衰えていない。
・アルバムの最後の曲"Down Town"には「戦争の前」という副題がついている。いつの戦争なのかどこの町なのかわからないが、ダウンタウンの良さと、今は失われてしまっている様子を歌っている。過去を思い返すというのも、3人に共通したテーマのようだ。

blur1.jpg ・最後はブラーの"The Magic Whip"。"Think Tank"を出したのが2003年だから、12年ぶりということになる。メンバーの脱退騒動で活動自体も休止していたが、2009年から再開している。香港で録音したから、ジャケットには模糊魔鞭という漢字が書いてある。イギリスのチャートで1位になったようで、なかなかいい。
・ブラーを知ったのは映画の『トレイン・スポッティング』だった。その後に出た"13"も"Think Tank"もよかったから、"The Magic Whip"も期待して買った。アジアを意識してということだが、聴いている限りはあまり感じない。

2015年8月3日月曜日

BSを見るのは地方の年寄りかマニア?

・火野正平が日本全国を自転車で巡る番組「心旅」が今年も続いている。春は和歌山から出発して北海道まで行って7月末で終了した。秋は徳島から出発して沖縄まで行くようだ。番組は朝昼夜とやっていて、僕も朝と夜は楽しみにして見ていた。BSだからどの程度に見られているのかわからなかったが、彼が行く先々で出会う人が「毎日見てます」といった声をかけることが多いのに意外な感じがした。火野正平が走るのはほとんど都市部ではなく、山間や海岸地帯で、そこで出会うのはお年寄りが多かったからだ。

・大学のゼミでこの番組の話をしても、見ている学生はほとんどいない。彼や彼女たちは、そもそもBSそのものを見ていない。テレビで見るものと言えば夜のバラエティで、テレビのチャンネルにBSがあることすら意識していない学生が多いのである。実際視聴率から言ってもBSはあまり見られていない。そのことは地デジと同時中継するスポーツ番組の視聴率の違いからも明らかだ。

・若い人たちがあまりテレビを見ないことや、主たる視聴者層が高齢化している傾向はずいぶん前から指摘されている。都市部では多チャンネル化が当たり前になっているからBSにまで関心が向かないのも当たり前かもしれない。けれども地方では、地デジの民放も2局だけだったりするから、BSもかなり見られている。その主たる視聴者層もやっぱり高齢者なのかもしれない。火野正平の番組を見ていて、そのことを実感した。前回書いたように、CMが「特定保健食品」や「栄養機能食品」ばかりなのもわかるというものである。

・もっとも、同じBS番組でも田中陽希の「グレイト・トラバース」は、老若男女に視聴されているようだ。去年の百名山に続いて今年は二百名山の踏破をめざしている。北海道の稚内から歩き始めて九州をめざす行程で、終わるのは12月になるようだ。その2回目の放送が8月1日にあった。百名山に比べて二百名山にはなじみのない山も多い。登山者が少なくて道が藪に覆われてなくなってしまっているところもあるようだ。なかなか大変な試みだと思う。ただし、彼にとっての悩みはや苦労はそれだけではない。

・彼はブログを出していて、そこには全行程の日程や日記が載せられている。だから、登りやすい山になると、待ち構えていて一緒に写真を撮ったりサインをねだったりする人がかなりいる。食べ物などの差し入れをする人もいて、そのことが歩く妨げにもなっている。番組は見て欲しいけど、邪魔はして欲しくない。そんな気持ちがブログでも吐露されているが、山歩きがブームになっている現状を考えれば、その憧れの人に一目会いたいといった願望をやり過ごすことは難しい。そもそも、ブームに火をつけたのもBSの百名山番組だったりもしたのだ。

・マニアックな番組と言えば「ツールドフランス」も、その全日程を中継していた。毎日25分ほどの時間だが、ロードバイクに乗り始めた者としては興味津々で見続けた。百台を超える大集団だからちょっとしたことで転倒して、それが何台にも連鎖する。優勝候補の選手が骨折をして棄権といったことも連続した。何しろ平地ではそのスピードが60kmを越えるというし、下り坂なら100kmにもなるようだ。どんなにがんばったって30kmを超えて走り続けることなどできないし、坂道では60kmが精一杯という者からすれば、自転車競技はやっぱりサーカスのように思えてしまう。

・テレビを見るとすれば、もっぱらBS。そんな視聴が定着してずいぶんになるが、我が家では最近、見られない日が多くなった。家の周囲の木が繁茂して電波を遮るようになったからだ、曇りがちになったり、風がちょっと強めに吹いたりすれば、もう映らなくなってしまう。大木を伐採することはできないから、BSアンテナを移動するか高くするかしなければいけないのだが、年齢を考えると屋根に登るのもそろそろ控えた方がいいかも、と思い始めている。森の中に住んで暑さをしのげているが、電波は届いて欲しい。どうしたものか悩んでいる。

2015年7月27日月曜日

友達と仲間

 

押井守『友だちはいらない』テレビブロス新書

蛭子能収『ひとりぼっちを笑うな』角川新書
高田渡『マイ・フレンド』河出書房新社

・大学生が入学してまずやるのが友だち捜しであるのは、今さら言うまでもないことだ。で、大学の4年間を通したつきあい方はつかず離れずで、卒業してしまえば、それでおしまいといったもののようだ。「そういうのは友だちと言わないんじゃないの」といった批判をして、卒業した後もつきあえるような友だちを作った方がいいよといった話を何度となくしてきた。
・けれども他方で、僕自身が十代や二十代の頃に出会った友だちと、今どんなつきあいをしているかと考えた時に、たまに会う程度以上の人は誰もいないな、と思っても来た。親密につきあっていたって、それが長続きするわけではない。だとしたら、いったい友だちって何なんだろう。学生に話しながら、同時に矛盾する気持ちを感じていたのも事実だった。

osii.jpg・押井守の『友だちはいらない』は、そんなはっきりしない気持ちにひとつの答えを出してくれるものである。彼にとって一番大事なのは、友だちではなく、仕事仲間である。一緒に仕事をする仲間は、仕事上のつきあいであって、必ずしもプライベートな世界にまで入りこむものではない。プライベートなつきあいは家族で十分だし、ペットがいればもっといい。

・だからといって仕事仲間は表面的で形式的なつきあいだとも限らない。互いに協力したり、競争したりしながら、それなりに太くて深い関係になることもある。もちろんこれは映画監督ならではの発言で、どんな仕事にも共通するものではないかもしれない。あるいは、日本の企業は今でも、仕事だけではなく、プライベートなつきあいまでにもずるずる繋がるものだから、仕事仲間はもっと限定的にして、別の関係を作りたいと思う人も多いだろう。

ebisu.jpg・蛭子能収は漫画家で、テレビにもよく出るタレントでもある。周囲の空気など気にせず言いたいことを言う。その態度が人気の理由でもあるようだ。その彼もまた、友だちはいらないと言う。それは小さい頃からいじめられた経験によるようだ。周囲に同調するよりはできるだけ自由に生きる。この本はそんな生き方の提案書でもある。

・「ひとりぼっち」と言いながら、彼もまた仕事上の仲間の重要性を認めている。しかしやっぱり、そのつきあいをプライベートな世界にまで入れようとはしない。私的なつきあいは、彼にとっては奥さん一人に限られる。だからその奥さんの死が、彼にとってひどくつらいものであったことが書かれている。彼はその寂しさに耐えられず、テレビ番組で新しい奥さんを公募したようだ。「ほとりぼっち」になれないじゃないか、と言いたくなったが、一緒に生活する人こそ、いちばん大事だと思うのは、僕にもよくわかることである。そのことを、パートナーの脳梗塞と入院で痛感した。

wataru.jpg・高田渡の『マイ・フレンド』は、彼が十代の頃につけていた日記につけた名前だ。彼はその日記を友だちと思っていて、日記に語りかけるように、相談するように書き続けている。もちろん、現実に友だちがいなかったわけではない。家族もいたし、仕事仲間もいた。しかし、ウッディ・ガスリーやピート・シーガーを知り、そのレコードを聴き、歌詞を書き、バンジョーやウクレレを自作し、演奏や歌う練習をした。アメリカへの留学を考え、ピート・シーガーに手紙を書き、音楽評論家の家を訪ねて、聞きたいことを聞き、いくつもの資料をもらってきた。

・そんなことを友だちに話すように日記に書く。それは彼の自伝のようだし、私小説のようでもある。何でも打ち明けられるし、相談もできる。それで自分の考えもはっきりする。フォーク・シンガーとして独特のスタイルを作った人の若き日の日記であるだけに、一人の物語のようにして読んだ。実は僕はこのノートを、彼がデビューする前に井の頭公園で見せてもらっている。もう半世紀も前の話で、僕も同じようなノートを作っていたが、もうとっくに捨ててしまっている。

・友だち、仲間、そして家族。その関係の重要性は、一人一人それぞれだろう。また、誰にとってもそれぞれの関係の重みや意味合いは、歳とともに変わっていく。恋愛は結婚によって持続的な関係になる。仕事仲間もまた、ある程度の持続性を前提にする。ところが友だち関係には、持続的であることを保証するものは何もない。だからこそ、一次的にせよ、親密な関係になる。そして必ずしも生きた他人である必要はない。そんなふうに考えると、僕にも思い当たる出会いはいくつかあったと思う。

2015年7月20日月曜日

新刊案内!『レジャー・スタディーズ』

 

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・今、「レジャー」について考える理由は、経済的にこれほど豊かな国になったのに、日本人の「レジャー」はなぜ貧困のままなのか、という疑問でした。ところがここ数年の状況は、雇用形態の変化や「残業代0法案」に顕著なように、その豊かさが怪しくなっている点にあると思います。ですから、ひょっとすると、この本を見かけた人は、こんな大変な時代になぜ「レジャー」なのだと思うかもしれません。しかし、こんな時代や状況だからこそ、「レジャー」について、自分の生き方や「ライフスタイル」と関連させて考えることが必要だと強く言いたくなります。是非中味を読んで、そのことを認識して欲しいと思います。

目次

序章 レジャー・スタディースの必要性と可能性(渡辺潤)

Part1 余暇学からレジャー・スタディーズへ
 1.余暇 (薗田碩哉)
 2.遊び (井上俊)
 3.ライフスタイル(渡辺潤)
 4.仕事(三浦倫正)
 5.カルチュラルスタディーズ(小澤考人)

Part2 レジャーの歴史と現在
 6.教養と娯楽(加藤裕康)
 7.ツーリズム(増淵敏之)
 8.音楽(宮入恭平)
 9.ショッピング(佐藤生実)
 10.スポーツ(浜田幸恵)

Part3 レジャーの諸相
 11.ライフサイクル(盛田茂)
 12.食(山中雅大)
 13.映画とテレビ (盛田茂+加藤裕康)
 14.ミュージアム(光岡寿郎)
 15. ギャンブルとセックス(岸善樹)

索引
あとがき

オビ

{余った暇」つぶしから
豊かなレジャーの世界へ!

自由とは何か、豊かさとは何か、私はなぜ働くのか、
レジャーからライフスタイルを見つめよう。
旅行、音楽、スポーツからテレビやギャンブルまで、
多様なレジャーの過去と現在を学ぶ入門書の決定版。
現代文化を学びたい人にも最適。

2015年7月13日月曜日

梅雨がうらめしい

 

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forest126-2.jpg7月に入って、毎日のように雨が降り続いている。その雨の合間に真っ赤な夕焼けの日があった。うわーきれい、と見とれたが、ほんの少しで闇に消えた。梅雨入り前に御坂山塊に登った。ただし歩いてではなく、車でだ。いつ来てもここからの景色は素晴らしい。しばらくぶりでちょっとだけ、パートナーと尾根歩きをした。リハビリを頑張って、500m、1km、2kmと散歩の距離を少しずつ伸ばしている。果たして山歩きができるまで回復するのだろうか。ここはじっくりリハビリに励んでもらうしかない。

toilet.jpgそんなふうに思っていたら、保険の適用は6ヶ月までだと言われた。あとは実費で続けなければならない。治っても治らなくても半年限り。保険制度の財政が厳しいとはいえ、切り捨てがここまで露骨だと腹が立つ。

一方で、新国立競技場に象徴されるように、どんぶり勘定でやる無駄遣いがあとを絶たない。ラグビーのW杯もオリンピックも、やりたければ横浜や埼玉、そして味スタを使えばいい。権力者の思いが弱者を切り捨てにする。そんな好例を目の前に突きつけられた思いがした。その新国立競技場はまるでトイレだという記事を見た。こんなものは絶対作らせてはいけないのだ。

forest126-3.jpg山歩きができないから自転車で。新しい自転車に乗って6月は12回走った。河口湖一周、西湖一周、そして西湖と河口湖。スピードが出るからついついがんばって新記録を狙ってしまう。で、河口湖一周は45分、西湖は58分、西湖+河口湖は1時間22分。こうなるとだんだん冒険もしたくなる。富士山一周はいつかやりたいと思っていたが、まずは精進湖まで、そして本栖湖まで、あるいは山中湖一周をしてからと思っている。自転車は何と言っても登りがきつい。その登りだけのヒルクライムにも挑戦してみようか。だったら富士山五合目まで、などと考えている。年寄りの冷や水と言う声が聞こえてきそうだ。

forest126-5.jpgところが7月に入って自転車に乗れない日が続いている。この週末やっと晴れたと思ったら、数日前から体調がすぐれない。梅雨時には時々出る症状で、原因は不明だが、とにかく寝れば直る。で、日曜日に8日ぶりで河口湖を一周した。
雨の影響は薪にも出始めている。カビが生えてきているのだ。雨のかからない軒下にできるだけ移動しなければならない。自転車よりも優先してと、これは土曜日にやった。カビだけでなく、虫の巣になっていたりナメクジがついていたりと大変だった。他方で茗荷は例年になく大きく育っている。収穫は今月末からか、あるいは8月になってからだろうか。

forest126-4.jpg雨は降っても気温は暑からず寒からず。僕にとってはちょうどいいのだが、パートナーには寒いようだ。麻痺した部分の血流が悪いせいだろう。とにかく家の中は暖かく。そのために床下の断熱工事をした。建築時に貼った繊維質の断熱材が剥がれ落ちていたから、以前からなおさなければと思っていたのだが、薪の原木を購入しているところで相談をすると、うちでもやってますと言われた。今は発泡性のウレタンを吹き付けるやり方になっているという。床全面に吹き付けたが、さて今度の冬はどうだろうか。床下に入ってみると、ちょうど薪ストーブがあるところに、大きな蜂の巣があった。もちろん、もう何年も経ったものだが、ここで越冬したのだろうか。きっと暖かだっただろうと思う。

2015年7月6日月曜日

がんばれ!"SEALDs"

 


SEALDs.png ・大学生が政治問題に目覚めてやっと動き始めた。毎週金曜日の夜に国会議事堂前で、土曜日に渋谷で集会やデモをやっている。その動きは京都や札幌、そして沖縄などに広がって、数百、数千人の若者達が集まっているようだ。思い思いのプラカードを掲げ、マイクを握って発言し、ラップなどでメッセージを伝えてもいる。僕は出かけていないが、Youtubeではその模様をいくつも見ることができる。

・集会やデモをリードしているのは"Students Emergency Action for Liberal Democracys"(自由と民主主義のための学生緊急行動)という名の組織だ。略して"SEALDs"と言う。

・若者達の意識が変わりはじめた。そう思うと、どうしようもない政治状況に暗くなっていた気持ちの中に、ひとつの明かりがさしてきた気がした。参加したフォーク歌手の中川五郎はツイッターで「なんと美しき光景かな。未来を生み出す若い人々とこの時代を生きていることを心の底からうれしいと思う。未来は彼らと共にある。」と興奮気味に書いている。

・そんな気分になるのは僕にもよくわかる。大学生が抗議行動に率先して立ち上がったのは半世紀ぶりで、僕らの世代が高校生や大学生だった時以来だからだ。"SEALDs"のFacebookには岡林信康の「友よ」がリンクされたりもしているから、余計に懐かしさを感じたりもしてしまった。

・とは言え、そんな興奮をゼミの学生に話しても、彼や彼女の反応はいまひとつだ。僕の勤める大学のキャンパスにも、そんな動きはまだ見えない。渋谷に2000人といっても、まだまだごく一部の学生なのだと思う。内向きで政治には無関心の学生の意識を変えるのは大変だが、ほかの誰より自分たちに一番関わる問題であることに早く気づいて欲しいと思っている。

・だからこそ、この動きは大切にして、芽を摘みとるようなことが起こらないようにとも思う。たとえば"SEALDs"のサイトには「私たちは、戦後70年でつくりあげられてきた、この国の自由と民主主義の伝統を尊重します。」といった声明がある。そしてこれに対して、自由で民主的な日本がどこにあるのか、それを作ろうといったい誰が努力してきたのかといった批判をして、その認識の甘さを突く声もある。

・戦後に作り上げられてきた民主主義を守るのではなく、むしろその民主主義なるものの欺瞞を撃つことから始めなければという批判は、至極まっとうなものである。けれどもそんな批判を頭ごなしにしても、それはやっと芽生えた動きの芽を摘みとる働きしかしないだろう。身近にいる大学生達とつきあっていて肝に銘じているのは、叱るよりはまず褒めることであるからだ。とにかく行動し、その後で、自分で考えながら気づいていく。教師としてはどうしても、そんなふうに考えてしまう。

・学生達は何より空気を気にするから、この流れが身近な人間関係に及ぶことが必要だ。その意味で不思議に思ったのは、"SEALDs"のサイトのSNSにFacebookやTwitter、それにYouTubeがあるのにLineがないことだ。僕のゼミの学生達の多くはLineしかやってない。たぶん多くの大学生も同じなのだろうと思う。

2015年6月29日月曜日

文系学部の存在価値

・文科省が国立大学に通達した「文系学部・大学院の廃止、定員削減」は、2013年に出された「国立大学改革プラン」に基づくものです。私立大学には直接言及していないので、国の予算を多く使う国立大学は理系に重点を置いて、文系は私立大学に任せればいいということかもしれません。しかし、この改革が、安倍首相の「学術研究よりは社会のニーズにあった実践的な職業教育」をという指示に基づくものであることを考えれば、大学そのものの危機であることは疑いないでしょう。何しろ大学は研究の場である必要はないと言っているのですから、大学の教員は研究者である以上に実践的な職業教育をする教育者であるべきだということになるのです。

・実際、このような圧力は安倍政権以前から、私立大学にも文科省の指示としてさまざまにおこなわれてきました。たとえば大学の授業は年30週を基本にしています。しかし、大学の行事もあれば祝日もあって、それより少ない数でずっとおこなわれてきました。ところが今では、この30という数字は絶対こなさなければならない数になって、祝日でも授業をやったり、夏休みが8月にずれ込んだりしているのです。授業計画であるシラバスについても事細かな指示があって、それが大学院の博士課程にまで及んでいるのが現状です。これはもう、「学術研究」つぶしを大学院にまで及ぼそうとする策略だと言うほかはないでしょう。

・他方で学部では、進学を希望する学生自身のニーズが、圧倒的に就職に役立つ技術や資格を身につけることにあるのも事実です。役に立つ授業と勉強をどう提供するか。大学は今どこも、その生存競争に勝つために、学部やカリキュラムの改革に血眼になっているのです。その主な柱は仕事に役立つキャリアと語学です。しかし多くの教員は、この要請にうまく対応できないし、対応したくもないのです。教員は同時に研究者でもありますから、講義やゼミは、今自分が関心を持って研究していることを学生に開陳する場でもありました。だから同じ名前の講義名でも担当者によって中味はまるで違うことが当たり前のことでした。ところが、そんなやり方が、学生のニーズとしてだけでなく、大学の方針、さらには文科省の要請として、できにくくなっているのです。

・大学生を取りまく状況は確かに厳しいものがあります。就職に役に立たないことに時間もお金もエネルギーも注ぎたくないと考えるのも無理はないのかもしれません。しかし、最近の学生と接していて何より気がかりなのは、無知を恥じないというよりは知らなくてもいいといった態度であったり、自分の考えを公言することをためらったり、そもそももたないで平気でいる姿勢です。だから、ゼミがゼミとして機能しなくなってもいるのですが、ここには中高で、その準備になる教育をほとんど受けていないという問題が大きいように思います。

・選挙での投票権が18歳まで引き下げられました。文科省はさっそく、高校の授業で政治的な問題を扱わないようにといった通達を出しました。考える機会を作らなければ、政治についての関心を持つことは難しいのですが、現政権にとってはそれこそが狙いなのでしょう。そして文系学部、とりわけ文学、哲学、そして社会学といった分野は、批判勢力を育てるだけの邪魔なものだと思っているのかもしれません。だからそれは学生だけでなく、そのような分野とそこで研究する教員の減少と無力化にもつながるものなのです。

・政治には無関心で、メディアの情報操作に流されやすく、企業の命令に従って従順に働く人材。国歌・国旗によって愛国心を自覚し、必要なら戦争にも行かなければと納得する国民。文系学部不要論は、何よりこのような人間を望む勢力が、権力を乱用して実現させようと画策することにほかならないのです。文学や哲学、そして社会学に無知な政治家が、今日本の社会をどれほどダメなもの、おかしなものにしようとしているか。そのことこそが文系学部の必要性を証明していると言えるでしょう。

2015年6月22日月曜日

今「Timers」を聴く!

 

"The Timers"

"復活!! The Timers"

timers1.jpg・パートナーの入院見舞いとして"The Timers"という名のCDをいただいた。何だろうと思って聴いてみると忌野清志郎だった。清志郎の作品には単独のほかにRCサクセションなどもある。しかし、"The Timers"というバンドを作っていたのは知らなかった。アルバムの中には知っている曲もあったが、知らないものが多かった。それを聴いていて、今という時代、この状況に対する批判のメッセージとして、これほど適格で痛烈なものはないと感じた。

・"The Timers"は1989年に出されている。メンバー不詳の覆面バンドということになっているが、結成のきっかけになったのはRCサクセションが作った"Covers"について東芝EMIが発売を中止したことだった。東芝が問題にしたのは、収録された「ラブ・ミー・テンダー」「サマータイム・ブルース」「マネー」「シークレット・エージェントマン」の歌詞にあった。"Covers"は別のレコード会社から発売され、話題になったが、清志郎は"The Timers"という名のバンドを作り、大学祭などに多数出演してゲリラ的に活動をした。アルバムはそのライブを録音したものである。そして"復活!! The Timers"は1995年に発売されている。

timers2.jpg・この2枚のアルバムに収録されている曲は、「偽善者」「争いの河」「総理大臣」「税」「企業で作業」「国民改正論」「宗教ロック」「ロックン仁義」「覚醒剤音頭」「プロパガンダ」「まわりはワナ(マリワナ)」「いも(陰毛)」「タイマーズのテーマ(大麻)」といった放送禁止歌ばかりである。YouTubeで探すとアルバムには入っていない曲として「Summer Time Blues(原発はもういらない)」や「原発音頭」「メルトダウン」などもある。この時期から原発批判をしていたことは今さら指摘するまでもないが、今国会で問題になっていることについての痛烈な批判だと言える曲もたくさんある。


総理大臣、へらへら作り笑いで国を動かす
誰かの言いなりのタレントみたい
アメリカに行っても恥ずかしくないように、鍛えてあげるぜ(「総理大臣」)

今日も企業で作業、それが私の家業、夜は企業で残業、それが男の事業
今も軍事産業、農業より工業、息子学校で授業、やがて企業で営業(「企業で作業」)


・今こんなことを歌うミュージシャンは日本では皆無である。しかし、それは20年前だって一緒だった。だから"The Timers"は次のようにも歌っている。ただし、今のほうがずっとひどいことは言うまでもない。

どうせロックはありゃしねえ、演歌やポップスばかりじゃないか
俺はしがないロックンローラー、義理も未練もありゃしねえ
気がつきゃ軽いサウンドばっかりじゃござんせんか
何を歌ってんだかよくわからねえ、耳障りのいい、差し障りのねえ歌ばっかりで
それでロックと言えるのか(「ロックン仁義」)

・当時の"The Times"の活動についてネットで探してみると、テレビにもに出演していたことがわかった。たとえばフジテレビの「ヒットスタジオ」に出て、放送禁止にしたM東京を痛烈に批判して歌ったり、NHKのBS!で生中継された88年の「広島平和コンサート」」でも「タイマーズのテーマ(大麻)」や「偽善者」を歌っている。「ヒットスタジオ」の司会者は「報道ステーション」で古賀茂明の突然の発言に慌てた古館一郎だが、リハとは違う曲をやられたのに、その反応は呆れるほどに違う。

・今や安倍の宣伝道具に堕したNHKも、25年前にはこんなライブを中断もしないで放送したんだと思うと、隔世の感がしないでもない。だから「FM東京」を「NHKテレビ」に代えればそのまま通用するから、誰か替え歌で歌うミュージシャンがいてもいいのにと思った。しかしそれは、無い物ねだりだろう。

2015年6月15日月曜日

機能性表示食品にご注意!

 

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・テレビを見るとすればほとんどBSだが、その内容のおもしろさを台無しにするのがCMだ。どの番組を見てもCMの多くは健康食品で、しかも同じものが数分おきに何度も繰り返される。だからそのたびにチャンネルを変えると、そこでもまた似たようなCMが流されている。そんなものはまったくいらない、とずっと思ってきたが、ここ数年気になるようにもなってきた。だから余計に腹が立つ。

・健康食品にはまず、厚生労働省が認定した「特定保健用食品」がある。安全性や効能を実験データで証明したもので、厚労省のサイトには、発酵乳(ヨーグルト)、乳酸菌飲料、お茶、清涼飲料、豆乳、青汁、納豆、菓子(ビスケット、ガムなど)といったおよそ900種が掲示されている。このような食品には、血圧を下げる、体脂肪がつきにくい、虫歯になりにくい、消化を促進するといった効能がある、オリゴ糖、食物繊維、大豆タンパク、キシリトール、ビフィズス菌等々が含まれているとされている。

・もうひとつ、食生活で不足しがちな栄養素であるビタミン類やミネラル類(カルシウム、マグネシウム、鉄、亜鉛)を含むものは、「栄養機能食品」として、「食品衛生法」に基づいて、商品に表示が許可されているものがある。ただし表示には「多量摂取により疾病が治癒したり、より健康が増進するものではありません。」という文言が小さく付記されてもいる。

・BSでは毎日、朝から晩までこの手の食品やサプリメントのCMが流れている。健康のほかに美容、ダイエット、若返りなどの効能を謳うCMもあって、その占有率は驚くほどである。地デジに比べたらCM料は桁違いに安いのだろうと思う。しかしテレビ局にとっても、地デジに比べれば視聴者の数は桁違いに少ないのだから、この種のスポンサーは大歓迎だろう。そして、CMでも商品の効能を大げさに紹介しながら、最後に小さな文字で、効かない場合もあることが書かれていたりする。

・このような食品はある程度の効能があることを厚労省が認めたものだが、新たに「機能性食品」というジャンルが作られ、その商品が販売されはじめるようだ。これは事業者の責任においてその機能性を表示し消費者庁に届け出るもので、その効能はどこもチェックをしないものである。おそらく、BSにはこの新種の商品のCMがいっぱい出てくるのだろうと思う。しかしチェックがないのだから、効き目や害は客観的にはわからない。ここには品種改良された野菜や果物そのものも含まれている。

・この怪しいジャンルの追加は「アベノミクス」によるものである。そしてメディアはその怪しさについて、ほとんど口を閉ざしている。規制緩和によって詐欺まがいの商品でも合法化してしまおうというひどい政策だが、メディアにとっても広告収入の増加に繋がるのだから、あえて横やりを入れることはない。そんな態度が見え見えである。

・自分では若い、健康だと思っていても、年齢はごまかせない。そんな症状がいろいろ自覚されるようになってきた。だから、血圧や体脂肪、目や耳の衰え、あるいは頻尿の傾向が気になることもある。体力の衰えや肌の劣化など、気にし始めたらきりがないほどだが、その一つ一つに、これを飲めば、食べれば、使えば飛躍的に改善されるなどといった勧誘が繰り返される。もうはっきり言ってこれは詐欺社会そのものである。 こんなCMに出ているタレントや有名人には、そんな自覚がどれほどあるのだろうか。

2015年6月8日月曜日

130年余前の日本

 

イザベラ・バード『日本奥地紀行』平凡社ライブラリー

isabella.jpg・もうすぐ刊行される『レジャー・スタディーズ』(世界思想社)の索引作りをしていて、何冊か気になった本があった。その一冊、イザベラ・バードの『日本奥地紀行』を読んで、日本人やその生活の、現在との余りの違いに驚かされた。

・イザベラ・バードはスコットランド出身で、生涯の大半を旅に過ごし、何冊もの旅行記を書いた人である。アメリカ、カナダ、ハワイ、オーストラリア、中国、朝鮮、チベット、マレーと、その行き先は世界中に及ぶが、日本には明治11年に訪れ、東北から北海道まで出かけている。新橋と横浜間に鉄道が敷かれたばかりの時代だから、東北や北海道への交通手段はほとんどない。徒歩と馬によったのだが、道自体も未整備なところが多く、梅雨時だったせいもあって、難行苦行の旅だった。

・読んでまず驚くのは、農村に住む人たちの暮らしぶりについての描写である。男はふんどし、女は腰巻きぐらいしか身につけず、小柄で痩せていて、皮膚病などに冒されている。衣食住の貧しさはごく一部の地方都市を除いて当たり前のことで、それは彼女が宿泊した旅館で出される食事の貧しさ、部屋のお粗末さ、そして蚤や蚊に悩まされる描写にも表されている。

・悩まされるのはそれだけでない。ヨーロッパ人の感覚では当たり前のプライバシーがまったく保たれず、同宿者から部屋を覗かれるし、部屋まで入ってこられたりする。そもそも宿の部屋は襖や障子でしきられているだけで、しかも穴だらけなのである。覗かれるのはそれだけではない。外国人がやってきたことが伝わると、村や町中の人がやってきて、一目見ようと塀越しに鈴なりになる。これが毎晩のように繰り返されるのである。

・彼女は簡易のベッドや蚊帳を持ち歩き、また携帯食や薬も携行した。それがまた、人々には珍しく、ひどい皮膚病の人に薬をつけて治したりしたから、すぐに噂になって、多くの人が雲霞のごとく寄ってくる理由にもなった。このような描写を読んでいると、時代劇などからおおよそ連想していた江戸時代や明治時代の日本の状況とはまるで違うことに、目から鱗という思いになった。

・もっとも、彼女が感心することもいくつもあった。親だけでなく大人達が子どもをかわいがっていること、その子どもたちが大人に対して従順であること、何か助けてもらうことがあって御礼をしても、受け取らない謙虚な人が多いこと、荷物の運搬を手伝った報酬についても、多すぎると言って返す人がいたたこと等である。欺されたり、追いはぎに遭ったりすることもなく、数ヶ月かけて東北から北海道まで旅できたことは、彼女にとっては奇跡にも近いことのように感じられたのである。

・北海道で彼女が特に興味を持って滞在したのはアイヌの部落だった。そして、その身体的な違いについて、頑健さや顔の彫りの深さ、目の大きさ、毛深さなどを日本人と比較して美しいと表現している。彼女は日本人よりも興味を持ったようだが、しかしそのアイヌ人は、明治以降の国策で人口を急激に減らされてしまった。

・バードはこの旅行の後もたびたび日本を訪れている。その20年ほどの間に、日本は近代国家として大変貌を遂げた。しかし、その間も東北などの農村の状況にほとんど変化はなかったようだ。と言うよりも、農村部が豊かになるのは第二次大戦後の経済成長によるのだから、都市と農村の貧富の差はますます大きなものになっていったのである。

・この本を読んで、日本と日本人がわずかの間に大きく変貌したことを、今さらながらに実感した。そして、近代化によってもほとんど変わらない、日本人の気質についても改めて、確認した。